地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 比丘尼石と薬師堂を、地域の人々の心のよりどころとしての風景として眺める。
a0087378_11533996.jpg 「心の文化財」に、薬師堂の後ろの岩が二つに割れているので「われめの女石」とも言われているとの解説がある。それを意識して撮ったのがこれだ。
 ここに立ち寄った事がある者には、この撮影時には昨日整理の岩を背にしているということが分かる。その背にした岩の上部には「山神」の石塔が建っている。
 写りこんでいる薬師堂は、その二つの巨岩に挟まれているということだ。

 「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」に「胎内に摸しての信仰もあります」とあるように薬師堂前では、包み込まれている感覚になる。「巨岩には神が宿るというイワクラ信仰のなごりもあります」との解説にも納得。

 「比丘尼がそこに住み着いたことから比丘尼石の名がついたといわれています」とあるので、その「比丘尼」を確認する。

 仏教の男性出家修行者を比丘というのに対して、女性の出家修行者を「比丘尼」と呼称するということだ。
 日本における記録上最初の比丘尼は、善信尼(ぜんしんに)と称した司馬達等の娘なそうだ。
 奈良・平安時代にも尼の存在は認められるが、一定の地位が築かれるのは鎌倉時代になって尼門跡寺ができるようになってからなのだとか。
 これとは別に、熊野比丘尼に代表される諸国を遊行する比丘尼がいたという。尼形の巫女で祈祷や託宣を業とするものもあり、近世の歌比丘尼や、遊女にまで転落した売比丘尼はそうした流れをくむといわれているのだとか。(日本大百科全書解説より)

 イメージ的には、住み着かれたという比丘尼は、諸国を遊行する比丘尼で、巫女で祈祷や託宣を業としていたという感じかな。
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by shingen1948 | 2017-10-20 11:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10543440.jpg これは、比丘尼石の薬師堂の手前の岩だ。「心の文化財」によると薬師堂の後ろの岩は二つに割れているので「われめの女石」とも言われているのだとか。

 「金谷川のむかしと今」では、この比丘尼石の薬師堂の地区を浅川字舘とし、この少し南にいったところに案内される浅川正観世音の地区が浅川字平石とされるが、半沢氏の「歴史地図」では、ここも平石地区の薬師堂としている。

 八丁目宿「眼鏡橋」について整理した時に、その石材を切り出した場所が、比丘尼石だと言われていることについては「奥州街道:八丁目宿『眼鏡橋』のある風景⑤」でふれている。 
 その時には、案内板の解説に従って浅川町五斗内の薬師堂付近とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237484884/

 眼鏡橋(松川橋)建設に伴うここからの石材運搬作業は、県に「松川村の780人の人夫寄付」するという形で進められたようだった。
 その為に、松川村ではこの石材の運搬作業に各戸2~3人の役夫を科したとのことだ。その住人たちが、大八車に積んで工事現場まで運んだとのことだ。
 そのルートの想像だが、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で案内されるコースが似合っているように思う。
 ここから「浅川正観世音」前を経由し、「石森公園」前、あるいは「成田不動尊」前の道筋から旧奥州街道に出たのではないのかなと想像する。

 なお、最近の「松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏」の話に、「石は、福島市御山の北を流れる松川に架けるために切り出したが、橋を架ける必要がなくなったので譲受けた」とのことだったとあることも付け加えておく。
 
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by shingen1948 | 2017-10-19 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「信達二郡村誌」の「岩代国信夫郡浅川村」里標の項では、「元標を中部沖之橋里道三又の側に建つ」とある。
 地名にこの沖之橋の呼称が見当たらない。
 それで、「福島の小字」で確かめると、小字「細田」と小字「木戸前」の間に位置している事が分かる。
 現在の地図と照らし合わせると、バイパスの向こう側に細町の地名が見え、木戸前の地名がバイパスの手前に見える。辺りの小字名とのかかわりも考慮すれば、この小字「沖之橋」は国道付近だったのではないかと想像できる。

 元標は、この小字「沖之橋」の三叉路の側に建っていたと読み取れる。
 この地点で浅川沿いの道筋から分岐して向かう道筋は若宮方面ではないのかなと想像する。地形的に想像できるのは、羽山岳の山麓を回り込むような道筋だろうか。
a0087378_9384191.jpg 名も知らぬ石橋供養塔が建つ橋からそちらの方向を眺めている。
 浅川沿いの道筋から羽山岳の山麓を回り込むような道筋への分岐点は、現在福島方面に向かう国道四号線バイパスへの入線道へ向かう付近なのではないのかなと勝手に想像している。

 「金谷川の主な伝説・伝承」に、この「沖之橋」とかかわりそうな話が載っている。

 「おきな橋・沖の橋(浅川)」
 むかし浅川村に「おきな」という娘がおりました。年頃になって、よその村に嫁ぎましたが、家の中のもめごとで不縁になって里に帰ってきました。
 里に帰りましても、母親にやいのやいのとせめたてられますので、また家を出て、浅川にかかっている橋のところまできました。やっぱり帰れぬと、また実家に引き返し門口まで来ました。このように、橋を行きつ戻りつして行き悩むこと限りなく、遂に、意を決して橋から身を投げたといいます。
それからこの橋を「おきな橋」と呼ぶようになりました。この話は昔という事で、何様の時代のことやら、とにかく今は「沖の橋」と呼んでおります。

 国道近くに浅川に架かる「沖の橋」と呼ばれる橋があったらしい事は分かるが、現況とのかかわりは確認できていない。
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by shingen1948 | 2017-10-18 09:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 奉案殿情報とのかかわりで、黒沼神社の境内の東側にあった建物群の一つをメモったことを記したところで、原町飛行場のニュースが気になってそちらに飛んでしまった。
 その続き。

 浅川黒沼神社の前から金沢村の馬場地域に向かう道筋を地図で確かめていたら、浅川に架かる橋の脇に橋供養塔らしきものが建っているようなので確かめに出かけた。
a0087378_5535499.jpg 確かに「石橋供養塔」だった。石塔の周りを見渡したがいつ頃建てられたのかは分からない。

 この橋が架かる道筋が主要な道筋だった可能性は二つある。
 その一つは、金沢村と浅川村を結ぶという意味で主要だった可能性だ。
 黒沼神社前の道筋は阿武隈川の東岸と西岸を結ぶ鮎滝渡舟場跡から浅川沿いに奥州街道まで続く道筋の旧道だ。しかも、その浅川黒沼神社が浅川村の中央部に位置するという関係にある。
 その浅川村の中心と金沢村を結ぶ主要な道筋だったという可能性だ。

 もう一つは、浅川黒沼神社の縁起にかかわって馬場地区と浅川黒沼神社を結ぶ道筋として主要だったという可能性だ。

 今までの橋供養塔にかかわる記事の整理

 〇 奥州街道:境川から八丁目村へ②
 http://kazenoshin.exblog.jp/237146873/

 〇 山田村の散策振り返り⑤~山王道筋沿いの鹿島神社
 http://kazenoshin.exblog.jp/21340837/

 〇 羽黒山の新登拝路~祓川橋
 http://kazenoshin.exblog.jp/7926383/

 こちらはちょっと異質だが、とりあえず橋供養塔として記録しておく。
 〇 のりしろ散歩~天戸堰~天戸中堰の風景③と二枚橋情報②
 http://kazenoshin.exblog.jp/19885751/
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by shingen1948 | 2017-10-17 09:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 散策時には必ずデジタルカメラを持って出かけていたが、最近はできるだけ持たないように心掛けている。まずは自分の目で確認する。そして、整理するのに写真が欲しいなと思った時には、もう一度撮りに行く。
 そんな風にしている。特に理由はないのだが、結果的には、確認したい事が明確になってきているようにも思っている。

 しかし、そのもう一度撮りに来た時に、何となく気になった事はメモ代わりに撮り溜めているということには変わりない。それでも、その撮る枚数はかなり減っている。
 そのメモ代わりに撮った写真を整理する。
a0087378_9181948.jpg これは黒沼神社の境内の東側にあった建物群の一つだ。
 気になったのは以下の奉案殿情報とのかかわりだ。
 一つは、終戦直後撤去された金谷川国民学校の奉案殿は、一時JA新ふくしま金谷川支店の東の木立の中の浅間神社に移され、昭和24年には黒沼神社本殿東側に「御霊殿」として再建されているとの情報。
 もう一つは、昭和21年2月21日に金谷川国民学校の奉案殿が撤去され、一時宇佐八幡神社境内内に仮移転され、昭和24年黒沼神社に移されるとの情報。
 いずれにしても、黒沼神社本殿東側に移されているという情報だ。

 確認はしていないし、うかつなことは言えないとも思いつつ、とりあえずメモということで、……。
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by shingen1948 | 2017-10-10 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

福島の野仏:松川の野仏

 今までの散策の中で、「馬頭観音」あるいは「馬頭観世音」という文字を刻んだ石塔は見ていたが、馬頭観音像を刻んだ石仏を見たのは初めてだと思う。
a0087378_11423419.jpg 馬頭観音は、本来は観音菩薩の変化身の一つであって、必ずしも馬の守護神でないという。しかし、江戸時代以降は、農作業や運搬手段として馬が庶民の生活と強く結びつくようになり、庶民が馬の無病息災を祈願して馬頭観音を立てるようになったのだとか。

 散策時に確認できていなかったが、情報では、寛政11年(1799)八丁目駅中施主弥平が台座に刻まれているとのことで、運搬手段として馬の無病息災を祈願したものと想像できる。

 この像は三面八臂像のようで、三面が確認できる。八臂か六臂かということで迷ったが、八臂だと思う。
 正面の真手が、「馬頭印」を結んでいるか合掌しているかということだが、素人目では合掌しているようにしかみえない。
 ただ、馬頭観音像は、本来は「馬頭口印」あるいは「馬頭印」を結ぶといわれる形があるのだとか。その儀軌に沿った形というのが、親指・中指・小指を立てて、人差指と薬指を曲げて両手を合わせるという姿なのだそうだ。そちらかもしれない。

 残りの手は、いろんな持物を持つはずだが、その確認もできていない。
 情報としては、馬頭観音は右手に斧か剣、左手に輪宝を持つものが多いのだそうだ。斧は除災招福、剣は悪魔を撃退、輪宝は菩提心の強化を表すのだそうだ。この持物で人間のもつ悪業障を砕き、災難を除いてくださるのだそうだ。
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by shingen1948 | 2017-08-14 11:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここから先、右手からの道と合流した地点で、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 そこまで、街道は何の変哲もない田園地帯を通るのだが、自分としてはその左手の風景が懐かしい。
 ここは、先に整理した「松川鉱山」の散策で、搗鉱場の地を推定するために歩き回った風景なのだ。

 大正の始め、橋本組によって再開された松川鉱山では、良質鉱の一部を青金の段階まで自家製錬して売却したとのことだった。
 この精錬所を地元では、搗鉱場と呼ぶのだそうだが、これが古天神地内に設備されていたとのことだった。
 その地を推定するのに、注目したのが「水力を利用して石臼の鉱石をスタンプで搗き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていた」とあったことだった。
 要は水車を利用して鉱石を砕き、それを水銀アマルガム法で精製していたということだ。

 当時の水路が推定できれば、その搗鉱場の地が推定できるのではないかということで、小字名と照らし合わせて当時の水路を推定した。
a0087378_7124596.png 先の整理では推定した水路に視点を当てたところだが、今回の散策とかかわるのは小字名の方だ。
 前回整理した「信夫隠」を過ぎた辺りの地名が「古天神」である。その更に左側に「宿地」がみえる。そこを過ぎた地点が「八丁目」だ。

 地元では中世に「宿地千軒」という栄えた町が、この「宿地」にあったという言い伝えがあるらしいのだ。

 15~16世紀初め頃、奥大道の宿の町として「宿地」を中心に、その東は「古天神」辺りまで、西は「薩摩」の西側の西光寺の旧地とされる「本西」辺りまで、そして北側は「梅崎」の先の「上木戸内」「下木戸内」辺りまで栄えていたではないかとの推定のようだ。
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by shingen1948 | 2017-07-09 09:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5405918.jpg 「街道Web」の写真と照らし合わせると、「橋供養塔」が建っているところから道路を挟んだ次の電柱の手前やや右手に「信夫隠の碑」とその案内板が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置だと思う。


a0087378_5415766.jpg 現在は、「信夫隠の碑」とその案内板も「橋供養塔」と共に、「立正院」の入り口に移されている。


 信夫隠の碑
 碑文

 隠母日夜留    お(隠)もひやる
 居巳露之意苦鳴  こころ(之)のおくを
 目浪作偲止    もらさ(作)し(偲)と  
 旨迺父可絇次破  し(旨)のふかくし(次)は
 衣手何當物跡香  そで(手)かたもとか

 和歌の大意
 思ひ遣る 心の奥をもらさじと
 忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
 (思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげたものです)

 建立時代
 碑文の落款に見ることができる
 慶応二年丙寅に建立

 松川・町づくり委員会21
 松川町観光協会

 境川から道沿いにこの辺りの地名が信夫隠(しのぶかくし)であるのだが、その由来ということなのか、その地名を読み込んで詠んだという事なのかは分からない。
 いづれにしても気になるのは「信夫」の部分だ。歌枕の信夫山との関りなのか、信夫郡とのかかわりなのかが分からない。

 その詠み人も分からない。地元の方なら、そういう教養人がいたという誇りとかかわるのだろうし、他所人ならその地名のついた地に対する誇りとなるのだろうと思う。
 その辺りの曖昧さも残る。

 どうでもいいこと二つ。
 その一つは案内板の事だが、「街道Web」の写真と見比べると、案内板設置者に「松川・町づくり委員会21」が加わっている。新たに作り替えたものだろうと思われる。
 もう一つは、「街道Web」の「信夫隠の碑」とその案内板の写真の右手に写りこんでいた石碑。ちょっと気になって確認したら、昭和37年に建立された「桐生幸蔵翁の碑」であることまでは分かった。
 氏は明治31年に信夫郡松川町に生まれた人で、田植えの天才で農業振興に功績があった人物らしい。
 その碑の現況までは分からなかった。
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by shingen1948 | 2017-07-08 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
a0087378_8394325.jpg 街道を散策する時にいつもお世話になっている「街道Web」によると、橋を渡って次の道筋と交わる左側に「橋供養塔」が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置に道路に面して建っていたのだと思う。


 a0087378_8404418.jpg 現在は、その「橋供養塔」は、この左手前の「立正院」の入り口に移されている。
 その傍に建つ松川観光協会の案内板の解説によると、境川に架かる橋が石橋になるのは、この松川地域が二本松藩領になる天保4年(1833)以前の出来事らしい。



  橋供養塔

 寛保3年(1743)から天保3年(1832)まで、この周辺は境川を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領であった。その為、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していた。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかった。
 幕府、二本松藩のどちらが許可したかなどの経緯は不明だが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ケ岡、天明根、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い石橋が造られた。住民はこれを大層喜び、橋供養塔を建立したと伝えられている。
 橋供養とは明治期まで庶民の習わしで、橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられた。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがある。
 この橋供養は高さ約140㎝、幅約40㎝の角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財である。

  平成19年3月
 松川町観光協会

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by shingen1948 | 2017-07-07 09:37 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_9412641.jpg こちらは、佐藤基治・乙和ご夫妻墓碑とされる。こちらも「医王寺の石造供養塔群」の一部という見え方もあれば、こちらがスポットライトを浴びせるメインの石塔という見え方もある。
 医王寺のホームページでは、その視点から以下のように紹介されている。

「 奥の院薬師堂の境内に見られる板碑群は、信夫荘司一族の墓域と伝えられ、中央に佐藤基治・乙和、右側に継信・忠信の墓碑といわれる石碑があり県指定重要文化財に指定されております。 
 凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が安置されています。石塔が削り取られているのは、熱病の際に削って飲むと治るという伝えがあり、継信・忠信のような勇猛な武士にあやかりたいという信仰であったと思われます」

a0087378_942274.jpg こちらが嗣信忠信墓碑とされる。
 医王寺のホームページでは、「佐藤継信と忠信の墓碑。墓はすべて板碑作られておりで、これらの板碑は福島市の文化財に指定されております。このお墓の石を削って飲むと病が治ると言われており、削られた跡がみられます」と紹介される。

  ◇        ◇         ◇          ◇
 前回、悲母か慈母かにややこだわったのは、先に整理した「下鳥渡供養石塔」とのかかわりだ。
 この石塔の解説に「阿弥陀三尊を浮彫りにした左右の年忌と願文によって、正嘉2年(1258)9月に悲母(亡母)の供養のために平氏の女が建立したことが知られる」とあったのだ。その「悲母(亡母)」を「悲母=亡母」と勝手に解釈していたのだ。

 逆修というのは以下のようなことなので、それと会わないのではないかとの思い込みがあったのだ。

 逆修というと、生前に戒名を授けてもらって、その戒名を位牌・墓に刻んで、文字を朱で埋めておいて、死後これをとり除くという習俗をイメージする。しかし、本来的には「生前に逆(あらかじめ)自己の死後の冥福を祈って仏事を行う」ことをいうのだそうだ。死後の追善供養では死者に達する功徳は1/7と説かれ、「地蔵菩薩本願経」で、逆修は7分の徳すべてを得る事ができると説かれるのを受けて、平安中期以降天皇貴族から民間に至るまで広く行われた習俗とのことだ。

 しかし、確認すると悲母と慈母は同義語なそうだ。
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by shingen1948 | 2017-07-04 09:44 | ★ 季節便り | Comments(0)