人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
 会津に行く日程を決めた時に、どこで食事をするかのという話になった。
 今までは出かける前に食事場所の話をしたことはなかったが、昨年、昼食でつまずいたことが絡んでいる。
 美由紀食堂という食堂で昼食をとろうとしたら店が閉じていたのだ。その挨拶の張り紙には、店を閉じた理由に、体力の限界と設備の限界、それに跡継ぎの問題が絡んだことが記されていた。
 それなら、三角屋にしようということでそちらに向かったのだが、ここも閉じていたのだ。

 今回は、取りあえず強清水で蕎麦を食べようという事になった。
 しかし、家人が母に御馳走になっておいしかったわっばめしも食べたいと言われた。
 それで、その店を確認したら市役所通り界隈らしいという事が分かった。それなら、市役所に立ち寄ってからその店に行こうという事になった。

 これが、その会津若松市役所本庁舎の正面だ。
a0087378_916444.jpg
 ここに写るのは旧館で、昭和12年建設とのことだ。建設当時には「近世復興式の豪壮な建築様式」といわれたそうで、特に壁面の装飾に趣向が凝らされている。
 竣工の年昭和12年(1937)には支那事変(日華事変)が勃発し、それ以降の建設工事は諸々の統制下に置かれたという。従って、戦前の本格的な洋風建築としては最後の時期の建物ということになるとのことだ。
 今でもここは現役。議場や市長・副市長室、市民課窓口など、市の業務の中心的な役割を担っているとのことだ。この後ろには、昭和33年に新館が増築されている。

 他所から来た者にとっては、今となっては会津を代表する歴史的建造物の一つとしての景観に着目してしまう。しかし、日常的に暮らす方々にとっては、役所の機能としての利便性や建物の安全性が課題になるようだ。
 「<会津若松市長選>あす告示、争点は新庁舎 市民に伝わる論戦期待【河北新報(2019/7/27)】」によると、今回の市長選では、新庁舎建設に絡んでこの建物の保存についても争点になっていたとのことだ。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201907/20190727_61028.html
 その選挙結果は、現職の室井照平氏が当選。
 それで、16年度策定の市総合計画に基づき、新庁舎は2025年度の完成を目標に、文化財の価値がある一部建物(旧館)を残し、本庁舎跡地に整備することになるようだ。
# by shingen1948 | 2019-08-17 09:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報⑤

 今までは現地蔵堂と金福寺のイメージを重ねて「金福寺」をイメージしている。
 地蔵堂と金福寺の位置関係を確認して、金福寺についてのイメージをもう少し明瞭にする。
 「信達一統志」の情報では、地蔵堂の位置を「道の傍寺の東に在り」とし、北澤山金福寺の位置は「路の西に在り」とする。
 ここでいう路は飯坂古道の道筋だ。
 現地蔵堂の位置が傍寺の東とのことなので、北澤山金福寺はその西側に広がっていたという事だ。
「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」に明治11年に真浄院に摂取移管された金福寺の書上げ情報がある。
 田  4反6畝24歩 字門前1番地、寺西4番地、寺西7番地
 畑  2畝12歩 字欠ケ27番地
 宅地 1反4畝18歩 字寺西1番地、寺西5番地、字欠ケ38番地

 このことから、地蔵堂もその境内あるいは所有地内であったことが想像できる。また、その所有地は飯坂古道の道筋を挟んだ東側にも広がった大きな寺院だったことが想像される。
 なお、独国和尚碑の位置は地蔵堂の南西隅に確認したところだが、「信達一統志」では「独国和尚碑」の位置については「路の傍に在り」とする。道路拡張工事で移動した可能性もある。

 ここまでが独国和尚の墓碑情報だが、この北澤山金福寺とかかわる仙台の伊達氏にかかわる情報があった。「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策23~満願寺」でふれた「伊達、信達二郡に伊達氏十六代の史跡を索ねて(仙臺 安部定橘)」という資料だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239198965/

 その「伊達氏五世」について次のように記されていた。
 「宗綱公は(或は宗経と為す、草書の似れるを以って誤る)小太郎と称す、官位生年等考ふる處なし。或は云ふ従五位下、蔵人に任とあり、政依公(四世)の第一子。母は真如婦人、文保元年二月七日薨(みまか)す、年五十四、追諡して金福寺殿浄方真西大居士と云ふ。(或は云ふ信夫郡澤又村金福寺に葬む)」

 仙台伊達氏を確認すると「信夫郡澤又村金福寺に葬む」ということは別にして、伊達氏五世宗綱公が「金福寺殿浄方真西大居士」であることは確かなようだ。
 ただ、信夫郡の情報では、「信達一統志」が北澤山金福寺開山について記すのは「祐快和尚正徳2年壬辰(1712)10月5日建立」だ。
 伊達氏五世宗綱公が薨(みまか)す文保元年(1317)二月七日には北澤山金福寺は創建されていたという信夫郡内の情報は今のところ確認できていない。
# by shingen1948 | 2019-08-14 18:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報④

 「信夫の里の狐達21~信夫の里の独国和尚⑦」でふれたように、「福島市史」近世Ⅱでは、独国和尚の福島市内寄寓先として、「北沢又金福寺住僧」として、「南沢又の光徳寺」・「中町の塩沢無涯」・「常光寺」などをあげる。女川情報でも、南沢又の光徳寺、福島駅の塩沢家、北沢又は不明とする。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17489069/

 独国和尚は福島の塩沢家で示寂される。
 和尚は文政13年(1830)5月21日63歳で没するわけだが、「福島市史」がいう「中町の塩沢無涯」家に止宿中の出来事だった。
 この塩沢無涯(利作)氏は独国和尚に深く帰依していて、28年の間常に随身していたとのことだ。
 訃報を女川に飛ばしたのも荼毘に付したのもこの無涯(利作)氏だったとのことだ。
 「信夫の里の狐達21~信夫の里の独国和尚⑦」では、無涯(利作)氏が金福寺とともに、常光寺にも独国和尚の遺骨を分骨埋葬の労をとったことについてふれた。
 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」では、この常光寺への分骨にはふれず、無涯(利作)氏が金福寺、亀岡大聖寺、平の指塩、女川補陀閣の五か所に分骨埋葬の労をとったとした。
 つまり、独国和尚の遺骨はこの6か所に分骨埋葬されているという事なのだろうと思う。

 ここで、散策の反省をしなければいけない。
 というのは、今まで独国和尚の墓碑情報を追う事に集中していたのだが、大切な事は、金福寺の独国和尚の墓碑があった所には、和尚の遺骨も埋葬されているという事にも思い至らなければいけなかったということだ。

 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」が地元誌らしいのは、この塩沢無涯(利作)氏宅情報にも詳しいことだ。「福島市史」では中町とするが、そのご子息が宮町17から宮下町20に移り、卸町の繊維会社もかかわるらしいとの情報を得る。
# by shingen1948 | 2019-08-07 10:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報③

 独国和尚にかかわる散策は、女川からの情報を手掛かりにしてきたところだ。今回は「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」で、その情報を地元情報と照らし合わせたということだ。

 その大部分は、地元ならではの詳しい情報で、今まで曖昧だったところを補完してくれるものだった。ただ、一か所気になったのは、独国和尚は、金福寺には三十三観音は建立しなかったとする紹介だ。ちょっと気になった。

 確かに金福寺には女川や平の奥の差塩のように大規模な三十三観音は存在しない。しかし、「信夫の里の狐達⑱~信夫の里の独国和尚④」で整理したように、地蔵堂の北側の石塔等をそれと見る見え方があるようで、その見え方も悪くないと思えるのだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17473390/

 事実としては、付近の路傍の石仏等をここに集められた可能性もある。ただ、地域の古老の話として、ここの三十三観音は、地蔵堂の右側(北側)に高さ1尺2・3寸の観音像が30余体並列してあるという見え方も大切にしたいようにも思うのだ。

 少なくとも地域の古老の方々は、独国和尚に随身した無涯氏が差塩良々堂では西国三十三観音を巡礼し、西国のご本尊と同じ形の石仏と十六羅漢を移して、西国三十三観音の堂下の土を携帯して定礎に収めたという事をご存じのはず。
 小規模ながら差塩良々堂と同じような経緯でできた三十三観音かもしれないという可能性を感じればいいのか、地蔵堂の右側(北側)の石仏の並びからそれを想像すればいいのかは分からない。
 ただ、ここには三十三観音の聖地を造設する精神というようなものが受け継がれて詰まっていたという風にも感じられるということだが、どうだろうか。
# by shingen1948 | 2019-08-06 10:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)