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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「福島日本基督教会」の福島の最初の受洗者は、後に耳鼻咽喉科の日本の権威となる小此木信六郎氏とのことだ。

 当時は東京医学校(現東京大学医学部)の学生だったようだ。

 「中原徳太郎・小此木信六郎・塩田広重・近藤達児の医学校の再建―日本医学専門学校から日本医科大学昇格までの困難な道程―唐沢信安【日本医学史学雑誌第43巻第2(平成9620日発行)】」ではこの「小此木信六郎略歴」を以下のように記す。

 万延元年36日福島県二本松藩の藩医小此木間雅の六男として生れた。

 信六郎は福島第一小学校より、須賀川医学校に学び、明治9年に上京して東京医学校(現東大医学部)予科に入学している。この時16歳。

 明治18年大桶みつと結婚。

 明治2178日帝国大学医科大学を中退ドイツ留学。

 チュービンゲン大学入学、明治24年卒ワーゲン・ハウゼン教授の下で学位論文をまとめてドクトル・メヂチーネの称号を得て、明治296月に8年間の留学を終えて帰国する。

ここでもう一つの注目はこの方が「二本松藩の藩医小此木間雅氏」のご子息ということだ。その小此木邸が船場町付近にあったということだ。

散策地点確認散歩⑤ 元二本松藩医小此木宅_a0087378_08383519.jpg


「福島日本基督教会五十年史(昭和11年発行)」の「福島伝道の初め」の項では「女子師範学校前近くに門構えの立派な家」とある。

「福島日本基督教会百年史」では、その位置を「現在の大町、福島署裏通り医大病院看護婦寮向かい」あたりとする。

「医大病院看護婦寮」の位置は確認できていないが、おおよそこの辺りと見当をつけてみた。

小此木信六郎氏が福島の最初の受洗者となる様子は、「福島でのキリスト教布教活動初期⑦(2023/5/17)」 で整理している。

 https://kazenoshin.exblog.jp/241806180/


この小此木邸のあるじ「二本松藩の藩医小此木間雅氏」も天然痘ワクチン接種の先駆者として地域の誇りとされる方のようだ。二本松の地方史家の方の「艮斎先生研究室」というブログに「種痘の先駆者小此木間雅(2021/12/23)」と紹介されている。

https://ameblo.jp/asakakunitsuko/entry-12716845001.html

そこに記される二本松大隣寺の顕彰碑紹介文をお借りする。

間雅は天保年間に江戸に遊学し、蘭方医坪井信道に学んだ。7年間研鑽して医術を極め、嘉永元年(1848)に帰藩した。この頃種痘術は、まだあまり行われなかった。間雅は早くから種痘の書物を入手し、その法を熟知して講義した。人は種痘術を疑った。そこで間雅再び江戸に行き、天然痘のワクチンを入手して帰った。45人に種痘を験(ため)して成功し、さらに種痘術を藩内に及ぼした。その後、天然痘の死者が無くなった。

なお、このブログでは、間雅の種痘が嘉永6年とされることに根拠はなく、嘉永元年(1848)の帰藩後直ぐのはずで、遅くとも2~3年後であろうことを主張されている。


# by shingen1948 | 2024-03-16 08:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)


今回の飯坂散策の出発地点を花水坂駅とした。それは、古関裕而氏の飯坂疎開先二階堂魚店の最寄り駅だと思ったからだ。

散策地点確認散歩④ 飯坂古道玄関口確認(その10)_a0087378_10392811.jpg

この写真の手前に移るのが飯坂古道福島道の現花水坂表示のある坂で、その奥の建物の奥がその花水坂駅だ。

今回は、古関裕而氏飯坂疎開地確認のついでに飯坂古道の到着点を探ってきた。

ところが、今回は今までの飯坂散策と感じていることが少し違うようなのだ。気になるのはそれに伴って、この地区の見え方も変わっているように思えたということだ。

それで、その違いの要因をずっと確認していたのだが、どうも坂道に対応する感覚の違いのようなのだ。

今までの散策は何も考えずに飯坂駅を出発点としていた。そうすると、飯坂散策のおおよそは下り道となる。

それに対して、花水坂駅を出発地点とすれば、飯坂地区散策のおおよそは登り道となるということだ。

花水坂駅を降りて、花水山不動尊経由二階堂魚店まででさえ、徒歩ではかなり急な上り坂になる。更に、そこから先の立町まで坂道は続く。右に折れて立町に入ってようやく平坦な道筋となる。

それだけではない。

この地区は起伏に富んでいるのだが、今回はその基準点をしっかりととらえていることになるようなのだ。

というのは、飯坂線が小川を過ぎて花水坂駅―飯坂駅の敷設が等高ラインとして起伏にとんだこの地区の高低差のベースとして捉えることになるようなのだ。

小川から花水坂駅までの飯坂線西側は、徐々に高くなっていく。その高くなった地点が八景という地名になっていることからも分かるように河岸段丘的地形になっている。その手前が、その地形の河床的な地形なのだろうと想像する。

飯坂地域の段丘は、それを構成する河岸段丘と河床の地形の上位と見える。

小川から花水坂駅までの飯坂線東側は、飯坂線敷設ラインよりも低地となっている。河床的な地形を更に削り取ることによってできた地形のように見える。

飯坂古道の福島道は飯坂線敷設ラインの東側で、飯坂線敷設ラインよりも低地となる。そこから飯坂線敷設ラインの西側の河岸段丘と河床の地形まで登る坂坂が花水坂という坂道の概念になるのだろうと思う。

古い地図を見るとその花水坂を上り、二階堂魚店あたりから湯山城のある河岸段丘的な地形まで登る坂道が「飯坂」の坂道まで直線的に描かれ、湯山城の虎口に至るように描かれる。

今のところ、それが飯坂の散策資料に「昔は現在の花水坂駅あたりから立町、古舘にかけて立派な鳥居や参道が整備されていた」と紹介される現消防署裏の八王子熊野大権現がかかわる道筋だったのではないかと想像している。

その情報の背景は「立町には権現市といわれる糸市が立った」とあることとかかわるようだが、今回の整理はそこまでにする。


# by shingen1948 | 2024-03-11 10:45 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)

ここで思い出したのが、大森城の政宗公が飯坂温泉の湯を運ばせて湯につかったという話だ。

古文書を読む講座に参加したことがあって、定かではないがその時に使ったテキストが伊達藤五郎郎成実のかかわる日記だったと思う。そこに記載があったという記載だ。

この出来事の経緯を確認してみようかと思う。

これは地域散策情報の中で簡単に天正17(1589)4月28日の出来事と確認ができた。

「伊達政宗公伝記資料」でその頃の確認をしたが、飯坂からお湯を運んだことの記述はなかった。

ただ、同年2月26日に政宗公が落馬骨折していることの確認できた。

「17年2月26日馬を城下谷地小路に調し落馬して脚を傷く」とある。

城下谷地小路というのは、 城の南側にあった谷地村に通じる小路とのことなそうだ。

夕方乗馬で米沢城を出た公は谷地小路で馬が俄かに驚き立ったので飛び降りたが、少し御足を傷いたまうということだ。

ここでは「少し御足を傷いたまう」とあるが、地域散策情報では、近年の調査では公の骨折が確認できているという。

飯坂からお湯を運んだことは、この骨折の治療目的とかかわるだろうことが想像できる。


そういう視点で確認していくと、327日は、湯治として置賜上長井荘の小野川に出かけていることの確認ができる。

421日には米沢を出発して、22日には大森城に入り、葦名・佐竹連合軍との合戦が始まるが、骨折は全快していないと思われる。

27日に政宗は伊達成実に申し付け片平親綱を同道させて初めて接見したとあり、飯坂からお湯を運んだ28日は、その翌日だ。

この湯で温め痛み治療するとともに、いっときを慰めていただろうと想像する。

この湯で痛み治療することを勧め、飯坂の湯を運ぶ手配をしたのは誰か。

考えられるのは、この時の飯坂領主である湯山城守飯坂宗康でなかろうか。


その後、公はすさまじい勢いで軍を進めている。

53日には本宮着、4日には阿古島落城、そして、5日には高玉が落城している。


# by shingen1948 | 2024-03-07 12:29 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

散策地点確認散歩④ 飯坂古道玄関口確認(その8)_a0087378_08264117.jpg

今回確認した道筋の階段を上ったところが舘の虎口だろうと想像する。そこから見えた風景に舘としての雰囲気を感じたような気がする。

親近感を持つのには既知と未知のバランスが大切なのだが、この舘に関する散策人の知識が乏しすぎる。既知の領域を増やすには、もっと著名な方とのかかわりを確認する必要がある。

それで、確認を進めてみたところ、伊達政宗公がこの舘においでになっているらしいことが分かった。

「伊達政宗公伝記資料」によると、天正19(1591)の年始、政宗公はここ湯山城で越年し、年賀の御祝儀の日程だったようだ。

7日には飯坂から二本松に赴って浅野長政と会っている。同日の暮れに飯坂に戻って、9日には米沢に帰城している。その「飯坂」とあるのが、ここ湯山城であろうことが想像できる。


その前後が、あわただしい。

それは、前年(天正18)の葛西・大崎一揆勃発に伴い、その鎮圧に向かう蒲生氏郷から一揆の扇動をうたがわれていたこととかかわるようだ。


公は、氏郷との和睦の取り成しを黒川城接収使として二本松城にいた浅野長政に願うため原田左馬助を遣わした。

長政は宜しく取り計らってくれたが、氏郷は納得しなかったという。

それで、伊達方から人質を差し出そうと氏郷の籠る名生城に伊達彦九郎盛重(政宗叔父、国分改姓盛重)と浅野長政の一族・浅野六左衛門を添えて送ったという。

それでも氏郷は納得しなかったが、伊達上野政景(政宗伯父、旧留守氏)か伊達藤五郎郎成実の何れかを寄こすのであれば応じてもよいとも云ってきたということだ。

それで、公は成実を名生城に遣わすことを二本松の長政に申し送っていたという経緯があったようだ。

元日に、伊達成実が伊達彦九郎盛重、浅野六左衛門と同行し名生城に参上して面会したのは、前記の経緯から政宗公の命による行動ということのようだ。

公が扇動を疑われることになる一揆は、「木村吉清」が新封された葛西大崎で起きる。

公は、木村氏吉清がこもる佐沼城への案内を依頼されて、杉目から1万5千騎で蒲生軍に合流する。しかし、その行動には明らかに不審な点が多かったようだ。

氏郷は、地理には不案内で、信用できない政宗公の案内では無事に戻れそうもないとも考えていたのだろうか。

その氏郷が名生城から無事にったということでもあるようだ

公が7日に二本松城に出かけて会った「浅野長政」の肩書が黒川城接収使」。

これは「奥州仕置」のかかわりのようだ。

黒川城は現若松城(鶴ヶ城)だ。

伊達政宗公から蒲生氏郷公に城主がかわるその接収使が「浅野長政」で、この時点で二本松城にいたという背景のようだ。

湯山城の公は、正月らしく過ごすというよりは、これらの事務処理をする場としていたのだろうと思われる。

その処理がとりあえず一件落着して、9日に米沢に帰城したという経緯かなと思う。

なお、一旦、収まったかに見えた政宗の一揆扇動という関白への反逆の評判が御前にて再燃することになるようだが、ここまでにする。


# by shingen1948 | 2024-03-02 08:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)