地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方とのかかわりはないが、近くの寺々の移動情報として秀安寺もふれておきたい。
 余談のそのまた余談ということだ。

 先に、信夫の里(天地人の時)の観点から福島代官古川善兵衛重吉が創建し、自らも眠るという「康善寺」を訪ねたことを「無為山『康善寺』」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7797008/
 この時にふれた寺の案内板の説明に、「黒岩にあった秀安寺がその前身で、上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉(西根堰開削者)が現在地に移し、故郷信州の康楽寺と自らの名前とから一字ずつを採って康善寺と命名した」とあった。

 ここでいう「上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉氏(西根堰開削者)」は、今回の散策との関りでは「黒岩虚空蔵の再建寄進された方」だ。その菩提寺である無為山「康善寺」の前身は、今回の散策地である黒岩の秀安寺ということだ。

 「黒岩虚空蔵堂~『虚空蔵堂記』<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」で、「虚空蔵堂記碑文」の内容確認資料とした「信達一統志」では、「阿弥陀淵」の項に次のように紹介されている。

 「虚空蔵より水上にあり昔福島の康善寺此地茂原と云所にありしとき戦国の世にて国々に群盗徘徊し人の財實を掠とる此時僧法然親鸞両上人の書給へる六字の名號を所持せしに盗賊の為に奪れむことを悲しみこれを筥(はこ)に入れて此淵にしづめ感嘆して云太平のときかならず浮み出給へと云て上方へ登りけるが、世治り国に帰り此所に来りて先の年此淵に六字の名號を沈め奉りき今はいかになりゆき給へしにやと云つつ淵上を臨み見るに果たして水中より光明を放ものあり怪み綱を入れて引上見ればさきに沈め奉りし名號なり、今忽然として浮出給ふ寺僧百拝して是を奉じける、今に康善寺の什物なり故に後の世にあみだが淵と名付しなり、大熊川の年魚此處より取るもの味よろしと云(福島候公儀献上の年魚此野所より漁ると)」

 散策資料として読み取れば、福島候公儀献上の魚を漁る所が「阿弥陀淵」のようであり、虚空蔵はもっと川上にあったように読み取れる。
 更に、「昔福島の康善寺此地茂原と云所にあり」とのことなので、秀安寺が黒巌の茂原というところにあったということか。
 この「黒巌の茂原というところ」が、現黒岩小原集落らしい。

 半沢氏の「歴史地図」では、この現黒岩小原集落については、「中門造り」とメモされる。「ふくしま市景観100選」の83番「自然に囲まれた小原集落」の次の情報と重なる。
 「黒岩にある何百年もの間、乱開発を免れてきた場所。五月町にある康善寺の前身秀安寺があったとされ、秀安寺庭園が今も残っている。」

 散策としては、学壇遺跡が発掘調査されている頃に、旭台からその調査地点付近までは入り込んだことがあったが、この集落には行っていない。
 ただ、先に「渡利地区の阿武隈川沿いの風景」を散策した時に、対岸から「献上梁場跡」と小原集落の位置を想像したことについてふれている。
 〇 渡利地区の阿武隈川沿いの風景
 https://kazenoshin.exblog.jp/9123375/
 今回、情報をもとに地図上で確認していくと、対岸からは小原集落手前の神ノ前の民家が確認できることが分かった。
# by shingen1948 | 2019-02-13 11:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方にはいくつかの仮説に基づく。従って、そこには曖昧さが残るのだが、それゆえに面白いと思う事もある。
 近くの寺々の移動情報と絡ませてみる。

 まずは、大蔵寺情報と絡ませてみる。
 「福島の伊達氏(津島亮資)」では、黒岩の満願寺が直接的にこの福島の伊達氏ゆかりの満願寺だという見え方を示す。しかし、「ふくしまの歴史中世」では福島の伊達氏ゆかりの満願寺は、信夫郡小倉寺にあったとの見え方を示しているのだ。
 その上で、その満願寺と黒岩の満願寺の関係性が想像できることを示しているのだ。

 このことと関わりそうなのが、大蔵寺の移動情報だ。
 この移動情報は、先に大蔵寺を散策した時に、「弁天山⑧~川俣旧道と大蔵寺」として整理している中にあるのだが、それ程注目していたわけではなかった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9086676/
 その情報は、案内される解説にある以下の部分だ。

 「江戸末期まで、阿武隈川の西岸に300石近い大蔵寺村があり、この寺の御朱印地だったと言われていますように、寺は初め大蔵寺村にあったと伝えられています。それが東岸に移り、更に、ここ小倉寺山の観音堂とともにあるようになったのはいつからかは明らかではありません」

 ここからは、その別当寺が在ったかどうかは分からないが、少なくとも先に小倉寺に観音堂があったというふうに読み取れる。そこに、対岸の大蔵寺村から寺が移動してきたとの読み取りだ。

 今回訪ねた黒岩の満願寺山門を入ったところにある「旧大蔵寺門前の古碑」は、その対岸の大蔵寺村にあった寺がかかわっていそうだ。
 その案内には以下のように解説される。

 「小倉寺大蔵寺は住古、阿武隈川の西にありと伝えられ、旧大蔵村方郎内(現田部屋)の寺跡に残っていた但一基の古碑、碑文「昨日雨今日伏拝□□□・・・・・・」

 ここからは、小倉寺大蔵寺は旧大蔵村方郎内にあったことが読み取れ、その旧大蔵村方郎内というのは現字田部屋であることが読み取れる。
 地図で確認すると、現字田部屋は現ヨークベニマルや黒岩青少年会館の辺りになるようだ。あの辺りの風景を思い出すと、黒岩青少年会館の辺りに旧大蔵寺所在地をイメージできそうに思うが、どうだろうか。

 今回の情報確認で次に気になったのが、満願寺とかかわる伊達(6世)基宗氏の前代伊達(5世)宗綱氏の戒名が「金福寺殿浄方真西大居士」とあることだ。

 この金福寺に係るのかどうかは知らないが、思い浮かぶのは先に「信夫の里の独国和尚」で整理した沢又村の金福寺だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21247542/
 この寺、「信夫の里の狐達⑮~信夫の里の独国和尚」の写真に写る案内柱の解説にあるように、清水小学校(旧沢又小学校)の発祥の寺でもある。
 独国和尚の墓碑もまだ確認できていないのに、もしかすると金福寺殿もかかわるのではないかなという妄想も……。
# by shingen1948 | 2019-02-09 16:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_17254677.jpg 虚空蔵堂への旧参道はこの山門の下の石段の下を通る。しかし、現在は虚空蔵堂へのお参りも、この山門から満願寺境内を経由するように案内される。

 半沢氏の「歴史地図」では、この満願寺の由緒沿革については「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏菩提寺)の末寺となる。信夫伊達臨済宗の全寺院の筆頭。江戸時代の寺領は35万ご5斗8升3合(5町1反6畝6歩)」と記す。
 ちょっと気になるのは、その前に「もと天台宗か」とのメモがあることだ。

 門前の案内板でも、「天台宗だったこの寺が臨済宗妙心寺派に替わったのは、江戸時代の初めです」とあるので、単に満願寺が臨済宗となるのは、上杉氏がかかわるぐらいの関係性の想像でよいのかもしれない。
 「福島市寺院名鑑」の黒巌山満願寺の由緒沿革で、この事にかかわるのは「当寺はもと天台宗に属し大徳寺と称したが、現在は臨済宗妙心寺派である」としているところだ。

 ただ、うがった見方かもしれないが、専門家故に豊かな情報を持つはずだが、専門家故にうかつな事は記せないといったことがあるのかもとも……。

 この満願寺が「もと天台宗か」とのメモと関わりそうな情報が他にもあるのだ。
 福島の伊達氏ゆかりの寺社の情報だ。
 たとえば、「福島の伊達氏(津島亮資)」では、その「ゆかりの寺社」の項で、この満願寺が伊達氏の移封に伴って白河市関山から福島市黒岩に移り、更に宮城県に移動したものと記している。

 「封内風土記(仙台叢書出版協会)」では、仙台市の満願寺について以下のように解説する。

 成就山満願寺
 在奮寺小路。天台宗。東●山末寺。傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等。白河家喪地之後後陽成帝。天正季前住慶重法印護持本尊到玉造郡岩出山。貞山君假設堂安置之。同帝慶長初移千仙臺城時●其地於州城之艮隅創建閲明神社及観音堂。而移寺為祈願處寄附三十六石餘之地傍院區如左。

 山号は成就山で、光明皇后護持仏とされる聖観音像本尊の天台宗寺院であることが確認できる。
 この寺は、天平年中に白河の関で行基開山として創建され、天正年中に玉造郡岩出山に移転し、更に慶長年初に仙台城下に移転したことも確認できる。ただ、この移動情報では、信夫郡とのかかわりは不明だ。

 それで、青葉区本町の現成就山満願寺の由来案内を確認すると、「建武2年(1355)8月10日,伊達(6世)基宗逝去の際,其の菩提所となる」とあることが記される。
 この基宗氏の法名が満願寺殿誠志堅貞大居士であり、その菩提寺が満願寺であるという情報が、信夫郡の満願寺情報を想像させるということのようなのだ。
 というのは、基宗氏の前代宗綱氏の頃から伊達氏の所領は信夫・伊達二郡となるようなのだ。
 基宗氏は、文保元年(1317)にその前代宗綱氏から家督を継いでいる。
 この時代、後宇多川法皇が院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まるが、伊達氏に大きな動きはない。元弘三年(1333)には、基宗氏は、蔵人、左近衛将監、次に従五位下、宮内大輔に叙されているという。
 
 現満願寺がかかわるのかどうかは別にしても、少なくとも信夫郡に基宗氏がかかわる満願寺の存在が想像されるということになるようなのだ。
 ただ、半沢氏の「歴史地図」に記される「もと天台宗か」のメモが、どこまで意図されているのかは知らない。
# by shingen1948 | 2019-02-03 17:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「虚空蔵堂記碑文」が刻まれる巌の東側は小高い丘になっている。上流から流れて来た阿武隈川は、この突き出た丘を回り込んで流れて行く。
a0087378_1011432.jpg その上流からこの丘に向かう流れを虚空蔵堂の南側から眺めることができる。

 虚空蔵堂の西側には、虚空蔵尊が丑寅生まれの守護仏ということで、定番の「なで牛像」と牛と虎の石造が配置される。
 虚空蔵堂の前に立つ案内板の解説の末尾に「十三詣りも、仏の徳にあやかろうとする行である」とある。十三参りも行われていることを伺うことができるが、その詳細は記されない。

 半沢氏の「歴史地図」から「黒岩虚空蔵の十三参り」にかかわりそうなメモを拾う。
 その一つが、「虚空蔵祭礼」の以下のメモ。
 「旧正月十二・十三日、旧七月二十二・二十三日、十三参りと称して、子供の身体加護と学問成就を願う親が十三歳の子を連れて参詣する。丑年生まれの人は、祭の日にウナギを阿武隈川に放流する。」
 なお、この祭時には「上の町(門前町)の民家は、祭礼時には道路側のしとみ戸を開けはなち、店を開いた」とのメモもある。
 もう一つが、「春日神社」にかかわる以下のメモ。
 「かつては春日参りをしてから虚空蔵堂の十三参りをしたとも。上の町の人々は、虚空蔵堂参りをした後、春日神社に礼拝した。それが、明治初年の国家神道政策で神仏分離された」

 これに、「胎内くぐり」の案内板に説明されていた「胎内くぐりは、仏徒でもない人たちにもこれを通過することによって、悪さを懺悔し、祓いのぞいて成長するものと信じられ、くぐり抜けるのがこの虚空蔵詣りの行とされてきた」とあることを加えたような風習だったことが想像される。
# by shingen1948 | 2019-01-28 10:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)