地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく」で、長谷川信氏の碑を訪ねた事を次のように整理した。
 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 その場所についての問い合わせがあったので案内を兼ねて記す。
a0087378_1143087.png 地図で越後街道とあるのは、現国道49号だ。その右が郡山方面、左側が会津若松方面だ。
 郡山方面からは、遊覧船の発着所のある長浜を過ぎて、日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入る。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開ける。

 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。


a0087378_11502417.png これは、その部分を拡大した地図だ。
 その近くで目立つのは地蔵堂だが、長谷川信碑はもっと右手に少し進むと、左手に見える。

 旧二本松街裏街道を中心に来ることも出来るが、戸口集落までの道筋が狭くて曲がりくねっている。また、十六橋には、小さな車しか通れないように、脇にガードがついているので、通りにくい。
案内した道筋が広くて安心に通行できる道筋だと思う。
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by shingen1948 | 2017-10-09 11:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
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by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(2)
 「戦争経験を聴く会語る会」に参加された方の講演メモから、信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要部分をお借りする。

 特攻4隊は昭和20年(1945)2月10日満州新京(現・吉林省長春)で以下の特攻隊四隊が編成される。この中の誠第三十一飛行隊(武揚隊)が、長谷川信氏が所属する隊だ。
 〇 武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 15名 機種・一式戦
 〇 扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 15名 機種・九七戦

 武揚隊=と号第三十一飛行隊には、以下の15名が所属する。

 山本  薫  中尉 23歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和20年5月13日 徳島
 五十嵐 栄  少尉 24歳 特操一期  特攻戦死 昭和20年5月13日 山形
 柄澤甲子夫  伍長 21歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月13日 長野
 高畑 保雄  少尉 22歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年5月17日 大阪
 五来 末義  軍曹 19歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月17日 茨城
 長谷部良平  伍長 18歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和20年5月22日 岐阜
 藤井 清美  少尉 24歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年7月19日 京都
 長谷川 信  少尉 22歳 特操二期  戦死   昭和20年4月12日 福島
 西尾 勇助  軍曹 20歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 千葉
 海老根重信  伍長 19歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 茨城
 飯沼 芳雄  伍長 19歳 少飛十四期 戦死   昭和20年7月19日 長野
 中村 欽男  少尉     幹候    生還
 力石 文夫  少尉     特操二期  生還
 吉原  香  軍曹     航養十四期 生還
 春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

「会津の「わたつみのこえ」を聞く32」でふれたように、ここで力石文夫氏とされる生還者は、「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏とされる方と同じ方だろうと思われる。
 また、ここで中村欽男氏とされる生還者は、「明治学院百年史」の中村メモ者である「中村敏男(大分県在住)」氏だと思われる。この方は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23904097/

 「会津の「わたつみのこえ」を聞く36」で最終的に確認したように、長谷川信氏の菩提寺に奥さんと尋ねて来た方は、生還者の吉原香軍曹(茨城県出身)だと思われる。
 この方は、済州島へ飛来した時点で機が不調を起こして不時着したとのことだ。この時に怪我を負ったようだ。
 この方は、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報とつながる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとあるその「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23913509/
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by shingen1948 | 2017-09-19 10:15 | ブロクとわたし | Comments(0)
 「会津へ『わたつみのこえ』を聞きにいく⑯:戸ノ口の風景とその変遷⑥」で記したように、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さったのは木村健氏だ。
 その木村氏が、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報やNHKラジオ深夜便出演を機に得た人脈を通して信氏の所属部隊の様子や信氏の最後の状況に至る経緯にかかわる径なども明らかになってきたようだ。その冊子が近々出版されるとのことだった。

 それが、「Web東京荏原都市物語資料館」のページを確認したら、「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」と題して出版されたようだった。

a0087378_100252.jpg 帯に紹介される「知覧だけでない新たな特攻出撃の史実を掘り起こす」というのに、信氏の所属した「武揚隊」も含まれているように思われる。
 「愛機に「必沈」と書き入れる武揚隊の山本薫隊長。松本-新田原を経て、兄弟隊の武剋隊に約1 か月半遅れて、1945 年5 月13 日台湾八塊より発進。沖縄西方海上の敵艦に突入、散華。彼の長文の遺書も発見された」と紹介されるのが、信氏の所属した隊の隊長さんだ。

 読んでみたかったが、価格が自分の懐具合に比して高かった。
 「ライフログ」は、本当は読んだ本を掲げる趣旨であるらしいが、今回は紹介の意味で掲げさせていただいた。先にも記した通り、自分を長谷川信氏の世界に導いて下さったことに対する感謝の気持ち。
 ただ、現在のところ紹介のページまでリンクできていないので、とりあえずここから「Web東京荏原都市物語資料館」がリンクさせているページにつないでおく。
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by shingen1948 | 2017-09-18 10:00 | ブロクとわたし | Comments(0)
 信氏が通った戸ノ口の風景にかかわる変遷を確認していくと、水の利権にかかわる情報と結びついてしまう。猪苗代湖の自然を楽むという感覚とは真逆の見え方だ。
 しかも、その利権にかかわるのは、今回のいまわしい原発事故を起こし、多大な被害をもたらした東京の電力会社だ。
 その東京の電力会社が、猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた。今回は、その経緯を確認したということだ。

 「会津における水力発電の歴史と活用(清水実咲季)」によると、そのスタートは、猪苗代水力電気株式会社が猪苗代第一・第二発電所の電力を需要地東京に売電したことなのだそうだ。そして、その電力会社が、この時に供給していた東京電灯と合併したという経緯とのことだ。
 ついでに、その事も整理しておく。
a0087378_8154215.jpg これは、昨年家族を案内した時に撮った猪苗代第二発電所の写真だ。
 この発電所は、猪苗代第一発電所建設のわずか2年半後の大正7年に建設されたとのことだ。どちらの発電所も、東京駅を設計した建築家辰野金吾氏の設計により建てられたとのことだが、第一発電所は建て替えがあったが、こちらの第二発電所は立て替えられていないという。
 開発したのは、どちらの発電所も猪苗代水力電気株式会社とのこと。出力は第一発電所 62,400kWで、第二発電所37,500kW。

 この猪苗代第一発電所から需要地である東京・田端変電所に送電することになるのだが、この200km以上の長距離110kV送電は、日本で初めてだったとのことだ。
 ちなみに、世界初の100kVの特別高圧送電に成功したのは米国で明治40 年だったという。

 当初、猪苗代水力電気株式会社は、東京へ供給する権利は得て送電していたものの、東京の全需要は40,000kWに満たなかったという。その上、東京では東京電灯・東京市電気局・日本電灯の三社が需要家獲得競争を繰り広げるという状況だったとのことだ。
 今では考えられないが、過剰供給気味だったとのことだ。
 それで、当初は「王子電気軌道」などの需要家にわずかな量を供給することで営業を開始していたとのことだ。

 採算に合う電力供給ができるようになるのは、東京電灯に猪苗代第一・第二発電所の発電電力の大部分を東京電灯への供給できるようになってからだとのことだ。
 その東京電灯への卸売が事業の柱となるという経緯があって、猪苗代水力電気と東京電灯とが合併するようになったということのようなのだ。
 大正12年9月に発生した関東大震災の復興のための電力供給として、23,200kWの猪苗代第三発電所、37,100kWの第四発電所が建設されるという経緯もあるようだ。

 今回の整理で、水利権について見え方が変わったことがもう一つある。
 先に、「東京の電力会社が猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた」とした。
 今回、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる発電用の水を小石浜取水門からの取水に切り替えたことについて整理した。
 そこで分かったのは、会津側に流れる水を分岐する地点は小石浜取水門から取水した後の地点で、そこまでの実質的な水利権は東京の電力会社のようだということだ。

 現在、会津若松市の浄水・下水・消雪水はもちろん、鶴ヶ城の堀や御薬園の水のほとんどの水環境を戸ノ口堰に委ねているらしいのだ。
 その戸ノ口堰は、その取水の段階で東京の電力会社の水門を経由しているということのようなのだ。
 つまりは、東京の電力会社の水利権がかかわるのは猪苗代湖や裏磐梯三湖にとどまらないということだ。会津若松市の水環境すべてとも深くかかわっているという事らしいということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-17 08:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏がかかわる戸ノ口の風景について確認してきた。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉には、猪苗代湖の湖面低下がかかわるらしい。その湖面低下には、発電用の水を小石浜取水門からの取水することなったことがかかわるとのことだが、それは、より深い処からの水を利用するという利水方法変更によるものだということだ。
 その風景の変更の情報を地図から拾って図示すると、こんな感じだろうか。
a0087378_931785.png 元々の戸ノ口堰、発電用の水、布藤堰の取水口は、十六橋水門だ。
 しかし、現在のそれぞれの取水口は、そこから下流の位置になる。
 小石ケ浜水門から取水された水は、隧道を使ってその位置まで一気に落とし込まれるようだ。
 そこから取水された戸ノ口堰の水は、更に隧道を使って最短距離で八田野原まで流すということのようだ。

 これ等の情報源だが、十六橋水門についての地元情報は、安積疎水にかかわって得られることが多い。日橋川は猪苗代湖から会津に流れる川筋であり、十六橋の西側から取水される戸ノ口堰も、その東側から取水される布藤堰も会津に流れる水路である。しかし、その情報は安積疎水側から発信されるのだ。
 
 それぞれの堰についての地元情報は、布藤堰は現磐梯町から、昔の戸ノ口堰については旧河東村から得やすいが、八田村から先の情報が絡むと、会津若松市の情報確認が必要になるようだ。

 布藤堰についての磐梯町の情報では、その開削は宝永3年(1706)で、大谷川の替え水を目的として、十六橋の下流右岸銚子ノ口を取水口と し、布藤を経て大谷川に落水させたものとしている。

 戸ノ口堰の前身である八田野堰についての河東町の情報では、その開削は元和9年(1623)八田野村肝煎内蔵之助が、会津藩主蒲生氏郷に願い出たのが始まりとする。
 藩公は、奉行志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったが、財政難のため2年で中止になったという。
 それで、内蔵之助は、寛永5年(1628)に私費で2万人の人夫を使い蟻塚まで工事を進めたが、資金が続かずに中断したという。

 会津藩主が加藤明成に変わったのを機に再び願い出ると、工事再開が認められ、寛永13年(1636)には八田野分水まで開削できたという。
 寛永15年(1638) には鍋沼まで到達し、それから3年程で八田野まで支川が造られ、7つの新しい村ができたとのことだ。

 ここまでで八田野堰完成と見る見方がある一方で、八田野分水まで開削できた寛永13年(1636)を完成と見る見方もあるようだ。この時に「八田野堰」と名付けられ内蔵之助が八田堰の堰守に任じられからのようだ。

 ここから会津若松の城下まで開削するようになるのが元禄6年(1693) のようだ。
 北滝沢村の肝煎惣治右衛門が、滝沢付近までいつも水を持ってきたいと願い出たとのことだ。この時に八田野堰から戸ノ口堰に改名されたのだという。

 なお、八田野まで支川が造られた後、会津若松までの開削の前に、河沼郡槻橋村の花積弥市が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田開拓をするという広がりもあるようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-15 09:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_9152170.jpg 十六橋水門を日橋側から眺めている。
 現在は、洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだが、この時にはわずかに流失させているように見える。この前の長寿台風の停滞による長雨とのかかわりがあるのかな。
 堤防で囲われた流域が日橋川本流で、その手前一門が旧布藤堰取水門で、日橋川本流の奥の2門が旧戸ノ口堰取水門だったということなのだろうと思う。

 今まで、この十六橋水門については、安積疎水にかかわる情報と共に流れる見え方をもとに整理している。しかし、猪苗代湖という自然湖をダム化したという見え方もあるようだ。そのことによって、猪苗代湖の水は資源化されたということになるようだ。

 その見え方でこの水門を眺めれば、この水門は資源化された猪苗代湖の水を増やす装置で、今まで自然に会津側に流れていた日橋川本流と、布藤堰の利水・戸ノ口堰の利水を郡山側の安積疎水が手中に収めたという見え方になるのだろうか。

 基本的に、資源化された猪苗代湖水を最大限に利用するのには、一つは水をせき止め増水させるという方法によるとのことだ。この十六橋の水門が現役で利水に供していた時点では、こちらの方法だったということだろうか。

 もう一つの方法があって、それはより深い処から取水するという方法なのだとか。
 小石浜取水門からの取水というのは、こちらの方法のようなのだ。
 「会高通史」が、新しい水路が出来る頃から「湖面低下が起こり、湖面旧に復す見通しが暗くなった」とあることとかかわるようなのだ。「街道Web」のTUKAさんから、「新水路」というのは、小石浜取水門のこととのアドバイスを受けて、確認を進めてきたところだ。

 「会高通史」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる情報を拾う。
 その一つには、生徒の変質や端艇部の競技スポーツ化があるようだ。
 生徒の変質については、猪苗代の行事に生徒はレクリェーション気分で参加するようになったことを挙げている。そして、端艇部の競技スポーツ化については、主力が荻野ダムの県営漕艇場に移ったことを挙げている。
 しかし、「明治32年以来50有余年幾多の俊秀を育み、会中健児の魂の憩いの場所であった戸ノ口から中田浜に移らざるを得なかったのは、「いかんせん湖面旧に復せず、先の見通しも暗」かったという事のようだ。
 「いかんせん湖面旧に復せず」というのが、先に記した湖面低下らしい。再掲する。
 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」
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by shingen1948 | 2017-09-13 09:19 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津中学校端艇部が明治32年(1988)年に戸ノ口に艇庫を構えて活動を開始し、昭和26年(1951)に、艇庫をこの地から中田浜に移動するあたりの十六橋の変遷にかかわる情報を、「猪苗代土木事務所」の「管理施設の紹介」から読み取る。

 まずは、明治期に会津盆地へ流出する水量を調節し、郡山盆地に引水して安積野を開拓しようとする国営開拓事業で十六橋に水門が建設された。
 当初は十六眼鏡石橋水門で、1門ごとに8枚の板をはめ込む木製扉(角落し式)を、人力で開閉していたが、明治28年(1895)に手動捲上げ式になったということだ。
 この辺りが、会津中学校端艇部創設期の頃だろうか。

 次に、十六橋と水門が分離される。この風景が、長谷川信氏がここに通っていた頃の原風景だろうか。
 明治時代末から大正時代にかけて、日橋川で発電所群の建設が始まり、その発電用水確保が課題になり、明治45年(1912)~大正3年(1914)にかけて、十六眼鏡石橋水門はその電力会社の費用寄付によって、鋼製で電動捲上げ式の「十六橋制水門」に改築されたとのことだ。
 水門が電動捲上げ式制水門になったことに伴い、十六橋は水門上流側に分離され橋脚が鉄パイプ製の道路専用橋となって、現在のような景観になったとのとこだ。

 更には、景観として変わらないが、実質的な機能は小石ヶ浜水門に移ることになるようだ。
a0087378_1411712.jpg これは、十六橋手前の案内板に掲げられたものだが、この写真が「十六橋制水門」と「小石ヶ浜水門」などの位置関係が分かりやすいと思う。

 昭和17年(1942)にできたこの小石ヶ浜水門は、発電所と直結する取水専用水門なそうだ。この時点で、十六橋水門は洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだ。

 会津高校のホームページでは全国大会出場を機に艇庫をこの地から中田浜に移動することにしたとする。
 しかし、実際には、この水門機能の移動によって水深が変化してしまい、この地から撤退せざるを得ない状況になって中田浜に移動したということになったようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-12 14:03 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日の整理で「戸ノ口原」について確認した部分は、他所者にとっては分かりにくい。それでも、地元では当たり前の事としてあまり説明されないようだ。
 例えば「戸ノ口原古戦場」だが、地図上の表記は「笹山原」だ。そして、木村氏が辿り着いた集落も、地元の方は戸ノ口原と呼称しているのだ。
 この辺りに広がる平地を、あるときには大野原といい、またある時には笹山原といい、更にまた戸ノ口原ともいうという状態だ。
 自分なりに読み取った事を整理しておく。

 この平地には旧村の村界があるようだ。
 おおよそ旧二本松裏街道の北側が河東村で、南側が湊町ということのようなのだ。
 その河東村側ではこの原を大野原といい、湊町ではこの原を笹山原というようなのだ。そして、どちらも、戸ノ口に近いという感じで、戸ノ口原とも呼称するということのようなのだ。

 その「戸ノ口」という呼称についても、この地独特の意があるようだ。
 若松の入り口である戸ノ口港のある村である向戸ノ口村あたりを戸ノ口というようなのだが、戸ノ口村というのは、現猪苗代町側にある。ここには、かつて郡役所も置かれたとのことだ。

 向戸ノ口村というのは、その戸ノ口村が江戸に米を運送する為に赤井村の岸辺に二軒の船宿を営む向戸口船問屋を設置したところのようなのだ。
 ただ、若松からみれば、この向戸ノ口村こそが、若松にとっての湖上、陸上の交通上の要所であり、軍事上の要所でもあったということだ。それで、向戸ノ口村付近を「戸ノ口」と呼称しているのではないのかなと思うのだ。
 「戸ノ口原」というのは、その「戸ノ口」である「向戸ノ口村」手前の原という意を含んでいるのだろうと想像するが、どうだろうか。

 実は、木村健氏はもう一つ勘違いをなさっているような気がするのだ。
 見え隠れした水路を「安積疎水」と思っているのではないかなと思えるふしがある。

 氏が歩いた付近の発電所用の水路以外に見え隠れした水路は、戸ノ口堰の中でも最も古い時代に開発されているはずなのだ。
 ゴルフ場付近の分岐点あたりまでは、最初に開発されて「八田野堰」とも呼称されいていたとされる付近だと思うのだ。
 氏が、「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎると畑地が見えた農地を「開拓農地だろうと思った」のは、「安積疎水」との勘違いによるものだと思うのだが、どうだろうか。

 これは、この水門にかかわる情報が「安積疎水」とのかかわりで見かけることが多いためだろうと思われる。
 日橋川も戸ノ口堰も布藤堰も会津方面に流れているのだが、十六橋の水門の管理という名目で、「安積疎水」が日橋川と共に戸ノ口堰や布藤堰の取水まで手中に収めていたこととかかわることなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-09-11 11:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 猪苗代湖を百駄船で運ばれてきた猪苗代第一発電所送電線や資材、それに周辺各浜から採取されて達磨舟に積まれた砂利や砂は、戸ノ口港あるいはその近くで荷揚げされる。
 荷揚げされたそれらの資材は、工事専用軌道で工事現場まで運ばれたという。

 その工事軌道跡については、「街道Web」の「猪苗代第一発電所工事軌道(河東町)」に「戸ノ口専用鉄道」として、その詳細が記されている。
 http://kaido.the-orj.org/stop/dai1/dai1-04.htm

 ここまで確認作業を進めてきたのは、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さった木村健氏が、この「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を使って長谷川信氏の石碑を訪ねてきているらしいことが分かったからだ。
 その取材については「下北沢X新聞(1676) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5~」に記されるが、この様子を確認するための下調べということでもあったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51704035.html 

 氏は、本当は長谷川信氏と同じように会津若松市から20㎞の道を歩くことも考えたようだが、無謀なので磐越西線磐梯町駅からの歩きとしたとのことだ。

 その描写から、まずは、現・磐越西線磐梯町駅(旧大寺駅)から、猪苗代第一発電所地内まで敷設されたとする工事専用軌道廃線後の道筋を歩いたことが分かる。
 そこで、一度不安になって駅まで戻り、その道筋でよいとの案内を受けて、その奥まで進み始める。発電所の奥の橋を渡って突き当たった道筋が、「街道Web」が紹介する「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋なのだと思う。

 次に、その「戸ノ口専用鉄道」廃道後の道筋を東進したのだと思う。
 ゴルフ場を過ぎて「そのうちに大きな水路にぶつかった」というのが、現在の「戸ノ口堰取水口」辺りの風景なのだろうと思う。
 そこまでに見え隠れしていた水路についての描写はないが、それが発電所用の水路で、この水路の工事用資材と膳棚山から猪苗代第一発電所に落とし込む水路の資材が、この「戸ノ口専用鉄道」で運ばれていたのだろうと想像する。

 木村氏が「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎたあたりで訪ねた数軒の集落は、戸の口原の集落とのことなので、別名大野原の集落だろうと想像する。(氏は、ここを戸ノ口集落の本村と勘違いしているように思う)
 そこから軽自動車に乗せられて「戸ノ口原古戦場」に向かい、二本松裏街道の道筋か、湖畔沿いの道筋にそって向戸ノ口を経由して十六橋に向かったのだと思う。
 そして、その十六橋を渡って地蔵堂を過ぎて「長谷川信碑」に辿り着いたということのようなのだ。

 木村健氏は児童文学作家とのことだが、自分が持つ児童文学作家という肩書からイメージする姿からは想像できない程の行動力に驚く。
 自分には地元意識があったのだが、その意識だけでは彼の行動の詳細を捉えることはできなかった。
 いろいろな確認を通して、ようやく彼の歩いた道筋とその背景が想像できたということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-09 16:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)