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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の建築 26-2

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 案内板では、元客自軒の建物を、次のように解説し、江戸期の福島地方の盛り場に建築された料亭を現在に残す町屋建築の遺構としての保存の価値を挙げる。


 この建物の明治初年までの所有者は、井上家とみられている。井上家もここで割烹旅館を営み、「客自軒」と称していたという。
 建立の資料は発見されなかったが、江戸後期の建立と推定されている。
 部材は細く、当時の町屋造りの手法に近く、簡略化した数寄屋敷造りの手法をとりいれている。

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 この建物が、現在の紅葉ガレージの所にあった事については、先に整理した通りだ。
 案内板では、大蒲焼きを表看板にした料亭が福島城下の北南町(現北町)にあって、その経営者が小立花屋喜兵衛(井上喜兵衛)であったことは、文政10年(1827)出版の「諸国道中商人鑑」に図入りで記載されていて明らかとする。
 また、「客自軒」の扁額を書き与えたのは、福島藩主の学問上の師である杉浦西涯であるとか、慶応2年(1866)世直し一揆に被害があったことは資料に照らして確実であることを説明する。


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 しかし、単なる福島の地方史に留まらないのは、奥州征伐軍参謀世良修三の襲撃に関わることだ。その時に、ここが仙台藩の宿場で、世良修三は、この南東にあった北南町金沢屋に投宿していたということだ。(これは、紅葉館へ行く通りを東側からみている。この手前の建物左手に、金沢屋という位置関係)
 仙台藩士は、修三を捉えると、この「客自軒」に引き立てた後、阿武隈河畔で斬殺している。これらの事件を経て、東北同盟の結束が図られ、戊辰戦争の悲劇に時代が動く。
 そして、明治11年(1876)の自由党福島部の第1回定期会が開催され、この地は自由民権運動が盛り上がるのだが、それらの事ともこの建物は関わっている。

 個人的には、幕末から明治にかけての日本を動かす重要な事件とかかわった建物という意味を持つと思っている。
by shingen1948 | 2010-02-25 06:29 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)