「保蔵翁碑」③
前回整理したように、「保蔵翁碑」の撰文者明治大学教授菅藤高徳氏は小暮亮のペンネームで活躍する文学者でもあった。
情報では、その出身地を現福島県福島市とするが、その時代背景から基本となる情報では信夫郡笹谷村だったのではないのかなと想像する。ならば、地域を散策する者としては、現福島県福島市笹谷として欲しかったと思うところだ。できれば、その集落まで確認したぃところだ。散策人としては、その菅藤姓から谷地集落を想像する。
さて、碑文では上級学校に進めなかったが独学で村の小学校の先生になり、訓導となり、校長になったとある。
しかし、この時代の教員は制度的に一定の資格が必要になったはず。
そう思って「笹谷小学校百年のあゆみ」を確認すると「独学で正教員の免許をとり」とあって納得する。
同誌では15歳で教員になった年が明治11年(1878)とするが、これは誤りだと思う。
碑文によるとその年の6月15日に誕生とのこと。その後の経緯表記も合理性があるので、その経歴は碑文に沿って確認することにする。
「大正2年の職員録」で、笹谷尋常小学校(学級数6)の職員構成が確認できるので、碑文の経歴と照らし合わせる。
「大正2年の職員録」によると、訓導兼校長(7下)がいて、その次に訓導(9下)紺野長四郎と共に佐藤保蔵氏が記される。その次に代用教員(5下)が2人と代用教員(6下)1名が記される。
この7年後の大正9年には保蔵氏は校長となり、農業補習学校の校長をも兼務することになる。
大正11年に中野小学校長に栄転されるまでの30年間笹谷村の小学校に勤務していたとのこと。その後、鎌田第二小学校長を経て昭和4年に退職なされたということだ。
この時点での同期訓導(9下)紺野長四郎氏は、伊達郡醸芳小学校第30代校長として昭和18年着任が確認できる。
「大正2年の職員録」で近所の学校を確認すると、飯坂小・野田小・清水小は尋常高等小学校になっている。