地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の野仏:松川の野仏

 今までの散策の中で、「馬頭観音」あるいは「馬頭観世音」という文字を刻んだ石塔は見ていたが、馬頭観音像を刻んだ石仏を見たのは初めてだと思う。
a0087378_11423419.jpg 馬頭観音は、本来は観音菩薩の変化身の一つであって、必ずしも馬の守護神でないという。しかし、江戸時代以降は、農作業や運搬手段として馬が庶民の生活と強く結びつくようになり、庶民が馬の無病息災を祈願して馬頭観音を立てるようになったのだとか。

 散策時に確認できていなかったが、情報では、寛政11年(1799)八丁目駅中施主弥平が台座に刻まれているとのことで、運搬手段として馬の無病息災を祈願したものと想像できる。

 この像は三面八臂像のようで、三面が確認できる。八臂か六臂かということで迷ったが、八臂だと思う。
 正面の真手が、「馬頭印」を結んでいるか合掌しているかということだが、素人目では合掌しているようにしかみえない。
 ただ、馬頭観音像は、本来は「馬頭口印」あるいは「馬頭印」を結ぶといわれる形があるのだとか。その儀軌に沿った形というのが、親指・中指・小指を立てて、人差指と薬指を曲げて両手を合わせるという姿なのだそうだ。そちらかもしれない。

 残りの手は、いろんな持物を持つはずだが、その確認もできていない。
 情報としては、馬頭観音は右手に斧か剣、左手に輪宝を持つものが多いのだそうだ。斧は除災招福、剣は悪魔を撃退、輪宝は菩提心の強化を表すのだそうだ。この持物で人間のもつ悪業障を砕き、災難を除いてくださるのだそうだ。
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by shingen1948 | 2017-08-14 11:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここから先、右手からの道と合流した地点で、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 そこまで、街道は何の変哲もない田園地帯を通るのだが、自分としてはその左手の風景が懐かしい。
 ここは、先に整理した「松川鉱山」の散策で、搗鉱場の地を推定するために歩き回った風景なのだ。

 大正の始め、橋本組によって再開された松川鉱山では、良質鉱の一部を青金の段階まで自家製錬して売却したとのことだった。
 この精錬所を地元では、搗鉱場と呼ぶのだそうだが、これが古天神地内に設備されていたとのことだった。
 その地を推定するのに、注目したのが「水力を利用して石臼の鉱石をスタンプで搗き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていた」とあったことだった。
 要は水車を利用して鉱石を砕き、それを水銀アマルガム法で精製していたということだ。

 当時の水路が推定できれば、その搗鉱場の地が推定できるのではないかということで、小字名と照らし合わせて当時の水路を推定した。
a0087378_7124596.png 先の整理では推定した水路に視点を当てたところだが、今回の散策とかかわるのは小字名の方だ。
 前回整理した「信夫隠」を過ぎた辺りの地名が「古天神」である。その更に左側に「宿地」がみえる。そこを過ぎた地点が「八丁目」だ。

 地元では中世に「宿地千軒」という栄えた町が、この「宿地」にあったという言い伝えがあるらしいのだ。

 15~16世紀初め頃、奥大道の宿の町として「宿地」を中心に、その東は「古天神」辺りまで、西は「薩摩」の西側の西光寺の旧地とされる「本西」辺りまで、そして北側は「梅崎」の先の「上木戸内」「下木戸内」辺りまで栄えていたではないかとの推定のようだ。
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by shingen1948 | 2017-07-09 09:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5405918.jpg 「街道Web」の写真と照らし合わせると、「橋供養塔」が建っているところから道路を挟んだ次の電柱の手前やや右手に「信夫隠の碑」とその案内板が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置だと思う。


a0087378_5415766.jpg 現在は、「信夫隠の碑」とその案内板も「橋供養塔」と共に、「立正院」の入り口に移されている。


 信夫隠の碑
 碑文

 隠母日夜留    お(隠)もひやる
 居巳露之意苦鳴  こころ(之)のおくを
 目浪作偲止    もらさ(作)し(偲)と  
 旨迺父可絇次破  し(旨)のふかくし(次)は
 衣手何當物跡香  そで(手)かたもとか

 和歌の大意
 思ひ遣る 心の奥をもらさじと
 忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
 (思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげたものです)

 建立時代
 碑文の落款に見ることができる
 慶応二年丙寅に建立

 松川・町づくり委員会21
 松川町観光協会

 境川から道沿いにこの辺りの地名が信夫隠(しのぶかくし)であるのだが、その由来ということなのか、その地名を読み込んで詠んだという事なのかは分からない。
 いづれにしても気になるのは「信夫」の部分だ。歌枕の信夫山との関りなのか、信夫郡とのかかわりなのかが分からない。

 その詠み人も分からない。地元の方なら、そういう教養人がいたという誇りとかかわるのだろうし、他所人ならその地名のついた地に対する誇りとなるのだろうと思う。
 その辺りの曖昧さも残る。

 どうでもいいこと二つ。
 その一つは案内板の事だが、「街道Web」の写真と見比べると、案内板設置者に「松川・町づくり委員会21」が加わっている。新たに作り替えたものだろうと思われる。
 もう一つは、「街道Web」の「信夫隠の碑」とその案内板の写真の右手に写りこんでいた石碑。ちょっと気になって確認したら、昭和37年に建立された「桐生幸蔵翁の碑」であることまでは分かった。
 氏は明治31年に信夫郡松川町に生まれた人で、田植えの天才で農業振興に功績があった人物らしい。
 その碑の現況までは分からなかった。
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by shingen1948 | 2017-07-08 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
a0087378_8394325.jpg 街道を散策する時にいつもお世話になっている「街道Web」によると、橋を渡って次の道筋と交わる左側に「橋供養塔」が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置に道路に面して建っていたのだと思う。


 a0087378_8404418.jpg 現在は、その「橋供養塔」は、この左手前の「立正院」の入り口に移されている。
 その傍に建つ松川観光協会の案内板の解説によると、境川に架かる橋が石橋になるのは、この松川地域が二本松藩領になる天保4年(1833)以前の出来事らしい。



  橋供養塔

 寛保3年(1743)から天保3年(1832)まで、この周辺は境川を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領であった。その為、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していた。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかった。
 幕府、二本松藩のどちらが許可したかなどの経緯は不明だが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ケ岡、天明根、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い石橋が造られた。住民はこれを大層喜び、橋供養塔を建立したと伝えられている。
 橋供養とは明治期まで庶民の習わしで、橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられた。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがある。
 この橋供養は高さ約140㎝、幅約40㎝の角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財である。

  平成19年3月
 松川町観光協会

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by shingen1948 | 2017-07-07 09:37 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_9412641.jpg こちらは、佐藤基治・乙和ご夫妻墓碑とされる。こちらも「医王寺の石造供養塔群」の一部という見え方もあれば、こちらがスポットライトを浴びせるメインの石塔という見え方もある。
 医王寺のホームページでは、その視点から以下のように紹介されている。

「 奥の院薬師堂の境内に見られる板碑群は、信夫荘司一族の墓域と伝えられ、中央に佐藤基治・乙和、右側に継信・忠信の墓碑といわれる石碑があり県指定重要文化財に指定されております。 
 凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が安置されています。石塔が削り取られているのは、熱病の際に削って飲むと治るという伝えがあり、継信・忠信のような勇猛な武士にあやかりたいという信仰であったと思われます」

a0087378_942274.jpg こちらが嗣信忠信墓碑とされる。
 医王寺のホームページでは、「佐藤継信と忠信の墓碑。墓はすべて板碑作られておりで、これらの板碑は福島市の文化財に指定されております。このお墓の石を削って飲むと病が治ると言われており、削られた跡がみられます」と紹介される。

  ◇        ◇         ◇          ◇
 前回、悲母か慈母かにややこだわったのは、先に整理した「下鳥渡供養石塔」とのかかわりだ。
 この石塔の解説に「阿弥陀三尊を浮彫りにした左右の年忌と願文によって、正嘉2年(1258)9月に悲母(亡母)の供養のために平氏の女が建立したことが知られる」とあったのだ。その「悲母(亡母)」を「悲母=亡母」と勝手に解釈していたのだ。

 逆修というのは以下のようなことなので、それと会わないのではないかとの思い込みがあったのだ。

 逆修というと、生前に戒名を授けてもらって、その戒名を位牌・墓に刻んで、文字を朱で埋めておいて、死後これをとり除くという習俗をイメージする。しかし、本来的には「生前に逆(あらかじめ)自己の死後の冥福を祈って仏事を行う」ことをいうのだそうだ。死後の追善供養では死者に達する功徳は1/7と説かれ、「地蔵菩薩本願経」で、逆修は7分の徳すべてを得る事ができると説かれるのを受けて、平安中期以降天皇貴族から民間に至るまで広く行われた習俗とのことだ。

 しかし、確認すると悲母と慈母は同義語なそうだ。
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by shingen1948 | 2017-07-04 09:44 | ★ 季節便り | Comments(0)
a0087378_923349.jpg この大型の長方形の板碑とその手前の板碑がセットで、父母の逆修碑とのことだ。

 ただ、案内板の解説だけでは母の供養塔でもあるとする部分が読み取れないでいた。
 「ふくしまの歴史(2中世)」の「医王寺の板碑」にそのヒントが記されているのに気がついた。
 ここに「このうち正和2年(1313)の2基には、真言宗系の仏をたたえ、その教えを述べた文が記されているほか、それぞれ「慈父蓮仏逆修」「悲母逆修」とあります」とあったのだ。

 「慈父蓮仏逆修」が大型の長方形の板碑の銘文に刻まれていることは案内板に紹介されていた。ということは、右手の石碑に「悲母逆修」を読み取ったということだろうと思う。
 「集古十種」の「陸奥国佐場野医王寺碑(併)同国信夫郡飯坂天王寺碑」で解析された銘文と照らし合わせると、右側の「右造立之□為□□逆修」の逆修の上の二つの未解読部分に悲母が入るという事なのだろうと思う。
 つまり、右側に刻まれるのが「右造立之□為悲母逆修」ということになるようだということだ。
 この確認のために、もう一度拓本とも照らし合わせてみると、之と為の間に文字はなさそうだ。ということで、右側に刻まれるのは「右造立之為悲母逆修」ということになるのかもしれない。

 ついでに、左側に刻まれる文字も確かめると、業の上の文字もなさそうだ。また、素人の勝手な見え方では、手書きにした部分は「辨」のようにも見えるが、こちらはよく分からない。
 もう一つ素人の勝手な見え方としては、大型の長方形の板碑とその隣の板碑が対をなして父母の逆修というのであれば、不明文字を「慈母」と読んでもよさそうに思うのだが、どうだろうか。

 もう一つ気になるのは、「真言宗系の仏をたたえ、その教えを述べた文」の部分。確かに大型の長方形の板碑は、「弘法大師作の偈頌(げしょう)」を天台宗と真言宗で用いられる回向文で挟んでいるのは確かめた。
 しかし、その右手の石碑に刻まれるのは「識・除・理・如」だけだ。
 これは、上部が欠けているとのことなので、四行の末尾がこの四文字になるということなのだと思う。恐らく「識」と「理」にかかわる仏教の教えにかかわる言葉なのではあろうと思うが、こちらだけで真言宗の言葉とは断定できないような気もするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-07-03 09:05 | ★ 季節便り | Comments(0)
 案内によるとやや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑とその右側の石塔はセットで父母の逆修供養塔と解説していると読み取る。
 解説の「なかに、松平楽翁の「集古十種」にのっているものが中央より左にあります。上部が欠けた正和2年の板碑」と大型の長方形の板碑とセットで父母の逆修供養塔だとする石塔が同じものなのだと解釈した。

「国立国会図書館デジタルコレクション」で松平楽翁の「集古十種」を確認すると、「集古十種(碑銘之部 下)の48/75にその拓本が確認でる。
 そして、そこから読み取って整理されたものが「巻之八」の「碑銘類(21)104」の59/104に「陸奥国佐場野医王寺碑(併)同国信夫郡飯坂天王寺碑」としたものだと推察する。
 以下のような整理だ。
a0087378_5454854.jpg  陸奥國佐場野醫王寺碑
高2尺8寸余
横1尺7寸余

 どうでもいいことだが、実際に確認してみると、松平楽翁の「集古十種」ではこの板碑を正和3年と読んでいるように見える。これは、ミスではなくて、セットで父母の逆修供養塔との考察を得られた後、こちらも正和2年の板碑だと同定したものだと推察する。拓本を見ると、確かにどちらにもとれそうな感じはする。干支との照らし合わせ確認が済んでいるのかどうかは分からない。
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by shingen1948 | 2017-07-02 09:44 | ★ 季節便り | Comments(0)
 やや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑について、次のような図解入りで解説されている。
a0087378_5272289.jpg 説明では、梵字の部分については、「一字金輪仏の種子『ボローン』」と表現される。
 知識が無いので確認する。
 「一字金輪」は、密教で、大日如来が最高の境地に入って説いた真言である (梵bhrūṃで、勃嚕唵(ぼろん)と音写)の一字を人格化した仏頂尊。像は結跏趺坐(けっかふざ)して手に印を結ぶ姿に表される(小学館デジタル大辞泉)とのこと。

 その下に刻まれるのは、「弘法大師作の偈頌(げしょう)」とのことだ。
 読み下すと、以下のようだ。

 五大に皆響きあり
 十界に言語を具す
 六塵悉く文字なり
 法身は是れ実相なり

 読み下しても分かった気分にもなれないので、キーワードを確認する。

 五大=宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする地・水・火・風・空の五つの要素のこと。
 十界=天台宗の教義において人間の心の全ての境地を十種に分類したもの。六道(下から地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)に声聞、縁覚、菩薩、仏を付加したもの。
 六塵=(仏教)人間に煩悩を起こさせる六つのもの;色・声・香・味・触・法で、眼耳鼻舌身意の感覚器官でとらえることのできる知覚対象。
 法身=真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体をいう。真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味。
 実相=すべてのもののありのままのすがたをいうのである。無相こそ萬有のありのままの姿。法性、真如、如実。

 こんな風に捉えるとのことだ。
 地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象には、皆、真理を語る響きがあり、地獄・飢餓・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の十界すべてに真理を語る言語がある。
 色・声・香・味・触・法の六塵、すなわち私たちの感覚によって把握される認識の対象は悉く真理を語る文字であり、究極のホトケたる大日如来とは、この世界のあるがままの姿に他ならない。

 これ等を、以下の言葉で挟んでいるが、これは天台宗と真言宗で用いられる回向文ということのようだ。

 願以此功徳 普及於一切
 我等與衆生 皆共成佛道

 読み下すと、以下のようだ。
 
 願わくは、この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを

 その下に「慈父蓮仏」が刻まれるとのことで、この板碑は、父の逆修供養塔ということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-07-01 09:26 | ★ 季節便り | Comments(0)
 奥之院薬師堂の西側に「医王寺の石造供養塔群」の案内板が建っている。その案内によると、そばの荘司夫婦の墓塔と伝えられる石塔も、右端の佐藤継信・忠信の墓塔と伝えられる石塔も含めて「医王寺の石造供養塔群」ということのようだ。
 前回ここを訪ねた時は、この墓塔と伝えられ石塔を確認しただけで、医王寺の石造供養塔群全体を見ていなかったような気がする。

 若い頃、地層の観察の実地学習で、直ぐにその岩場に近づこうとした時に、遠くから煙草を吸いながら一服して全体を眺める事が大切な事なのだと指導されたことを思い出した。
 この指導を当てはめると、最初からこの寺の見どころの一つである佐藤氏の墓塔に視点が行ってしまうと、「医王寺の石造供養塔群」全体は見えなくなってしまうよという事に通じる。全くその通りの過ちを犯していたということだ。

 今回は、先にこの墓塔の他の石塔群にかかわる案内を素直に読み取ってみる。
a0087378_5511116.jpg 案内によると、この石塔群は昭和18年頃に付近の山のものも含めて整理されたものなそうだ。

 石塔の形状からの分類できる見え方の説明がある。
 その一つは、長方形の厚石や自然石を加工した奥州型板碑とのことだ。
 もう一つが、頭部が山形でその下に2条線を刻み、額部・基部を備えた関東型板碑とのことだ。
 そこに等とついているから、他の型もあるのかもしれない。ともかくここにはそれらの石塔が60余基保存されているということだ。
 しかし、その岩質が、いずれも凝灰岩製であるため、多くは摩滅して種子(梵字)年紀、建立趣旨などが不明だという。ただ、読み取れるものには、弘長・正和・建武・永和などの年号が刻まれているいるものもあることから、鎌倉中期から南北朝のものと考えられるということだ。

 詳しく説明されるのは、この写真のやや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑と、その手前の板碑だ。こちらは、石塔の形状からの分類の解説の「奥州型板碑」だろうと思う。

 ちなみに、その手前の板碑は、基部を備えているかどうかは分かりにくいが、頭部が山形であり、よく写真を確認してみるとその下に2条線が刻まれているのが確認できる。ということで、こちらは「関東型板碑」とみたが、どうだろうか。
 この石塔を「関東型板碑」のモデルとして写真の他の石塔を眺めると、奥の小さな石塔は山形も2条線もはっきりしないが、額部の形状が似ているということで、こちらも「関東型板碑」かななどと、今までなかった視点で眺めることができる。
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by shingen1948 | 2017-06-30 09:48 | ★ 季節便り | Comments(0)
 今回は、医王寺奥の院薬師堂を、この寺の歴史的な背景にかかわる意識をできるだけ取り除き、民間信仰の視点から整理してきた。
a0087378_1714388.jpg 今回、除病安楽は薬師様の第7願として整理している事は、病気の苦しみを取り除いて心身の安楽を得られるようにお願するという意味では、先に「さいで地蔵」や「阿保原地蔵」で整理した祈願と共通することのように思う。

 これ等を、若い頃は苦しい時の神頼みという事に目がいっていたのだが、最近は、そこにその願いはかなえられることもあったのではないのかなという思いが付け加わっている。

 年を取るにつれて健康にかかわる情報に敏感になっているのだが、その情報の中の一つに、薬の効力にかかわる次のような情報が頭にあるのだ。

 薬効を試す検査で、ニセの薬(全く効果のないとされている薬=プラセボ)を飲んだ場合でも、「これは効くぞ」と思って飲んだ人は効いてしまうんなそうだ。
 それは、薬に限らずいろいろな治療法や健康法にも当てはまるそうで、これをプラセボ(プラシーボ)効果というそうだ。
 このプラセボ(プラシーボ)効果は、あらゆる治療行為において数十%は入り込み、時には60%近くの結果に大きくかかわる割合で有効性を発揮してしまうこともあるのだとか。
 薬効を試す検査では、このプラセボ(プラシーボ)効果は、検証しようとする治療法にとっては「雑音」であり、取り除くべき対象として解説される。
 
 今回の整理で注目したいのは、「これは効くぞ」と本気で信じ切ってしまったら、少なくとも数十%は効いて、時には60%もの割合で本当に効いてしまうというというという部分だ。これが科学的に証明されているというふうに読み取ってもいいのではないかとも思うのだ。

 ならばということで、不謹慎かもしれないが、このことと除病安楽祈願を結び付けてみているということだ。
 もし、信心が少しでもあれば、数十%は「ごりやく」があるということであり、信心が深ければ時には60%もの「ごりやく」を期待しても、不合理とは言い切れないということではないのかなと思えるのだ。
 これを「霊験あらたか」と表現しているのではないかという勝手な解釈だ。

 自分には、今は疑いなく心から信じ切るという能力が欠如している。しかし、祈願する側の信心深さによって「ごりやく」が期待できるのならば、その力をつけておきたいとも思う。
 お願いされる対象のありがたさというとらえではないという歪みはあるが、それでも除病安楽祈願の願いはかなえられるという結論ではあるということだ。

 今の時代、病気になった時には合理的な治療法を得る事は容易だ。そこに、疑うことなく信心深くおすがりする力を身につければ、その信じる対象から「霊験あらたか」な力を受容できるようになるのではないかなという身勝手な捉えだが、どんなものだろうか。
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by shingen1948 | 2017-06-28 17:19 | ★ 季節便り | Comments(0)