地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 福島散歩の中で感じることがもう一つある。それは、敗れた者を受け入れることだ。
 例えば、源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れてくる。途中、信夫荘の佐藤氏ともかかわりあうようだが、その義経を東北は受け入れている。
 戦いに敗れたものが東北に逃げてくるのは、政治の中央から遠く離れているからというのが最大の理由ではあろうと思う。しかし、それだけではなく、東北には敗れた者を受け入れる懐の深さがあるのではないのかとも思うのだ。
 阿弖流為の時代から、東北は中央といわれる西の方から侵略され続けた地だ。戦うつもりなどないのに、勝手に征討の対象とされてきた権力の被害者が住む地だ。敗れた者に対する共感や同情心が強いのだと思う。
 ただ、伊達氏自体も、西からの侵略の一員としてやってきた勢力だ。政宗が、なぜ発覚したときの危険を冒してまで幸村の遺児を受け入れたのかは分かっていないようだが、この敗れた者を受け入れたことも、この東北の懐の深さとかかわるような気もするのだ。
 伊達氏にも敗れた者に対する共感や同情心が醸成されていたのだとするならば、それは東北に土着することによって醸成された価値観なのかもしれないのかもしれないなとの思いだ。

 ドラマだが、緊迫した織田信長との謁見シーンが見どころの第4話『挑戦』のあらすじは前回記したところだが、これはフィクションらしい。
 大河視聴でいつも参考にさせていただいている「坂の上のサインボード」では、実際には、織田家の代官として東国取次を任されていた滝川一益を介しての臣下の礼をとっただけとみている。ただ、織田家に従属する証として娘を人質に送り、信長の好みそうな黒芦毛の馬を送ったというのは事実で、信長が昌幸に送った礼状が残されているとのこと。
 それにしても、ドラマとしては緊迫感あふれる見事な展開でひきつけられた。

 その後の本能寺の展開はあっけない。
 石田三成が叱責されるワンシーンで「敵は本能寺にあり」となって、本能寺の変が勃発したと思ったら、信長が亡くなったとのナレーションで、この回で次の時代を迎えてしまう。 
 これも、真田家がその時代の渦の中に巻き込まれるという緊迫感の演出かな。
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by shingen1948 | 2016-02-03 08:37 | Comments(0)
 片倉小十郎は、その敵将幸村から子女たちの将来を託される。観光的には、これを幸村の片倉小十郎への信頼とその信頼に応えるべく快く引き受けたという美談で捉え語られる。
 しかし、幸村は、最後の日に家康本陣に猛攻をかけ、一時は家康に死を覚悟させたという。徳川方に取ってみれば、そのまま許すことのできない敵将だ。当然、豊臣方諸将の子等は捉えられ処刑される対象であったろうと思われる。
 それなのに、女子のみならず男子まで自らの領地である白石領内で養育したという。これは重大な決断のはずだし、当然、主君である政宗の許可をとっているはずだ。
 つまり、伊達政宗は、家臣が残党狩りの対象になるべき人物を匿うことを許可したということだ。
 大八は、幕府の目を避けるため、片倉久米介と名を変えたとか、白石城外で育てられたとか言い伝えられているようだ。また、「大八は、京都で7歳の時に死去した」という情報が流布したり、幸村の架空の従兄弟の息子との系図が作られたりしたともいわれているようで、これには当然政宗もかかわっていたとの見え方もあるようだ。
 福島散歩の中では、決められた器からはみ出して活動する伊達氏の印象を持つのだが、その印象と重なるような気もする。

 昨夜も放映された「真田丸」第4話『挑戦』を視聴する。
 昌幸は、織田信長との謁見のため、信繁を連れて諏訪へ向かう。「Yahooテレビ」の情報からそのあら筋を確認しておく。
 「真田丸」第4話『挑戦』あらすじ
 織田信長(吉田鋼太郎)との謁見(えっけん)のため、昌幸(草刈正雄)は信繁(堺雅人)を連れて諏訪へ向かう。謁見を許されたとはいえ、その場で捕らえられ殺されることもあり得る。織田の本陣で落ち着かない信繁の前に、徳川家康(内野聖陽)が現れる。家康はかつて昌幸によって苦い敗戦を喫していた。昌幸と信繁は臣従を受け入れてもらうため信長との対面に臨むが、家康が同席し、真田家を裁くことになる。一方、真田の里では信幸(大泉洋)が留守を任されていた。信幸は姉の松(木村佳乃)が武田を裏切った夫・小山田茂誠(高木渉)をひそかにかくまっていることを知り、激怒する。(Yahooテレビ)
 
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by shingen1948 | 2016-02-01 17:05 | Comments(0)
 NHK大河ドラマ「真田丸」放映には、蔵王町も盛り上がっているとのことなので、そちらも確認する。
 白石に来た大八は、仙台藩士に取り立てられて片倉四郎兵衛守信と名乗り、仙台藩領内に領地を与えられる。その後、刈田郡の矢附村と曲竹村などを知行地として与えられるのだが、これらが現在の蔵王町内の地域ということのようだ。
 それで、蔵王町も盛り上がっているというこのようだが、もっと深い縁もあるようだ。
 寛保3年(1743)仙台真田氏3代信成氏が、自らの領地から刈田郡曲竹村内30石余を割いて、弟の英信氏に与えて分家を立てるようだが、その分家の所在地も同所であり、現蔵王町であるとのことだ。
この分家を立てたことについても、真田家の自家の生き残り再優先の考え方とのかかわりで説明されるものを見る。
 仙台真田氏は片倉を名乗っていたのだが、正徳2年(1712)に真田姓に復帰できたとのことだ。これに続いて、より確実に真田幸村の血脈を絶やさず後世に伝える手段を講じようとしたとの憶測のようだ。
 分家があれば何らかの事情で宗家の後継が絶えたとしても、分家をもって幸村の血脈を伝えていくことができると考えたのではないかということのようだ。
 現在、NHK大河ドラマ「真田丸」では、幸村の父昌幸が天下取りの野望渦に囲まれた環境の中、その自家の生き残りをかけて奮闘中というタイミング。
 前々回放映の「真田丸第2話『決断』」では、北条につくか上杉につくかの判断を迫られる環境設定。
 いつも大河視聴の参考にさせていただいている「坂の上のサインボード」によれば、実際には、昌幸は早くから武田氏の滅亡を予測していて生き残りの道を模索していたことが史料で明らかなのだとか。
 その一つが北条氏からの書状。勝頼の死の5日前には叔父の矢沢頼綱に沼田城の守りを強化するよう指示した書状を送っているという。その一方で、勝頼の死の翌日付で北条氏邦が昌幸宛に送った書状では、以前から北条氏に帰属を打診していたことが確認されるという。
 更に前回放映の「真田丸第3話『策略』」では、織田信長に下ると決めることになった昌幸が、生き残りをかけて、真田家を売り込むために一芝居うったとのこと。この回、所用があって見逃している。
 「Yahooテレビ」の情報から「真田丸」第2話『決断』と第3話『策略』のあらすじを確認しておく。
 「真田丸」第2話『決断』あらすじ
 信幸(大泉洋)、信繁(堺雅人)ら真田家の一行は、武田家の本拠地・新府から父・昌幸(草刈正雄)の待つ岩櫃城(いわびつじょう)へ落ち延びようとしていた。道中、岩殿城へ逃げた武田家当主・勝頼(平岳大)が裏切りに遭ったとの知らせが一行に届く。武田家の滅亡を受け、事態は一気に流動化する。東海の有力大名・徳川家康(内野聖陽)も旧武田領を虎視眈々(たんたん)と狙う。主家を失った真田家は、北条につくか上杉につくかの判断を迫られる。やがて昌幸は、息子たちの前で思いもよらぬ決断を下す。(Yahooテレビ)
 「真田丸」第3話『策略』あらすじ
 織田信長に下ると決めた昌幸(草刈正雄)は、一家を率いて故郷・信州小県郡の真田の里に帰ってきた。信長は、武田の残党を厳しく処分している。昌幸は何とか従属を受け入れてもらうため、小県郡の武将・室賀正武(西村雅彦)を利用した大胆な策を巡らせる。信繁(堺雅人)は思いを寄せる地侍の娘・梅(黒木華)に土産を届けるが、2人の幼なじみである真田家の重臣の娘・きり(長沢まさみ)はそれが面白くない。3人がぎこちない再会をしていると、真田の農民と室賀領の農民との間で小競り合いが起きたという知らせが入る。真田の農民たちを助けるために駆け付けた信繁の前に、意外な人物が現れる。(Yahooテレビ)

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by shingen1948 | 2016-01-31 08:17 | Comments(0)
 「片倉小十郎」と結びつきの深い白石のホームページを確認したら、便乗情報盛り沢山で、充分楽しめそうだ。その中の白石史跡探訪「片倉小十郎と真田幸村」から情報を拾う。
 http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/sanadamaru.html
 二人がかかわりあうのは、「大阪夏の陣」のようだ。

 まずは、「真田信繁(幸村)」の「大阪の陣」での活動の確認。
 次のような紹介になっている。
 「大阪の陣」では、豊臣方の武将として大阪城に入場し、冬の陣においては真田丸を築き徳川の攻撃を防ぎきり、夏の陣では徳川家康を追いつめましたが、後一歩のところで戦いに敗れてしまいました。その戦いぶりから「日本一の兵」とたたえられています。
 幸村は落城前夜自らの死を覚悟し、敵将である片倉小十郎繁長に子女たちの将来を託したとのことだ。
 次に、片倉小十郎側からの「大阪の陣」での活動を確認する。
 「大阪の陣」では、片倉小十郎率いる伊達軍は徳川方で出陣するが、片倉小十郎の活動については、「鬼小十郎」の項で次のように紹介される。
 「大阪夏の陣」、8日月と愛宕山大権現守護所と書いた前立物をつけて出陣しました。黒釣鐘の大馬験を掲げ、伊達の先陣を切った姿が表紙の屏風に描かれています。道明寺口において大阪城ら出撃してきた薄田隼人正兼相、後藤又兵衛基次の軍と相対し、これを打ち破り、その後、真田幸村と激戦を繰り広げ、鬼小十郎の名を天下に馳せ、片倉隊・伊達勢日本一の評価を受けました。
 この「道明寺口の戦い」は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われたもので、この時、大阪城の外堀は、既に埋められていたため、豊臣軍は城を出ての戦いを余儀なくされたもののはず。

 この時、二人は敵として戦っている。片倉小十郎は、その敵将幸村から子女たちの将来を託されたということだが、これを快く引き受けたのだとか。小十郎は、幸村の子供たちを自分の領地である白石へと呼び寄せたとのこと。
 白石に来たのは、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4人なそうだ。この4人のその後だが、阿梅は小十郎の後添えとなっているという。そして、阿菖蒲は伊達政宗の正妻愛姫の実家である田村家第31代当主定広に嫁いだという。
 肝心の大八は、片倉四郎兵衛守信と名乗り、仙台藩領内に領地を与えられて、仙台藩士に取り立てられたということだ。この末裔が昨日整理の仙台真田家ということで、その後14代続いているということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-01-30 08:27 | Comments(0)
 前向きに捉えた言い方をすれば、最近週刊誌の隅から隅まで読む機会があった。
 その中で興味深かったのが、「週刊新潮」の「テレビ番組紹介欄」。そのNHK大河ドラマ「真田丸」紹介記事だ。

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、幕末から明治にかけての時代の勝者側からみて都合のいい話でしかなく視聴することもなく、話題に乗るつもりもなかった。一度興味を失うと、その次の興味も失せてしまうもので、今年度の「真田丸」も視聴するつもりも全くなかったのだ。

 そのテレビ番組紹介によると、1月7日放映の第二話視聴率が20.1%で、20%越えは「八重の桜」以来3年ぶりとの事だった。本当に興味深かったのはそちらではない。紹介の中に幸村の末裔が仙台在住だという情報が読み取れることの方だ。
 「真田丸」紹介文の見出しは「幸村の末裔デフォルメ高畑淳子にいいね」だが、その幸村の末裔は仙台在住らしいのだ。デフォルメされた高畑淳子の演技をベタ褒めしたのは、仙台真田家14代目真田徹氏とのことだが、この方が幸村の直系という。
 これは、散歩を楽しむ者として見逃せない情報だ。この事にかかわって、記事では次のように紹介する。
 幸村と長男の大助は大阪夏の陣で命を落とすが、次男の大八は、伊達政宗の家臣片倉小十郎に引き取られ、現代まで脈々と続いてきたのだ。
 徹氏(仙台真田家14代)は、大手建設会社を定年退職後は歴史研究家として活動している。
 ならば、仙台に大河に便乗した情報がないかと探してみた。
 ぱっと思いつくのは白石城」「片倉小十郎」との結びつき。それで、白石のホームページを確認したら、それなりの情報がみつかった。散歩を楽しむ者にとっては、便乗の情報を得るのは結構楽しいことなのだ。
 もうちょっと探してみようと思う。
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by shingen1948 | 2016-01-29 08:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 敗者の歴史を刻む北の地に住む者が、大河ドラマ視聴の延長線上に首相の靖国参拝の問題を見れば、関心事の一つは、火種になるA級戦犯合祀に踏み切るのは、あの松平春嶽氏の直系のお孫さんなのだということか。会津で見える春嶽氏は、福井の悲劇を回避する目的で、会津の悲劇に導いた智慧者のイメージかな。
 靖国神社それ自体も、本来、薩長の戦死者を祀る慰霊神社であった神社の歴史の上に、日清、日露戦争の戦死者を祀る慰霊神社という歴史を加え、更に、第ニ次世界大戦の戦没者を祀るという歴史を積み重ねたというイメージかな。
 首相の靖国参拝の問題は、その最後の歴史の積み重ね部分が、それまでの歴史と違って、敗者の歴史であるということもかかわるように見える。そこがまた、大河ドラマ視聴「八重の桜」の会津の歴史のイメージと重なって見えるということでもある。

 【毎日新聞余禄(2013/12/27)】では、A級戦犯合祀にかかわる以下の昭和天皇の危惧が紹介される。
 近年元宮内庁長官のメモから、昭和天皇が靖国参拝をやめたのは、A級戦犯合祀への不快感であったことが明らかになったのだとか。また、神社と折衝した側近は、「国を安らかにしようと奮戦した人を祭る神社に、国を危うきに至らしめたとされた人を合祀する」違和感も言い残しているのだとか。

 あくまでも大河ドラマ視聴後の感想だが、敗者のリーダーは、その心情的な善悪にとらわれるではなく、負の連鎖を断ち切ることが大切に思える。その感想と毎日新聞余禄とは調和する。
 首相の靖国参拝の問題は、現代の現実のリーダーとのかかわりになるのだろうか。
 現代のリーダーは、負けを知らないエリートであろうから、敗者のリーダーは存外難しい事なのかもしれないなとも思う。
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by shingen1948 | 2013-12-31 08:37 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 靖国神社には、明治維新直後に起きた戊辰戦争や日清、日露戦争、そして第ニ次世界大戦の戦没者が祀られている。今まで戊辰戦争での祭り方の問題意識が強くて、そこから先に進めていなかった。メディアが主として一義的に問題にする靖国神社に第ニ次世界大戦の「A級戦犯」が含まれていることまで進むことで、第49話「再び戦を学ばず」と重なるかな。
 しかし、現状の自分は、思考に耐えられる時間が極端に少ない。今回は、【毎日新聞(2013/10/27)】の「質問なるほドリ」に「首相の靖国参拝なぜ問題になるの?<東京裁判否定につながる>」という解説をみつけた。これは有難いということで、まずはこの記事の要約整理をしておく。

 「A級戦犯」とは、日本の敗戦後に連合国が開いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、高度の戦争責任があると認定された政治家や軍人たちをいうとの事。
 首相の靖国神社参拝の問題とかかわるのは、日本は昭和26年(1951)にサンフランシスコ講和条約を結んで独立を回復する際に、東京裁判の結果も受け入れている。そのため、首相がA級戦犯を祭った靖国を参拝する事は、内外で「東京裁判を否定し、過去の侵略戦争を正当化するもの」と受け止められる恐れがあるのだとか。
 これが、首相の靖国参拝を問題にする一義的な事かな。

 その火種になるA級戦犯が祭られるようになる経緯には、あの松平春嶽氏の直系の子息がかかわるらしい。
 靖国神社に祭られる戦没者は、旧厚生省援護局が神社側に届けた名簿に基づくという。
 A級戦犯として絞首刑になった東条英機元首相らについては、昭和41年(1966)に名簿が送られていたが、神社の最高意思決定機関である総代会は、長期間扱いを保留にしていた。それは、当時、靖国神社を国営化する法案をめぐって与野党が激しく対立していたことが影響していたのだろうというとのことだ。
 それが、昭和53年(1978)7月に就任した松平永芳(ひでよし)は、直後の同年10月にA級戦犯の合祀に踏み切る。
 その松平氏は、後にこの合祀について「東京裁判の根源をたたく意図」だったと語った記録が残っているという。神社の社報でもこのA級戦犯を「昭和殉難者」と呼んで犠牲者扱いをするなど、東京裁判への否定的な認識が表れているという。
 大河とのつながりでみれば、松平永芳氏というのが、本来的には福井の悲劇を回避して会津の悲劇するように智慧を働かせたあの松平春嶽氏の直系の孫なのだとか。

 安倍首相の靖国神社参拝にこだわる理由を、首相を応援する保守層の考えとして紹介される。
 その考えでは、占領時代につくられた体制を見直し、日本の「真の独立」を図ろうとする傾向があるのだとか。首相は、その期待に応え、憲法改正を含む「戦後レジューム」からの脱却を目指しているという。
 こういう政治姿勢は、米国を中心とする戦後の国際秩序に対する挑戦と受け取れられかねないとも指摘する。
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by shingen1948 | 2013-12-30 06:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 赤十字社の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物だといわれているのだとか。
 佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げる。その博愛社が10年後の明治20年(1887年)5月に、日本赤十字社と名を改めて、総裁に有栖川宮熾仁親王、社長に佐野が就任したのだとか。
 磐梯山噴火が翌年の明治21年(1888)で、医療救護班を派遣して救護活動を展開される。元々、赤十字社の目的は、戦時における傷病者や捕虜の保護だが、この救護活動が、平時救護活動の世界的先駆けとなるという。
 そして、八重の入社は、その2年後の明治23年(1890)。

 公式的な組織の話はそういう事のようだが、会津で語り継がれるナイチンケールは瓜生岩子さんで、八重さんの影は薄い。
 岩子さんは、戊辰戦争時、戦乱の若松城下に出かけて負傷者の看護をしている。その時に、実際の行動として傷病者を敵見方なく看護しているようだ。
 会津藩側からは「敵軍を看護している」といわれ、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と非難を浴びたという。しかし、「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」と話したというのだ。
 このことが、土佐藩の参謀板垣退助の耳に伝わり、後には、明治天皇の皇后さまにも岩子さんの行動が伝わって面会することになったのだとか。
 ただ、岩子さんの会津なまりが強く、面会の際には、大山捨松さんの姉である操さんが会津弁の通訳をするほどだったのだとも。(別の見え方をすれば、大山婦人としての捨松さんの力も見えるとも……)

 地域限定の評価は、商家の娘という身分的な事と、看護活動自体が重要視されていなかった事があるのだろう。そういう意味では、八重さんが看護活動をする者にスポットライトをあてさせたということは、会津のナイチンケールにとっても意義深い事の一つかな。

 岩子さんは、小田付村(現在の喜多方市字北町)の油商若狭屋当主渡辺利左ェ門氏の娘で、文政12年(1829)2月15日母りえさんの実家である熱塩温泉(現在の山形屋)で生まれているらしい。9歳の時には父が病死し、その直後に家が焼失して、岩子さんらは、りえさんの実家である熱塩温泉で暮らしていたという。
 天保13年(1842)年には、叔母の家である会津藩医の山内春瓏氏宅に医師の見習いとして住み込み、春瓏氏とともに鶴ケ城へ出入りしていたという。
 弘化2年(1845)には、会津高田の佐瀬茂助氏と結婚。呉服商松葉屋を開いて、一男三女をもうけた。しかし、茂助氏は病死し、手代に店の金を持ち逃げされたこともあって店は潰れた。それで、元冶元年(1864)に母の実家の熱塩温泉に戻っているらしい。戊辰戦争が起きたのはそんな時だ。
 ※瓜生岩子さんの経歴部分は、「会津の華は凛として」をもとにしている。
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by shingen1948 | 2013-12-23 06:25 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 先に、八重さんが赤十字社とかかわるきっかけは、磐梯山噴火情報がかかわるのかなと勝手な想像をしたが、「新島八重」の中で、野口氏も同じような想像をしている箇所を見つけた。
 自分の場合は、勝手な想像の範囲だが、こちらにはその根拠が記される。当方が読み取ったのは以下のような根拠。
 八重さんは明治23年(1890)に日本赤十字社の正会員になるが、日本赤十字社の正会員になるのは寄付行為である事とのかかわり。
 八重さんが日赤正会員になるのは、襄氏没年の明治23年(1890)4/26で、八重さん45歳の時だが、日赤の情報によると「正社員になる条件は、年に3円以上12円を納める者であること、或いは、一時又は数度に200円以上納める者」とある。
 また、八重さんは、明治28年(1895)には終身社員になるようだが、終身社員は、3円を10年以上納めるか、一度に200円以上納めるという情報もある。
 八重さんは常々寄付行為をしていることも確認できる。
 明治24年(1891)12月1日、襄氏が1889年8月に吉野郡での災害に対し、2円50銭寄付。これに対して八重が奈良県知事より感謝状を受け取る。
 この年、同志社ハリス 理化学校に北海道の植物標本23点を寄付し、感謝状を受け取る。
 兄覚馬氏が永眠した明治25年 (1892) 5月18日、京都府高等学校増築費3円を寄付し感謝状を受け取る等々。

 磐梯山噴火は、八重さんが正社員になる2年前の明治21年(1888)だ。
 この時に、赤十字社は、医療救護班を派遣して救護活動を展開している。この救護活動は、平時救護活動の世界的先駆けとされ、当方はまだ確認していないが、五色沼に「平時救護発祥の地」の記念碑が建つという。
 これも動機の一つでないのかなと思えるのは、八重さんの遺品には、八重さんの遺品には磐梯山の噴火写真もあるということだ。更には、八重さんの胸に輝く小さな会員章は明治21年(1888)が刻まれているのだとか。
 磐梯山噴火という関心事と赤十字社が結びつき、それが常々寄付行為しているという心持と結びついた可能性が想像できるというのが指摘される根拠かな。

 八重さんが、赤十字社との直接の行動としてかかわるのは、明治26年(1893)に日本赤十字社京都支部に篤志看護婦会が設立されると同時に入会したことだろうか。ドラマでは、こちらのかかわりを中心に描かれる。
 明治27年(1894)日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍する。八重さんは、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めたとされる。
 日本赤十字社終身社員となった1895(明治28)年の11月18日に日清戦争の従軍記章を受け取っている。

 社会的にはこちらの側面が認められ、彼女の名誉に結びつく。
 この年には、これらの功績が認められ勲七等宝冠章が授与されるのだが、その「これらの功績」= 「日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍した」なのだろう。

 前話の「再び戦を学ばず」の視点でみれば、ドラマで描かれた日本赤十字社とのかかわりは、世間の「戦争推進」とつながる行為でもあるのではないかな。「再び戦を学ばず」の心持とつながるとすれば、自らは苦しい時期にも、他者のために寄付行為を行っていることとつながる日本赤十字社とのかかわりの方ではないかなと思えるがどうだろうか。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第50話「いつの日も花は咲く」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「いつの日も花は咲く」
 明治27年、八重(綾瀬はるか)は篤志従軍看護婦として広島陸軍予備病院で日清戦争の負傷兵たちを看護していた。院内ではコレラや赤痢などが発生し危険な状況だったが、八重は感染にひるむことなく勇敢に看護に従事、若い看護婦たちを見事に統率。その功績が讃えられ皇族以外の女性では初となる宝冠章を叙勲した。しかし、戦争がきっかけとなった叙勲を八重は素直に喜ぶことができずにいた。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で八重は、思いがけない人物と再会する。(60分拡大版)
 その功績がたたえられ、皇族以外の女性では初となる宝冠章を受章した。このことは新聞にも取り上げられ、二葉(市川実日子)や時尾(貫地谷しほり)は自分のことのように喜ぶ。そんななか、再び日本はロシアとの戦に向け動き出す。戦が起こらない世を願う八重の胸中は複雑だった。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で、八重は頼母(西田敏行)と久しぶりの再会をする。頼母に励まされ元気を取り戻した八重は、また新たな道に向かって歩み続けていくのだった。
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by shingen1948 | 2013-12-21 16:56 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 最終話をむかえた大河「八重の桜」のその前話が「再び戦を学ばず」。その視点で見れば、正史の歴史観が、まだ300年の平和持続の歴史にかなっていない。
 それをかなえるために、敗者の側の歴史観で大切な事の一つは、負の連鎖を断ち切ることなのだろうと思う。その事については、最終話を整理した後に考えたい。
 もう一つ気になっているのが、「京都守護職始末(山川浩)」以前から、白虎隊は正史の歴史観の中に取り込まれていたということだ。それが愛国心という観点だ。
 その愛国心自体は肯定すべきものであって、誰も否定することなどできない観点だ。しかも、その具体例として登場するわけで、敗者の側にとっては誇りにもなる事柄だ。
 故郷を離れて見えることは、その誰もが否定することなどできないという事が利用されたという側面だ。

 最近道徳が教科化されたと聞く。
 教科化というのは、教師による評価の対象となるということだ。もっと単純化した言い方をすれば、子供の考えを、あるいは心を〇か×かで判断できるようになったという事でもある。
 各種報道からもう一つ気になる動きもあって、それが、教育委員会の独立性より、為政者がかかわれるというシステムへの変更の動きがあるようにも感じられることだ。直接的な理由は、最近流行のいじめ対応などの理由がけられていて批判しにくいが、大きな流れとしては、為政者の介入だろうと思う。
 そんな状況を感じていたところに、東京新聞の「国家安保戦略 なぜ書き込む『愛国心』」という社説を見た。 東京新聞を確認していたのは、「フクシマは東京の出来事」とのかかわりだ。

 つなげてみる。
 子供の愛国心を教師が監視できる→為政者は今までよりも教育内容に立ち入り評価を強めることができるという状況を感じていて、「国家安保戦略に『愛国心』が書き込まれる」という情報を得たということだ。
 すとんと入るのは、そこに「再び戦を学ばず」の視点を考えているからかな。敗者の歴史を感じる者の役割が問われているのかも……。
 国家安保戦略 なぜ書き込む「愛国心」【東京新聞社説(2013/12/12)】
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013121202000175.html
 安倍内閣が来週決定する国家安全保障戦略に「愛国心」を盛り込む方針だという。なぜ心の問題にまで踏み込む必要があるのか、理解に苦しむ。「戦争できる国」への序章なら、容認できない。
 十七日に閣議決定予定の国家安保戦略は、外交・防衛の中長期的な基本方針となるもので、初めて策定される。安倍晋三首相はきのうの有識者懇談会で国家安保戦略を新しい防衛大綱と合わせて「今後のわが国の安全保障のありようを決定する歴史的な文書になる」と胸を張った。
 中国の軍事的台頭と北朝鮮の核・ミサイル開発などにより、アジア・太平洋の地域情勢が不安定化していることは否定できない。
 「国家」と銘打つ仰々しさは別にして、国民の生命と財産を守る責任を有する日本政府として、どう地域の安定を維持し、世界の平和に貢献するのか、情勢を的確に分析し、適切に備えるための文書をまとめる意義は認める。
 しかし、文書になぜ「愛国心」まで書き込む必要があるのか。最終的な文言は調整中だが、安全保障を支える国内の社会的基盤を強化するために「国を愛する心を育む」ことが必要だという。
 生まれ育った国や故郷を嫌う人がいるのだろうか。心の問題に踏み込み、もし政策として愛国的であることを強制するのなら、恐ろしさを感じざるを得ない。
 そもそも、周辺国の愛国教育に懸念を持ちながら、自らも愛国教育を進めるのは矛盾ではないか。ナショナリズムをあおり、地域の不安定化に拍車をかけてしまわないか、慎重さも必要だろう。
 同戦略は平和国家、専守防衛、非軍事大国、非核三原則などの基本方針を「堅持」するといいながら、日米同盟を強化し、日本の軍事的貢献を拡大する方向性も鮮明にした。武器輸出三原則の見直し検討も盛り込まれる見通しだ。
 すでに国家安保会議と特定秘密保護法が実現し、来年には集団的自衛権行使の容認、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しも予定される。
 安倍首相が主導する安全保障政策の一連の見直しは、先の大戦の反省から戦後日本が歩んできた平和国家という「国のかたち」を根底から変えてしまいかねない。
 衆参で多数を得たからといって何でも強引に進めていいわけではあるまい。「再び戦争ができる国にしてはいけない」という国民の痛切な叫びに、首相はじめ政権幹部は謙虚に耳を傾けるべきである。

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by shingen1948 | 2013-12-18 06:24 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)