地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「福島鉱山」の次に、「福島の鉱山」をもとに、「丸山鉱山」と「台山鉱山」を「福島の鉱山~『丸山鉱山』・『台山鉱山』」として整理している。

 http://kazenoshin.exblog.jp/22892378/

この辺りは三角山散歩、井野目堰散歩などで何度も歩いているのだが、金山を意識してはいなかった。今回は、その金山のみを意識して散歩してみた。

いつもはママチャリで来ていたが、今回は本当に徒歩での散歩にする。井野目堰散歩と同じコースでここ沼の内までで、約1万歩だ。
a0087378_09573040.jpg 左手の山が丸山だ。地図を確認した段階では、この道を進んで民家脇がこの山の登り口になっているはずだった。その道筋を眺めていたら、民家の犬に吠えられただけでなく、雰囲気的にまっすぐ進める雰囲気ではなかった。

小心者なので、この山の周りをぐるりと回ってみるだけにした。

この道筋は、新小川橋ができる前に小川を渡るための旧道なのではないかと思えるところもあったので、その民家まで進んでみた。しかし、こちらも進入禁止状態になっていた。

この丸山鉱山は、明治25年に小池正一氏がこれを復活したと紹介されることから、元々鉱山としての沿革があったのだろうと想像する。

明治43年には、細谷儀作氏に移って稼行が継続したという。更に、昭和13年には、田村鉱業大森鉱山の支山として発展したという。昭和16年の産金量は13999gあったようだが、昭和18年に金山整備によって中止されたとのことだ。

ここの鉱石は、トラックで大森に送り製錬されたという。その運搬路もこの道筋だったのか。


a0087378_03044564.jpg もう一つ気になる道筋が、ここから一段下の小川の河岸段丘上を経由する道筋だが、こちらも現在工事中で進入禁止状態のようだ。

徒歩のみの散策は、いつものママチャリでの散策と違うと実感したのが、帰路だ。

ママチャリなら、ここから自転車で自宅を目指せば済む話なのだが、今回はこれから一万歩越えの徒歩の帰宅になるということだ。

帰路の体力も考慮して散策する必要があったというとだ。



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by shingen1948 | 2016-08-12 09:55 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 風の人である散歩人にとっては、地域の地の人が当たり前のように説明することも、確認しなければ分からないことがある。前回まで確認していた八反川上流の小字もその一つだ。

 「ふくしまの歴史」の「信夫地方の鉱山業」の項で、大笹生鉱山の解説にかかわって「八反川の上流に字銀山がある」ということについては、この付近の地図にも「銀山」が記されるので確認できる。しかし、「台山の南麓の字金山に坑道跡があります」ということについての確認が難しい。まずは金山の地名が記される地図が見当たらない。また、「台山の南麓」が、「マウント台山」の南麓なのか、「小字台山」の南麓なのか等、確認が必要だったのだ。
a0087378_945636.jpg 直ぐに、「金山」・「銀山」の小字が、大笹生鉱山とかかわりのありそうであることは気づく。他に、「水抜神」・「返シ町」・「山神前」という地名も鉱山とのかかわりが想像される。

 まずは、「水抜神」。
 先に整理した半田銀山公園案内板に、銀山係り地名として「鍛冶屋敷・御免町・十分一・大門先・水抜」などを挙げていたが、ここに「水抜」がみえる。
 「水抜」は普通、坑道の湧き水を排水したところにかかわるとみるようだ。位置的にみて、
金山の湧水排水だろうか。「水抜神」の「神」だが、現地図の地域名では「上」としている。こちらがその意に近いのだろうと思う。八反川への排水だろうから、この地はその上の位置にあたるという解釈もできそうだ。この辺り、「上」を東とする例も見受けられるが、その解釈でも矛盾はなさそうだ。

 次に、返シ町。
 普通、金山・銀山とかかわるのは「買石町」だ。掘りあげた鉱石を売買したところに使われる地名ということのようだ。金山や銀山から掘り出した鉱石をここに運んできて、ここでその品位を見極め、入れ札などによって値が付けられて売買したとのことだ。
 「笹谷大笹生地区の文化財」の「大笹生金山跡」の解説には、「昔、「反し町」は「久佐屋敷」とともに鉱夫が住んだ所」との解説か見える。このことから八反川向かいの「久佐屋敷」にも鉱夫街の広がりがイメージできそうだ。

 そして、「山神前」。
 この辺りに山神が祀られていたということなのだろうと思う。それで気になるのは、大笹生ダム脇の大山祇神社。こちらも山神様のようだが、こちらは移動なのか、別神なのかということだが、今のところ確認はできていない。

 なお、「小字石尊」も名前の由来に山頂の岩石が想像できて気になるところではあるが、どちらかといえば農耕の神、雨乞いの神であることにウエイトを置いて、愛宕同様、里の人々の生活にかかわる神々とした方がよさそうかなと思っている。
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by shingen1948 | 2016-08-11 09:46 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 前回は「福島の小字」で、八反田川上流沿いの大笹生村の小字を確認したところだが、今回は、現在の地図とその小字を見比べて、その小字跡がどこなのかを推定してみる。
 現在の地図の地区名を確認し、それと小字名とを照らし合わせれば、おおよその見当がつくのではないか思ったのだが、それは甘かった。
 地図によってプロットされるその地区名のプロット位置が、まちまちなのだ。
 それで、「福島の小字」で示される小字を基本として、それと矛盾しない地区名の位置を赤字で示してみたのが、この図だ。
a0087378_9435117.png まずは、西川と片平の間の八反田川左岸の山を「銀山」の位置と推定した。その八反田川左岸沿いの銀山裾に「山神前」、右岸にある「返シ町」の八反田川向かいに、「久佐屋敷」の位置を推定した。この「久佐屋敷」の地区名の位置は地図によってばらばらだから、「福島の小字」の「返シ町」と矛盾しない位置関係を大切にしてみた。
 次に、「金山」の地図上の位置推定だが、地図に「金山」の地区名をみない。それで、との地図でも、ほぼ同じ位置に描かれる「返シ町」とその北側の「水抜上」の更に北側に「金山」をイメージしてみると、金山発掘跡とされる崖を含む八反田川右岸とも重なるように思えたので、そこを「金山」と推定した。
 更に、その南側の小字と地図上の地区名とを照らし合わせる。
 どの地図も「愛宕」と「向平」の地区名はほぼ同じ位置にプロットされるのだが、「小字石尊」に相当する地区名はない。また、「片平」の地区名のプロット位置は、地図によって微妙に違う。
 「返シ町」と「向平」の間に、「小字石尊」に相当する位置を想像した。ところが、ここには「神裏」という地区名がプロットされている。
 詳しくその辺りを見回すと「白和瀬神社」を含むその裏側まで現「折戸」地区ということのようなのだ。それで、その更に裏側を「神裏」地区としたのではないかと想像して、紫字で「現神裏」とし、小字神裏は向平との間の白和瀬神社の裏側と想像してみた。

 確認する中で気付いたのが「台山」には二つの概念があるということだ。その一つは、「小字台山」で、もう一つがマウントの「台山」だ。台山というと、「マウント台山」をイメージしてしまうのだが、そのマウント台山の山裾の大笹生ダム東側一帯が「小字台山」ということだ。
 ここからはもっと曖昧な事だが、小字西川は、現大笹生ダムになっている西側から流れ込む河川名でないのかなと想像している。また、小字笹ノ口も現大笹生ダムの湖水部分でないのかなと思えてきている。
 それで、地図に示されるそれらの地区名は紫字で示し、小字推定位置は赤字で示してみた。
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by shingen1948 | 2016-08-10 09:44 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「福島の鉱山②」では、近代の「大笹生鉱山」について整理している。それを「福島の鉱山②~信夫地方の鉱山『大笹生鉱山』①」に修正する。
 また、新たにカテゴリー「福島の鉱山」を設けて、整理の見通しがついたものからそちらに分類し直していく。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/10/
  ◇       ◇        ◇        ◇       ◇
 「ふくしまの歴史」では、「大笹生鉱山」がこの地区では歴史的に重要な鉱山であったことを、資料を通して紹介される。
 前回はその時代別資料紹介を整理したが、他に大笹生字中寺の大福寺過去帳と上大笹生金山絵図(年代不詳)も紹介される。
 「大福寺過去帳」には、延宝5年(1677)~享保6年(1721)に亡くなった銀山関係者15人が記録されているという。
 その出身地について、この中の最上や米沢出身が6人いることや堀田家の家来も含まれているということも紹介される。また、阿波国の山で亡くなった兄、信濃国の石切、宇都宮の大工の父等渡りの坑夫らしき人や大工も葬られていることも紹介される。
 先の散歩とのかかわりで気になるのは、この近くで廃寺になった「安養寺」資料は紹介されていない事で、ないのか未調査なのかということだ。

 「上大笹生金山絵図」そのものの紹介はないが、羽田川より北に銀山5か所、銅山1か所が描かれていることが紹介される。
 空間的な広がりとして紹介されるのはこれだけだ。
 「羽田川より北」の空間という漠然とした情報からは、先に整理した「台山鉱山」や「丸山鉱山」も「大笹生鉱山」の範疇に含むのかどうかが気になるところだ。
 また、「福島の鉱山」で、この大笹生鉱山紹介とかかわって、大笹生の袖ケ沢には大正2年富田要之助氏が着手した「袖ケ澤鉱山」という金銀銅山紹介とのかかわりも気になるところ。ここは、「袖ケ澤」の地名から、板谷大橋付近の沢が架かる辺りをイメージしているのだが、ここからは結構遠い。

 空間的な広がりとしての紹介は少ないのだが、もう一つの手がかりにできるのは地名だ。それで、 「福島の小字」で大笹生村の小字を確認してみた。
a0087378_19535255.jpg 気になるのは、山中なのに結構小分けにされた小字が連なる所があることだ。
 地図と照らし合わせると、それが小字銀山と小字台山に挟まれた現大笹生ダムを含む八反田川沿いの空間のようであることが分かる。
 八反田川は「小字笹ノ口」から「小字金山」「水抜神」と「小字山神前」の間、「小字久佐屋敷」と「小字返シ町」の間、「小字銀山」と「小字石尊」の間を流れているのだろうと想像する。
 「小字神ノ裏」の神は「白和瀬神社」とのかかわりだろうか。
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by shingen1948 | 2016-08-06 19:54 | 福島の鉱山 | Comments(0)
a0087378_9132526.jpg 「福島の鉱山②」で近代の「大笹生鉱山」について整理している。
 「福島の鉱山」で確認した限りでは、昭和の始め、製錬所の施設もあって採掘精錬されていたとのことではあるようだが、大きな鉱山ではなかったように思われる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/10/
 しかし、「ふくしまの歴史」では、資料をもとに、この「大笹生鉱山」が昔から重要な鉱山であったらしいことが紹介される。
 その資料の一つが、刃傷沙汰の報告記録。以下のように紹介される。
 正保2年(1645)上大笹生村の大笹生金山の役人忠右衛門が、役銀(藩に納める産銀)のことで同僚助兵衛を殺して「はたもの」(はりつけ)になりました。この事件で本荘繁長の家臣5人と忠右衛門の息子2人が首をはねられ、妻と娘は田畑を没収されました。台山の南麓の字金山にその坑道跡があります。
 正保2年(1645)の事件で、本荘繁長の家臣がかかわるらしいことから、この事件は、上杉氏が統括していた時代らしいことが推測できる。上杉氏文書にかかわる資料かなと想像される。
 ここで、「大笹生金山の役人忠右衛門」とあるが、別資料によれば、この方は日和田出身の鍛冶職で、大笹生金山に招かれて「山先かち」という役職に就かれていたようだ。このトラブルは、この方が、新鉱脈を発見したこととかかわるものとの推定もあるようだ。「同僚助兵衛」は、山めぐり役人とのこと。
 この事件で首をはねられ処分された者が「本荘繁長の家臣5人と忠右衛門の息子2人」とあるわけだが、気になることがある。
 「忠右衛門の息子2人」はまあまあ分からなくもないが、「本荘繁長の家臣5人」の処分というのは分かりづらい。これも、別資料で確認すると、この方々は捕らえられた忠右衛門を助けようとして手向かった堀子5人ということのようだ。全員が本荘繁長の家臣ということではなく、土舟村の者、立山の者も含む5人ということのようだ。

 二つ目の資料が、堀田氏時代のもののようだ。
 元禄3年(1690)の日記に、福島商人の渡邉又郎(粉又)が山口村の金山採掘を願い出たことにふれたが、この願書には大笹生銀山のことも書かれているそうだ。それが字銀山だろうとする。

 三つ目が、板倉氏時代のようだが、それが藩とかかわる資料なのかどうかは分からない。紹介内容は次のような事だ。
 享保15年(1730)半田銀山の頭を招いて鉱脈を鑑定させ、享保18年(1733)吹き立てたところ9.1匁(34.125g)の銀が出たという。この採掘は、江戸商人山城屋宇佐美平助父子が請け負ったとのことだ。
 宝暦6年(1756)頃も銀が出ていたという。
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by shingen1948 | 2016-08-04 09:15 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 前回の記事アップ時に写真の貼り付けがうまくいかなかったので、後から貼り付けの作業や記事のリンク作業を行った。

 前回の整理で、高子付近の金山は「高子鉱山」、「富保鉱山」、「上保原鉱山」、「柱田鉱山」に加え、「帰雲窟」もその痕跡の一つかもしれないという感覚的な広がりを感じたところだ。 
 このことによって、先に箱崎愛宕神社の獅子舞の始まりの異説である箱崎愛宕山の金鉱山の工夫たちによって始められたとする説も気になりだしたところだ。
 その解説に、「金山は箱崎から保原柱田の山々に広がっており、伊達氏が開発したと伝えられる」とあった。
a0087378_253119.jpg 撮り溜めた写真を眺めていたら、箱崎愛宕神社から高子沼を眺める写真がみつかった。今日は、このことにふれた「福島の鉱山34~信夫地方の鉱山⑦~柱田鉱山」の記事にかかわって、この写真を眺めてる。
 この高子沼の奥に「高子鉱山」、「富保鉱山」、「上保原鉱山」、「柱田鉱山」が連なり、左手に「帰雲窟」のある高子山があるということになる。
 もっとも、この写真を撮った時点ではその意識はなかったが、……。

 今回の「福島の鉱山」整理でふれたのは鉱山の中の金山・銀山・銅山で、しかも、明治期と昭和期に探鉱された鉱山を中心だ。先の散歩でふれた中野や先達山の白土も「福島の鉱山」の範疇だと思うが、今回はそれも外している。
 歴史的に「福島の鉱山」を眺めたいと思う時、昭和期の「地の人」は今回の整理内容はすでに体験的にご存じのことだ。それで、この事にふれることなく歴史的な「福島の鉱山」解説が進められる事が多い。
 本来的に「風の人」である散歩人としては、このギャップを埋めてから散歩資料を読む必要があるのだ。今回は、そのための整理だったと思う。

 これで、「ふくしまの歴史」で中心的な「信夫地方の鉱山」として提示する「大笹生鉱山」の解説がようやく読めるようになったということだ。
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by shingen1948 | 2016-08-03 09:51 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「信夫地方の鉱山」ということで整理しているが、実際には信夫地方の東側の鉱山の整理になっている。
 その地域の中でも鉱山にかかわり深いのは高子地域らしいのだが、その事は整理していく中で知ったことだ。
 その高子地域付近の鉱山についての資料も、これ以上は見つかりそうもない。そう思って「高子二十境」にかかわる情報をその脇見として眺めていたところだった。
 散歩人としては「高子二十境」それ自体に興味はないのだが、一応は確認しておかなくてはならない厄介なものなのだ。

 今回かかわるのは「帰雲窟」だ。
 「高子鉱山」や「富保鉱山」・「上保原鉱山」の位置確認とのかかわりで、羽山の西方に「帰雲窟」という地名がある。その情報の処理だ。
 この地名は「高子二十境」の「帰雲窟」から命名されたのだとは思う。ただ、この地名の位置が「高子二十境」で示される「帰雲窟」の位置ではないということだ。

 「高子七境の確定とネーミングの手法」のページの情報によると、その元々の位置は高子山の西側に示されていた。それで、高子山の「高子二十境」についての情報を眺めていたのだ。
 「高子二十境」のうちの七境は高子山にあり、その確定とネーミング手法がこのページの趣旨のようだ。
 その「高子七境」を確認すると、「丹露盤」・「玉兎巌」・「長嘯嶺」・「龍脊巌」・「採芝崖」・「帰雲窟」・「将帰坂」とのことだ。
a0087378_16475673.jpg 「丹露盤」が山頂で、そこに案内板が建つことについては、先に整理している。こちらに誤りはないようだが、「高子20境「龍背巌」と首塚」として整理した「龍脊巌」の方は誤りのようだ。
 この地名も本来の位置ではないということのようだ。案内板は建っているのだが、それは間違った案内だということのようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9390709/
 この七境にかかわるネーミング手法を確認すると、玉兎巖・丹露盤・将帰阪・長嘯嶺は、中国の古典に材をとって美称化したものとのことだ。正直に言えば、散歩人は風景を楽しむほどの素養を持ち合わせていない。今のところ「丹露盤」は山頂からの風景を楽しむという以外はパスするしかない。
 それに対して、「採芝崖」と「龍脊巖」、そして「帰雲窟」は、その場所の風景や雰囲気を反映させる(美称化する)方法を取っているというのだ。比喩されたものについてはパスするしかないが、現地の風景を楽しめる可能性はあるということだ。
 それで、その情報を眺めていたのだが、「帰雲窟」は、「金鉱山の坑口(岩穴)から立ち上る雲をイメージしている」というのが出てきたのだ。
 金山かかかわりなら、これにふれておく必要があると思ったのだ。
 「『高子二十境』めぐりお薦めコース」のページには、「帰雲窟(金山の抗口)」という写真が掲載される。ただ、地図で確かめると現地は現在採掘場になっているように見える。
 http://datenokaori.web.fc2.com/sub14.html
 なお、「採芝崖」は、霊芝(きのこ)を採るイメージを重ねた崖ということのようで、「龍脊巖」は、龍の背びれのイメージを重ねた巌ということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-07-30 09:54 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 手持ちの「福島の鉱山」資料では、「高子鉱山」の次に「柱田鉱山」が解説されるのだが、途中まで田。「福島鉱山」の資料がほしくてコピーしたものなので、そのページしかないのだ。今思えば、次のページもコピーしておけばよかったなと思う。
 全体の概要は分からないが、位置情報は確認できる。
 保原町から掛田町に通ずる県道の西側に分れ、伊達郡柱沢村柱田にあり、片状花崗岩を貫いてこれを被うた石英粗面岩中にあり、道路の北側葉山のものは走向N20°wで西に傾き、巾0.3m以内であり、その南方約1㎞の金山のものは、石英粗面岩中を南北に貫くもので、数条……
 この鉱山と今まで整理してきた鉱山の位置関係が分かるように、今まで整理してきた鉱山等が図の左端に示せるように配置した。
a0087378_8473385.png 「柱田鉱山」にかかわるものは、この図の右端に配置される。
 「保原町から掛田町に通ずる県道」とあるのが、県道349号線だと思う。それを赤線で示した。「これを西に分かれて伊達郡柱沢村柱田にある」とのことだが、「道路の北側葉山」それ自体は確認できないのだが、一応、柱沢小の北東の高まりを想像しておくと矛盾しないように思う。
 「その南方約1㎞の金山」は、県道を挟んだ「字金山」の山裾だろうと思う。

 「柱田鉱山」の概要が確認できる資料を探してみたが、なかなか見つからない。
 「だてめがね」というページの「箱崎愛宕神社」の案内に、この辺りの金山についてふれた次のような部分があるが、そこに柱田の地名も登場する。
 「金山は箱崎から保原柱田の山々に広がっており、伊達氏が開発したと伝えられる」とある。「箱崎愛宕神社の獅子舞」は、天文7年から始まるのだそうだが、これが箱崎愛宕山の金鉱山の工夫たちによってはじめられたとの説もあるということらしいのだ。

 この「だてめがね」では、先に整理した高子沼の鉱山関係の出土について以下のように解説する。
 昭和初期に高子沼の底から中世のものと見られる鉱石粉砕用石臼や廃鉱石が多数出土したことから事実であると証明されています。高子沼には、伊達政宗が豊臣秀吉に伊達郡を召し上げられたとき、土手を築いて沼とし、金の精錬所跡を隠したという伝説が残っています。
 「福島の鉱山」では、その出土品を「極めて簡易な石臼と共に鎌倉時代の遺品を存し、頼朝征伐の際、坑口を水没せしめて沼としたという伝説を裏書きし、また湖畔には徳川時代の金鉱粉砕用石臼を畄(と)めいている」とした。それを、「中世のものと見られる鉱石粉砕用石臼や廃鉱石が多数出土した」とし、伊達政宗が隠したのも精錬所としているという違いだ。
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by shingen1948 | 2016-07-29 08:54 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 散歩資料でこの辺りが紹介されるのは「高子二十境」だ。
 高子駅の案内板では、次のように紹介される。
a0087378_17452622.jpg それほど興味があるわけではないが、案内を元に東側を散策したことがあった。ただ、元々の位置と案内の位置がずれることがあるらしい。その原因について「名勝的景観『高子二十境』のイメージについて(小林恵一)」では、明治期に字名にこの高子二十境から命名されたものがあるのだが、これが必ずしも一致していないものがあった事と、それらの混乱のままに案内柱が建てられたことだと指摘する。
 今まで整理してきた「福島の鉱山」とかかわる部分で確認すると、「高子沼」が「高子阪」で、「羽山」が「白鷺峰」ということのようだ。案内板では「羽山」西手に「帰雲窟」が表記されるが、こちらは字名に過ぎず、本来の「高子二十境の帰雲窟」は高子山にあるという。
「雩(う)山」は、保原の境界を示すのに「保原町高成田」を表記した山で、その道筋沿いの「鬼返り」を表記した辺りが本来の「走馬領」とのことなので、案内板とは微妙に違うらしい。
 さて、「福島の鉱山」では、その高子二十境「高子阪」である「高子沼」と金山とのかかわりが次のように案内されている。
 本金山は古来産金の伝説に富み、嘗てこの沼を排水して調査の結果泥土の底には極めて簡易な石臼と共に鎌倉時代の遺品を存し、頼朝征伐の際、坑口を水没せしめて沼としたという伝説を裏書きし、また湖畔には徳川時代の金鉱粉砕用石臼を畄(と)めいている。
 「坑口を水没せしめて沼とした」ことと「極めて簡易な石臼と共に鎌倉時代の遺品を存」したことをもって、「頼朝征伐の際、坑口を水没せしめて沼とした伝説」との結びつきを紹介している。
 「坑口を水没せしめて沼とした」こととかかわる伊達政宗と結びつける伝説もあるようで、「保原町商工会」のページではこちらを採用する。
 http://www.do-fukushima.or.jp/hobara/history/history01.htm#5
 高子沼
 あの有名な独眼竜政宗が金鉱を隠すために堤防を築き、そしてそこに水を引いて沼にしてしまった、という話があります。
 彼が戦国時代に長期にわたって勢力を維持出来たのも多くの黄金を所持していたからだといわれており、そして、金鉱の採掘に相当な力を注いでいたのも事実です。
 正宗が豊臣秀吉らによって仙台に移されてしまい、信達地方は会津の蒲生氏の所領になってしまいました。
 その際正宗は数年をもって信達地方を取り戻す腹だったようです。
 そして、正宗はこの高子金山を蒲生氏にわからぬように隠してしまうために水を引いて沼にしたという話があります。

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by shingen1948 | 2016-07-25 17:44 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日までに整理した「富保金山」と「高子金山」の昭和の時代の推定位置を赤字で示した。富保金山の事務所は、岡島宮崎の東北のここに建物の印があったことと、岡島字瀬戸沢という所在地と地形との関係からの推測だ。」
 この図に上保原高森の推定位置を茶文字で示してみた。
a0087378_9183019.png 「福島の鉱山」の「高子鉱山」の項で「上保原鉱山」にふれるが、その位置がこの辺りでなかろうかとの推定だ。
 「福島の鉱山」では、その位置を「高子鉱山」の南側としか示していない。それで、「福島圖幅地質説明書(山下傳吉)」を確認すると、「上保原鉱山は字高森と称し阿武隈川の低地に接する小丘の東側にあり」と具体的に示されている。

 その上保原村の「字高森」だが、現在、上保原村は保原村と共に伊達市の行政区の範疇になっている。
 まずは、上保原村の範囲を確認すると、伊達市の保原町上保原と保原町大柳が、昔の上保原村にあたるということのようだ。その保原町大柳の範囲を眺めると、そこに「高森」の地名がみえる。
 恐らくこの辺りが旧上保原村の「字高森」の範囲なのだろうと想像する。
 これを、昨日までの整理の図に記入してみたということだ。

 この図には、「高子鉱山」、「富保鉱山」「「上保原鉱山」の3つの鉱山の推定位置を示したことになるが、その開発順序は、まずは明治時代に「上保原鉱山」の探鉱があって、昭和の始めに日本鉱業によってこの「高子鉱山」が探鉱されたということのようだ。
 「上保原鉱山」の鉱脈は、桂田村の各所に現出するものと同じで、嘗て其の山麓に堆積した廃鉱が銀成分に富んでいることを発見して、これを半田銀山に送って製銀したということだ。
 しかし、明治31年時点では、「本山は往昔盛んに採掘せられたるものの如く慈に数多くの旧鉱あり鉱脈は之を其旧鉱に徴するに数条ありて皆な南北に走れるものの如く坑口は悉(ことごと)く埋没して坑内の状況を知るに由なし」という状況で、その残鉱も存在しないということのようだ。
 「高子鉱山」の探鉱もうまくいかずに、すぐに休山になったという事らしい。「富保鉱山」も昭和4年の探鉱のようだが、こちらは昭和14年まで続いたということだ。
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by shingen1948 | 2016-07-24 09:20 | 福島の鉱山 | Comments(0)