地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 平野村道路元標設置場所跡を探し当ててはいないのだが、これを探す経緯の中でいろいろな事が分かったので、その事について整理してみた。
 今回の確認作業の中で、「道路元標」と「里程元標」の違いが曖昧だった事も分かった。
 「国道901号-道路元標が行く」という道路元標に詳しいホームページの開設を参考に、このことを整理し、この項を終わろうと思う。

 「国道901号-道路元標が行く」のページでは、「道路元標」と「里程元標」の違いとそのかかわりについて次のように解説している。
 まずは、「道路元標」については「道路元標設置の法的根拠は、大正8年11月に公布された旧「道路法」によるものです」とする。
 次に、「里程元標」については「『元標』と名のつくものは道路元標だけではなく、明治期のお触れによる『里程元標』も多く残っている。また、時には『御大典記念元標』なんてのもあり……」とする。
 ここでいう「明治期のお触れ」は、明治6年(1873)それぞれの府県ごとに、「里程元標(りていげんぴょう)」を設け、陸地の道程(みちのり)の調査を命じたことをいうらしい。
 更に、その「道路元標」と「里程元標」とのかかわりについては、「大正道路法で市町村に1個設置せよいうことになったものの、どうやらこれらのものを道路元標と『みなしてもよい』ことになっていた可能性が非常に高いらしい」とする。

 要は、道路元標設置は、大正8年11月公布の旧「道路法」によるものだが、道路元標設置にあたり、明治期のお触れによる「里程元標」を道路元標とみなしてもよい事になっていたらしいということのようだ。
a0087378_15493764.jpg これは、先の散歩で佐倉村の道路元標として整理したものだが、これが明らかにこの例になるということのようだ。
 つまり、この碑は元々は福島県の佐倉村里程元標だったものなのだろう。それを佐倉村道路元標とみなしたものというのが正確な表記なのだろう。

 今回の整理とのかかわりでは、平野村が誕生した明治22年には法的な意味で道路元標はまだ設置されてはいないことになる。
 「信達二郡村誌」によれば、ここでいう「平塚村元標」の「里程元標」が、「瀬上街道」と「山形街道」が交わる東六角地内「瀬上街道」にあり、「入江野村元標」の「里程元標」が、この辺りの人々が言う西六角に近い「角屋敷」にあったということのようだ。
 そして、合併したての平野村としての里程標はなかったのかもしれないとの想像もできそうだ。

 平野村としての大きな課題は、平野村の中央を走る開通したての飯坂街道新道沿いに、合併したての村の中心となる公共施設を建設することだったのかもしれない。
 それらの建設整備が進んだ頃、「道路元標」がかかわる旧「道路法」が公布(大正8年11月)され、それとのかかわりで「堂ノ前16」に平野村の「道路元標」が設置されたというおおよその流れを想像する。
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by shingen1948 | 2016-08-24 15:53 | Comments(0)
 本当は、ここで「道路元標」と「里程元標」の違いとかかわりを整理し、この項を終わろうと思っていたのだが、思わぬところで堂ノ前16番地の情報と出会ったので、その事にふれておく。

 東京の電力会社がぶちまけた放射能のため、この辺りでは安心して家庭菜園の野菜が食えなくなった事とのかかわりだ。
 福島市の各支所等に持ち込んで食品等簡易放射能測定器で測定してもらう体制だったが、JA新ふくしまでも10か所測定所を開設したということだった。
 その受付所の「飯坂南資材店」の住所が何と飯坂町平野字堂ノ前16とあるのだ。
 それで、詳しく確認すると、ここが「新ふくしま農業協同組合・営農経済センター・資材店 飯坂南資材店」とあったり、「新ふくしま農業協同組合支店・出張所 飯坂南支店」とあったりするのだ。
 勝手に「飯坂町平野字堂ノ前16」の地点に建つのは民家と思っていたところだが、いわゆる農協の可能性もあると思えてきたのだ。航空写真にも写るので、少なくとも昭和27年から建っているということだ。
a0087378_9521549.jpg
 道路現標の設置場所だが、具体的には市町村の中心部、市町村役場の前、役場付近の主要道路の交差点脇などが多いとのことだ。それが一般的なのだが、管理の利便性から村役場の敷地内に設置された例も結構あるとの情報もある。
 そして、この時代、農協は役場に準ずる機関との見方が主流であって、村の中心部の役場近くにあったことが多かったという情報もある。
 これ等の情報を組み合わせて考えれば、「堂ノ前16」が農協ならば、そこに道路元標が設置される可能性はあるということだろう。道路とのかかわりは、飯坂街道とのかかわりで十分であり、他の道路とのかかわりに左右されないのではないかと思えるのだ。
 そういえば、平野村の道路元標探し始めの頃、農協がその候補地として紹介されたことがあった。ただ、当方には農協は現JA地点であるとの思い込みがあって捨てた情報だったのだ。
 勝手な思い込みを追加しておく。
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by shingen1948 | 2016-08-23 09:52 | Comments(0)
 平野村道路元標設置場所跡を探す散策を通して、現在「堂ノ前」付近の地域がどんな風に見えているのかをまとめておく。
a0087378_9581570.png 紺色の線は、平塚村と入江野村の村界線だ。おおよそ間違いないかなという確からしさの部分は実線とし、曖昧だと思う部分は点線にしてみた。
 推測にかかわるのが緑線と赤線。
 緑線は、小字界の資料から推定した線で、赤線は現在の地域割りに伴う線だ。これを補助資料とし、実際の散策の経験と航空写真などの資料を通して補正してみた。これに伴って、明神様境内の空間が感じられるようになった。この神社の南縁が村界になっていることが分かる。

 ここに新たに「飯坂街道」が通るまで、ここをそれほど主要な道筋が通っていなかった。それは、ここが村界であることからも明らかだ。
 その中でも、この地域にとっては比較的主要な道筋はどこだったのかということを探るのに、昭和27年の航空写真を参考にした。
 昭和27年の航空写真では、平塚村の中心と思われる現「東六角」から平野選果場前を通る道筋はすでに主要な道筋になっている。しかし、「平野の伝承とくらし」によれば、昔はこの道筋は集落の縁の線で、ここから南側には民家はなかったというその境界線だったという。
 それで注目した道筋が、大和田方面からの道筋だ。
 現在は選果場の脇に真っ直ぐに伸びる道筋だが、昭和27年の航空写真では、途中から二つに分かれ、その一本は現病院脇付近を通り、明神様と観音堂を結ぶ道筋につながっている。もう一本は、神社の一本西の大きな民家の正面の道筋につながっている。その民家の正面から西に向かい、南に下って観音堂に向かう道筋もはっきり写っているように見える。その北側は集落になっているらしい様子が伺える。飯坂街道と共に、それらこの地区では主要な道筋とおもわれるものを濃茶で示してみた。
 入江野村側から明神様に向かう道筋も濃茶で示してみたが、入江野村の中心「角屋敷」とのかかわりかなと思う。

 もっと限定的に「堂ノ前16」という狭い範囲を眺めると、現平野駅東側一部が「堂ノ前17」で、航空写真に緑地境に見える部分から南に「堂ノ前11」があり、その他が「堂ノ前16」とかかわるらしいことが推測される。
 飯坂街道から、その中心となるらしい地点まで道筋が延びている。そこから、点線の濃茶の点線で結んでみたのは、昔、この道筋は明神様に抜けることができたとの話があったからだ。
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by shingen1948 | 2016-08-22 10:09 | Comments(0)

平野村道路元標設置場所跡は分からないままだ。

そういいながらも、散策中は、心のどこかに現堂ノ前16付近民家前の道筋が平野村道路元標設置場所跡とかかわらないものなのかという気持ちで歩いている。
a0087378_12140584.jpg  
平塚村側の「堂ノ前」という村界の小字名は、この「観音堂」由来なのではないかと想像している。今回、「東屋沼神社」を明神様という言い方をするのは平塚村と村界をなす入江野村側の小字「明神脇」はこの明神様が由来と思うからだ。

この写真は、その「観音堂」側から「明神様」側を眺めた風景ということだ。

昭和27年航空写真とのかかわりでは、大和田からの主要な道筋の一つが病院の東側を通って観音堂と明神様とを結ぶ道筋につながっていいたのだが、その病院がこの写真の左側に写っている。つまりは、この写真の現駐車場の奥の縁が、大和田からの主要な道筋であったということだ。

航空写真には、堂ノ前16地点付近に一軒の民家が写っていたのだが、その位置関係から、この写真の中央奥に写っている民家が、その民家なのだろうと想像する。

航空写真には、堂ノ前17地点付近の民家から明神様の南側を走る道筋のみが写っていたのだが、現在は数件の民家が立ち並ぶ。位置関係からみて、航空写真に写る道筋は、その現神社南側に立ち並ぶ民家の北縁だろうかと想像する。

この写真の一番手前の建物は神輿小屋だが、その民家の北縁は、この小屋の左側とつながる感じの位置関係だ。


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by shingen1948 | 2016-08-20 12:15 | Comments(0)

 先にも記したが、平野村道路元標設置場所跡は分からないままだ。その中で試みた事を整理しておくということだ。
 「堂ノ前」付近が写る航空写真をもとに、道路の変遷を確認したことがある。
 確認できた中で一番古いのが、昭和27年の航空写真だ。ここで確認できたことを図に落としてみる。なお、この時点での飯坂電車の状況はまだ確認していない。

a0087378_09075223.png 六角から現選果場前を走る道路は現況と同じような道筋に見えるが、大和田からの道筋が現況と全く違う。
 大きな道筋の一本は、「観音堂」と「八竜神社」の間につながる。もう一本の道筋は、現選果場東縁に沿って、現後藤医院東縁を突き抜け、「明神」と「観音堂」を結ぶ道筋につながるように見える。

 「堂ノ前」地内を確認すると、現平野駅北脇の踏切から観音堂に抜ける道筋は木々に覆われているように見える。道筋としては現堂ノ前17のお宅が一軒あって、その東側に観音堂に向かう道筋が見て取れる。
 現堂ノ前16付近も民家は1件で、そこに向かう道筋写っているようだ。現堂ノ前11にかかわるお宅の3軒が確認できる。その三軒と現堂ノ前16付近民家の間も木々に覆われているような感じがする。
 それら確認できる民家に赤点で記しを付けて、木々が覆われているような感じの所を紫線で示してみると、こんな感じた。



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by shingen1948 | 2016-08-19 09:11 | Comments(0)
a0087378_17444326.jpg 平野村道路元標設置場所は、大字平塚字堂ノ前16番地先であるとのことだ。その大字平塚字堂ノ前16番地は、この路地の奥らしいことも分かっていることだ。
 よそ者の散歩人としては、それならここをその候補地としてしまえばよいと思うのだがそうはいかないらしいのだ。
 この道筋の先は行き止まりで、道筋が続いていないようなのだ。新しい道路が開通したことに伴って分断したという事情でもないらしい。
 それよりは、飯坂街道が開通して、その奥の家からこの道筋に出るために設置された道筋といった経緯に見える。
 もっとも、先にも記したように、北沢又の三差路から新たに飯坂方面への道路が開通するのが、明治16、17年頃ということなので、平野村が誕生した明治22年にはこの道筋も存在していたとみてもおかしくはないが、どうみても里道ではなさそうだ。
 それで、地元に詳しい方々や専門とする方々は、「福島県の道路元標(小泉)」が平野駅設置に伴い改変れた道路との見方をしているらしいことでも分かるように、ここを平野村道路元標設置場所跡と推定することはないようなのだ。
 ここを平野村道路元標設置場所跡の推定地とするには必然性のようなものが希薄で抵抗があるらしいのだ。

 それでも、散歩人としては、ここを中心に遠巻きに周りの確認をしてヒントらしきものがないかをずっと確かめていたのだが、今のところその確信は持てないままだ。
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by shingen1948 | 2016-08-18 17:34 | Comments(3)
 台風による大雨の影響で飯坂線が運転見合わせとのことで、家人を福島まで送る。森合のガード下も冠水とのことで、いつものラッシュとも違った雰囲気。飯坂線は、8時ごろには開通して、10時頃には平常運転に戻ったとのことだ。
    ◇      ◇       ◇       ◇       ◇
a0087378_12201840.jpg 「福島県の道路元標(小泉)」が、平野村創設当時の平野村役場跡とするのは、この現JA農協の北側の民家の地点(大字平塚字堂ノ前16-8)だ。確からしさは高そうだが、「平野の伝承とくらし」が明神町の公民館支所跡に村役場はあったとする情報との整合性が確認できない。どちらも事実だとすれば、推定としては移動が考えられる。
 ウィキペディアで信夫郡平野村の平野村役場を確認すると、その所在地は、福島県信夫郡平野村大字平塚とある。確かに、民家の地点の「堂ノ前」は大字平塚の範囲だ。
 しかし、「平野の伝承とくらし」が明神町の公民館支所跡に村役場はあったとする情報の現在の明神町は、「福島の小字」がいう平塚村側の「小字発股内」と重なるような気がするのだ。今のところの自分の情報としてはまだ曖昧だということにしておく。

 今度は平野村道路元標設置場所跡情報だが、「福島県の道路元標(小泉)」では、平野駅設置に伴い改変された道路との見方をしているらしいことが伺える。それなら、入江野村と平塚村の村界道とのかかわりとの見方かとも想像されるが、その位置情報は大字平塚字堂ノ前16先とのことで、自分の手持ち情報と変わらない。
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by shingen1948 | 2016-08-17 12:21 | Comments(0)
a0087378_9375636.jpg  ここは、平野公民館分館と地区の人々が村役場と称していた平野支所があったところだ。自分が、この地区に住んでいた頃には平野郵便局は現在地にあったのだが、「平野の伝承とくらし」によれば、ここの飯坂街道を挟んだ向かい側にあったということだ。
 明神町商店街の見取り図によれば、この支所公民館側の飯坂街道沿いには、昭和15年から昭和20年までは営業していたが昭和60年から平成3年の間頃には廃業てしまっていた「まるみや食品店」という商店と平成3年頃までは営業していた「井村や菓子店」があったようだ。その飯坂街道を挟んだ向かい側に葬儀屋さんがあって、その北側が平野郵便局という配置だったというのだ。

 それで、平野村道路元標設置場所跡は「堂ノ前」らしいとの情報を得ていたのだが、明治22年(1889)に平野村が誕生した時点で村役場が置かれたのは、この公民館分館と支所の地点なのだろうと思っていたのだ。
 しかし、「福島県の道路元標(小泉)」によれば、平野村創設当時、平野村役場は、大字平塚字堂ノ前16-8の現農協の北側の民家の地点にあったとのことなのだ。
 ならば、その移転の可能性としては、昭和30年(1955)に飯坂町・平野村・中野村が伊達郡湯野町・東湯野村・茂庭村と合併して、村役場が飯坂町の支所となった時点かなとも思った。
 しかし、「平野の伝承とくらし」の情報を加味すれば、昭和15年時点では、明神町の公民館支所跡に村役場はあったように読み取れる。
 そのあたりが曖昧なままだ。
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by shingen1948 | 2016-08-16 09:42 | Comments(0)
 現在の字界と思われる地区割と小字界を照らし合わせて、おおよその「平塚村」と「入江野村」との村界を推定したところだった。
 このことを頭において平野散歩に出かけた。
 農面道路から最近見つけた散歩によさそうな道筋に入り、卑原から飯坂古道に出て、その道筋に沿って平野に向かう。平野農協あたりで歩数計を確認した。帰路を飯坂街道沿いに計画すれば1万歩でおさまりそうだ。「丸山鉱山」散策散歩時のようなペースオーバーしくじりにならないようだ。
a0087378_626102.jpg 本日の収穫は、農協裏にフェンスに囲まれた細い道筋を見つけた事だ。昨日整理した「平塚村」と「入江野村」との村界の道筋なのではないのかなと想像した。
 北側に進んでみると病院の脇から西枝屋敷から平野駅に抜ける道筋に出た。南側は民家の敷地とかかわりあいそうな感じがあったので、そこに入り込むのをやめて西海枝と天前の字界道から覗き込んで確かめた。

a0087378_6283788.png 昨日の村界を推定図した図に、焦げ茶の線で示してみた。また、平野村道路元標設置場所跡は、字堂ノ前であることは分かっているので、その字堂ノ前にかかわる字界を現在の地区割り線に沿って紫線で引いて字堂ノ前を囲ってみた。現在の地区割りに基づいた村界線は黄緑線なのでそれと結べばいいのかなと思う。
 他の村界線想像図は補助資料だ。
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by shingen1948 | 2016-08-15 09:22 | Comments(0)

前々から平野村道路元標設置場所跡を探しているのだが、分からないままだ。結論は分からないということなのだが、試みた事はいくつかある。今回は、それを整理しておく。

平野村の誕生は、明治22年(1889)4月1日だ。平塚村・入江野村・伊佐野村が合併したて平野村となる。その平野村になって後、次のような経緯をたどる。

昭和30年(1955)3月31日に飯坂町・平野村・中野村が伊達郡湯野町・東湯野村・茂庭村と合併する。これにより、平野村は飯坂町の一部となる。その飯坂町も、昭和39年(1964)11日に福島市に編入され、福島市の飯坂地区の一部となる。

その平野村が誕生して、村役場ができ道路元標が設置されたはずなのだが、その道路元標の現物もなければ、設置された位置も分からないという状況だ。ただ、「小字堂前」に設置されたと思われる資料はある。

この「小字堂前」は、平野村が誕生するのに合併した「平塚村」と「入江野村」との村界線が絡む旧「平塚村」に属する地域であることも確認できる。

まずは、そのあたりから確認していこうかと思う。

a0087378_10542941.png黄緑線は、現在の地区割に基づいて現在の「平塚村」と「入江野村」との村界を推定したものだ。赤線が、小字をもとにして、道筋とのかかわりから推定した「平塚村」と「入江野村」との村界だ。

紫の文字で現在の字名を記している。この中の「字堂ノ前」地区が、道路元標設置位置推定にかかわる。

この時点での飯坂街道だが、恐らく開通したばかりの時期だろうと推測される。

先に、「万世大路~現在の飯坂街道」で整理したように、明治14年に万世大路開通が開通し、北沢又の三差路から新たに飯坂方面への道路が開通するのが、明治1617年頃ということだ。従って、平野村誕生の準備時期と重なり、平野村が誕生した明治22年には既にこの道筋は存在したという事になるようだ。

http://kazenoshin.exblog.jp/5292888/


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by shingen1948 | 2016-08-14 10:56 | Comments(0)