地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 前回整理したように、地元ならではの情報の源は「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」であることが分かった。
 それが分かる前、隊に戻る前夜に訪ねたという会津中学校の恩師小林貞治氏の情報の確認を試みている。どんな方なのかという事と共に、何となくこの方が地元の情報とかかわっていそうな気がしたのだ。
 目的からすれば没情報だが、それも整理しておくことにしたのは、その経歴から長谷川信氏とかかわった時代の年代が分かり、その付き合い方の雰囲気が想像しやすいと思ったからだ。

「会津中学」、「英語教師」をキーワードに検索すると、自叙伝「風と雪と」という自叙伝の著者に「小林貞治」の名がみつかった。
 その経歴を確認すると、次のような経歴だ。

 明治42年(1909)栃木県生まれ
 中学卒まで群馬県で過ごす。
 在京3年。
 昭和5年(1930)秋会津中学校に奉職
 昭和32年~34年喜多方高校勤務
 昭和35年から棚倉、須賀川、相馬、会津女子高校長勤務
 昭和46年会津女子高等学校長退職
 杏林高校、専攻科講師、城南スクール講師
 昭和59年自叙伝発刊当時、専修学校城南スクール講師

 城南スクールのページを確認すると、その創業者の「会津高時の恩師で英語の小林貞治先生に三顧の礼でおいでいただきました」という言葉が見つかる。これで、会津高校の英語の先生であった方であることの確認ができた。
 この方が、長谷川信氏が訪ねた方と重なるのだろうと想像する。

 昭和5年会津中学奉職は21歳かな。これを基準に長谷川信氏の経歴と重ねてみる。
 
 信氏が会津中学に入学した昭和10年(1935)4月は、小林先生は26歳だ。長谷川信氏が会津中学在籍中は20代後半の若さだったということが分かる。
 信氏が訪ねて来たのが昭和20年(1945)だから、36歳の頃だ。
 「会高通史」の「『戸ノ口』にまつわる悲話一つ(小林貞治)」が昭和40年(1965)だから、56歳で相馬高校校長時代だろうか。
 夫人の「湖畔の碑」が「短歌研究」に佳作入選するのが、昭和43年(1968)だから59歳頃で、会津女子高等学校校長時代かな。

 なお、この自叙伝「風と雪と」は、会津図書館に所蔵されていることは確認できたが、目次の検索の限りでは、長谷川信氏とのかかわりが記載された様子はなさそうに思う。
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by shingen1948 | 2017-04-24 09:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」から、地元ならではの情報として整理したものは、「明治学院百年史」にも同じ情報があることが分かった。
 その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
 それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。

 当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
 信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
 信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
 ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。

 なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる
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by shingen1948 | 2017-04-23 09:30 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日整理の進学先を変える情報は、どちらかと言えば建前の理由付けの部分だ。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
 その一つが、妹の事情との関りだ。
 妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
 もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。

 地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
 2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。

 信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。

 別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
 そのうちの2首が紹介されている。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」
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by shingen1948 | 2017-04-22 09:54 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 長谷川信氏の生家が、「小国屋」という藩時代からの御用達の菓子商であることは、「Web東京荏原都市物語資料館」で知っていた。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)【歴史春秋第78号】」では、「長谷川信のおいたちと進学経緯」で更に詳しく記される。地元情報の強さだ。

 長谷川信氏は、父啓治の後妻シゲには子供が二男二女いたが、その長子だったということだ。先妻ヨネには力、佑、レイの三人の子供がいたという。
 長谷川信氏を可愛がったのは、兄の佑氏だったという。信氏も読書好きで水戸高校から東大に進んだ兄と同じような道を歩きたいと思っていたようだとのこと。
 会津高等学校に入ると直ぐにボート部に入って練習に熱中したことについては先に記した通りだが、4年中途で病気と称して休学し、その後喜多方中学校に転学するらしい。「幾多の事情があって」が、その理由のようだ。
 そこからの進学先だが、明治学院から学徒出陣しているので、最初からそこに進学したと思っていたが、その前に同志社に進学しているらしい。
 キリスト教に基礎を置くリベラルな学校との評判に胸を膨らませての進学だったようだが、現実の学校はその期待に応えられなかったようで、見切りをつけて郷里に戻ってきたという。
 その後、先に整理したように、明治学院厚生科に進み、学徒動員、特攻隊への道を歩むことになることに繋がるようだ。
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by shingen1948 | 2017-04-20 09:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわたつみのこえ」は、第二次世界大戦末期に戦没した、日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。
 ここで指す「わたつみ」は「学徒戦没者」であることは分かるのだが、本来の意味は「海の神霊」ということのようだ。
 「わたつみ」の「わた」は海の古語で、「み」は神霊の意とのことらしい。
 皇国史観による旧教育を受けた方は、この言葉にはこの二つの意味が重なってイメージされているらしい。

 今回「会津の『わたつみのこえ』を聞く」としたことだが、これは「きけわたつみのこえ」に福島県の「学徒戦没者」として登場する会津の長谷川信氏の声を、耳を澄まして聞いてみたいと思ったのだ。

 この会津の長谷川信氏を知ったのは、先に「山中 訃報に接して」の整理中だ。
 山中選手が母校にやって来るのは、N先生とのかかわりだったのだが、そのN先生が会津にやって来るのは、会津高校ボート部とかかわると想像した。また、自分の思い出の中には猪苗代の中田浜があるのだが、確認していくと、これも会津高校ボート部がかかわるようだった。
 その確認を進める中で、猪苗代湖に元々練習拠点にしていた場所があることが分かった。その確認を進める中で、そこが長谷川信氏の思い出の地であるという情報を得て、その地が特定できたということがあった。
 これを、「山中毅さんの訃報に接して⑥」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23730970/

 その情報源は「Web東京荏原都市物語資料館」だ。
 学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所があったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 ここで、「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」を孫引きさせていただいたのだが、その部分を再掲する。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 この時の整理では、その「会津高校ボート部での練習の思い出の地」の位置が分かればそれでよかったのだが、この時にも「長谷川信 碑」についてふれている。
 整理を始めるにあたって、ここも再掲しておきたい。
a0087378_938834.png 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。

 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-04-19 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回の概観で、江川三郎八氏が福島県雇になって以降の概要がイメージできた。
 戊辰戦争以降福島県雇になるまでの概要を確認したいところだが、これが結構難しい。
 というのは、戊辰戦争後の氏の家族構成だが、母を頭に姉と8歳の三郎八氏ということではなかったかと想像されるからだ。
 一般的には、会津藩士の状況は、明治2年11月に、會津藩は本州最北端の下北の地に3万石の斗南藩として再生することにかかわって、斗南藩が支配する地域に移住開墾することになる。
 しかし、母子家庭の元藩士家族が、「(藩主)御子息容大公には御情け扶持として、僅かに三万石を給せらるゝに到れり」となった斗南藩に移住したものかどうか分からない。
 移住先から戻ったにしても、居住し続けたにしても、会津の藩士確認は、一般的には「士族名簿」で確認するようだが、こちらも確認は難しかった。
 ただ、その生活状況は「江川三郎八bоt」での次のつぶやきで想像できる。
 「我等も母子三人なれば、毎日白米六合を賜はる為め、漸くにして露命丈けは繋得られ共、如何とも致し難く、戊辰の役以前に四書の素読を習ひたるのみにて、其の上学ばんとするも師なく、書なし。只生あるのみなり」
 少なくとも、福島県雇を目指し、福島に向かう時点では会津若松に居住していたことが分かるのは、次のつぶやき。
 「いよいよ数年来の希望を達する緒ならんと、曽て信仰せる柳津虚空蔵尊に参拝し、母と妻とを此の家に残し置き、単身、福島県庁に向ひたるは、即ち明治20年3月上旬なり」
a0087378_1040397.png これは、参拝したという柳津虚空蔵尊を安置する本堂を、「只見川と云う奇岩怪石両岸に聳え風景秀絶なるを以って知らる堂あり」と紹介する「福島県写真帖」の「柳津」からの写真。

 その結果、どうだったかについては、今は消えているが「会津藩出仕者名簿」というページで「福島県江川三郎八М20.4.19福島県雇土木課、福島県М24.9.29福島県技手」が確認できる。
 福島県技手となった喜びは「茲に老母の齢も八十歳に到れり。幸ひ身も県技手となり、且つ大蔵省の嘱託の身なれば老母の知人、友人及親族等を招きて祝賀の宴を開きたり」とのつぶやきで分かる。
 
 当然、福島県技手となるきっかけとなる大工修業も会津若松だったことが、次のつぶやきで分かる。
 「先づ其の師を選ぶに当り、若松下二之町に山岸喜右衛門と呼ぶ代々の町大工棟梁あり。此の家は其の昔、江川家の養子となり、嗣いで小奉行を勤めたる音衛門は、此の山岸喜右衛門が弟なりしを以て、最も深き親族の関係あり、故に同氏を師と仰ぎたり」
 次のつぶやきは、山岸喜右衛門の身元にかかわる事だが、母子家庭の身元引受にかかわったとの想像もできないだろうか。
 「時の喜右衛重秀は、蒲生氏郷入国の砌、侶伴せる人より十七代の孫に当り、今尚当時拝領の屋敷を動かざる旧家なり余は此の師に就き専心業に従事せり。師も亦余暇を見出しては余を膝下に招き、種々教訓を授けらる」

 福島県雇江川三郎八氏の大工修業は、宮大工だったとされるが、それが次のつぶやきとかかわるのだろうと思う。
 「こゝに於て余も跳る心を容易に落付け、尚其の職に従事すること数年にして、明治15年の暮に至り、先づ一通りの斯道を得体するに到れり。尚堂宮建築に就きて進みて之を学ぶ」
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by shingen1948 | 2016-11-22 10:42 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 明治32年(1900年)の伊佐須美神社社殿再建に江川三郎八氏がかかわったとするならば、平成20年(2008年)10月3日に焼失した拝殿、授与所、10月29日に焼失した本殿・神楽殿・神饌所がそれだったという事になる。という事は、自分がそれまでに何気なく見ていた建物だったということだ。
 この旧本殿は、建築的には三間社流造といい、幣殿で接続された旧拝殿は七間社流造というようだ。屋根は銅板葺だったようだ。
a0087378_5514579.png この建物は、福島県立図書館が「デジタルライブラリー」として、ネットで公開している「福島県写真帖」で確認ができる。
 この写真帖は、福島県が明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が明治41年(1908)秋に東北地方を行啓されたことを記念して編集したものなそうだ。その中に「国幣中社伊佐須美神社」として紹介される。
 この神社が国幣中社とされるのは明治6年のようだが、それまでも、会津では由緒正しい神社とされ、歴代会津藩主が加護する神社だったようだ。しかも、翌年から元会津藩主松のご子息が宮司に就く前段階でもある。氏がかかわったとすれば、元会津藩士であったことを思えば、いかに名誉な仕事だと感じた事かと想像する。

 ここまで整理してみると、氏が福島県でかかわった仕事は、会津にかかわる仕事が多かったように思う。「会津藩出仕者」であることが考慮されたのだろうか。
 「江川三郎八bоt」というツイッターには、このことにかかわる次のようなつぶやきが見える。
 「噫!天は我が行身を憐み給ひて、老母の看護をなさしむる為め、斯くは若松の工場に出張を命じたるならんと天を仰いで再拝せり」
 姉と母を若松に残して、単身福島に出向いていたことも分かる。
 次のつぶやきは、この時点なのか別の時点なのかは分からないが、郷里である会津若松に帰省した際の行動が分かる。
 「翌十一日より郷里若松市へ帰省、直ちに祖先の墓前に拝参、今日の首尾を報告せり。夫れより恩師山岸翁を訪問し、種々なる教訓的注意を受け、(高木風に嫌はれ出づる釘は打たるの格言)尚四方八方の話に時を費す」
 前後のつぶやきから、ここでいう「恩師山岸翁」が大工の指導を受けた方であることが分かる。
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by shingen1948 | 2016-11-21 08:50 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
a0087378_6233993.jpg 会津に来る時には殆どいつも立ち寄るヨークベニマルの近くに、この道標が建っている。
 西面に、「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」が紹介される。これが二本松街道の紹介のようだ。

a0087378_6255395.jpg 南面には「向 右 長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」、東面には「大正9年2月1日建立」、北面に「郷之原青年会」が刻まれる。
 写り込んでいるのは 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」方面の風景だ。

 実は、この道筋自体も、結構馴染みのある道筋ではあったのだが、これが「二本松街道」の道筋ということを意識してはいなかったし、この道標にも気づいてはいなかった。

 特異点付近では街道筋を意識するのだが、それを連続的に意識しているわけではない。
 旧市内では、「白河街道」が「札の辻」から東に六日町を目ざし、そこから北に博労町(相生町街)→養蚕国神社と進むその手前で「二本松街道」が分かれるあたりは特異点付近として意識している。
 しかし、この辺りまでくると、二本松街道を意識してはいなかったのだ。

 意識させられたのが「街道web」の「二本松街道・郷之原」のページだ。
 この道標が紹介されているのを見た時に、ここは見慣れた風景なのに、そこにこの道標を見ていなかったという据わりの悪さだ。
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/nhm/24.htm
 今回はその据わりの悪さ解消のための確認だ。

 今までなら、今回のようなスポット的な確認をしても、線としてもある程度見えてくるまで整理するのは待った。それを、今回はとりあえず整理しておこうと思ったのは、そのままになってしまっている事が多いなと感じているからだ。
a0087378_634023.jpg 赤い線が、道標西面に紹介される「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」と紹介される二本松街道の道筋。緑の線は、南面に紹介される「長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」と紹介される道筋のつもり。

 二本松街道は、会津街道とも呼ばれる会津若松と二本松を結ぶ街道だが、これから先の大雑把な見方を確認しておく。
 その経路の概略は、磐越西線の経路に近いという。現在の交通路の道筋としては、磐梯町付近までは県道64号線「会津若松裏磐梯線」が近く、そこから猪苗代町付近までは県道7号線「猪苗代塩川線」が近いとされる。

 この道筋の二本松街道にかかわる地点のあちこちに立ち寄ってはいる。
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by shingen1948 | 2014-09-16 06:35 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 ここは、昭和電工東長原正面玄関付近。a0087378_102614.jpg 県道337号喜多方河東線の道筋は、工場の前を国道49号線バイパスに抜けるが、その道筋とクロスして、写真右手からこの正門に向かう道筋がある。
 それが、「街道web」の[2005.10 追記]に、「東長原駅ができる以前は、昭和電工の前身日本電気工業従業員800人の大半が、隣の広田駅で下車し、そこから徒歩で通勤していた」事が記されることとかかわる道筋のようだ。
 「街道web」では、この道筋に重なる日本電気工業がかかわる専用鉄道を「日本化学工業専用鉄道」として紹介する。その中に、この道筋について「直進する道は、昭和14年(1939)、広田駅~工場間を徒歩通勤する従業員のために開削された道で『六貫坂』と呼ばれたと紹介する。
 初めは親父とのかかわりで気になったのだが、東長原駅は親父の入社前にできているようなので、直接的には関係がなさそうだ。

 散策は次の機会にするが、別視点で気になったのが、そこに通称兵隊山があって、昭和20年頃には高射砲が設置され、高射砲隊が駐屯していたという情報があることだ。
 ということは、昭和電工が軍需工場だったとの想像があるらしいという事だ。地元の方のブログ情報と重ね合わせると、工場では戦時中に火薬を製造していたらしいということのようだ。
 興味は、先に「福島と戦争」を整理していることとのつながりだ。
 「人権平和・浜松」の「朝鮮人強制連行期の朝鮮人強制労働現場一覧(東北 青森岩手宮城山形秋田福島)」のページには、かかわった軍事工場として昭和電工広田工場・三菱製鋼広田工場構内運搬竹村組、地下工場建設として昭和電工広田半地下工場建設、他に昭和電工広田工場拡張工事・三菱製鋼広田工場建設 鹿島組が掲げられている。
 更には、「福島の学徒動員」のページからは「昭和電工広田工場の学徒」との表現が見える。
 「街道web」の「日本化学工業専用鉄道」ページに掲げられる年表の後半と突き合わせれば、磐越西線東長原駅「昭和電工貨物専用線(廃線)」自体も含めて、「福島と戦争」を視点に整理できそうだなと思うが、次の機会にしたい。
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by shingen1948 | 2014-08-19 10:05 | ◎ 福島と戦争 | Comments(2)
a0087378_16202851.jpg 昨日整理の工場に向かって右側の折り返し点1、3と反対側の折り返し点2、4を確認するのに、ホームから郡山方面を眺める。
 奥に写るまは日橋川の鉄橋で、右手に発電所かな。

 本戦から右側手前に延びてくる線路は、一番下のラインとつながっているようにも思うのだが、途中切れていることもあってよくは分からない。
 少なくとも、先の2段目の線路とのつながりを考えれば、右手奥の草むらの中に折り返し点2があり、傾斜のきつい2段目の線路につながっていくと考えるのが自然だろうか。
 その2段目のラインが、踏切の手前の高台で折り返したあと、フェンスが建つ土手の最上部にたどり着く折り返し点4が、線路の向こうの丘の端っこなのだろう。
 ここで折り返した列車は丘の最上段を進んで、踏切の上にかかる跨道橋を渡って、西側に進んでいったということだろうか。
a0087378_16423682.jpg 折り返し点のイメージだが、確認するのに点として扱ってきたが、実際の折り返しは、列車全体の移動だ。
  列車は、実際に折り返す地点を過ぎてもっと先に出て、列車全体がその地点を通り越して、そこから逆送するという事の繰り返しになるはずだ。
 そんなことが気になったのは、踏切に残存する一番下のラインの痕跡が一本であること。列車は、踏切を越えてその先まで進んで折り返すことになるのだが、実際に折り返す地点は、踏切より駅側なのではないかなと思った事。
 その事を考えてイメージ調整すれば、先に折り返し点とした地点は列車の先頭部分で、列車全体は実際に折り返す地点の外側まで通過しているという感じなのだろう。図示すれば、こんなイメージなのではないかなと想像したということ。
a0087378_16441679.jpg これは、工場側の西側の駐車場の予備の広場のようなところから眺めている。
 フェンスの向こうが工場内部で、跨道橋との関係から国道49号線バイパスから福島道7号猪苗代塩線に抜ける道筋の踏切の位置が分かる。
 この丘の西側で折返した列車は、工場内部でこの丘を少しずつ下りながら南側に方向を変えながら、工場に進入して行くということなのだろう。
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by shingen1948 | 2014-08-18 16:45 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)