地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
 昨日、いわき市の小名浜港海底で、爆弾が見つかったというニュースがあった。それらの報道の概要は、次のようだ。
 爆弾の大きさは、長さ約1.15m、直径約20㎝で、100㎏爆弾の可能性が高いとのこと。全体が錆びている為、国籍や型、いつの時代の爆弾かは今のところ不明とのことだ。
 見つかった地点は、「アクアマリンふくしま」から800mの距離にある第一西防波堤の灯台から南に約60mの海底で、水深約7・5mとのことだ。ここで航路拡張工事の調査をしていた建設会社が発見したということだ。

 ニュースとしては、その安全性だろうか。爆弾はアンカーなどで強い衝撃を与えない限り爆発の危険性はないということだった。早い時期に水中爆破処分する予定とのことだ。

 このニュースに注目してしまったのは、平では、20年7月20日に投下された模擬爆弾が2発不明という意識があったからだ。しかし、大きさが全然違う。
 模擬爆弾なら、大きさは長さ3.5m、直径1.5mで、重量は4.5~5tのはずだ。

 それでも、漁業の方の発言には注目してしまう。
 「海底を網でさらうと爆弾の中に入っている火薬がよく網にかかると聞いた。他にももっとあるのではないか」というのだ。模擬爆弾に限らず、今になっても爆弾が発見される可能性を秘めているということだ。

 昨日は、この空襲にかかわることが、もう一つあった。「日本の空襲1~北海道・東北(日本の空襲編集委員会)」を偶然見つけたのだ。「平市史通史」にここから引いた資料があって、いつか確認したいと思っていたところだった。
 とりあえず、平の7月26日の空襲の罹災の概要を確認する。

 「午前10時頃、平市東南方鹿島灘方面より進入して、高度8000mぐらいの上空より平市を中心に付近を旋回飛行していて、12時になって、平一小に500キロ弾を投下。児童は完全に避難していたため、被害は校長他職員の死傷者が続出し、目を覆うような惨状となった。罹災区域は平市揚土平一小を中心とする一帯」

 今までの情報に加え、空爆前のB29の偵察の動きが見えてくる感じがする。爆弾は500キロとあるのは気になるところだ。繰り返すが、本当は5tだ。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-06 05:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 戦時中を経験を通して知らない者にとっての空襲のイメージは、何百機もの飛行機が編隊を組んでやってきて、焼夷弾の雨を降らせていく中で、いくつもの爆弾を投下するというものだ。
 ところが、この模擬原爆(パンプキン)投下の空爆は、単機あるいは少数機のB-29がやってきて、1個の巨弾を投下して去っていくという独特のもののようだ。
 茨城具大津の調査報道で、この空爆の被弾状況が今でも不明なものもある事を知った。平でも、20.7.20に2個の模擬原爆が投下されているはずだが、その被弾情報は確実ではないようだ。

 調査しても不明なのは、空爆の特徴と共に投下された爆弾のイメージのずれも関係しているのではないかとも思う。
 調査したい方では、この爆弾は当然5tという巨弾のイメージを持っている。しかし、調査を受ける側では、巨弾というのは500キロをイメージするのが普通で、それでも中には最大1tをイメージする人もいるかも知れないという状況のようだ。
 空襲というイメージのずれ、巨弾のイメージのずれが重なって、概念的なズレがあるのかも知れないと思う。
 平では普通にイメージする空爆も受けていて、語り継がれるのはこちらが中心のようだ。そのこともかわるかもしれない。7月26日の模擬原爆の投下については語られているが、それは学校に投下されたという特殊性があったからではないかとも思う。当然、その周りには民家が多かったということもあったろうか。20.7.20の空襲が消えているは、その被害が少なかったということもその一因かもしれないと思う。

 確認していると、平の空爆にはもう一つの特徴があることが分かる。それは、いつも第一目標ではなさそうだということだ。
 第1回目の平空襲は、昭和20年3月10日東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたようだ。これで、死者12人、家屋500戸以上が炎上するという被災を受けている。
 そして、第2回目の平空襲とされているのが、今回整理した7月26日平第一国民学校(現平一小)に被弾した模擬原爆による空爆だ。これも、第一目標は長岡地区だった。
 これで、死者教員3名。家屋1500個以上が破壊という被災を受けたといわれている。
 第3回目とされるのは、昭和20年空襲のようだ。これに昭和20年7月26日の2機が模擬原爆を投下した空爆を合わせると、平では計4回の空爆にあっていることになる。
 この26日の空爆も、第一目標は1つが郡山で、もう1つが長岡の工場だったということだ。
 こちらは、投下する側の意識の軽さを物語っているのではないかと勝手に想像してしまう。余った爆弾とか、軽くした方が着陸時に危険が少ないなどの理由が想像される。
 それを市街地に軽々しく投下されたのなら、戦勝国が語る人道という概念とはほど遠いものを、勝手に想像してしまう。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-05 05:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 最近、平第一国民学校(市立平第一小学校)が被弾した時の体験談を読んだ。その手記は「市民が書いたいわきの戦争の記録~戦中・戦後を中心に(いわき地区学會出版部編集委員吉田隆治編)」<歴史春秋社>の中にあった。
 資料からは読み取れなかったことを、その手記で確かめる。
a0087378_6104236.jpg
 通史によると平空襲は3回あったとのことだ。その罹災範囲を図に示している。その図を基に地図と重ねてみる。その第二回目の平空襲罹災が、模擬原爆(パンプキン)被弾による罹災地ということになる。(平の土地勘がないので、うまく読み取っているかどうか分からないところがある)
 今までの資料では、高等科の児童が全員無事に避難したことは読み取れたが、それ以外の児童の動きは読み取れないでいた。
 手記によると、この日は、初等科の児童は臨時休業にして登校していなかったようだ。高等科の児童は登校していたが、始業前に空襲警報があった時点で、全員帰宅させたようだ。それから、職員達が避難行動に入り、その直ぐ後に被弾するという事態になったということのようだ。
 手記を書かれた方は、一徳坂の一番下の防空壕に逃げ込んだとある。地図で確認すると、この学校は高台にあるようだ。坂を下った所にある避難防空壕は、神社のある側だろうか。
 避難している中で、大きな爆音、崩れた瓦礫が飛んできた描写など生々しい。
 手記では、防空壕から戻ると校舎がなくなっていたとある。別のページにある被弾直後の学校の写真をみると、校舎は完全に吹き飛んでいるようだった。校舎直撃だったらしい事が分かる。
 その建物の位置関係を描写から拾う。
 校舎は道路に沿ってあったといい、吹き飛んだ残骸が、女学校の校庭にあったという。
 また、防空壕から戻る途中、教頭先生が、校庭で誰だか分からない状態で負傷している描写があり、校舎がなくなって女学校が見えたということだ。これらから、この校舎は西側に建っていたのかなと想像する。
 その建物の玄関で、校長先生と瓜田先生が被弾して倒れていたという状況のようだ。この手記で、市史の中の渡邉氏が、この学校の校長先生で、玄関で即死の状態だったことが分かる。周りが慌ただしくいろいろな処理に走る中、この手記を書かれた方が、中心になって校長先生を校庭の端に運ばれて見守られていたという状況であったようだ。瓜田先生は、息があったので病院に運ばれたが、ここで亡くなられたようだ。
 市史の中では、このお二人の方は、氏名が明記されている。もう一人の方は佐藤氏とあるだけだが、この方が三義先生とのことだ。併設された平盲学校の委託職員の方で、緊急に公務整理中に被弾されたという状況だったということのようだ。
 その他、山田先生が負傷で病院に運ばれ、大平先生が暫く行方不明だった等々の混乱も生々しい。
 手記では、これら混乱の中、授業再開に向けた動きも記録されている。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-04 06:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月26日の空襲にかかわる情報を、平地区の資料で確かめる。
 「平市史通史」では、昭和20年3月10日の平空襲に続いて、第2回目の空襲として以下のように記録される。
 昭和20年7月26日午前9時ころ、平第一国民学校(市立平第一小学校)が、B29爆撃機1機の投下した1発の爆弾(いわき市史第11巻上は1t、建設省編「戦災復興誌」は500キログラム)で完全に倒壊してしまった。校長、教師の3人が死亡、負傷者60人を出した。
 登校した高等科の生徒は避難して全員無事だった。

 そこに掲げられる「石城郡戦災史年表」では、この空襲について、「500㎏爆弾により1517戸被災、3人死亡、53人負傷」を記録する。
 更に「いわき市史第11巻」を確認すると、「揚上爆弾1屯」とあり、26日の空襲分として、この空襲による死亡者の氏名と住所が記録されている。
 ここで記録される死亡者は、渡邉寿重、佐藤―、瓜田 寿氏。(別資料で、渡邉氏が平第一国民学校の校長先生で、佐藤氏は、佐藤三義氏でこの学校の付属盲学校委託職員の先生、瓜田氏が平第一国民学校の先生らしいことが分かる。)
 空襲の記録を見直す動きの中に、犠牲者の氏名をきちんと確認する動きがあるようだ。この市史は古そうだが、そういう意味では新しい。

 この市史の別項目のところに、この時とかかわる資料があった。
 昭和23年に発効した戦争保険受領の為の「罹災証明書」だ。そこに、「1屯爆風による六間門所在住宅2棟と土蔵1棟の損害証明」との記載があった。
 地図で確認すると、六間門は平第一国民学校(市立平第一小学校)の北側だ。ここに投下された爆風によって崩れた民家が、戦争保険を受領するために「罹災証明」を受けたということだ。この資料から、直撃を受けた学校だけでなく、広範囲に渡って爆風の影響を受けた民家が崩壊していることが想像できる。
 地図を確認していると、平一小と平一中が隣り合っている。この平一中が、郡山の警報当番日誌にある女学校があったところのようだ。

 なお、平の初回空襲は、東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれたという。死者12人、家屋500戸以上が炎上したとのことだ。平に投下された模擬原爆は、いずれも他所に落とす予定だったものだが、これもまた東京大空襲帰りの投下とのことだ。落とす方にとっては単なる変更だが、落とされる方にとってはたまったものではないと思う。
 そういう意味で切ないことがもう一つある。平第一国民学校に被弾した模擬原爆は、工業地帯に投下されたことになっていることだ。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-03 05:26 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月20日の模擬原爆(パンプキン)投下とかかわる平の空爆記録は曖昧だが、昭和20年7月26日の投下とかかわる被弾は、第2回目の平空襲として記録される事が多いようだ。
 ネット上の情報では、5トン爆弾が平第一国民学校(現平一小)に被弾し、お城山一帯が破壊されたとある。死者教員3名、家屋1500以上が破壊との情報となる。
 これが、任務№8の攻撃した目標が長岡地区照準点2箇所で、その臨機目標として、平工業地域(北緯37°04′―東経140°52′)に投下されたとするものだ。これも10/10の雲で、予定変更による投下のようだ。

 先の郡山の警報当番日誌では、次のように記録されているようだ。
 7月26日
 近頃2、3日快晴続く。敵機の行動愈々激しく、
 午前8時7分警戒警報発令を見る。
 今日も鹿島灘より本土へ進入、茨城県四目標行動中、暫くして本県南部より中部へ西部へ東部へ変転するも爆音なく9時41分解除される。
 11時44分、またまた警戒警報発令、
 今度はB24洋上を行動中との報あり。20分にして12時4分解除さるるも、
 平第一国民学校、女学校の中間へ500キロ爆弾1ケ投下され、30名からの死傷者出る。B241機小数たりとてあなどらず、B29100機たりとて恐れず、待避の時機に注意せられたし。
 27日0時6分新潟方面より侵入の敵機に警戒警報発令を見、当市北空を通過、東南方沖へ退去。0時29分解除。

 この日は、模擬原爆(パンプキン)投下にかかわって、この平に投下した攻撃目標が長岡の任務で4機、攻撃した目標が富山地区で6機が広範囲に行動している。だから、どれが、郡山上空ので描写される機と結びつくのかは分からない。
 ただ、郡山ではこの日の平第一国民学校の被弾が、その日のうちに伝わっているということが分かる。「B24が、500キロ爆弾1ケ投下し、被弾被害は30名からの死傷者出る」というもののようだ。その内容が多少違うのは、今だから言えること。感じるのは、郡山の情報把握の速さだ。
 伝達された内容で明らかに違うのは、B24が、500キロ爆弾1ケ投下ということで、これはB29が、5t爆弾1個投下ということだろうか。
 ただ、現在でもこの爆弾の重さは、権威ある資料でも、ペーパーの記録では500キロと1tの情報が混在する。
 先に整理した福島渡利に被弾したものも、ふれあい歴史館では500キロ爆弾としている。これによって、当時はこれ等を500キロと認識する共通した訳があるというヒントを得ることができる。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-02 09:23 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 7月20日朝に、郡山に模擬原爆(パンプキン)投下を目指し、天候の都合で大津町と平に投下地を変更した被弾状況は、把握されていないようだ。
 この日には、別の攻撃目標だった模擬原爆も平に投下されているようなのだ。合わせて2つの模擬原爆(パンプキン)が平に投下されているようだ。その任務№3は攻撃目標は長岡の工場で、2機出撃しているらしい。
 アメリカ側の情報では、その内の1機は、第1目標で津上安宅製作所(北緯30°27′55″―東経138°51′20″)に投下しているらしい。もう1機が、第2目標で東海岸の平(北緯37°03′―東経140°50′)に投下しているとのことだ。
 観察記録に「目標までの往路は6/10の低い雲、全ての目標上空に3層の雲が存在、全ての爆撃航程はレーダーによる。基地への帰路は、基地の北175マイルまでは往路より幾分か良好。そこかで8/10の低い雲に出会う。」とあるようなので、第二目標になったのは、雲がかかっていたためらしい。

 この日の2発の投下された模擬原爆(パンプキン)について、平の確実な被弾情報記録はみつからない。下高久小被弾で被害なしという情報を一つ見るが、その情報の確からしさは分からない。
 大津町の聞き取り調査が行われた報道の中で、不明の理由を海中に被弾の可能性も考えていたようだ。平でも同じような可能性が考えられそうだ。
 確かに、「たとえ山中に落ちたとしても、5tという巨大爆弾なので爆風や穴などの痕跡で分かるはず」だと思う。

 最近、この第一目標長岡で津上安宅製作所に模擬原爆を投下されたことにかかわって、長岡の方々が渡利を訪れたというニュースを見たことがある。今、このニュースはちょっと見失っている。見つけたら後でリンクしたい。
 どうでもいいことだが、この観察記録に興味深い記録がある。
 「銚子の東10マイルのあたりで、気球のように見える物体を見る。高度約18000フィート、奇妙な形をして色は銀または白色。直径40フィート」とある。
 これが、「ジェット気流が上空を通っていて、大津町は風船爆弾にも利用した」という風船爆弾だろうか。模擬原爆(パンプキン)投下とはかかわらないが、大津町も平も風船爆弾にはかかわりがあるらしい。
[PR]
by shingen1948 | 2010-10-01 05:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)