地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 中町の桝屋さんが掲げる看板に記される枡屋銀五郎氏は、当時呉服商を営なみ、その取引は北関東に亘ったという。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑬」では、八丁目文化にかかわって、この方が加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方で、殊に鳥羽画に巧みであったという情報があることにふれた。
 屋号塩屋の通称渡辺団七氏とのかかわりで、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」に挿絵も描いているとの情報だ。

 その屋号塩屋の通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだった。

 今回は、その「奥州一覧道中膝栗毛」第四編の序を確認したので、整理してみる。
 すらすらと読めればよいのだが、その素養がない。
 次に掲げるのは、紹介された文章と写真版を見比べて、おおよそこんな感じだろうといった程度のもの。

 奥州一覧道中膝栗毛四編序
 かきつくしてよ壷(つぼ)の石碑(ぶみ)いはねと
 志のふ十辺舎、最早一句(もはやいっく)も出(で)まいと思いば
 彦枝栄(ひとえさか)ゆく落栗庵、桃栗燕栗(きくぐり)の、
 ささにはあらぬ志ば栗(くり)を、こまかに拾(ひろ)ふ
 旅(たび)の洒落(しゃれ)、栗橋(はし)こえてみちのく乃、
 その栗原(くりはら)の姉葉(あねば)の松(まつ)、栗駒山(くりこまやま)の朴
 木枕(ほうのきまくら)、四人連(つれ)たち三つ栗の、中の
 ひとりは栗々坊主(くりくりぼうず)、ひっょくりそっくり
 がっくりと、栗桃色(くりももいろ)の旅衣(たびごろも)、栗皮染(くりかわそめ)の
 頭陀袋(づだぶくろ)、知恵のふくろは焼栗(やきぐり)の、はねた
 趣向(しゅこう)は鬼(おに)かげの、栗毛(くりげ)は小栗(おぐり)が乗(のり)志づめ、
 栗(くり)から不動(ふどう)のいとくにて、栗(くり)から丸と名(な)にに
 呼(よ)ばれ栗柄(くりから)太郎は天拝山(てんぱいさん)、その山猿(やまざる)は
 栗(くり)の酒(さけ)、栗(くり)の杓子(しゃくし)で汲(くん)で呑み、まな栗(くり)
 ひとつに屁(へ)八十、笑(わら)ひの種(たね)のいけ栗(くり)は、角(つの)の
 はえたる毛毬(いが)の栗(くり)、鬼(おに)すむ丹波(たんば)の爺打栗(じうちくり)、
 親(おや)はうたれし、栗谷川(くりやがわ)はた栗坂の戦(たたか)ひは
 桃栗(ももくり)三年後(ご)三年流矢(さんねんながれや)来(きた)りて序文(じょぶん)の役(やく)、 渋(しぶ)もとれざるかち栗は、籠石前(むろいしまえ)の栗こは飯(めし)、
 毫(ふで)を嚙みかみ百舌鳥団七記す。

 嘉永二年 
 むつき

 ただ、紹介された文章に従って「百舌鳥団七記す」としている部分だが、写真版では「百舌自廼屋記す」と読めるような気がする。
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by shingen1948 | 2017-12-17 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから」としながら、写真はない。今回整理したいのは、先に「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り②」でふれた「松川座」だ。
 この整理時点で、曖昧だった位置情報が少し明確になったということでの整理のし直しだ。

 その位置を現中村工場事務所とする「松川のあゆみ」の解説を前提にしているところは変わらない。
 先の整理では、現況ではこの中村製作所が確認できないので、昭和46年の地図にプロットされる「中村製作所」を元に天明根村分の街道の東側と絞り込んだ。

 その中村製作所の詳細が、「松川のあゆみ」の「第二次世界大戦と工場の進出」の項で確認できたのだ。
 この製作所は、昭和13年11月に品川で操業したが、戦災にあって昭和20年2月に中町に疎開創業した企業とのことだ。当時、カセット付テープレコーダーやエイトトラックカートリッジホームステレオを製造していたとのことだ。
 注目はその住所で、「松川町字中町二」とあった。

 この情報と現況を照らし合わせれば、現在アパート風の建物が建つ辺りと想像できる。

 天明根村分にこだわったわけだが、それは「松川座」にかかわる情報に「字天明根」にできた常舞台とあったからだ。
 そのことと矛盾がないかという事だが、ここは字天明根と接する位置なので、大丈夫だろうと思う。
 当時の街並みの塊として眺めた時に、字中町というよりは「字天明根」側の街並みの塊に入り込んでいたのだろうと想像する。

 「松川のあゆみ」の「松川座」についての情報の概要を再掲する。

 明治45年創業の天明根村の常舞台。
 金沢屋忠兵衛が私財を費やし、西光寺の庫裏を解体して建設したものとのことだ。
 明治43年結成の「松川町青年団」発会式は、この「松川座」で挙行されたとのことだ。創業前の出来立ての常舞台を使用させたということなのだろうと想像したところだった。

 「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」では、その集客とのかかわりについて「宿場町から発展した松川町は幕政時代から遊郭もあり、鉄道忌避で寂れたとはいえ、周辺の農村を商圏としてにぎわっていた」と解説されていた。
 ただ、現時点でもこの「松川座」を紹介する写真は見ていない。

 なお、「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」に掲載される大正13年創立で、昭和37年まで続いていたという芝居小屋「松楽座」については、先に「松川事件を歩く」の散策時にその位置を確認していることも再掲しておく。
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by shingen1948 | 2017-12-16 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の「浅川、松川散策の写真メモから24」からは、今回の整理を通して新たに見えるようになった事について、整理のし直しをしている。
a0087378_1134559.jpg この写真は、今回の散策で稲荷神社を撮ったものだ。
 この神社の由緒らしきことと手前の石橋と左手の松川村道路元標については、先の「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で整理している。

 新たに見えるようになった事というのは、拝殿の左側に写る赤い扉の建物だ。
 この建物は、松川国民学校の奉安庫を移築したものなのではないのかなと思ったのだ。「松川のあゆみ」に、「(松川国民学校の奉安庫は、)戦後昭和21年1月24日、新教育の発足と共に撤去され、現在中町の稲荷神社の宝物殿となっている」との記載を見つけたのだ。それで、先に「浅川、松川散策の写真メモから」で整理した黒沼神社に移築された金谷川国民学校の奉安殿と、稲荷神社で撮った写真を見比べて、移築されたという松川国民学校の奉安庫はこの建物だろうと推測したということだ。
 その建物なら、設計は福島の伊藤邦治氏、大工は中町の丹野久松氏で、大正7年10月23日に完成したものとのことだ。杉内励三郎氏の300円をはじめ人々の寄付金500円でその経費は賄われたとのことだ。

 奉安庫は、御真影、教育勅語謄本が安置され、管理は校長の第一の任務であり、児童は勿論、他の職員も入ることはできなかったものだ。最近は、わざわざ教育勅語について教育現場でふれて構わない趣旨を閣議決定されるという流れのようだが、自分の感覚では、これらは戦前の教育の象徴のようなものと感じている。
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by shingen1948 | 2017-12-13 11:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここまで整理してくると、旧国道四号線と重なる大町通りでは、本陣とされるガソリンスタンド付近の写真が欲しかったことに気づく。
 次の機会に、旅籠「植木屋」の案内が設置された辺りから、ガソリンスタンド向けて撮ってメモしたい。

 旅籠「植木屋」の向かい側で目立つのは現金沢屋酒店だが、そこに旅籠「角田屋」金沢屋の案内が設置されている。更にその隣のお宅前には、旅籠「藤屋」の案内が設置されている。
 八丁目家主一欄を眺めると、「角田屋忠吉」とその隣の「藤屋与惣左衛門」が確認できる。
 この二つの情報は、重なりがあるのだろうと思われる。

 この事によって、気になっている「問屋場」と現在位置とのかかわりがイメージできるようになってくるのだ。
 旅籠「藤屋」の隣に「松野屋仙太」があって、その隣が「問屋場」という位置関係だからだ。

 今まで整理してきたことと重なる情報は、現金沢屋酒店の北側一軒挟んだお宅前の街路灯に「新中田屋」の看板が掲げられている事だ。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑲」で、八丁目小学校創立当初の職員を整理したが、その中の「山田きみ」さんの情報と重なる。

 情報を再掲する。
 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩でのかかわりから採用されたらしいとした。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだった。
 この情報を整理する時点で、本町新中田屋の位置は確認していないとしていたが、この辺りだということが分かったということだ。

 本町「新中田屋」の情報を続ければ、その主人伊藤銀治氏は、元丹羽家の下郡奉行をしていた方とのことで、その恩義を感じてきみさんをとても大切にされていたとのことだ。

 本町「新中田屋」の更に北側のお宅の門柱には「内科・産婦人科 菅野医院」が掲げられる。明治43年に開業され、後に村会議員や助役にもなられたという菅野重誠氏の情報との重なりを想像する。

 これ等の向かい側の並びに、先に「浅川、松川散策の写真メモから⑱」で整理した寺小屋情報と重なるお宅もイメージできそうだ。
 季節によって指導していたという本町「服部半兵衛」宅は、本陣のガソリンスタンドから三軒北側のお宅辺りでなかろうかと想像している。
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by shingen1948 | 2017-12-12 10:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回整理でふれた旅籠「植木屋」だが、八丁目家主一欄には「植木屋文次郎」とある。この植木屋文次郎についての以下の八丁目文化情報がある。

 詩人植木鷗渓(植木屋文次郎)松川町本町植木屋茂平の長男。
 慶應元年生まれ、早くより田島敬久に師事し漢詩をよくした。漫遊日誌、伊勢参宮、西国三十三ケ所巡礼日記などに多くの詩を残した。いわゆる旦那芸ではなく実作者としての詩心があった。

a0087378_13273677.jpg この写真は、2009年の散策時に撮影したものだ。旧国道四号線と重なる大町通りを福島側から眺めている。

 右手に鉄の扉があってその先に蔵が写るが、多分、ここが八丁目家主一欄に名主杉内与三郎とある明治以降も代々松川村外4ケ村戸長でもあったお宅だろうと思う。屋号は穀屋とのこと。
 今回はここが名主杉内宅らしいと曖昧ながら言い切っているが、撮影時の散策ではそう言えるほどの自信もなかった。
 中町までの整理と違って位置情報としての側面だけではなさそうとのことで、より慎重になっていたこともある。

 その先のお宅が、検断問屋植木九郎右衛門家だった所らしい。
 半沢氏の歴史地図では「掲示板、高札事務所」とある。ここに高札があったのだろうと思う。名字は植木だが、屋号は大森屋だったらしい。
 福島に支店を設けて江戸福島間を往復していたという飛脚問屋島屋の中継地点として八丁目に文久元年大森屋が記録されているとのことだが、この情報とも重なるのだろうと想像する。これが明治4年まで続くそうだ。
 検断問屋植木九郎右衛門氏だが、その後の松川村積銭所・鉱業社など、金融関係などの実業関係にその名を記されるようだが、八丁目文化情報にも、その名を見かける。

 歌人植木高栄(九郎右衛門)字本町大森屋文吉の長男。
 最初西東弘栄の高弟であり、更に東都の大家黒田清綱に師事して歌道に精通しその秀歌は廔「庭たつみ」にあらわれた。口語歌人秀文の父。

 その口語歌人秀文氏については、次のように紹介される。

 植木秀文(文右衛門)明治39年6月10日生まれで、26歳の若さで亡くなった。
 没後学友たちによって短歌遺作集「赭土(あかつち)」が出版され、松川泉短歌会の同人によって歌碑が建てられた。
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by shingen1948 | 2017-12-10 13:31 | ◎ 水 | Comments(0)
 2009年の散策時、本陣跡とされるガソリンスタンドとともに散策の目印としたのが、造り酒屋宅だ。
a0087378_85123.jpg ここは、福島市唯一の蔵元金水晶だが、全国新酒鑑評会で8年連続金賞を受賞しているとのことだが、最近、日本酒コンテスト「純米酒部門」で2年連続金賞を受賞したとの報を見た。
「福島・金水晶酒造店2年連続金賞 日本酒コンテスト『純米酒部門』【福島民友(2017/11/23)】」
 http://www.minyu-net.com/news/news/FM20171123-222394.php 

 この造り酒屋は、明治28年(1895)に金次郎氏が創業したとのことだが、これが八丁目家主一欄に描かれる「蝋燭屋金兵衛」の情報と重なる。

 八丁目文化情報を探ると、明治天皇御巡幸の折に和歌を献上したという斎藤健輔氏は、この蝋燭屋のご主人のようだ。2代目だろうか。歌人号は春連とのことだ。
 この情報を辿っていくと「蝋燭屋」は旅籠だったようだ。

 先に整理した西光寺住職平林宥京氏が、この蝋燭屋の斎藤春連氏や金沢屋の加藤忠兵衛氏と親交があり、毎日蝋燭屋や金沢屋などで入浴に行っていたとの情報とも整合性がとれる。
 最近、ここに旅籠「蝋燭屋」の案内板が設置されたようだが、この隣の薬局の次にも、旅籠「植木屋」の案内板が設置されている。

 更に隣の文具屋さんの南側に用水が走るが、八丁目家主一欄にも、この用水は描かれている。描かれる石橋などは見当たらないが、位置的には変わりはなさそうだ。

 少し周りが見えてくると、この用水も散策の目印になりそうであることに気づく。
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by shingen1948 | 2017-12-06 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 中町丁字路から抜け出せない。
 前回整理の建物が、八丁目家主一欄にある「中田屋金作(菅野金作氏宅)」跡であるならば、その菅野金作氏も桃林庵雪好と号する文人で、銀風社という俳句結社を起こし門人も多かったとのことだ。玉幽斎輝信と号して書画もよくし、明治15年東京絵画共進会に入選しているという。西光寺に門人が建てた「暫くは噺もせずに月見哉(雪好)」の句碑があるという。

 さて、常念寺跡地だが、今は公園整備化されている。
 この唯称山常念寺は、桜内対馬が開基にかかわった浄土宗の寺とのことだ。
 「こでらんにふくしま通」では「浄土宗の寺院でしたが焼失した」とあった。確かに、八丁目大火で、大部分の伽藍は焼失したようだが、一宇は残ったということだ。そこで今回整理した「維新館」の私塾が開かれたという事のようだ。
 なお、その後明治9年8月には鼓ケ岡村・八丁目村・天明根村が合併した松川村と金沢村・浅川村・関谷村・水原村との連合戸長役場置かれたということのようだ。
a0087378_10441317.jpg 「こでらんにふくしま通」で、「現在は『南無阿弥陀仏』と刻まれた高さ2mを超える3基の石碑が建てられています」と案内されるのが、これだろうと思う。
 奥の石塔にははっきりとした花押も見える。その字体はそれぞれ違うようで、はっきりはしないが花押の痕跡もうかがえる。素人にはよく分からないが、その道に詳しい方には、どなたのものなのか見えているように思う。
 案内では、巨大な石仏との紹介だが、多分、三回の念仏会が権威ある証明されているという意味が込められているのだと思う。

 ついでに、「中田屋金作(菅野金作氏宅)」跡の東隣りの話。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で、結果的には違ったが馬宿を推定したこの建物の東側の空き地だが、江戸末期には、ここに高名な名医がいらっしゃったという情報と重なった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/4/

 この更地前の風景は 「浅川、松川散策の写真メモから⑫」に掲げている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/3/
 八丁目家主一欄では、このあたりに「田村寿杏」が見えたのだ。

 この方は、京に上り、園大納言に仕え、玄了と号し、堂上家に出入りし宮中の拝診をして三后の検脈を許された方との情報と重なるように思う。
 宝暦4年4月3日に法橋の宣を頂き、途中園園大納言御用の荷立を押し立て故郷に錦を押し立てて帰って来たという。この時に、かねて知遇のあった池野大雅、玉瀾ご夫婦と共に見送りに出たまま八丁目まで同道したのだという。
 名医診察を乞う者常に門前市をなしたということだ。
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by shingen1948 | 2017-12-04 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 維新塾にこだわってしまったが、その確認のためにこの丁字路角についての多くの情報も得た。
 その中の郵便局情報から、この残された建物は中田屋跡ではないのかなと想像する。
a0087378_10215464.jpg 明治5年に新しい郵便制度がしかれるが、当時は、国から委嘱された方が郵便局を造り、郵便御用取扱役として勤めたとのことだ。
 松川でも、その年の7月1日に取扱所が開かれるが、その初代局長は菅野金作氏とのことだ。
 その位置は、中町の巡査駐在所の東隣の菅野金作氏宅で、近所では郵便中田屋と呼んでいたとある。

 その駐在所情報を確認すると、明治44年に警察制度がしかれた当初は駐在所は横町に置かれたが、自治制度実施の頃からは、中町の今の常念寺前に新築し、松川駐在所と称したとある。

 八丁目家主一欄で、この辺りの様子を確かめると、常念寺の隣に「中田屋金作」が描かれている。

 これらの情報を重ね合わせると、ここに写る建物が「郵便中田屋」跡であり、八丁目家主一欄にある「中田屋金作」跡であり、菅野金作氏宅ではないのかなと想像する。
 この建物の西手に松川駐在所があったとすれば、「常念寺前に松川駐在所新築」という情報とも「中町の巡査駐在所の東隣の菅野金作氏宅」との情報とも矛盾はしないと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-12-02 10:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(5)
 制度的に整備されていくのは、この辺りでは福島第一小学校の前身とされる福島学校と三春のようだが、素人目には私塾維新塾の創立と八丁目小学校の創立にかかわる経緯には似たような状況だったように見える。
 
 前回の整理では、この私塾には師範学校的な性格も帯びていたような気がするとしたところだが、八丁目小学校の最初の職員と私塾維新塾塾生の情報を重ねてみる。

 八丁目小学校は、明治6年5月2日に盛林寺に創立されるそうだが、その明治6年時点の職員は以下の方々とのことだ。
〇 田島久敬
 6月24日付一等助教申附候事月給8円
〇 山田志殻
 6月24日付ニ等助教試補申附候事月給3円
〇 竜 無善
 6月27日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 平林宥京
 7月2日付三等助教試補申附候事月給2円
〇 信夫隆善
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年12円
〇 半沢富弥
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 山田きみ
 10月23日付三等助教試補申附候事月給2円50銭

 このうち、首座の田島久敬氏は私塾維新塾師匠の田島鷗僊氏のことだが、以下の4名も維新塾の塾生情報から拾える。
 平林宥京氏は西光寺住職、竜 無善氏は八丁目小学校が創立された盛林寺の長老、信夫隆善氏はお隣の安達郡吉倉村西福寺住職、半沢富弥氏は金沢村の黒沼神社神官の塾生の方々のようだ。

 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩とのかかわりから採用された方らしい。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだが、本町新中田屋の位置は確認していない。

 ここまでで確認できないのは山田志殻氏だが、9月14日には水原小に転勤になっているようだ。

 なお、金谷川村の情報では、盛林寺長老竜無善氏は関谷小学校教師、西光寺住職平林宥京氏は浅川小教師、安達郡吉倉村西福寺住職信夫隆善氏と金沢村黒沼神社神官の半沢富弥氏は金沢小教師だとされている。

 また、先に整理した菅原神社神官の渡辺伊佐美氏は、浅川・関谷・金沢小教師とされるが、明治10年には松川小の教員になっていることも確認できている。
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by shingen1948 | 2017-11-30 10:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9335279.jpg この日向山の不動院は、先に松川鉱山にかかわる散策の目安になる地点として確認したものだ。写真は撮ったが、その時の散策には直接的にかかわりがないので、そのまま放置していたものだ。
 今回、ここ日向山不動院住職荒木良仁・良義雄氏もその師匠として活躍されていたとの寺小屋情報を得た。

 他に、季節によって指導したという本町服部半蔵氏、歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄氏、新田の伊藤半十郎氏と多分その子の画家伊藤小兵衛氏という師匠さんという松川町の寺小屋情報がある。

 この松川町の寺小屋情報からは、新たな私塾も見えてきた。
 先に篆刻家として整理した天明根の菅野次郎右衛門氏は、維新塾塾生であると共に町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんでもあったとの情報を得た。また、石合町の明宝院住職小泉宥範氏、そして、最上流珠算の権威者だという埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだ。
 つまり、町裏の西光寺住職平林宥京氏は、情報としては寺小屋師匠とされているが、これらのお弟子さんの師匠でもあるということは、私塾でもあったことが想像できると思うのだ。
 ここには複雑な関係性もあって、平林宥京氏の弟子である埋崎の八巻幸吉氏は、名主で後の村長になられる桜内氏や杉内氏の師匠でもあるとのことだ。寺小屋師匠とされるこの八巻幸吉氏も最上流珠算の私塾師匠だということなのだろうと思う。

 また、松川町の寺小屋情報では、「歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄」氏とされる方だが、「金谷川の教育」の情報ではこの方が「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠として紹介されている。
 そこでは、薩摩様は神官で、和歌を中心に教えていたとある。また、弘栄氏は明治14年の明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上したという。
 関谷村の安田氏はその弟子で、金沢村にも多くのお弟子さんがいらっしゃったとのことだ。

 私塾維新塾は、それらの私塾や寺小屋の師匠さん達の複雑な関係性の中で、研修や交流の場でもあったようにも感じられるが、それだけにとどまらない。
 塾生のその後からは、特徴的に松川小学校にかかわる方々が垣間見られるのだ。
 制度的にはよく分からないが、この私塾は実質的には師範学校的な性格も帯びていたような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-11-28 09:41 | Comments(0)