地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 自分には、いくつかの資料と照らし合わせないと亀岡邸敷地跡がイメージできなかったが、地元の方にとっては、それらは既知の事柄なのだと思う。
a0087378_6142756.jpg 恐らく、この勝手口に案内される旧亀岡家住宅の敷地図を見ただけで、旧桑折町伊達崎小和助地内の亀岡邸がイメージできるのだと思う。

 「亀岡邸敷地跡を推定する」の最後に、明治30年にこの亀岡邸を建てた亀岡正元氏について整理しておきい。なお、「桑折町政だより」によると、この邸を建てた亀岡正元家の体系だった資料は「桑折町史第7巻」に収録されているとのことだが、今回は伊達市文化資料館で頂いた資料の紹介を元にする。
 資料では亀岡家の出自から解説されるが、興味は何故財をなしたかということなので、そのあたりから整理する。

 この地方では、江戸時代から明治にかけて養蚕が盛んになり急速に富農・豪農層が形成さるという。この亀岡家も、江戸時代から「亀元」の屋号を掲げて「蚕種製造」を営み、財を成した豪農層の一つであったとのことだ。
a0087378_6471936.png 正元氏は、その亀岡家7代目源八郎の娘とちと8代目源治の長男金太郎の間に生まれた娘せいの婿養子ということのようだ。
 同じ様に亀岡家7代目源八郎の娘みよと結ばれた8代目源治の次男金四郎が9代目を継いでいるようなので、本家筋はそちらなのだろうと思う。
 その正元氏だが、家業は蚕種製造や農業・地主に加え、金融業も営み、次第に財をなしていったという。以下のような様々な村の役職についていて村の名士でもあったようだ。
 明治25年(1892)6月から21年間は伊達崎村村会議員となり、明治37年(1904)4月から8年間は村長を務めている。その間の明治29年3月から2年間と大正4年9月から4年間は県会議員にもなっているようだ。更に、明治36年(1903)から4年間と明治44年から5年間は群会議員もつとめていたという。
 なお、それらの一切の公務を辞してからは、居を東京都牛込地内に居を移し、金融業を営んでいたということだ。       (写真は「亀岡正元と旧亀岡家住宅展ポスター」より) 
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by shingen1948 | 2016-11-03 09:13 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 昨日の整理で、旧亀岡家住宅の敷地を想像するのに「旧亀岡家住宅解体前写真」の写真に写る情報を使った。
 その写真がこちらだ。
a0087378_548221.jpg 資料館に展示してある昭和50年代の2枚の「旧亀岡家住宅解体前写真」のうち、この南西方向から撮影されたこの写真に電柱が写っている。
 その位置は、旧亀岡家敷地を囲む煉瓦塀の南西角だ。
 地図を確かめると、現桑折町伊達崎道林地区の道路を挟んだ北側には、電柱の傍に「旧亀岡邸跡」の案内柱が建っていることが分かる。このことから、現在も建つ電柱を目印にそこから東側にかけて亀岡家住宅の敷地になっているとの推定をしたものだ。

 自分としては、この写真で解決した疑問がもう一つある。
 それは、この邸の煉瓦の使われ方だ。
 先の「福島の建築 ⑫」の整理では、半沢氏のフィールドワークメモに笹木野の煉瓦工場とかかわる信達の主要な建物の一つに伊達亀岡総本家の名が挙がる事とのかかわりを未決として整理している。
 今回の見学で、ここが伊達亀岡総本家ではなくて、分家筋にあたることが分かった。
 この邸自体は煉瓦造りではないのだが、この写真からこの邸の塀は煉瓦造りであることが分かる。建築の年代から、恐らくこの煉瓦も笹木野の煉瓦工場とかかわるのだろうと想像する。
 なお、勝手口の案内説明によれば、この住宅の南側の座敷棟の外壁は板張りに銅板を貼ってレンガ積みに見せているのだとか。
 恐らく、煉瓦の塀の外からの視点を意識し、その奥に煉瓦風建物に見えるように工夫したのかなとこちらも勝手な想像をする。
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by shingen1948 | 2016-11-01 09:46 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 歴史資料館と亀岡家住宅を見せていただいたことで得られる情報の一つが、この邸の跡地だ。地元では当たり前のことだろうから、取り立てて詳しく解説されることはない。しかし、よそから来た者にとっては結構興味あることだ。
 説明から、この邸の旧地が保原町ではなくて、現桑折町伊達崎らしいことはすぐに分かる。
 資料館の情報と桑折町の情報を組み合わせて、おおよそこの辺りかなとの推定をしてみた。
a0087378_540163.png まずは、桑折町の情報を確認する。
 ここで、この邸の旧地は、現桑折町伊達崎道林地区北側であることが分かる。その位置を地図資料で確認すると、道路を挟んだ北側の電柱脇に旧亀岡邸跡の案内柱が建っていることも分かる。

 次に、この情報に資料館に展示してある昭和50年代の「旧亀岡家住宅解体前写真」の写真から読み取れる情報を重ねる。
 住宅の西側の角には、電柱が建っていることが分かる。つまりは、旧亀岡邸跡の案内柱が建つ位置が旧亀岡家住宅の道路沿いの塀の西角にあたるということが分かる。
 ここから東側にかけて亀岡家住宅の敷地になっているということだ。
 ただ、ここまででは、この邸の奥行と幅が分からない。

 更に、ここに邸の勝手口の案内に貼ってあった「旧亀岡家住宅の敷地図」から読み取れる情報を重ねると、この図に描かれる工場の建物とその西の池が、現在の地図上でも確認できそうだということが分かる。
 これらの情報との重ね合わせで、この辺りと推定したものだ。
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by shingen1948 | 2016-10-31 09:37 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 半田銀山経営にかかわった五代友厚氏が、現在放映中のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で重要な役として注目されている。その視点から先に整理した半田銀山についての記事を関連付けて整理し直してきた。
 今日は、今まで整理してきた「半田銀山」に関する記事を、カテゴリ「半田銀山」にまとめて設定し直してみた。

 その中の亀張水路だが、五代は西洋の技術を導入し、半田銀山を近代鉱山として再建させたこととかかわらせれば、精錬の水源や半田発電所とかかわって整理することになるのだろうか。というのは、五代氏の近代化とかかわるのが精錬の技術であり、動力等の設備とそれにかかわる半田発電所ということなのだろうからだ。
 しかし、この水路は防災や用水路の用途もあるという見え方も大切だ。従って、その範囲も半田山の中腹にある半田沼から半田銀山公園を超えた農地の用水路として眺めることになる。こちらも、今回はカテゴリ「半田銀山」にいれた。それでボケた感じになっているかもしれないとも思う。

 「半田銀山」のその後だが、半田山の地すべりや産出高の減少により衰退する。それで、戦時中には日本鉱業の経営に移るようだ。大正時代に入っては、精錬事業を中止して、鉱石売却に切り替わるようだ。引き込み線の整理は、そのこととがかかわるのかもしれない。
 しかし、これらの努力にもかかわらず、再建はかなわなかったようだ。昭和25年(1950)には休山となる。その後も鉱脈調査が行われたようだが、昭和51年にはついに廃鉱となったようだ。

 現在、銀山で使用された道具などは旧伊達郡役所に展示され、銀山関連の古文書は「桑折町史」第9巻に収録されているという。そして、記念碑等の一部が、半田銀山史跡公園に移設されているという状況のようだ。
 なお、今回はカテゴリ「半田銀山」の方で整理した「旧伊達郡役所」は、福島の建築のカテゴリに整理したいようにも思う。
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by shingen1948 | 2016-02-12 18:45 | 半田銀山 | Comments(0)
 朝の連続テレビ小説「あさが来た」で、開拓使官有物払下げ事件を取り扱っていた。明るいキャラの主人公のヒイキの視点ではあるが、五代にかかわる負のイメージだ。
 世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となる大きな事件なので取り扱わざるを得なかったのかもしれないし、肯定的な取り扱いではあるのだが、裏面にも触れたところがいい。
 経緯としては、その後もひっそりと西軍の反覆計画に活躍した華族の方や有力財界人が甘い汁を吸っていたところがあるようだが、詳しくは知らない。

 半田銀山の五代氏にかかわる裏面情報にちらりとふれてみたのが「明治天皇半田銀山行幸裏面情報~半田散歩から26」の整理だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15893103/
 地域話題では、地元の資料からこの裏面を拾うことは難しい。ただ、現在の視点に立てば、鉱山は水質にかかわる公害発生が伴うはずだとの視点で、資料を眺めていると、直接的には取り扱わないのだが、どこかでふれてはいることに気づきせいりしたものだ。

 安い労働力にもふれてみた。
 今までうまくいかなかった経営がうまくいくようになるのには、先に整理した最新技術の取り入れという格好のいい話とともに、安い労働力というどちらかというと裏面史にかかわることがある。
 ここでは囚人労働者エピソード情報に視点を絞ってふれてみた。
〇 半田銀山の囚人労働者エピソード情報~半田散歩から25
 http://kazenoshin.exblog.jp/15854282/
〇 半田銀山の囚人労働者エピソード情報②~半田散歩から25
 http://kazenoshin.exblog.jp/15886524/
 この安い労働力にかかわる情報も、地元資料からは拾いにくい。
 昔は地元をこつこつと調べている方と気軽にお話をさせていただく機会が多かった。その話の中には、大きな施設の建設に伴う安い労働力にかかわる情報が簡単に飛び出した。ただ、その方が整理された資料を見せていただくと、それが見事に消えているというのが常だった。多分、ふれた後の反響を想定し、その対処の面倒さに巻き込まれたくないという意識が働くのかなと思ったりしたものだった。
 これにふれられるのは、よそ者の強みの一つかもしれないと思っている。
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by shingen1948 | 2016-02-11 06:54 | 半田銀山 | Comments(0)
a0087378_682216.jpg 特別展「半田銀山と五代友厚の足跡」のポスターの中央に主人公の五代友厚氏が写るが、その背景に半田銀山関係施設が写る。その上部写真が、大正初期の半田銀山事務所と精錬施設だと思われる。精錬技術の進歩で、今まで精錬できなかった鉱石からも採取に成功したことが、五代友厚氏の半田銀山経営を軌道に乗せた要因の一つということらしいので、この「精錬施設」は五代氏にとっては重要な意味を持つ施設のはず。また、「半田銀山事務所」は、明治天皇の臨幸を仰いで、お休みいただいた施設で、権威づけとして重要な施設のはず。
 しかし、これらの施設は現存しない。
 半田銀山の散歩では、「『史跡 半田銀山跡』」 ~ 半田散歩から27」で、この「半田銀山事務所と精錬施設」の位置を推定している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15899636/
 ここで、明治天皇半田銀山行幸裏面についてちらりとふれているが、このことについては「明治天皇半田銀山行幸裏面情報~半田散歩から26」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15893103/
 この施設の場所の推定には、現在「半田銀山史跡公園」内にある「明治天皇行幸記念碑」が元々建っていた場所を特定する以下のような作業を通している。
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?~半田散歩から⑮
 http://kazenoshin.exblog.jp/15771064/ 
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?②~半田散歩から⑯
 http://kazenoshin.exblog.jp/15778577/
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?③~半田散歩から⑯
 http://kazenoshin.exblog.jp/15786162/
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?④~半田散歩から⑰
 http://kazenoshin.exblog.jp/15793943/
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?⑤~半田散歩から⑱
 http://kazenoshin.exblog.jp/15815349/
〇 明治天皇行幸記念碑の旧地?⑥~半田散歩から⑱
 http://kazenoshin.exblog.jp/15822843/
 なお、左下に写るのが「五代を祀る祠」で、右下に鉱山軌道が旧羽州街道を越えるために造られた跨道橋跡の石垣が写るようだ。昨日整理したように、どちらも「半田銀山史跡公園」内に現存する。
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by shingen1948 | 2016-02-10 06:16 | 半田銀山 | Comments(0)
 半田銀山遺跡を気軽に現地で確認するのはなかなか難しい。
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 とりあえずは、南半田字女郎橋地内の史跡公園に出かけることになるのだろうか。ここには、鉱山軌道が旧羽州街道を越えるために造られた跨道橋跡の石垣があって、昭和60年にこれが町の文化財(史跡)に指定されているようだ。
 ここには、他に「半田銀山坑夫供養塔」や「明治天皇行幸記念碑」も集められている。

 「半田銀山史跡公園」は、最初にここに立ち寄った時に整理したものだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7768175/
 「明治天皇東北巡幸」にかかわっては、別にも整理し直している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7748013/ 
 なお、明治天皇東北巡幸碑がここに移される前の場所については、半田散歩の中で確認している。

 再びこの公園に立ち寄ったことを整理したのは、2012年の半田散歩で、坑口「再光」とそのトロッコ道まで想像が膨らんだこととここの石垣がイメージ的につながったことがきっかけだ。
 再び「半田銀山史跡公園」に立ち寄って~半田散歩から⑬
 http://kazenoshin.exblog.jp/15752265/ 
 その坑口「再光」とそのトロッコ道まで想像が膨らんだことについては、「坑口「再光」の想像~半田散歩から⑫」に整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15745578/
 再び「半田銀山史跡公園」に立ち寄って②~半田散歩から⑭では、「五代を祀る祠」についても整理していて、こちらが今回の整理との関連が深いかも。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15759188/
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by shingen1948 | 2016-02-09 09:50 | 半田銀山 | Comments(0)
 福島市の県歴史資料館では、五代友厚の関連資料を公開したとのことだが、それは地域の名士である早田氏とかかわる具体的な資料提示のようだ。
 先の半田銀山散歩の中で、この早田氏にふれている記事を確認しておく。
 まずは、「半田銀山遺跡」の整理。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7764484/ 
 この記事の中では、衰退してしまった半田銀山を再生しようとする地域の名士である早田氏にもふれている。この写真は、その早田邸の再掲。
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 ここでは、旧伊達郡役所に展示される早田氏についての説明を基にした紹介の確認だ。ただ、この散策の時点では、旧伊達郡役所自体が震災で公開できる状態でなかったので、以前に訪れた時の情報を元に整理したはずだ。
 早田氏は、慶應3年から明治3年まで銀山を経営していた明治初期の代表的な銀山経営者とのことだ。
 元治元年(1864)から百二十数年続いた幕府経営がうまくいかずに廃業となり、このために山に住み働いていた坑夫達は全く生計の道を失い、まさに飢餓に陥るような状態となっていたという。この様子を見過ごすことができないといって経営に乗り出したのが、この早田氏とのことだ。
 地域の名士紹介にありがちな美談のデフォルメを疑がったが、庄司氏によると、信達地方の名主層がそういった心学に基づいて行動することはごく普通のことだったとのことだ。
 当時の代官政治では、豪農名主の農村対策に待たざるを得ないという状況であったらしのだ。信達地方の名主層の蓄積した資力で貧農の施米・樅の貸付・米金の貸付などの貧農救済事業も道普請河川修復等も含めて農村対策をするということはごく普通に行われていたこととのことだ。

 その早田家の銀山経営も坑内事故などで必ずしも順調に言っていたわけではなさそうだ。そういう状況の中で、昨日整理の情報が重なるようだ。
 明治7年6月14日には、その早田氏を半田銀山再開発の現地事務代理人として任命したということだ。そして、翌明治8年6月9日付けで年報酬50円を約束したということだ。
 このあたりからが半田銀山の五代氏経営ということであり、翌々年の明治9年7月25日には、半田銀山の再開発に成功したようで、現地代理人としてその事務を早田氏に委任したということだ。

 実は、ここで張り付けた早田邸の写真は、羽州街道散策途中に趣のある景色として写真に収めたものだ。この時は早田邸を意識していなかったのだが、後で早田邸だと気がついたものだ。
 桑折町散策ガイドブックによると、この早田家の邸宅は、銀山経営や新道開削など、地域発展のために尽力したとして町の指定文化財になっているとのことだ。
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by shingen1948 | 2016-02-08 18:17 | 半田銀山 | Comments(0)
 県歴史資料館では、現在「新公開資料展」開催中のはずだが、桑折に足跡を残す五代友厚の関連資料公開が始まったとの新聞報道。報道からも「新公開資料展」がメインで、その一角に五代友厚手持ち資料を展示したということなのだろうことは読み取れる。ただ、五代友厚が話題なので、報道としてはそちらがメインの見出しをつけた報道になっているのだと思う。
 五代友厚、桑折に足跡 3月21日まで関連資料公開始まる【福島民報2016/1/29】
a0087378_9371545.jpg 福島市の県歴史資料館は28日、NHK連続テレビ小説「あさが来た」に登場していた五代友厚の関連資料4点を公開した。3月21日まで。
 同館の収蔵目録に五代の資料についての記述があったことから、同館で開催している収蔵資料展「新公開史料展」に合わせて追加で初公開した。
 展示しているのは(1)明治7年6月14日、五代が桑折町の半田銀山再開発の現地事務代理人として、地元の名主だった早田伝之助を任命したことを、県令安場保和に届けた「代理御届写」(2)同8年6月9日、五代が早田に年報酬50円を約束した証書(3)同9年7月25日、五代が半田銀山の再開発に成功し、現地代理人として事務を早田に委任した委任状(4)江戸時代後期に出版された日本名山に関する図録で、半田銀山の山容や銀山町の様子が描かれた名山図譜。
 証書と委任状は現物、写と名山図譜はパネルで展示している。2月1日から5日、8日、29日、3月7日は休館。展示期間終了後は、同館で閲覧申請すれば手に取って資料を見ることができる。
   ◇  ◇ 
 「あさが来た」では五代役を須賀川市生まれのディーン・フジオカさんが演じ、注目を集めた。
 個人的に注目しているのは、以下の展示内容のうちの「早田伝之助」とかかわる(1)~(3)までの文書。ただ、あそこは一切の撮影が禁止なので、この報道以上に情報を確認することはできないはず。
(1) 明治7年6月14日、五代が桑折町の半田銀山再開発の現地事務代理人として、地元の名主だった早田伝之助を任命したことを、県令安場保和に届けた「代理御届写」
(2) 同8年6月9日、五代が早田に年報酬50円を約束した証書
(3) 同9年7月25日、五代が半田銀山の再開発に成功し、現地代理人として事務を早田に委任した委任状
(4) 江戸時代後期に出版された日本名山に関する図録で、半田銀山の山容や銀山町の様子が描かれた名山図譜。
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by shingen1948 | 2016-02-07 09:41 | 半田銀山 | Comments(0)
 NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物五代友厚から、大阪を中心に活躍する実像の友厚氏のイメージがつかめたような気分にはなれたが、それが半田銀山とかかわるという必然性のようなものがつかめていない。それで、五代友厚氏の鉱山事業にむすびつきそうな経歴を探すと、「金銀分析所経営」というのが目につく。この仕事は、全国各地から小判や丁銀などの金銀類(偽物も含む)を買い集めて、潰して地金にする事業のようだ。
この頃は、明治政府が発行した太政官札や徳川時代の小判や一分判金、一分銀、丁銀、天保通宝、寛永通宝、ローカルな藩札や地方貨などが入り乱れていたという。明治政府は、明治4年(1871年)の新貨条例で、その世の中に流通していた様々な通貨を「円」に統一すると決め、通貨として全国的に通用する貨幣の発行するのだが、同時に世の中に入り乱れて流通している貨幣の回収を急がなければならなかったということだ。
 金銀分析所経営は、そういう意味では造幣局や大阪証券取引所の設立ともかかわるらしいとも見える。もう一方では、これに目を付けた友厚氏の独占事業であり、この金や銀の回収と並行して、これを資金源としてビジネスを広げる形で鉱山事業の経営にも乗り出したということでもあるようだ。

 鉱山事業の経営に絞って、五代氏のその経緯を確認する。
 政府は国策上主要鉱山を政府直轄にする方針をとり、明治4年(1871年)9月には工部省鉱山寮がおかれる。こうした中、友厚氏は松友社という名義で、明治3年(1870年)5月から多くの鉱山を次々と開坑していくようだ。
 明治6年(1873年)資本金数十万円を投じて大阪に弘成館を創設して鉱山経営の規模拡大を図る。豊富な資金力を背景に友厚は多くの鉱山を開発、買収して、その傘下に鉱山を収めることになる。
 中でも、半田銀山を経営することになった明治7年(1874年)には、新たに東京築地入船町に出張所を設け、こちらを東弘成館とし、大阪の方を西弘成館と呼ぶようになったという。
 これが見事な組織整備と規則整備で、多くの人たちの注目を集めて賞賛を浴びたのだとか。地元で、半田銀山は佐渡金山・生田銀山と共に日本三大鉱山と並び称された鉱山だったとは聞いてはいるのだが実感を持っていなかった。五代氏のこの力の入れ方でそれを実感する。

 ここまでの整理で、大阪の五代氏と半田銀山経営のイメージが何となく結びついたような気分になれた。そして、山散歩で感じた近代設備を駆使した大規模鉱山事業というイメージの背景のようなものも確認できたような気がしている。
 この銀山が生む莫大な利益と資産が、大阪復興に還元されていったということでもあるのだろうなとも思う。
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by shingen1948 | 2016-02-06 17:42 | 半田銀山 | Comments(0)