地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 前回整理したように、地元ならではの情報の源は「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」であることが分かった。
 それが分かる前、隊に戻る前夜に訪ねたという会津中学校の恩師小林貞治氏の情報の確認を試みている。どんな方なのかという事と共に、何となくこの方が地元の情報とかかわっていそうな気がしたのだ。
 目的からすれば没情報だが、それも整理しておくことにしたのは、その経歴から長谷川信氏とかかわった時代の年代が分かり、その付き合い方の雰囲気が想像しやすいと思ったからだ。

「会津中学」、「英語教師」をキーワードに検索すると、自叙伝「風と雪と」という自叙伝の著者に「小林貞治」の名がみつかった。
 その経歴を確認すると、次のような経歴だ。

 明治42年(1909)栃木県生まれ
 中学卒まで群馬県で過ごす。
 在京3年。
 昭和5年(1930)秋会津中学校に奉職
 昭和32年~34年喜多方高校勤務
 昭和35年から棚倉、須賀川、相馬、会津女子高校長勤務
 昭和46年会津女子高等学校長退職
 杏林高校、専攻科講師、城南スクール講師
 昭和59年自叙伝発刊当時、専修学校城南スクール講師

 城南スクールのページを確認すると、その創業者の「会津高時の恩師で英語の小林貞治先生に三顧の礼でおいでいただきました」という言葉が見つかる。これで、会津高校の英語の先生であった方であることの確認ができた。
 この方が、長谷川信氏が訪ねた方と重なるのだろうと想像する。

 昭和5年会津中学奉職は21歳かな。これを基準に長谷川信氏の経歴と重ねてみる。
 
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)4月は、小林先生は26歳だ。長谷川信氏が会津中学在籍中は20代後半の若さだったということが分かる。
 信氏が訪ねて来たのが昭和20年(1945)だから、36歳の頃だ。
 「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」が昭和40年(1965)だから、56歳で相馬高校校長時代だろうか。
 夫人の「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが、昭和43年(1968)だから59歳頃で、会津女子高等学校校長時代かな。

 なお、この自叙伝「風と雪と」は、会津図書館に所蔵されていることは確認できたが、目次の検索の限りでは、長谷川信氏とのかかわりが記載された様子はなさそうに思う。
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by shingen1948 | 2017-04-24 09:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」から、地元ならではの情報として整理したものは、「明治学院百年史」にも同じ情報があることが分かった。
 その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
 それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。

 当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
 信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
 信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
 ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。

 なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる
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by shingen1948 | 2017-04-23 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日整理の進学先を変える情報は、どちらかと言えば建前の理由付けの部分だ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
 その一つが、妹の事情との関りだ。
 妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
 もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。

 地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
 2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。

 信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。

 別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
 そのうちの2首が紹介されている。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」
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by shingen1948 | 2017-04-22 09:54 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏の生家が、「小国屋」という藩時代からの御用達の菓子商であることは、「Web東京荏原都市物語資料館」で知っていた。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)【歴史春秋第78号】」では、「長谷川信のおいたちと進学経緯」で更に詳しく記される。地元情報の強さだ。

 長谷川信氏は、父啓治の後妻シゲには子供が二男二女いたが、その長子だったということだ。先妻ヨネには力、佑、レイの三人の子供がいたという。
 長谷川信氏を可愛がったのは、兄の佑氏だったという。信氏も読書好きで水戸高校から東大に進んだ兄と同じような道を歩きたいと思っていたようだとのこと。
 会津高等学校に入ると直ぐにボート部に入って練習に熱中したことについては先に記した通りだが、4年中途で病気と称して休学し、その後喜多方中学校に転学するらしい。「幾多の事情があって」が、その理由のようだ。
 そこからの進学先だが、明治学院から学徒出陣しているので、最初からそこに進学したと思っていたが、その前に同志社に進学しているらしい。
 キリスト教に基礎を置くリベラルな学校との評判に胸を膨らませての進学だったようだが、現実の学校はその期待に応えられなかったようで、見切りをつけて郷里に戻ってきたという。
 その後、先に整理したように、明治学院厚生科に進み、学徒動員、特攻隊への道を歩むことになることに繋がるようだ。
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by shingen1948 | 2017-04-20 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわたつみのこえ」は、第二次世界大戦末期に戦没した、日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。
 ここで指す「わたつみ」は「学徒戦没者」であることは分かるのだが、本来の意味は「海の神霊」ということのようだ。
 「わたつみ」の「わた」は海の古語で、「み」は神霊の意とのことらしい。
 皇国史観による旧教育を受けた方は、この言葉にはこの二つの意味が重なってイメージされているらしい。

 今回「会津の『わたつみのこえ』を聞く」としたことだが、これは「きけわたつみのこえ」に福島県の「学徒戦没者」として登場する会津の長谷川信氏の声を、耳を澄まして聞いてみたいと思ったのだ。

 この会津の長谷川信氏を知ったのは、先に「山中 訃報に接して」の整理中だ。
 山中選手が母校にやって来るのは、N先生とのかかわりだったのだが、そのN先生が会津にやって来るのは、会津高校ボート部とかかわると想像した。また、自分の思い出の中には猪苗代の中田浜があるのだが、確認していくと、これも会津高校ボート部がかかわるようだった。
 その確認を進める中で、猪苗代湖に元々練習拠点にしていた場所があることが分かった。その確認を進める中で、そこが長谷川信氏の思い出の地であるという情報を得て、その地が特定できたということがあった。
 これを、「山中毅さんの訃報に接して⑥」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23730970/

 その情報源は「Web東京荏原都市物語資料館」だ。
 学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所があったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 ここで、「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」を孫引きさせていただいたのだが、その部分を再掲する。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 この時の整理では、その「会津高校ボート部での練習の思い出の地」の位置が分かればそれでよかったのだが、この時にも「長谷川信 碑」についてふれている。
 整理を始めるにあたって、ここも再掲しておきたい。
a0087378_938834.png 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。

 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-04-19 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 先に原爆投下練習で福島の渡利に爆弾が落とされた事を中心に、平、郡山についても整理したところだが、これに関わる動きがアメリカであったらしい。
 原爆開発施設、国立公園に=3カ所、来年指定―米【時事通信(2014/12/13)】
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141213-00000041-jij-n_ame
 12日に米議会を通過した国防権限法案に、米国が第2次世界大戦中に進めた原爆開発計画「マンハッタン計画」の関連施設を国立公園に指定する条項が盛り込まれた。近くオバマ大統領が署名して成立し、戦後70年の来年中に「マンハッタン計画国立歴史公園」が誕生する。
 マンハッタン計画は1942年、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領の承認を得て始まった極秘プロジェクト。45年7月に世界初の核実験が行われ、翌8月に広島、長崎に原爆が投下された。
 法案は「将来の世代のために重要な歴史資源を保存・保護する」と明記。開発の中心地となったニューメキシコ州ロスアラモス、ウラン濃縮が行われたテネシー州オークリッジ、プルトニウムが製造されたワシントン州ハンフォードの関連施設について、1年以内に国立公園に指定すると定めている。
 国立公園化の動きは2003年に本格化したが、被爆地を中心に「核廃絶の願いに背く」(広島市)との懸念が強く、法整備がずれ込んできた経緯がある。法案の議会通過が迫った9日、長崎市は「決して核兵器を賛美せず、恐ろしさを伝える」施設とするよう、ケネディ駐日米大使に要請した。
 戦後レジームの脱却の安倍氏が、唯一の被爆国として広島・長崎の要望を後押しするなどとは考えられない。アメリカでは、広島・長崎原爆投下は、戦争終了に役立ったとの評価を固定化することになるのだろう。
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by shingen1948 | 2014-12-16 08:48 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 ここは、昭和電工東長原正面玄関付近。a0087378_102614.jpg 県道337号喜多方河東線の道筋は、工場の前を国道49号線バイパスに抜けるが、その道筋とクロスして、写真右手からこの正門に向かう道筋がある。
 それが、「街道web」の[2005.10 追記]に、「東長原駅ができる以前は、昭和電工の前身日本電気工業従業員800人の大半が、隣の広田駅で下車し、そこから徒歩で通勤していた」事が記されることとかかわる道筋のようだ。
 「街道web」では、この道筋に重なる日本電気工業がかかわる専用鉄道を「日本化学工業専用鉄道」として紹介する。その中に、この道筋について「直進する道は、昭和14年(1939)、広田駅~工場間を徒歩通勤する従業員のために開削された道で『六貫坂』と呼ばれたと紹介する。
 初めは親父とのかかわりで気になったのだが、東長原駅は親父の入社前にできているようなので、直接的には関係がなさそうだ。

 散策は次の機会にするが、別視点で気になったのが、そこに通称兵隊山があって、昭和20年頃には高射砲が設置され、高射砲隊が駐屯していたという情報があることだ。
 ということは、昭和電工が軍需工場だったとの想像があるらしいという事だ。地元の方のブログ情報と重ね合わせると、工場では戦時中に火薬を製造していたらしいということのようだ。
 興味は、先に「福島と戦争」を整理していることとのつながりだ。
 「人権平和・浜松」の「朝鮮人強制連行期の朝鮮人強制労働現場一覧(東北 青森岩手宮城山形秋田福島)」のページには、かかわった軍事工場として昭和電工広田工場・三菱製鋼広田工場構内運搬竹村組、地下工場建設として昭和電工広田半地下工場建設、他に昭和電工広田工場拡張工事・三菱製鋼広田工場建設 鹿島組が掲げられている。
 更には、「福島の学徒動員」のページからは「昭和電工広田工場の学徒」との表現が見える。
 「街道web」の「日本化学工業専用鉄道」ページに掲げられる年表の後半と突き合わせれば、磐越西線東長原駅「昭和電工貨物専用線(廃線)」自体も含めて、「福島と戦争」を視点に整理できそうだなと思うが、次の機会にしたい。
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by shingen1948 | 2014-08-19 10:05 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
 今回の講演会に参加したのを契機に、本年度、模擬原爆にかかわる情報がどう流されたかを確認すると、適切な時期にその情報が流されていたことが分かる。その事は、当方には、この夏にはまだそれを感じる心の余裕がなかったなぁということの確認でもある。
 確かに、今までの夏には、8月6日の広島、8月9日の長崎原爆投下、そして、日本の終戦の日8月15日ということで、戦争にかかわる報道を普通に感じていたことだった。

 先に整理した「弟奪った「模擬原爆」に原発事故重ね 大事なこと知らされねぇ」【東京新聞】が報じられたのが7月18日。この記事は、今回の原発事故でも、渡利地区がその被害が大きい事との関連づけて報じられたものだが、タイミング的にもいい時期だなと思う。
 8月6日の広島、8月9日の長崎原爆投下に向けた8月5日には、福島民友編集日記で、今回の東京電力福島第一原発事故を機に深まった広島長崎との関係性について述べるその前段として、この模擬原爆投下にふれているのを見る。
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a0087378_513662.jpg そして、8月15日の戦後日本の出発点とする記念日には、地元紙福島民友の「ふくしまの歴史の詩31」に「模擬原爆の破片残る「瑞龍寺」福島市」~「戦争の悲劇今に伝える」の記事があるのを見る。
 そのタイミングと共に、渡利の模擬原爆が、戦争を考えるきっかけとして位置付けられていることにも感心する。
 更に、この記事、瑞龍寺にスポットを当てている事が特徴なのだが、その事によって、もう一つ成程と思ったことがある。
 それは、「福島と戦争」の「模擬原爆」の戦争を語る拠点としての瑞龍寺が紹介されている事だ。そういう意味でいうと、残念に思うのは、「グランド0地点」にかかわる位置表示がない事かな。
 さて、この記事で渡利にかかわる部分を確認すると、着弾の様子を以下のように記される。
 午前8時35分ごろに投下された爆弾は、同市渡利地区の上空でさく裂し、バリバリとすさまじい音が響き、周囲は一瞬火の海のような明るさに包まれた。
 爆風で渡利小の窓ガラスが全部割れ、飛び散った爆弾の破片や爆風で半径2㌔付近の民家の屋根瓦も崩れた。爆弾が落ちた地面には直径約35mの巨大な穴が開き、300平方㍍の池ができたと記録が残る。爆撃で田んぼに出ていた14歳の少年が犠牲になった。
 終戦間近の1945(昭和20年)7月20日のことだった。

 今回整理したこととかかわる部分で、微妙な違いだけ確認しておきたい。
 その一つは、「上空でさく裂し」という部分。
 自分は着弾してさく裂したとイメージしている。したがって、「周囲は一瞬火の海のような明るさに包まれた」というイメージよりは、バリバリとすさまじい音の響きのインパクトが強かったように感じているということかな。
 「爆風で半径2㌔付近の民家の屋根瓦も崩れた。」とあるのは、時計が止まった農家が、爆心地から100mで屋根瓦が吹き飛んだという情報と、福島駅前事務所被害等を合わせた表現かな。
 この爆撃を「米軍資料では、爆撃は、当時、福島駅西側にあった軍需工場を標的にしたものだったが、風に流され渡利地区に落ちたとみられる。」とするのは、爆撃計画目標とのかかわりらしい。この記事でも、少なくとも信夫山の地下工場目標ではないという意味では同じ感覚だと思う。
 今回の講演会で狙ったのは福島駅付近かなと感じたことで、微妙には違いも。
 更には、ここでも瑞龍寺の破片が、日本で唯一の模擬原爆片としていることも、微妙には違うかな。
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by shingen1948 | 2012-11-08 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回の講演会で、模擬原爆着弾遺物として新たに知ったのは、投下の衝撃で止まったという時計。

 講演会の中でも示され、福島市ホームページには、「8時34分で止まった柱時計」として紹介されている
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/1/15.html
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 「8時34分で止まった柱時計」
 柱時計は、模擬原爆の爆弾が炸裂した衝撃と爆風で投下時刻の午前8時34分を指したまま動かなくなった。
 この柱時計を所蔵するお宅は、爆弾が落ちた場所から100メートル位のところにあり、当時の渡利では、まだ珍しかった瓦葺きの屋根であった。
 しかし、そのもの凄い爆風で屋根の瓦は、ほとんどが吹き飛ばされてしまったといいます。
 爆弾投下或いは着弾情報としては、8時34分、8時33分、8時30分過ぎかな。この中の8時34分とすることとかかわるのかな。

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 今回の講演会の中では、投下された方の手紙も、模擬原爆着弾にかかわる物という意味で貴重だと思う。許可を得ていないが、写真自体がぼけているので問題ないかなと勝手な解釈で。
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 特に、投下と着弾にかかわる地図は、情報としてもいろいろな事を語りかけてくるということで、貴重なものだと思う。

 逆に、ネット情報にある模擬原爆片の遺物にかかわる情報の中で、どうかなと気になるのがある。
 その表示に、福島投下目標にかかわる事で、「新潟県への原爆投下を想定し、信夫山の地下工場をねらったものがそれて渡利地区の田んぼに落下し……」とある。その「信夫山の地下工場をねらったもの」という根拠が分からない。
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 専門の方の予測に間違いはないのだろうが、素人の感覚では「信夫山の地下工場」は中島飛行機とかかわるはず。もし、それを目標とするならば、他の空爆方法で、しかも徹底的にやられたのではと勝手に思うだが、……。散歩人の戯言かな。
 その爆弾片は歴史館のもののようにも見えるし、違うようにも見える。違うのなら、福島には模擬原爆片が3個あり、歴史館のものと同じなら、福島には模擬原爆片が2個あるということかな。
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by shingen1948 | 2012-11-07 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
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 今回の講演会に、模擬原爆片として紹介されたのは、瑞龍寺に保管されているもののようだった。これは、亡くなられた方の父親が、息子の命を奪った爆弾の破片を、息子の爆死から十数年後、「息子の供養に」と寺に預けたものと聞く。
 講演会では、この瑞龍寺の模擬原爆片が、日本で唯一のものだというような言い方をなさっていた。
 この模擬原爆片には二つの意味がありそうかな。一つは、「模擬原爆片」の現物ということ、もう一つが、「渡利の方の命を奪った模擬原爆片」ということ。
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 ここで気になっているのが、「「福島と戦争」⑨~模擬原爆(パンプキン)投下」で整理した「米軍500キロ爆弾破片」。これは、当時、歴史館に展示されていたもの。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11229480/
 今も展示されているのかどうかは確認していないが、その時の歴史館の案内表示も、「500キロ爆弾破片 福島市教育委員会蔵」とされている。
 しかし、福島市に落とされた唯一の空爆が模擬原爆着弾なのだから、これが「昭和20年福島市渡利に降下(投下?)セルモノ」ならば、その模擬原爆の破片に違いないと思うのだ。
 先に整理した時には、5t爆弾なのに、500キロ爆弾としている事に着目しているが、今回、仙台空港で見つかった不発弾が250キロとの情報からも分かるのは、500キロ爆弾という言い方は、大型爆弾破片を意識しているという事だ。実際には、それの10倍の当時の人々の常識を越えた超大型爆弾だったことも分かる。
 このことは、当時の日本で考えられる輸送力とのかかわりらしい事を考えれば、B29という飛行機それ自体の輸送力も、当時の日本人が考える常識の10倍だったという事にもなるのではないかなと思う。
 ならば、予定通りに事が進んだと仮定すれば、福島市街地に2発の5tの爆弾が投下されたはず。これが、当時の常識の10倍の超大型爆弾が、2発ということだ。
 確認したかった「充分な殺傷」能力のイメージは、ここでも上方修正されてしかるべきかと勝手に思う。

 それはさておいて、素人には、ここに記録されていることも含めたこの模擬原爆片も「当時の人々の想像を超える大きさ」を示す大切な遺物だと思える。それでも、福島市のホームページでも、瑞龍寺のものしか紹介されないし、今回の講演会でもこれが唯一のものだと言われる。
 素人考えでは、模擬原爆片が二つあってもよさそうに思う。
 その役割は、瑞龍寺のものは、人を殺傷した模擬原爆片として、歴史館のものは、当時の方々の爆弾の常識が分かる模擬原爆片として認めてもよさそうに思うのは、素人考えかな?
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by shingen1948 | 2012-11-06 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)