地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 前回は、「白雲」という言葉のイメージが気になって「白雲洞」を整理した。本当は高子山にかかわる「高子二十境」までの整理のつもりだったので、付け足しの整理だ。
 ただ、この「白雲洞」は「高子二十境」の十九番目にあたり、その二十番「古樵丘(こしょうきゅう)」がそのすぐ隣の丘だ。「白雲洞」の散策時にはそちらの案内表示も見ている。
 「高子二十境」の最後の二十番を残すのは区切りが悪い。
 「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただき、こちらも整理しておく。
a0087378_9444471.png まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  古樵丘 熊阪覇陵

 独酌古樵丘      独酌す古樵丘
 詩成自飄逸      詩成って自ずから飄逸(ひょういつ)
 酔看浮雲過      酔うては看る浮雲の過ぐるを
 醒愛明月出      醒めては愛す明月の出づるを    
   
 ひとり古樵丘で酒を飲む
 詩ができ俗事から離れた隠士となる
 酔ってはよぎる浮雲を見
 覚めては明月の出を愛す

 素人判断だが、熊阪氏が抱く高子山の屋敷のイメージと重なっているような気がする。
 高子山の熊阪屋敷は、その屋敷が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明月楼」とイメージしている。「明月楼」の明月と浮雲を白雲と見て「白雲館」とするイメージとの重なりだ。

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  台州

 一自樵翁去      ひとたび樵翁のさりしより
 遺蹤惟古丘      遺蹤(いしょう)惟(た)だ古丘のみ
 于今明月在      今に于(お)いて明月在り   ※于(ここにゆく)
 依旧白雲浮      旧に依りて白雲浮かぶ

 覇陵翁が世をさり
 古樵丘もただの古丘となった
 しかし今も明月は昇り
 白雲は浮かぶ

 ここでまた素人判断だが、辞書的には樵は林業に携わる者の事だが、ここでは、ここに暮らす庶民の生計の一つであり、半ば隠逸の士の生業でもあるとのイメージと重ねる。
 その半ば隠逸の士=樵翁=覇陵翁かな?
 「白雲」は「隠逸の世界」のイメージであることを先に確認したが、ここに浮かぶ白雲は、まさにそのイメージで、俗世を離れた隠逸の士が住む幽居深山仙郷に漂う雰囲気の象徴となっているのかな?

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  盤谷
 銜杯爽気来    杯を銜(ふく)めば爽気(そうき)来たり ※銜(くわえ)る
 高枕白雲開    枕を高くすれば白雲開く
 偏愛丘中趣    偏愛す丘中の趣
 陶然殊未回    陶然(とうぜん)として殊(こと)に回(かえ)らず

 杯をかわせばさわやかな気分となる
 枕を高くすれば天空に白雲浮かぶ
 丘中の趣はすばらしく
 満足して帰宅するのも忘れる

 地域を散策する者としては、俗世での成功を選択せずに、高子の仙郷に隠逸の士として住むことを決意した心境のようなものも感じる。
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# by shingen1948 | 2018-05-23 09:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 高子山にかかわる「高子二十境」の整理をしていく中で少し言葉に敏感になったのだろうか。「白雲」という言葉のイメージが気になった。

 白雲は、辞書的には白い雲でしかないが、門外漢の散策人はその言葉の持つイメージがつかめていない。それで、「白雲」という言葉に「漢文」とか「漢詩」とかという言葉を付加して検索してみた。
 その確認を通して、「白雲」は古来より使われた詩語のようであることが分かった。そのイメージは、「隠逸の世界」というような感じのようなのだ。

 「李白詩」における「白雲」では、しばしば仙郷のイメージとしてつかわれ、隠者の散居の象徴とされるという解説をみる。
 また、「送別(王維)」の「白雲無尽時」とある「白雲」の解釈でも、俗世間を離れたイメージととらえ、「どこにいても君の上には、白雲が絶えることが無いだろう」すなわち「きっと、満足な隠逸の生活をおくれるだろう。」という意味にとるという解説もみる。

 今回の整理とどうかかわるのかということだが、その一つが「白雲館」のイメージで、もう一つが「白雲洞」のイメージとそのかかわりだ。
 その「白雲館」のイメージは「熊阪台州氏(その2)⑮~白雲館・明月楼・海左園」で以下のように整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238326334/
 
 熊阪氏の屋敷図が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明日楼」とイメージしているということだ。
 ここに郡内の俊英たちが覇陵や台州を慕って集るようになった文化サロンをも「白雲館」と称するようだが、それは派生的なイメージだ。

 前置きが長くなったが、新たに気になったのが「高子二十境」の「白雲洞」だ。それで、そちらも付け加えて整理しておきたくなったということだ。

 実際の「白雲洞」の散策は、先に「高子20境と史跡」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9403859

 それで、新たに確認したいのは、漢詩と挿絵だ。
a0087378_5503756.png この挿絵は「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料で確認できた。

 漢詩は、今回の散策で参考にさせていただいている「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」で、次のような熊阪盤谷氏の白雲洞の五言絶句釈文とその解釈が紹介されていた。

  白雲洞  熊阪盤谷
 独歩す幽洞辺     独り幽玄な岩屋の辺を歩く
 山中秋色の夕     山中 秋色が見え隠れする夕方
 丹楓遊子に媚び    紅葉した楓は 遊覧する人に媚び
 白雲過客を留む    山上にたなびく白雲は
            過ぎ行く人の足を留めさせる

 確認した「白雲」の言葉のイメージと重なるのかという意味で、覇陵氏や台州氏の詩も確認したいところだが、今のところ見つからない。
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# by shingen1948 | 2018-05-21 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊達の香り」が示す「玉兎巖」の位置を参考に、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図を見ていると、高子山の北側から眺めた風景という事になるだろうか。
a0087378_665282.png 「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図は高子山の西側から眺めた風景だ。こちらの実風景は、高子山の稜線を確かめるのに何度か眺めていたのでなじみ深い。
 それに対し、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図と実風景の関係性をスムーズに感じとることができていない。
 先にも記したが、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」などでは「玉兎巖」の位置は別の地に記される。
 今回は散策の参考にさせていただいている「伊達の香り」が示す「玉兎巖」の位置は「丹露磐」近くの南東方向だ。
 この事を頭において、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図を見ると、高子山の北側から眺めた風景のようだということだ。
 「玉兎巖」を意識して高子山を眺めたことはなかった。次の散策の機会に眺めてみたい。

 前回、「永慕編(熊阪台州)」の先の版は、地元の周俊・淑翰という方が二十境図を描いていたとされる情報についてふれた。
 ネットで、その周俊・淑翰氏の描いた挿絵と谷文晁氏の挿図が見比べられるページを見つけた。
 「福岡大学図書館」の「江戸・明治漢詩文コレクション」のページで、そのトップページに示されるのが、周俊・淑翰氏の描いた「丹露盤」挿絵ではないのかなと想像する。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/index.html

 その「コレクション紹介」のトップページに示されるのが、今回の「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図のようだ。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/collection.html

 その「目録データベース」の33に示されるのが、天明8年序(1788)刊の永慕前編で、周俊・淑翰氏の描いた「採芝崖」挿絵が確認できる。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/search_shousai.php

 その「目録データベース」の34に示されるのが、寛政13年刊(1801)刊の永慕前編で、谷文晁氏の描いた「採芝崖」挿絵が確認できる。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/search_shousai.php

 また、その「雅文学への誘い」では、その挿絵のみが改められていることの解説がある。
 http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/gabungaku/shiryou/s1_02a.html

 ただ、残念ながら、ここで周俊・淑翰氏の描いた挿絵と谷文晁氏の挿図とを見比べられるのは、「丹露盤」挿絵と「採芝崖」挿絵だけだ。
 しかも、「採芝崖」については、「伊達の香り」が高子山にあるとする情報を確認しただけで、その位置や実風景だけでなく、漢詩の確認もできていない。
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# by shingen1948 | 2018-05-16 10:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料の「伊達氏発祥の地・高子ヶ丘と丹露磐」案内に、この図が添えられる。
a0087378_5454993.png 「永慕編(熊阪台州)」の二十境の「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図だが、そうであることは説明はされない。
 誰でもが、当然知っていることとされているようだ。
 
 谷文晁氏を「美術人名辞典」で確認する。
 江戸後期の文人画家で、元・明・清画や狩野派・土佐派・文人画等の諸画法を折衷した新画風を創造し、江戸文人画壇の重鎮となった方との紹介。
 他に、卓越した画技とともに学問もあり、松平定信や田安家の後援を得て、当時の江戸画壇に勢威を誇ったという解説もみる。

 その江戸文人画壇の重鎮である谷文晁氏が「高子二十境」のそれぞれの漢詩に挿図を添えているということだ。

 実は、高子山の「高子二十境」の漢詩まで確認したのは、この谷文晁氏の挿図を鑑賞する素養の一つとして働かないかなという思いがあったからだ。

 確認していくと、谷文晁氏は高子村を訪ねることなく、この二十境図を完成しているということのようなのだ。
 氏の実際の風景を想像した資料としては、「永慕編(熊阪台州)」の先の版に地元の画家である周俊・淑翰が描いた二十境図と考えられているようだ。
 その周俊・淑翰が描いた絵から日常感を削ぎ落して加筆修正されるわけだが、その念頭操作の資料となるのは盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩だろうと想像するのだ。
 その絵は、漢詩の仙郷の印象を強めた表現になっているのではないのかなとの想像だ。
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# by shingen1948 | 2018-05-14 10:44 | Comments(0)