地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 あれからもう4年が過ぎようとしているのだが、まだ信夫山散歩を再開したいとは思わない。ただ、信夫山散歩の記事に目をとめることが出来るようにはなった。
 復興ということにこだわる人々は、信夫山にかかわるイベントを企画し散歩情報を流し続ける。はやく何事もなかったようにしたいということには抵抗があるものの、イベント情報それ自体には違和感を感じなくはなった。
 今回目についたのが、リビング福島「信夫山散歩」で、仙台に移された寂光寺の山号「青葉山」が地名青葉山の由来であることの記事。この情報で遊んでみようと思う。

 昨年末、パソコンの故障で古い写真や散歩記事を確認する機会に恵まれたので、まずは寂光寺にかかわる自分の散歩整理を確認する。
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 これは羽黒神社参道入り口に建っている「寂光寺跡」を説明する案内板だが、確認したら2007年頃に撮ったもの。次のように解説する。
 史跡 「寂光寺跡」
 かつてこの地には、羽黒権現院別当寺(真言宗)があった。そこには多くの修験者(山伏)がいて修行しており、15世紀初めの大仏城(福島城)の合戦には伊達持宗を応援したほどの勢力を持っていた。また、別当座主は、会津塔寺八幡の遷宮式に招かれて導師を勤めるなどの格式もあったのである。
 東北の関ヶ原といわれた松川の合戦には、伊達政宗に従って仙台に移った。信夫山を慕う一部の者は再び戻って復興したが、もはや以前の勢力はなくなり、その権限は福島の真浄院に移された。
 この真浄院との対立は明治まで続けられ、大裁判の結果、寂光院の土地は官有地となり、寺そのものは、廃寺となった。
 福島信夫ライオンズクラブ

 信夫羽黒神社は、古くは羽黒大権現といわれ、信達地方一帯の総鎮守として信仰をあつめた神社で、その信仰は平安時代までさかのぼるとのこと。寂光寺はその羽黒権現院別当寺とのことだが、真言宗寂光寺の勢力も、遠く会津地方にも及んだ記録があるという紹介だ。

 次に、仙台の寂光寺情報をネットで確認してみる。いろいろな情報が流れるが、確からしさの確立が高い情報源として「要説宮城の郷土誌【仙台市図書館】」を選択する。
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by shingen1948 | 2016-02-15 20:53 | Comments(0)
 前向きに捉えた言い方をすれば、最近週刊誌の隅から隅まで読む機会があった。
 その中で興味深かったのが、「週刊新潮」の「テレビ番組紹介欄」。そのNHK大河ドラマ「真田丸」紹介記事だ。

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、幕末から明治にかけての時代の勝者側からみて都合のいい話でしかなく視聴することもなく、話題に乗るつもりもなかった。一度興味を失うと、その次の興味も失せてしまうもので、今年度の「真田丸」も視聴するつもりも全くなかったのだ。

 そのテレビ番組紹介によると、1月7日放映の第二話視聴率が20.1%で、20%越えは「八重の桜」以来3年ぶりとの事だった。本当に興味深かったのはそちらではない。紹介の中に幸村の末裔が仙台在住だという情報が読み取れることの方だ。
 「真田丸」紹介文の見出しは「幸村の末裔デフォルメ高畑淳子にいいね」だが、その幸村の末裔は仙台在住らしいのだ。デフォルメされた高畑淳子の演技をベタ褒めしたのは、仙台真田家14代目真田徹氏とのことだが、この方が幸村の直系という。
 これは、散歩を楽しむ者として見逃せない情報だ。この事にかかわって、記事では次のように紹介する。
 幸村と長男の大助は大阪夏の陣で命を落とすが、次男の大八は、伊達政宗の家臣片倉小十郎に引き取られ、現代まで脈々と続いてきたのだ。
 徹氏(仙台真田家14代)は、大手建設会社を定年退職後は歴史研究家として活動している。
 ならば、仙台に大河に便乗した情報がないかと探してみた。
 ぱっと思いつくのは白石城」「片倉小十郎」との結びつき。それで、白石のホームページを確認したら、それなりの情報がみつかった。散歩を楽しむ者にとっては、便乗の情報を得るのは結構楽しいことなのだ。
 もうちょっと探してみようと思う。
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by shingen1948 | 2016-01-29 08:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 鳥渡山王社付近散歩の振り返り「その2」では、この地域の信仰にかかわることについて整理してきた。そのうちの「庶民が感じた仏教」とでもいう側面にかかわって、心残りなことがある。それは、半沢氏の「歴史地図」に記される正嘉2年1528建立の「右ハ慈父のため也」の板碑が見つけられなかったということだ。
 有名な「来迎三尊供養塔」の板碑は、「右ハ慈母のため也(正嘉2年1528)」であるのに対して、こちらは「右ハ慈父のため也」の同じ年の板碑であるということの興味だ。
a0087378_5572762.jpg 「右ハ慈父のため也(正嘉2年1528)」の板碑を探すために確認が必要な地点の一つが、下鳥渡の神明社だ。それが、ここだと思う。「信達二郡村誌」には、「村社神明社」が西部北島田畝の間に鎮座すと紹介される。その「村社神明社」が、半沢氏の「歴史地図」に記される下鳥渡の神明社のことなのだと思う。
 「信達二郡村誌」では、なぜか項を起こして下鳥渡村の小学校を紹介はしない。ただ、「沙子田北」の字地についての説明に「人家8戸村社鎮座小学校を設く」との解説は見える。
 その解説を頭において周りを見渡せば、この神社西側の下鳥渡集会所は、何となく昔懐かしい学校風の建物のようにも見える。
 下鳥渡の小学校の痕跡とかかわるのかなと勝手な想像をする。本当はよくは分からない。

 「歴史地図」では、下鳥渡の神明社と林照院跡の間に、この板碑の建つ位置がプロットされている。a0087378_604541.jpg
 周りを見回せば、その集会所の南西方向に仏教にかかわりそうな石碑群が並び、お堂も建っている。近くに「林照院跡」の標柱も建つ。
 今のところ、この「林照院」がどういう寺なのかという解説をみつけないが、位置は分かったということだ。
 正嘉2年1528の「右ハ慈父のため也」の板碑が、この近くにあるようだということまではわかったが、今回はそこまでだった。近くの墓地も見てみたが、それらしいものは見つからなかった。

 なお、「信達二郡村誌」には、「林照院」の解説はないのだが、近くの「政善寺跡」についは北部中川原にあり福島町真宗康善寺末派なりとの解説を見る。こちらの寺は、「後、衰微せしを寛延2年に僧鳳山之を中興す」そうだが、実際の寺は見当たらない。半沢氏の「歴史地図」では、河岸段丘付近にプロットされる。
 この散歩を通して見えた風景の中で感じていたのは、いわゆる「修験道廃止令」で、民間信仰のなかにいろいろな形で勢力を持っていた修験道や山岳信仰を廃止する一連の流れの中で、消された寺々の雰囲気とつながるものだったのかなと、勝手な想像をしている。
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by shingen1948 | 2015-11-03 08:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 湖山寺跡地を訪ねて散歩したことについては、「鳥渡山王社付近の風景~陽泉寺③」で整理した。位置的な曖昧さを残したままだが、半沢氏の「歴史地図」には、その寺跡の南東方向の山裾に「石子薬師」がプロットされる。これが、その薬師様だと思う。
a0087378_6275750.jpg 「歴史地図」には、ここにかかわるメモは特にない。「信達二郡村誌」等を確かめても、今のところその紹介を見ない。ただ、また聞きの段階だが、「福島市史」では、この薬師にまつわる次のような信仰伝説が紹介されるという。

 昔、清原元輔という方が都から下鳥渡の田中にきて住みついた。この方が、薬師の像を作ったのだとか。この薬師像が、後年、字石橋の地に移されたのだとか。
 この清原元輔という方の歌に、「契りなきかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」というのがあるが、これは、この近くの山を詠んだものなのだとか。
 この近くにあって、今は廃寺になった「湖山寺」の山号は、この歌からとって「末松山」と称したと伝えられているとも。

 この薬師については、信仰伝説でしかないのだが、昨日整理の「釈迦如来坐像」仏師の話は、史実として、ここ下鳥渡に都から来た方が仏像を作られたことがあったということでもある。それで、仏師乗円について確認しておく。
 「ふくしまの歴史」では、湖山禅寺のご本尊「釈迦如来坐像」の仏師乗円が、福島県内に数体の仏像を残していることが紹介されている。その師の円勝は、別名道円ともいい、この方も県内に遺品を残しているという。南北朝の争乱で倒れた人々を弔うために各地の領主によって招かれたそうで、東国に土着した円派(慶派、院派とともに定朝の系譜を引く仏師のグループ)の仏師と考えられるのとのことだ。
 中通りの乗円作の仏像は、他に二本松善性寺に1体、古殿西光寺に2体が残されているとのこと。会津にも1体の仏像があり、福島では計5体の仏像とのことだ。乗円の師道円作の仏像も、会津に1体あるという。
 乗円の福島での造像活動期間を確認すると、少なくとも延文2年(1357)陽泉寺釈迦如来坐像に始まり、応安7年(1374)古殿西光寺の地蔵菩薩坐像に痕跡が残るということになるようだ。ということは、乗円は、少なくとも18年以上福島中通りで造像活動をしていたということになるということのようだ。
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by shingen1948 | 2015-11-02 08:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
 前回は、今回の散歩で感じた「庶民が感じた仏教」とでもいう側面について整理したが、今回は「信夫の里の仏教文化の独自性」といったことを感じたことについて整理したい。

 この少し前の時代、全国に影響を及ぼす力のあった支配勢力は、仏教文化を支配権力強化の一手段として広めるという側面があったのだとか。
 これは、信夫の里からの視点だけでは捉えることができないのだが、信夫の里でも、その影響を受けてはいるはずだということだ。
 先の整理を、その影響下という視点で眺め直してみる。
 この地域に残る板碑や仏像は、その影響下で、この地方の人々の仏教なるものを自分たちなりに受けとめて発展させた姿であり、その素材の地域化ということでもあるのではないかということだ。
 前回整理した「庶民が感じた仏教」も、この地方の人々が仏教なるものを素直に受け止め、純粋に発展させてきたものととらえられよう。
 この地方の支配者は、この中央の支配勢力の支配と同じ方策で展開していたということもあったのではないかとも思う。これが、全国的な展開傾向ということだ。
 地方から見れば、中央から解き放たれるチャンスであり、独自性と結びつきやすい環境下だったと見てもよさそうだと思うのだ。
 「陽泉寺②」で整理した「釈迦如来坐像」について、その見方で眺めてみる。
 「釈迦如来坐像」は、大日本奥州湖山禅寺の御本尊像であり、この寺は、二階堂民部大輔時世が開基で大同結禅師であり、その中で、この「釈迦如来坐像」の事初めは延文2年(1357)7月18日で、仏師は法眼円勝と法教乗円で、應安4年(1371)6月8日に造立されたについてふれた。

 ここに登場する二階堂氏は、中央からこの地域の支配者として送り込まれた方だ。
 この方が湖山禅寺を開基するのは、仏教を心のよりどころとしていることでもあるだろうが、この仏教文化を支配権力強化の一手段として広めるという側面もあったのではないかという見方を加えて眺めたいということだ。
 これが、全国的な動きなら、ご本尊を据えるための仏師不足の中で、優秀な仏師を引き抜くことは、権威づけの一つでもあったろうとも思う。そういった背景のもと、二階堂氏は「ご本尊様を据えるのに、中央の仏師と思われる円勝と乗円(円勝が師で乗円が弟子か)を迎えた」ということだ。
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by shingen1948 | 2015-11-01 09:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の鳥渡地区の散歩で、何となく捉えたような気分になっている事がもう一つある。勝手に名づければ、「庶民が感じた仏教」とでもいう側面と「信夫の里の仏教文化の独自性」という側面だ。
 まずは、その「庶民が感じた仏教」とでもいう側面を整理する。

 この地区は、寺や供養塔群が多いことから「庶民が感じた仏教」を感じたということもある。しかし、今回の散歩で強い衝撃を受けたのは、供養塔に刻まれている事柄が明確に提示されたということだ。
 供養塔群は、他所でもたくさん見ている。しかし、その時には、史跡として客観視してしまっていて、その祈りまでは見えていなかった。
 それが、今回の散歩では、近親者の死に対して、来世での救いを求めようとする具体的な表現を、当時の状況に近い生々しい状態で目にしたのだ。それが「下鳥渡供養石塔」に接したときの衝撃だ。
これによって、感性的に、今まで見てきた供養塔群や近隣の供養塔も同じ思いのようなものが込められていたんだという納得感が迫ってきたというような感じだ。これは、理屈ではない。

 自分の感受性の方も、その衝撃を受け入れやすい環境にあった。
 今回の震災では、東北に住む誰しもが死生観を意識したように思う。この大きな災害を経験した者は、人としての現在のあるべき姿を強く意識したのだと思う。
 この感性で、この時代のこの地域の背景を「この地は南北町の争いで日毎に勢力が変動する動乱のちまたであった。人々が現生をのがれ、来世に救いを求めたのは当然だったのかもしれない」とする半沢氏の見方を眺めると、この「日毎に勢力が変動する動乱のちまた」感に納得してしまう。
 
 この時代の、この地域の人々にとっては、戦う者の生死と共に、その戦いの混乱に巻き込まれる事を通しての死生観を意識していたという背景があったのではないかと思う。その中で、具体的な家族の死と向かいあった時、供養という仏教と結びついた対処を行った痕跡が、遺跡としての供養塔なのではないかと思うのだ。
 今回の散歩では、その供養塔が持つ真の思いを何となく捉えたような気分になっているということだ。
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by shingen1948 | 2015-10-30 07:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_2461541.jpg 「歴史地図」には、「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)・平安時代の土師器製造作業場跡」のメモが記されるが、案内板では、古墳時代の竪穴住居跡の法を詳しく解説し、「発掘された竪穴住居の一つと同じ形と同じ形と大きさで作った花壇」の下にその遺跡は保存されるとある。
 その花壇が、こちらなのだと思う。
 こちらは詳しく紹介されるが、案内板では、「平安時代の土師器製造作業場跡」については詳しく解説せず、「約1100年前の『平安時代』に村があったことがわかりました」との解説で集約される。

 位置的には、ここは「毘沙門堂」跡に近いのだが、権兵衛屋敷や信夫塚を整理した後にした。それは、ここで感じた時代の流れの襞とのかかわりにもこだわってみたかったからだ。
 「鳥渡山王社付近散歩の振り返り」で整理したように、「二階堂氏」を感じようとしたことが、今回の散歩の大きな見え方の変化なのだと思っている。
 信夫の里の「佐藤氏の支配時代」から頼朝の東北侵略を経て、この信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣さるのだが、その「信夫鳥和田」が今回散歩の鳥川付近ということだ。
 このことによって、感覚的には、この時代の信夫の里が少し見えてきたような気分になれている。
 せっかく感じたこの時代の流れの順序性のようなものとかかわらせて近隣を眺めたかったという思いだ。

 荒い捉え方なら、半沢氏のメモの前半の「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)」は、先の散歩で整理した「稲荷塚古墳」や「大森の古墳」等の散歩とつながりを感じ、メモの後半「平安時代の土師器製造作業場跡」は、佐藤氏の影を感じる平安末期との連続性を感じたような気分になれるということだ。

 散歩資料には、ここから荒井村まで足を延ばす間には、更に時代を遡った時代の遺跡が重なる地域があったり、佐藤氏の影を感じたりすることができそうなところもありそうなことも見受ける。
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by shingen1948 | 2015-10-29 07:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 学校の西南隅付近に、茶畑遺跡との案内板が建っている。
a0087378_6183871.jpg 半沢氏の「歴史地図」には、この「茶畑遺跡」については、「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)・平安時代の土師器製造作業場跡」のメモが記される。
 案内板には、そのうちの古墳時代の竪穴住居について、次のように詳しく解説される。
 茶中遺跡
 鳥川小学校運動用地の拡張に伴い、昭和60・61年に発掘調査が実施され、約1400年前の「古墳時代」と、約1100年前の「平安時代」に村があったことがわかりました。
 約1400年前の村では、当時の家である竪穴住居あとが数件発見されました。
 古墳時代の竪穴住居は、一辺が4~5メートルの正方形の形に地面を掘り下げて床を作り、柱を立てて屋根をかけた建物でした。食事の煮炊きはかまどで行われ、住居には鍋や食器として使われた土器が残っていました。
 ここにある花壇は、発掘された竪穴住居の一つと同じ形と同じ形と大きさで作ったものです。当時の家は、地面の下に保存されています。
 平成23年
 福島市教育委員会

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by shingen1948 | 2015-10-28 08:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この時代の支配者勢力は、「北郷」の佐藤氏・「名倉」の二階堂氏、そして、伊達の里の伊達氏であることをイメージすると、この時代の散歩資料がすっきりと読めた気分になれる。今回は、そのあたりを整理してみる。
 まずは、「福島県の歴史散歩」の「陽泉寺周辺」の解説だが、今回の散歩の概観をすっきりとまとめてもらった感じがする。
 この地域は鳥渡といい、古く鳥和田と書いた。二階堂氏が大きな勢力を持ち、仁治元年(1240)の二階堂基行の譲り状に地名が登場する。延文2年(1357)二階堂時世は湖山寺を開き、応安4年(1371)年、円勝・乗円作の木造釈迦如来坐像(国重文)を安置した。現在湖山寺は礎石と地名古山寺を残すのみであるが、釈迦像は陽泉寺に安置されている。
 次の「朝日舘」についての解説も、二階堂氏の存在を意識することで、すっきりする。
 ここには佐藤元治一族の信夫小太郎重信が住んだものの、伊達持宗が近隣を侵略していると関東管領足利持氏に訴えたのは二階堂常陸介であり、そのため応永20年(1413)に「大仏城合戦」が起こったことからも、その後この地域を領有した二階堂氏との関係は深いと考えられている。
 次は、近くの郷野目周辺の地域史を概観した半沢氏の資料の中世部分の解説の確認。
 「頼朝の東北侵略」については、「石那坂合戦」の項で次のように焦点化している。
 鎌倉時代の初頭にはこの地では歴史上名高い佐藤庄司らの石那坂合戦(吾妻鏡)があるが、奥州藤原氏の武士団の一員として河辺の太郎(高経)がおったがこれは郷野目太郎だという説もある。このころ信夫の庄の地名には保木田(ほうきだ=方木田)というのも見えている。
 「南北朝時代」については、次のように二階堂氏が佐藤氏と共に登場する。
 信夫の庄司の子孫の大森城の佐藤盛衡や鳥渡の二階堂氏は西在の武士団と共に北朝側につき、霊山にたてこもった南朝の雄北畠一族は同族の弁天山椿館の春日顕国、信夫山の小山定朝らと共に北朝側と幾度も戦いをまじえている。それは、60年のながきにわたった。
 ここで、先の「福島県の歴史散歩」の「陽泉寺周辺」の解説に戻ってみると、「大仏城合戦」があった時代からは伊達氏側からの解説になっている。つまりは、この時代あたりからは、信夫の里も伊達氏の支配下に入るということが概観できるということなのだろうと思う。
 足利氏が室町幕府をきずくと、伊達持宗は大仏城を根拠として関東管領足利持氏に兵を挙げた。応永20年(1413)のことである。持宗は二本松の畠山氏や須賀川の二階堂氏に命じて大仏城を攻め幾度か攻防が繰り返されている。
 伊達氏はその後170年にわたってこの地を支配した。伊達氏に従う武士の数は七千騎、領内には300余りもの寺院があり、大寺院には200人もの僧がいたと伝えられる。
 これ以降の時代は、福島旧市内を視点とする「福島市史」を基にする散歩資料解説と重なる。
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by shingen1948 | 2015-10-25 07:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「ふくしまの歴史ダイジェスト版」では、伊達氏の資料である「伊達氏段銭帳」を元に伊達氏支配前の信夫の里を解説する中で、二階堂氏も登場するという紹介だ。
 この紹介でも、信夫の里に二階堂氏の影は見えているのだが、その主体は伊達氏だ。時間的な流れについても、伊達氏が信夫の里を支配下に置いた時代から逆に眺めている。
 今回の散歩では、それが時間の流れ順に見えていたということなのだと思う。
 そうすると、伊達氏が、伊達の里にあって、信夫の里にいなかった時代が意識され、そこに二階堂氏がいたというような感じの認識だ。今回の散歩では、その辺りが補正されたのかなと勝手に思っている。

 「ふくしまの歴史ダイジェスト版」の信夫の里の紹介をもとに、信夫佐藤氏が信夫の里を支配していた時代から、時の流れに沿ったベクトルで整理してみる。

 信夫佐藤氏が信夫の里を支配していた時代は、信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたとのことだ。当然、この時代に二階堂氏や伊達氏の影は見えてはいない。
 支配の主要な地域は摺上川と松川の間の信夫庄の北部(北郷)ではあったろうが、信夫の里全体を眺めていたはずではある。
 この地域の防御を意識すれば、今回の散歩で二階堂氏の影をみようとした鳥川から荒井にかけては、南のもう一つの要の地点ではあったはずなのだと想像する。ここは、位置的に信夫の里の南西隅にあたり、会津や米沢などへ続く道筋の要所でもある。
 このあたりでも、佐藤氏の影がちらちらと見えるというイメージかな。

 頼朝の東北侵略が、この時代のこの地域の大きな転換点の一つだったろう。
 その東北侵略後、その家臣の恩賞とかかわって、この信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣さるのだが、その信夫鳥和田が今回散歩の鳥川付近であり、この二階堂氏が、南西隅の地域を治めるようになっていたらしいということだ。 
 この時点では、先に整理したように、伊達氏は伊達の里を中心に支配するようになっていたということだったろう。この時代には、「北郷」には信夫佐藤氏の勢力は温存されたままだったと紹介する資料が多い。
 それで、この時代の支配者勢力関係を概観すると、「北郷」の佐藤氏・「名倉」の二階堂氏、そして、伊達の里の伊達氏という分布イメージを持ってこの時代の散歩資料を読めば、すっきりと読める気分になれるということのようだ。
 今回の散歩では、この襞の部分にふれた感じがしたというようなことかな。
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by shingen1948 | 2015-10-24 07:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)