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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 百庚申塚に向かってみたのは、もう一つの興味があったからだ。
a0087378_8535814.jpg 先の小原集落に立ち寄った際に、そこから黒岩村に向かう途中、この百庚申塚の案内柱を見かけていた。その案内される道筋が旧田沢道の道筋とかかわるのではないのかなと思っていたのだ。
 それを確認したいとうこともあった。

 古い地図と見比べて確認を進めてみると、結果的には現況の道筋の方が古くからの田沢道に近いように思えたのだが、このまま百庚申塚へ向かう道筋について確認したことも整理しておくことにする。
 百庚申塚自体古墳情報としては余談なので、その余談の続きという事になる。

 旧田沢道の道筋かなと思ったのは、この丘の北側にある墓地の東側にある道筋と繋がる道筋だ。


a0087378_8554073.jpg 今回はその北側の墓地前からその道筋をたどってみたのだが、その途中にこの庚申塔があった。安永5年が読み取れる。
 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」の解説に「北口の庚申塔は安永5年丙申10月20日施主敬はとある」とある。従って、このあたりが北口ということなのだろうと想像するが、そのまま進む。


 田沢道の道筋から見えた案内柱が見えるその少し手前の左手に「史跡 百庚申塚」という別の白い案内柱が建っている。「此れより三十m頂上に供養碑二基あり……」と案内されるその左手の道筋に入っていったということだ。
a0087378_8572984.jpg
 ちょっと進んだところで、この庚申塔を見かける。
 西口の庚申塔は、満延2年申年当林世話人5名の名前がみられるとのことだが、多分、それがこれだろうと想像する。読み取れているわけではない。
# by shingen1948 | 2019-06-24 08:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7552934.jpg これは百庚申塚だ。塚ではあるが古墳の案内はない。従って、古墳情報としては余談になるのだろうと思う。

 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」は、黒岩の庚申を中心に案内しているのだが、そこからこの塚についての案内部分を拾ってみる。
 この塚を地元では庚申山と称しているとのこと。地番は黒岩字岩山1番地とのことだ。
 頂上には直径3間ぐらいの円形の塚石があり、中央に松の木があり、その松の木を中心に申型の石碑が225体祀られているとある。

 「塚石」との表現が気になり見回すと、奥の猿田彦大明神碑の台座になっている石でないのかなと思う。
 猿田彦大明神碑は、明治6年建立で、手前の金華山碑は安政4年巳年八月当林世話人建立とのことだ。
 祀られた申型の玉石は225体とのことで、信夫郡の各所から寄進者名が見えるそうだが、確認はしていない。

 古墳かどうかは別にしても、この塚が先に確認した「七ツ塚」に入るのかどうかは分からない。どうでもいいことだが、本宮で玉石を張り付けた古墳があったことも思い出す。

 なお、この塚の祭礼は八十八夜に行うそうだ。
 その執行者は、昔は区長だったが、今は山林組合が町会の協賛を得て実施しているとのことだ。
 上ノ町諏訪山地区の庚申講とのかかわりについても紹介される。
 三月初申の日を縁日として寄合を持って参拝していたそうだが、今は熊野講との合同講中参拝となっているとのことだ。
# by shingen1948 | 2019-06-23 07:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_911549.jpg マホロンの遺跡データベースで検索すると、このあたりが岩山古墳群とのことで見当をつけた。しかし、いろいろな情報を確認していくと少し位置がずれているようだ。
 この南側が駐車場になっているのだが、その前の辺りに3基の古墳があるらしい。
 いずれにしても、この季節では確認はできない。冬近くならその雰囲気の風景が眺められるのかもしれない。

 この写真の左手に写るフェンスの手前の道筋を進むと田沢道の主道に出るのだが、その黒岩村方向にちょっと進むと、西手に進む道筋がある。その道筋を西に進んだ右手が諏訪平古墳群で、以前は4基の古墳が確認できたが現在は2基の古墳が確認できるという。
 これ等の古墳も弥生公園の2基の古墳のような形状を原型としてイメージするようだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳も含めて、この辺りの古墳の原型と広がりがイメージされてきたように思う。

 そうすると、「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑰~帰り道⑥」でふれた浜井場古墳の平成14年(2002)の調査では後期の前方後円墳の跡がみつかったとの情報は特筆すべき情報という事になる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239158895/
その詳細情報を再掲し、更に「浜井場古墳群について(柴田俊明)」の解説から読み取った事を付け加えておく。

 その墳丘長さ約22m、後円部直径15mとのことだ。
 古墳の盛り土は全く残っていなかったという事で墳丘の高さは不明ということのようだ。これは、古墳に沿った巾1~4mの溝からの推定のようだ。
 被葬者を埋葬する施設は後円部で確認できたようだ。
 南側に開口する前長5.4mの横穴式石室だったとのこと。玄室と羨道からなる構造で、玄室と羨道の境には仕切石が確認できたという。玄室の長さは3.22m、幅90~98㎝、羨道2mだったという。 奥壁や石室の側壁石などはほとんどが開墾等で消失していたが、その石室からは勾玉6点・ガラス玉13点・鉄の斤2点・鉄の鏃2点や鐔などが出土したとのことだ。
 なお、浜井場古墳群の主墳と思われるこの前方後円墳と明治43年調査古墳との関係は不明とのこと。

 ちょっと観点がずれるが、「最近の発掘調査から(柴田俊明)」で、学壇古墳群について特筆すべきこととして解説されるのは、旧石器時代の石器の発見だとする。福島市内では貝沼遺跡などの数遺跡しか知られていないとのことだ。
# by shingen1948 | 2019-06-22 09:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは弥生公園に保存されている学壇古墳群のうちの2基の古墳だ。
 ここは、感覚的には黒岩村を越えているように感じるが、小原村に向かう途中だ。黒岩村内という事なのかもしれない。
a0087378_945324.jpg この学壇古墳群は、南福島ニュータウン内に立地する13基の小古墳からなるそうだ。
 すべて円墳で、規模は10m~14m程で、幅2~3mの周溝があるという。石室は長さ3~5m、幅1.5m程とのことで、築造はいずれも古墳時代後期と考えられるとのことだ。
 調査された古墳のうち、沼ノ上1号墳からは蕨手刀、直刀、鉄族、土師器、須恵器等が、また、学壇1号墳からは勾玉、水晶玉、ガラス玉、鉄族、須恵器等が出土しているとのことだ。

 公園内のこの古墳は、その中の2基ということのようだ。10基は調査されたとのことだが、これが調査されたものかどうかは分からない。

 古墳時代後期の古墳は小さいとは聞いてはいた。しかし、イメージしていたものよりも小さいように思う。前に古墳巡りで円墳もいくつか眺めているのだが、それを元に想像していたものよりもこの2基の古墳は更に小さいように感じるのだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳は、この学檀古墳群と同じような古墳が原型としてイメージされているということなのだろうと思う。
# by shingen1948 | 2019-06-21 09:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)