地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。今は、その石碑は湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事だろうと思っている。
 結論としてはそうなのだが、今回整理する途中で分かったのが、明治学院の場合、学長と学院長の役職があるということ。住職の言葉では学長だが、今回は、とりあえず学院長であることを想定して整理している。
 整理過程の中で、もう一つ想定して考えてみたのがこの石碑が「兵戈無用」の碑を指している場合のことだ。以下のようなことになる。

 この石碑が「兵戈無用」の碑であることを想定すれば、その建立は2002年。この時の学院長を確認すると、第11代久世了氏(1998年 - 2012年)ということになる。
 この久世了氏なら、「明治学院百年史」の第6章で学徒兵である長谷川信氏について実際に調査に当たられ、まとめ上げられた方のようだ。実際に会津へもおいでになったというし、 生き残った周辺の人々にインタビューもなさったとのことだ。

 一人の学徒兵の個人的な記録を以って学校史を構成するという事について、久世了氏は次のような思いを抱いていたようだ。座談会の発言資料から要約する。
 この長谷川信という学徒兵を取り上げることによって、明治学院の二つの側面がある程度伝えられるのではないかと考えたとのことだ。
 その一つの側面が、明治学院の校風がこういう人(長谷川信氏)を生み出したということ。
 もう一つの側面が、その反面として、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという学院の非常に痛ましい経験があるということだ。

 この方の前の学院長が、第10代中山弘正氏(1994年 - 1998年)だ。
 この方は、1995年に学院としての戦争責任の清算、和解の試みをなされているのだが、「明治学院百年史」の第6章を学徒兵である長谷川信氏個人の記録で編集する試みは、その流れの一環でもあったということのようだ。
 また、この中山弘正氏の戦争責任の清算、和解の試みの前史ともいえる89年の昭和天皇の死去に伴う大学の対応というものもあって、この時の中心になられたのは森井眞元学長とのことだが、この久世氏も教員としてかかわっておられたという。

 このことにもふれておきたかったのは、「会津の『わたつみのこえ』を聞く27」でふれた会津人である第2代目学長井深梶之助氏とのかかわりだ。
 井深氏は、あの時代に天皇に殉じて自決した乃木希典大将夫妻を批判したという。
 その日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定したとことについては先に整理した。
 この事を、井深学長は「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」ととらえたとするのが学院の基本姿勢として脈々として流れていると捉えれば、久世氏が「兵戈無用」の碑建立に共鳴されても自然ではある。

 ただ、久世氏なら信氏の具体的な戦死情報をお持ちのはずだと思うので、住職がおっしゃる方とは違う気がする。
 今は、これは別々に会津の「わたつみのこえ」を聞いたお二人が、結果として同じような思いに至ったという事なのだろうと思っている。
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by shingen1948 | 2017-05-26 09:28 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 木村氏が長谷川家の菩提寺を訪ねた時に、住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。
 「石碑が建てられたとき」というのが、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事なら、この石碑建立は昭和21年(1946)5月なので、第4代の矢野貫城氏(1939年 - 1948年)ということになる。

 「明治学院百年史」によれば、この方は価値観が大きく変わる戦中から戦後にかけての院長だが、「今日内外之情勢は到底菲才不徳の私の是以上任に留まるべき時にあらざるを痛感」という昭和22年8月7日付の文書で、辞任の意思を明らかにしたとのことだ。

 教育にかかわる変換点を確認すれば、昭和20年12月21日に文部次官通牒で「御真影」奉還が、昭和21年6月29日には「御真影奉安室」の撤去が指示されたとのことだ。その間の昭和21年1月1日には、天皇の人間宣言。
 石碑建立の時期である昭和21年5月頃に強力に推し進められたのは、教職員適格審査の名のもとに教職員不適格者を摘発して教育界から追放する処置だという。
 矢野氏は、その前の昭和21年2月7日に発足した「日本教育家の委員会」の日本側の委員会の一員として加わっているという。

 矢野氏の信氏の石碑建立にかかわるかかわり方は、辞任前のけじめのつけ方の一つだったのかなと思う。
 矢野氏のこの辞任は、11月に迫った創立70周年記念式を前にしての辞任であり、住宅難からしばらく学園内にとどまっていたこともあって、同情の声もあったのだとか。

 住職がおっしゃる明治学院長が、この第4代の矢野貫城氏ならば、長谷川信氏の戦死についての情報は公式記録「4月12日与那国島北方洋上戦死」以外ないだろうと思う。住職が紹介する「長谷川君は飛行機の燃料がなくなるまでずっと飛んでいったんだとおっしゃっていましたよ」というのは、矢野氏の思いだったのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-05-25 09:42 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」の中村メモでは、4月12日の出発の遅れを、山本隊長機の接触事故とするが、「Web東京荏原都市物語資料館」の情報を加えるとそうなる理由まで想像が膨らむ。
 4月5日9時、山本隊は新田原を離陸して韓国済州島に向かう。そして、そこから7日には、杭州(現中国浙江省)に前進したとある。
 そして、11日を迎えるのだが、午後4時に杭州の筧橋基地を出発していることについては、中村メモの情報と同じだが、この時に「山本機は整備不良により引き返し、翌12日午前6時、再度出発する」とある。
 その12日の再出発の際にも、山本隊長機が接触事故を起こして、予定より遅れての出発となったという状況が想像できる。
 それ程、どの機体もぼろぼろの状態だったということが分かる。

 「Web東京荏原都市物語資料館」の「下北沢X新聞(1674) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて3~」の記事で、木村氏が長谷川家の菩提寺である西蓮寺前住職秋月亨観氏と会っていることが分かる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703204.html
 昨日、ひっよとすると記事の意図に反しているかもしれないと思いつつ想像を交えて整理したのは、この会話内容について深読みしたかったからだ。

 まず、気になったのが、「『生き残った仲間の人の奥さんが前に、うちに訪ねてきたことがありましたよ。確かね、茨城の人だと言っていました』住職の話である。仲間といえば武揚隊ではないだろうか」とある部分だ。
 昨日整理の生き残った仲間に該当するのは、力石丈夫氏と中村敏男氏で、「仲間」との表現からは力石丈夫氏かなとも思ったが、「明治学院百年史」では、この方は神奈川県在住とある。また、中村敏男氏は大分県在住とのことだ。
 「Web東京荏原都市物語資料館」にも該当するかもしれない方の情報がある。
 済州島へ飛来した時点で吉原薫機が不調を起こし不時着したが、この時に怪我を負ったのか、特攻には行っていないという情報だ。
 この方の出身地の情報はない。結局は分からないままではある。

 次に気になるのが、「石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えました」との話。
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by shingen1948 | 2017-05-24 09:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏と「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「力石文夫少尉 見習士官(特操2期)」は、同じ方ではないだろうか。
 一字違いで、しかも誤ってもおかしくない感じの違いなので、可能性は高いと思う。

 この方の情報を「明治学院百年史」から拾ってみる。
 まずは、「明治学院百年史」が発行された時点で生存者として紹介されている。
 次に、本土から台湾に向かう時に、無事に台湾についたことの記述が見える。
 4月12日信氏を含む第2陣が敵機と遭遇するのだが、その第1陣4機は、4月11日夕刻に出発していてる。その第一陣が「力石少尉を含む第1陣4機」と紹介されてる。従って、氏は無事台湾に着いている。戦後生存からは、出撃して不時着か、出撃それ自体ができなかったかは不明なのだろうと思う。

 もう一方、「明治学院百年史」の中村メモの「中村敏男(大分県在住)」氏は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だが、この方もこの冊子が発行された当時健在だったとされる方がいらっしゃる。
 この方が、「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」が消息不明者として挙げる「中村欣男少尉 幹部候補生」とは別人なのだろうか。
 この方も一字違いだが、力石のように誤ってもおかしくない感じとも言い難いところはあるが、可能性としてはあるなと思う。

 実は「Web東京荏原都市物語資料館」では、別の意図があって敢えて消息不明者を挙げているのではないのかなと思うところがある。
 例えば、「明治学院百年史」では台湾へ渡った機の数を13機としているのだが、武揚隊の出発前の宮崎神社祈願参拝者が13名である事まで確認している記事がある。他にも記事の隅々にからは「明治学院百年史」を十分に確認していることが読み取れるのだ。
 ということは、敢えて消息不明者を掲げることで、別の情報を得たいという意図があるように感じられなくもない。
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by shingen1948 | 2017-05-23 13:44 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏の戦死は、公式記録では「4月12日与那国島北方洋上戦死」とのことだ。
 「明治学院百年史」では、中村メモをもとに、その様子を解説する。その概要は次のようだ。

 松山から新田原に向かった武揚隊は、熊本建軍飛行場を経て済州島へ、さらに上海、枕州へと進んだという。ここから目的地台湾への最後の移動は分散で行われたとのことだ。
 4月11日夕刻に力石少尉を含む第1陣4機は無事台湾に着いたという。
 そして、第2陣山本隊長以下信氏も含めて残り9機が12日5時出発予定だったが、隊長機の接触事故で5時半出発になってしまったという。夜明け前に台湾着の予定が、洋上に出て30分で夜が明けてしまったのだという。
 そのせいもあって、グラマン機20機と遭遇して、編隊を解いて戦闘準備体制となり交戦、第1回目3機が火を噴く、第2回目2機、1機と、……。残る3機となる。
 この時、中村氏は右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着したのだということだ。
 だいたいこんな様子が読み取れる。

 この辺りの事を「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」の情報と照らし合わせてみる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52030134.html#more

 こちらの情報では、もともとの武揚隊は15機とあり、一機、長谷部良平機は各務原で機が不調だったらしくこれに遅れて離脱したとある。
 彼は、知覧にたどり着いて、4月20日に、第31振武隊と名を変えて特攻出撃していったそうだ。
 「明治学院百年史」の情報と照らし合わせると、こちらの台湾に向かう機は13機のようだ。1機少ない。
 3月25日にこの誘導機に当たった飛行第108戦隊の菱沼俊雄大尉の情報に、台湾まで付き添ったそうだが、済州島で吉原香機が機のトラブルで不時着するとある。このあたりとのかかわりだろうか。

 4月12日の交戦についての情報を照らし合わせてみる。
 上海から台湾へ前進中与那国島で敵機に遭遇し3名が交戦戦死する。爆装改修で銃器は降ろしている。なすすべもなく撃たれた。長谷川信少尉、西尾勇助軍曹、海老根重信伍長だ。このときに山本薫中尉他も与那国島に不時着し、大発艇で海路台湾にやっと渡った。
 「明治学院百年史」では、山本隊長の不時着と、その後についての情報がなく、こちらの情報では、「明治学院百年史」にある中村氏の与那国島への不時着は記載されていない。

 ここからは、長谷川信氏が抜けた後の武揚隊の情報だ。
 台湾に到着した武揚隊の残存部隊は、八塊飛行場から順次出撃したという。
 5月13日、5機出撃。山本薫中尉、五十嵐少尉、柄沢伍長の3名が特攻戦死とのこと。
 5月17日、3機出撃。高畑保雄少尉、五来軍曹の2名が特攻戦死。高畑機には飛行108戦隊の宮崎義次伍長同乗出撃したという。

 そして、昨日整理の7月19日の八塊飛行場から4機の出撃。
 1機は基隆沿岸に墜落、藤井清美少尉のみが特攻突撃したとのことだった。また、この4機の中に飯沼芳雄伍長がいるので、ここでの不明は2機だ。

 「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」では、最後に、消息不明として、中村欣男少尉 幹部候補生、力石文夫少尉 見習士官(特操2期)、春田政昭兵長 少年飛行兵15期を挙げている。
 ここも、「明治学院百年史」の情報と照らし合わせてみたい。
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by shingen1948 | 2017-05-22 09:00 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 特攻にかかわって有名なのは「知覧特攻平和会館」なそうだが、会津の長谷川信少尉の場合は、かかわらないようだ。

 最近、道徳心について評価をすることが決められたようだが、特攻隊員の亡くなり方にもランク付けがあるのだという。
 「特攻戦死」という評価になれば、二階級特進となって、「陸軍特別攻撃隊員名簿」に載せられるようになるのだそうだ。そして、遺品や写真などが「知覧特攻平和会館」に永久に保存されるということになるのだそうだ。
 当然、遺族年金も違ってくるそうだ。

 これは、「下北沢X物語(3248)~1036柱という価値軸への疑義~」に教えられたことだ。その「特攻戦死」と評価されたのは、1036柱で、これ以外は「知覧特攻平和会館」では扱われないとのことだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52041850.html#more 

 信氏の武揚隊で特攻戦死と評価されたのは、15名のうちの6名だけだとか。特攻に向かっても、戦果が確認できなければ、一般戦死扱いとなるのだそうだ。
 武揚隊員で特攻出撃と戦死が確認できるのは7名いらっしゃるそうだが、飯沼伍長の戦果が確認できずに、特攻戦死とは評価されていないのだそうだ。それで6名の特攻戦死ということになるそうだ。
 その状況は、沖縄特攻の最後の日(7月19日)、飯沼伍長は「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」に載る藤井清美少尉等と共に、台湾八塊飛行場から薄暮「16時30分」に発進しているのだそうだ。
 敵機に撃墜されたか、機の不調で墜落したとの想像もできるが、とにかくこの時に戦死しているのは確認できるが、一般戦死扱いなそうだ。

 さて、会津の長谷川信少尉の場合だが、4月10日、台湾に渡るため武揚隊の一隊はその飛行をしている最中に敵機に遭遇して、西尾勇軍曹、海老根重信伍長と共に艦載機に撃墜されているという。交戦死ということで、彼もまた特攻戦死という評価はなく、「知覧特攻平和会館」対象外なのだそうだ。
 ◇       ◇         ◇        ◇        ◇

 昨日整理の中の世論調査による内閣安倍正支持率の全国と福島県の差についてだが、2017年1月調査についての「共同通信」と「福島民報」の世論調査も確認できた。

 「共同通信」が59.6%の内閣支持率で、「福島民報」が39.6%だったようだ。この時の差が20ポイント。
 メディアが報じる内閣支持率から15~20ポイント減じて認識するのは、地方紙を見ている福島県内の方にとっては当然の事のようだ。
 なお、この時の全国では前回調査に比べ支持率が+4.8%で、福島県内ではー3.9%だたとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-05-21 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 2017年の参院選結果をお隣の新潟県の知事選の結果を受けて整理しているのは、東北の参議院選の結果から読み取るべきものがあると感じたからだと思う。福島県に限定して眺めてみれば、現職の岩城法務大臣が落選していることも付け加えておく。

 最近、田舎から眺める全国ニュースは、我々とは別の国の出来事のように感じる。
 現在のトップが牽引する内閣支持率もべらぼうに高く感じる。
 ネットで拾える比較的最近の情報は、3月の支持率。
 べらぼうに高い支持率が、「日経」の62%。「産経」、「読売」、「共同通信」などが、それに次いでいる。「産経」が57.4%、「共同通信」が55.7%、「読売」が、その間を取って56%。
 そして、「朝日」の49%、「毎日」の50%、NHKの51%。
この時期の「福島民報」が34.9%で、これでも高いなと思うが、全国的にみれば低めの情報のマイナス27%から15パーセントだ。
 http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2017/03/post_14921.html

 要点を整理する。
 国論を二分させた集団的自衛権容認は目立った争点にならず、与党は改憲に触れようとせずに参院選は行われた。
 その結果、東北、新潟、北海道など北日本の支持は得られなかったが、全体的には関東から西の地域の方々の支持を得て、自公与党が圧勝した。
 改憲派「3分の2」を意識した各報道の見出しが躍ったが、今になって思えば、3分の2を取ったことで一瀉千里に改憲に進むのは勘弁してほしいという願いの様なものも感じる。

 しかし、……。
 平和憲法に象徴される戦後レジームを「東京オリンピック」を大きな節目に変えたいという動きが活性化しているように感じる。

 この動きに、ネットで拾える最新情報は、時事通信の5月の世論調査結果。
 安倍内閣の支持率は前月比3.4ポイント減の46.6%とある。
 同じ様な傾向を想定して、前月の「福島民報」の情報から3.4ポイント減じてみると福島県内の支持率は31.5%程度かな。結構高い。
 
 これを会津の「わたつみ」がどう聞いているのかは、想像すらことすらできないでいる。
 
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by shingen1948 | 2017-05-20 08:41 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」を参考にしたのは、「兵戈無用」の石碑を建てた西蓮寺住職秋月亨観氏の思いを想像するためだった。
 しかし、このコラムで言いたいのは「兵戈無用」の碑についてふれる前に、参議院議員選についてふれた次の事だろうと思われる。
 10日に開票される参院選は、平和憲法に象徴される戦後レジームを、維持するか変えるか、大きな節目になろう。しかし国論を二分させた集団的自衛権容認は、目立った争点にならず与党は改憲に触れようとしない。果たしてそれで良いのか。


 今は、その結果が分かるわけで、その時の全国紙の見出しは、朝日新聞が、「改憲4党 3分の2に迫る」、読売新聞が、「与党大勝 改選過半数」、毎日新聞が、「改憲勢力3分の2越す」というものだった。
 「与党は改憲に触れようとしない。果たしてそれで良いのか。」とし、争点としなかったはずで、それを批判していたマスメディアも、その結果を報告する見出しではあたかも争点であったかのように報道し、全国的には自公与党の圧勝だったことを中心に報道された。
 確かに、全体としては自公与党の圧勝だった。しかし、これが全国的な傾向という事ではなかった。関東から西の話だったはずだ。北日本は違う結果だった。
 
 東北が違う結果だったことは、「新潟県知事選の報道」でふれたが、再確認する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23297205/
 「2016参院:朝日新聞デジタル」で「各党の獲得議席」の比例区の地図をみると、それがよく分かる。
 http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2016/

 新潟を含む東北6県を眺めると、秋田県以外の青森、岩手、山形、宮城、福島、そして、新潟では、自公与党は惨敗だったというのが東北の選挙結果だ。
 北海道も確認すると、3議席のうち与党は1議席しか獲得できていないので、北日本全体を眺めても、自公与党惨敗という結果ととらえてもよいのだと思う。
 しかし、この事は、全国ニュースにならないどころか、地方のメディアでも伝えていないと思う。

 ただ、この結果が頭に入っていて、したたかに対応されたと思われる方がいらっしゃる。
 与党大御所が許す東北にかかわる大臣の失言を、そのトップの方は即座に対応したということがニュースになった。
 この選挙結果が、しっかりと頭に入っているとしか思えない。
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by shingen1948 | 2017-05-19 09:56 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「兵戈無用」の石碑を建てた西蓮寺住職秋月亨観氏の思いを想像するのに、「朝日新聞」のザコラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅2016/7/7)」を参考にしている。
 このコラムでは、まずは福島県猪苗代湖の長谷川信氏の石碑を紹介し、経歴や日記から信氏の思いが紹介される。
 次の項で、母校明治学院大学が、その「百年史」でこの信氏の評伝にほぼ一章分を費やして記録するという取り組みが紹介される。
 更に、次の結語の項では、この時の参院選では集団的自衛権容認が争点にならず、与党は改憲に触れようとしないことへの疑問という時事的な観点を挟んで、次のように結ぶ。
 会津若松の長谷川家の菩提寺西連寺に「兵戈無用(ひょうがむよう)」の碑がある。悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観さんが建立した。大無量寿経にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。

 会津とのかかわりで気になるのが、このコラムの明治学院の取り組みにかかわって紹介される井深梶之助氏だ。氏は、14歳で会津戦争を経験している方だが、明治学院の創設者ヘボンに次いで総理(現学院長)となった方という。
 「明治学院百年史」によれば、信氏の明治学院への進路決定にはかかわってはいないとのことだが、「兵戈無用」の石碑を建てた西連寺住職は気になさっていたのではないかなと想像する。

 このコラムでは、その井深氏が怒りを爆発させたことがあるとして、次のようなエピソードを紹介する。
 「明治」が終わりを告げた時、乃木希典大将が妻と自決し、天皇に殉じた。
 日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定した。
 万世一系の天皇を中心に据え、欧米に追いつき追い越すための富国強兵をしゃにむに進める国家レジームを追求した果て、無謀な戦争で滅びた敗戦までの日本。
 国家レジームの最初の犠牲者は会津だった。その理不尽さを痛感する梶之助は、天皇制国家のためなら、国民に死をも求めるレジームの不健全さを見抜いたのだろう

 井深氏が乃木希典大将夫妻の自刃を知ったのは、大葬からの帰途であったいう。そのことから、明治45年9月13日の日記ということが分かる。この部分を「明治学院百年史」で確かめる。
 (日記には、)「実ニ意外千万悲惨ノ極ナレトモ実ニ困ッタ事ナリ。大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ現表ナリ」と記している。井深は、乃木夫妻の殉死に対し反対の態度をとった。(明治45年)9月17日、学生に対し乃木の殉死について行った講話においても「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と説いた。

 コラムでは、信の評伝づくりに当たった元学院長の久世了さんの言葉を借りて井深氏が「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」事を記し、信氏が特攻兵として亡くなり「大君の(おおきみのしこのみたて)」と呼ばれることになったことと対比させている。
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by shingen1948 | 2017-05-18 09:16 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 西蓮寺の碑に刻まれる「兵戈無用」が恒久平和を祈る言葉であり、信氏が涙した祈りを忘れてはならないと建立されたということだ。
 その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和19年4月20日の日記から「明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。」が刻まれる。

 その日の日記の全文を確認する。
 急に梁川が読みたくなった。
 彌陀の誓願不可思議にたすけまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心。
 単純なるもの、は美しい
 素朴なるもの、は美しい
 純真なるもの、は美しい
 おおらかなるもの、は美しい
 編上靴の配給を受くる時、自分の飯をもらふ時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。
 明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。

 先に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和20年1月18日の日記から抜粋した言葉も刻まれることを記したところだが、【朝日新聞】コラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)が、戦争を憎悪し、軍隊を嫌悪した言葉として紹介するのは、そのまた後半の次の部分だ。
 今次の戦争には最早正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉、浅ましき哉人類よ、猿の親類よ。

 その日の日記全文を確認する。
 歩兵将校で長らく中シナの作戦に転戦したかたの話を聞く。女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。
 俺は航空隊に転科したことに、ひとつのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかも知れないが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
 人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対しあう民族は各々その滅亡まで戦をやめることはないであろう。
 怖ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親戚よ。
 「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)にこんな記載も残ると紹介される次の文については、まだ確認ができていない。
 「過去において身につけた筈のインテレクト(知性)は一体どこに影をひそめてしまったのであろうか。そこにあるものは喧騒と食べ物の話のみ」
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by shingen1948 | 2017-05-17 09:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)