地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 結局、医王寺の建設工事と小笠原國太郎氏とのかかわりは確認できなかった。
a0087378_644086.jpg ただ、その確認の中で自分の視点が薬師堂に向けられた時、医王寺についての自分の偏った見え方に気づいた。それは、「奥の院薬師堂」についての思い入れを感じながら、理解できていないこととかかわる。
 (手持ちの写真は家族が写りこんでいるので、この「奥の院薬師堂」の写真は、福島市の観光のページからお借りした)

 医王寺と言えば、中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺だとか、境内には佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑が残るとか、後年、奥の細道の松尾芭蕉が訪れたというイメージしか持ち合わせていないということにかかわる見え方しかなかった。
 多分、解説する人にとっては常識的な見え方なのであえて説明しなかった知識を、自分には持ち合わせていなかったということなのだと思う。

 そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)

 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認すると、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とある。
 その山号までも瑠璃光山ということで、薬師如来にかかわっているということだ。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号と、「大鳥城記」がいう「奥の院薬師堂」、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の薬師瑠璃光如来が鎮座する地とかかわるということなのではないのだろうか。

 医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、確認していくと、この「薬師瑠璃光如来」が重要な仏様らしいということだ。
 そういう視点を加えることで、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業が、本来的な意味を持つ見え方で眺められるようになったのだと思ってる。
 次の機会には、この「奥の院薬師堂」をよく見てきたいなと思っている。
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by shingen1948 | 2016-12-05 09:43 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」が、小笠原國太郎氏の仕事らしいという事で整理してきた。
 他に「医王寺本堂」の建築も氏の仕事との紹介がある。しかし、手持ちの散歩資料からは本堂の明治時代改修が読み取れないでいる。
a0087378_851511.jpg 「大鳥城記」では、確かにこの寺は何度も火災に遭っているようで、そのたびに再建を繰り返していることは読み取れる。元禄7年、享和3年、文化2年等の本堂や客殿の建立は、古文書で確認できるという。これらは、火災による焼失だろうと想像されるようだ。
 ただ、現在の本堂や庫裏は、文化2年に建てられたものと推定されているようだ。この建物の改修が明治時代に行われたということなのだろうか。

 この寺の明治から大正にかけての気になる改修がある。
 大正4年(1915)に行われたといわれる薬師堂の改修だ。
 明治37年(1904)に「奥の院薬師堂」が焼失し、大正4年(1915)12月に再建されたことが記される。しかも、「竜和和尚が大勧進となり再建した」との表現で、大きな仕事であったことが想像される。
 こちらなら、年代的にはあいそうに思う。

「平野の伝承とくらし」では、「大鳥城記」で「奥の院薬師堂」と紹介される薬師堂を「鯖野薬師堂」と称して、次のように解説される。
 この薬師堂は、佐藤基治がいたく薬師仏を信仰して、弘法大師の御作といわれる薬師仏の尊像と、玄心僧都の献上した薬師仏の尊像とを鯖野の里に御堂を建て併安し、これを鯖野薬師と称したのである。医王寺の門を入ると老杉が立ち並ぶ古い参道をまっすぐに進むと、杉森の中にこの御堂がある。 基治が建てた御堂は結構の贅美をつくした実に立派な御堂であったが、明治36年火災に罹り、さしも壮麗な御堂が烏有に帰してしまったのである。それから久しく再建できないでいたが、大正4年12月竜譲和尚が大勧進となり、非常な苦心努力を払って再建したのが今の御堂である。
 
 今のところ、福島側からの散歩情報では曖昧なままで、確認がとれていない。
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by shingen1948 | 2016-12-04 08:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 芭蕉が飯坂を飯塚としたことについて、芭蕉が「飯坂」と書くべきところを「飯塚」と誤ったとする一般的な考えを前提に話を進めてきた。
 しかし、これを誤りではないとする説もあるようだ。
 「旅あるき『奥の細道』を読む(麻生磯次)【明治書院】」では、「飯塚」でも誤りではないという説を紹介している。
 飯野氏は「基礎研究」で、伊達政宗の「飯塚温泉入湯記(伊達文書)」の例をあげ、横沢氏は「芭蕉講座紀行編」で、「伊達家治家記録」天正17年4月28日の条に「飯塚より温泉を汲寄せ浴せらる」とあるのを例としている。
 思うに、古い時代には、その辺りを広く飯塚村といったものではないだろうか。現在は「飯塚」の名は、平野村(今は飯坂町に合併)の大字平塚の小字としてわずか名残りをとどめているにすぎないが、もとは飯塚村と称したらしく、現在の飯坂温泉あたりまでもその名で呼ばれたのであろうか。
とし、芭蕉の頃、飯坂温泉は「飯坂」と呼ばれていたのは、「曽良日記」からも明らかだが、時には飯坂・飯塚両様に呼ばれた可能性と、芭蕉の好みから古く飯塚といわれたことをもとに旧い呼び名を用いた可能性を想像しているようだ。
a0087378_951195.jpg 「平田舘」を整理した頃には、散歩の感覚から「瀬上―下飯坂―高梨―飯塚六角―星の宮」のコース取りに不自然さを感じていたので、この説に積極的に賛同しただろうと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13680821/
 ただ、コース取りの不自然さを感じるのは「飯塚六角→星の宮」の部分が大きかったようにも思う。「曽良氏は入江野村中村氏をメモってる」とすれば、この辺りで「瀬上道」とするそのまま進行する道筋での想像であり、不自然さは薄まる。

 これを読む人にとっては揺らぎと感じるだろうが、整理する立場では、いろいろなコース取りができて、想像が膨らむということでもあると思っている。
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by shingen1948 | 2016-08-30 10:58 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 何度もこの辺りを散歩したものにとっては、医王寺に向かうのには「福島―岡部渡しー山口(信夫文知摺)―瀬上―上高梨―高石仏板碑群の脇道」まで古道の筋道に沿ってきて、ここから河岸段丘縁を経由して「星の宮」に向かうというのが自然のように思う。山形道の道標に突き当たる道筋でもいい。
 しかし、「奥の細道臨地研究(県教育センター)」資料では、「瀬上―下飯坂―高梨―飯塚六角―星の宮―五郎兵衛館(上飯坂)―鯖野―医王寺」のコース取りがいいとする。「奥の細道」を文学的に考察する方々には、このコース取りを想定することが多いように思う。
 その根拠になるのが、芭蕉が飯坂を飯塚に聞き誤っていることだ。
 この聞き誤りにはそれなりの理由があるはずだとする。少なくとも、「イイズカ」の地名を耳にする可能性があるのは「飯塚六角」を経由することだということだ。
a0087378_10244037.jpg 「曽良氏は入江野村中村氏をメモってる」ことが、このこととかかわるのかもしれないと思ったのだ。
 もしかかわるのだとすると、本来的に目指す道筋は、この辺りで「瀬上道」とする道筋ではないのかなと想像する。飯塚村から鯖野村と入江野村の村界に沿った道筋だ。
 この道筋にスムーズに入り、入江野村中村氏に出会えていたのなら、この道筋とクロスして飯坂に向かう西街道に入り、その道筋を進めば医王寺に辿り着く。しかし、「飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に」ということであり、入江野村中村氏に出会った様子もなさそうだ。
 それなら、飯塚村からの道筋の途中から鯖野村側に逸れて進んで、どこからか西街道の道筋に入って医王寺に辿り着いたのではないのかなと勝手な想像を膨らませている。
 そうすると、こんな行程想像はどうだろうか。

 「飯塚六角」までは「奥の細道臨地研究(県教育センター)」資料④の通りだが、ここから星の宮へ向かうのではない。そのまま西に進んで「瀬上道」に入るのだ。飯塚村の中心地を左手に経由し、石堂へ南下する道筋辺りで混乱するというのはどうだろうか。ここをそのまま西進して鯖野村に入ってしまうのだ。道筋から外れるとすると、この辺りでないのかなと思うのだ。
 ここから尋ね尋ねて西街道の道筋に出会う。その道筋をたどって、無事医王寺に着いたというコース取りの想像だ。
 こんな想像が可能だと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-08-29 10:29 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 芭蕉一行が信夫の里に入るのは5月1日だ。
 翌5月2日、福島宿で朝を迎えた一行は、「岡部の渡し」で阿武隈川を越え文知摺観音を尋ねる。そこから、「月の輪の渡し」で再び阿武隈川を船で渡り、瀬上宿を横切り鯖野の里に向かう。
 その行程について、「奥の細道」本文では「飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也」とする。
 芭蕉一行は、信夫の里からの道中、人に道を聞きながら大鳥城跡の丸山(館山)に行って、その足で麓の医王寺を訪ねたことになる。
 曽良氏の「随行日記」では、「瀬ノ上ヨリ佐場野(鯖野)ヘ行。佐藤庄司ノ寺有」を記す。

 今回整理したいのは、「曽良氏は入江野村中村氏をメモってる」ことが、この瀬上宿を横切り鯖野の里へ入る具体的な道筋推定にかかわる可能性について想像することだ。
 この道筋の定説については、先に散策で整理しているところだが、簡単に整理し直す。

 「奥の細道臨地研究(県教育センター)」資料によれば、古地図や古石碑等をもとにすると次の4つとそのバリエーションが想定されるとのことだ。
 ①瀬上―下飯坂―小川―上飯坂―鯖野―医王寺
 ②瀬上―下飯坂―高梨―平田―鯖野―医王寺
 ③瀬上―下飯坂―高梨―小川―上飯坂―鯖野―医王寺
 ④瀬上―下飯坂―高梨―飯塚六角―星の宮―五郎兵衛館(上飯坂)―鯖野―医王寺

 要は、古道の道筋のどこから小川の河岸段丘の道筋に入るかということだが、参考にさせていただいている地域の散策資料の多くは「瀬上―下飯坂―高梨」までは古道の道筋をたどり、そこから先が微妙に違うのだが、その後「星の宮」を経由して五郎兵衛館(上飯坂)―鯖野―医王寺へ至るという道筋を想定しているように思う。
 このことに詳しい平野地区の古山氏が、児童用に解説する資料では、「福島―岡部渡しー山口(信夫文知摺)―瀬上―上高梨―平田―平塚―鯖野(医王寺)―丸山(舘の山・大鳥城跡)―飯坂温泉(泊)」とする。そのうちの「平田―平塚―鯖野(医王寺)」が平野地区内だと強調する。
a0087378_9573595.jpg 「平塚」とあるのは、先の④でいう「飯塚六角」のことかなと思いきや、その図示されたものを確認すれば、「上高梨」からこの高石仏板碑群の脇道を抜けて「八景」を経由して「星の宮」に向かうとしている。半沢氏の「歴史地図」も、ほぼ同じような道筋を想定しているようだ。
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by shingen1948 | 2016-08-28 09:59 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 前回は個人的な平野村への思いとのかかわりで、曽良氏が、随行日記の裏表紙に「入江野村」在住中村岡衛門氏をメモったことに興味を持ったことを整理した。
 しかし、それだけではなく、芭蕉一行の足取り推定にもかかわる情報なのではないのかなと思うのだ。今回は、そのことついて整理しておく。

 実は、「平野村道路元標設置場所跡を探す」散策で「平塚村」と「入江野村」の村界としたが、芭蕉の「奥の細道」の時代、ここは入江野村と飯塚村の村界だったと思うのだ。
 明治初期に、飯塚村と平田村が合併して「平塚村」は誕生したのだ。その中の東側に位置した集落が「平田村」で、その西側に位置していたのが「飯塚村」だったようだ。
 その村界は確認していないが、平塚村里程元標を置いたという山形街道と瀬上街道が交差する東六角地区は平塚村の位置ではないかと想像している。
 飯塚村は、平塚村と入江野村の間に位置する小さな集落でしかなったと想像する。

 回りくどくなったが、芭蕉一行は、福島で郷野目村の神尾庄衛門氏宅に立ち寄った後、福島宿に宿を求めている。これは明らかな事なのだが、想像を加えれば留守でなければ一夜の宿を頼りたかったのではないのかなと思うのだが、どうだろうか。
 そのこととのかかわりだ。
 「福島で郷野目村神尾庄衛門」のすぐ隣に「同 入江野村の中村岡衛門」がメモされているということは、曽良氏の頭に、飯坂で宿を求める前に、ここに立ち寄ろうとしなかったかという想像だ。
 そして、その立ち寄ろうとした手前の目印となる集落が「飯塚村」という位置関係にかかわる勝手な想像だ。

 これともう一つかかわるのが、芭蕉は「飯塚」と「飯坂」について混乱しているという情報だ。
 「ふくしま奥の細道(横井博)」では、そのことについて次のように解説している。
 (『奥の細道』本文で)飯坂をどうして飯塚と書いたかについては、いろいろな説がある。曽良の随行日記、5月2日の条には、
夕方 雨降、夜に入、強。飯坂に宿、湯に入。
 と明らかに「飯坂」と記してあるほどだから、素龍の書き誤りではない。芭蕉の原稿に「飯塚」と書いてあったにちがいない。そこで芭蕉が「飯坂」と書くべきをうっかり「飯塚」と誤ったと、一般に考えられている。

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by shingen1948 | 2016-08-27 07:53 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「平野村道路元標設置場所跡を探す」散策を通して、「平塚村」と「入江野村」の村界付近の様子を探ったところだった。
 「すぎのめ12号」に、「奥の細道」の芭蕉の随行者である曽良氏は、その日記の裏表紙にその「入江野村」在住中村岡衛門氏をメモっているという情報が載っていた。
 この情報は、「芭蕉の尋ねた神尾氏とは(尾形良吉)」という福島の「奥の細道」にかかわる考察の中のものだ。
  「おくの細道―曽良随行旅日記」原本複製の裏の二ページにわたる覚書の中に次のようなメモがあったとのことだ。
  乗井 石黒左兵へ  本龍寺
  福島郷野目村    神尾庄衛門
  同 入江野村    中村岡衛門

 勿論、本文の趣旨は、「福島町ヨリ五六丁前郷ノ目村デ神尾氏を尋ね」た神尾氏とのかかわり考察がメインで、その中にたまたま「入江野村中村岡衛門」情報も含まれていたということのようではある。
 それでも、この辺りをよく散策していた者にとっては、中村さんがどなたかは知らないのだが、「おくの細道」にかかわる「曽良日記」に、平野の入江野村在住の方がメモられていたということが分かったというのは、楽しい気分になれる素敵な情報に思えるのだ。

 この村にかかわって整理した事があるのは、今回の「平野村道路元標設置場所跡を探す」散策だけでない。
 平野付近の飯坂古道と西海道の古い道筋を探った事もあったが、この間を結ぶ瀬上道は、この入江野村を横切っているということもあった。
 西の六角石にかかわる散歩、舘屋敷に係る散歩も、この入江野村の散策である。
 若いころ10年近く住んでいたのが現「西海枝屋敷」辺りなのだが、これも実は入江野村の範囲のはずなのだ。
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by shingen1948 | 2016-08-25 12:33 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 平野村道路元標設置場所跡を探し当ててはいないのだが、これを探す経緯の中でいろいろな事が分かったので、その事について整理してみた。
 今回の確認作業の中で、「道路元標」と「里程元標」の違いが曖昧だった事も分かった。
 「国道901号-道路元標が行く」という道路元標に詳しいホームページの開設を参考に、このことを整理し、この項を終わろうと思う。

 「国道901号-道路元標が行く」のページでは、「道路元標」と「里程元標」の違いとそのかかわりについて次のように解説している。
 まずは、「道路元標」については「道路元標設置の法的根拠は、大正8年11月に公布された旧「道路法」によるものです」とする。
 次に、「里程元標」については「『元標』と名のつくものは道路元標だけではなく、明治期のお触れによる『里程元標』も多く残っている。また、時には『御大典記念元標』なんてのもあり……」とする。
 ここでいう「明治期のお触れ」は、明治6年(1873)それぞれの府県ごとに、「里程元標(りていげんぴょう)」を設け、陸地の道程(みちのり)の調査を命じたことをいうらしい。
 更に、その「道路元標」と「里程元標」とのかかわりについては、「大正道路法で市町村に1個設置せよいうことになったものの、どうやらこれらのものを道路元標と『みなしてもよい』ことになっていた可能性が非常に高いらしい」とする。

 要は、道路元標設置は、大正8年11月公布の旧「道路法」によるものだが、道路元標設置にあたり、明治期のお触れによる「里程元標」を道路元標とみなしてもよい事になっていたらしいということのようだ。
a0087378_15493764.jpg これは、先の散歩で佐倉村の道路元標として整理したものだが、これが明らかにこの例になるということのようだ。
 つまり、この碑は元々は福島県の佐倉村里程元標だったものなのだろう。それを佐倉村道路元標とみなしたものというのが正確な表記なのだろう。

 今回の整理とのかかわりでは、平野村が誕生した明治22年には法的な意味で道路元標はまだ設置されてはいないことになる。
 「信達二郡村誌」によれば、ここでいう「平塚村元標」の「里程元標」が、「瀬上街道」と「山形街道」が交わる東六角地内「瀬上街道」にあり、「入江野村元標」の「里程元標」が、この辺りの人々が言う西六角に近い「角屋敷」にあったということのようだ。
 そして、合併したての平野村としての里程標はなかったのかもしれないとの想像もできそうだ。

 平野村としての大きな課題は、平野村の中央を走る開通したての飯坂街道新道沿いに、合併したての村の中心となる公共施設を建設することだったのかもしれない。
 それらの建設整備が進んだ頃、「道路元標」がかかわる旧「道路法」が公布(大正8年11月)され、それとのかかわりで「堂ノ前16」に平野村の「道路元標」が設置されたというおおよその流れを想像する。
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by shingen1948 | 2016-08-24 15:53 | Comments(0)
 本当は、ここで「道路元標」と「里程元標」の違いとかかわりを整理し、この項を終わろうと思っていたのだが、思わぬところで堂ノ前16番地の情報と出会ったので、その事にふれておく。

 東京の電力会社がぶちまけた放射能のため、この辺りでは安心して家庭菜園の野菜が食えなくなった事とのかかわりだ。
 福島市の各支所等に持ち込んで食品等簡易放射能測定器で測定してもらう体制だったが、JA新ふくしまでも10か所測定所を開設したということだった。
 その受付所の「飯坂南資材店」の住所が何と飯坂町平野字堂ノ前16とあるのだ。
 それで、詳しく確認すると、ここが「新ふくしま農業協同組合・営農経済センター・資材店 飯坂南資材店」とあったり、「新ふくしま農業協同組合支店・出張所 飯坂南支店」とあったりするのだ。
 勝手に「飯坂町平野字堂ノ前16」の地点に建つのは民家と思っていたところだが、いわゆる農協の可能性もあると思えてきたのだ。航空写真にも写るので、少なくとも昭和27年から建っているということだ。
a0087378_9521549.jpg
 道路現標の設置場所だが、具体的には市町村の中心部、市町村役場の前、役場付近の主要道路の交差点脇などが多いとのことだ。それが一般的なのだが、管理の利便性から村役場の敷地内に設置された例も結構あるとの情報もある。
 そして、この時代、農協は役場に準ずる機関との見方が主流であって、村の中心部の役場近くにあったことが多かったという情報もある。
 これ等の情報を組み合わせて考えれば、「堂ノ前16」が農協ならば、そこに道路元標が設置される可能性はあるということだろう。道路とのかかわりは、飯坂街道とのかかわりで十分であり、他の道路とのかかわりに左右されないのではないかと思えるのだ。
 そういえば、平野村の道路元標探し始めの頃、農協がその候補地として紹介されたことがあった。ただ、当方には農協は現JA地点であるとの思い込みがあって捨てた情報だったのだ。
 勝手な思い込みを追加しておく。
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by shingen1948 | 2016-08-23 09:52 | Comments(0)
 平野村道路元標設置場所跡を探す散策を通して、現在「堂ノ前」付近の地域がどんな風に見えているのかをまとめておく。
a0087378_9581570.png 紺色の線は、平塚村と入江野村の村界線だ。おおよそ間違いないかなという確からしさの部分は実線とし、曖昧だと思う部分は点線にしてみた。
 推測にかかわるのが緑線と赤線。
 緑線は、小字界の資料から推定した線で、赤線は現在の地域割りに伴う線だ。これを補助資料とし、実際の散策の経験と航空写真などの資料を通して補正してみた。これに伴って、明神様境内の空間が感じられるようになった。この神社の南縁が村界になっていることが分かる。

 ここに新たに「飯坂街道」が通るまで、ここをそれほど主要な道筋が通っていなかった。それは、ここが村界であることからも明らかだ。
 その中でも、この地域にとっては比較的主要な道筋はどこだったのかということを探るのに、昭和27年の航空写真を参考にした。
 昭和27年の航空写真では、平塚村の中心と思われる現「東六角」から平野選果場前を通る道筋はすでに主要な道筋になっている。しかし、「平野の伝承とくらし」によれば、昔はこの道筋は集落の縁の線で、ここから南側には民家はなかったというその境界線だったという。
 それで注目した道筋が、大和田方面からの道筋だ。
 現在は選果場の脇に真っ直ぐに伸びる道筋だが、昭和27年の航空写真では、途中から二つに分かれ、その一本は現病院脇付近を通り、明神様と観音堂を結ぶ道筋につながっている。もう一本は、神社の一本西の大きな民家の正面の道筋につながっている。その民家の正面から西に向かい、南に下って観音堂に向かう道筋もはっきり写っているように見える。その北側は集落になっているらしい様子が伺える。飯坂街道と共に、それらこの地区では主要な道筋とおもわれるものを濃茶で示してみた。
 入江野村側から明神様に向かう道筋も濃茶で示してみたが、入江野村の中心「角屋敷」とのかかわりかなと思う。

 もっと限定的に「堂ノ前16」という狭い範囲を眺めると、現平野駅東側一部が「堂ノ前17」で、航空写真に緑地境に見える部分から南に「堂ノ前11」があり、その他が「堂ノ前16」とかかわるらしいことが推測される。
 飯坂街道から、その中心となるらしい地点まで道筋が延びている。そこから、点線の濃茶の点線で結んでみたのは、昔、この道筋は明神様に抜けることができたとの話があったからだ。
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by shingen1948 | 2016-08-22 10:09 | Comments(0)