地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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茂庭氏と人取り橋の戦い

  先日の茂庭ダムについて記事にしたが、この地区で個人的に気になっていることがある。それは、30余年前にこの地を調べたときに、言い伝えをやや否定的に扱ってしまったことがあったことである。
 この地を治めていたのは、鬼庭と称した一族で、代々の墓が残っている。一族の実良は伊達家初代の朝宗に仕え、以来、伊達郡茂庭村を領して代々伊達氏に仕えて戦国時代に至ったという。
 茂庭家(鬼庭家)初代の斎藤実良(鬼庭実良)は、奥州伊達郡茂庭村(福島県飯坂町茂庭)に下向してきた時に周辺の村を荒らしていた大蛇を退治し、領民に請われて領主となったと言い伝えられる。「ふくしま再発見茂庭の大蛇」(福島商工会議所婦人会、福島商工会議所婦人部)
 言い伝えによると、妖怪大蛇を退治した武勲にちなみ「鬼庭」の姓を名乗り、本領茂庭村も鬼庭村と改称したという。この武勇を聞いた伊達朝宗(伊達家初代)に召されて幕下に連なったとのことだ。
 代々の墓だが第二代は鬼庭資良、第三代は鬼庭資実で、ここまでの墓は、滝野にある。そして、第四代鬼庭実家、第五代鬼庭実元、第六代鬼庭利元、第七代鬼庭良実、第八代鬼庭定元盛良、第九代鬼庭定元のここまでの墓は中茂庭にある。
 後悔の一つは、このきれることを問題にしたことだ。
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 二つ目の後悔は、確実な情報から類推でたどるときに、その類推に確実さが乏しいことを問題にしてしまったことだ。
 茂庭氏である程度確実に知られているのは、戦国時代の第十一代鬼庭左月良直と十二代の網元である。良直氏は伊達輝宗の命により父祖の地である茂庭村から出羽国置賜郡長井郷米沢川井村に移り住んだという。
 良直の名を後世に伝えたのが、伊達政宗が佐竹・葦名氏ら反伊達連合軍と戦った人取橋の合戦である。この戦いについては、少しずつ「会津への路(伊達政宗)」の記事との関連で、現地を確認しながら想像を膨らませたいと思っている。
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 この戦いで、良直は政宗より指揮を命じられ、合戦に臨んだという。良直は伊達軍の殿として力戦し、首二百余を挙げたとのことだが、遂に岩城氏の家臣、窪田十郎と戦い討ち取られたという。
 茂庭家のその後は、良直の子十二網元は、蒲生氏郷の疑念を解くため京都で、要人に会い、豊臣秀吉に認められて、茂庭と名乗ることになったという。
 この後、延元(綱元)の子・良元が近世茂庭氏初代として松山城に入城する。

このある程度確実な情報から、伊達郡茂庭一代目の身柄を推定することになる。言い伝えでは、以下のようになっている。
 茂庭氏は、源平合戦に平家方の武将として白髪を染めて出陣したことで有名な斎藤別当実盛の後裔。山城国に住んでいた実盛の後裔実良は奥州へ移住し、伊達家初代の朝宗に仕え、伊達郡茂庭村を領して鬼庭と称する。以後、代々伊達氏に仕えて戦国時代に至る。

 地域を調べるときの原則である「言い伝えを信じ」その上で確実にしていくという手法を知らなかったという至らなさが、恥ずかしい。
 恥ずかしさとは別に、もう一つ気になることがある。それは、茂庭の藤清水地区に、地域の方が御在所と呼ぶ所があって、そこには井戸もある。林道を登って山頂近くなのだが、そこの確認が曖昧なままなことだ。
なお、茂庭という地名は、『モニハン』というアイヌ語が茂庭の名の由来で、『木濃き所』という意味だという説もあるとのことだ。鬼庭氏が宮城県の茂庭に所領を得て茂庭氏と名乗り、その氏の出も茂庭と命名したとも考えられると勝手な想像をしたりもしている。
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by shingen1948 | 2007-03-28 23:01 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)