地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、「きけわだつみのこえ」の長谷川信氏を紹介した後、付記の項を加え「ラジオ深夜便(2013年7月号)」の「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」と松本市立博物館の戦争と平和展「特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ」にふれる。

 唐突な話の転換に戸惑ったのは、当方が最近の話題に疎かったからだ。
 福島地区では原発事故で奪われた日常で心に余裕がなかった時期、会津地区では「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」の話に信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)がかかわっていることが話題になっていたらしいのだ。

 今回は、そこを繋いでおきたい。

 前回は、信氏の所属する特攻隊誠31飛行隊(武揚隊)は、昭和20年2月10日に第5航空師団司令部の所在する新京において編成されたことについて整理した。
 「明治学院百年史」を確認すると、この隊のその後の動向が次のように記される。
 誠31飛行隊(武揚隊)は、新京で身辺整理などに1週間を過ごした後、待命のために一度本土に戻ることになり、2月下旬には長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごした。信たちが宿泊したのは浅間温泉「富貴湯」旅館であった。
 先に記した信氏の最後の帰郷は、この待機の期間中の事だったが、今回の話題は、この「長野県松本で約40日過ごした」時期に、疎開児童達との交流があったことが最近知られるようになった事とのかかわりのようなのだ。
 それは、ここでいう「疎開児童の見た特攻隊」のきむらけんさんが丹念に調べて分かったということのようなのだ。
 実は、今回会津の「わたつみのこえ」を聞いてみようと思ったきっかけの一つは「Web東京荏原都市物語資料館」サイトにふれた事なのだが、確認していったらこのサイトがそのきむらけんさんがその運営にかかわっているということが分かったのだ。
 この話題は、詳しくは「鉛筆隊と特攻隊(きむらけん)」に整理されているようだが、とりあえずはこのサイトからその情報を拾わせていただくことにする。
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by shingen1948 | 2017-05-02 09:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 先に略歴で示したように、信氏は昭和19年7月31日付けで「満州」の第101教育飛行団第23教育飛行隊に移されて訓練を重ね、昭和20年2月初旬特別攻撃隊の命令を受けることになる。
 その時に編成された隊が、陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)ということだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、「明治学院百年史」を資料として、陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の編成について次のように紹介する。
 昭和20年2月1日付、中村敏男を含め将校2人、30人の特操見習士官の中から力石、長谷川の2人、教育飛行隊長山本薫中尉、少年飛行兵4人、整備担当伍長1人の計10人が特攻隊員としての命令を受けた。
 10日第5航空師団司令部の所在する新京において別に選ばれた6人と合流、山本中尉を隊長とする誠31飛行隊(武揚隊)が編成された。
 長谷川信は力石と共に同日付で少尉に昇進した。
 「明治学院百年史」では、この昭和20年2月1日付で10人が特攻隊員としての命令を受ける時に、現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法使用の実際が紹介されている。
 その前提には、先にも示したように第23教育飛行隊は、地上の目標を急降下爆撃する軽爆撃機の操縦者を養成するためのものものであり、特攻隊員の補給源とされるのは必然であったということがある。
 (そういう状況下で、)昭和20年1月末に、漸く一人前の操縦者としての技倆を身につけた隊員たちが集められ、「栄誉ある」特攻隊員を募る旨の示達があり、志願者は〇印、志願しないものは×印を記した紙を提出するように命じられた。
 信を含めて全員が〇印を記入したことは、おそらく間違いあるまい。


 その後、選に洩れた者が上官に自分に代えてほしいと詰め寄る雰囲気だったことや力石氏の証言も挙げる。しかし、それがなくても、実際には全員が志願せざるを得ない強い心理的な圧力が作用していたことを想像するのに難くない。

 力石氏と長谷川氏の2人は、その希望する30人の特操見習士官の中から選ばれて特攻隊員となったという形式で、特別攻撃隊の命令を受けたということだ。
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by shingen1948 | 2017-05-01 09:50 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「Web東京荏原都市物語資料館」によれば、本土では、(特攻という) 人の命の犠牲を前提とした作戦を天皇の名において実施するのはまずいと考え、現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法を使ったという。
 従って日本本土では皇室は関わらせなかったとのことだ。

 ところが、実際に編成を請け負った第二航空師団というのは、関東軍傘下にあった。
 それで、昭和20年2月10日に、「関東軍、第二航空軍主催の編成及出陣式並びに特攻四隊の全員が出席して盛大な壮行会を開催」された際に、関東軍の采配によって満州国皇帝謁見も行われたのではないかということだ。
 その謁見のときの印象の記録として、「憧れた空の果てに(菅井薫)【鳥影社】」からの引用として以下の事が紹介される。
 一際長身の体躯を軍礼装に包んだ満州国皇帝の溥儀皇帝閣下に拝謁の光栄を賜る。すでに委細承知の上での拝謁、陛下の御目に潤いのあるのを認められた。感激も新たに宮内府を後にした。
 
 その謁見の裏付けとなるのが「恩賜の煙草を包んだ黄色い布」とその証言で、これが最近見つかったとのことだ。
 新京で特攻隊四隊の編成及集結完了時に満州国皇帝に拝謁をして記帳した時に、恩賜品として下賜されたのが恩賜の煙草で、それを包んでいたのがその黄色い布ということのようだ。

 現場の指揮官が特攻志願者の意志を尊重してそれを活用するという便法の実際については、「明治学院百年史」に詳しく記される。
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by shingen1948 | 2017-04-30 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏は、「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑥」で示したように、明治学院から学業なかばにして「学徒出陣」し、「特攻隊員」となって戦死をとげる。
 その「学徒出陣」と「特攻隊員」については、何となく分かっているような気になっているところもあるが、その概略を確認する。そして、そこに「学徒出陣」後の略歴情報を重ねてみる。

 まずは学徒出陣だが、第二次世界大戦終盤の昭和18年(1943)に兵力不足を補うため、それまで兵役免除とされていた高騰教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させたこととのことだ。
 その年の10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催、陸海軍省等の後援「出陣学徒壮行会」が実施される。
 その壮行会が終えると、学生は徴兵検査を受けて12月に陸海軍へ入営することになる。その入営時に、幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったという。

 次に特攻隊だが、こちらは、生還の見込みが低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする攻撃を行う攻撃隊のこと。
 その特攻隊員は、主に現役士官/将校と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていたとのことだ。
 信氏が所属した陸軍の場合、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校の卒業生と下士官からの昇進者(少尉候補者)で構成されていたとのこと。
 また、予備役士官は、主に特別操縦見習士官出身者から構成されていたという。
 下士官は陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となったとのことだ。

 「明治学院百年史」では、長谷川信氏の陸軍入隊後の動向について、その岐路での選択判断について考察しているが、そこから略歴情報を拾ってみる。
 
 学徒出陣することになった信氏は、10月27日に故郷で徴兵検査を受けて、甲種合格となり、12月1日に陸軍へ入隊する。
 陸軍に入った信氏は、幹部候補生試験を経て特別操縦見習士官(第2期)に合格する。そして、昭和19年2月から熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける(約六か月)。

 昭和19年7月31日付けで「満州」の第101教育飛行団第23教育飛行隊に移される。
 この隊は、地上の目標を急降下爆撃する軽爆撃機の操縦者を養成するためのものものであり、特攻隊員の補給源とされたとのことだ。

 ここで訓練を重ねて、昭和20年2月初旬特別攻撃隊の命令を受けることになる。
 2月10日少尉任官し、その日に編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。
 この隊は、台湾の第8飛行師団に配属されることになるのだが、信氏は、4月12日早朝、その台湾への移動中に戦死を遂げる。

 この略歴を眺めるだけでも、信氏が「特攻隊員」となって戦死をとげることになる道筋が見えているような気がする。
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by shingen1948 | 2017-04-29 09:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」は、自分にとっては衝撃的であり、状況を客観視できなくなっている。
 明治学院の戦時下の歴史を振り返り、個人名を挙げて負の歴史を清算することまでは、その状況についていける。
 戦後になって過去を振り返ってみれば、批判された方にとっても時代に流されてしまった行為について反省することも多々あるだろう。それを、明確にしておくべきだという主張は受け入れやすいだろうとも思う。

 自分にとって衝撃的だったのは、以下の戦後責任の告白部分のようだ。
 しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。
 明治学院の理事者、明治学院の「建学の精神」を保持する主体者としての理事会の中の一人である田上穣治氏が、公権力の「英霊」参拝を積極的に推奨してきたのです。それは、戦時下に富田氏らが犯していた誤りと全く同種の罪―死者を神ととしてあがめる「偶像崇拝」という、「聖書」に自己啓示されている私どもの主なる神が最も忌み嫌うその罪―が、明治学院との関係において戦後も引き継がれてきていた証左の一つなのです。

 恐らく、批判される方は、戦争責任を告白し清算するその当時の指導者にとって、よく知る諸先輩に当たる方々であるはずで、その指導を直接的に受けていたかもしれない状況下での告白ということでもあると思うのだ。
 そこまでの決意を感じるのだ。

 そして、自分にとって衝撃的だったこの告白は、戦時下で出征せざるを得なかった長谷川信氏の苦悩と「天皇の国」からの内面的自立の気概を持った生き方との対峙から導き出されているように思われることだ。

 とりあえず、「明治学院百年史」の第6章だけでは感じなかったこの決意が背景にあることを理解したとして先に進むことにする。
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by shingen1948 | 2017-04-28 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院大学の戦争責任への取り組みと平和教育をめぐって」によれば、「明治学院百年史」は、95年に明治学院としての戦争協力について清算する試みの一つとして位置づけられたとのことだ。
 「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」という負の歴史の清算と共に、明治学院の中に別の志を貫いた学生がいた事を記憶にとどめるべきだということで、「明治学院百年史」の第6章で長谷川信氏が取り上げられたということのようだ。
 その趣旨の一つは、長谷川信氏の文章はいろんな人がいろんなところで引用するように、非常に はっきりした戦争や軍隊に対する批判というものが描かれていること。
 そしてもう一つが、その長谷川信という人は、明治学院の校風というものを非常に喜んでいたということだ。
 これを、明治学院側から見れば、こういう人を教育していた、あるいは生み出したという側面があるということになるということだ。
 その一方で、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという明治学院の非常に痛ましい経験でもあるということでもある。
 この学徒兵を取り上げることによって、こういった事をある程度伝えられるのではないかと判断したということのようだ。

 負の歴史の清算である「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」の方を確かめる。
 こちらは、明治学院学院長中山弘正名で、戦争責任を個人名まで挙げて「悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません」として告白する。かなり厳しい。
 そして、「そうした状況下で、侵略戦争に加担させられ、学徒兵として出陣していった多くの当時の学生たちのことを想うと、教師として、学院長として深い悲しみを覚えざるを得ないのです。また、朝鮮・台湾などからの学生たちをも含みつつ多くの若者を戦地に送った当時の教師たちの苦悩の深さに思いを馳せる次第です」と結ぶ。

 戦争責任の告白は、ここで終わらない。
 敗戦後の指導者たちの戦後責任についても、次のように告白され、謝罪される。ここでも、個人名と具体的な誤りが記される。
 少なくとも、「敗戦」という主の審判が下ったところで学院指導者たちのなされるべきだったのではないでしょうか。
 しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。

 そして、この謝罪すべきことと対比する形で長谷川信氏が、次のように紹介される。
 とはいえ、敗戦五〇周年の今日、明治学院の戦時下の歴史を振り返って、長谷川信氏のような良心的な学生がいたことに私どもは希望の光を見出します。出征せざるを得なかった長谷川氏の苦悩と、「天皇の国」から内面的自立の気概とは、イエス・キリストのみに土台を据えた明治学院の今後の歩みへの指針を示唆していると思われます。私は、彼のような生き方を貫こうとして悩んだ学生が少なくなかったのだと信じたいです。
 二十一世紀を展望し、建学の精神を再確認しつつ、前進しようとする明治学院は、富田・矢野両氏らのとった「広い路」ではなく、当時学生であった長谷川氏の「狭い路」をこそたどらねばならないでありましょう。

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by shingen1948 | 2017-04-26 18:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」は、第5章の「昭和前期の明治学院」までは、明治学院の創世記からの時代区分で整理されている。
 それが、第6章からは以下のように、社会状況と学校とのかかわりについて整理されるように構成されている。学校が戦争とどうかかわったかという視点で整理されていることが分かる。
 
 第6章「学徒出陣と明治学院」
 第7章「戦後の明治学院」
 第8章「高度成長期の明治学院」
 第9章「明治学院教育の現況」

 そして、その第6章「学徒出陣と明治学院」は、以下のように、40ページにわたって、全て学徒兵長谷川信氏個人にかかわる内容で構成されている。

 その第1節が、「学徒出陣―学徒兵・長谷川信」
 その第2節が、「長谷川信の精神的遍歴」
 その第3節が、「明治学院時代の長谷川信」
 その第4節が、「軍隊生活における長谷川信の日記」

 その第1節「学徒出陣―学徒兵・長谷川信」は、次のように締められる。

 戦争の時代に学院の門をくぐり、学業なかばにして銃をとり、特攻隊員となって戦死をとげた長谷川信の短い一生は、そのまま学院百年の歴史の中の最も痛ましい一ページをなすものである。以下、そのようなかれの人生の歩みの跡をやや詳しくたどってみることにする。


 そして、その第4節「軍隊生活における長谷川信の日記」を次のように締めくくる。

 みずから肯定することができなかった戦争のために、その命をすてざるをえなかった。それは、単に長谷川信ひとりの悲劇ではなく、学院に学び、そして戦場に臨み、死をよぎなくされたすべての者に共通の悲劇であった。この悲劇を二度と繰り返すべきでないことはいうまでもない。と同時に、この悲劇を抜きにして明治学院百年史を論ずることはできないのである。

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by shingen1948 | 2017-04-25 09:46 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回整理したように、地元ならではの情報の源は「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」であることが分かった。
 それが分かる前、隊に戻る前夜に訪ねたという会津中学校の恩師小林貞治氏の情報の確認を試みている。どんな方なのかという事と共に、何となくこの方が地元の情報とかかわっていそうな気がしたのだ。
 目的からすれば没情報だが、それも整理しておくことにしたのは、その経歴から長谷川信氏とかかわった時代の年代が分かり、その付き合い方の雰囲気が想像しやすいと思ったからだ。

「会津中学」、「英語教師」をキーワードに検索すると、自叙伝「風と雪と」という自叙伝の著者に「小林貞治」の名がみつかった。
 その経歴を確認すると、次のような経歴だ。

 明治42年(1909)栃木県生まれ
 中学卒まで群馬県で過ごす。
 在京3年。
 昭和5年(1930)秋会津中学校に奉職
 昭和32年~34年喜多方高校勤務
 昭和35年から棚倉、須賀川、相馬、会津女子高校長勤務
 昭和46年会津女子高等学校長退職
 杏林高校、専攻科講師、城南スクール講師
 昭和59年自叙伝発刊当時、専修学校城南スクール講師

 城南スクールのページを確認すると、その創業者の「会津高時の恩師で英語の小林貞治先生に三顧の礼でおいでいただきました」という言葉が見つかる。これで、会津高校の英語の先生であった方であることの確認ができた。
 この方が、長谷川信氏が訪ねた方と重なるのだろうと想像する。

 昭和5年会津中学奉職は21歳かな。これを基準に長谷川信氏の経歴と重ねてみる。
 
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)4月は、小林先生は26歳だ。長谷川信氏が会津中学在籍中は20代後半の若さだったということが分かる。
 信氏が訪ねて来たのが昭和20年(1945)だから、36歳の頃だ。
 「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」が昭和40年(1965)だから、56歳で相馬高校校長時代だろうか。
 夫人の「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが、昭和43年(1968)だから59歳頃で、会津女子高等学校校長時代かな。

 なお、この自叙伝「風と雪と」は、会津図書館に所蔵されていることは確認できたが、目次の検索の限りでは、長谷川信氏とのかかわりが記載された様子はなさそうに思う。
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by shingen1948 | 2017-04-24 09:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」から、地元ならではの情報として整理したものは、「明治学院百年史」にも同じ情報があることが分かった。
 その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
 それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。

 当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
 信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
 信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
 ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。

 なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる
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by shingen1948 | 2017-04-23 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日整理の進学先を変える情報は、どちらかと言えば建前の理由付けの部分だ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
 その一つが、妹の事情との関りだ。
 妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
 もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。

 地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
 2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。

 信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。

 別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
 そのうちの2首が紹介されている。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」
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by shingen1948 | 2017-04-22 09:54 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)