地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 今思えば、ここまでの物語に接触するチャンスは何度もあった。それを逃しているのだ。
 まずは、高校時代、中田浜の艇庫と「学而 (がくじ) 会館」を折り返し点に行われている「中田浜強歩大会」には当然参加している。その事自体が一つのチャンスだった。
 しかし、自分はN先生とのかかわりで、小学校6年生の時分、中田浜の合宿所に連れていてもらった記憶があるのだ。それはボート仕舞とのかかりの筈なのだ。つまり、中田浜の艇庫にボート仕舞の行事にも参加した上で「中田浜強歩大会」に参加しているのだ。多分、他の人にはないこの経験があったのだが、この事については「山中毅さんの訃報に接して④」でふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23720067/

 他に、もう一つのチャンスもあったのだ。
 この「会高通史」の表紙を見て思い出したのが、この冊子、自分にも配布されているのだ。
 この冊子は、昭和40年に会津高校の火災からの復興期成の記念誌として発刊されたものだったのだ。発行者は会津高等学校復興期成同盟会で、会津高校の全生徒にも配布されていたのだ。
 目は通しているはずだが、心に留まらなかったということだ。
 ちなみに、N先生、「落成祝賀運営役割名簿」の会場係の一員として名前が挙がっていた。

 その「会高通史」から、「魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをする」若者の様子の描写も拾ってみる。

 〇 生徒の幹部はモンタの二階に泊まり、それ以外は艇庫の二階に雑魚寝。飯は自分達で炊いて、味噌汁と漬物はモンタに頼んだのだとか(後には完全自炊だが味噌汁はなく、おかずは生味噌だったとも)。
 〇 食事は一斉に食べ始めるが、スピード8杯の猛者がいたので、後にはアルミの食器に均等に盛ることになった。
 〇 洗面入浴は湖水で、便所なし。
 〇 着る者にも頓着なしで、フンドシだけは皆しているが、シャツも着ない者、シャツだけ着る者。裸足の者、鉢巻の者、首にてぬぐいを巻いている者等々……。

 服装は罹災者のようであり、乱暴者のように見えるが、漕艇は計画的で厳しかったという。自然をナメてかかるような事はなく、慎重だったともある。
 それでも、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記される。
 上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
 それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。

 宿に来たのは夜9時頃だったとか。
 心配していた先生方に大喝を食らいながらも、モンタに飯炊きを頼んでもらったとか。
 キャップテンは、バツとして一人でその飯を運ばされたということだ。
 小林先生は、自転車にご飯をつけて暗い湖畔道ぐるっと廻ったのだから、夕飯は夜中だったろうと想像している。
 この大目玉覚悟で指導者の前で背を丸めて小さくなりながらも夕飯を頼むキャプテンと上記のような指導者の対応の信頼関係を元にした絶妙なやり取りがほほえましく描かれる。

 現在の会津高校端艇部は、全国的な活躍を中心に紹介される。優秀な競技スポーツとしてのボート部としての紹介だ。
 中田浜の「学而 (がくじ) 会館」についても、「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」と競技成績の結果とのかかわりで紹介される。
 自分が、会津高校端艇部が昭和26年に荻野ダム県営漕艇場に乗り出したことと中田浜の「学而 (がくじ) 会館」とのかかわりがよくつかめなかったのは、そのためだ。
 小林先生いわく、こちらは「全国的なスポーツ熱に促され」たことであり、この競技スポーツと長谷川信氏が熱中した会津高校端艇部の戸ノ口伝統とは別物ととらえているようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-02 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 戸の口艇庫からの帰りは、徒歩で下駄を踏み鳴らしながら滝沢峠を徒歩で下って家路につくのだが、その途中に強清水の茶屋で一休みするというのが楽しみだったようだ。

 その戸の口艇庫跡には立ち寄らなかったが、強清水の茶屋での一休みはしている。
 ただ、「戸ノ口艇庫から徒歩で家路につく途中に一休みする強清水の茶屋」というイメージを持って意図的に立ち寄ったということではない。
 昼時でもあったので、何時もそうするように、ここで蕎麦を食べたというだけだ。
 昔は饅頭の揚げ物もおいしく食べたが、最近はニシンの天ぷらとイカの天ぷらが付いてくる蕎麦のセットで注文することが多い。ここのイカの天ぷらというのは、実際にはスルメの天ぷらだ。昔は、このセットメニューに饅頭の天ぷらも入っていたような気がする。
a0087378_9472974.jpg これはその茶屋から撮った強清水だ。蕎麦を食べていたら、何かの撮影隊がここを取材していた様子を何となく撮った写真だ。

 言い方をかえれば、強清水の茶屋での一休みはいつもの日常的なことでしかないのだが、今回は、そこに隠れていた今まで知らない物語を感じているということだ。しかも、自分にはその物語に接触するチャンスは多々あったのに、である。

 さて、「伝統の戸ノ口精神」とかかわる小林先生の描写を拾ってみる。
 氏は「伝統の戸ノ口精神」を培うのは、猪苗代湖の感化力だろうとする。
 「先輩諸兄が、戸ノ口の教育力を口にされるが、ボートを漕いだことと共に、それ以上にあの風景景観に大きな感化を受けたのだろう」とする。
 その風景景観感化力にかかわる描写を拾う。
 「オールを揃えて漕ぎ出せば(自分では漕げないので威張って乗せてもらって)翁島を横に見過ごし、長浜の上空に聳える磐梯山を仰ぐ時のあの壮大神厳な感激。暁の霧をついてガボッガボッと朝漕ぎに出れば、文字通り鏡の如き湖面を伝わって遥か遠い船上の声が手近に聞こえ、胡麻粒のように見える鴨の群れがパタパタと姿を大きくして森に向かって虚空を横切るあの静寂。空と山と水の織り成す大いなるものに包まれて営まれるいと些かな人間同志の信頼親睦協同の業の魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをするのだろう」

 「魅力に惹かれて、性懲りもなく戸ノ口通いをする」若者の様子の描写も拾ってみる。
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by shingen1948 | 2017-09-01 09:48 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏はボートに夢中になるのだが、それは小林先生が「伝統の戸ノ口精神」と称したこととかかわるのだろうと思う。

 その「伝統の戸ノ口精神」を引き継いでいるとされる会津高校の学校行事は3年に一度行われる伝統の中田浜強歩大会だ。
 全校生徒参加で、学校から背炙山を経由して昭和32年 (1957)に「中田浜」にできた 「学而会館」会館を折返してまた学校に戻るというコースを歩くことになっている。実際には走り通す強者もいる。

 先に「山中毅さんの訃報に接して⑤」で記したように、この行事に参加しているのだが、正直に言えば、これがどんな「伝統」と繋がっているのかは分かっていなかったように思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23726418/

 まずは、「会高通史」から、猪苗代湖の戸ノ口で行われていたという学校行事を拾う。

 昭和16年の夏から戦争が激しくなるまで、毎年3年生が組ごとに1泊2日の海洋訓練を行っていたとある。
 また、戦後の昭和24年には、小石ケ浜の水上運動会復活し、部員がまた通うようになったともある。

 この「小石ケ浜の水上運動会」が、中田浜強歩大会の原点のような気がする。
 この大会は、明治の頃から行われていたようなのだ。「明治のころ」の「水上大会の思い出」として、その様子が次のような事が記される。美文調の表現から、その概要を読み取ってみる。

 会場となるのは、小石浜の岸辺のようだ。
 「あの縹渺(ひょうびょう)とした小石浜の岸辺に卓が据えられる」とのことで、ここに大会本部設置かな。
 午前中は2年生、3年生の競艇で、午後から呼び物の上級生5年生、4年生の選手競艇になるらしい。
 その競艇は、満舩飾りを施された2つの艇で行われるようだ。タイム係がいるようなので、タイムレースでもあるようだ。
 応援の艇も出るようだ。
 二つの艇とは別に、これまた満舩飾りを施した艤装艇が出て、ここに音楽隊が乗るのだとか。この音楽隊が、応援の雰囲気を盛り上げるようなのだ。

 そのコースはここでは解説されないが、長浜での折り返しだろうかと想像する。
 というのは、「昭和のころ」の日常の練習時の普通のコースが長浜辺りまでとあり、翁島を横に見過ごし、長浜の上空に聳える磐梯山仰ぐ壮大な感激が描かれている。練習ではたまに小平潟から上戸まで遠漕することもあったようだが、お決まりのコースは長浜なのだろうと思われる。

 競艇が終わると、戸の口艇庫で選手の慰労会が行われ、夜道を家路につくのだとか。
 その帰りの途中に、強清水の茶屋で一休みして、ニシンの天ぷらと饅頭の揚げ物などを食って英気を養い、下駄を踏み鳴らしながら滝沢峠を下るというのが思い出なのだとか。

 その小石ケ浜の水上運動会は復活したものの、先に記したように、昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せなくなっていたということだ。
 これが、会津高等学校が、猪苗代湖とかかわるのは、中田浜に艇庫と「学而 (がくじ) 会館」が建てられるようになるきっかけでもある。

 現在の「中田浜強歩大会」がこの「水上運動会」の伝統を受け継いでいるのだとすると、「水上運動会」そのものが抜けてしまっているわけで、餡を抜いてしまった強清水饅頭のようだなとも思わないわけでもない。時代だろうし、進学校だもの、そうも言ってられないかというふうにも思う。
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by shingen1948 | 2017-08-31 09:27 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の長谷川信氏にかかわる「戸ノ口にまつわる悲話一つ」で締めくくるその前に、モンタ婆さんが紹介されている。
 信氏が同志社に入学するが直ぐに帰郷してしまって、「ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」時に、このモンタ婆さんに世話になっていろいろな話をしていたようだ。墓碑の土地の物色にも骨を折られた方でもある。
 情報を拾っておく。

 このモンタ婆さんには昭和26年の創立60周年記念式典に感謝状を渡すはずだったが、病気で欠席なされたのだそうだ。それで、感謝状を届けたそうだが、その際に、着物を着がえて、養子夫婦と一緒に並んで受け取ったとのことだ。
 小林先生は、これをその律義さと捉える。このモンタ婆さんは、元気で語気は荒かったそうだが、生徒思いで親切だったようでもあったという。
 そのエピソードとして、生徒が無断で艇庫に電灯をつけたのを東電社員に見つかって脅された時の婆さんの駆け引きと胆力は頼もしい姿を描写する。

 情報として気になるのは、ここに「養子夫婦」とあることだ。旦那さんはいなかったという情報とも重なる。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」だが、明治の頃の「とら婆さん」と同一人物なら、「婆さんはケチケチしていて、娘夫婦はのんびりしていた」ということで、生徒に厳しかったようだが、事が起これば生徒側に立つ愛情深い方だったことが分かる。
 また、「明治の頃」で娘夫婦とされるのが、「昭和のころ」で養子夫婦とされる方と重なるのだろうか。
 なお、モンタ婆さんは、豆腐作りの名人でもあり、その豆腐は堅豆腐でとてもおいしかったそうだ。強清水にも卸していたのだそうだ。
 
 そのモンタ婆さんは、昭和30年8月に「戸ノ口ボートの滅亡に殉ずるがごとく永眠した」とのことだ。

 「会高通史」では、その「戸ノ口ボートの滅亡」については、次のように表現される。
 「戦後昭和24年、小石ケ浜の水上運動会復活とともに、また部員が通うようになりはしたが、船も思うように使えず、生徒も思うように使えず、生徒もレクリェーション気分が濃厚で、伝統の戸ノ口精神は色あせた。全国的なスポーツ熱にうながされて会高端艇部も、戸ノ口に見切りをつけて、昭和26年には荻野ダムの県営漕艇場に乗り出した」

 「戸ノ口に見切りをつけ」るきっかけとなる水深低下と共に気になるのが、色あせたという「伝統の戸ノ口精神」と、荻野ダムの県営漕艇場に乗り出すことを「全国的なスポーツ熱にうながされて」と表現していることだ。

 信氏とのかかわりで見れば、次に「伝統の戸ノ口精神」を読み取っておくべきだろうかと思う。
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by shingen1948 | 2017-08-30 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「戸ノ口にまつわる悲話一つ」に、「暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た」とある。当時の状況を知る方にとっては、この表現で、特攻隊員が艦に突入前に許された最後の帰省であることが直ぐに分かるようだ。
 この最後の帰省については、先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23831534/

 主として「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」で紹介された情報によった。以下に再掲する。
 
 「信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
 両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという」

 この整理時点では、この情報源は地元ならではのものだろうと想像した。主として「会高通史」だろうと思っていたところだった。
 しかし、今回、その「会高通史」を確認してみると、こちらに紹介される内容より詳しいことが分かる。

 「上官に取り上げられた『歎異抄』の代わりの本を所望された」とした情報は、「会高通史」では「最後まで読書と思索を廃さなかった青年将校に乞われるままに数冊を贈って夜半分かれた」と記される。
 また、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、父啓治氏がこの夜は枕を並べて寝たという情報は通史にも記されるが、信氏が去った後の母シゲさんの行動については全く記されていない。

 今のところ、この情報の元になっているのは「明治学院百年史」にしかたどりつけない。綿密な地元取材を行ったことは確認できるし、当時、小林先生や情報通の菩提寺のご住職が御健在だったことも確認できる。その取材情報だろうと推測する。
 信氏の最後の状況も「会高通史」より「明治学院百年史」の方が詳しい。同じ隊の生き残りの方の取材によることが記されている。

 最近、「Web東京荏原都市物語資料館」で、最後の帰省が許される頃の信氏の所属部隊の様子やそこから信氏の最後の状況に至る経緯も明らかになってきているようだ。こちらは、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報から深められたようで、近々、その冊子が出版されるとのことだ。

 照らし合わせてみたいのは、信氏の最後の帰省以降、小林先生に届いた便りと足取りのかかわりだ。
 「会高通史」には「国内の基地を飛び継いで1週間後の決行になる」とあり、その間に「2、3回心境をしたためた葉書が送られてきて、太刀洗からの便りが最後だった」とある。
 最初の便りは、恐らく長野県松本の浅間温泉富貴湯旅館に向かう途中、或は旅館について直ぐであろうことが想像できる。そして、二通目の便りは想像が難しいが、三通目の最後の便りが、福岡の「太刀洗」とのことだ。
 確認を進めると、ここには北飛行場があって、ここから終戦前の5月25日に重爆特攻隊が出撃していたという。
 この情報とどうつながるのかなということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-29 09:10 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「戸ノ口にまつわる悲話一つ」として長谷川信碑が紹介されるのだが、信氏については、次のように紹介されている。
 「若松市中本六日町小国屋の息子、長谷川信君、生来無口の瞑想型、4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた。
 暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た。満州で特攻隊に編入され不日沖縄地区の敵艦に突入するため別れに来たと」

 先に信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に整理した事があった。その情報を箇条書きにして重ねるとこんな感じのようだ。

 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 この「昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷する」あたりと、「4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」というあたりの情報が重なる。
この進路の迷いを重ねてみたことで、本当に「我が青春と対決して想いを深めていた」んだなということがよく分かる。

 この情報は、更に、モンタ婆さんがよくいっていたという次の情報とも重なる。
 「『信ちゃんが一人で来ては泊まっていくのだけれど、俺は戸ノ口だけが好きだ。いつか死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたいなんていうので可哀そうになってしまう。本当にどういうわけなのだろう』と。戦死となってそれを思い出し、遺骨はないが生前の願いなので家族やモンタ婆さん達と土地を物色したが、湖水のよく見えない平地の畑中に碑を建てることになって残念で気の毒である」

 「死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたい」というのは、彼の日記にも記されているとのことだったはずでもある。本当に戸ノ口が好だったんだなと思う。
 信氏の好きな戸ノ口の思いがかなり強いようなので、碑が建ったのは湖水が見えないところだとしても、十分に戸ノ口を感じているのではないかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-25 17:51 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「第三章 昭和になって」の項を担当したのが、信氏の時代のボート部顧問小林貞治氏のようだ。
 特に記名はないが、昭和になっての「はじめに」に自己紹介されている内容と執筆者紹介に「明治42年(1924)生:相馬女子高校長(元会津高校教諭)昭和5年~32年」との紹介との矛盾がない。

 その「六 戸ノ口とモンタ婆さん」の項で、会津中学ボート部顧問になる事情とボート部の様子が記されて、その項の最後に「戸ノ口にまつわる悲話一つ」との書き出しで、長谷川信氏のことにふれてまとめとしている。

 その最後の最後は、「私の妻は小学校時代の信君の受け持ちだった。本当は妻に別れを告げにきたらしい」ということで、「彼女信君の戦没を悼む」として、次のように〆られる。

 垂乳根(たらちね)の生ましし命光なして空にかえりぬ汝が生まれし日に
 戦いは止みぬといふに与那国の海ゆ還り給はず
 若き命傾け尽くし与那国の海に君は眠るか

 小林先生の奥様敏子さんは信氏を偲んで短歌集「湖畔の碑」10首を詠んでいて、それが短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されている。
 まずは、その事にかかわる次の2首の紹介を見つけ整理している。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 次に、別の資料で次の一首の紹介を見つけて付け加えた。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」

 更に、しばらくして気になっていた以下の残りの7首も確認できた。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる

 今回確かめている「会高通史」に寄せられているのはそれとは別で、「戸ノ口にまつわる悲話一つ」にかかわる彼女の「信君の戦没を悼む」思いを新たに寄せたようだ。
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by shingen1948 | 2017-08-24 16:58 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏は、会津中学に入るとボートに熱中するようだ。
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。

 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
a0087378_9154435.jpg 「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。

 ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
 この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
 これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
 野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
 明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。

 この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
 毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。

 ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-23 09:17 | Comments(2)
 これは、十六橋から猪苗代湖側を眺めた風景だ。
a0087378_13505975.jpg 正面の水路奥に見える橋が金の橋だと思う。
 「会高通史」に「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」にかかわって、次のように紹介される「昭和18年に十六橋反対側にできた新水路」とあるその水路だろうか。

 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」とある。

 その「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」は、この写真では右手西の影になっている日橋川本流の奥にあったようだ。街道筋としては、「街道Web」の「二本松裏街道戸ノ口→強清水」で、「向戸ノ口」と紹介される集落だ。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/08.htm
 ここには湖上水運の船宿が二軒あったそうで、大変賑わっていたのだそうだ。

 この事と、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」がここに設置された事とがかかわっているのだろうと想像する。
 また、ボート部合宿の世話とこの二軒の船宿の情報もつながっているような気がする。
 「会高通史」によれば、ボート部顧問の小林氏が宿泊したのは、定宿「〇コ」五十嵐宅とのことだ。また、ボート部の宿泊の世話をしてくれたのが、「モンタ婆さん」とのことだが、この方の本名は、古川トラさんのようなので、「モンタ」は屋号なのかもしれないとも思う。

 位置的には、定宿「〇コ」が「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」の西向い、「モンタ」が艇庫の道を挟んだ南西側のお宅だろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-22 13:52 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
 先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として、資料をもとに長谷川信氏について確認している。この時に、会津に出かける時には、ぜひ長谷川信碑を訪ねてみたいものだと思っていた。

 今回、家族と一緒に会津若松市に出かけることになったので、向かう途中に立ち寄ろうと思った。家族には、出かける前にその概要を説明し、立ち寄りたい旨を話しておいた。

 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 今回は街道筋の散策ではないので、国道49号線を進んで日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入った。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開けてきて、その先に何かの記念碑が見える。
 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。恐らく、現在は戸口集落へ向かう主要な道筋はこちらなのだろうと思われる。
 その道筋を右折してやや進むと「長谷川信碑」が左手に見える。
a0087378_6455478.jpg

 長谷川信 碑 
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事
 だろうだがたった一つ出来る涙を
 流して祈る事だそれが国泰かれか
 親安かれか知らない祈ることなのだ
  大正十一年      会津若松市に生まれ
       四月十二日
  昭和二十年       沖縄南方上空に散る

 先にも記したように、最後の日付の表記は、4月12日が彼の生まれた日であり、そして亡くなった日でもあることを表現している。
 家人は誕生日と亡くなった日が同じことを示す最後の碑文に驚いていた。

 この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 先の整理では、当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地らしいとしたが、そうではないらしい。当初から湖が見える所には建てることができなかったらしい。ただ、彼の思い出の地近くにこの碑を建てることができたということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-08-21 06:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)