地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島36

 史伝「渋江抽斎(森鴎外)」を保氏の動向と関連付けた興味で読むのは、文学作品の読み方としては邪道であろう。しかし、この史伝がノンフィクションである故に、読者にその読み方の自由度が許容されるのではないかと勝手に思っている。これが、この作品を読み進めたいと思う原動力ともなる。

 ただ、鴎外氏自身も抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮していることが伺える。
 特に抽斎没後について、その時代を「斎歿後の第〇〇年の明治〇年」と表現するのも、抽斎伝から離れることのないようにする工夫なのかもしれないと思う。
 また、情報提供者としての保氏はその名の通り記されるが、保氏の動向は「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、史伝の中では、保氏は成善の名で描かれているのも、その配慮の一つなのかもしれないとも思う。

 さて、鴎外氏に提供された抽斎氏情報だが、抽斎氏は保氏が2歳の時に亡くなっている。従って、抽斎氏についての直接的な記憶はなく、母である五百さんから聞いた話のようだ。幸い、この方は保氏が28歳になる明治17年までご生存されていたので、抽斎氏の日々の話が聞けたという事のようだ。

 その五百さんが史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その30」からで、抽斎氏と夫婦になるのが「その34」だ。
 保氏が史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その51」だ。以下のように紹介される。

 安政四年には抽斎の七男成善が七月二十六日を以て生れた。小字(おさなな)は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。即ち今の保さんで、父は53歳、母は42歳の時の子である。
 ただ、「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、情報提供者としては保氏とされるが、史伝の中では、成善の名で描かれていることについては先に記した。

 その改名だが、抽斎歿後の第13年の明治4年だ。「その91」で、次のような事が起きる。
 成善氏は、藩学の職を辞して、3月21日に、母五百と水杯を酌み交して別れ、駕籠に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は35歳、五百は56歳になっていた。

 そして、「その93」で、その改名を次のように紹介する。
 この年6月7日に成善は名を保と改めた。これは母を懐(おも)うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善の名を優と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩(おさむ)と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。

 この作品がノンフィクションであるために、鴎外氏にはもう一つ配慮しなければならない事があったようだ。それは、鴎外氏と同時代を生きる保氏のプライバシーへの配慮だ。
 保氏自身も、鴎外のために書き下ろした資料が、抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮し、後半生についての記録をごく簡単ものにしているという。従って明治23年(1890)年以降の活動情報は、きわめて少ないという。

 なお、「森鴎外と福島32」でふれた松本清張氏の史伝は鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった資料・覚書通りで鴎外自身の創作は微塵も無いとの指摘だが、鴎外氏は、その事については作品の中できちんと断っている。
 保氏と出会う「その9」は、以下のようにしめられている。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を箇条書きにしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで「独立評論」に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直ぐに保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。

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by shingen1948 | 2017-03-04 09:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島35

 鴎外氏が求めた「抽斎ノ親戚並ニ門人」及び「抽斎の学説」の題での起稿に、しっかり応じることができる抽斎氏嗣子渋江保氏というのはどんな方なのだろうということが気になる。
 「渋江抽斎(森鴎外)」をその視点で眺め直す。

 渋江保氏と出会うきっかけになるのが、東京在住で渋江氏と交わった飯田巽(たつみ)氏と郷土史家として渋江氏の事績を知っている戸崎覚氏だが、この方々が「その4」で紹介される。
 「その5」で「道純(=抽斎と号)の娘さんが本所松井町の杵屋勝久であり、その杵屋には渋江終吉という甥がいて下渋谷に住んでいることが分かる。
 「その6」で鴎外氏は戸崎覚氏を訪ね、ここで抽斎氏嗣子渋江保氏を知る。
 「その7」で、鴎外氏が得ていた渋江保氏にかかわる情報が紹介される。ただ、この時点では保氏の所在は不明だった。
 また、飯田巽(たつみ)氏からの手紙で、渋江氏の祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等の情報を得る。
 その情報の中で、保氏の住所が今の牛込船河原町であることを知る。
 「その8」で渋江氏の墓探しがあって、そして「その9」で保氏と対面する。
 そこで氏の概要について紹介されるのだが、ここでは「渋江抽斎没後の渋江家と帝国図書館(藤元直樹)」から保氏のプロフィール情報をお借りする。

 安政4年(1857)江戸生まれ、医家であった抽斎の遺したプログラムに従い学問を修め、その幼年時代を過ごしていく。
 明治元年(1868)、維新の騒乱の中で本国である弘前へと移り、若くして藩の助教となった保氏は、医者ではなく、漢学者の道を歩みはじめる。
 時節柄、藩の支給する禄は減っていくばかりであったため、英学によって身を立てることを決意し、明治3年(1871)上京、尺振八の共立学舎に入門する。わずか1年で編訳書を出版する早熟ぶりを見せる。
 明治4年(1872)師範学校へ第1期生として入学し、明治8年(1875)に卒業。浜松へ赴き教師として活躍するが、明治12年(1879)東京に戻り、慶應義塾に学び研鑚を積む。明治14年(1881) に卒業すると、再び愛知で教師となるが、1年で再び東京に戻り、 攻玉社と慶應義塾で教壇に立つ。
 明治17年(1884)には「東京横浜毎日新聞」の記者となるが、体調不良を理由に明治18年(1885)遠州周智郡へ退隠する。 翌年、静岡に移り教師としての活動を再開し、さらに「東海暁鐘新報」に招かれ主筆となる。
 明治21年(1890)には再び東京へ出て、書肆博文館の求めに応じ、矢継ぎ早に様々な 著作を書き下ろして行く。
 この辺りの事情について「渋江抽斎」(その112)で、次のように紹介していることが記される。
 「しかし最も大いに精力を費したものは、 書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約150部の多きに至つてゐる。其書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追ふ書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたと謂はざることを得ない。そして保さんは自らこれを知つてゐる。 」
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by shingen1948 | 2017-02-25 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島34

 前回は、津軽地方の医学史、疾病史という地方史の研究に、「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を主要な資料の一つとして活用しているという観点から整理した。
 地方史研究の主要な資料となり得るのは、松本清張氏の指摘のように資料提供者の資料にフィクションの手法をほとんど施していないからだろう。
 その資料提供者というのが抽斎氏の息子である渋江保氏だ。

 鴎外氏は、史伝「渋江抽斎」執筆のため、抽斎氏の息子である渋江保氏に「抽斎ノ親戚並ニ門人」及び「抽斎の学説」の題で起稿を求めたという。
 それに保氏が応じて、抽斎の親戚6人と門人10人についての回想的伝記と「抽斎の学説」をおくったとのことだ。これが、鴎外文庫「書入本画像データベース」の「抽斎の親戚、幷(ならび)に門人(渋江保著)」で確認できる。
 http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/H20_555.html

 まずは、松本清張氏の指摘と資料の関係を確認しておく。
 「森鴎外と福島32」でふれた松本清張氏の指摘は、「両像・森鴎外(松本清張)【文芸春秋社1994年】」に、「最高傑作と誉れ高いこの史伝は、実は、鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった原稿用紙百数十枚からなる資料・覚書をほとんど丸写しにしたもので、彼自身の創作は微塵も無い」と言った一戸務の資料報告の存在の指摘のようだ。
 この松本清張氏の著作も、鴎外文庫「書入本画像データベース」の参考文献として挙げられているが、ここに「鴎外作『渋江抽斎』の資料(一戸務)【文学1巻5号1933年8月】」もある。これが、その「一戸務という人の論文」というものに該当するのだろうと思われる。
 一戸 務氏を確認すると、作家で中国文学者のようだ。
 明治37年(1904)東京生まれ東京帝国大学支那文学科卒。昭和4年(1929)第10次「新思潮」に参加、後に「文藝レビュー」に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授とある。

 ここに【翻刻:松本明知『森鴎外「渋江抽斎」基礎資料』日本医史学会1988年】とあるのが、「森鴎外と福島33」で確認した津軽地方の医学史、疾病史の研究とかかわる。
 松本明知氏が鴎外氏に提出した「抽斎親戚並門人」と新たに発掘した渋江保氏の日記(明治元~3年)を活字化翻刻したものようだ。
 「抽斎親戚並門人」が活字化されたことの他に、日記の発見によって以下のように史伝の研究にかかわる事の外、藩医としての渋江抽斎を巡る幕末の弘前藩の医学史にかかわる事も明らかになったという情報も見る。
 ① 維新の混乱時に抽斎没後の渋江一家が江 戸から弘前へ引き揚げた日時,経路などの詳細が 知られた
 ② 渋江抽斎は弘前藩の秘薬「津軽 一粒金丹」の製造を許された数少ない藩医の一人であったので、この関係の史料を鋭意探索した結果、抽斎自筆の秘伝書と渋江家で用いていた「津軽一粒金丹」の薬袋を発見した。
 ③ 秘伝書は伝授された者が次ぎの伝承者へ筆写して渡すことも明らかになった。
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by shingen1948 | 2017-02-19 06:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島33

 「森鷗外と『北游日乗』・『北遊記』 ―函館,青森を中心として―(松本明知)」の序にあたるところに、「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を主要な資料の一つと位置付けて、津軽地方の医学史、疾病史の研究にまで深めていることが簡潔に紹介されている。
 具体例を拾う。
 例えば、松木明氏が、昭和28年(1953)頃から「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を資料として、津軽の医学史の研究を開始しているという。そして、昭和42年(1967)には「渋江抽斎 人名誌(孔版)」を上梓し、昭和56年(1981)にはそれを改訂して津軽書房から出版しているという。
 その過程において、鷗外氏が、渋江抽斎氏にかかわって弘前の北辰日報の記者であった中村範に宛てた書簡6通が見出されたり、抽斎氏の孫の渋江乙女氏が青森市浅虫在住である事が分かったりしたとのことだ。

 津軽地方の医学史、疾病史の研究に直接的にかかわるのは、史伝の中に出てくる「直舎伝記抄」なのだそうだ。これは、抽斎の編になる弘前藩江戸屋敷の宿直医官の日誌なそうだが、その原本とも言うべき宿直医官の日誌は1冊も現存していないという。その意味でも、この「直舎伝記抄」は貴重な資料なのだという。
 また、このことからは、抽斎氏が弘前藩の医学の歩みに関して何らかの著作計画があったとも推定できるとしている。
 内容的には、それまで全く伝が不詳であった弘前藩江戸定府の医官桐山正哲の事績が、この「直舎伝記抄」によって明らかになったという。この桐山氏は杉田玄白氏が「解体新書」を翻訳した時の仲間の一人であったが、本草学に詳しく弘前藩江戸屋敷で本草学の講書を行っていることが明らかになったのだとか。

 「直舎伝記抄」 は一地方の医学史的資料にとどまらず、全国的な医学史研究にとっても主要な資料であることも強調される。江戸時代の藩の宿直医官日誌が遺されている例がないとのことだ。

 鷗外氏が借覧したのは、富士川游氏が所蔵していたこの資料なそうだ。
 ただ、鴎外氏が借覧したのは8冊とのことだが、その現存が確認できていたのは慶応大学医学部北里記念図書館所蔵小型本6冊で、2冊の所在は不明だったという。
 後に、松本明知氏は、その2冊の資料の写本が渋江乙女氏宅に秘蔵されていることを知り、漸く許可を得て、昭和60年(1985)に「直舎伝記抄」を出版したとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-02-13 09:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島32

 「森鴎外と福島29」で、「渋江抽斎(森鴎外)」や「伊藤蘭軒(森鴎外)」などの作品に登場する探索方法を追試されたり、地域資料を元に作品の補強資料を探し出したりする散策情報についてふれた。

 その情報の一つが、「日曜スケッチ散歩」というページだ。
 http://aki.art.coocan.jp/frame-top.html
 このページについては、先に「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島④」と「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島⑥」で、「日本種痘の恩人」にかかわる情報でふれている。
 「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島④」では、池田京水氏にかかわる墓地探しの追体験についてふれた。
 この方は、「渋江抽斎」の読後に「ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡医 池田京水とその一族(中尾英雄)【平成7年自費出版】」という冊子に出会い、池田家宗家の前に、池田京水氏の墓参りをしたのだということだ。
 この著者中尾英雄氏は、池田京水氏の末裔にあたる逗子市で耳鼻咽喉科を開業されている方とのことだった。
 ただ、この池田京水氏の末裔の方の情報は後で気付いたので、「『伊沢蘭軒(森鴎外)』と福島⑥」の方にされている。
 こちらで整理した墓地探しの追体験は、「池田瑞仙の墓」から池田家宗家にかかわる情報を整理した。
 福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏と直接的にかかわる池田家宗家の合墓はこちらで、鑑三郎氏が明治30年に谷中墓地に建てた事が「伊澤蘭軒」の作品の中に確認できる。

 「渋江抽斎(森鴎外)」その8で、鴎外氏は渋江抽斎の墓探しもするのだが、こちらも追体験して作品にしているようだ。
 その中で気になったのが、松本清張氏が次のように指摘していると紹介される部分だ。
 最高傑作と誉れ高いこの史伝は、実は、鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった原稿用紙百数十枚からなる資料・覚書をほとんど丸写しにしたもので、彼自身の創作は微塵も無い、と言った一戸務の資料報告の存在を松本清張は指摘している(『両像・森鴎外』文春文庫)。

 まだその指摘の原文を確認していないが、松本清張氏のこの指摘からは、これらの作品を小説として見ていることが明らかだ。
 しかし、「森鴎外と福島30」と「森鴎外と福島31」で整理したように、鴎外氏はこれらの伝記を小説として仕上げようとしたのではない。この作品の良さは、「渋江抽斎」像を明らかにしようと学問的に追及していることなのだろうと思うのだ。

 この散策者も、「私も(この作品を)最高傑作と考える。何故と云うに、それは鴎外がいなかったら、この史伝は世に存在しなかったからである。鴎外先生、心配御無用!!これは間違いなく後世に残る名作ですよ」と記すが、こちらに同感だ。
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by shingen1948 | 2017-02-12 09:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島31

 前回、「観潮楼閑話」を資料に、鴎外氏が「渋江抽斎(森鴎外)」や「伊藤蘭軒(森鴎外)」などの作品をどうとらえていたかを想像した。
 そこで引いた文章の前に、帝国文学復活の際に原稿を依頼された鴎外氏は、「わくしは自己が此の際文を草する適任者でない事を自ら知っている」としながら、自分の立ち位置について次のように述べている。
 わたくしは、蟄伏してゐた間に文壇の人々には忘れさられてゐる筈だ。独り文壇ばかりではない。世間の人も穴の中のわたくしを顧みる筈はない。然るに近頃聞けば、「黒潮」にわたくしを論評した数十頁の文が出たそうである。その「黒潮」は寄贈せられたが、未だ見ぬ内に人に取り去られた。翌月の同じ雑誌に赤城桁平君の駁論が出たのを見た。これは未完でであるが、その文中より前論者の何を言ったかが略窺はれる。要するにわたくしがあらゆる方面に於いて寸長の取るべきなき人物だと云ふ事を論證したのであったらしい。なんと云ふ徒労をしたものであらう。高村高太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鴎外だ」と書いたことがあるようだ。簡単で明白で痛快を極めてゐる。それ程の事を論證する為めに、数十頁を費やしたのは、何人か知らぬが、実に笑止千満である。

 ここで、自らの姿を簡単で明白で痛快を極めているとするのは「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鴎外だ」との表現。
 前後の記述内容から、自らを卑下して表現しているともとれる。しかし、自らを省みた時にそうかもしれないという思いもあったのかもしれないと客観視しているともとれる。
 凡人からすれば、軍医として最高位を極めたことに劣等感を持つなどありえないと思うのだが、学究肌の本人からすれば、極めたのは軍の最高位の権威であり、医術を極めたということではないとの思いがあったことは想像できなくもない。

 この前段があって前回整理したような伝記を学問的に追及する姿勢を示していて、小説として仕上げようとしていないことが語られているということだ。
 つまり、鴎外氏は自らを小説家としての立ち位置から、文「学者」としての立ち位置を希求していたのではないのかなと想像できると思うのだが、どうだろうか。

 なお、「観潮楼閑話」その2では、「閑話は今一つ奇なる事件を生じた」として、後日高村氏が自ら記したものでないとしてその誤解を解くために語って蟠りは無くなったことが記されている。
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by shingen1948 | 2017-02-11 09:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島30

 鴎外氏は「渋江抽斎(森鴎外)」や「伊藤蘭軒(森鴎外)」などの作品をどうとらえていたかをうかがい知ることのできる資料を見つけた。「鴎外全集26」に掲載される「観潮楼閑話」だ。
 その後書きによると、大正6年(1917)10月1日発行の雑誌「帝国文学」第23巻第10号及び大正7年1月1日第24号第1号に「森林太郎」の署名で掲載されたものとのことだ。
 「わたしは目下何事も為していない。只新聞紙に人の伝記を書いているだけである」とあるので、これ等の作品を書いている時期であることが分かる。

 この作品を「黒潮」の評論家が塚原蓼洲君の二の舞だと評した事を耳にしたとして、その反論の形で、これらの作品について、次のように述べている。
 併し、蓼洲君は小説を作った。わたくしの書くものは、如何に小説の概念を押し広めても、小説だとは云はれまい。又蓼洲君は人の既に書いた事を書いた。わたくしは人の未だ書かなかった事を書いてゐる。二者の間にはこれだけの差があるに過ぎない。併し文章にこれだけの差があれば、全く違ふと云っても差支はあるまい。
 何故に伝記を書くかと云ふに、別に廉立った理由はない。わたくしは或時ふと武鑑を集め始めた。 そして、武鑑を集めて研究した人に澁江抽斎のあることを知った。それから抽斎が啻に武鑑を集めたのみでなく、あらゆる古本を集めて研究したことを知った。それからその師友に狩谷棭斎があり、伊沢蘭軒があり、小島實素があり、森枳園があることを知った。
 わたくしは此人々の事蹟が、棭斎を除く外、殆ど世に知られてゐぬことを知った。そしてふとその伝記を書き始めたのである。わたくしは度々云った如く、此等の伝記を書くことが有用であるか、無用であるかを論ずることを好まない。只書きたくて書いてゐる。
 わたくしは先づ抽斎を公にし、次に蘭軒を公にした。その内わたくしは多くの未知の人の書状に接した。皆わたくしの書くところのものを以て無用となし、わたくしを非難するのであった。
 併し幸に新聞社が耐忍してわたくしをして稿を終らしめた。


 鴎外氏は、この伝記を小説として仕上げようとしていないことが分かる。文学好きの読者に評判が悪いというのは、小説の作品としての期待感が大きいことのあらわれだろうか。
 それに対し、これ等の作品にかかわる地域の散策情報が結構多いと感じるのは、鴎外氏の未知なることへの学問的な追及の姿勢にたいする共感なのだろうと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-02-09 15:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島29

 「渋江抽斎(森鴎外)」を読み進んでいる。
 この作品を普通に読み進んでいく中で、「日本種痘の恩人」から横糸のように紡がれる池田家宗家に出会いたいという思いだ。
 前回は、その3からその12まで鴎外氏が抽斎氏を知り確認していく経緯が語られていく辺りを整理したが、このあたりまで読み進むと、さほど読みづらさを感じなくなってくる。

 「日本種痘の恩人」から横に読んでいったときには、「渋江抽斎(森鴎外)」の作品は、その16からその20までを読んだのだが、縦から読むと、その13辺りから重なってきているように感じる。

 そのその13には、抽斎氏の師や年長の友のうち、普く(あまねく)く世に知れわたっている方の概要が記される。
 そして、その14に医学の師である「伊沢蘭軒」氏と痘科の師である「池田京水」氏が紹介される。
 「伊沢蘭軒」氏は、その13の師達と同様に、その概略が紹介されるのだが、これが、次作に繋がっている。
 それに対して、「池田京水」氏については、「日本種痘の恩人」である明の戴曼公から治痘の技術を受けた池田正直氏から池田京水氏の父独美氏までのその技術の継承の概略についても紹介される。
 そして、その15で父独美氏からその技術を継承した「池田京水」氏が紹介され、「森鴎外と福島24」で確認したように、その16で「日本種痘の恩人」から「渋江抽斎(森鴎外)」の作品に横糸のように紡がれた話とクロスしてその20まで続く。

 その後も作品を読むのに障壁となっているものは無くスムーズに読み進められるが、今回の確認はここまでにする。
 「渋江抽斎(森鴎外)」にも「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品の中に紹介される池田家宗家が紹介されていて、このことが福島市大町在住池田宗家第5世池田鑑三郎氏とつながるということの確認が、今回整理の趣旨だからだ。

 福島の地元では、「渋江抽斎(森鴎外)」や「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品を福島とのかかわりで紹介される地域資料をみない。それは、この作品が文学好きの読者から評判が悪いととかかわるのだろうか。
 しかし、他地域の散策人の中には、これらの作品に登場する探索方法を追試されたり、地域資料を元に作品の補強資料を探し出したりする情報も結構多く見かける。
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by shingen1948 | 2017-02-08 09:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島28

 その3からその12まで鴎外氏が抽斎氏を知り確認していく経緯が語られていくのだが、その過程で渋江抽斎氏の全体像が明らかになっていく。
 鴎外氏が抽斎氏を知るようになるのは、武鑑収集がかかわるようだ。

 武鑑については、その3で簡単に解説されているが、要は、徳川時代の武家にかかわる情報を収載したものらしい。いわば紳士録と履歴書とをあわせたようなものなのだとか。歴史家はそれを読み解くことによって、徳川時代に生きた人物の大まかな情報を得ることができるものだとか。

 その「古武鑑に精通している無名の人の著術が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事」などから、この抽斎と渋江とが同一人物かと思う辺りが、その4辺りまでに語られる。
 抽斎氏との出会いのきっかけのようだ。

 そこから、いろいろと尋ね歩くうちに、抽斎というのはその2で紹介された「経籍訪古志」を書いた渋江道純の号である事を知るのだが、それがその6辺りに紹介される。その7では、更に遺族の現存を知る。
 その8の墓碑の確認や、その9の抽斎の跡を継いだ子の保氏と直接対面することなどから、渋江氏の概要が明らかになるようだ。
 その10で渋江氏の血縁関係が、その11でその父が允成であることが明らかになり、その12あたりまでで、その家族構成と交友関係が明らかになる。

 このあたりまでくると、作品を読むのに障壁となっているものは無くなる。
 ただ、今後の展開にかかわる多くの人名が登場するので、これらを記憶しておくことは要求される。
 年代や年齢などは、鴎外氏独特の拘りのようなので、読者としては読み流して進んでも障壁にはならないような気がする。
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by shingen1948 | 2017-02-06 09:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島27

 「渋江抽斎(森鴎外)」その2で、 抽斎氏は躋寿館(せいしゅかん)の講師になったことが紹介される。
 作品では、躋寿館は明和2年(1765)に多紀元孝が医師の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾から出発し、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし医学館と改称規模を拡大したものであることは紹介される。
 ただ、この多紀元孝氏が幕府奥医師の漢方医であることや、次のような江戸時代の医学事情により、幕府公認の漢方医学と蘭方医学は、明治に至るまで互いにしのぎを削っていたという背景については、読者は既に知っているものと想定されているようだ。

 江戸時代、蘭方医学が追い風の中にあって、漢方を日本の医学の主流として伝統を守ってきたのが多紀氏の考証派とのこと。
 この多紀氏というのは医学界では著名な丹波康頼氏の後裔で、18世紀始めに京都から江戸に移り、幕府に仕えて姓を多紀に改めた方なのだとか。
 従って、抽斎氏が講師となった躋寿館は、漢方医学の医学館で、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として期待されたようだ。ただ、考証派の学問は科学性に欠ける為にこの医学塾は後に明治新政府に接収され、廃絶されたそうだ。
 もう一方の江戸の蘭方医達はこれに対抗する為に神田お玉ヶ池に種痘所を構え、蘭方進出の拠点にしたという。幕府は、こちらも直轄としたということだ。

 「渋江抽斎(森鴎外)」その2では、抽斎の著書も紹介される。
 その中で、「経籍訪古志」が中心に紹介される。
 これは、わが国に伝存する漢籍の古写本、古版本を解説した書とのことだ。安政3年(1856)宋・元・明や朝鮮の古版本、わが国の慶長(1596~1615)以前の古写本や古活字版などを収め、書名、巻数、所蔵者、序跋、奥書、蔵書印記などを詳細に記録していて、江戸期における書誌学最高の業績ともいうべき書なのだとか。(日本大百科全書解説より)
 共著なのに、この著者として森立之(たつゆき)(枳園(きえん)氏が紹介されることが多い。
 ここではその事情がさらりと説明されるのだが、この書が森氏と共著である事が、次の展開の伏線になっているようだ。

 ここでは、「四つの海」や「護痘要法」の著書もさらりとの紹介される。これも次の展開の伏線のようで、「四つの海」では、富士田千蔵の名で公にしたことが紹介され、「護痘要法」は抽斎が術を池田京水に受けて記述したことが紹介される。

 福島とかかわる池田家宗家の話に絞れば、その2の抽斎が術を池田京水に受けて「護痘要法」を記述したという事が、その14からその20まで池田家宗家について描くことの伏線としているということのようだということ。
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by shingen1948 | 2017-02-04 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)