地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:福島と戦争 ( 83 ) タグの人気記事

 信氏の戦死は、公式記録では「4月12日与那国島北方洋上戦死」とのことだ。
 「明治学院百年史」では、中村メモをもとに、その様子を解説する。その概要は次のようだ。

 松山から新田原に向かった武揚隊は、熊本建軍飛行場を経て済州島へ、さらに上海、枕州へと進んだという。ここから目的地台湾への最後の移動は分散で行われたとのことだ。
 4月11日夕刻に力石少尉を含む第1陣4機は無事台湾に着いたという。
 そして、第2陣山本隊長以下信氏も含めて残り9機が12日5時出発予定だったが、隊長機の接触事故で5時半出発になってしまったという。夜明け前に台湾着の予定が、洋上に出て30分で夜が明けてしまったのだという。
 そのせいもあって、グラマン機20機と遭遇して、編隊を解いて戦闘準備体制となり交戦、第1回目3機が火を噴く、第2回目2機、1機と、……。残る3機となる。
 この時、中村氏は右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着したのだということだ。
 だいたいこんな様子が読み取れる。

 この辺りの事を「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」の情報と照らし合わせてみる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52030134.html#more

 こちらの情報では、もともとの武揚隊は15機とあり、一機、長谷部良平機は各務原で機が不調だったらしくこれに遅れて離脱したとある。
 彼は、知覧にたどり着いて、4月20日に、第31振武隊と名を変えて特攻出撃していったそうだ。
 「明治学院百年史」の情報と照らし合わせると、こちらの台湾に向かう機は13機のようだ。1機少ない。
 3月25日にこの誘導機に当たった飛行第108戦隊の菱沼俊雄大尉の情報に、台湾まで付き添ったそうだが、済州島で吉原香機が機のトラブルで不時着するとある。このあたりとのかかわりだろうか。

 4月12日の交戦についての情報を照らし合わせてみる。
 上海から台湾へ前進中与那国島で敵機に遭遇し3名が交戦戦死する。爆装改修で銃器は降ろしている。なすすべもなく撃たれた。長谷川信少尉、西尾勇助軍曹、海老根重信伍長だ。このときに山本薫中尉他も与那国島に不時着し、大発艇で海路台湾にやっと渡った。
 「明治学院百年史」では、山本隊長の不時着と、その後についての情報がなく、こちらの情報では、「明治学院百年史」にある中村氏の与那国島への不時着は記載されていない。

 ここからは、長谷川信氏が抜けた後の武揚隊の情報だ。
 台湾に到着した武揚隊の残存部隊は、八塊飛行場から順次出撃したという。
 5月13日、5機出撃。山本薫中尉、五十嵐少尉、柄沢伍長の3名が特攻戦死とのこと。
 5月17日、3機出撃。高畑保雄少尉、五来軍曹の2名が特攻戦死。高畑機には飛行108戦隊の宮崎義次伍長同乗出撃したという。

 そして、昨日整理の7月19日の八塊飛行場から4機の出撃。
 1機は基隆沿岸に墜落、藤井清美少尉のみが特攻突撃したとのことだった。また、この4機の中に飯沼芳雄伍長がいるので、ここでの不明は2機だ。

 「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」では、最後に、消息不明として、中村欣男少尉 幹部候補生、力石文夫少尉 見習士官(特操2期)、春田政昭兵長 少年飛行兵15期を挙げている。
 ここも、「明治学院百年史」の情報と照らし合わせてみたい。
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by shingen1948 | 2017-05-22 09:00 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 特攻にかかわって有名なのは「知覧特攻平和会館」なそうだが、会津の長谷川信少尉の場合は、かかわらないようだ。

 最近、道徳心について評価をすることが決められたようだが、特攻隊員の亡くなり方にもランク付けがあるのだという。
 「特攻戦死」という評価になれば、二階級特進となって、「陸軍特別攻撃隊員名簿」に載せられるようになるのだそうだ。そして、遺品や写真などが「知覧特攻平和会館」に永久に保存されるということになるのだそうだ。
 当然、遺族年金も違ってくるそうだ。

 これは、「下北沢X物語(3248)~1036柱という価値軸への疑義~」に教えられたことだ。その「特攻戦死」と評価されたのは、1036柱で、これ以外は「知覧特攻平和会館」では扱われないとのことだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52041850.html#more 

 信氏の武揚隊で特攻戦死と評価されたのは、15名のうちの6名だけだとか。特攻に向かっても、戦果が確認できなければ、一般戦死扱いとなるのだそうだ。
 武揚隊員で特攻出撃と戦死が確認できるのは7名いらっしゃるそうだが、飯沼伍長の戦果が確認できずに、特攻戦死とは評価されていないのだそうだ。それで6名の特攻戦死ということになるそうだ。
 その状況は、沖縄特攻の最後の日(7月19日)、飯沼伍長は「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」に載る藤井清美少尉等と共に、台湾八塊飛行場から薄暮「16時30分」に発進しているのだそうだ。
 敵機に撃墜されたか、機の不調で墜落したとの想像もできるが、とにかくこの時に戦死しているのは確認できるが、一般戦死扱いなそうだ。

 さて、会津の長谷川信少尉の場合だが、4月10日、台湾に渡るため武揚隊の一隊はその飛行をしている最中に敵機に遭遇して、西尾勇軍曹、海老根重信伍長と共に艦載機に撃墜されているという。交戦死ということで、彼もまた特攻戦死という評価はなく、「知覧特攻平和会館」対象外なのだそうだ。
 ◇       ◇         ◇        ◇        ◇

 昨日整理の中の世論調査による内閣安倍正支持率の全国と福島県の差についてだが、2017年1月調査についての「共同通信」と「福島民報」の世論調査も確認できた。

 「共同通信」が59.6%の内閣支持率で、「福島民報」が39.6%だったようだ。この時の差が20ポイント。
 メディアが報じる内閣支持率から15~20ポイント減じて認識するのは、地方紙を見ている福島県内の方にとっては当然の事のようだ。
 なお、この時の全国では前回調査に比べ支持率が+4.8%で、福島県内ではー3.9%だたとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-05-21 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 2017年の参院選結果をお隣の新潟県の知事選の結果を受けて整理しているのは、東北の参議院選の結果から読み取るべきものがあると感じたからだと思う。福島県に限定して眺めてみれば、現職の岩城法務大臣が落選していることも付け加えておく。

 最近、田舎から眺める全国ニュースは、我々とは別の国の出来事のように感じる。
 現在のトップが牽引する内閣支持率もべらぼうに高く感じる。
 ネットで拾える比較的最近の情報は、3月の支持率。
 べらぼうに高い支持率が、「日経」の62%。「産経」、「読売」、「共同通信」などが、それに次いでいる。「産経」が57.4%、「共同通信」が55.7%、「読売」が、その間を取って56%。
 そして、「朝日」の49%、「毎日」の50%、NHKの51%。
この時期の「福島民報」が34.9%で、これでも高いなと思うが、全国的にみれば低めの情報のマイナス27%から15パーセントだ。
 http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2017/03/post_14921.html

 要点を整理する。
 国論を二分させた集団的自衛権容認は目立った争点にならず、与党は改憲に触れようとせずに参院選は行われた。
 その結果、東北、新潟、北海道など北日本の支持は得られなかったが、全体的には関東から西の地域の方々の支持を得て、自公与党が圧勝した。
 改憲派「3分の2」を意識した各報道の見出しが躍ったが、今になって思えば、3分の2を取ったことで一瀉千里に改憲に進むのは勘弁してほしいという願いの様なものも感じる。

 しかし、……。
 平和憲法に象徴される戦後レジームを「東京オリンピック」を大きな節目に変えたいという動きが活性化しているように感じる。

 この動きに、ネットで拾える最新情報は、時事通信の5月の世論調査結果。
 安倍内閣の支持率は前月比3.4ポイント減の46.6%とある。
 同じ様な傾向を想定して、前月の「福島民報」の情報から3.4ポイント減じてみると福島県内の支持率は31.5%程度かな。結構高い。
 
 これを会津の「わたつみ」がどう聞いているのかは、想像すらことすらできないでいる。
 
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by shingen1948 | 2017-05-20 08:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」を参考にしたのは、「兵戈無用」の石碑を建てた西蓮寺住職秋月亨観氏の思いを想像するためだった。
 しかし、このコラムで言いたいのは「兵戈無用」の碑についてふれる前に、参議院議員選についてふれた次の事だろうと思われる。
 10日に開票される参院選は、平和憲法に象徴される戦後レジームを、維持するか変えるか、大きな節目になろう。しかし国論を二分させた集団的自衛権容認は、目立った争点にならず与党は改憲に触れようとしない。果たしてそれで良いのか。


 今は、その結果が分かるわけで、その時の全国紙の見出しは、朝日新聞が、「改憲4党 3分の2に迫る」、読売新聞が、「与党大勝 改選過半数」、毎日新聞が、「改憲勢力3分の2越す」というものだった。
 「与党は改憲に触れようとしない。果たしてそれで良いのか。」とし、争点としなかったはずで、それを批判していたマスメディアも、その結果を報告する見出しではあたかも争点であったかのように報道し、全国的には自公与党の圧勝だったことを中心に報道された。
 確かに、全体としては自公与党の圧勝だった。しかし、これが全国的な傾向という事ではなかった。関東から西の話だったはずだ。北日本は違う結果だった。
 
 東北が違う結果だったことは、「新潟県知事選の報道」でふれたが、再確認する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23297205/
 「2016参院:朝日新聞デジタル」で「各党の獲得議席」の比例区の地図をみると、それがよく分かる。
 http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2016/

 新潟を含む東北6県を眺めると、秋田県以外の青森、岩手、山形、宮城、福島、そして、新潟では、自公与党は惨敗だったというのが東北の選挙結果だ。
 北海道も確認すると、3議席のうち与党は1議席しか獲得できていないので、北日本全体を眺めても、自公与党惨敗という結果ととらえてもよいのだと思う。
 しかし、この事は、全国ニュースにならないどころか、地方のメディアでも伝えていないと思う。

 ただ、この結果が頭に入っていて、したたかに対応されたと思われる方がいらっしゃる。
 与党大御所が許す東北にかかわる大臣の失言を、そのトップの方は即座に対応したということがニュースになった。
 この選挙結果が、しっかりと頭に入っているとしか思えない。
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by shingen1948 | 2017-05-19 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「兵戈無用」の石碑を建てた西蓮寺住職秋月亨観氏の思いを想像するのに、「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」を参考にしている。
 このコラムでは、まずは福島県猪苗代湖の長谷川信氏の石碑を紹介し、経歴や日記から信氏の思いが紹介される。
 次の項で、母校明治学院大学が、その「百年史」でこの信氏の評伝にほぼ一章分を費やして記録するという取り組みが紹介される。
 更に、次の結語の項では、この時の参院選では集団的自衛権容認が争点にならず、与党は改憲に触れようとしないことへの疑問という時事的な観点を挟んで、次のように結ぶ。
 会津若松の長谷川家の菩提寺西連寺に「兵戈無用(ひょうがむよう)」の碑がある。悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観さんが建立した。大無量寿経にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。

 会津とのかかわりで気になるのが、このコラムの明治学院の取り組みにかかわって紹介される井深梶之助氏だ。氏は、14歳で会津戦争を経験している方だが、明治学院の創設者ヘボンに次いで総理(現学院長)となった方という。
 「明治学院百年史」によれば、信氏の明治学院への進路決定にはかかわってはいないとのことだが、「兵戈無用」の石碑を建てた西連寺住職は気になさっていたのではないかなと想像する。

 このコラムでは、その井深氏が怒りを爆発させたことがあるとして、次のようなエピソードを紹介する。
 「明治」が終わりを告げた時、乃木希典大将が妻と自決し、天皇に殉じた。
 日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定した。
 万世一系の天皇を中心に据え、欧米に追いつき追い越すための富国強兵をしゃにむに進める国家レジームを追求した果て、無謀な戦争で滅びた敗戦までの日本。
 国家レジームの最初の犠牲者は会津だった。その理不尽さを痛感する梶之助は、天皇制国家のためなら、国民に死をも求めるレジームの不健全さを見抜いたのだろう

 井深氏が乃木希典大将夫妻の自刃を知ったのは、大葬からの帰途であったいう。そのことから、明治45年9月13日の日記ということが分かる。この部分を「明治学院百年史」で確かめる。
 (日記には、)「実ニ意外千万悲惨ノ極ナレトモ実ニ困ッタ事ナリ。大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ現表ナリ」と記している。井深は、乃木夫妻の殉死に対し反対の態度をとった。(明治45年)9月17日、学生に対し乃木の殉死について行った講話においても「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と説いた。

 コラムでは、信の評伝づくりに当たった元学院長の久世了さんの言葉を借りて井深氏が「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」事を記し、信氏が特攻兵として亡くなり「大君の(おおきみのしこのみたて)」と呼ばれることになったことと対比させている。
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by shingen1948 | 2017-05-18 09:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 西蓮寺の碑に刻まれる「兵戈無用」が恒久平和を祈る言葉であり、信氏が涙した祈りを忘れてはならないと建立されたということだ。
 その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和19年4月20日の日記から「明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。」が刻まれる。

 その日の日記の全文を確認する。
 急に梁川が読みたくなった。
 彌陀の誓願不可思議にたすけまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心。
 単純なるもの、は美しい
 素朴なるもの、は美しい
 純真なるもの、は美しい
 おおらかなるもの、は美しい
 編上靴の配給を受くる時、自分の飯をもらふ時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。
 明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。

 先に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和20年1月18日の日記から抜粋した言葉も刻まれることを記したところだが、【朝日新聞】コラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)が、戦争を憎悪し、軍隊を嫌悪した言葉として紹介するのは、そのまた後半の次の部分だ。
 今次の戦争には最早正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉、浅ましき哉人類よ、猿の親類よ。

 その日の日記全文を確認する。
 歩兵将校で長らく中シナの作戦に転戦したかたの話を聞く。女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。
 俺は航空隊に転科したことに、ひとつのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかも知れないが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
 人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対しあう民族は各々その滅亡まで戦をやめることはないであろう。
 怖ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親戚よ。
 「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)にこんな記載も残ると紹介される次の文については、まだ確認ができていない。
 「過去において身につけた筈のインテレクト(知性)は一体どこに影をひそめてしまったのであろうか。そこにあるものは喧騒と食べ物の話のみ」
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by shingen1948 | 2017-05-17 09:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 西蓮寺に建立された碑に刻まれるのは、「兵戈無用」。
 この言葉、確認してようやく分かったつもりになれたところだ。
 「兵戈を用いること無し」とは読めるし、兵は兵隊であることは分かるが、戈が分からなかった。これを確認すると、戈は盾と矛のほこの意味で、要は武器のことらしい。
 「兵も武器も用いること無し」ということになるようだ。

 もうちょっと確認を進めると、「大谷大学」ホームページに、生活の中の仏器用語としての次のような解説を見つけた。
 「武器も軍隊もいらない」という意味である。
 浄土三部経のひとつ「大無量寿経」に出てくる言葉である。釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られるのだ。この背景には「不殺生」「殺すなかれ」という釈尊の思想がある。
 釈尊の時代にも戦争はあった。大規模な戦ではなくとも、人が人を傷つけ、武器を持って殺しあうのは人間の最も愚かな行為でありながら、絶えることがない。そのような人間の有様のただ中で、釈尊の世の祈りを示す言葉として語られたといって良いだろう。

 「大無量寿経」については「ウィキペディア」で確認する。
 「無量寿経」の漢訳の項に、次の説明がある。
 「仏説無量寿経は、経名に「大」の字を冠して大無量寿経』と称し、略して『大経』とも称する。日本の浄土教の根本聖典の一つで、「仏説観無量寿経(畺良耶舎訳)」「仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳)」とともに「浄土三部経」と総称される。
 浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、この経典を特に重んじ、浄土真宗の最重要経典である。また「浄土三部経」の中でも、「大無量寿経」を根本経典と位置付けている」
 「浄土真宗(ドットインフォ)」というページを確認すると、長谷川家の菩提寺西蓮寺の宗派は浄土真宗のようであり、昨年9月の「親鸞教室」で、「非戦平和」をテーマに太平洋戦争末期、特攻隊員として戦場に向かった西蓮寺門徒「長谷川信少尉」の手記をもとに講座を展開したようである。
 http://jodo-shinshu.info/2016/07/03/6912/

 「Web東京荏原都市物語資料館」では、この「平和の碑」の建立に至る経緯は、「わだつみのこえ」(2002年7月15日発行)116号に西蓮寺住職は秋月亨観氏が「 西蓮寺『平和の碑』建立に思うと題する記事がある事を紹介する。
 その記事を確認することを試みたが、今のところできていない。
 ただ、「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」という【朝日新聞】コラム欄(2016/7/7)の結語の部分に、次のように紹介されているのを見つけた。意図されることは大差ないものと想像する。
 会津若松の長谷川家の菩提(ぼだい)寺西蓮寺に「兵戈(ひょうが)無用」の碑がある。 悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観(こうかん)さんが建立した。大無量寿経 にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。

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by shingen1948 | 2017-05-16 09:33 | Comments(0)
 会津の人々が、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで、御両親、親友、恩師について確認してきたが、それらは相互に影響し合っていることが分かる。
 その間に発行される週刊誌、新聞の記事、それに信氏の母校明治の百年史の発刊なども影響し合っている。
 その「明治学院百年史」が発刊については「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑥」から「会津の『わたつみのこえ』を聞く⑨」に整理しているが、これが昭和52年(1977)だ。
 「明治学院大学の戦争責任への取り組みと平和教育をめぐって」によれば、これには「朝日新聞」夕刊が肯定的に反応しているとのこだ。

 その後の会津の人々が会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで確認できるのが、信氏の菩提寺だ。
 「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」に、平成14年に、長谷川家の菩提寺である西蓮寺住職が「兵戈無用」の石碑を建てたことがふれられている。
 「Web東京荏原都市物語資料館」で、その石碑の概要が確認できる。
 その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」とあって、「きけわだつみのこえ(日本戦没学生の手記から 東京大学出版会発行)」に収められている日記の一節が記される。
 [昭和19年4月20日]
  明日から食堂にいって
 食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいや
 な目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。
 眼を閉って、お念佛をしよう
 と思う。
 [昭和20年1月18日]
  人間の獣性といふか、
 そんなものの深く深く
 人間性の中に根を張っ
 てゐることを沁々と思ふ。
 (人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ)
  今次の戦争には最早
 正義云々の問題はなく
 ただただ民族間の憎悪の
 爆発あるのみだ。
 敵対し合う民族は
 各々その滅亡まで戦を
 止めることはないであろう。
 恐ろしき哉、浅ましき哉
 人類よ、猿の親類よ。
      ―抜粋―
 氏は昭和20年4月、特攻隊員として沖縄沖にて戦死、享年23歳
 21世紀第1年12月西蓮寺20世利(?)之

 「Web東京荏原都市物語資料館」では、それとなく18日とされる手記は、20日の手記の最末尾の部分であり、()部分が中略されていることを思わせる紹介になっている。
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by shingen1948 | 2017-05-15 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津の人々は、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかということで、まずは御両親について整理したが、次に確認できるのが、親友の浅野恒氏。
 この方については、先に「会津の「わたつみのこえ」を聞く⑲」で整理している。

 ご自身が神への献身を決意して日本聖書神学校に学んで牧師になられるのも、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機になっていたと思われるということだった。
 そして、この方が日本聖書神学校の神学生であった昭和23年の戦没学徒兵の遺稿の募集に、信の日記を写しとって応募したということだ。

 当然、長谷川家に頻繁に接触しているはずで、母シゲさんがひどく取り乱していることも、父敬治さんが、信が送って来た日記に読みふけっていたことも目にしていただろうと想像する。
 母親のシゲさんも、信氏の親友である彼に気を許し、松本の温泉で宿の方から聞いたお話も繰り返し繰り返しとめどなく話したのではないのだろうか。
 また、ご両親の念願でもあった湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ石碑を建立しようということにも協力しているだろうし、建立された石碑も訪ねているだろうと思う。
 
 そんな背景があって、彼は信氏の日記を写しとって応募したのだろうと想像する。
 その戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」が出版されるのが、昭和24年10月とのことだ。

 更に、「会津の「わたつみのこえ」を聞く⑤」で整理した信氏の会津高時の恩師小林貞治先生とその奥様が確認できる。
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)当時、小林先生は26歳。信氏が出撃前に訪ねて来たのが昭和20年(1945)で36歳。
 昭和40年(1965)に「会高通史」に、「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」出筆するのが相馬高校校長時代。その夫人は、信氏の小学校の恩師とのことだが、この方が「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが昭和43年(1968)。

 なお、親友の浅野恒氏が戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に応募し、出版された後、この「会高通史」に恩師小林貞治先生が「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ」を出筆する間の昭和34年には、特集「戦争に失われた学徒兵の青春」の記事が載った「週刊現代」が出版されている。
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by shingen1948 | 2017-05-14 06:43 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 これから、会津の人々は、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかを整理していく。

 まずは、御両親。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」によると、長谷川信氏の戦死の公報が届き、年老いた両親は日記に書き残してあった「猪苗代湖畔に石碑を」を何としても実現しなくてはと思」ったとある。

 「明治学院百年史」では、その前に、信氏の戦死の公報が届いて、その思いに至るようになるまでの心情についても紹介する。
 母シゲはそれまでに人に見せたことのない程ひどく取り乱した、という。すでに70歳に近い老人になっていた父敬治は、信が送って来た日記に読みふけった。この両親の、信に対する愛惜の念は日とともにつのる一方だった。

 「猪苗代湖畔に石碑を」の遺言ともとれる記述は、5月16日の日記のようだ。
 「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらはうと思う。」(S)

 「明治学院百年史」では、「死との対決」として、その心情にかかわる前後の日記も紹介する。
 5月23日
 「母より送って来た梁川集とハルナックの「キリスト教の本質」(ともに岩波文庫)は〇〇〇〇により取り上げ。こんな所で何が深刻なる反省であり、何が修養であるか。」(K)
 5月24日
 「あと、死ぬまでに俺の心はどこまで荒らんでいくことか。日本民族は果たして。」(K)
 5月25日
 「猪苗代湖、戸ノ口の静かな夕方。薄く霞のかかった鏡面のような湖、あの静かな喜びを、Fと分かちあひたかった。」(S)

 長谷川信氏の遺言を実現したいと願うご両親の念願は、昭和21年5月に実現する。
 「明治学院百年史」には、「何もかも乏しい戦後の時代であったが、この両親の切ない心を理解する人々の協力もあって、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ立派な石碑ができあがった。」と紹介される。

 碑文に刻まれるのは、館林での最後の日に日記に書いた一節。
 「俺は結局、いい加減に凡々と生きて、凡々と死ぬことだらう。だが、俺にもたった一つできる。涙を流して祈ることだ。それが国泰かれか、親安かれか、知らない。祈ることなのだ。」
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by shingen1948 | 2017-05-13 09:32 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)