地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 最近、平第一国民学校(市立平第一小学校)が被弾した時の体験談を読んだ。その手記は「市民が書いたいわきの戦争の記録~戦中・戦後を中心に(いわき地区学會出版部編集委員吉田隆治編)」<歴史春秋社>の中にあった。
 資料からは読み取れなかったことを、その手記で確かめる。
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 通史によると平空襲は3回あったとのことだ。その罹災範囲を図に示している。その図を基に地図と重ねてみる。その第二回目の平空襲罹災が、模擬原爆(パンプキン)被弾による罹災地ということになる。(平の土地勘がないので、うまく読み取っているかどうか分からないところがある)
 今までの資料では、高等科の児童が全員無事に避難したことは読み取れたが、それ以外の児童の動きは読み取れないでいた。
 手記によると、この日は、初等科の児童は臨時休業にして登校していなかったようだ。高等科の児童は登校していたが、始業前に空襲警報があった時点で、全員帰宅させたようだ。それから、職員達が避難行動に入り、その直ぐ後に被弾するという事態になったということのようだ。
 手記を書かれた方は、一徳坂の一番下の防空壕に逃げ込んだとある。地図で確認すると、この学校は高台にあるようだ。坂を下った所にある避難防空壕は、神社のある側だろうか。
 避難している中で、大きな爆音、崩れた瓦礫が飛んできた描写など生々しい。
 手記では、防空壕から戻ると校舎がなくなっていたとある。別のページにある被弾直後の学校の写真をみると、校舎は完全に吹き飛んでいるようだった。校舎直撃だったらしい事が分かる。
 その建物の位置関係を描写から拾う。
 校舎は道路に沿ってあったといい、吹き飛んだ残骸が、女学校の校庭にあったという。
 また、防空壕から戻る途中、教頭先生が、校庭で誰だか分からない状態で負傷している描写があり、校舎がなくなって女学校が見えたということだ。これらから、この校舎は西側に建っていたのかなと想像する。
 その建物の玄関で、校長先生と瓜田先生が被弾して倒れていたという状況のようだ。この手記で、市史の中の渡邉氏が、この学校の校長先生で、玄関で即死の状態だったことが分かる。周りが慌ただしくいろいろな処理に走る中、この手記を書かれた方が、中心になって校長先生を校庭の端に運ばれて見守られていたという状況であったようだ。瓜田先生は、息があったので病院に運ばれたが、ここで亡くなられたようだ。
 市史の中では、このお二人の方は、氏名が明記されている。もう一人の方は佐藤氏とあるだけだが、この方が三義先生とのことだ。併設された平盲学校の委託職員の方で、緊急に公務整理中に被弾されたという状況だったということのようだ。
 その他、山田先生が負傷で病院に運ばれ、大平先生が暫く行方不明だった等々の混乱も生々しい。
 手記では、これら混乱の中、授業再開に向けた動きも記録されている。
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by shingen1948 | 2010-10-04 06:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月26日の空襲にかかわる情報を、平地区の資料で確かめる。
 「平市史通史」では、昭和20年3月10日の平空襲に続いて、第2回目の空襲として以下のように記録される。
 昭和20年7月26日午前9時ころ、平第一国民学校(市立平第一小学校)が、B29爆撃機1機の投下した1発の爆弾(いわき市史第11巻上は1t、建設省編「戦災復興誌」は500キログラム)で完全に倒壊してしまった。校長、教師の3人が死亡、負傷者60人を出した。
 登校した高等科の生徒は避難して全員無事だった。

 そこに掲げられる「石城郡戦災史年表」では、この空襲について、「500㎏爆弾により1517戸被災、3人死亡、53人負傷」を記録する。
 更に「いわき市史第11巻」を確認すると、「揚上爆弾1屯」とあり、26日の空襲分として、この空襲による死亡者の氏名と住所が記録されている。
 ここで記録される死亡者は、渡邉寿重、佐藤―、瓜田 寿氏。(別資料で、渡邉氏が平第一国民学校の校長先生で、佐藤氏は、佐藤三義氏でこの学校の付属盲学校委託職員の先生、瓜田氏が平第一国民学校の先生らしいことが分かる。)
 空襲の記録を見直す動きの中に、犠牲者の氏名をきちんと確認する動きがあるようだ。この市史は古そうだが、そういう意味では新しい。

 この市史の別項目のところに、この時とかかわる資料があった。
 昭和23年に発効した戦争保険受領の為の「罹災証明書」だ。そこに、「1屯爆風による六間門所在住宅2棟と土蔵1棟の損害証明」との記載があった。
 地図で確認すると、六間門は平第一国民学校(市立平第一小学校)の北側だ。ここに投下された爆風によって崩れた民家が、戦争保険を受領するために「罹災証明」を受けたということだ。この資料から、直撃を受けた学校だけでなく、広範囲に渡って爆風の影響を受けた民家が崩壊していることが想像できる。
 地図を確認していると、平一小と平一中が隣り合っている。この平一中が、郡山の警報当番日誌にある女学校があったところのようだ。

 なお、平の初回空襲は、東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたという。死者12人、家屋500戸以上が炎上したとのことだ。平に投下された模擬原爆は、いずれも他所に落とす予定だったものだが、これもまた東京大空襲帰りの投下とのことだ。落とす方にとっては単なる変更だが、落とされる方にとってはたまったものではないと思う。
 そういう意味で切ないことがもう一つある。平第一国民学校に被弾した模擬原爆は、工業地帯に投下されたことになっていることだ。
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by shingen1948 | 2010-10-03 05:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下とかかわる平の空爆記録は曖昧だが、昭和20年7月26日の投下とかかわる被弾は、第2回目の平空襲として記録される事が多いようだ。
 ネット上の情報では、5トン爆弾が平第一国民学校(現平一小)に被弾し、お城山一帯が破壊されたとある。死者教員3名、家屋1500以上が破壊との情報となる。
 これが、任務№8の攻撃した目標が長岡地区照準点2箇所で、その臨機目標として、平工業地域(北緯37°04′―東経140°52′)に投下されたとするものだ。これも10/10の雲で、予定変更による投下のようだ。

 先の郡山の警報当番日誌では、次のように記録されているようだ。
 7月26日
 近頃2、3日快晴続く。敵機の行動愈々激しく、
 午前8時7分警戒警報発令を見る。
 今日も鹿島灘より本土へ進入、茨城県四目標行動中、暫くして本県南部より中部へ西部へ東部へ変転するも爆音なく9時41分解除される。
 11時44分、またまた警戒警報発令、
 今度はB24洋上を行動中との報あり。20分にして12時4分解除さるるも、
 平第一国民学校、女学校の中間へ500キロ爆弾1ケ投下され、30名からの死傷者出る。B241機小数たりとてあなどらず、B29100機たりとて恐れず、待避の時機に注意せられたし。
 27日0時6分新潟方面より侵入の敵機に警戒警報発令を見、当市北空を通過、東南方沖へ退去。0時29分解除。

 この日は、模擬原爆(パンプキン)投下にかかわって、この平に投下した攻撃目標が長岡の任務で4機、攻撃した目標が富山地区で6機が広範囲に行動している。だから、どれが、郡山上空ので描写される機と結びつくのかは分からない。
 ただ、郡山ではこの日の平第一国民学校の被弾が、その日のうちに伝わっているということが分かる。「B24が、500キロ爆弾1ケ投下し、被弾被害は30名からの死傷者出る」というもののようだ。その内容が多少違うのは、今だから言えること。感じるのは、郡山の情報把握の速さだ。
 伝達された内容で明らかに違うのは、B24が、500キロ爆弾1ケ投下ということで、これはB29が、5t爆弾1個投下ということだろうか。
 ただ、現在でもこの爆弾の重さは、権威ある資料でも、ペーパーの記録では500キロと1tの情報が混在する。
 先に整理した福島渡利に被弾したものも、ふれあい歴史館では500キロ爆弾としている。これによって、当時はこれ等を500キロと認識する共通した訳があるというヒントを得ることができる。
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by shingen1948 | 2010-10-02 09:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月20日朝に、郡山に模擬原爆(パンプキン)投下を目指し、天候の都合で大津町と平に投下地を変更した被弾状況は、把握されていないようだ。
 この日には、別の攻撃目標だった模擬原爆も平に投下されているようなのだ。合わせて2つの模擬原爆(パンプキン)が平に投下されているようだ。その任務№3は攻撃目標は長岡の工場で、2機出撃しているらしい。
 アメリカ側の情報では、その内の1機は、第1目標で津上安宅製作所(北緯30°27′55″―東経138°51′20″)に投下しているらしい。もう1機が、第2目標で東海岸の平(北緯37°03′―東経140°50′)に投下しているとのことだ。
 観察記録に「目標までの往路は6/10の低い雲、全ての目標上空に3層の雲が存在、全ての爆撃航程はレーダーによる。基地への帰路は、基地の北175マイルまでは往路より幾分か良好。そこかで8/10の低い雲に出会う。」とあるようなので、第二目標になったのは、雲がかかっていたためらしい。

 この日の2発の投下された模擬原爆(パンプキン)について、平の確実な被弾情報記録はみつからない。下高久小被弾で被害なしという情報を一つ見るが、その情報の確からしさは分からない。
 大津町の聞き取り調査が行われた報道の中で、不明の理由を海中に被弾の可能性も考えていたようだ。平でも同じような可能性が考えられそうだ。
 確かに、「たとえ山中に落ちたとしても、5tという巨大爆弾なので爆風や穴などの痕跡で分かるはず」だと思う。

 最近、この第一目標長岡で津上安宅製作所に模擬原爆を投下されたことにかかわって、長岡の方々が渡利を訪れたというニュースを見たことがある。今、このニュースはちょっと見失っている。見つけたら後でリンクしたい。
 どうでもいいことだが、この観察記録に興味深い記録がある。
 「銚子の東10マイルのあたりで、気球のように見える物体を見る。高度約18000フィート、奇妙な形をして色は銀または白色。直径40フィート」とある。
 これが、「ジェット気流が上空を通っていて、大津町は風船爆弾にも利用した」という風船爆弾だろうか。模擬原爆(パンプキン)投下とはかかわらないが、大津町も平も風船爆弾にはかかわりがあるらしい。
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by shingen1948 | 2010-10-01 05:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 模擬原爆(パンプキン)投下の情報と被害情報を照らし合わせた時、完全に重なったのは、郡山駅周辺と日東紡郡山第三工場の被弾だ。これは、「郡山市史10巻(資料下)」に掲載される「警備当番日誌」の記載とも重なる。
 重ならないのが、「7月29日の空襲、整理された情報では、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けた」とある情報の駅前周辺以外の被弾情報だ。この情報は、「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」が元になっているらしいことまでは分かった。
 この情報を確認する中で、ここでいう中島航空機会社は、「警備当番日誌」でいう「第三工場」であり、「日東紡郡山第三工場」のことであるという事も分かった。
 曖昧なままだったのが、日東紡績富久山工場被弾情報だ。
 これは、工場の発展経緯とかかわって、複雑に情報が重なっている可能性があると思えてきた。
 この日東紡績郡山第三工場がたどる発展経緯は、郡山の紡績工場の吸収統廃合経緯と複雑にからみあって、最終的に日東紡績富久山工場に整理統合されるという事になるらしい。

 郡山の紡績工業の発展経緯から空爆情報にかかわりそうな概要を整理してみる。
 スタートに地元資本の郡山絹糸紡績を考える。
 これが、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展する。その経緯の中で、いろいろ別のからみもあるようだが、結果として地元資本の大日本紡績・郡山紡績も日東紡績に吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということになるらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設するのだが、これらの工場がそこに統合されていく。こんな感じだろうか。
 その第三工場に視点を当てれば、その設立は大正8年で郡山紡績だ。大正11年には、名古屋紡績と合併してその郡山工場となり、主として綿紡を営む。第二工場は、大正13年に日東紡に合併されるが、ここは昭和12年まで不況時を乗り切って増設までも計画される。しかし、昭和12年には日東紡と合併し、その郡山第三工場となる。
 そして、それらは新設された冨久山工場に統合されていくという経緯のようだ。現在、地元では、日東紡といえばこの冨久山工場を指しているはずだと思う。
 「郡山市史10巻(資料下)」では、これらの工場の現在地や経緯が具体的に紹介されているが、他所者には、複雑な絡まりをなかなかとけない。幸いTUKA氏からお助けの情報を得たということだ。

 曖昧なまま残った日東紡績富久山工場被弾の情報は、今のところ、このこととかかわると思っている。
 「郡山の歴史(郡山市)」は、昭和59年11月に発行されている。その基に「郡山戦災史」があるとしても、この発行は昭和48年だ。この時点で、日東紡郡山第三工場は、既に日東紡績富久山工場にその機能を全て移動している。地元感覚では、日東紡績富久山工場=日東紡績になっていたと考えられる。
 それで、日東紡郡山第三工場の公式な記録も、日東紡績富久山工場に移動されたはずだと思うのだ。日東紡績富久山工場の沿革として、日東紡郡山第三工場の沿革が整理され、その中に工場の被弾情報も含まれてる。そんな状況を想像したが、どうだろうか。
 そうすると、地元の感覚で、「中島航空機会社という情報=日東紡工場という情報=日東紡郡山第三工場という情報=日東紡績富久山工場という情報」の構図が成り立つのではないかと思うのだが……。

 今のところ、7月29日の模擬爆弾(パンプキン)投下による空爆を受けたのは、駅前周辺・日東紡績郡山第三工場だと思っている。照らし合わせた情報を整理すると、先にも記したようにその詳細は次のようだったと思っている。ここは、変わらない。
 ◎ 午前8時30分警戒警報発令後、B29機が3機、高度6千mで福島県西北進し、反転して南進、その内の2機が郡山上空にて旋回する。一機は、そのまま東京方面に向かう。
 ◎ 午前9時過ぎ、駅前付近に模擬原爆(パンプキン)着弾。直撃された付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出る。線路も吹き飛ばされて、貨車も被害を受ける。
 【郡山操車場 死者34名,傷害224名】(郡山駅員10人を含む市民39人爆死の情報もある。)
 駅の火災が無かったので、警防団は死傷者の救護、搬出を優先する。重傷者は樺沢医院に運ばれる。
 ◎ 11時40分、別の1機が第3工場付近に爆弾投下する。
 【郡山軽工業 死者15名】(公式記録では、ここの被害は軽微とされているようだ。)
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by shingen1948 | 2010-09-30 05:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月29日の空襲の記録部分を、「郡山市史10巻(資料下)」で確認してきた。
 先に「『福島と戦争』~模擬原爆(パンプキン)投下⑥」で記録した内容と相違はなかった。
 また、郡山第三工場にかかわる「7月29日の空襲、整理された情報では、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けた」という情報の拠り所も確認できた。「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」と思われる。
 その内容を確認すると、中島航空機会社には、現パラマウント工場という注が入っていた。
 したがって、「郡山市史10巻(資料下)」で確認した「警備当番日誌」の「第三工場」が、当時の地域の方々の意識では「日東紡第三工場」であり、それが、実際には「中島航空機会社」の仕事をしていたとう推定の確からしさは高そうだということが分かった。
 ただ、「郡山の歴史(郡山市昭和59.11月発行)」では、日東紡富久山工場の空爆の情報も記録するのだが、この情報と結びつく情報が見つからない。曖昧なままだ。少なくとも模擬原爆(パンプキン)とのかかわりは低いと思われる。かかわるとすれば、二次的な爆風被害だろうか。それとも、別に空爆被害があったのだろうか。これも考えにくい。第509混成軍団司令部は、別部隊で連携はなさそうだが、それでも考えにくい。

 さて、任務№1の7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下は、東京中心部(北緯35°50′―東経139°46′)であり、第二目標として平「北緯37°04′―東経140°54′」であり、北茨城市の大津だ。しかし、その投下目標は郡山の工場だった。この日の郡山の状況を確認したかった。市史の中の「郡山市中町警報当番日誌」には、この日の郡山も記録されている。
 7時30分警戒警報発令。東海岸より北進中の敵機は中部に進みつつあり。敵機は、郡山付近を北進中なり
 8時 山形県警戒警報発令、新潟地区に北進中の敵機は、山形県の北部に進みつつあり。新たなるB29ニ機は鹿島灘より進入、海岸線に沿い郡山に投弾することなく、新潟洋上に北進中なり。郡山に被害なし。警戒警報解除。

 7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下情報と組み合わせて想像してみる。
 「7時30分警戒警報発令。東海岸より北進中の敵機は中部に進みつつあり。敵機は、郡山付近を北進中なり」が、任務№3の攻撃した目標長岡の工場の2機の動きではないだろうか。その内の主として記録されている8時に山形県が警戒警報発令することになった新潟地区に北進中で山形県の北部に進みつつあった敵機が、長岡の津上安宅製作所に模擬原爆(パンプキン)を投下した機ではないかと思う。時間的な順序は逆の可能性もある。長岡の津上安宅製作所に模擬原爆(パンプキン)投下が、7時55分だ。それで、8時に山形県警戒警報発令とも考えられそうだ。
 この陰に、東海岸の平に模擬原爆(パンプキン)を投下したB29があるはずだと思う。

 8時に新たなるB29ニ機は鹿島灘より進入してきたのが、任務№1の攻撃した目標郡山の工場の3機だろうか。
 海岸線に沿い郡山に投弾することなく、新潟洋上に北進して、郡山が警戒警報解除した後に、大津、東京、平に模擬原爆(パンプキン)を投下したのではないだろうか。
 ここは、まだ想像を膨らませているという段階で確からしさは弱い。
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by shingen1948 | 2010-09-29 05:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 実際に模擬原爆(パンプキン)が郡山に投下されたことと、その被害についての情報を結び付けて整理してきた。
 この他に、郡山と模擬原爆(パンプキン)投下のかかわりは、本当は郡山に投下する予定だったが、実際には別のところに投下されたというのもあるようだ。
 それが、1945年7月20日任務№1だ。攻撃した目標は郡山の工場で、3機飛び立っている。
 目標までの往路は6/10の低い雲、全ての目標上空に3層の雲が存在し、全ての爆撃航程がレーダーで行われたとある。天候の関係で、第二目標に投下したという経緯のようだ。
 このうちの、ネットの中で華やかな情報は、301号機の東京中心部(北緯35°50′―東経139°46′)投下だろうか。
 これが、皇居に向けて投下したということだ。実際には、目標が外れて呉服橋と八重洲橋中間の堀に着弾したということだ。死者1名、けがをした人62~3人といわれているらしい。ここまでは、目撃情報とのかかわりだろうか。
 情報は続く。ただ以下は、確認された情報かどうかは分からない。
 この機が、B-29「ストレートフラッシュ」で、陸軍航空隊のエリートパイロット「クロード・イーザリー」が機長だったとのことだ。この機は、広島への原子爆弾搭載機に指定されていたらしいが、この独断行為を命令違反として任務を外され、気象観測機として「エノラ・ゲイ」に随伴する事になったと言われているとのことだ。

 投下した側の記録では、他に福島県の平と北茨城市の大津にも投下されているが、この着弾情報は曖昧なようだ。
 最近、この時の大津(北緯36°50′―東経140°47′)に投下されたはずの着弾の目撃情報を求める新聞記事を見た。
 「県内の原爆投下訓練、見てませんか 研究者ら情報求める『朝日新聞(2010年7月20日)』」
 戦争遺跡の調査を手がけてきた筑波大大学院の伊藤純郎教授が「もう一つの原爆被害が茨城にもあったことを知ってほしい」と、情報提供を呼びかけたものだ。北茨城市史などの史料には全く記載がなく、大津町で投下訓練があったことが記録として残っていないという。
 そこでは、この模擬原爆(パンプキン)投下について次のように説明されていた。
 当初の目標は、原爆投下対象だった新潟を想定し、福島県郡山市の工場だった。B29は7月20日朝、郡山を目指したが、当日の天候が悪く、投下地を大津町に変更した。文書によると午前7時55分、大津町付近に投弾したとの記録がある。

 調査依頼を受けた地元の郷土史家、丹賢一さんは、
 「4.5トンという爆弾の威力であれば、山中に落ちても爆風や残った穴でわかると思う。誤って海中に投下してしまったのではないか」との推測もあるとしているようだ。大津町は風船爆弾にも利用されたジェット気流が上空を通り、爆弾投下の際に誤差が生じうるとのこと。

 伊藤教授は、この調査の意義を「大津町での投下訓練は地域の歴史から忘れ去られている。原爆投下の帰結点は広島、長崎だが、投下に向けたプロセスに目を向け、訓練があったことを歴史に位置づけなければ、全体像が見えてこない」としている。
 その記事の中、「大津町以外の投下地は、実態の解明が進んでいるところが多い」とあるが、本県の平に投下された模擬原爆(パンプキン)の着弾情報も同じような状況のような気がする。
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by shingen1948 | 2010-09-28 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 散歩は、その中で何かを見つけ、結びつく情報を見つけてドッキングさせると、新しい世界が見えてくるというのを楽しむのが本来だと思っている。それが、今回は、その情報が見つからなくて、自分で構築するはめになっている。

 その中で、福島軽工場への投下がうまくイメージできなかった。これが、郡山の紡績工業の発展経緯とかかわるらしい事までようやく推定できたのだが、ここで、「街道Web」のTUKA氏からお助けの情報が頂けた。
 これで、自信がなかった第三工場のイメージが固まり、駅東側の紡績工場とのかかわりがイメージできたような気がする。
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 郡山における昭和20年7月29日の模擬原爆(パンプキン)投下にかかわることの位置関係はこんな感じでどうだろうか。まだ推定の段階で、確実なイメージではないが、それ程外れてはいないとも思う。
 アメリカ側では、駅の東の工場群の中から模擬原爆(パンプキン)投下目標郡山軽工場のとして、この第三工場を選んだのではないかと思う。

 ここに、もう一度、模擬原爆(パンプキン)投下による被害情報を簡単に記す。
◎ 午前8時30分警戒警報発令後、B29機が3機、高度6千mで福島県西北進し、反転して南進、その内の2機が郡山上空にて旋回する。一機は、そのまま東京方面に向かう。
◎ 午前9時過ぎ、駅前付近に模擬原爆(パンプキン)着弾。直撃された付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出る。線路も吹き飛ばされて、貨車も被害を受ける。
 【郡山操車場 死者34名,傷害224名】
 駅の火災が無かったので、警防団は死傷者の救護、搬出を優先する。重傷者は樺沢医院に運ばれる。
◎ 11時40分、別の1機が第3工場付近に爆弾投下する。
 【郡山軽工業 死者15名】
 公式記録では、ここの被害は軽微とされているようだ。
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by shingen1948 | 2010-09-27 05:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 確認していく中で、目標とされた郡山軽工場の位置が、郡山の紡績工業の中心地帯らしいことが見えてきた。
 市街地の中心より西外れの位置は、発電所とのかかわりらしい。その発電所の電気利用とともに、この発電所も郡山の紡績工業の発展経緯とかかわっているということのようだ。
 その発電所は、郡山絹糸紡績が猪苗代湖の水路に発電所を作ったようだ。その地元資本の郡山絹糸紡績は、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展するようだ。その経緯の中で、地元資本の大日本紡績・郡山紡績も吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設し、これらの工場が統合されていくようだ。
 これらのめまぐるしい変遷が分からない他所者には、多様な工場の名称使用が情報の混乱と見えたということのようだ。

 その第三工場の着弾情報は、アメリカ側の情報では、最終報告書で優秀とされるのに、「被害軽微なり」しか見つからないのが気になっていた。最近【郡山軽工業 死者15名】【郡山操車場 死者34名,傷害224名】という情報をみつけ、勝手にこちらの情報が事実に近いのではないかと思っている。
 死者15名というのは単なる数値かもしれないが、その数にはそれぞれの尊い人生が対応するはずなのにとも思う。それでも、郡山は4月12日にも空襲を受けて92人が亡くなられている。このことによる感覚の麻痺と理解できなくもない。

 もう少し、昭和20年7月29日の郡山空襲の情報と照らし合わせる。警防団の活躍のページでは、郡山駅に着弾した模擬爆弾の被害とその対応状況が確認しやすい。

 警防団の活躍のページ
 7月29日(日曜日)は、午前9時過ぎ、駅前付近に爆弾が投下された。空襲警報は発令されていなかった。爆弾の直撃を受けた付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出た。
 線路が吹き飛ばされ、貨車も被害を受けた。

 ※ 「郡山戦災史」の「第一、第二各分団の活動」
 <第一分団> 本町方部。分団員50名(消防部員20名、警護部員15名、警報救護部員女子15名)
 △  7月29日の空襲=救護班を編成して郡山駅の死傷者の救護に当たる。重傷者は樺沢医院に運  ぶ。
 <第二分団> 中町、北町、柳町、大町方部。団員50名(男子のみ)
 △  7月29日の空襲=爆撃を受けた郡山駅は火災にならなかったため、消火活動より死傷者の救  護、搬出に当たった。
 (昭和20年7月29日の郡山空襲の記録部分を抜粋した)

 なお、この時に一緒の任務で中島飛行機発動機工場に投下した模擬原爆(パンプキン)は、現在の保谷市柳沢1丁目に外れて、死者3人 負傷者8人とのことだ。死者は、農家の主婦の方らしい。
 こちらでは、中島飛行機武蔵野製作所を狙った空爆が頻繁にあったようだが、その被害についての情報がきちんと整理されているようだ。ネットでも簡単に戦争の被害を知ることができる。
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by shingen1948 | 2010-09-26 05:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 4回の郡山空襲の情報の中から、7月29日にかかわる情報を検索で抜き出してみる。そのことで、模擬原爆(パンプキン)を投下された側の状況が見えてくるはずだと思う。

 7月29日の空襲、整理された情報の多くでは、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けたとある。
 これを先の任務報告書と照らし合わせると、少しずれているように感じる。模擬原爆(パンプキン)は、駅前周辺と郡山軽工場の2か所に着弾したはずなのだ。
 情報が一致するのは、駅前周辺ということだ。残りの日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近というのが、郡山軽工場に着弾という情報と重ならなければならないはずだと思う。
 具体的には、この郡山軽工場は、「市の中心から西におおよそ1500mの地点にあった福島製作所の1/5の大きさの第3工場」のはず。これが、「日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近」の情報とどうかかわるかというこだ。

 ここからは、勝手な想像だ。
 まず、富久山工場それ自体が空襲を受けたということではないのではないかと思う。また、中島航空機会社というのは、この時点では日東紡績なのではないかと思うのだ。それは、福島の場合、日東紡績半地下工場が中島航空機会社だったという。同系列の日東紡績の郡山でも同じ事情と考えても、それほどの見当違いでもないと思っている。
 つまり、市街地から西1500mの第3工場は、日東紡績の工場であり、中島航空機会社でもあるととすれば、情報が重なるのではないかと想像する。

 今のところまた聞きのままで確認していないが、7月29日の空襲について、市史には次のような記録があるという。
 <○ 昭和20年7月29日天気晴 >
  午前8時30分、警戒警報発令。
  B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回
  9時30分、郡山駅へ爆弾投下、駅内破損し、死傷者多数なり。
  同11時40分、第3工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なりしと・・
  同10時半警戒警報解除す。(記載者・鴫原専次郎)
  郡山中町第1隣組「警報当番日誌」から

 この中の、午前8時30分警戒警報発令後、「B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回」したのは、最終報告書と照らし合わせると、3機のはず。
 そのうちの一機が「9時30分に郡山駅へ模擬原爆投下」、別の1機が「11時40分、第3工場付近に爆弾投下」する。これが郡山軽工場のはず。
 そして、ここにはないが、別のもう1機は南進を続け、東京方面へ向かったと思われる。
 この機が、第二目標の東京都保谷市の中島飛行機発動機工場発祥地へ爆弾を投下する。これが少し外れて、柳沢1丁目に着弾するらしい。このアメリカ側の評価は、爆撃の結果は貧弱。それでも、死者3人、負傷者8人が記録されている。
 これに比べ、第3工場投下へのアメリカ側評価は、最終報告書で優秀とされる。それが「被害軽微なり」という情報は、少し怪しいと思う。
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by shingen1948 | 2010-09-25 05:08 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)