地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 先の地方紙の報道では、「遺族らの高齢化が進み、民間での慰霊祭は継続できず断念することになった」との報道だった。
 毎日新聞の地方版では、今後の在り方についても報じられていた。
 https://mainichi.jp/articles/20171013/ddl/k07/040/056000c
a0087378_6261524.jpg 市は関係者の要望を受け、市主催戦没者追悼式典の関連行事などとして存続させられないか検討中だとのことだ。ただ、追悼の在り方として、神式の式典の継続には課題があるとのことで、関係者と協議しているとのことだ。

 また、こちらの報道では、今まで慰霊祭を主催してきた顕彰会についても次のように紹介されている。
 顕彰会は元特攻隊員で戦後、この地で暮らした故八牧通泰さんが設立に尽力。2013年に通泰さんが死去してからは、妻の美喜子さんが事務局を取り仕切っていた。美喜子さんも昨年10月の慰霊祭直前に87歳で急逝した。

 この美喜子さんが急逝されたことについて「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力」と報道されたことは、原町飛行場を確認している時に目にしていた。
 これを目にしていたから、今回の報道にも目にとまったということでもある。
 http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/124000c
 「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力【毎日新聞(2016/10/13/福島版】」
 太平洋戦争末期、陸軍の原町飛行場(福島県南相馬市原町区)から飛び立つ特攻隊員を見送り、「原町特攻の花」と呼ばれた八牧(やまき)美喜子さん=同区上町3=が5日、87歳で亡くなった。10代のころ、実家の牛乳店を訪れた特攻隊員たちと交流を重ね、戦後は元隊員の夫と戦没者の慰霊に尽くす人生だった。
山形県生まれ。幼くして父を亡くし、南相馬で牛乳店を営む母の実家に移り住んだ。アイスクリームが人気で、飛行場で訓練を重ねる若い隊員が息抜きのため連日集まった。病弱だった美喜子さんは療養の傍ら、母と一緒に当時貴重だった砂糖で大福を作って振る舞ったり、得意の琴を演奏したりして、「みきちゃん」と家族同然に親しまれていた。1996年には、当時書き連ねた自身の日記を基に「いのち 戦時下の一少女の日記」(白帝社刊)を出版。死を覚悟して戦地へ飛び立った特攻隊員から届いた手紙も収録され、美喜子さんに淡い恋心を寄せながら南の海に散った若者への追慕の思いをつづった。
 71年夏には、夫通泰さん(2013年に死去)の奔走で市内に特攻隊員らの慰霊碑を建立。美喜子さんは、毎年10月に開く慰霊祭で世話役を務めながら、平和の尊さを語り続けてきた。
 親族によると、美喜子さんは5日午前、自宅でテレビの国会中継を見ている時に気分が悪くなり、病院で死亡が確認された。急性大動脈解離だった。
 死去の5日後には46回目となる慰霊祭が市内であり、鹿児島県知覧町(現南九州市)で「特攻の母」と呼ばれた故鳥浜トメさんの孫の赤羽(あかばね)潤さん(49)も6年ぶりに参加。「祖母が開いていた食堂で、多くの特攻隊員と交流があった母と全く同じ経験をされた方。お会いできるのを楽しみにしていたのに」と悼んだ。
 戦前から美喜子さんと交流があった南相馬市の森敏子さん(88)は「若い特攻隊員のマドンナ。白いマフラーを巻いた隊員を送り出した、あのつらい光景が私たちの青春時代でした」と語った。
 葬儀は13日午前、同市内で営まれる。【大塚卓也】


 ここで報じられている46回目の慰霊祭というのが、昨年の慰霊祭だ。今年の報道は、その関連性の中で報じられているという事のようだ。
 地元への密着度が高いと感じる。
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by shingen1948 | 2017-10-15 09:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 散策したり、散策した人の軌跡をたどったりするのには、見取り図から地図に落として、遺跡として残っているものを確かめる必要がある。
 その資料となるものを探したら、「街道web」の「福島県浜通りの飛行場跡1」として、「原町飛行場」のページに、それを見つけた。
 http://kaido.the-orj.org/air/hara.htm
a0087378_1417955.png  遺蹟として残るのは、その飛行場全体の東側である事が分かる。
 具体的には、正門の門柱・軍堺標・雲雀ケ原神社(航空神社)入口標柱・第1~3格納庫の地面・第4格納庫のコンクリート基礎と地面・第5格納庫の南北両側のコンクリート基礎等が残っている事が紹介される。
 更に、正門の門柱の様子が紹介されている。

「南相馬市博物館」のページには、この中の当時の正門の門柱の様子と第4格納庫のコンクリート基礎・雲雀ケ原神社(航空神社)入口標柱が写真で紹介されていた。
 更に、原町飛行場関係戦没者慰霊碑銅像の写真等も紹介される。
 https://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/24,26513,137,html

 これで原町飛行場と陣ケ崎公園墓地慰霊碑訪れたきたむら氏の散策は大体追えたのだが、陣ケ崎公園墓地慰霊碑の位置確認はできなかった。
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by shingen1948 | 2017-10-13 14:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 相馬野馬追のメイン会場なので、雲雀ヶ原には行ったことがある。しかし、その西に広がる平地が原町飛行場跡地であるということを知らなかった。
 きむら氏が訪れる記事を具体的にイメージすることができていなかったのだ。
 それで、原町飛行場についての確認だけはしていたのだ。ただ、散策予定がないので整理はしていなかったということだ。
a0087378_14145577.png 散策資料に紹介される原町飛行場の見取り図は、どれも青田信一氏が提供されるとした昭和15年当時の様子だ。
 これは「はらまち九条の会」会報紙からお借りした。

 武揚隊隊長の山本薫氏も、訓練兵として、この「学生舎」で生活していたのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-10-12 14:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 地方祇を眺めていたら、原町飛行場の最後慰霊祭の記事があった。

 先に「会津のわだつみ」長谷川信氏について「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として整理し、その情報を元に、会津での長谷川信氏の情報を整理したところだった。
 原町飛行場は特攻隊がかかわる飛行場だが、長谷川信氏が直接かかわるわけではない。かかわるのは信氏が所属した武揚隊隊長の山本薫氏だ。

 「会津のわだつみ」長谷川信氏について整理している中で、会津でも「長谷川信少尉」の手記をもとに非戦平和を訴えてこられた信氏の菩提寺ご住職が亡くなられているという情報を耳にしていたところだった。会津でも信氏の話を元に非戦平和が意識される機会が減るだろうなと思っていた。
 こちらも、慰霊祭が無くなれば報道される機会はなくなるだろうから、忘却が進むのだろうと思う。

 きむらけん氏も「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」脱稿後に原町飛行場と陣ケ崎公園墓地慰霊碑訪れているようだ。
 次のように整理されている。
 〇 下北沢X物語(3354)―旅での瞑想:原発と特攻―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52052801.html#more
 〇 下北沢X物語(3356)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52052973.html
 〇 下北沢X物語(3357)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ2―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52053056.html
 〇 下北沢X物語(3358)―機械と神・航空神社と鉄道神社―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52053155.html

 「最後の慰霊祭 原町飛行場関係戦没者【福島民報(2017/10/11)】

 http://www.minpo.jp/news/detail/2017101145819
「 太平洋戦争中、南相馬市にあった原町飛行場で訓練し特攻隊などで亡くなった戦没者らを慰霊する「第47回原町飛行場関係戦没者334柱慰霊祭」は9日、同市原町区の陣ケ崎公園墓地慰霊碑前で行われた。遺族や関係者の高齢化で今回が最後の慰霊祭となる。全国から訪れた遺族や関係者が最後の慰霊祭を惜しみながら平和を願い、静かに玉串をささげた。
 同慰霊顕彰会の主催で、大東亜戦争原町関係戦没者465柱慰霊祭を兼ねている。約80人が参列した。同市鹿島区の伊勢大御神の森幸彦宮司が斎主を務め、八牧将彦顕彰会事務局長が「慰霊祭は今年度で最後になる。長期にわたるご支援ありがとうございました」とあいさつ。細田広南相馬市議会議長、衣笠陽雄特攻隊戦没者慰霊顕彰会専務理事、高野光二県議、佐藤則彦県隊友会南相馬支部長、大場盛子県遺族会副会長らが追悼の言葉を述べた。原町メンネル・コールのメンバーが鎮魂歌を献歌した。
 原町飛行場は1940(昭和15)年に開場し、戦時中多くのパイロットを育て、戦場に送り出した。飛行場を支援する住民との交流の思い出を胸にたくさんの特攻隊パイロットが飛び立っていったとされる。顕彰碑は原町飛行場で訓練を受け、戦後、南相馬市原町区に住んだ故・八牧通康氏らが中心となり1971年に建立した。毎年、顕彰会が主催して慰霊祭を実施してきたが、戦後72年を経て、遺族らの高齢化が進んだことなどで、民間としての慰霊祭の継続を断念することになった。
 特攻隊戦没者慰霊顕彰会の衣笠専務理事は「慰霊祭が継続できないのは残念。原町飛行場は特攻隊の歴史を語る上でも重要な場所であり、何らかの形で慰霊祭を復活されることを願っている」と話していた。」
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by shingen1948 | 2017-10-11 17:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく」で、長谷川信氏の碑を訪ねた事を次のように整理した。
 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 その場所についての問い合わせがあったので案内を兼ねて記す。
a0087378_1143087.png 地図で越後街道とあるのは、現国道49号だ。その右が郡山方面、左側が会津若松方面だ。
 郡山方面からは、遊覧船の発着所のある長浜を過ぎて、日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入る。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開ける。

 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。


a0087378_11502417.png これは、その部分を拡大した地図だ。
 その近くで目立つのは地蔵堂だが、長谷川信碑はもっと右手に少し進むと、左手に見える。

 旧二本松街裏街道を中心に来ることも出来るが、戸口集落までの道筋が狭くて曲がりくねっている。また、十六橋には、小さな車しか通れないように、脇にガードがついているので、通りにくい。
案内した道筋が広くて安心に通行できる道筋だと思う。
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by shingen1948 | 2017-10-09 11:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
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by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(2)
 「戦争経験を聴く会語る会」に参加された方の講演メモから、信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要部分をお借りする。

 特攻4隊は昭和20年(1945)2月10日満州新京(現・吉林省長春)で以下の特攻隊四隊が編成される。この中の誠第三十一飛行隊(武揚隊)が、長谷川信氏が所属する隊だ。
 〇 武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 15名 機種・一式戦
 〇 扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 15名 機種・九七戦

 武揚隊=と号第三十一飛行隊には、以下の15名が所属する。

 山本  薫  中尉 23歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和20年5月13日 徳島
 五十嵐 栄  少尉 24歳 特操一期  特攻戦死 昭和20年5月13日 山形
 柄澤甲子夫  伍長 21歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月13日 長野
 高畑 保雄  少尉 22歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年5月17日 大阪
 五来 末義  軍曹 19歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月17日 茨城
 長谷部良平  伍長 18歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和20年5月22日 岐阜
 藤井 清美  少尉 24歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年7月19日 京都
 長谷川 信  少尉 22歳 特操二期  戦死   昭和20年4月12日 福島
 西尾 勇助  軍曹 20歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 千葉
 海老根重信  伍長 19歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 茨城
 飯沼 芳雄  伍長 19歳 少飛十四期 戦死   昭和20年7月19日 長野
 中村 欽男  少尉     幹候    生還
 力石 文夫  少尉     特操二期  生還
 吉原  香  軍曹     航養十四期 生還
 春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

「会津の「わたつみのこえ」を聞く32」でふれたように、ここで力石文夫氏とされる生還者は、「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏とされる方と同じ方だろうと思われる。
 また、ここで中村欽男氏とされる生還者は、「明治学院百年史」の中村メモ者である「中村敏男(大分県在住)」氏だと思われる。この方は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23904097/

 「会津の「わたつみのこえ」を聞く36」で最終的に確認したように、長谷川信氏の菩提寺に奥さんと尋ねて来た方は、生還者の吉原香軍曹(茨城県出身)だと思われる。
 この方は、済州島へ飛来した時点で機が不調を起こして不時着したとのことだ。この時に怪我を負ったようだ。
 この方は、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報とつながる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとあるその「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23913509/
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by shingen1948 | 2017-09-19 10:15 | ブロクとわたし | Comments(0)
 「会津へ『わたつみのこえ』を聞きにいく⑯:戸ノ口の風景とその変遷⑥」で記したように、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さったのは木村健氏だ。
 その木村氏が、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報やNHKラジオ深夜便出演を機に得た人脈を通して信氏の所属部隊の様子や信氏の最後の状況に至る経緯にかかわる径なども明らかになってきたようだ。その冊子が近々出版されるとのことだった。

 それが、「Web東京荏原都市物語資料館」のページを確認したら、「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」と題して出版されたようだった。

a0087378_100252.jpg 帯に紹介される「知覧だけでない新たな特攻出撃の史実を掘り起こす」というのに、信氏の所属した「武揚隊」も含まれているように思われる。
 「愛機に「必沈」と書き入れる武揚隊の山本薫隊長。松本-新田原を経て、兄弟隊の武剋隊に約1 か月半遅れて、1945 年5 月13 日台湾八塊より発進。沖縄西方海上の敵艦に突入、散華。彼の長文の遺書も発見された」と紹介されるのが、信氏の所属した隊の隊長さんだ。

 読んでみたかったが、価格が自分の懐具合に比して高かった。
 「ライフログ」は、本当は読んだ本を掲げる趣旨であるらしいが、今回は紹介の意味で掲げさせていただいた。先にも記した通り、自分を長谷川信氏の世界に導いて下さったことに対する感謝の気持ち。
 ただ、現在のところ紹介のページまでリンクできていないので、とりあえずここから「Web東京荏原都市物語資料館」がリンクさせているページにつないでおく。
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by shingen1948 | 2017-09-18 10:00 | ブロクとわたし | Comments(0)
 信氏が通った戸ノ口の風景にかかわる変遷を確認していくと、水の利権にかかわる情報と結びついてしまう。猪苗代湖の自然を楽むという感覚とは真逆の見え方だ。
 しかも、その利権にかかわるのは、今回のいまわしい原発事故を起こし、多大な被害をもたらした東京の電力会社だ。
 その東京の電力会社が、猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた。今回は、その経緯を確認したということだ。

 「会津における水力発電の歴史と活用(清水実咲季)」によると、そのスタートは、猪苗代水力電気株式会社が猪苗代第一・第二発電所の電力を需要地東京に売電したことなのだそうだ。そして、その電力会社が、この時に供給していた東京電灯と合併したという経緯とのことだ。
 ついでに、その事も整理しておく。
a0087378_8154215.jpg これは、昨年家族を案内した時に撮った猪苗代第二発電所の写真だ。
 この発電所は、猪苗代第一発電所建設のわずか2年半後の大正7年に建設されたとのことだ。どちらの発電所も、東京駅を設計した建築家辰野金吾氏の設計により建てられたとのことだが、第一発電所は建て替えがあったが、こちらの第二発電所は立て替えられていないという。
 開発したのは、どちらの発電所も猪苗代水力電気株式会社とのこと。出力は第一発電所 62,400kWで、第二発電所37,500kW。

 この猪苗代第一発電所から需要地である東京・田端変電所に送電することになるのだが、この200km以上の長距離110kV送電は、日本で初めてだったとのことだ。
 ちなみに、世界初の100kVの特別高圧送電に成功したのは米国で明治40 年だったという。

 当初、猪苗代水力電気株式会社は、東京へ供給する権利は得て送電していたものの、東京の全需要は40,000kWに満たなかったという。その上、東京では東京電灯・東京市電気局・日本電灯の三社が需要家獲得競争を繰り広げるという状況だったとのことだ。
 今では考えられないが、過剰供給気味だったとのことだ。
 それで、当初は「王子電気軌道」などの需要家にわずかな量を供給することで営業を開始していたとのことだ。

 採算に合う電力供給ができるようになるのは、東京電灯に猪苗代第一・第二発電所の発電電力の大部分を東京電灯への供給できるようになってからだとのことだ。
 その東京電灯への卸売が事業の柱となるという経緯があって、猪苗代水力電気と東京電灯とが合併するようになったということのようなのだ。
 大正12年9月に発生した関東大震災の復興のための電力供給として、23,200kWの猪苗代第三発電所、37,100kWの第四発電所が建設されるという経緯もあるようだ。

 今回の整理で、水利権について見え方が変わったことがもう一つある。
 先に、「東京の電力会社が猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた」とした。
 今回、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる発電用の水を小石浜取水門からの取水に切り替えたことについて整理した。
 そこで分かったのは、会津側に流れる水を分岐する地点は小石浜取水門から取水した後の地点で、そこまでの実質的な水利権は東京の電力会社のようだということだ。

 現在、会津若松市の浄水・下水・消雪水はもちろん、鶴ヶ城の堀や御薬園の水のほとんどの水環境を戸ノ口堰に委ねているらしいのだ。
 その戸ノ口堰は、その取水の段階で東京の電力会社の水門を経由しているということのようなのだ。
 つまりは、東京の電力会社の水利権がかかわるのは猪苗代湖や裏磐梯三湖にとどまらないということだ。会津若松市の水環境すべてとも深くかかわっているという事らしいということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-17 08:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏がかかわる戸ノ口の風景について確認してきた。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉には、猪苗代湖の湖面低下がかかわるらしい。その湖面低下には、発電用の水を小石浜取水門からの取水することなったことがかかわるとのことだが、それは、より深い処からの水を利用するという利水方法変更によるものだということだ。
 その風景の変更の情報を地図から拾って図示すると、こんな感じだろうか。
a0087378_931785.png 元々の戸ノ口堰、発電用の水、布藤堰の取水口は、十六橋水門だ。
 しかし、現在のそれぞれの取水口は、そこから下流の位置になる。
 小石ケ浜水門から取水された水は、隧道を使ってその位置まで一気に落とし込まれるようだ。
 そこから取水された戸ノ口堰の水は、更に隧道を使って最短距離で八田野原まで流すということのようだ。

 これ等の情報源だが、十六橋水門についての地元情報は、安積疎水にかかわって得られることが多い。日橋川は猪苗代湖から会津に流れる川筋であり、十六橋の西側から取水される戸ノ口堰も、その東側から取水される布藤堰も会津に流れる水路である。しかし、その情報は安積疎水側から発信されるのだ。
 
 それぞれの堰についての地元情報は、布藤堰は現磐梯町から、昔の戸ノ口堰については旧河東村から得やすいが、八田村から先の情報が絡むと、会津若松市の情報確認が必要になるようだ。

 布藤堰についての磐梯町の情報では、その開削は宝永3年(1706)で、大谷川の替え水を目的として、十六橋の下流右岸銚子ノ口を取水口と し、布藤を経て大谷川に落水させたものとしている。

 戸ノ口堰の前身である八田野堰についての河東町の情報では、その開削は元和9年(1623)八田野村肝煎内蔵之助が、会津藩主蒲生氏郷に願い出たのが始まりとする。
 藩公は、奉行志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったが、財政難のため2年で中止になったという。
 それで、内蔵之助は、寛永5年(1628)に私費で2万人の人夫を使い蟻塚まで工事を進めたが、資金が続かずに中断したという。

 会津藩主が加藤明成に変わったのを機に再び願い出ると、工事再開が認められ、寛永13年(1636)には八田野分水まで開削できたという。
 寛永15年(1638) には鍋沼まで到達し、それから3年程で八田野まで支川が造られ、7つの新しい村ができたとのことだ。

 ここまでで八田野堰完成と見る見方がある一方で、八田野分水まで開削できた寛永13年(1636)を完成と見る見方もあるようだ。この時に「八田野堰」と名付けられ内蔵之助が八田堰の堰守に任じられからのようだ。

 ここから会津若松の城下まで開削するようになるのが元禄6年(1693) のようだ。
 北滝沢村の肝煎惣治右衛門が、滝沢付近までいつも水を持ってきたいと願い出たとのことだ。この時に八田野堰から戸ノ口堰に改名されたのだという。

 なお、八田野まで支川が造られた後、会津若松までの開削の前に、河沼郡槻橋村の花積弥市が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田開拓をするという広がりもあるようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-15 09:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)