地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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a0087378_9152170.jpg 十六橋水門を日橋側から眺めている。
 現在は、洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだが、この時にはわずかに流失させているように見える。この前の長寿台風の停滞による長雨とのかかわりがあるのかな。
 堤防で囲われた流域が日橋川本流で、その手前一門が旧布藤堰取水門で、日橋川本流の奥の2門が旧戸ノ口堰取水門だったということなのだろうと思う。

 今まで、この十六橋水門については、安積疎水にかかわる情報と共に流れる見え方をもとに整理している。しかし、猪苗代湖という自然湖をダム化したという見え方もあるようだ。そのことによって、猪苗代湖の水は資源化されたということになるようだ。

 その見え方でこの水門を眺めれば、この水門は資源化された猪苗代湖の水を増やす装置で、今まで自然に会津側に流れていた日橋川本流と、布藤堰の利水・戸ノ口堰の利水を郡山側の安積疎水が手中に収めたという見え方になるのだろうか。

 基本的に、資源化された猪苗代湖水を最大限に利用するのには、一つは水をせき止め増水させるという方法によるとのことだ。この十六橋の水門が現役で利水に供していた時点では、こちらの方法だったということだろうか。

 もう一つの方法があって、それはより深い処から取水するという方法なのだとか。
 小石浜取水門からの取水というのは、こちらの方法のようなのだ。
 「会高通史」が、新しい水路が出来る頃から「湖面低下が起こり、湖面旧に復す見通しが暗くなった」とあることとかかわるようなのだ。「街道Web」のTUKAさんから、「新水路」というのは、小石浜取水門のこととのアドバイスを受けて、確認を進めてきたところだ。

 「会高通史」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる情報を拾う。
 その一つには、生徒の変質や端艇部の競技スポーツ化があるようだ。
 生徒の変質については、猪苗代の行事に生徒はレクリェーション気分で参加するようになったことを挙げている。そして、端艇部の競技スポーツ化については、主力が荻野ダムの県営漕艇場に移ったことを挙げている。
 しかし、「明治32年以来50有余年幾多の俊秀を育み、会中健児の魂の憩いの場所であった戸ノ口から中田浜に移らざるを得なかったのは、「いかんせん湖面旧に復せず、先の見通しも暗」かったという事のようだ。
 「いかんせん湖面旧に復せず」というのが、先に記した湖面低下らしい。再掲する。
 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」
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by shingen1948 | 2017-09-13 09:19 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津中学校端艇部が明治32年(1988)年に戸ノ口に艇庫を構えて活動を開始し、昭和26年(1951)に、艇庫をこの地から中田浜に移動するあたりの十六橋の変遷にかかわる情報を、「猪苗代土木事務所」の「管理施設の紹介」から読み取る。

 まずは、明治期に会津盆地へ流出する水量を調節し、郡山盆地に引水して安積野を開拓しようとする国営開拓事業で十六橋に水門が建設された。
 当初は十六眼鏡石橋水門で、1門ごとに8枚の板をはめ込む木製扉(角落し式)を、人力で開閉していたが、明治28年(1895)に手動捲上げ式になったということだ。
 この辺りが、会津中学校端艇部創設期の頃だろうか。

 次に、十六橋と水門が分離される。この風景が、長谷川信氏がここに通っていた頃の原風景だろうか。
 明治時代末から大正時代にかけて、日橋川で発電所群の建設が始まり、その発電用水確保が課題になり、明治45年(1912)~大正3年(1914)にかけて、十六眼鏡石橋水門はその電力会社の費用寄付によって、鋼製で電動捲上げ式の「十六橋制水門」に改築されたとのことだ。
 水門が電動捲上げ式制水門になったことに伴い、十六橋は水門上流側に分離され橋脚が鉄パイプ製の道路専用橋となって、現在のような景観になったとのとこだ。

 更には、景観として変わらないが、実質的な機能は小石ヶ浜水門に移ることになるようだ。
a0087378_1411712.jpg これは、十六橋手前の案内板に掲げられたものだが、この写真が「十六橋制水門」と「小石ヶ浜水門」などの位置関係が分かりやすいと思う。

 昭和17年(1942)にできたこの小石ヶ浜水門は、発電所と直結する取水専用水門なそうだ。この時点で、十六橋水門は洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだ。

 会津高校のホームページでは全国大会出場を機に艇庫をこの地から中田浜に移動することにしたとする。
 しかし、実際には、この水門機能の移動によって水深が変化してしまい、この地から撤退せざるを得ない状況になって中田浜に移動したということになったようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-12 14:03 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日の整理で「戸ノ口原」について確認した部分は、他所者にとっては分かりにくい。それでも、地元では当たり前の事としてあまり説明されないようだ。
 例えば「戸ノ口原古戦場」だが、地図上の表記は「笹山原」だ。そして、木村氏が辿り着いた集落も、地元の方は戸ノ口原と呼称しているのだ。
 この辺りに広がる平地を、あるときには大野原といい、またある時には笹山原といい、更にまた戸ノ口原ともいうという状態だ。
 自分なりに読み取った事を整理しておく。

 この平地には旧村の村界があるようだ。
 おおよそ旧二本松裏街道の北側が河東村で、南側が湊町ということのようなのだ。
 その河東村側ではこの原を大野原といい、湊町ではこの原を笹山原というようなのだ。そして、どちらも、戸ノ口に近いという感じで、戸ノ口原とも呼称するということのようなのだ。

 その「戸ノ口」という呼称についても、この地独特の意があるようだ。
 若松の入り口である戸ノ口港のある村である向戸ノ口村あたりを戸ノ口というようなのだが、戸ノ口村というのは、現猪苗代町側にある。ここには、かつて郡役所も置かれたとのことだ。

 向戸ノ口村というのは、その戸ノ口村が江戸に米を運送する為に赤井村の岸辺に二軒の船宿を営む向戸口船問屋を設置したところのようなのだ。
 ただ、若松からみれば、この向戸ノ口村こそが、若松にとっての湖上、陸上の交通上の要所であり、軍事上の要所でもあったということだ。それで、向戸ノ口村付近を「戸ノ口」と呼称しているのではないのかなと思うのだ。
 「戸ノ口原」というのは、その「戸ノ口」である「向戸ノ口村」手前の原という意を含んでいるのだろうと想像するが、どうだろうか。

 実は、木村健氏はもう一つ勘違いをなさっているような気がするのだ。
 見え隠れした水路を「安積疎水」と思っているのではないかなと思えるふしがある。

 氏が歩いた付近の発電所用の水路以外に見え隠れした水路は、戸ノ口堰の中でも最も古い時代に開発されているはずなのだ。
 ゴルフ場付近の分岐点あたりまでは、最初に開発されて「八田野堰」とも呼称されいていたとされる付近だと思うのだ。
 氏が、「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎると畑地が見えた農地を「開拓農地だろうと思った」のは、「安積疎水」との勘違いによるものだと思うのだが、どうだろうか。

 これは、この水門にかかわる情報が「安積疎水」とのかかわりで見かけることが多いためだろうと思われる。
 日橋川も戸ノ口堰も布藤堰も会津方面に流れているのだが、十六橋の水門の管理という名目で、「安積疎水」が日橋川と共に戸ノ口堰や布藤堰の取水まで手中に収めていたこととかかわることなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-09-11 11:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 猪苗代湖を百駄船で運ばれてきた猪苗代第一発電所送電線や資材、それに周辺各浜から採取されて達磨舟に積まれた砂利や砂は、戸ノ口港あるいはその近くで荷揚げされる。
 荷揚げされたそれらの資材は、工事専用軌道で工事現場まで運ばれたという。

 その工事軌道跡については、「街道Web」の「猪苗代第一発電所工事軌道(河東町)」に「戸ノ口専用鉄道」として、その詳細が記されている。
 http://kaido.the-orj.org/stop/dai1/dai1-04.htm

 ここまで確認作業を進めてきたのは、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さった木村健氏が、この「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を使って長谷川信氏の石碑を訪ねてきているらしいことが分かったからだ。
 その取材については「下北沢X新聞(1676) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5~」に記されるが、この様子を確認するための下調べということでもあったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51704035.html 

 氏は、本当は長谷川信氏と同じように会津若松市から20㎞の道を歩くことも考えたようだが、無謀なので磐越西線磐梯町駅からの歩きとしたとのことだ。

 その描写から、まずは、現・磐越西線磐梯町駅(旧大寺駅)から、猪苗代第一発電所地内まで敷設されたとする工事専用軌道廃線後の道筋を歩いたことが分かる。
 そこで、一度不安になって駅まで戻り、その道筋でよいとの案内を受けて、その奥まで進み始める。発電所の奥の橋を渡って突き当たった道筋が、「街道Web」が紹介する「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋なのだと思う。

 次に、その「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を東進したのだと思う。
 ゴルフ場を過ぎて「そのうちに大きな水路にぶつかった」というのが、現在の「戸ノ口堰取水口」辺りの風景なのだろうと思う。
 そこまでに見え隠れしていた水路についての描写はないが、それが発電所用の水路で、この水路の工事用資材と膳棚山から猪苗代第一発電所に落とし込む水路の資材が、この「戸ノ口専用鉄道」で運ばれていたのだろうと想像する。

 木村氏が「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎたあたりで訪ねた数軒の集落は、戸の口原の集落とのことなので、別名大野原の集落だろうと想像する。(氏は、ここを戸ノ口集落の本村と勘違いしているように思う)
 そこから軽自動車に乗せられて「戸ノ口原古戦場」に向かい、二本松裏街道の道筋か、湖畔沿いの道筋にそって向戸ノ口を経由して十六橋に向かったのだと思う。
 そして、その十六橋を渡って地蔵堂を過ぎて「長谷川信碑」に辿り着いたということのようなのだ。

 木村健氏は児童文学作家とのことだが、自分が持つ児童文学作家という肩書からイメージする姿からは想像できない程の行動力に驚く。
 自分には地元意識があったのだが、その意識だけでは彼の行動の詳細を捉えることはできなかった。
 いろいろな確認を通して、ようやく彼の歩いた道筋とその背景が想像できたということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-09 16:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑭:戸ノ口の風景とその変遷④」では、郡山―若松間に岩越鉄道が開通したことによって湖上運送は衰退するという前提で話を進めた。 それでも、明治32年(1899)に会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設される頃までは、その湖上交通の賑わいの名残はあった筈だとした。

 しかし、確認を進めていくと、郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響で湖上運送が衰退したとする前提は、単純化し過ぎているということが分かった。
 長いスパンで見たり、会津全体の水上交通という巨視的な見方をしたりすれば、その通りなのだが、猪苗代湖の湖上運送のある時期という部分的な視点の当て方では、別な要素が入ってくるということのようだ。

 その一つの要素は、鉄道網の整備に伴う会津全体の物流変化の考慮らしい。
 それまの越後経由で会津に入る物流の会津全体の物流に占める割合は、結構大きかったとのことだ。それが、東北本線の開通に伴い東側からの物流が徐々に増えてくるということも起きていたようだ。そんな中で、明治24年に東北本線の東京・青森間が開通したことで、本宮・郡山経由で若松に供給する流れが強化されたという見方があるようだ。

 更に、明治31年には郡山―山潟(上戸)間の途中開通があり、若松・新潟方面への貨物が山潟駅に集積されるようになったという。
 この集積された貨物を山潟港から汽船・和船に積んで戸ノ口港や笹山港まで運搬するようになるわけで、この間の湖上運送は衰えるどころか、俄然活気を呈するようになっていたということだ。

 この時点で、鉄道開通によって猪苗代湖湖上運送に与えていた影響というのは、会津全体の物流変化に伴い栄えていた湖南―会津間の物流が徐々に寂れていき、山潟―会津間の物流が増大していったということになるようなのだ。

 明治32年に岩越鉄道は会津若松まで延伸されるが、直ぐに全面的に鉄道に頼ったわけではないという。
 例えば、明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことだ。更に、電力会社では二隻の汽船(会津丸・猪苗代丸)を新造し、十数隻の達磨舟を引航して砂利・砂などを湖の周辺各浜から採取して、湖上を発電所建設現場に運んだとのことだ。
 鉄道開通後の戸ノ口の港は、物流やそれにかかわる人夫だけでなく、いろいろな用足しの人々も集まって、益々活況を呈していたということになるようなのだ。

 その猪苗代第一発電所完成は大正3年のようだ。
 明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことなので、当然戸ノ口船問屋がかかわっている。

 という事で、明治32年(1899)に会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設される頃は勿論、しばらくの間は、湖上交通の賑わいの名残りなどというものではなく、賑わいそのもので活気にあふれていた時期だったということになるようだ。
 戸ノ口船問屋が、地元高校の舟にかかわる部活創設の相談に乗るゆとりは、充分に持ち合わせていただろうと想像できそうだ。
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by shingen1948 | 2017-09-08 09:11 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島県民百科」では、猪苗代湖の湖上運送にかかわる江戸時代の港として、戸ノ口と共に、会津領の港として篠山、関脇、秋山の港があんないされるが、若松口は戸ノ口港と篠山港で、関脇港は仙道 (中通り) 口で、秋山港が白河口ということのようだ。

 その戸ノ口港と共に会津口である篠山港が、戦後の昭和24年に復活したとされる水上運動会の本部が設置される小石ケ浜付近らしい。
 ここを他所者が確認するのには、地元の方々にとっては当然の事である「篠山=笹山」という関係を頭に置く必要がある。同じ処を示すのに、篠山の地名を使うこともあれば、笹山の地名を使うことがあるということだ。
a0087378_4581461.png これは、「湊町案内Map」の「小石が浜」付近について案内された部分だが、ここでは「笹山港跡」としてプロットされている。
 地元湊公民館だよりの「湊のくに」に「篠山港」として解説されているのはこの港のことだ。

 「 篠山は元和3年 1617 年)に埼川村の肝煎渡部伊勢の子掃部之助 (かもんのすけ)なる者が新田を開き、その後元和8年(1622年)に篠山村と村名を立て原組の1村となり、同9年掃部之助が肝煎に任命された。その頃から着船の諸荷物運送のことに従事してい る。
 「新編会津風土記」によると家7軒、かまど 8 、男26人、女20人、 馬8匹、この村の営みの多くは住還運送の駄賃をとると述べているが、着船の荷物が多いときは近くの白河街道に沿う赤井村で運送を助けている。
 寛文年間から領内の出荷物も取り扱って湖上運送しているが、 延宝8年( 1680 年)掃部之助の子孫に不届きのことがあって肝煎の役を召し上げられ、滝沢組 長原の肝煎に転ぜられた。しかし、荷物運送は1日も休まれないので、一時地首が問屋仮役となって運送に従事していた。
 翌延宝9年(元和元年)になって、赤井村の問屋で酒造業を営んでいた田中新左エ門が篠山村の肝煎兼問屋を仰せつかり、その子孫が長くこれを継承した。
 篠山にどれくらいの大きさの船が何艘あったのか、問屋の火災で記録はほとんど残っていない」

 なお、白河口の問屋半沢授八の秋山港は湖南七浜秋山港の西端に確認できる。ただ、崎川浜の南で赤崎の手前に村共同の問屋の「東田面港」があったとする別資料も見るが、今のところその詳細が記されるものは見つけられないでいる。

 仙道(中通り)口の問屋六角久平の関脇港は、二本松街道と二本松裏街道の分岐点の関脇宿に位置する。
 その南に問屋土屋十郎・土屋一郎の壺下港がみえるが、こちらは二本松街道と二本松裏街道の分岐点手前の二本松街道壺下宿とかかわる港で、ここには口留番所があったようだ。
 ここには、更にその南に中山峠の道筋とのかかわりで後に栄える山潟港の三つの港が並んでいるのが確認できる。

 詳しく確認したのは「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑩」で、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記したこことの関りだ。
 再掲する。
 「上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
 それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。」
 http://kazenoshin.exblog.jp/237703895/

 キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かい、頼んでもらったモンタのおにぎりをつけて戻った道筋が、二本松裏街道の街道関脇宿から向戸ノ口の間に近い道筋ということでもある。
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by shingen1948 | 2017-09-07 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津戸ノ口十六石橋之全図」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設とのかかわりが想像できる情報を拾ってみる。
 その一つが、「向戸ノ口船問屋」だ。ここは「戸ノ口村が赤井村の岸辺に設けた船宿」なそうだ。「『新編会津風土記」には「赤井村の境内湖浜に家二軒を営み船宿とす、江戸に米を運送する為に設く」とすると解説される。
 解説にもあるように、湖中の岸辺には数艘の帆線が帆を降ろして留まっている。

 「福島県民百科」で、猪苗代湖の「湖上運送」を確認すると、「江戸時代、一枚帆の六丁櫓の百駄船が浮かび、会津領の篠山、戸ノ口、関脇、秋山、二本松領の浜路、船津が賑わっていた」とある。
 「百駄船」は直接確認できなかったが、駄船の駄は負わせるの意と解釈すれば、荷物を運ぶ船であると想像した。また、ここは、すでに日橋川の河川であることを考慮して、とりあえず「平駄船」に近いことを想像した。
 平駄船は、内水面を航行する和船の一種で、高瀬舟より大きく五大力船より小さいという。「百」は大きいという意味かもしれないので、「五大力船」も確認してみた。
 「江戸時代、主として関東・東北で、比較的近距離の海運に用いた百石ないし三百石の荷船」とある。
 この百石の荷船あたりが近そうだなということで、とりあえず、この「五大力船」をイメージする。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設情報を重ねる。
 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設は、明治32年(1899)だ。ここは、この時点まで湖上運送の賑わいの名残があったと想像される。

 湖上運送が衰退するのは、明治30年(1897)の郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響だが、
岩越鉄道が開通して湖上運送が衰退までには時間差があるはずだ。創設時点では十分に賑わいの名残りはあった筈なのだ。
 ここからは大胆な想像だが、恐らく小林先生がお世話になった艇庫向かいの定宿「〇コ」五十嵐宅が、この図の「向戸ノ口船問屋」とかかわるのではないのかなと思うのだ。そして、ボート部の宿泊の世話をしてくれた艇庫の南西に位置する「モンタ婆さん」の「モンタ」が、「家二軒を営み」と解説される船宿だったのではないのかなと思うのだ。
 そして、舟を出すのに「向戸ノ口船問屋」の桟橋をお借りしていたと勝手な想像を膨らませるが、どんなものだろうか。
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by shingen1948 | 2017-09-06 09:15 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「福島県史料情報第10号」に、「会津戸ノ口十六石橋之全図」が紹介される。
 
 http://www.history.fcp.or.jp/shiryojoho/shiryojoho10.html##10-1
 この橋は、天明8年(1788)二十三の橋脚からなる石橋に改修されたという2代目のようだ。「新編会津風土記」には長さ48間で、凡そ23断の石橋で、左右の勾欄まで皆石づくりと紹介されるようだが、図中では「橋長56間・幅9尺」と記される。

 この橋は、会津戦争の物語では、西軍の会津侵入を防御する要の橋として登場する。
 会津兵が、この橋の破壊に戸惑いと堅固な石橋の破壊の困難さに手間取る間に、敵の西軍が突入してきたとされる。

 湊公民館だよりの「湊のくに」には、次のような西軍薩摩藩の「維新戦役実歴談」の描写を元にしたこの橋の紹介がある。

 十六橋は石橋で、幅三尺(90.9 センチ)で長さ一間半(272.7 センチ)位な石が三枚渡してあるという位な極めて危険な橋だった。それで、戸ノ口の家屋を壊して、その柱を渡して、それを藤でからげて、畳をおいて渡れるようにした。

 この談から、幕末の十六橋の橋脚は石を積んだものだが、狭くて人がすれ違うことはできず、橋板はすべてが石ではなかったと想像されると紹介する。

 勝手かもしれないが、両方の説に矛盾なく、会津ビイキも満足できる勝手な解釈をしたい。
 
 会津軍は手間取りながらも、渡るには手間取りそうな程度までには破壊工作が進んでいたというのは、どうだろうか。
 それで、西軍は戸ノ口集落の家屋を破壊して、それを材料に修復して渡ったとすれば、つじつまが合うと思うのだが、……。

 いづれにしても、そういう橋の状態なら、明治13年にこの橋を取り払って架け替えられたということは、それだけでも地元には歓迎されたことだろうと思うのだが、どうだろうか。

 この「会津戸ノ口十六石橋之全図」に描かれるのは、この橋にかかわる情報だけでない。
 その橋の下を流れる日橋川と両側の堰の様子、この橋を通る街道とその付近の風景、そして、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設されたこととかかわりそうな、その先の舟問屋の様子などの情報も含まれる。
 それらも読み取ってみたい。
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by shingen1948 | 2017-09-05 17:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡を案内する石碑には、ここにその艇庫があったのは明治32年(1899)~昭和26年(1951)であることが示される。従って、先の「会高通史」座談会で話されていた会津中学校端艇部創設時代の十六橋は、現在の状況ではない。

 「国立国会図書館デジタルコレクション」の「写真の中の明治大正」に「仁山智水帖【光村写真部(明治35年6月)」が紹介され、その中に当時の十六橋が紹介されている。
a0087378_928192.jpg この橋が、明治13年に江戸期の橋を取り払って架け替えられただと思う。猪苗代湖の水深を調整するための水門と兼用の石橋であることがよく分かる。

 この水門の西端は戸ノ口堰の取水にかかわる水門で、東端の水門は布藤堰の取水にかかわる水門で、その他の水門が猪苗代湖の水深を調整するために日橋川本流の水量を調整するためのものということだろうと思う。

 この猪苗代湖の水深を調整する水門が必要になったのは、基本的にはここと反対側に流す安積疏水用の水を確保するためだ。
 しかし、実際には、猪苗代湖の水位を保持しつつ、戸ノ口堰・布藤堰の取水量の確保も改善するため日橋川の河床を下げる工夫もしているとのことだ。

 後に整理することともかかわるので記しておきたいのは、この水門の実際の管理を地元の水深にかかわる舟問屋とかかわりのある方に委託しているようだということ。
 共存を目指した関係者の気持ちの調整もなされていたということでもあるような気もする。

 なお、街道にかかわる散策でお世話になっている「街道Web」では、「秋元橋(北塩原)」の項にこの十六橋の遺物の所在が整理されている。
 http://kaido.the-orj.org/hasi/aki.htm
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by shingen1948 | 2017-09-04 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_9172092.jpg 猪苗代湖面の水深やこの水門の役割・機能などの変化はあるが、外見上の風景としては、現在のこの風景は長谷川信氏が猪苗代の戸ノ口に通っていた頃の原風景に近いということだろうと思う。

 具体的に照合してみる。
 長谷川信氏がこの猪苗代の戸ノ口にかかわる時期は、昭和10年から昭和15年辺りだと思われる。
 
 氏の会津中学入学が昭和10年だ。
 昭和13年の途中で休学するが、昭和14年春には復学している。
 また、昭和15年春には同志社大学入学するのだが、直ぐに帰郷してしまう。この時にも氏の猪苗代通いは続けていたらしいということだ。

 風景の変化だが、現在のように道路と水門が分離され、現在の風景に近い状況になるのは大正3年(191)のようだ。猪苗代水力電気株式会社の水力発電所建設に伴い、水利調整に電動式の引き上げ式ケートに改築されたこととのかかわりらしい。十六橋は、この時に別に架けられることになったということのようだ。

 ファン・ドールンの銅像だが、こちらは昭和6年(1931)10月建立とのことだ。猪苗代水力電気株式会社の創設者である工学博士の千石貢氏の提唱により建立されのだという。信氏の戸ノ口通いの頃は、この像も建っていたということになる。

 金の橋・銀の橋だが、こちらは昭和34年(1954)完成とのことだ。それまでは、国道は長浜付近から丘陵地や十六橋を経由していたとある。詳細な確認はしていないが、長谷川信氏が戸ノ口にかかわる時期には、長浜からこの辺りにかけて、旧二本松裏街道の道筋が旧国道でもあった可能性があるということかな。
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by shingen1948 | 2017-09-03 09:18 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)