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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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前回は余談の続きで、伊達の里で伊達五山にかかわる散策整理とかかわる整理をした。

今回は、その余談をまたまた続ける。

前回もふれたように、永徳3年(南朝・弘和三年・1383)頃には伊達宗遠が伊達宗遠・政宗(儀山)父子が長井氏を滅ぼして置賜を手中に収め、米沢地域を勢力下においたとされる。そして、伊達氏中興の祖とされる名将9世伊達政宗(儀山)は、1402年頃には高畑城に移り、そこで1405年に亡くなったとのことだ。

余談の最初に、資福寺跡にある伊達家16代輝宗氏と殉死した遠藤基信氏の墓について整理したが、ここにはその伊達家9代政宗氏の墓もあるという。

そして、仙台の「瑞鳳殿」の資料館「歴代墓所」では、9世政宗公は応永12年(1405914(53歳卒)とし、その墓所がここだとしている。

ただ、その山形高畠の地域情報では、「伊佐早謙氏の考証によれば」との注釈をつけた上で、野手倉の塔ノ峰に在る五輪塔がご夫婦の墓だとしている。

その根拠がその法名が「東光寺殿儀山圓孝大居士」であることとかかわらせ、根岸東光寺領内であるとして、野手倉の塔ノ峰に在る五輪塔がそのご夫婦の墓と比定されるとしているのだ。

山形高畠地域情報では、儀山政宗の正室紀氏については足利義満の生母の妹であるであること以外は確認できない。

この方は輪王寺殿とのことだが、その「輪王寺由緒」では、次のように解説する。

輪王寺は、伊達家第九世大膳大夫政宗夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、第11世大膳太夫持宗により嘉吉元年(1441)太菴梵守和尚を開山として、奥州伊達郡梁川に創建されました。政宗夫人は、三代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、六代将軍義教が後花園天皇に奏請して、宸筆の額「金剛寳山輪王禅寺」を賜りました。

その現伊達市梁川の輪王寺跡の散策と大膳大夫政宗氏にかかわる散策を結び付けて「仙台に移った「青葉山寂光寺」の確かめの中で~「金剛山輪王寺」(2016/3/6)」として、整理しなおしている。

https://kazenoshin.exblog.jp/22566610/

この散策と山形高畑地域散策情報では、微妙な違いがある。

散策人としては、まずは梁川散策情報を優先してイメージする。

その信夫の里・伊達の里散策時の梁川散策情報では、第11世大膳大夫持宗氏は、祖母の政宗夫人「蘭庭明玉禅尼」のために嘉吉元年(1441)に輪王寺を梁川に創建していることを根拠に、持宗氏は大仏城(福島市杉妻町)に懸田氏とともに立てこもって関東管領に反抗した後、少なくともこの時期には梁川城居城のはずだとしている。

そこから14代稙宗までの本城は梁川城(伊達市梁川町)だとする。その稙宗は、天文元年(1532)に本拠地を梁川城から桑折西山城に移すというのが、信夫の里・伊達の里散策情報だ。

ここからは、稙宗派と晴宗派に分かれた天文の内乱になる。

桑折西山城の幽閉事件が起きると、稙宗派の家臣は西山城から稙宗を救出し、懸田城に逃げ込む。この城は稙宗の娘婿である懸田俊宗の城だ。

ここはこの後の稙宗側の拠点として重要な役割を担っていく。

しかし、天文の乱の結末は、1548年に伊達晴宗が父稙宗を隠居させ、自ら伊達の当主となる。

ここまでは信夫の里・伊達の里散策情報を元にイメージする。

ここまでは自然なイメージなのだが、この後、伊達晴宗氏は米沢城に居城を移すことになる。そのことは信夫の里・伊達の里散策情報だけでは唐突感が勝るのだ。

そこで、ここからは山形高畑地域散策情報の延長線上にイメージを重ねることにする。

その主要な情報は、高畑城が1385年に伊達宗遠・政宗(儀山)父子が長井氏を滅ぼして置賜を手中に収めたこと。そして、1402年に伊達政宗(儀山)が高畑城に移って以後は、この城も伊達氏の居城となっていたということ。


# by shingen1948 | 2026-02-14 16:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

余談で安達地域の散策その後とつながる地域として整理した。

その余談の整理を続ける。

先に伊達の里の伊達五山の原点にかかわる地域を散策しながら整理したことがあった。

その最後の散策整理が「念西夫人の光明寺地区を尋ねる(2010/6/12)」だ。

https://kazenoshin.exblog.jp/10792620/

その散策時に「念西夫人の光明寺②~伊達地区の伊達五山(2010/6/13)」として伊達五山についての再整理をしている。

https://kazenoshin.exblog.jp/10798036/

復習すると、伊達家の菩提寺について最初にこだわったのは4世の伊達政依氏だとされる。

この方は仏道の帰依が厚く、まずは自分自身の寺として東昌寺を作ったという。これが伊達家最初の菩提寺だとされる。それと共に、ご先祖の寺として初代夫妻のお寺と3(ご自分の両親)のお寺を建立したとのことだった。

それが、1世 朝宗氏(宗家始祖)満勝寺とその朝宗室光明寺(墓所は国見福聚寺)、3世 義広氏観音寺とその義広室光福寺ということだった。そのご先祖の寺とご自身の寺を合わせた5寺が伊達五山の原点とのことだった。

 今回その記事を確認していて、定説と合わないことに気付いた。

梁川地元情報を元に整理している梁川の東昌寺が、万正寺地区の古釈迦堂に推定される桑折の東昌寺に移ったとの推定をとっているが、定説はその逆だ。

万正寺地区の古釈迦堂に推定される桑折の東昌寺が梁川に移ったと推定すべきだった。

ここではふれていなかったが、その桑折の東昌寺は万正寺地区の大カヤ近くの古釈迦堂に推定されるとのことだった。その大カヤについては「万正寺の大カヤ(2008/5/11)」で整理していることを付け加える。

https://kazenoshin.exblog.jp/7096980/

また、伊達五山開山にかかわった山叟慧仏(仏智)の墓所が「桑折散歩の忘れもの(2011/6/27)」で確認した「大五輪遺跡」と推定されているらしいことも付け加えておく。

https://kazenoshin.exblog.jp/7096980/

伊達の地元情報では、伊達五山は、4代伊達政依が、京都の東福寺主席を務め、弘安9年(1286)に会津若松の門田に東昌寺を開いて住んでいた山叟慧仏(仏智)を招いて開山しているとのことだった。

まずは、山叟慧仏(仏智)を招いて始祖伊達朝宗氏のために満勝寺を開く。

次いで、父である三世義広氏のために観音寺、朝宗夫人、結城氏のために光明寺、義広夫人のためと推定される光福寺を創建する。

そして、山叟慧仏(仏智)が門田に開山している東昌寺を移して、自らの寿塔を建ててこれに加え伊達五山とするということだった。

この寺は、南北朝期の末頃は陸奥安国寺利生塔を兼ね、1 5世紀頃には200人の僧がいた大寺院だったとのことだった。

仙台の「東昌禅寺」記録によれば、その伊達五山の中の陸奥国伊達郡の東昌寺や3代義広の菩提寺観音寺が、伊達宗遠が米沢地域を勢力下としたとされる永徳3年(南朝・弘和三年・1383)頃には、夏刈村に移されたとのことだ。

その仙台の「北山五山」では、次のような解説がされている。

現在この北山の地にある東昌寺、光明寺、資福寺、覚範寺、そして満勝寺(最初は北山にあって後に北八番丁に移りました)の5つの寺が1283年に伊達政依によって作られた伊達家最初の寺の流れです。

ここでは、伊達五山の観音寺と興福寺がない。

この二つの寺については、廃寺になって資福寺がこれを吸収したとする。

覚範寺という寺も新たに加わっているが、これが「再生可能エネルギー推進と信夫・伊達の里の風景⑫」でふれた17代政宗氏が父輝宗氏の菩提を弔うために米沢城の西方斜平山のふもと遠山村に資福寺の虎哉和尚を迎えて建てたという覚範寺を指しているようだ。


# by shingen1948 | 2026-01-13 09:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

表題とのかかわりでは余談になるが、伊達氏がかかわる「粟の巣の変事」や「人取り橋の戦い」などの安達地域の散策その後とつながる地域でもある。

整理を続ける。

糠野目地区は、前々回整理の高畑城跡の西側の地区になるようだ。

ここに梵天丸が幼少から元服するまで過ごしたとされる夏刈館(別名政宗館)跡と、そこから通って様々なことを学んだとされる資福寺跡があるようだ。

その地域情報によれば、この資福寺は弘安年中(1278~87)長井氏3代時秀が領内東西交流の中心である夏刈の地に、鎌倉建長寺の僧紹規を招じて建てた寺とのことだ。

伊達氏は、この地に夏刈城を築いて、その資福寺を帰依寺・学問寺として保護したという。

特筆すべきことは、輝宗氏がこの寺に虎哉宗乙氏を迎えて政宗氏の教育を依頼したということのようだ。虎哉氏は徹底した帝王学を教え、政宗氏を育てあげたということだ。

安達地域の散策とのかかわりでの興味は、ここに16代輝宗氏と殉死した遠藤基信氏の墓があることだ。

輝宗氏が宮森城で二本松城主畠山義継に拉致され、粟の巣の変事で無残な死を遂げたことについては先に安達の里の散策で整理している。そして、輝宗氏が福島慈徳寺で荼毘に付された辺りまでは信夫の里の散策で整理している。

その後、この資福寺の墓地に埋葬されていたということだろう。恐らくここでの葬儀も資福寺の虎哉和尚のもとで執り行われたということなのだろうと思う。


ここの地域情報では、殉死は遠藤基信氏しか確認できないが、信夫の里の家老の梅を散策して確認したように「佐原村根元記」では「追いはら()の侍十九人有之 御家良の墓に梅を植えけり」とあることが案内される。

また、家老・遠藤基信割腹殉死については、「輝宗氏27忌の10月12日」と案内されていたことを再掲しておく。

なお、17代政宗氏は、この父輝宗氏の菩提を弔うために米沢城の西方斜平山のふもと遠山村に覚範寺を建て、資福寺の虎哉和尚を迎える。

その覚範寺は天正19年伊達氏が岩出山へ移るのに伴い仙台に移る。

その仙台の覚範寺にかかわる仙台地域情報では、「性山公治家記録」の「天正13年(158510月条」を資料として、殉死者は3名とする。

遠藤山城基信法名医国景蘊氏は1021日に54歳で殉死としている。

他に内馬場右衛門(諱不知)法名撐月遼天須田伯耆・(諱不知)入道道空法名保福紹敢(各殉死ノ年数墓所不知)の殉死と、その寺内殉死三人の牌所として医国院撐月庵保福庵を立てたことを記す。


その原点である遠山村の覚範寺跡の米沢地域情報では、殉死者は4名だとする。


# by shingen1948 | 2026-01-05 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

茂庭良直氏の創建と伝えられる桃源院の北側の真上の館が、茂庭(鬼庭)6代右京利元公あたりの近親者鬼庭行朝氏とかかわるのかもしれないということになる。

また、茂庭良直氏が寺の創建の地としてここを選んだのは、この経緯を受けたように思えてくる。

この時点の茂庭(鬼庭)氏の動向の影が見えてくると、その親方である8代伊達宗遠公の本拠地も気になってくる。それを出羽国置賜郡長井荘の地域情報で確認する。

おおよそ以下のような概略が確認できる。ただ、この地域情報は伊達氏側の視点ではなく、侵攻された長井・高畑町側の視点から語られていることが多いようだ。

康歴2年(1380年)に伊達武将「茂庭行朝」の攻撃で開始された伊達氏の侵攻は、伊達宗遠・政宗(九世)親子の本隊進軍で本格化する。

この侵攻を平安からの長井方土豪新田氏の奮戦で耐える。

しかし、伊達氏の和睦のフリの謀略で暗殺されて総崩れとなってしまう。その後、屋代,北条庄が制圧される。

伊達氏は、その拠点として高畑城を整備して拡大制圧に成功する。

置賜地域の立場の視点では、伊達氏は元々南朝勢力拡大の為に置賜に狙いを定めていたと目される。それは、ここが米沢盆地で土地が開けていて、伊達地域よりも生産力が高いことに着目していたからだとされる。

実は、自分が茂庭地域にかかわっていた頃に、茂庭街道の鳩峰峠を越えて高畑まで抜けていったことがあるのだ。

その時に、そこから国道13号線に抜けて福島に戻っているので、この高畑城跡は通過しているはずなのだ。

ただ、その時にはこのことを意識していなかったのが残念だ。

この高畑城について「山形県中世城館跡調査報告書」で確認する。

築城時期は平安末期で、築城者は樋爪五郎季衡氏とされる。

他の地域情報とも照らし合わせると、築城時期は承安年間(11711175)とされ、築城者の樋爪五郎季衡氏は藤原秀衛氏のいとことされるようだ。

その規模東西約300m、南北約200mの西方が半円形をなしたつり鐘に似た形をしていて、別名鐘ヶ城と呼ばれているという。

その館堀をめぐらした程度の居館であったらしいものを、天授6(1380)に侵攻し、長井氏を滅ぼした伊達宗遠氏と9代政宗氏が置賜の本拠として修築して、元禄図程度の規模となったと伝えられているとのことだ。

その後、大きく増幅された記録はないので、遺構はその頃のものとみているとのことだ。


# by shingen1948 | 2025-12-24 10:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)