地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 八丁目天神様に安置されていた十一面観音が、明治4年の明治政府の神仏分離令対応で西光寺に遷されたことのかかわりで、「大般若堂」については「奥州街道:八丁目天満宮情報から②」で整理している。
 その記事に張り付けたのは今回の散策時に撮った写真だが、震災対応で平成24年に屋根や外壁を改修しているとのことだった。
a0087378_9143441.jpg こちらは2009/7/27に散策した時に撮った写真。
 見ただけで違いが分かるのは、屋根の色だ。奥の本堂の屋根の色は現在と変わらない。恐らく、平成4年の改修時に塗り替えられたものと思われる。それ以前の写真を見ると、この「大般若堂」の屋根と同じ色だったようだ。

 手持ち資料の西光寺を描いた図を見ると(いつの時代かは分からないが、少なくとも本流が南側を流れていた時代ではある)、門前の水路には滾々と水が流れていたようで、そこに現在も残る石橋が架かっていたようだ。
 現況では西光寺の北側が水原川本流になっているが、この写真の駐車場部分も含めて、低地になっていたようだ。先の耕作地だったのだろうという想像はそれほど違っていないような気がする。

 どこかで気になっているのが、「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り」で整理した、天明根村名主検断遠藤佐平氏の「川岸屋」がかかわる風景だ。
 ここでも用水路とのかかわりでの水路を探っているのだが、こちらもはっきりしなかった。

 天明根村の水路にこだわって風景を眺めているのは、寺小屋情報にあった西光寺の平林宥京氏の弟子で、明治10年69歳で没したという菅野伝七氏の水車庵が探れないかという思いからだが、今のところは不明のままだ。

 この方、鶴斎と号し篆刻の名人だったとのことだが、晩年隠居して水車業を営みながら寺小屋を開き指導をしていたとのことなのだ。
 「八丁目あれこれ」では、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻して、その手腕は江戸にまでその名が馳せられたとある。
 こちらの紹介では号は普斎、通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称したとある。明治の初めに松川では有名な田嶋氏漢字を学んで号を鶴僊と改めたの紹介だ。
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by shingen1948 | 2017-08-04 09:19 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 先に「奥州街道:境川から八丁目村へ⑧」で「新堰改修碑」にふれたが、この改修が決まるのが昭和18年で、この改修碑が建てられるのが昭和20年ということで、この川筋は、まだ水原川の本流であった時代だという事のようだ。
a0087378_15291819.jpg 碑文を再掲する。
 「新堰改修碑」
 新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
 シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
 水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
 害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
 ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
 戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
 状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
 八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
 ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
 工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ
 昭和20年1月建立

 題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
      信夫郡松川町書記丹治一郎
 石工 菅澤 上〇

 この新堰は、現在の風景の中では、水原川の本流から分水した堰が眼鏡橋を通り、本流に戻るその先に水門があって、そこからまた分水されていく風景という風に見える。
 しかし、この時代の水原川の本流は西光寺の南側の流れだ。その時代の風景では、現在の本流に戻るその先に見える水門が新堰の取水口という事なのだろうと思う。
 ただ、その時代の水原川の本流も改修されたという事のようなので、この風景はその時に整備された風景が残っているという事なのだと思う。

 地元の方の眼鏡橋について思いには、勿論、橋そのものへの愛着があるのだろうと思う。しかし、この新堰とのかかわりで、重要な水路に架かる橋という実質的に役割を担った橋という意識も強いのだろうとも思う。  
 足を一歩踏み入れてみて感じたのは、もう一つの思い、生活に潤いを与える親水公園という新しい見方も加わっているような気がするのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-02 15:42 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「うつくしま土木建築歴史発見」には、県内の代表的な石橋として5つの橋が紹介される。
 その中の「飯野八幡宮参道橋」はいわき市であり「神橋」は白河市であるが、松川橋と旧秡川橋の2つは福島市の石橋だ。また、県北地域ということなら川俣町の旧壁沢眼鏡橋を含めて3つの石橋が紹介される。
 この川俣町の旧壁沢眼鏡橋の橋は、信夫橋と松川橋の眼鏡橋を手掛けた石工さんが、その記念として造られたとのことなので、福島にある橋とは因縁も深いようだ。
 更には、信夫橋は「信夫橋の歴史」として別項目に紹介されるのだが、その2代目が13径間の石造りアーチ橋だ。
 この2代目信夫橋が石造り橋に替えられると聞き及んだ地元民が、松川橋も石造り眼鏡橋にしたいと請願したことが、松川橋が誕生するきっかけだったとも聞く。

 その時代、福島近辺の旧秡川橋以外のこれらの石橋は、何らかの因縁でのつながりを持ちながら架けられていったということのようだ。
a0087378_955912.jpg
 その松川橋について、「うつくしま土木建築歴史発見」では、先に案内板の解説を元に整理したようなことが紹介されるのだが、「八丁目宿「眼鏡橋」のある風景」にかかわる情報として次の紹介部分が気になった。
 「地元の人々からは眼鏡橋の愛称で親しまれており、往時はすぐ上流に建っている真言宗西光寺の大日如来と共に道往く人々の心を和ませておりました」

 というのは、西光寺の川沿いに台座の石造物があったのだ。もしかかわるとするならば、ここに仏像が安置されていて、それが道往く人々の心を和ませていたと読み取るべきなのかなと思えたからだ。
 ただ、今のところその確認はとれていない。
 戦時中の供出かなとも思ったが、確認できたのは梵鐘供出だけだった。
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by shingen1948 | 2017-08-01 09:55 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「奥州街道:『ハンドメ』にかかわる情報」の題では分かりづらいので、「八丁目宿」の「ハンドメ」について確認していることが分かるように題を修正した。
 前回は、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるらしいことが分かったのだが、二本松側から眺めていると、いわゆる「口留番屋」とのかかわりが気になってしまう。
しかし、「八丁目家主一覧」図に描かれる時代のこの宿は二本松藩領である。「口留番屋」は、他領との接点側にあることを考えれば、石合町の先にある「ハンドメ」が、その役割を担っていると考えるのが普通なのだろうと思う。
 奥州街道のこの先に福島藩があるだけでなく、こちら側には相馬街道がつながっているという状況だ。
 治安維持の観点からは、宿の西側の米沢街道とつながりが気になる所だが、宿に入る手前には八丁目城址があり、その登り口付近が幕領時代から代官屋敷になっていたとのことだ。

 この時代、宿の八丁目村側は二本松領内ということだ。領内の宿の入り口ということでしかないようだが、「八丁目家主一覧」図にはこちら側にも「ハンドメ」があったことが記される。
 福島藩領と二本松領が接していた時代の名残という事なのか、全ての宿の入り口に番所があったということなのかは分からない。

 その位置だが、「ハンドメ」が柵を意味していると勘違いしていたので、先に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷斜め前と記したところだが、これを訂正する。
 こちらの「ハンドメ」は、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前にあったということになるのだと思う。

※ タグだが、今まで、「奥州街道・地域の散策・松川」としていたところだが、八丁目宿にかかわる地域の散策の整理になっているので「奥州街道・八丁目宿・松川」というふうに修正したい。
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by shingen1948 | 2017-07-31 09:18 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 直接的に「ハンドメ」について説明しているわけではないが、松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏が、旧本陣櫻内家について解説する中に、その機能が推測できる説明があった。
a0087378_9454257.jpg この写真は今回の散策ではなくて、2009/7/27に撮ったものだが、この現ガソリンスタンドを経営する櫻内家が本陣をつとめていたとのことで、案内柱も建っている。

 この櫻内家には、誰が休泊していたのかを知らせる木製の関札や、諸藩の大名が宿泊休憩した記録「御休泊帳」が大切に保管されているという。
 それらの記録によると、松前藩や仙台藩、津軽藩などの諸藩の大名が宿泊休憩したという。

 その参勤交代の行列が宿場に到着した際は、宿場端に置かれた「ハンドメ」という治安維持をになう番所まで出向き、本陣の主人をはじめ名主、検断など名衆が名を連ねて大名を迎えたとのことだ。

 ここに出てくる「宿場端に置かれた『ハンドメ』」は石合町の先のことであろうが、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるということも分かる。

 今回の散策で確認したいのは、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前の「ハンドメ」だが、同じ様な番所だということだろうと推測する。
 こちら側は、二本松藩とのかかわりで口留番所にこだわってしまうのだが、幕末は幕領であったり二本松領であったりしているので、藩が接する緊張感のようなものとは微妙に違うのかもしれない。
 この説明から、「ハンドメ」は、二本松藩の藩留番所かなと勝手に思ってみたりしている。

 先の整理では、「ハンドメ」は治安維持をになう柵かなとイメージしていたので、その位置にかかわることとが微妙に違ってくる。
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by shingen1948 | 2017-07-30 09:49 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 八丁目天満宮に直接かかわる情報ではないが、知っていれば結構楽しめるという情報の二つ目が、古い方の石灯篭が赤滝石らしいとの情報。
 「としぼーのブログ」の「八丁目天満宮赤滝石」からの情報だが、この赤滝石については、このブログで知った。
 赤滝石は梁川町で産出される地域限定の石材とのことだ。掘って直ぐは赤色をしているのだそうだが、風化によって様々な色調に変色するのだそうだ。
 https://blogs.yahoo.co.jp/toshikatu0214/25067674.html 

 「几号水準点」については、散策中に思い出して確認したが、赤滝石については散策中には思い出せなかった。思い出したのは整理する段階だ。
a0087378_1065921.jpg 写真に写り込んでいないか確認したらありました。右手奥の石灯籠がそれだ。
 ブログ記事によると、中央部分は近年になってコンクリートで作り直したようだが、他の部分は正真正銘の赤滝石とのことだった。

 赤滝石については、「福島建設工業新聞」の「10月の槌音(2013.10.30)」で詳しく解説さている。

 伊達市梁川町で産出される地域限定の石材赤石の通称が「赤滝石」とのこと。
 神社・寺院参道の石畳・鳥居・石塔・墓石をはじめ、河川・水路の護岸、住家の塀・土蔵・風呂釜など日常生活に不可欠な石材として活用されてきたという。
 この岩石は約2400~1600万年前の頃の火山噴出物が主な構成物質の凝灰岩の岩石で、この岩石層は霊山層と呼ばれているとのことだ。

 この石材の使用範囲は、県北一円から宮城県南部にも及んでいるとのことだ。
 昭和30年代までこの赤石の産出および製品販売は貴重な地場産業だったそうだが、昭和40年代以降の高度経済成長とともに海外産石材に押され、赤石の石工は廃業を余儀なくされたのだとか。
 それに伴う課題が、この石材で構成された文化財の修理保存だという。この原材料の調達だけでなく取り扱える石工の確保が難しくなっているのだとか。

 そんな中、今回の東日本大震災で倒壊した県史跡名勝に指定される梁川町八幡神社境内の厳島神社入り口にある鳥居とそり橋が、これまでと同じ赤石で見事、修復されたという。
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by shingen1948 | 2017-07-29 10:08 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 これから整理するのは、八丁目天満宮に直接かかわる情報という事ではない。散歩の中で、知っていれば結構楽しめるという情報の一つだ。

 その一つが、几号水準点。
 街道筋を散策するのに基本的にお世話になっている「街道Web」によると、天満宮の鳥居の右側の根元にその几号があるということだった。
 震災後、壊れて取り払われてしまったものもあるとのことだが、確認するとここは健在だった。
a0087378_15201863.jpg 几号水準点についての説明は「街道Web」からお借りする。
 「明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京~塩釜間の測量を実施した。測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、この横棒の位置を標高としたのである。
これを「几号水準点」(きごうすいじゅんてん)と言う」

 なお、この「几号水準点」情報は「街道Web」サイトの「寄り道Web」→「脇道Web」→「几号水準点 明治時代の測量の痕跡を辿る」→「2本宮→福島」から拾える。
 http://kaido.the-orj.org/yori.htm
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by shingen1948 | 2017-07-28 15:21 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 今回の散策では、八丁目天満宮側の街道筋に、民家二軒が並び、その次に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷が並ぶのだが、その斜め向かい側に「ハンドメ」の位置を想定して歩いている。 それは、「八丁目家主一覧」図を参考にして歩いているからだ。
 この「八丁目家主一覧」図に描かれるのは、二本松藩が支配する体制になってからの宿の様子なのだ。

 一方、半沢氏の「歴史地図」では、その「ハンドメ」を、境川から八丁目村へ入る手前の道がクランク状になる辺りに描いている。この事については「奥州街道:境川から八丁目村へ⑤」で記したところだが、これは時代の推移にかかわる事なのだと思っている。
 つまり、この八丁目宿が福島藩に支配される範囲に入っていた時代を想定しているように思うのだ。その時代は、この宿が二本松藩との実質的な接点になるわけで、ここに口留番所があったことをイメージしているのだと思われるということだ。

 ここには、参考資料が示されていないが、恐らく宝暦11年(1761)「米沢より江戸まで駅絵」の「八丁目宿の図」を意識しているのではないかなと想像する。
 その「八丁目宿の図」コピー写真は、「ふくしまの歴史3(近世)」の「福島の街道」の一つ「米沢街道」解説に見ることができる。

 その絵図には「信夫郡 上八丁目 二本柳へ一リ 二本松へ二り八丁」とあり、本陣桜田新兵衛門屋敷も紹介される。
 自分にとっての注目点は、この図の境川の八丁目宿寄り側に「福島領」と記されていることだ。描かれているのは、八丁目宿が福島藩領であった頃ということの確認だ。

 この絵図についての評価だが、本陣の桜内家の位置などに間違いがあるものの、全体として宿場町の雰囲気がよく伝わる絵図とされているようだ。また、二本松方面への出入りをチェックする口留め番所などがしっかり記されているとされるようだ。
 ただ、絵図には口留め番所の表記はなく、その絵図の二本松側のクランク状になる道の両側に柵が描かれていて、次の角の西側に塀が回された家が描かれているだけだ。

 現況と見比べると、塀が回された家が描かれている辺りが八丁目天満宮の辺りと思われる。柵は奥州街道を二本松方面から歩いてくるとクランク状に曲がり始める最初の角辺りだと思える。

 ただ、この八丁目天満宮辺りが口留め番所跡だったと言い切る情報を見た事はない。それどころか、「ふくしまの歴史3(近世)」の「信夫隠れの碑」の写真解説には「ここは二本松藩領との境にあり、上杉時代は口留番所を置いて厳重に取り締まった」とあり、「信夫隠れの碑」旧地が口留番所であったような解説も見る。
 これも、時代による推移とみるのか、不明であることをあえて推定すればということなのかは分からない。
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by shingen1948 | 2017-07-26 16:06 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
 前回の松川鉱山に係るこの辺りの散策で「社掌渡邉伊佐美碑」を見つけている。
 そのことは「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑧」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23815576/

 この時には、この渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」で、その一切の社務を司っている方なのだろうとの想像だった。そして、この方が兼務で松川鉱山にかかわる山神社の社務を司っているのだろうとの勝手な想像だった。

 しかし、今回の散策で、渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」でその一切の社務を司っているというのは想像ではなく、確かな事であることが確認できたということだ。

 今回の散策で気になりだしたのは、この「社掌渡邉伊佐美碑」は顕彰碑ではなくて、墓碑なのではないのかなということだ。
a0087378_9275950.jpg 実は、人々が搗鉱場と呼んだ自家精錬場が設備された古天神地内に設備されていたということとかかわって、今回も古天神の水路確認の散策をしていた。
 その水路を探っていると、その水路裏手に墓碑のようなものが見えたのだ。
 このすぐ前に民家があるので、小心者には近づく勇気がなかったのだが、この撮っている位置から真北に「社掌渡邉伊佐美碑」があるという位置関係でもあるのだ。
 
 今回は、自家精錬場はさておいて「八丁目天満宮情報」とみて整理する。
 ここは明治以降神社の神官としてかかわった多宝院がかかわる処なのか、あるいは八丁目天満宮の旧地がかかわる場所なのではないかと思えてきたということだ。
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by shingen1948 | 2017-07-25 09:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 明治政府の神仏分離令以前の本来的な天神信仰である神仏混淆時代の影が残る八丁目天満宮だが、受けた命令通り本地仏を廃し、鰐口を外して鈴が下げられたようだ。
 直接的な解説はみないが、いろいろな情報を組み合わせてみると、「八丁目天満宮」と改称した天神様に神仏分離令以降かかわるのは多宝院のようだ。
 元々この八丁目天神にもかかわっていて、明治政府の神仏分離令を受けて、僧から神主に軸足を切り替えたということなのだろうか。

 松川町の寺小屋は、小学校が解説された後も、明治25年頃まで存続していて自然消滅したとのことだ。その松川町の寺小屋情報から、明治以降八丁目天満宮に多宝院がかかわったと思われる情報が含まれている。
 八丁目村の寺小屋の一つは、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏で、弟子は8名とのことだ。この方は、謡曲が巧みで、年長者には「素謡」も教えたとのことだ。
 そして、もう一つが多宝院渡辺早人氏で、弟子が20人とのことだが、その紹介に「多宝院(神主)」とある。この「多宝院(神主)」の神主は八丁目天神であろうことが推察される。

 更に、維新館情報の八丁目村メンバーを確認すると、名主が野地長十郎(戸長)となっていて、同じ姓の野地源十郎と共に、渡辺伊佐美氏の名が挙がっている。
 その渡辺伊佐美氏は、その後菅原神社神官、松川小教師となったことが記される。
 明治10年に松川小の職員になっている事も確認できた。

 八丁目天神は、多宝院渡辺早人氏から渡辺伊佐美氏に引き継がれるようだが、この渡辺伊佐美氏が、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏かかわりなのか、渡辺早人氏かかわりなのかは不明だ。
 いろいろな事が想像される。八丁目村名主検断と多宝院はかかわっていたという事も考えられなくもない。
 どちらにしても、八丁目天神を視点にすれば、多宝院かかわりの神官からの継続であろうことは確かな事だ。
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by shingen1948 | 2017-07-24 09:36 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)