地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 薬師堂の欄干に石が吊るされている。
a0087378_9302512.jpg これが気になるところだが、「7日本の民族『福島』(岩崎敏夫)【第一法規】」の「8民族知識」の「3呪(まじな)い」の項に、いろいろな呪いの例が列記される。その本文には記述されないのだが、たくさんの石が吊り下げられている写真があって、その解説に「耳石 薬師様に耳の悪い人があげる(伊達郡保原町)」とある。
 伊達郡保原町は現伊達市保原町で、近くの町村だ。この事とかかわるのだろうと想像する。

 ネットで「『耳石』とは」と検索すると、「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典」の次のような解説に出会う。

 平衡石,聴石ともいう。
 無脊椎動物の平衡器官である平衡胞内にある小さい粒。耳石は体の傾きに応じて重力の方向に移動し、感覚細胞の感覚毛を圧迫し、その圧迫の変化によって体の傾きを感じるようになっている。この粒は胞壁の細胞から分泌されたもので1~数個あり、炭酸カルシウム、フッ化カルシウムなどから成る。クルマエビ類では砂粒その他外界の異物を取入れて耳石とする習性があり,脱皮ごとに取替えられる。脊椎動物の平衡器官の前庭内のものは、小さく、聴砂という。

 魚の「耳石」は誰でも見ることができるようなので、更に、ネットで「耳石とは 魚」と検索すると「耳石」についてのいろいろな知見が得られる。

 また、「薬師・耳石」で検索してみると、全国的に行われている呪いであることが分かる。
 先に整理した仁井町薬師瑠璃光如来(笹谷)と上戸内薬師如来(大笹生)も、第七願 除病安楽の中の耳病平癒にまで特化していたが、それらもこのこととかかわるのかもしれないとも思う。しかし、こちらには、この「耳石」の呪いの風習はなさそうではある。

 この医王寺薬師堂もこの呪いを許容はしているようだが、薬師堂の案内板などを確認すると、決してこの耳石に特化しているということではなさそうだ。
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by shingen1948 | 2017-06-26 09:35 | ★ 季節便り | Comments(0)
 今回は、この寺の歴史的な背景にかかわる意識をできるだけ取り除いて、この寺の雰囲気を感じてみたいという思いがある。
a0087378_5405044.jpg そういう視点で「薬師堂」の案内板の写真を眺めていたら、医王寺に歴史上かかわりのある方も深く信仰なされた霊験あらたかな薬師如来であるとの解説の後の次の解説が気になった。
 「声がたたねば鯖野の薬師 七日こもれば声がたつ等々と唱えられ」との部分だ。

 今のところ確認できていないが、そういう里歌があるということなのだろうか。
 それはともかく、この部分、地域の方々の民間信仰としての「鯖野(さばの)」の薬師様への期待感が感じられるような気がするのだが、どうだろうか。
 昔、地域の人々はその地域の薬師様にどんなパワーを期待していたのかを確認してみる。

 「МASAの道中日記」という地元紹介のブログに、この近くの大笹生・笹谷の薬師様が詳しく紹介されている。その記事から、その地域の人々の願いと薬師様のお力にかかわる部分を拾わせていただいてみる。 
 その部分は「笹谷大笹生地区の文化財(大笹生笹谷文化財保存会)」からの引用のようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CC%F4%BB%D5+&sk=0
 〇 仁井町薬師瑠璃光如来(笹谷)
 古くより耳病平癒の祈願の神として今なお地元民の信仰厚く、毎年四月十五日(以前は旧三月八日)祭事を行っている。

 〇 荒古屋薬師(大笹生)
 この荒古屋の薬師は瑠璃光薬師如来で、堂を字中谷地に建て野寺方から分置されたと伝えられているが年代は不詳である。
 この時代建立の「子育て地蔵」・「瑠璃光」を、「光瑠璃、ころり」と呼び、信者の奉納した丸石が小山のようになっている。縁日は、旧十一月八日である。

 〇 上戸内薬師如来(大笹生)
 この薬師は、土地の人々が耳の難病厄除のために建てたもので、上戸内薬師瑠璃光如来といわれ、近隣信者の外、耳疾に悩む遠来の信者の日参薬師堂になったという。

 〇 久地木薬師堂(大笹生)
 この薬師は瑠璃光如来で、もとは久地木・羽根通部落の尊仏であったが、現在は久地木部落有志によって維持されている。
 仏像は一つずつ十二支をもつ薬師の十二神将と習合し、男根の突起物が着いていて、昔から花嫁の通らぬ所となっていたという。

 〇 安養寺薬師(大笹生)
 平安時代の様式を残した木造の仏像17体がまつられているそうです。昔より安養寺薬師として厚い信仰があり、この仏像を借りて病気を治したとされています。

 自分なりに整理してみる。
 まず、久地木薬師堂(大笹生)と安養寺薬師(大笹生)については、「薬師の十二神将と習合」とか、「木造の仏像」とかとかかわってとかという捉えで、以下の「薬師如来 大願」にかかわる大きな捉えで見ているのかなと思わせる。
 第一願 光明普照・第二願 随意成弁・第三願 施無尽仏・第四願 安立大乗・第五願 具戒清浄・第六願 諸根具足・第七願 除病安楽・第八願 転女得仏・第九願 安立正見・第十願 苦悩解脱・第十願 苦悩解脱・第十一願 飲食安楽・第十二願 美衣満足

 次に、仁井町薬師瑠璃光如来(笹谷)・上戸内薬師如来(大笹生)については、この中の第七願 除病安楽の中の耳病平癒にまで特化した祈願の神としているように思われる。

 そして、「薬師の十二神将と習合」したという久地木薬師堂(大笹生)は、道祖神信仰とも習合しているようだが、荒古屋薬師(大笹生)については、「ころり」薬師様とのことで「ころり」信仰あたりとの習合かな?。
 
 純粋にこれが薬師様信仰とは言い切れないいろいろな要素が入り混じっているようだ。
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by shingen1948 | 2017-06-25 09:39 | ★ 季節便り | Comments(0)
 「平野の伝承とくらし」では、「大鳥城記」で「奥の院薬師堂」と紹介される薬師堂を「鯖野薬師堂」と称している。
 奥の院薬師堂にお祀りされる薬師如来が「鯖野の薬師様」と呼ばれるのは、この地域が小字鯖野だからだ。
 「医王寺」のホームぺージでは、その地名が鯖野と呼称されるのは、福島市飯坂町に温泉を発見した鯖湖親王を祭るお宮があったからだとする。このことによって、鯖湖温泉の薬効や歴史のイメージが付加されることを意図しているように思われる。

 ここは大きくくくれば「佐場野(さばの)村」だ。その中心地が小字「さばの」という捉えがあってもよさそうに思うが、どうだろうか。
 「さばの」という音に「鯖野」の字を当てたという捉えだ。
a0087378_1493990.jpg 合併で平野村になる前の平野地区の小字分布図に、先に整理した「福島県生活改善展示実験室」をプロットして確認すれば、その北面の道筋(現農業総合センター果樹研究所北側の道筋)が隣村である「井野目村」と医王寺のある「佐場野村」との村界の道筋であることが分かる。 
 この道筋の北側が「佐場野(さばの)村」だ。寺近くの小字「鯖野(さばの)」と読みが一緒なのだ。

 単に「佐場野(さばの)村」の中心地「鯖野(さばの)」という位置づけで、この村の薬師堂という単純な捉えがあってもよさそうにも思う。
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by shingen1948 | 2017-06-24 14:12 | ★ 季節便り | Comments(0)
 今回の散策でよく見てきたかったのは「薬師堂」だ。その主たる理由は小笠原國太郎氏とのかかわりだが、医王寺の奥の院としての「薬師堂」の雰囲気を感じたかった。

 その事ことについては、「亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑧:福島の建築(12の2)」の中に記している。ただ、この記事の「薬師堂」の写真は、自分の撮った写真ではない。その写真を入れ替えたいということで、今回の散策の趣旨はこの時と変わらない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23443238/
a0087378_7145114.jpg そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)
 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認する。
 ここは、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とのことだ。
 その山号が、「瑠璃光山」とのことで、この薬師如来にかかわった号であることをイメージさせる。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号は、「大鳥城記」がいう医王寺「奥の院薬師堂」ということと、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の「薬師瑠璃光如来が鎮座する地」とかかわっているということなのではないかと、勝手に想像する。

 この医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、この「薬師瑠璃光如来」も寺にとって重要な仏様なのではないかという事だ。

 そういう視点から、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業は、その本来的な意味とかかわっているのではないかというという見え方だ。

 なお、帰り際に、主たる目的である小笠原國太郎氏と医王寺のかかわりを頭において、案内所でいくつか訊ねてみた。
 まずは、医王寺本堂の大改修があったかどうかということ。それに大正4年(1915)の「奥の院薬師堂」再建の大工さんにかかわる情報をお持ちかということ。
 そのどちらも回答いただけなかったので、次に大工さんのかかわりを確認する方法はないかどうかも訊ねてみた。こちらの回答も得られなかった。
 医王寺と小笠原國太郎氏とのかかわり確認という意味では今回も空振りだったが、散策としての満足感は十分にあった。
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by shingen1948 | 2017-06-23 09:09 | ★ 季節便り | Comments(0)
 寛文4年(1664)信夫郡と伊達郡が上杉領から天領となった時点で、後ろ盾が弱まったことが想像できる。
 「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」では、芭蕉が訪れたという元禄2年(1689)には、医王寺はわびしい古寺でしかない景色になっていたのではないかと想像していることと符合する。

 そんな中、「亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑦:福島の建築(12の2)」で整理したように、この寺は何度も火災に遭っては再建されるということを繰り返しているようだ。
 「大鳥城記」によると、現在の立派な本堂や庫裏は、文化2年(1805)に建てられたものと推定されているようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23441079/

 その本堂の右側に位牌殿がある。
a0087378_614520.jpg ここに佐藤一族の位牌が安置されているという。その両脇に、昭和37年に作成された右に継信の妻「若桜」と左に忠信の妻「楓」の武将の装いをした像がたっている。

 「平野の伝承とくらし」に、「奥の細道」の平野地区にかかわる本文を児童向けに現代の文に直したものがある。
 その医王寺の部分は次のように訳されている。
 「また、直ぐそばの古寺には、佐藤庄治一族の石碑が残っていました。中でも二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるしはあわれな話です。女ではあるが、かいがいしいふるまいにまた涙を流しました。
 寺に入ってお茶を飲むとここに義経の太刀・弁慶の背負った笈があり、寺の宝としています。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)」

 しかし、「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」によると、ここにはいくつかのフィクションがあるという。
 その一つは、「曽良日記」と照らし合わせると、芭蕉一行は寺に立ち寄っていないのではないかという。
 寺に入ってお茶を飲んだり、寺の宝を観たりはしていないのではないかと想像されるらしい。
 その二は、他の医王寺を訪れた方の記録や「曽良日記」からは、この時代の医王寺には「二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるし」の存在が確認できないという。
 「曽良日記」からは、宮城県白石市の甲冑堂に立ち寄ったことが分かる事と、ここには当時2人の像があったらしいことが伺えるという。
 このことから、「奥の細道」本文ではここの像を医王寺の場面に挿入したフィクションだろうとされているようだ。

 「奥の細道」のフィクションの世界が、あたかも現実にあった世界かのように感じられるように環境が整備されている。

 なお、その甲冑堂に散策で立ち寄った事については、先に「斉川宿③~甲冑堂」と「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」で整理している。
 〇 「斉川宿③~甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8341623/
 〇 「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8346063/
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by shingen1948 | 2017-06-22 09:57 | ★ 季節便り | Comments(0)
 先に確認したように、今年になって散歩で医王寺へ出かけたのは2017/4/27のようだ。
 地元の散策資料では「医王寺」についての確認をしているが、もうちょっと引いてwebで確認してみる。
a0087378_948459.jpg ウィキペディアでは「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中性初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」と紹介され、地元の紹介と変わりない。その沿革についても、ほぼ地元の資料で確認できることだが、その中興にかかわる紹介の一部は、地元の資料ではふれられていない。
 それが、(寺の縁起によれば)「寛永期に福島真浄院の快翁が『重興す』と記されている」という部分だ。「増補 大日本地名辞書 奥羽【富山房(1988年)】」を参考文献に挙げている。

 まだ確認していなかったが、別資料で上杉時代医王寺は信達惣奉行 平林蔵人によって 寺領30石が寄与されているという情報はみていた。この情報と重なるような気がしている。
 というのは、快翁は福島真浄院を慶長5年(1600)に中興開基するのだが、この方は、米沢藩の平林正恒氏の弟ということのようなのだ。
 この平林正恒氏が、信達惣奉行 平林蔵人氏だ。

 平林正恒氏を確認すると、次のような経歴のようだ。
 元々は武田氏家臣で、信濃国の平林城城主を勤めていたが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、上杉景勝に250石で仕えるようになる。
 その後、直江兼続に算勘を認められて1000石を給される。慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封によって白河小峰城(5360石)に移り、慶長6年(1601)には福島城二の丸に入り、伊達・信夫両郡の奉行となる。
 慶長13年(1608)には春日元忠の後を継いで郡代と奉行を兼ねた執政となり、直江の下で藩政諸般を統括した。

 上杉氏が会津から米沢に移封後も、信夫郡と伊達郡が上杉氏の所領の時代は続いている。それは、信夫郡と伊達郡が江戸幕府に召し上げられて一時的な天領となる上杉綱憲家督相続時(1664)まで続く。
 福島真浄院の快翁が重興したとする寛永(1624~1645)時代は、信夫郡も伊達郡も上杉氏所領の時代だ。
 まだ確認はできていないが、矛盾はなさそうではある。
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by shingen1948 | 2017-06-21 09:50 | ★ 季節便り | Comments(0)
 現農業総合センター果樹研究所内となる福島県生活改善展示実験室は、小字下原で、その北面の道筋が、その小字下原と小字田下との字界道になっている。
 その小字田下と小字北原と続く集落と接する小字下ノ壇、上ノ原、中原との字界道を進む。

 その道筋が、小字道添との字界まで進むと、医王寺前から「医王寺が案内される小字道添と字界道に出て、ここから医王寺まではお馴染みの道筋を進むことになる。
 この道筋は、先に「飯坂古道探索道草「奥の細道」~五郎兵衛館跡から医王寺」として整理した道筋だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5544425/
 ただ、この時には、芭蕉は星の宮から河岸段丘の道筋をたどってきたという説が頭にあって、その河岸段丘から続く道筋というイメージで整理している。
 しかし、地図を眺めてみると、この道筋東の六角から平野地区でいわれる瀬上道のすぐ北から続く道筋だ。しかも、医王寺付近は細長く小字道添に接している。古道と称されてはいないようだが、字界の古い道筋のような気がする。
a0087378_924079.jpg 2007年5月7日に「飯坂古道探索道草「奥の細道」~五郎兵衛館跡から医王寺」として整理した時点では、この道筋を進むとお地蔵様に突き当たった。
 ここを右折して医王寺に辿り着くのだが、この突き当たった道筋が、飯坂古道の西街道の道筋だ。


a0087378_925677.jpg この飯坂古道の西街道と交わる地点を、西街道側から2012年5月14日に撮った写真を見ると、お地蔵さまがなくなっている。


a0087378_9261055.jpg
 これは、その角を2017年4月27日に医王寺駅方面から撮った写真だ。
 
 どうでもいいことだが、この地点のほぼ10年間の定点変化。
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by shingen1948 | 2017-06-20 09:28 | ★ 季節便り | Comments(0)
 写真を確認したら、散歩で医王寺へ出かけたのは2017/4/27のようだ。
 いつもなら飯坂古道を中心に散策をしながら医王寺を目指すのだが、この時はわざとその東側の道筋を進んでみた。何か別な見え方をするかもしれないという期待感だ。
 この道筋、果樹試験場の裏側の道筋になるのだが、その角の建物の表札が「福島県生活改善展示実験室」となっている。


家に戻って、その仰々しい「福島県生活改善展示実験室」なるものを検索してみたら、「福島教育情報データベース「ふくしまの動画」の「民友ニュース No.24」に、「脱皮する農村」その5として紹介されていた。
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/mov/20037.024/20037.024.00001.html

a0087378_6163422.jpg この県の生活改善の展示実験室というのは、理想的農家の模型や合理化した台所などのモデル展示場ということのようだ。
 「因習と頑迷を打ち破って、合理的な明るい豊かな農村へ、今県下の農家は大きな転換を始めています」と解説される。

 小さい頃、農村だけでなく、地方の都市化が進んだ地域でも、冠婚葬祭や日常生活の因習と頑迷を打ち破ることで、明るい近代的な生活を目指すと称して、冠婚葬祭にかかわる簡素化、合理化を図ための行政的な取り組みがあったことを思い出す。

 この時代、確かに生活の重荷になっていた因習と頑迷を打ち破る成果はあったように思う。その一方で、合理化とか簡素化、能率化といった価値では測れない心の豊かさにかかわる祭とか、集落の集いといったものも失われていく時代だったという印象もある。
 農村風景としては、藁ぶき屋根にトタンを被せた農家が一般的になったという印象を持つ。
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by shingen1948 | 2017-06-19 09:15 | ★ 季節便り | Comments(0)
 鎌倉権五郎影政と片目清水にかかわる伝承は、「信達一統志」も「信達郡村史」も、そして、「日本の伝説(柳田國男)」も南矢野目村あるいは南矢野目村邨として紹介される。しかし、今回は笹谷地区の伝承として整理してきた。
 元々、このあたりは、南矢野目・笹谷・北沢又・南沢又地区の複雑な境界地域だが、地図上では、ここは笹谷になっている。

 座学を中心に散策する人にとっては南矢野目の意識が強いと思うが、地図を片手に散策をすることを中心に散策する人にとっては笹谷という意識が強いのだと思う。
 最悪なのは、公で南矢野目の地域を整理する人が実際の散策を中心にする方で、笹谷の地域を整理する人が座学を中心とする方だった場合、ここはすっぽりと抜け落ちる。

 今回、ここが笹谷地区ということを地図で確認していて、あれっ、と思ったのは万世大路の信陵支所の角に石塔の印がある。
 ここに、石塔があるとすれば、才の神の石塔のはずだ。

 実は、何度か道祖神を確認する散策をしていて、久盛院の双体道祖神を整理した頃、ここは見つけられずに、消滅だろうと思って整理していなかったのだ。
 移動なら、この辺りなら公民館の敷地だろうということで何度か確かめたが、それも空振りだったのだ。
a0087378_694686.jpg 今回使用の地図情報は結構新しい。
 それで、もう一度確認に出かけて、ひょっとするとこの石かなと思った石の写真を撮ってきたということで、確実性は全くない。

 ここは才の神地区でもあり、その原点の位置がこの辺りという自分なりの目印としてもいいかなという思いもある。
 才の神は、道祖神の役割の一つである行路を守るという役割と共に、道の分岐点、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神としての役割を強く意識してみている。
 ここを、昔民間信仰のこの地域の守り神として石仏が建てられた道の辻として意識していたことに思いを至らせ、勝手に祈る目印にしてもよさそうだなと思ったという程度の整理にしておく。
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by shingen1948 | 2017-06-17 09:07 | ★ 季節便り | Comments(0)
 本当は、「鎌倉権五郎影政公のその後」の前に、福島の伝承と「日本の伝説(柳田國男)」が紹介する「片目清水」の微妙な違いを整理してみたかった。
 順序が逆になったが、「鎌倉権五郎影政と片目清水②」として整理する。
 片目清水に戻るのに、2006/3/26の片目清水の写真を張り付ける。
a0087378_6184846.jpg この時は、公園として整備している最中で、ここから清水に近づけないように柵で囲われていた。

 さて、微妙な違いの一つは、福島市史の解説を元にした福島の伝承では、権五郎がいられたのは右目だが、「日本の伝説(柳田國男)」では「一統志」の説をとり、流れた血が元で小魚はどれもこれも左の目が潰れているとしている。

 二つ目は、福島の案内では、権五郎が目を洗ったら傷が治ったという視点で物語を結ぶ。
 多分、こちらは「信達二郡村誌」の「偏盲泉」に「権五郎景政眼を洗い創瘳えたりと言い伝えるは即ち此水なり」とある方を採用したのだろうと思う。
 この「信達二郡村誌」では「水質淡冬微温にして夏凄冽早に遇へば益々溢涌をして細沙噴躍す 田畝の灌漑専ら此水に頼る 尤製絲煎茶に適す」というふうに、この泉の水質の良さに視点を置いている。それで「眼病の人々は、ここで眼を洗い治療するという」結びにしたのだとは思うが、地元資料にこの眼を洗い治療するという言い伝えがあることの確認はできていない。

 ただ、「日本の伝説(柳田國男)」では、片目の魚がいるのは、大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水だとして「東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸」の例を挙げて次のように解説する。
 上高井戸の医王寺の薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。

 この「日本の伝説(柳田國男)」が大抵はこういう話だとした事を元にして、このような結びとしたのかもしれないとも思うのだが、実際はどうなのだろうか。
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by shingen1948 | 2017-06-16 06:22 | ★ 季節便り | Comments(0)