地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 ここから先、右手からの道と合流した地点で、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 そこまで、街道は何の変哲もない田園地帯を通るのだが、自分としてはその左手の風景が懐かしい。
 ここは、先に整理した「松川鉱山」の散策で、搗鉱場の地を推定するために歩き回った風景なのだ。

 大正の始め、橋本組によって再開された松川鉱山では、良質鉱の一部を青金の段階まで自家製錬して売却したとのことだった。
 この精錬所を地元では、搗鉱場と呼ぶのだそうだが、これが古天神地内に設備されていたとのことだった。
 その地を推定するのに、注目したのが「水力を利用して石臼の鉱石をスタンプで搗き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていた」とあったことだった。
 要は水車を利用して鉱石を砕き、それを水銀アマルガム法で精製していたということだ。

 当時の水路が推定できれば、その搗鉱場の地が推定できるのではないかということで、小字名と照らし合わせて当時の水路を推定した。
a0087378_7124596.png 先の整理では推定した水路に視点を当てたところだが、今回の散策とかかわるのは小字名の方だ。
 前回整理した「信夫隠」を過ぎた辺りの地名が「古天神」である。その更に左側に「宿地」がみえる。そこを過ぎた地点が「八丁目」だ。

 地元では中世に「宿地千軒」という栄えた町が、この「宿地」にあったという言い伝えがあるらしいのだ。

 15~16世紀初め頃、奥大道の宿の町として「宿地」を中心に、その東は「古天神」辺りまで、西は「薩摩」の西側の西光寺の旧地とされる「本西」辺りまで、そして北側は「梅崎」の先の「上木戸内」「下木戸内」辺りまで栄えていたではないかとの推定のようだ。
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by shingen1948 | 2017-07-09 09:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5405918.jpg 「街道Web」の写真と照らし合わせると、「橋供養塔」が建っているところから道路を挟んだ次の電柱の手前やや右手に「信夫隠の碑」とその案内板が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置だと思う。


a0087378_5415766.jpg 現在は、「信夫隠の碑」とその案内板も「橋供養塔」と共に、「立正院」の入り口に移されている。


 信夫隠の碑
 碑文

 隠母日夜留    お(隠)もひやる
 居巳露之意苦鳴  こころ(之)のおくを
 目浪作偲止    もらさ(作)し(偲)と  
 旨迺父可絇次破  し(旨)のふかくし(次)は
 衣手何當物跡香  そで(手)かたもとか

 和歌の大意
 思ひ遣る 心の奥をもらさじと
 忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
 (思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげたものです)

 建立時代
 碑文の落款に見ることができる
 慶応二年丙寅に建立

 松川・町づくり委員会21
 松川町観光協会

 境川から道沿いにこの辺りの地名が信夫隠(しのぶかくし)であるのだが、その由来ということなのか、その地名を読み込んで詠んだという事なのかは分からない。
 いづれにしても気になるのは「信夫」の部分だ。歌枕の信夫山との関りなのか、信夫郡とのかかわりなのかが分からない。

 その詠み人も分からない。地元の方なら、そういう教養人がいたという誇りとかかわるのだろうし、他所人ならその地名のついた地に対する誇りとなるのだろうと思う。
 その辺りの曖昧さも残る。

 どうでもいいこと二つ。
 その一つは案内板の事だが、「街道Web」の写真と見比べると、案内板設置者に「松川・町づくり委員会21」が加わっている。新たに作り替えたものだろうと思われる。
 もう一つは、「街道Web」の「信夫隠の碑」とその案内板の写真の右手に写りこんでいた石碑。ちょっと気になって確認したら、昭和37年に建立された「桐生幸蔵翁の碑」であることまでは分かった。
 氏は明治31年に信夫郡松川町に生まれた人で、田植えの天才で農業振興に功績があった人物らしい。
 その碑の現況までは分からなかった。
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by shingen1948 | 2017-07-08 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
a0087378_8394325.jpg 街道を散策する時にいつもお世話になっている「街道Web」によると、橋を渡って次の道筋と交わる左側に「橋供養塔」が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置に道路に面して建っていたのだと思う。


 a0087378_8404418.jpg 現在は、その「橋供養塔」は、この左手前の「立正院」の入り口に移されている。
 その傍に建つ松川観光協会の案内板の解説によると、境川に架かる橋が石橋になるのは、この松川地域が二本松藩領になる天保4年(1833)以前の出来事らしい。



  橋供養塔

 寛保3年(1743)から天保3年(1832)まで、この周辺は境川を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領であった。その為、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していた。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかった。
 幕府、二本松藩のどちらが許可したかなどの経緯は不明だが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ケ岡、天明根、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い石橋が造られた。住民はこれを大層喜び、橋供養塔を建立したと伝えられている。
 橋供養とは明治期まで庶民の習わしで、橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられた。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがある。
 この橋供養は高さ約140㎝、幅約40㎝の角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財である。

  平成19年3月
 松川町観光協会

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by shingen1948 | 2017-07-07 09:37 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 松川鉱山にかかわっていろいろ歩き回ったところは、八丁目宿南端部分と接したり重なったりしている。その時に、先に「八丁目宿」を散策したことがあったのだが、整理したのはその中心地でしかなかったことに気が付いた。
 それで、その南端にあたる付近を散策してみようかなと思った。

 その定番、奥州街道の安達郡と信夫郡の境を流れる境川にかかる橋からスタートする。
a0087378_6564547.jpg ここを渡ると安達郡(現二本松市)から福島市に入る。
 八丁目宿を念頭においてここを整理するには、ここが二本松藩と福島藩との境なので、宿の南端に口留番所があったとしたいところだ。
 しかし、そう表現できない理由の一つに、福島藩が板倉藩の時代は、この辺りまで支配することができていなかったということがある。信夫郡側のこの辺りは川俣代官所支配の幕領だったようだ。

 もう一つあって、幕末にはここも二本松藩領になっていたということだ。
 天保4年(1833)に、八丁目村は、現松川町の鼓岡村・天明根村や現松川町水原の上水原村下組や下水原村と共に二本松藩に組み入れられているのだ。
 二本松藩では、この信夫郡の二本松藩領を八丁目組として編成して、代官所を鼓岡村に置いて支配したとのことだ。

 そして、この組み換えには、10年前の文政5年(1822)12月の二本松藩への駆け込み訴えがかかわっているともいわれているらしい。
 当時幕領だった八丁目村など8ケ村が食料の借り入れや年貢収めの延期を要求して二本松藩に駆け込み訴えをしているのだが、この時に幕領から二本松藩領になることを望んでいたともいわれているのだそうだ。
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by shingen1948 | 2017-07-06 06:58 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

土合館に立ち寄る

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 土合館に、立ち寄ってみた。土合舘公園として整備されているが、城館跡としての整備ではない。ただ、遺構としてみれば、それほど崩された訳でもない。


 基礎となる平場は、南北に長く広がっている。
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 その上に、入り口の近くに、やや高めの円形の平場が載っている。そして、周りは土塁かなと思われるもので囲まれている。


 そして、その南側に一段高い平場が載っている。
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 一段高い南の平場が、この丘陵の頂部になっているようだ。


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 ここには駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀された駒形稲荷神社がある。ここが、主郭であり、恐らく館があったろうということは直に想像がつく。


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 そこから、南西の方向に降りると基礎となる平場が細長く南西に伸びている。そこは、奥州街道の方向が良く見える展望台になっている。

 ここは、八丁目城から旧奥州街道を挟んで南東の位置にあり、観光協会の案内板にあるここは八丁目城の支城としてつくられて東館と呼び、八丁目城が西館と呼ばれていたという説明が良くわかる。
 この観光協会の案内板によると、築城は、天文十一年(1542)八丁目城主清野遠江守の父備前守と説明する。そして、その経緯については、八丁目城の経緯と土合館は対になっていたとする。
 そして、この起源は不明としながらも、鎌倉時代からも、要衝地としてこの地の領主は、この山を重要視していたのではないかと想像している。

 北側の平場に、ここを館として説明する案内プレートがある。
 土合山は松川町の東南字土合館に位置し、標高228.1m周囲1226m公園面積約5.5ha山上に館跡あり、即ち土合館である。その名の由来や起源は詳かではない。
 水原川とその両側に広がる平地を堰止めるが如く立つ独立山なので、山上からの展望はよく松川町の全容を一望におさめることができる。
 遠くは鎌倉時代、佐藤秀行がこの地の領主となり、次いで相馬重胤、南北朝合一の頃伊達宗遠が領主となり以降も戦乱が続き攻防にすぐれた当土合山が重要な役割を果たしてきたものと推測される。
 史書によれば、天文11年伊達稙宗はその子晴宗と相争い、八丁目に陣し、それから7年間戦いが続いた。この時、八丁目城主(愛宕館)は、清野遠江守、父備前守はここ土合山に館を築き備えた。それ故俗に隠居館とも言う。
 土合館を東館、八丁目城を西館、とも呼び、東館は西館の支城なるもその規模は大きく堅固であった。館の東北即ち今の字町畑には市街をつくり士卒をすまわせたと言われている。
遠江守は伊達家にそむき自害し、堀越能登守城主となるも二本松の畠山義国と内通したため、天正2年伊達家の命により伊達実元八丁目城を奪回しその後は城にとどまり同15年卒す。
天正13年伊達政宗の父輝宗が二本松の畠山義継に殺されるや、八丁目東西両館根拠に戦いをすすめ、伊達軍の勝利となり畠山家は滅亡した。
 実元の子成実は二本松城代に任命されるに及び、八丁目城は二本松の支城となり、家士20余騎、足軽50人鉄砲50挺をもって東西館を守備したが天正19年秀吉命により、政宗が移封された後は東西両館は廃城となった。
 土塁や空堀の残る館跡に佇めば興亡変転幾星霜館跡には、館の守護神として祭ったといわれまた後に奉遷したとも言われる駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀されている。
松川観光協会
昭和56年4月

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by shingen1948 | 2008-06-14 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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奥州街道は、二本柳宿から進んでくると、T字路に突き当たる。奥州街道はここを左折して進む。昔は自然な曲線であったろうから、道なりに進めたのだろうと思う。
ここを、左折すると、現在県道52号土湯温泉線である米沢街道に入る。ここが米沢街道の基点だ。この道は、八丁目城の入口前を通り、八丁目城の山裾を回り込むように進む。


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雇用促進住宅が過ぎたところに、「米沢街道追分」の案内表示がある。この支柱、今年に入って福島市内のあちこちに建った。行き当たりばったりに散策する者にとってはありがたい。この地点も、土湯温泉線から米沢街道に入るのに分かり難い地点だ。
 ただ、その道標がみつからない。もう一つしっくりしないのは、「追分」としては、先のこの街道の基点であるT字路の所ではないのかなとも思う。この支柱を立てた方も、多分どこに立てるかというときに、そこを迷ったのではないかと推測する。

 この街道は、本拠を米沢に本拠を移した伊達氏によって整備され、福島城下と米沢城下を結んだという。江戸期には、他の諸大名は先に散策した小坂峠を越える羽州街道を利用していたが、米沢に移された上杉氏の参勤交代にはここが利用されていたという。
 このルートが衰退したのは、明治になって万世大路や奥羽線が開通したからだ。


 米沢街道の起点になったところを、奥州街道は左折する。「八丁目宿本陣の桜内家」だったガソリンスタンドをまた左折する。
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そして、次の「常円寺」前の所を右折して奥州街道は進み、石合町に入る。


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 更に、奥州街道は、ここを400m程進んだところの交差点を左折して進む。この地点が、奥州街道と相馬道との追分になる。直進するのは相馬道である。
 ここの角には、石灯篭形の道標が建っている。6角面に地蔵の浮き彫り施した六角石である。ここにも、最近白い支柱が立った。

 この宿は、本街道である奥州街道と、米沢街道・相馬街道が交差する要としての宿駅であり、八丁目城の城下町から発展して賑わいをみせていたということだ。
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by shingen1948 | 2008-06-08 07:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(5)

戦国の山城 八丁目城④

 八丁目城の成立とその変遷については、入り口の案内板の説明が、簡潔で分かりやすい。
 その中で注目したのは、稙宗と晴宗の天文の乱の時に、ここに稙宗が在城したことだ。そして、この乱の影響で城主の交代劇がるのだが、それが、晴宗の兄弟でもあり、乱の原因の一因ともなった実元が隠居する城という関わりもいい。
 先に大森城に行き、次に西山城に行ったことのまとめをしているような感じだ。

 戦国の山城 八丁目城
 八丁目城は戦国時代の16世紀伊達稙宗(陸奥守護・桑折西山城主)の支城として築かれた。
子息晴宗と戦った天文の乱には、天文12年(1543)8月から1年半ほど稙宗が在城している。
 城主は初め堀越能登守だったが、天文の乱に勝利した晴宗(奥州探題米沢城主)は清野備前守遠江守父子を城主にすえた。
 遠江守が、晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが、天正2年(1574)大森城主実元(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
 実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実が、また、天正14年以降は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
 天正18年、秀吉の奥羽仕置により城は破棄されるが、おおよその城構えは残されて現在に至り、貴重な文化遺産となっている。
 築城に際し南約1kmの字宿地から移されて成立した八丁目の城下町(本町・中町・天明根町・向町)は築城後の江戸時代には宿場町として、奥州街道で屈指のにぎわいをみせた。
                                福島大学名誉教授  小林清治

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 この城の前の道を土湯方面に進むと、この城の南側の様子が見える。こちらからは、城のそんざいすら見えない。守りの堅そうな城である様子がよく分かる。

 この城を回り込んだ所が、米沢街道の追分け地点になっている。
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by shingen1948 | 2008-06-07 06:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

戦国の山城 八丁目城③

 昨日まとめたところは、南側の平場だ。
 祠が沢山無造作に置かれていたところが、案内図の南端の平場であり、次の鳥居があった広い広場が、案内図の一段高くなった平場である。そして、壊れた神社の建物があった広場が、案内図の、手前の丸い平場である。
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そこから、奥に行くのは、難しそうなので、北側の低地に一度降りる。これもなかなか大変なのだが、どうにか降りることができた。


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 そこも平場になっている。ここの草むらを西に向かう。


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 その草むらを進んでいくと、愛宕様に向かう石段に突き当たる。   


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 これが愛宕様で、外見は立派な神社なのだが、中を見てみると朽ちている。


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 そこから、更に一段高まったところがあって、そこを登る道がある。


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 そこを登ると、館があったという広場に出る。
でかいまむし草が生えているのが印象的だ。


 北側の平場は畑になっているようだ。
 愛宕様から自然に降りられる道を辿ってみる。畑の脇道を東に向かって降りていくようになる。そして、たどり着いたのが、幼稚園の脇だった。
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 ここに立ってみると、南の平場に行く道と中央を進んで愛宕様から館跡に行く方向が見定めることができる。
 いわゆるここが大手門といったところだろうと勝手に思う。全体が見えないうちは苦労したのだが、全体がみえると、それほど苦労して探索するような山ではないことが分かる。
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by shingen1948 | 2008-06-05 19:08 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

戦国の山城 八丁目城②

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奥羽街道から土湯方面へ向かう道に入って少し行くと、八丁目城跡の案内の標識が建っている。ここは、元松川小学校だった所らしい。


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案内板の図を頼りに、方向を見極めるが、よく分からない。兎も角、登れそうな所を探して一段高台に上ってみることにする。


ゲートボール場らしい所から見ると、上にフェンスがある。とりあえずそこまで登ってみる。
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そこから、細道があって、その道に沿って高台に向けて登ると、平場があって、祠が沢山無造作に置かれている場所に出る。


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そこから、また少し登ると、平場があって、上り口に鳥居が見える。


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  その鳥居をくぐって上ると、崩れた神社の建物があって、その奥に平場が広がっている。
後で、分かるのだが、ここらあたりが、案内図にあった一番南端の平場のようだ。


ここから奥に進もうとしたが無理なようなので、一度北側の低地に降りてみる。なんとなく道筋が見えて、館跡に行けそうな気がしてくる。北西の高台平場の方向をめざす。
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by shingen1948 | 2008-06-03 20:55 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
  西山城の散策について、先に整理したところだが、16世紀にその支城として、西山城を整備してその城主となっていた伊達稙宗(陸奥守護)が、その支城として八丁目城を築いている。
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八丁目宿近くは何度か来ているので、常円寺の裏山あたりに、八丁目城があることは漠然と分かっていたが、散策しにくかった。
駅がここから遠く離れたのは、宿場の車夫の仕事と共存するためという歴史があるからではあるのだが、少し不便だ。車で出かけると、散策以外に目的のない車をとめる場所が見つけにくいということもある。
自分の散策の仕方として、電車などの交通機関である地点まで来て、そこから目的とする周辺を探り全体の雰囲気をつかんで散策するというやり方だからだ。

今回は諏訪神社に立ち寄れた。
ここから全体の雰囲気をつかんで、八丁目城をどう散策するかが見通せた。
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  諏訪神社の鳥居の右脇に道があり、その道を進むと墓地になっていて、その奥に行くのは難しそうだった。


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とりあえず戻って、石段を登って鳥居をくぐる。


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そこに、諏訪山のさくらの案内板があって、ここに植えられている桜の説明をしている。それによると、伊達政宗公に縁のある桜とのことだ。
天正年間(1573~1587)伊達政宗公が江戸より桜の苗木を大量に買い求め、各地の宿駅を経由して仙台まで運搬した。途中、この八丁目宿問屋場に休憩した際、お願いして苗木3本を頂いて、植えた一本であるとのことだ。
ほかの一本は、竹之内の狐水稲荷の桜と伝えられているとのことだ。
樹齢約は400年で、樹高10.0m、胸高周囲4.5mあって、昭和58年福島県緑の文化財として登録されたという。


 いわれは分からないが、岩を奉る姿勢が伺える。ご神体なのだろうか。
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  神社の南側に常光院が見える。この山際に神社仏閣が並んでいて、北から、常円寺、ここ諏訪神社、常光院が並ぶ。


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 そして、盛林寺と続き、西に回りこんで常念寺と寺が山の縁にそって並んでいる。

  八丁目宿は、この城の城下町であったのが、江戸時代、奥州街道で屈指の宿場町として発展したものらしい。このことと、街道沿いにある神社仏閣と山の縁のそれとを結びつけて想像すると、それらの歴史的な背景は別にしても、宿場の道筋が感覚的に納得できる。

二本松方面からきた奥州街道は、この城の前で右折し、現在ガソリンスタンドになっている本陣で、左折して北に向かい、更に、常円寺前で右折するという道筋になっている。
 これは、城であるこの山を回りこんで裏道に神社仏閣が並び、その前に八丁目宿が発展するというイメージだ。
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by shingen1948 | 2008-06-01 07:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)