地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 前回まで、この神社と「忍幢律師」とのかかわりを確かめてきた。
 このことは、明治政府の神仏分離令によって改変された神社が普通に見える現代では、奇異な感じもする。それで、案内板ではこの事にはふれないのだろうと思う。
 ただ、この神社が神仏混淆時代を色濃く残す神社であるという特色は解説したいという事で、拝殿の花頭窓とか、石灯籠に別当「西光寺」が刻まれるといった形式的なことからの説明を試みているのだと思う。

 しかし、明治政府の神仏分離令以前は、天神信仰の発足には天台宗・真言宗それぞれの僧侶が関わっていたこともあって、当初から仏教との関わりは強かったということのようだ。神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われたり、境内に神宮寺が建てられたりしていたという。

 天神信仰と仏教との習合には、怨霊や疫神をしずめる御霊会とのかかわりがよく解説される。
 元々の天神は火雷天神のようだ。
 道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったりしたことがあって、この火雷天神と道真公とが同一視されるようになったのだとか。その怒りを鎮めるため、道真公は神格化され祀られるようになったとのこと。これが、天神信仰と御霊信仰との結びつきのようだ。

 前回整理の「忍幢律師」とのかかわりを確認すると、「松川のあゆみ」で忍幢律師が大宰府天満宮分木を当地へ送る話が、次のように紹介されている。
 「律師は、幼少の頃より天満宮を信仰していた。ある夜、夢の中に菅公が現れ、『東風ふかば……』の歌を詠じ、話されるのを聞いた。律師は感涙して、大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠った。その後、飛梅の分木をいただき、当地へ送ったという」

 律師の夢枕に菅公が現れ何かを訴えられたというこの場面と、律詩がすかさず大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠って祈ったというあたりに、御霊信仰と結びついた天神信仰のようなものを感じるが、どうだろうか。

 ただ、よそ者の自分にとっては、散策を通して得た情報を元に想像するものであって、これは本物ではない。地元の方が生活を通して感じてこそ本物なのだろうとは思う。
 地元とかかわらない者には、せいぜい形式的なものから感じ取れる範囲でしかないというのは現実的な事なのかもしれない。

 なお、案内板の現在の祭礼をみると、現在は主として学問の神様として祭られるようだ。
 このことを天神信仰の変遷として見れば、時代が進んで祈りによって怨霊の働きが鎮まったという事なのだろう。
 それで、道真公が本来学者の才覚がある文学者であり、政治家であったことが思い出されたということで、学問の神様として祭られるようになったととらえればよいのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-07-23 15:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」の「忍幢律師」情報は更に詳しい。
 
 まずは、以下のような「忍幢律師」そのものの情報。
 「(忍幢律師は、)八丁目に生まれ、安政7年奥州福島城西真浄院に病み没する」とのこと。

 次に、「信達二郡村誌」に社前に飛梅と称する古木に関する情報。
 同誌では「古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」とあったが、忍幢律師はこの飛梅の分木を頂くのに、大宰府に行って筑紫の天満宮に籠ったのだとか。そこで得た分木を当地に送ったものなのだという。
 ただ、残念ながらその木は枯れてしまったそうで、同誌が発行された昭和48年11月現在の飛梅は2代目だとのことだ。

 更には、天満宮本地仏十一面観音にかかわる情報がる。こちらも忍幢律師がかかわるようだ。安永7年天満宮に本地仏として十一面観音を安置したいと師慧海に願い与えられたものとのこと。
 この十一面観音は、弘法大師の作で、河内国道明尼律寺の二之室住持春澄妙照大姉の持仏だったが、慧海に寄進されたものだといわれているのだとか。

 「松川のあゆみ」の「忍幢律師」情報では、奏楽寺とのかかわりについては一切ふれられていない。したがって、師慧海は真浄院かかわりのように読み取れる。
 ただ、奏楽寺の情報を確認した時に、1759年奏楽寺の堂字を再建された方が僧 恵海であるとの情報を得ている。忍幢律師が奏楽寺住であることは既知の事としているのだとすれば、この方が忍幢律師の師の可能性もあるなと勝手に思っている。というのは、秦楽寺かかわりならば、天満宮本地仏十一面観音弘法大師の作というのも、結構説得力がありそうに思えるからだが、実際のところは曖昧なままだ。
 
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by shingen1948 | 2017-07-22 16:26 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_983412.jpg 案内板の解説にはないのだが、この八丁目の天神信仰に大きくかかわっていらっしゃると思われる方がいらっしゃる。
 その方は「忍幢律師」とおっしゃる方で、「信達二郡村誌」によれば、「師は本村の産にして大和国奏楽寺に住し 此神を尊信する他に異なり」という方のようだ。
 社前に飛梅と称する古木は、「(この忍幢律師が、)古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」と紹介する。

 「大和国奏楽寺」は、現「奈良県磯城郡田原本町 奏楽寺」だと思われる。
 その「奏楽寺略縁起」によれば、大化3年(647)に秦河勝が建立し、聖徳太子から下賜された観音像を本尊にしたと伝わるという古寺のようだ。
 大同3年(807)には空海が『三教指帰』の一書を当寺で執筆し、阿字池を築造したとの言い伝えが残っているという。この当時は、天台・真言宗の僧坊が棟を並べていたとされ、顕密二教の霊場だったとされる。
 発掘調査でその創建年代は確認できていないものの、8世紀後半頃の柱穴は見つかっていて、少なくともこの時期以降に寺院が存在したことは確実だという古寺なのだという。
 この寺の江戸時代の特記事項を確認すると、次の二項が確認できる。

 1759 僧 恵海 、秦楽寺 の堂字 を再建
 1806 僧 憲実 、方広寺 大仏の再 興を発願

 忍幢律師のこの寺での確認は今のところできていないが、古府菅祠の飛梅を乞い分ちて植えられたのは、この2項の間の安永年間(1772~1781)という時期にあたるようだ。

 地域の人々にとっては、この八丁目天満宮は、地元出身の大和国奏楽寺高僧忍幢律師も信仰なされていた天神様という信仰の支えがベースにあるということかなと想像する。
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by shingen1948 | 2017-07-21 09:12 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 案内板の解説から、八丁目天満宮は地域では天神様と愛称されていたとのことだが、明治4年の明治政府の神仏分離令対応の際に八丁目天満宮と改称されたことが分かる。また、この時に、天神様に下げられていた鰐口を取り払い鈴が下げられ、安置されていた十一面観音は西光寺に遷されたということも分かる。

 その西光寺に遷された十一面観音について、「松川のあゆみ」では、昭和になってからは本堂に安置されているようだが、当初は般若堂に安置されていたと解説されている。
a0087378_8435116.jpg それで、その当初十一面観音が安置されていたという西光寺般若堂はどの施設なのかなと確認を進めたら、門前のこのお堂らしいことが分かった。

 「地域のお宝情報」によると、このお堂は、元々はお経を収める倉として作られた経蔵だったそうだ。
 地域住民の信仰心に「天神様」のご神体とされている「十一面観音」を明治政府の神仏分離令対応で祀ることになった時に、その「十一面観音」を安置する「観音堂」としたといことのようだ。
 地域住民はもとより街道を行き交う人々に広く親しまれるようにとの配慮からなのだろうと思われる。

 現在の般若堂の姿は、震災後の平成24年に屋根と外壁が改修されたもののようだ。
 この土蔵造り平屋建のお堂の屋根は、現在は切妻銅板葺きのようだが、当初は小羽葺きで、その後鉄板葺きになったとのことだ。
 外壁は、現在は壁漆喰塗り腰石貼りだが、当初はなまこ壁だったとのことだ。

 案内板の「現在の祭礼」に「25年ごとに御神記祭(遷宮祭)」とあるのは、現在の地域の人々の信仰心とのかかわりを配慮されたものなのだろうと推察する。
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by shingen1948 | 2017-07-20 09:42 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「奥州街道」八丁目宿の南端である境川から八丁目村を中心に天明根村あたりまでを概観したところだ。
a0087378_8402744.jpg その八丁目村南端には標柱に仰々しく「奥洲」を冠に掲げた「八丁目天満宮」が建つが、その天満宮にかかわる情報を拾い集めてみる。
 まずは、その天満宮境内の案内板の解説。


「八丁目天満宮」
 天神様の呼称で親しまれている。古くは八丁目村と天明根村の鎮守社。明治4年の神仏分離の際、現社名に改称。ご祭神は学問の神様と言われる菅原道真公である。
 文正年中(1466~67)筑紫大宰府(福岡県太宰府)より本西にあった浄土宗長福寺境内に勧進。
 天正(1573~93)の兵乱に逢い神殿が灰燼に帰す。そのため今の南部、古天神に小祠を建立する。元禄年中(1688~1740)現在地に遷座。正徳4年(1714)3月に再建したのが今の社である。
 明治の初め神仏分離令が出されるまでは鰐口が下げられ十一面観音が安置されていた。しかし、神仏分離令により十一面観音は西光寺に遷され鰐口に変わって鈴が下げられるようになった。
 拝殿の両側には寺院にみられる花頭窓が取り付けられており、境内入り口の石灯籠には別当「西光寺」とあり、神仏混淆時代を色濃く残ず珍しい神社とされる。
 古い時代の祭礼は、菅原道真公の命日である6月25日に執り行われていた。

 現在の祭礼
 1月1日元初祭
 1月第2日曜日高校大学合格祈願祭
 3月第1日曜日勧学祭、祈年祭
 7月第3土曜日夏季例大祭
10月第2日曜日(土日月)秋季例大祭
11月23日新嘗祭
25年ごとに御神記祭(遷宮祭)
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by shingen1948 | 2017-07-19 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5172318.jpg めがね橋から天明根村から鼓岡村の中町にかけての風景だ。
 「八丁目家主一覧」によれば、この街道の中央に牛馬の脚洗い用水が通っていたとのことだ。その図をみると、その用水路がめがね橋の右側に延びているようだ。その先で水原川への排水を想像する。

 この写真に大きな薬局が写るが、その向かい側辺りに明治45年創立の「松川座」を勝手に想像してみている。

 大正13年創立で昭和37年まで続いていたという芝居小屋「松楽座」については、先に「松川事件を歩く」の散策時にその位置を確認していたところだが、それ以前の常舞台だ。

 「松楽座」は「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」に大正13年の記念興業時の写真が掲載されている。その写真解説に、その常舞台「松川座」についてふれた箇所がある。
 明治45年頃天明根にできて大正5~6年に終わったとのことだが、その集客とのかかわりについては、「宿場町から発展した松川町は幕政時代から遊郭もあり、鉄道忌避で寂れたとはいえ、周辺の農村を商圏としてにぎわっていた」と解説される。

 「松川のあゆみ」では、更に詳しく金沢屋忠兵衛が私財を費やし西光寺の庫裏を解体して建設したものということと、現中村工場事務所付近という位置情報が解説される。
 ただ、こちらにもその「松川座」を紹介する写真はない。また、現況ではその位置情報である中村製作所も確認できない。

 しかし、昭和46年のこの付近の地図を確かめると、その「中村製作所」が表記されていた。
 そのプロット位置は街道の東側だ。
 具体的な位置は分からないのだが、絞り込むヒントはその所在地が中町ではなく天明根村らしいことだ。街道の東側は中町が食い込んできているので天明根村分はそれほど広くないのだ。
 これが、「松川座」の位置を勝手に想像した根拠だ。

 細かいことで気になるのは、「松川町青年団」の結成情報とのかかわりだ。
 明治43年結成らしいのだが、その発会式が字天明根の常舞台「松川座」で挙行されているというのだ。
 創業は明治45年とのことだが、その2年前の明治43年に常舞台を使用させたということなのかな。
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by shingen1948 | 2017-07-17 09:16 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 川の中から天明根集会所辺りまでが、「八丁目家主一覧」がいう「天明根名主川岸屋佐平」宅あたりかなと想像する。半沢氏の「歴史地図」では、「天明根村名主検断遠藤佐平(川岸屋)」とされるお宅だ。
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 西光寺と接する南端は、現在水原川本流になっている川中であることの想像は容易だ。「川岸屋」は、西光寺の南側を流れる川筋とのかかわりなのだろうとも思う。

 そこからどこまでの範囲を想像するかが曖昧なところだ。
 今回は、「八丁目家主一覧」が描く用水路が街道を横切る位置から想像してみようかなと思った。

 西光寺の南側を流れる川筋が水原川本流だった時代、西光寺を回り込む地点から天明根村の用水路への取水がなされていたようなのだ。
 この用水路が、天明根から街道を横切り鼓岡―桜内を経由して、久保前で水原川本流に排水される川筋になるのだが、現在は大きく改変されているようで、その水路筋は確認できない。
 ただ、用水路と小字との関係図と現在の地域名とを照らし合わせてみると、天明根から鼓岡にかけて用水路沿いの道筋の痕跡らしき道筋が見える。

 それで、西光寺を回り込む地点とこの道筋をつないだ線が街道を横切る地点を「八丁目家主一覧」が描く用水路が街道を横切る位置と推定してみたということだ。
 この位置から、大工十蔵宅と仕立屋喜十宅の二軒分とった南側を「天明根村名主検断遠藤佐平(川岸屋)」宅として想定してみたのだ。
 それが、不確かだが天明根集会所辺りかなと思えたという事だ。

 ただ、この範囲は「八丁目家主一覧」が示すお屋敷よりも広い範囲になるようではある。しかし、当時は半農半商が普通であったとのことであり、その半農の耕地部分が現在の川筋の中だったと想像すれば自然ではあるかなとも思えたのだ。
 なお、「維新館」情報からは、この遠藤佐平氏は明治になっては、酒造業を営み、郵便局長も勤めたことが読み取れる。
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by shingen1948 | 2017-07-15 09:49 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 現在の水原川の流れは、本流が西光寺の北側を流れ、西光寺の南側を流れる支流がそこに合流するというように見える。
 しかし、本来の水原川の川筋は、西光寺の西側から南側に回り込んで流れていて、その川が街道を横切る所に橋が架かっていたという事だ。その橋を明治18年(1885)8月に石橋にしたのが「めがね橋」ということだ。
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 西光寺の南側を流れる川筋が、本流が西光寺の北側を流れる川筋に合流する地点に、「新堰改修碑」が建っている。ここに刻まれる解説を読むと、その辺りがかかわる事情を説明しているように思うのだがどうだろうか。

 「新堰改修碑」

 新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
 シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
 水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
 害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
 ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
 戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
 状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
 八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
 ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
 工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ

 昭和20年1月建立

 題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
      信夫郡松川町書記丹治一郎
 石工 菅澤 上〇
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by shingen1948 | 2017-07-13 09:50 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_10381319.jpg 水原川にかかるこの橋辺りから南側が八丁目村ということなのだと思う。ただ、「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」を見ると、橋右手の手前2軒は天明根村の住民とされているようだ。川普請とのかかわりで、川筋が改変されたという事なのだろうか。

 現況は石橋だが、「八丁目家主一覧」では「はし」と表示されているだけなので、木橋だったのだろうと想像する。

 この石橋について案内板が建ち、次のように解説する。

 「めがね橋」
 明治18年(1885)8月に完成。当時の県令三島通庸は福島県令になる前、酒田県令を勤め、ここでもめがね橋を完成させた。その経験を生かして松川にも造ったといわれる。石工は川俣町の布野なる者で福島の信夫橋の石橋も手掛けている。布野は三春町松本亀吉らと協力して完成。
 石材は浅川町五斗内から切り出したもので、松川橋の銘のほか、信夫郡松川村他四カ村戸長杉内省三郎他6名の工事関係者などが刻まれている。西光寺住職平林宥京の書によるものという。
 この橋の建設費に村では県に対して人夫780人を寄付。また戸長の任にあった杉内省三郎は建築費として県へ300円を寄付している。

 地元意識を感じるのは、「福島の信夫橋の石橋も手掛けている」という部分。
 福島との合併前にこの解説文ができたのかもしれないが、現在も「福島の」という断りを自然な事として受け入れているということなのだろうと思う。現況では、松川も福島のはずだが、ここは「松川」であるという地元意識の強さなのかもしれない。
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by shingen1948 | 2017-07-12 10:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_911267.jpg 左手のお宅に「旅館若松屋」が表示されている。
 「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」に「若松屋」代吉 作右衛門の表記が確認できることとのかかわりで、いくつかイメージしやすくなったことがある。
 まずは、その「若松屋」の位置がここだというふうに特定できるという事がある。

 「若松屋」が特定できることで、このお宅の南側に水路が走り、道路を横切っている何気ない風景の意味も分かる。
 「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」では、この水路が用水路である事の表示があるのだ。しかも、この用水が道路を横切っている部分には、石橋が架かっていた事まで表記されているのだ。
 このことから、この水路は少なくとも天政・天保(1820~30)頃から用水路として活用されていたということが推定できるという事だ。
 現況では、この用水路の南側もこのお宅の敷地になっているようだが、天政・天保(1820~30)の頃はそのお隣の敷地だったかもしれない。
 現況でもその南側に井戸小屋が見えるが、その排水もこの用水路に流れ込んでいたのだろうと推測できる。

 更には、明治時代に廃寺になったと思われる「多宝院」と「盛光院」のおおよその位置も推測できるようになるという事があるということだ。
 「多宝院」は、前回推定した「八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門」お屋敷と、この若松屋の中間よりやや名主宅寄りの辺りが推定できる。
 「盛光院」は、これから整理する水原川に架かる松川橋とこの若松屋の中間より松川橋に寄った辺りに推測できる。

 なお、「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」には、この松川付近の若松屋側に浅草屋がプロットされ、道向かいには浅草屋をはじめ6軒の店名が表記されている。
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by shingen1948 | 2017-07-11 09:18 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)