地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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a0087378_927537.jpg 自信はないが、こちらも庚申塔碑なのだと思う。
 「青面金剛」像や「庚申」の文字碑でない場合、素人が庚申塔かどうかの見分けに使うのは雄雌の二羽の鶏、三猿像、それに太陽と月と雲だ。
 そのうち、この碑で確認できるのは太陽と月だけだ。

 「青面金剛」像や「庚申」の文字が刻まれる部分に何が刻まれているのかは、写真をいろいろ加工してみてもよく分からない。

 いろいろ検索して、「庚申塔探索」ページに、庚申信仰で使われる真言が刻まれている可能性があるという情報をみつけた。
 https://blogs.yahoo.co.jp/board_woccha

 「オン・コウシンレイ・マイタリ・ソワカ」というような真言が梵字で刻まれている事があるのだとか。また、「唵縛帝吒摩訶嚕呼 羅々阿微吒帝娑婆訶」というふうに漢字が刻まれている場合もあるとのこと。

 いずれにしても、今回撮った写真からは確認することができない。ただ、多分このタイプの庚申塔碑を見るのは初めてなのだとは思うということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-16 09:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この辺りの散策でよく見かける庚申塔碑は、「庚申」の文字碑や「青面金剛」像の刻まれた碑だ。a0087378_1123850.jpg この梵字の刻まれた庚申塔碑も初めてみる碑だと思う。

 散策の中で庚申塔碑だと気づいたのは、下に三猿像が刻まれていたからだ。
 この碑で他に庚申塔碑であることがはっきりしているのが、上部に太陽と月が描かれていることだ。雲に乗っていることもあるようだが、この碑では象徴的に記されている。
 散策で素人が簡単に庚申塔碑の見分けに使うのが雄雌の二羽の鶏だ。庚申の夜は徹夜をするので、夜明けを告げる鶏ということで描かれるようだが、この碑ではその鶏は見かけない。

 梵字だが、いろいろ検索して金剛界大日如来(バーンク、荘厳体)でないかなと思っているが、素人判断でしかない。
 ※ その後、梵字をいろいろ確認していて、青面金剛(ウン)かなと思い直して修正する。

 写真からは「七」が読めるのだが、手持ち資料からは、この碑造立については元禄6年(1693)造立情報と元禄5年(1692)造立情報しかない。また、常円寺の庚申塔(元禄7年造立)と同形式との情報もある「松川の今昔(三浦富治)」
 ◇     ◇       ◇         ◇          ◇

 「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」

 参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
 「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
 これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。

 つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-15 12:09 | Comments(0)

福島の野仏:松川の野仏

 今までの散策の中で、「馬頭観音」あるいは「馬頭観世音」という文字を刻んだ石塔は見ていたが、馬頭観音像を刻んだ石仏を見たのは初めてだと思う。
a0087378_11423419.jpg 馬頭観音は、本来は観音菩薩の変化身の一つであって、必ずしも馬の守護神でないという。しかし、江戸時代以降は、農作業や運搬手段として馬が庶民の生活と強く結びつくようになり、庶民が馬の無病息災を祈願して馬頭観音を立てるようになったのだとか。

 散策時に確認できていなかったが、情報では、寛政11年(1799)八丁目駅中施主弥平が台座に刻まれているとのことで、運搬手段として馬の無病息災を祈願したものと想像できる。

 この像は三面八臂像のようで、三面が確認できる。八臂か六臂かということで迷ったが、八臂だと思う。
 正面の真手が、「馬頭印」を結んでいるか合掌しているかということだが、素人目では合掌しているようにしかみえない。
 ただ、馬頭観音像は、本来は「馬頭口印」あるいは「馬頭印」を結ぶといわれる形があるのだとか。その儀軌に沿った形というのが、親指・中指・小指を立てて、人差指と薬指を曲げて両手を合わせるという姿なのだそうだ。そちらかもしれない。

 残りの手は、いろんな持物を持つはずだが、その確認もできていない。
 情報としては、馬頭観音は右手に斧か剣、左手に輪宝を持つものが多いのだそうだ。斧は除災招福、剣は悪魔を撃退、輪宝は菩提心の強化を表すのだそうだ。この持物で人間のもつ悪業障を砕き、災難を除いてくださるのだそうだ。
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by shingen1948 | 2017-08-14 11:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

 「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑦」では、地図上に描いた水路とのかかわりから古天神地内の精錬場跡を推定してみている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23812599/
a0087378_5531379.jpg この写真は、その鉱石の集積地を予測した宿地の☆印辺りの水路を西側から眺めたところだ。
 現地では、鉱石を砕く水車小屋を想像するには細いなと思ったのだが、家に戻って確かめると、この位の水路で充分機能する水車設置は可能らしいことが分かった。
 いろいろな水車の写真を確認してみると、水車の幅程度しかない水路に設置された水車小屋の風景も結構多い。水量や地形に合わせた設置の工夫や、水路の太さを改変して勢いを調整したりすることができるらしいのだ。

 先の推理では、製錬場自体はもう少し東側に予測しているのだが、これは地名に引きずられているところがある。というのは、この辺りの地名がまだ宿地なのだ。古天神はこの写真に写る民家付近からなのだ。それで、古天神地内になるように精錬場跡を予測したところだった。
 しかし、現地では、この辺りが精錬場跡であってもおかしくないなという感じになっている。

 精錬場跡あたりがこの辺りとすれば、松川鉱山からここまで通路南側に12ポンドのレールが敷かれていたという情報が重なる。そのレール上の1t積みの鉱車を馬が曳いて鉱石は運搬されていたとのことだ。そして、ここから松川駅までは荷馬車で運ばれていったという。
 
 この時代、八丁目宿は鉱石を運ぶ荷馬車の往来が激しかっただろうし、鉱山関係者や運搬車で結構賑わっていたのだろうことも想像される。
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by shingen1948 | 2017-08-12 09:51 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 今回の松川散策では、奥州街道の境川から八丁目宿の南端である八丁目村から天明根村あたりを概観したいと思った。それと共に「松川鉱山」の散策の続きで、人々が搗鉱場と呼んだ自家精錬場跡も探ってみたいとの思いもあって、そちらも散策している。

 この「自家精錬場跡」が古天神地内にあったという精錬場だ。
 こちらの精錬場は、先に散策した松川鉱山の最盛期である宝鉱業(株)経営の精錬場以前の橋本組経営時代の精錬場だ。
 「松川のあゆみ」によれば、明治初期に三角氏が嘗て稼働していた松川鉱山では、その廃坑から金を採取する事業が細々と継続されていたという。それを、大正初めに橋本組が本格的に再開発したという。その時代の製錬所だ。
 この当時の松川鉱山も結構活況を呈していたとのことだ。
 大正3年時点で、約2300tの精鉱が産出されていたとのことだ。山神社のお祭りには花火が打ち上げられ、出店が並んで多くの人々で賑わったとのことだった。

 この鉱山では、主として日立製錬場に売鉱していたとのことだが、良質鉱の一部は、まだ金と銀が分離されない青金という状態まで自家製錬して売却していたとのことだった。
 今回の散策は、その自家精錬場跡を探る試みだ。

 手掛かりとなるのが、古天神地内の水路だ。
 というのは、その精練場では水力を利用して石臼に良質鉱を入れてスタンプで鉱石を搗(つ)き砕いて、水銀アマルガムによる方法で精錬していたようなのだ。
 少なくともこの自家精錬場跡には、鉱石を搗き砕く水車を回すための水路があったはずなのだ。

 これが、その古天神地内に入る水路の現況だ。
a0087378_3551025.jpg

 「奥州街道:八丁目天満宮情報から⑦」でふれたように、この水路の右側の民家前に墓碑が並んでいる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237312646/
 そして、この水路が横切る道筋の先の左手には「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑧」で整理した「社掌渡邉伊佐美碑」が建っているという状況だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23815576/
 それで、「奥州街道:八丁目天満宮情報から⑦」では、この同じ場所を「八丁目天満宮情報」とみて、ここは明治以降神社の神官としてかかわった多宝院がかかわる処なのか、あるいは八丁目天満宮の旧地がかかわる場所と整理したところだ。
 この事を、自家精錬場跡を探るという観点から見つめ直せば、当時流れていた水路と大きな変化はなさそうだということでもあると思えたということでもある。

 
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by shingen1948 | 2017-08-11 09:51 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 案内板の解説では、この松川橋も県令三島通庸氏の仕事だとしながら、戸長の任にあった杉内省三郎氏が300円の寄付をしたこと、又、村では人夫780人を寄付したことが解説されている。

 しかし、「松川のあゆみ」でその経過を確認すると、架設の運びになるのは、信夫橋架設着工を好機ととらえた戸長杉内省三郎氏が、日夜当局と交渉を重ねた結果、その熱意が通じて許可がおりたという事のようだ。
 建設のための地盤調査も独自に行い、その結果を当局に報告しているともある。

 つまりは、この松川橋架設の仕事は実質的には県令三島通庸氏の仕事ではなく、信夫橋架設と国道整備の機を使った松川村の仕事ということのようだ。
 案内板の解説の戸長杉内省三郎氏の300円寄付と松川村の780人の人夫寄付は、このこととかかわるのだろうと思う。

 「松川村の780人の人夫寄付」だが、これは「松川のあゆみ」の情報を見ると石材運搬作業のようだ。
 案内板にあるように、石材は浅川町五斗内から切り出されたとのことだが、ここから大八車に積んで工事現場まで運ばれたという。村では、この石材の運搬作業に各戸2~3人の役夫を科したということだ。

 なお、最近の「松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏」の話に、「石は、福島市御山の北を流れる川に架けるために切り出したものだったという」というのをみつけた。
 「福島市御山の北を流れる川」といえば、河川名松川から想像するに同じ「松川橋」ということになるのだろう。
 菅野氏の話では、浅川の石切り場から切り出したものの、その川に橋を架ける必要がなくなったので譲受けたとのことだ。

 形式的には県の仕事なので、欄干に刻まれる代表者は、実質的な代表者戸長杉内省三郎氏の前に、県の工事担当の職員2名の名が刻まれているが、この眼鏡橋は松川村が主体的に架設した橋という事のようだ。
 この誇りが、現時点まで「うつくしま土木建築歴史発見」にメンテナンスフリーといわしめる保存状態にかかわっているような気がする。
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by shingen1948 | 2017-08-08 09:45 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 橋の欄干に刻まれる工事関係者の代表は、田村郡三春町の「松本亀吉」氏だが、案内板では、主として川俣町の石工「布野」氏の視点から解説される。
 この方は、明治18年7月に完成した「十三眼鏡橋」とも称された第2代目の信夫橋工事にもかかわっていたことが記される。

 橋に刻まれた田村郡三春町の「松本亀吉」氏は、今のところ確認はできていない。
 「八丁目家主一欄」の中町に「石工 亀吉」が記されるが、この方と名前が同じだなと思ったが、かかわりあるのかどうかも分からない。

 情報が得られるはずはないと思いつつ、「川俣町」・「石工」・「布野」をキーワードに検索すると、「街道Web」の「福島市の石橋(4) 柴切田川橋 (福島市飯野町)」に辿り着いた。
 http://kaido.the-orj.org/hasi/siba1.htm

 このページの後半に、川俣町の布野氏が信夫橋建設工事にも、松川橋の建設工事にも三春町の松本亀吉と共に参加していたことが、「福島市史」別冊「福島の文化」に紹介されているとの情報が記される。
 更には、明治22年(1889)に架けられた川俣町の「旧壁沢眼鏡橋」は、故郷に帰った布野氏の「信夫橋架橋記念」であることが紹介されている。

 「奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景」で記したように、「うつくしま土木建築歴史発見」では福島近郊の石橋として、旧秡川橋・松川橋・信夫橋、旧壁沢眼鏡橋が紹介されるが、この川俣町の布野氏が松川橋・信夫橋・旧壁沢眼鏡橋にかかわっているということのようだ。

 検索の中で、川俣町の布野という石材工業所がかかるのだが、これらと関係するのかどうかは、今のところ分からない。

 ※ 2017/8/15以下を付け加わえる。

 「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」

 参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
 「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
 これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。

 つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。

 なお、この「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、現在機織神社の大清水の池の間に架設されているとのこと。
 ここは機織御前堂旧跡地で、明治12年機織神社と改称し明治43年に現在の御庵館の地に移されたのだとか。
 
 旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、明治22年の川俣、月舘間の県道工事の際に、壁沢川に架設された橋だが、大正2年8月の大洪水で下流側半分が流され,さらに翌3年軽便鉄道が敷設された時に幅員を広くし修理補強されたという。
 昭和50年県道拡張工事により取払われる運命にあったのだが、地元有志の方々や関係機関の尽力により大清水に神橋として復元されたということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-07 09:27 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
 今回は橋そのものをじっくりと見てはいなかった。今回得た情報を次の機会にいかすための整理だ。
 「奥州街道:境川から八丁目村へ⑦」で整理した案内板の説明と「松川のあゆみ」の情報を重ねて眺め、今回の散策で撮った写真を使って整理しておく。

 案内板の説明では、西光寺住職平林宥京の書による松川橋の銘と工事関係者名が橋に刻まれているとのことだ。
a0087378_5331861.jpg これは、今回南側から撮った橋の写真から右側(南東側)の欄干部分を切り取ったものだが、確かに「松川橋」の銘が刻まれている。今回、向かい側から撮った写真は確認できていないが、西光寺側の欄干には「まつかわばし」の銘が刻まれているという。


a0087378_5343143.jpg こちらは同じように左側(南西側)の欄干部分を切り取ったものだか、「明治」と「十八」と「月」が読める。
 「街道Web」の「福島市の石橋(3) 松川(福島市)」によると、竣工日である「明治18年8月」が刻まれているとのことだ。 
 http://kaido.the-orj.org/hasi/matsu1.htm

 案内板にある工事関係者名が刻まれるのは、向かい側の「まつかわばし」と刻まれた西光寺側(北西側)の反対側(北東側)の欄干らしい。ただ、こちらは判読が難しいらしく、「街道Web」でも資料に頼るようだ。
 案内板では「信夫郡松川村他四カ村戸長杉内省三郎他6名の工事関係者」となっているが、「松川のあゆみ」の情報によれば、以下のように刻まれているとのことだ。


 右工事担当 福島県八等出仕 原口 秋之
 同        九等雇  中桐 有三
 信夫郡松川村外四ケ村戸長  杉内省三郎
     用掛        尾形 有蔵
               鈴木忠兵衛
               浅井吉五郎
               丹野  徳
 職工 田村郡三春町     松本 亀吉
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by shingen1948 | 2017-08-06 09:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 八丁目天神様に安置されていた十一面観音が、明治4年の明治政府の神仏分離令対応で西光寺に遷されたことのかかわりで、「大般若堂」については「奥州街道:八丁目天満宮情報から②」で整理している。
 その記事に張り付けたのは今回の散策時に撮った写真だが、震災対応で平成24年に屋根や外壁を改修しているとのことだった。
a0087378_9143441.jpg こちらは2009/7/27に散策した時に撮った写真。
 見ただけで違いが分かるのは、屋根の色だ。奥の本堂の屋根の色は現在と変わらない。恐らく、平成4年の改修時に塗り替えられたものと思われる。それ以前の写真を見ると、この「大般若堂」の屋根と同じ色だったようだ。

 手持ち資料の西光寺を描いた図を見ると(いつの時代かは分からないが、少なくとも本流が南側を流れていた時代ではある)、門前の水路には滾々と水が流れていたようで、そこに現在も残る石橋が架かっていたようだ。
 現況では西光寺の北側が水原川本流になっているが、この写真の駐車場部分も含めて、低地になっていたようだ。先の耕作地だったのだろうという想像はそれほど違っていないような気がする。

 どこかで気になっているのが、「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り」で整理した、天明根村名主検断遠藤佐平氏の「川岸屋」がかかわる風景だ。
 ここでも用水路とのかかわりでの水路を探っているのだが、こちらもはっきりしなかった。

 天明根村の水路にこだわって風景を眺めているのは、寺小屋情報にあった西光寺の平林宥京氏の弟子で、明治10年69歳で没したという菅野伝七氏の水車庵が探れないかという思いからだが、今のところは不明のままだ。

 この方、鶴斎と号し篆刻の名人だったとのことだが、晩年隠居して水車業を営みながら寺小屋を開き指導をしていたとのことなのだ。
 「八丁目あれこれ」では、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻して、その手腕は江戸にまでその名が馳せられたとある。
 こちらの紹介では号は普斎、通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称したとある。明治の初めに松川では有名な田嶋氏漢字を学んで号を鶴僊と改めたの紹介だ。
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by shingen1948 | 2017-08-04 09:19 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 先に「奥州街道:境川から八丁目村へ⑧」で「新堰改修碑」にふれたが、この改修が決まるのが昭和18年で、この改修碑が建てられるのが昭和20年ということで、この川筋は、まだ水原川の本流であった時代だという事のようだ。
a0087378_15291819.jpg 碑文を再掲する。
 「新堰改修碑」
 新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
 シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
 水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
 害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
 ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
 戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
 状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
 八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
 ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
 工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ
 昭和20年1月建立

 題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
      信夫郡松川町書記丹治一郎
 石工 菅澤 上〇

 この新堰は、現在の風景の中では、水原川の本流から分水した堰が眼鏡橋を通り、本流に戻るその先に水門があって、そこからまた分水されていく風景という風に見える。
 しかし、この時代の水原川の本流は西光寺の南側の流れだ。その時代の風景では、現在の本流に戻るその先に見える水門が新堰の取水口という事なのだろうと思う。
 ただ、その時代の水原川の本流も改修されたという事のようなので、この風景はその時に整備された風景が残っているという事なのだと思う。

 地元の方の眼鏡橋について思いには、勿論、橋そのものへの愛着があるのだろうと思う。しかし、この新堰とのかかわりで、重要な水路に架かる橋という実質的に役割を担った橋という意識も強いのだろうとも思う。  
 足を一歩踏み入れてみて感じたのは、もう一つの思い、生活に潤いを与える親水公園という新しい見方も加わっているような気がするのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-02 15:42 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)