地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で、地元ならではの情報として妹の件での誤りは先に記した。
 確認しておくと、「妹が満州医大進学希望だった」というのは読み取りの誤りであり、満州医大進学希望は信氏自身だったことだ。このことについては、「会津の『わたつみのこえ』を聞く④」で訂正したところだ。

 もう一つ、地元ならではの情報としたのことがあった。
 幼馴染みの少女の動向だ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これも地元ならではの情報としていたところだ。

 この部分の「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の紹介を確認しておく。
 前段で、なぜ明治学院を選んだかについては諸説あるとした上で、決定的な理由は彼のいう贖罪としての奉仕の場を明治学院高等部社会事業科に見出したことだとする。
 その上で、諸説について次のように解説する。
 諸説は満州医大を諸般の事情により断念、東京の叔父の養女となった妹が東京の学校に入学したこと、彼と小学校の同級だった女性Fへの思い(これは友人たちにも知られるほどになっていた)、この女性が東京の学校に進学していたことも理由の一つとして忘れてはなるまい。
 この中の「女性Fへの思い」というのが、いろいろ確認していくと、週刊誌ネタだったのではないのか思えて来たところだ。
 日記の原本がないので、その週刊誌の掲げる情報と照らし合わせ、それまでの東京での生活を嫌がっていた信氏が明治学院を選んだ理由の一つになっているとした「明治学院百年史」の記述の紹介だったのかもしれないと思えてきたところだ。
 少なくとも、地元ならではの情報というのは違う可能性が高いので、訂正しておく。

 「女性Fへの思い」についての情報の質についてだが、週刊誌ネタの視点ではあっても日記の表現を精査した上での事であり、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」がいうように、これも一つの成果と見るべきだろうと思う。

 それとの関りで、日記喪失の遺憾な事をもう一つ掲げたい。
 近年「Web東京荏原都市物語資料館」では、出陣の直前に松本の朝倉温泉で学童疎開の児童と武揚隊とが交流したことが分かったらしい。日記の原本、特に出陣近くの辺りの記述を確かめ、長谷川信氏の心情を考察したいところなのではないかと想像する。
 前回は日記喪失についての基本的な遺憾なことを二つ掲げたところだが、今後は事実が判明した時に、こういったことについて日記の記述を確かめるという精査ができなくなったということも遺憾な事だと思う。
 これを三つ目の遺憾な事として整理しておきたい。
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by shingen1948 | 2017-05-12 09:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」では、第4節「軍隊生活における長谷川信の日記」を中心に、その日記の記述の後ろに(S)と(K)のどちらかの記号が付されている。
 最初は気づかなかったのだが、これが「きけわだつみのこえ」で紹介された記述については(K)の符号を付し、「週刊現代」で紹介された記述については(S)の符号が付されて、それの再録であることが記される。それが分かるのは、この冊子の最後に付された各章別注の第6章注3の記載だ。
 いろいろな資料を元にして日記の全体を確認しているということと読み取ればそれまでだが、驚くべきは、原点となる日記に辿り着けないその理由だ。その注には以下のように記される。

  長谷川の日記が、現在行方不明となっていることは遺憾なことである。日記は、戦後彼の両親の 手許にあり、両親の没後は長兄が保管していたが、週刊現代誌に貸し出したあと所在がわからない とのことである。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」に、昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されている。この時に日記は、週刊現代誌に貸し出したままになっているという風に読み取れるということだ。

 「明治学院百年史」によれば、「松本を発進した「武揚隊」の特攻隊は、空襲を避けながら本土各地の基地づたいに移動し、桜の満開の新田原飛行場(宮崎県)に到着、ここで全員最後の身辺整理をすることになった」とある。
 信氏もこの時にこれまで肌身離さずにいた日記を最後の手紙とともに、故郷の両親宛てに投函したという。
 つまりは、遺憾なことは「明治学院百年史」がいうように借りたものが返されていないにとどまらないということだ。この日記は、信氏の両親に宛てた遺書の意味も含まれているということだ。
 ところが、「週刊現代」誌側にとっては、その重みはなく、単なる取材の材料でしかなかったという感覚だったと想像できるということも遺憾なことだと思うのだ。

 自分とはかかわりない事であり、関係者は大人の対応でそのことにはふれないようにしていることではあるようだが、本当にそれでいいのかなという思いもある。
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by shingen1948 | 2017-05-11 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、長谷川信氏と浅野恒氏の関係を「予科士官学校の親友浅野恒」というふうに表現するが、長谷川信氏は予科士官学校の経歴はない。
 その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
 明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。

 会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
 「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
 その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
 まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
 その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
 この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。

 この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
 しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。
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by shingen1948 | 2017-05-10 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 世田谷区立東大原小学校同窓会報(平成24年度号)の「学童疎開のころ」の再疎開にかかわる情報で、気になったのはその期日だ。
 昭和19年3月には、浅間温泉も食糧難で再疎開することになり天竜川流域の伊那地方、飯田市の手前の村々へ移ったという情報だ。
 浅間温泉では10か所に分散していたようだが、伊那では5つの村に分かれたという。伊那では食料だけでなく、風呂でも苦労したという。当然普通のお風呂なので、1週間に1度くらいしか入れなくなったという。

 代沢国民学校と「武剋隊」とのかかわりも、東大原国民学校と「武揚隊」とのかかわりも、昭和20年3月頃らしいと思われるのに、この頃には再疎開されているという情報になってしまう。
 その証言内容をよく読んでみると、証言者は学校事務関係者になられた経緯のある方のようだ。ならば、年度で期間を捉えていたのではないかと推定すれば、辻褄があいそうだ。
 つまり、再疎開は、昭和19年3月ではなくて、昭和19年度の3月末という認識だったのではないかという推測だ。
 これなら、昭和20年3月に特攻隊員と交流した疎開児童たちは、その月末には再疎開という事になったということだろうと思うのだ。

 さて、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の返却期間が迫っている。
 こちらに紹介される事の確認を先にしたい。
 その一つは、「明治学院百年史」も、世田谷の疎開児童との交流にしても、と号第31飛行隊の長谷川信少尉が気にかけられるようになるのは、彼の日記が「きけわだつみのこえ」に掲載されているというのが一つの理由になっているのだが、そこに浅野恒という方がかかわっている事が紹介される。このことについて先に確認しておきたい。
 この方は長谷川信氏の親友で、職業軍人になって終戦を迎え、無事帰郷できたとのことだ。故郷に戻って、信氏の学徒出陣特攻死を知って大きな衝撃を受けたという。
 その浅野氏が、昭和23年戦没学徒兵の遺稿募集を知り、信氏の日記を写し取って応募して、「きけわだつみのこえ」に収められることになったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-09 13:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「世田谷ボランティアセンター」のページの「セボネ8月号特集『世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い~戦争体験を聴く会、語る会より~』」と題した記事があり、その中の「特攻隊の若者の思いを聴く」という項が、昨日まで整理している疎開児童秋元佳子さん証言とかかわることだと思われる。
 http://blog.canpan.info/setabora-vc/monthly/201508/1

 昭和20年3月の数日間、世田谷の疎開児童たちと出会った特攻隊(武揚隊)の若者15人が、出撃の前日の壮行会に「別れの歌」を東大原小学校の100数十名の女子の前で歌を披露したとのことだ。
 この歌詞とメロディーを記憶していた疎開児童が秋元佳子さんだと紹介されている。その歌詞を引かせていただく。

  1.広い飛行場に黄昏れ迫る
    今日の飛行も無事済んで
    塵にまみれた飛行服脱げば
    かわいい皆さんのお人形

  2.明日はお発ちか松本飛行場
    さあッと飛び立つ我が愛機
    かわいいみなさんの人形乗せて
    わたしゃ行きます◯◯へ

  3.世界平和が来ましたならば
    いとしなつかし日の本へ
    帰りゃまっさき浅間をめがけ
    わたしゃ行きます富貴の湯へ

 その歌詞を見れば、その解説にもあるように、都会のかわいい女の子たちが心をこめてつくったお人形を飛行機に乗せて、沖縄に「死ぬために」向かうとある。この特攻隊(武揚隊)の若者15人には、当然長谷川信氏も含まれる。
 信氏の飛行機にも、このお人形が乗っていたということだ。

 そして、宿の人は、訪ねて来た信氏の母親にこの出撃の前日の壮行会の様子は伝えた可能性は高いのだと思う。
 「結局会うことは叶わず」という会津の情報からは、結局無駄足だったというニュアンスが感じられる。その前の秘密の情報を聞き出したことと共に、やってはいけない行動の結果としての表現のように読み取れるのだ。
 しかし、実際には、建前の世界を超えた母親としての本音の行動は、「結局会うことは叶わなかったものの、その代わりに宿の方から疎開児童との交流の話や、壮行会の様子の話など、ここでの生き様にかかわる生活の様子などの情報を得て帰っていった」ということではなかったのかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-05-08 09:29 | Comments(0)
 信氏の母親シゲさんが基地を訪ねたことについて、「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」では次のように整理している。
 母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという。

 実は、参考にした「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」も「明治学院百年史」も、宿の人の話は、次のようだったとの紹介になっている。
 結局会うことは叶わず、泊まった宿の人から「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も、彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という話を聞いたとのことである。
 まだ確認はしていないが、その情報源は「会高通史」であろうと思われる。
 昭和40年に刊行されたこの冊子に、信氏の恩師小林貞治氏が、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」という一文があって、信氏の思い出と湖畔の碑の由来が記されているということだ。

 今までの「Web東京荏原都市物語資料館」の情報確認から見えてくるのは、信氏が疎開児童と優しく接していたらしいということだ。
 この情報と照らし合わせると、「彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という部分から、母親にはそのことが伝わっていたらしいことが分かる。
 遊び相手が近所の子になっているのは、ここに疎開児童がいることを知らない会津の方々の聞き違いと想像する。

 この話の引用に抵抗があるのは、「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も」という前ふりの部分だ。
 次の記事の疎開児童秋元佳子さんの証言部分と照らし合わせてみる。

 「ヤマモトさんという方が隊長でした。下の学年の子が、遊んでくれるものと思って、『勉強なんかしないで遊ぼうよ』と寄って行ったら、『こんな非常時にとんでもないことを言う』といってその子に平手打ちを食わせたことがありましたね。」
 武揚隊の山本薫中尉である。子どもたちに情が移るからあまり親しくするなと長谷川少尉には言っていたようだ。
 「山本さんは、隊長らしく武骨な人で、ごつごつした身体つきをしていました。長谷川さんには、優しい雰囲気がありましたね。なまりがなかったですね。海老根さんは、ズーズー弁でした」

 疎開児童の証言からは他の隊員の前ふりの部分が事実とは思えない。
 想像するに、これは会津の地域を意識する表現者が、信氏が疎開児童と優しく接していたという部分と対比した強調の効果を狙ったものではないのかなと想像する。
 地域の狭い範囲での情報としては、地域にとって中心となる事柄にだけ目が行くだけなので問題はないが、他の地域の情報と照らし合わせる場合は、それでは済まされない場合もあるのではないのかなと思うのだ。
 少なくとも、そうであったのかどうかの確認をとる必要はありそうに思えたということだ。

 ただ、母親は実際に宿で話を聞いているのだから、他の隊員の様子も含めてその生き様をきちんと感じとっていたのだろうことは想像に難くない。

 以下は、疎開児童秋元佳子さんの次の証言部分だ。

 「この写真を見て思い出したことがあるんですよ。ほら、飛行機の操縦士というのは首に白いマフラーを巻いているでしょう。いつでしたか、長谷川さんが部屋に来られたときにそれを巻いているんですよ。その隅っこの方に赤い糸が見えたので見せてもらうと、『長谷川』と刺繍がしてあったんですよ。『母親が縫ってくれたんだ』と恥ずかしそうに言っていましたね……長谷川さんがわたしたちの部屋にこられるときはどてら姿でしたね。それでも一度ですが、飛行服を着たままで来られたときがありましたね。いつもとは違って見違えるようでした。」

 このマフラーの隅に赤い糸で「長谷川」と刺繍してもらったのは、最後の帰省の時だったのだろうかなどと勝手に想像する。

 不思議なもので、写真を見ていると、だんだんに思い出されくるものがあります。よく遊んでもらいましたよ。桜ヶ丘の川が凍っているところへ行って、スケートをしました。わたしたちはゲタを履いて、長谷川さんは軍靴を掃いておられましたね。ああ、そういえば、そうそう、こんなことがありました……

 母親は宿の人の話から、こんな疎開児童の証言に近い雰囲気を正しく感じ取っていたのではないのかなと想像する。
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by shingen1948 | 2017-05-07 10:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 極秘の部分もあって松本飛行場と浅間温泉が特攻の出撃基地となっていたことは、あまり知られていないという。
 しかし、ここは沖縄決戦に備えた後方支援基地となっていたようで、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという状況が読み取れる。
 そして、ここ浅間温泉では、その疎開児童と特攻隊員の間には、哀しくも温かい人間の交流があった事ということのようだ。当然、こちらもあまり知られていなかったということだ。
 地域を散策する者としては、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記にあるように、心に刻んでおきたい事である。

 「Web東京荏原都市物語資料館」から、信氏の所属する「武揚隊」の浅間温泉での情報を探す。 「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」で整理したように、昭和20年3月初旬、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、母母シゲさんは、基地まで後を追っている。結局、会うことはできずに宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たということだった。
 その時に宿の方が話されたことや母親が感じた宿の空気感のようなものを探りたい気がするのだ。

 「下北沢X新聞(1668)~武揚隊、一特攻兵士の行方再び4~」という明治学院を訪ねる記事の中に、疎開児童から聞いた「ハセガワ」と「きけわだつみのこえの武揚隊長谷川信少尉が同じ方かを確かめる部分がある。この辺りの記事に、浅間温泉での武揚隊の特攻隊員と疎開児童との交流が分かる情報がちりばめられる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51700705.html

 まず、「松本浅間温泉の富貴の湯に特攻隊、武揚隊は宿泊していた。往事、ここには東大原国民学校の学童が疎開している。その一人から「ハセガワ」という隊員のことを聞いていた。彼は子どもたちには深い印象を残していた」とある。
 次に、この疎開児童に「わだつみのこえ記念館」の長谷川信氏の写真を送って確かめることが記されるが、その疎開児童を「疎開学童だった秋元さん」と表現しいる。

 秋元さんの話はメモに基づいてまとめたものであると断りながら、次のように記される。

 「わたしたちは、旅館の二階の小部屋にいました。みなとても懐いていました。当時、国民学校五年生、みんな子どもですよね。だけど人によってませていたり、そうでなかったりってあるでしょう。この写真が来てから思い出すことがあったのですよ。Sさんという方で確かこの長谷川さんの写真を持っていたはずですよ。それで電話をかけたんですよ。経堂に住んでおられて前に行ったこともあります。そしたら、今取り込み中だと言われたんですよ。病院に入っていて危ないみたいなことを言っておられましたね…」
 「このSさんという人、長谷川さんを好きだったんですよ。前に言っておられましたね。長谷川さんが初恋の人だっていうことを……」

 次の記事では、疎開児童は秋元佳子さんになっている。
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by shingen1948 | 2017-05-06 09:21 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 地域資料では、参考の資料を眺める時に、確認したい事を視点に眺めるものだから、紹介された時にはあたかもそれが中心的に描かれていたというふうな表記になりがちだ。
 多分、自分の表記もそうなのだろうが、なかなか他人の視点を持ち込めないので気づきにくい。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記で、疎開児童とのふれあいについて紹介する部分で気になったのが、以下の学童の疎開先の紹介部分だ。
 学童は東京世田谷の代沢国民学校5.6年の生徒、疎開先は信州松本の浅間温泉旅館「富貴の湯」。この浅間温泉富貴の湯に特攻隊「武剋隊」と「武揚隊」が宿泊していた。

 確かに信氏の所属する「武揚隊」の宿泊先は、「明治学院百年史」に浅間温泉「富貴湯」旅館と表記されている事と一致する。しかし、もう一方の「武剋隊」の宿泊先は、「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせると浅間温泉「千代の湯」と読み取れるような気がするのだ。
 しかも、代沢国民学校5.6年の生徒の疎開先は浅間温泉のいろいろな旅館に分宿していたという状況があるのだが、この交流があきらかになるきっかけとなる柳内先生の宿泊先は浅間温泉「千代の湯」だと読み取れるのだ。
 つまりは、「鉛筆部隊と特攻隊」で紹介される子供達と特攻隊員の交流の話の中心は、恐らく「武剋隊」の方が主なのではないかと想像されるのだ。
 両隊とも同じような状況なので、そこで描かれる状況自体は信氏の所属する「武揚隊」にも当てはまるという事なのだとは思うが、「鉛筆部隊と特攻隊」で描かれる中心素材としては、「武剋隊」なのだと思われるという事だ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記には「戦争の平和展『特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ』【松本市立博物館主催】」も紹介される。
 ここでは、「武揚隊」の遺墨、最後の言葉、証言や遺品などが展示され、長谷川信の遺墨遺品も展示されたことが記される。

 「松本市立博物館ニュース(№187 2013/7/1)」を確かめると、松本に滞在した特攻隊の紹介と松本で学んだ特攻隊員を紹介するとし、更に、学徒動員によって製作された兵器の紹介もあるとする。
 その中の1コーナーに「武揚隊」の展示物もあり、その中には長谷川信氏の遺墨遺品も展示されるということのようだ。
 また、「特攻隊の最後」では、知覧特攻平和会館の協力で沖縄戦が中心となるため、武剋隊の全体像は紹介されるのだが、武揚隊については長谷部良平伍長が知覧飛行場から出撃したことは紹介されるが、他は「4月22日に、山本薫隊長以下6名は5月13日から19日にかけて台湾の八塊飛行場から出撃し、沖縄周辺の洋上で亡くなっています」としか紹介されていない。

 その中から、長谷川信氏とかかわりの強い情報を抜き取って紹介されているということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-05 10:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項に「長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごす」事情部分が次のように紹介される。
 松本に来た特攻隊は、満州の新京(現吉林省長春)で編成された隊で武剋隊と武揚隊で、特攻機の爆装改修のためだった。特攻機というのは、戦闘機に250キロの爆弾を吊り下げるための機体の改造を要した。この爆装改造を空襲を避けて山間の松本飛行場で行った。

 長谷川信氏が所属する誠31飛行隊(武揚隊)は、ここで「武揚隊」と紹介される。情報を確認していくと「と号三十一飛行隊」と紹介される場合もある。

 「ラジオ深夜便(2013年7月号)」は目にすることができないでいるので、この紹介部分も「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」からの引用なのかどうかは分からない。
 「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせてみる。

 「大本営が師団に配置した特攻は11隊で、昭和20年2月10日に満州新京で第2航空軍のもとで編成された特攻はそのうちの4隊とのことだ。
 信氏が所属した「と号」第三十一飛行隊が武揚隊、「と号」第三十二飛行隊が武剋隊、「と号」第三十九飛行隊が蒼龍隊、「と号」第四十一飛行隊が扶揺隊で、これ等は中央指令の直轄隊とのことだ。
 配属され際に、扶揺隊は奉天飛行場で特攻機用の爆装に改造したが、他の3隊は岐阜の航空廠で実施しようとしたが、岐阜ではできなかったという。それで陸軍松本飛行場に飛来してきたということだ。
 先に整理した満州国皇帝溥儀にも謁見し、華々しい見送りを受けて飛び立ってきたというのは、この日本への飛来の時ということになるようだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項には、「空襲を避けて山間の松本飛行場で爆装改造」とあるが、こちらの資料によると、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという。というのは、ここが、沖縄決戦に備えて後方支援基地となっていたためだとのことだ。
 ただ、普通は10日前後で出撃してしまうので、滞在が短く児童達の記憶には記憶に残りづらかったという。ところが、武剋隊と武揚隊は、長く当地に滞在したので交流も深くなり児童達の記憶に残ったのだろうという事のようだ。

 武剋隊と武揚隊が、長く当地に滞在することになった理由を探すと、この沖縄決戦の切迫に伴う爆装の増強計画がかかわるように読み取れる。
 爆装増強の為に、その分だけ機体を軽くすることになり、部品を取り去ったり、削ったりする。当然運動特性が変わるので、そのつど操縦士は試運転をするという事を繰り返していたのではないかとの想像のようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-04 09:55 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、「きけわだつみのこえ」の長谷川信氏を紹介した後、付記の項を加え「ラジオ深夜便(2013年7月号)」の「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」と松本市立博物館の戦争と平和展「特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ」にふれる。

 唐突な話の転換に戸惑ったのは、当方が最近の話題に疎かったからだ。
 福島地区では原発事故で奪われた日常で心に余裕がなかった時期、会津地区では「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」の話に信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)がかかわっていることが話題になっていたらしいのだ。

 今回は、そこを繋いでおきたい。

 前回は、信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)は、昭和20年2月10日に第5航空師団司令部の所在する新京において編成されたことについて整理した。
 「明治学院百年史」を確認すると、この隊のその後の動向が次のように記される。
 誠31飛行隊(武揚隊)は、新京で身辺整理などに1週間を過ごした後、待命のために一度本土に戻ることになり、2月下旬には長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごした。信たちが宿泊したのは浅間温泉「富貴湯」旅館であった。
 先に記した信氏の最後の帰郷は、この待機の期間中の事だったが、今回の話題は、この「長野県松本で約40日過ごした」時期に、疎開児童達との交流があったことが最近知られるようになった事とのかかわりのようなのだ。
 それは、ここでいう「疎開児童の見た特攻隊」のきむらけんさんが丹念に調べて分かったということのようなのだ。
 実は、今回会津の「わたつみのこえ」を聞いてみようと思ったきっかけの一つは「Web東京荏原都市物語資料館」サイトにふれた事なのだが、確認していったらこのサイトがそのきむらけんさんがその運営にかかわっているということが分かったのだ。
 この話題は、詳しくは「鉛筆隊と特攻隊(きむらけん)」に整理されているようだが、とりあえずはこのサイトからその情報を拾わせていただくことにする。
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by shingen1948 | 2017-05-02 09:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)