地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 確認していく中で、目標とされた郡山軽工場の位置が、郡山の紡績工業の中心地帯らしいことが見えてきた。
 市街地の中心より西外れの位置は、発電所とのかかわりらしい。その発電所の電気利用とともに、この発電所も郡山の紡績工業の発展経緯とかかわっているということのようだ。
 その発電所は、郡山絹糸紡績が猪苗代湖の水路に発電所を作ったようだ。その地元資本の郡山絹糸紡績は、明治45年に創設された片倉岩代製糸所に吸収され、最終的には日東紡績工場へと発展するようだ。その経緯の中で、地元資本の大日本紡績・郡山紡績も吸収される。これが日東紡第二工場・第三工場ということらしい。更に、日東紡績では、冨久山工場を新設し、これらの工場が統合されていくようだ。
 これらのめまぐるしい変遷が分からない他所者には、多様な工場の名称使用が情報の混乱と見えたということのようだ。

 その第三工場の着弾情報は、アメリカ側の情報では、最終報告書で優秀とされるのに、「被害軽微なり」しか見つからないのが気になっていた。最近【郡山軽工業 死者15名】【郡山操車場 死者34名,傷害224名】という情報をみつけ、勝手にこちらの情報が事実に近いのではないかと思っている。
 死者15名というのは単なる数値かもしれないが、その数にはそれぞれの尊い人生が対応するはずなのにとも思う。それでも、郡山は4月12日にも空襲を受けて92人が亡くなられている。このことによる感覚の麻痺と理解できなくもない。

 もう少し、昭和20年7月29日の郡山空襲の情報と照らし合わせる。警防団の活躍のページでは、郡山駅に着弾した模擬爆弾の被害とその対応状況が確認しやすい。

 警防団の活躍のページ
 7月29日(日曜日)は、午前9時過ぎ、駅前付近に爆弾が投下された。空襲警報は発令されていなかった。爆弾の直撃を受けた付近の建物は全壊数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者が出た。
 線路が吹き飛ばされ、貨車も被害を受けた。

 ※ 「郡山戦災史」の「第一、第二各分団の活動」
 <第一分団> 本町方部。分団員50名(消防部員20名、警護部員15名、警報救護部員女子15名)
 △  7月29日の空襲=救護班を編成して郡山駅の死傷者の救護に当たる。重傷者は樺沢医院に運  ぶ。
 <第二分団> 中町、北町、柳町、大町方部。団員50名(男子のみ)
 △  7月29日の空襲=爆撃を受けた郡山駅は火災にならなかったため、消火活動より死傷者の救  護、搬出に当たった。
 (昭和20年7月29日の郡山空襲の記録部分を抜粋した)

 なお、この時に一緒の任務で中島飛行機発動機工場に投下した模擬原爆(パンプキン)は、現在の保谷市柳沢1丁目に外れて、死者3人 負傷者8人とのことだ。死者は、農家の主婦の方らしい。
 こちらでは、中島飛行機武蔵野製作所を狙った空爆が頻繁にあったようだが、その被害についての情報がきちんと整理されているようだ。ネットでも簡単に戦争の被害を知ることができる。
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by shingen1948 | 2010-09-26 05:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 4回の郡山空襲の情報の中から、7月29日にかかわる情報を検索で抜き出してみる。そのことで、模擬原爆(パンプキン)を投下された側の状況が見えてくるはずだと思う。

 7月29日の空襲、整理された情報の多くでは、駅前周辺、日東紡績富久山工場、中島航空機会社付近に空爆を受けたとある。
 これを先の任務報告書と照らし合わせると、少しずれているように感じる。模擬原爆(パンプキン)は、駅前周辺と郡山軽工場の2か所に着弾したはずなのだ。
 情報が一致するのは、駅前周辺ということだ。残りの日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近というのが、郡山軽工場に着弾という情報と重ならなければならないはずだと思う。
 具体的には、この郡山軽工場は、「市の中心から西におおよそ1500mの地点にあった福島製作所の1/5の大きさの第3工場」のはず。これが、「日東紡績富久山工場と中島航空機会社付近」の情報とどうかかわるかというこだ。

 ここからは、勝手な想像だ。
 まず、富久山工場それ自体が空襲を受けたということではないのではないかと思う。また、中島航空機会社というのは、この時点では日東紡績なのではないかと思うのだ。それは、福島の場合、日東紡績半地下工場が中島航空機会社だったという。同系列の日東紡績の郡山でも同じ事情と考えても、それほどの見当違いでもないと思っている。
 つまり、市街地から西1500mの第3工場は、日東紡績の工場であり、中島航空機会社でもあるととすれば、情報が重なるのではないかと想像する。

 今のところまた聞きのままで確認していないが、7月29日の空襲について、市史には次のような記録があるという。
 <○ 昭和20年7月29日天気晴 >
  午前8時30分、警戒警報発令。
  B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回
  9時30分、郡山駅へ爆弾投下、駅内破損し、死傷者多数なり。
  同11時40分、第3工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なりしと・・
  同10時半警戒警報解除す。(記載者・鴫原専次郎)
  郡山中町第1隣組「警報当番日誌」から

 この中の、午前8時30分警戒警報発令後、「B29機高度6千mにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回」したのは、最終報告書と照らし合わせると、3機のはず。
 そのうちの一機が「9時30分に郡山駅へ模擬原爆投下」、別の1機が「11時40分、第3工場付近に爆弾投下」する。これが郡山軽工場のはず。
 そして、ここにはないが、別のもう1機は南進を続け、東京方面へ向かったと思われる。
 この機が、第二目標の東京都保谷市の中島飛行機発動機工場発祥地へ爆弾を投下する。これが少し外れて、柳沢1丁目に着弾するらしい。このアメリカ側の評価は、爆撃の結果は貧弱。それでも、死者3人、負傷者8人が記録されている。
 これに比べ、第3工場投下へのアメリカ側評価は、最終報告書で優秀とされる。それが「被害軽微なり」という情報は、少し怪しいと思う。
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by shingen1948 | 2010-09-25 05:08 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
 郡山の初空襲は1944年4月12日で、死者460名という大きな被害を受けているようだ。その後、7月29日、8月8、9日にも空襲を受けているという。
 その中から、7月29日の空襲の情報を抜き出し整理すれば、模擬原爆(パンプキン)を投下された側の状況が見えてくるはずだと思う。

 この照らし合わせとかかわる郡山のイメージにいくつか勘違いがあって、そのイメージを修正していた。その事を先に確認しておく。
 その一つが、「操車場郡山」だ。
 この操車場は、ビッグパレット近くの郡山貨物ターミナル駅だと勝手に思い込んでいた。それでも、一応確認してみると、「郡山操車場として開設され、東洋一と言 われた規模を有していた。それが独立して、郡山貨物ターミナル駅になった」とある。その後に創業にふれて、「その創業は昭和40年(1965)」とある。確認しているのは昭和20年時点だ。ここではないということだ。
 多分、この時の操車場は郡山駅付近にあったのではないかと思う。照らし合わせをしている中で感じてきたことは、市民感覚では駅が襲撃されたという事と重なるということだ。

 その7月29日の任務№11の郡山の模擬原爆(パンプキン)投下の読み取りにも、勘違いがあった。これも、照らし合わせをしている中で気がついたことだ。
 攻撃目標は、郡山軽工場、中島飛行機発動機工場、郡山鉄道操車場だ。
 先に整理したように、郡山軽工場は、今のところ具体名は推定だが、日東紡の第3工場(市の中心から西におおよそ1500mの地点にあった福島製作所の1/5の大きさの工場)、郡山鉄道操車場は、恐らく郡山駅ということでいいだろうと思う。
 ここまではいいのだが、その間に挟まれた「中島飛行機発動機工場」について勘違いしていた。

 中島飛行機発動機工場も、郡山と勝手に思ってしまっていたのだ。しかし、最終報告書の爆撃データの項目は次のようで、よく見ると違う場所だと気がついた。
 第一目標の郡山軽工場「北緯37°24′―東経140°24′」と第二目標の中島飛行機発動機工場「北緯35°41′―東経139°35′」と臨機目標郡山操作場「北緯37°24′―東経140°24′」に、目視により投下。

 中島飛行機発動機工場は第二目標で、北緯35°41′―東経139°35′ということで、東京の工場だ。
 そういう目で、敵の対空砲火の項をみると、「中島飛行機を攻撃した7297号機は、投弾後30秒から60秒たって東京で対空砲火を受けた」となっている。

 これ等の勘違いを取り除いて、7月29日の任務№11の郡山だけの模擬原爆(パンプキン)投下についてだけ整理する。
 模擬原爆(パンプキン)は、第一目標の郡山軽工場「北緯37°24′―東経140°24′」と臨機目標郡山操作場「北緯37°24′―東経140°24′」に、目視により投下される。
 この爆撃について、攻撃したアメリカ側の評価は、任務成果は優秀。

 爆撃を受けた側にとってはたまったものではないが、郡山軽工場と郡山操作場は戦果を挙げたとみたようだ。
 この時の対空砲火についても記述される。「郡山軽工場に投下した機が、郡山から機の下方1万フィートに軽い砲火を受け、貧弱」とのこと。
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by shingen1948 | 2010-09-24 05:07 | ◎ 福島と戦争 | Comments(5)
 日本製錬会社(燐生産会社)と操車場郡山については、アメリカ側では、仕事内容を把握した上で、そこをターゲットにしている。
 郡山には、模擬原爆投下の目標がもう一つある。「軽工場郡山」とのことだが、福島の軽工場と同様に、これは仕事内容は把握されていなかったと思われる。
 ③ 90.10-無番号軽工場郡山
 この工場は、市の中心から西に1マイルの位置にあるが、未確認である。しかし、その潜在能力は日本の戦力にとって重要であろう。工場は東西400フィート、南北300フィートの大きさの一つの大きな建物からできている。その南に、東の軸に沿ったいくつかの小さな長方形の建物がある。

 ここから読み取れるのは、ターゲットになった理由は、規模の大きさのようだということだ。
 その位置をイメージするのに、1マイルを換算してイメージしようとしたら、これがいろいろある。1600m~1850mまでいろいろな換算の仕方があるようだ。現在は、1500mとのことだ。
 要は、軽工場郡山のおおよその位置を確かめたいだけなので、これらの違いは許容範囲。市の中心から西におおよそ1500mの地点と見当をつける。
 これを地図に当てはめてみると、おおよそ開成山公園辺りではないかと見当をつける。そこにあった福島製作所の1/5の大きさの工場ということだが、この工場、地元の方なら直ぐ思い当たるのだろうなと思っていた。

 思考は、そこでストップしていたが、最近ちょっと思い出した事がある。
 それは、15年位前に、この辺りに来なければならない用事があった時に困ったのが駐車場だったということだ。
 当時、この辺りは公共の施設が多いのに、その割には駐車場が少なかった。それで、この辺りで会議を開くとなると、車をどこにとめるかが話題になる。その時に公園の北側の工場跡地が話題になったことを思い出したのだ。確か日東紡の工場跡地だったような気がするのだ。
 市史で「11時40分、第3工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なり」と記すことと重ね合わせると、その第3工場がその公園の北側の工場跡地に思えてきている。

 「被害軽微なり」と言うものの、確認していくと数名の死者が出ているようなのだ。そのひとりひとりに人生があると思えば、今の時代では違和感がある。そのことは、後で整理する。

 今日から、「カテゴリー」に「◎ 福島と戦争」を加え、整理しなおすことにした。
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by shingen1948 | 2010-09-23 05:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島のターゲットにされた工場について語られる事が少ないのは、実施の段階で目標を大きく外れて、渡利地区に落下したという事情があるようだ。
 同じ県内ということで、郡山の目標とされたところについても確かめておく。日本製錬会社(燐生産会社)と操車場郡山と軽工場郡山だ。
 ここでは、目標に投下されている。それでも、前の空襲について語られる陰に隠れているような気がする。それ程、それ以前の空襲の被害が大きかったのだ。
 そのため、ここでもこの模擬原爆(パンプキン)投下にかかわる目標については、確認した範囲ではあまり語られていないような気がする。ただ、その大きな被害をもたらした空襲の目標と一緒に混じり合って語られているのかもしれないとも思う。
 ① 90.10-1088 日本製錬会社(燐生産会社)
 郡山の日本製錬会社は、日本の化学工業を完全に破壊しようとする計画の優先目標リストの上で上位にある。事業は日本最大の燐の工場だと信じられる。一時生産に制限を加えられたために、生産している戦時物資の種類と量を詳細に知ることが不可能になった。

 ここでは日本最大の燐の工場と推定されていることが分かる。しかも、化学工業を破壊する計画の優先目標リスト上位だったということのようだ。
 照準点参照90.10-2025の保土谷化学工業も化学工場だ。この工場は先の空襲でもターゲットにされたようだ。2010/4/8の「毎日新聞(福島版)」で、こちらの郡山空襲が取り上げられ、この化学工場が、「4エチル鉛」の製造をしていたことがターゲット理由だろうとしているのを見た。

 日本製錬会社(燐生産会社)は、日本化学工業ではないかと思っている。今のところネットで検索している段階だが、その沿革を確かめると、大正13年(1924)に子会社として東洋電気工業(株)旧三春工場を設立して、黄燐、赤燐などの燐製品の製造を開始しているとある。昭和10年(1935)には日本化学工業(株)を合併し、郡山工場(燐製品)の工場を加えるという記事も見える。
 この会社なら、郡山駅南東で、保土谷化学工業の隣にある工場という事になる。駅の東の化学工業の工場地帯をターゲットにしたように思われる。
 ② 90.10-無番号 操車場郡山
 ほとんどすべての軍艦や商船が公海から駆逐され、効果的な機雷敷設で瀬戸内海の輸送が封鎖されたために、日本人は戦時補給の船舶輸送と同じように、輸送をほとんど全面的に鉄道にたよらなければならなくなった。そのために操車場は最近空軍の目標として重要になってきた。最も重要な操車場が、本州北部の郡山にあるものである。この操車場は、本州の北部地域と南方東京地域の間の交通を左右する。郡山の操車場は、市の東の外れに沿い、北から南へ6000フィートほどの長さがある。操車場の幅は最も広い所で300フィートある。

 操車場郡山は、東北と東京地域を結ぶ最も重要な操車場としてその目標にされたという事のようだ。郡山は、確認していくと軍都をめざしたようだが、それはこの交通の要所であったということとかかわるのだろう。

 ここまでが、アメリカ側では、この工場の仕事内容を把握していて、そのことがターゲットにされた理由であることが読み取れるところだ。
 もう一つの軽工場郡山の仕事内容は、把握されていたとは思えない。
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by shingen1948 | 2010-09-22 05:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 目標に選んだのは、アメリカ側の都合だ。迷惑な話だが、何故目標として選ばれてしまったのかという事が気になる。
 まず、福島の目標とされたところが、何故選ばれてしまったのかを確認する。

 ④ 90.10-xxⅠ6216軽工場福島
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 未確認工場、福島
 写真偵察は、この工場が日本の軍需組織を作る上で疑いもなく潜在的な力を持っている事を示した。この工場は、福島の北西隅に位置し、福島操車場の北の部分に接している。工場は北西から南東に向かう軸にそっておよそ2000フィートにわたって建てられている。北東から南西に向かっては1000フィートである。長方形をした工場敷地は、全体で150万平方フィート(14万㎡)の面積があり、主要な建物10棟を含むが、それは全面積の1/3を占めている。

 この工場の位置は、福島の北西隅で、福島操車場の北に接するという。それで、この未確認の軽工場福島は、福島製作所と考えて間違いなさそうだ。
 この工場は北西から南東に向かう軸に沿って建てられ、広い長方形をした工場敷地に、主要な建物10棟あって、建物が全体の1/3の面積ということで、駄目押しの確認ができる。
 アメリカ側では、必ずしも工場の内容を知っていたわけではなさそうだということも分かる。選ばれてしまった理由は、この工場の内容ではなく、規模の大きさと福島操車場と接しているという事のようだ。それが、軍需組織として潜在的な力を有するというのがその理由のようだ。

 ⑤ 90.9-1665 品川製作所
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 発動機工場、機体組立工場、部品工場を含めて、日本の航空機産業は戦略爆撃目標の首位に挙げられた。発動機工場と機体組立工場にはすでに相当な被害を与えたので、注意は部品工場に向けられた。この工場は鐘淵織物工場から転換したもので、ゲージや高度計を含む航空機部品を生産している。(※ 写真は「品川製作所」があった地点を示しているだけ。現在、品川製作所はここにない。)

 アメリカ側では、この工場の仕事内容を把握していて、そのことがターゲットにされた理由であることが読み取れる。
 この品川製作所は、航空機部品を生産していることが、ターゲットの理由とされたようだ。
 それまでの空襲のターゲット理由が、発動機関連工場や機体組立工場であったという事も読み取れる。それらは、叩き潰したので今度は部品工場だということから、航空機産業であることは、いずれはターゲットになるということのようだ。
 ということは、中島飛行機が、ここ福島に信夫山地下工場や日東紡半地下工場をつくって移転してきたこととかかわるということのようだ。そして、いずれはターゲットになる可能性が高かったということもいえるかもしれないとも思う。
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by shingen1948 | 2010-09-21 05:14 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島と戦争」ということで、先に整理した。その中で、福島市渡利の瑞竜寺に保存されている爆弾の破片とかかわって、これが8月6日の広島、9日の長崎の原爆投下へつながる『模擬原爆』であるという事を整理した。
 もうちょっと整理したい事が出たので、「模擬原爆(パンプキン)投下」と副題をつけて続ける。

 この『模擬原爆』は、「パンプキン」と名付けられた長崎型と同形、同重量(約5トン)の爆弾に通常の火薬を充填したものであることは、先に記した。
 そのバンプキン投下の目標設定について確認すると、原爆投下目標とのかかわりで計画されているようだ。
 原爆投下目標は、その詳細はいろいろと変遷するようだが、概括すれば、小倉地区・広島地区・京都地区・新潟地区が計画されたように見える。福島の模擬原爆(パンプキン)投下は、その中の新潟地区の原爆投下目標とのかかわりであるらしい。
 その新潟地区関係の模擬原爆(パンプキン)投下目標には、次の10地点が選定されたようだ。
(1) 郡山地区90.10:照準点参照90.10-2025保土谷化学工業
 ① 1088   日本製錬会社(燐生産会社)
 ② 無番号   操車場郡山
 ③ 無番号   軽工場郡山
(2) 福島:照準点参照90.10市街地
 ④ xxⅠ6216 軽工場福島
 ⑤ 1665   品川製作所      
(3) 長岡地区:照準点参照90.9
 ⑥ xxⅠ6271 軽工場長岡
 ⑦ 1656   津上―安宅製作所
(4) 富山地区:照準点参照90.11市街地
 ⑧ 1943   不二越製鋼 東岩瀬工場
 ⑨ 861    日満アルミニュウム会社富山
 ⑩  xxⅠ6253 日本曹達会社富山製鋼所

 福島県としては、福島と郡山の2地区で、福島が2か所、郡山が3か所ということのようだ。福島の軽工場は、福島製作所であるらしいことは確認できたが、郡山の軽工場は、今のところよく分からない。郡山市街地の西1500mにあった大きな工場ということで、地元の方なら分かるのだろうか。

 なお、これは計画の段階の目標で、実施の段階になると、別の目標が登場するようだ。
 この目標に投下できない時には、「第二目標」というものがあって、そこに投下する。その場で決める「臨機目標」などというものもある。そのため、実施の段階では、福島県関係としてはここに平地区を付け加えることになるようだ。
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by shingen1948 | 2010-09-20 05:13 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 整理していくと、訓練の一連の流れの中で原爆投下まで進んでいくというカリキュラムらしいことが分かる。導入、展開、そして、終末が原爆投下であろうか。ただ、実際には終末の段階が済んだ後も、模擬原爆は投下されているようなので、これは、これは後始末だろうか。余った爆弾を整理整頓するのに、わざわざ目標に命中させる必要もなさそうだが、ここで少なくとも33人が亡くなっているようだ。パイロットが、「より殺傷することに喜びを見出す人間」に成長したということだろうか。

 米軍資料を和訳した書物を見つけてパラパラめくり始まったところだ。
 まずは、福島の投下についての報告書を確認しようとしたら、その任務№1は、攻撃目標が郡山の工場で、実際には、第二目標で大津、東京の中心部と、そして福島県の平「北緯37°04′―東経140°54′」に落とされた「パンプキン」だった。

 目当ての報告書は、任務№2になっている。
 第一目標である福島軽工場「北緯37°45′25″―東経140°27′30″」に投下されている。もう一発は、海「北緯23°51′―東経141°36′」に投下している。
 天候は、目標までの往路は6/10の低い雲、全ての目標上空に3層の雲が存在。全ての爆撃航程はレーダーによる。基地への帰路は、基地の北175マイルまでは往路より幾分か良好。そこで8/10の低い雲に出逢う。
 気圧高度は、25000~29000フィート

 この報告書の「パンプキン」が、渡利に落下したもののようだ。

 そのページをめくっていくと、任務№8の7月26日攻撃目標長岡地が、また平とかかわっているようだ。
 4発の「パンプキン」のうちの一発が、臨機目標として平工業地帯「北緯37°04′―東経140°52′」に投下されている。なお、他は、第2目標の柏崎、臨機目標の日立青銅所と地図に示されない北緯37°東経138°あたりに投下されている。

 更に福島とかかわるものがある。任務№11の7月29日の攻撃目標郡山軽工場だ。これは、結果任務成果ありという報告のものだ。
 第一目標の郡山軽工場「北緯37°24′―東経140°24′」と第二目標の中島飛行機発動機工場「北緯35°41′―東経139°35′」と臨機目標郡山操作場「北緯37°24′―東経140°24′」に、目視により投下されたものだ。その結果、中島飛行機は貧弱だが、その他は優秀だったというのだ。
 対空砲火についても記述されるが、貧弱なものだったようだ。郡山軽工場に投下した機が、郡山から機の下方1万フィートに軽い砲火を受け、中島飛行機に投下した機が、投下後に東京で同じような砲火を受けたとのことだ。

 今回の整理で、もう一つ見えてきたのは出典だ。
 基本的な出典は「春日井の戦争を記録する会」にたどりつくようだ。信夫山の地下工場にかかわる基本的な出典が、福島東高校の歴史研究会であるのと同じように、模擬原爆にかかわる被害地域の情報の出典は、この「春日井の戦争を記録する会」の著作らしいということだ。
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by shingen1948 | 2010-09-08 05:58 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 福島の模擬原爆投下予定地を整理しておく。
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 ○ 福島製作所
 当時、軍需工場としては、戦車キャタピラ等を製造していたという。「福島市史」の中では、兵器(火砲)としている。民需生産としては、鉄道車両部品としている。
 付近は工場地帯で、東北本線から奥羽線が分岐するそのすぐ南側の地点。
 この工場の北側には、福島操作場があった。汗・エネルギッシュに働くといったテーマの絵画や写真の素材としてぴったりの場所だったが、現在はない。
 福島製作所は現在も同じ場所にあるが、航空写真にプロットされたものをみると、この工場の道沿いあたりには、女子医専校舎があったようだ。これは医師不足を解消するため、昭和18年に作られたとの解説がつく。

 歴史に「もしも」というのは禁句らしいが、素人はどうしても「もしも」と考えてしまう。
 導入段階では、通常の9倍の重さの爆弾であることを考えれば、一機のエンジントラブルは、起こりえるだろう。「もしも」と付けてみたいのは、もう一機の爆弾投下についてだ。
 もしも、この日に福島が晴れていたら、模擬原爆投下は、目視で行われたはず。そうすれば、8時半ごろ福島製作所近くには投下されていただろうと思われるということだ。
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 ○ 品川製作所
 航空写真では現在は盲学校のこの地点にプロットされる。当時、軍需工場としては、飛行機の精密機器を製造していたという。「福島市史」では、航空部品とし、疎開してきた工場としている。
 付近は、平和時なら文教地域だろうか。向かいは現福島高校、旧福島中学校だ。当時は、信夫山地下工場掘削作業員の飯場の一つ。その北西に、現美術館、旧福島経専、後福大経済学部だ。当時は、信夫山地下工場本部があった。当然、信夫山には、 信夫山地下工場山根第一工場、信夫山地下工場山根第二工場、信夫山地下工場金龍工場があった。この地点の南には、福島第四国民学校。

 ここでの「もしも」というのは、もしも福島への模擬原爆投下が、カリキュラムの終末に近い段階に計画されていたらどうなったかということだ。
 二機のB29がトラブルなく飛んできただろうということだ。そして、躊躇することなく、8時30分頃、4.5tの模擬原爆を見事に福島製作所と品川製作所の2か所の工場近くに命中させたのではないだろうか。
 模擬原爆投下は、「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」+「充分な殺傷」を目的としていたと思われる。予定通りに事が進めば、福島市街地の西端に2発の4.5tの爆弾が投下され、渡利の被害状況から推測すると、その被害は半径2㎞に及んだはずだ。
 道義的な名目で目標を軍事工場に置きながら、充分な殺傷も確実に実行できたはず。
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by shingen1948 | 2010-09-07 05:14 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 ちょっとはみ出したことによって見えてきたのは、「意欲を持って原爆投下ができるパイロットを養成するカリキュラム」だ。なかなかそういう風に言いきれなかったのは、勝手な想像だという思いがあったからだ。
 家人と話していたら、数年前にNHK「その時歴史は動いた」でこの模擬原爆について放送されていたのをみたという。話を聞いたら、自分の感覚が、それほど大きくずれてはいないようだということが分かる。読み取り違いもあるかも知れないが、聞いた話と思ったことを合わせてみる。

 重すぎる模擬原発は、効率が悪かったらしいが、その効率というのは、殺した人数などとかかった費用の比で計算するらしい。
 この模擬原爆での死亡は約420人、負傷者が約1200人。これとかかる費用の比を計算すると、効率が悪かったという事のようだ。かかる経費は一定だろうから、もっと多くの被害を計算していたということのようだ。
 多分、大義の為に目標を軍事工場などに設定はしているが、本音は殺傷能力の発揮ということだ。それは、カリキュラムの上からも重要な事のようなのだ。パイロットは、この戦禍によって少しずつ意識が高揚され、モチベーションが上がっていくというふうに設計されているように思う。
 日本人の持つ学力観では、このカリキュラムにおける育成能力は技能と知識しか見えない。然し、育成する能力の中核をなすのは「意欲を持って原爆投下ができるパイロットの意識」のようだ。
 カリキュラム上からも、もっと多くの市民を殺傷することによって、これが育成されていくことを想定していたと思うのだ。

 普通の良心ある人間から、上昇する数値を見せていくうちに、感性的なことがそぎ落とされ、やがてより殺傷することに喜びを見出す人間に育っていく。そして、このことが日常であり、当たり前の感覚になっていくということが、戦争の恐ろしさの一つではないのだろうか。
 渡利への模擬原爆投下は、訓練という教育を通してそういう人間に改変していくカリキュラムの導入である課題把握の段階の出来事だったと思われる。

 渡利の被害と共に、4.5tの爆弾だったこと、目標が福島製作所と品川製作所だったということを整理しておくことが大切なのだと、勝手に思う。
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by shingen1948 | 2010-09-06 05:13 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)