地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 福島散歩の中で感じることがもう一つある。それは、敗れた者を受け入れることだ。
 例えば、源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れてくる。途中、信夫荘の佐藤氏ともかかわりあうようだが、その義経を東北は受け入れている。
 戦いに敗れたものが東北に逃げてくるのは、政治の中央から遠く離れているからというのが最大の理由ではあろうと思う。しかし、それだけではなく、東北には敗れた者を受け入れる懐の深さがあるのではないのかとも思うのだ。
 阿弖流為の時代から、東北は中央といわれる西の方から侵略され続けた地だ。戦うつもりなどないのに、勝手に征討の対象とされてきた権力の被害者が住む地だ。敗れた者に対する共感や同情心が強いのだと思う。
 ただ、伊達氏自体も、西からの侵略の一員としてやってきた勢力だ。政宗が、なぜ発覚したときの危険を冒してまで幸村の遺児を受け入れたのかは分かっていないようだが、この敗れた者を受け入れたことも、この東北の懐の深さとかかわるような気もするのだ。
 伊達氏にも敗れた者に対する共感や同情心が醸成されていたのだとするならば、それは東北に土着することによって醸成された価値観なのかもしれないのかもしれないなとの思いだ。

 ドラマだが、緊迫した織田信長との謁見シーンが見どころの第4話『挑戦』のあらすじは前回記したところだが、これはフィクションらしい。
 大河視聴でいつも参考にさせていただいている「坂の上のサインボード」では、実際には、織田家の代官として東国取次を任されていた滝川一益を介しての臣下の礼をとっただけとみている。ただ、織田家に従属する証として娘を人質に送り、信長の好みそうな黒芦毛の馬を送ったというのは事実で、信長が昌幸に送った礼状が残されているとのこと。
 それにしても、ドラマとしては緊迫感あふれる見事な展開でひきつけられた。

 その後の本能寺の展開はあっけない。
 石田三成が叱責されるワンシーンで「敵は本能寺にあり」となって、本能寺の変が勃発したと思ったら、信長が亡くなったとのナレーションで、この回で次の時代を迎えてしまう。 
 これも、真田家がその時代の渦の中に巻き込まれるという緊迫感の演出かな。
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by shingen1948 | 2016-02-03 08:37 | Comments(0)
 片倉小十郎は、その敵将幸村から子女たちの将来を託される。観光的には、これを幸村の片倉小十郎への信頼とその信頼に応えるべく快く引き受けたという美談で捉え語られる。
 しかし、幸村は、最後の日に家康本陣に猛攻をかけ、一時は家康に死を覚悟させたという。徳川方に取ってみれば、そのまま許すことのできない敵将だ。当然、豊臣方諸将の子等は捉えられ処刑される対象であったろうと思われる。
 それなのに、女子のみならず男子まで自らの領地である白石領内で養育したという。これは重大な決断のはずだし、当然、主君である政宗の許可をとっているはずだ。
 つまり、伊達政宗は、家臣が残党狩りの対象になるべき人物を匿うことを許可したということだ。
 大八は、幕府の目を避けるため、片倉久米介と名を変えたとか、白石城外で育てられたとか言い伝えられているようだ。また、「大八は、京都で7歳の時に死去した」という情報が流布したり、幸村の架空の従兄弟の息子との系図が作られたりしたともいわれているようで、これには当然政宗もかかわっていたとの見え方もあるようだ。
 福島散歩の中では、決められた器からはみ出して活動する伊達氏の印象を持つのだが、その印象と重なるような気もする。

 昨夜も放映された「真田丸」第4話『挑戦』を視聴する。
 昌幸は、織田信長との謁見のため、信繁を連れて諏訪へ向かう。「Yahooテレビ」の情報からそのあら筋を確認しておく。
 「真田丸」第4話『挑戦』あらすじ
 織田信長(吉田鋼太郎)との謁見(えっけん)のため、昌幸(草刈正雄)は信繁(堺雅人)を連れて諏訪へ向かう。謁見を許されたとはいえ、その場で捕らえられ殺されることもあり得る。織田の本陣で落ち着かない信繁の前に、徳川家康(内野聖陽)が現れる。家康はかつて昌幸によって苦い敗戦を喫していた。昌幸と信繁は臣従を受け入れてもらうため信長との対面に臨むが、家康が同席し、真田家を裁くことになる。一方、真田の里では信幸(大泉洋)が留守を任されていた。信幸は姉の松(木村佳乃)が武田を裏切った夫・小山田茂誠(高木渉)をひそかにかくまっていることを知り、激怒する。(Yahooテレビ)
 
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by shingen1948 | 2016-02-01 17:05 | Comments(0)
 NHK大河ドラマ「真田丸」放映には、蔵王町も盛り上がっているとのことなので、そちらも確認する。
 白石に来た大八は、仙台藩士に取り立てられて片倉四郎兵衛守信と名乗り、仙台藩領内に領地を与えられる。その後、刈田郡の矢附村と曲竹村などを知行地として与えられるのだが、これらが現在の蔵王町内の地域ということのようだ。
 それで、蔵王町も盛り上がっているというこのようだが、もっと深い縁もあるようだ。
 寛保3年(1743)仙台真田氏3代信成氏が、自らの領地から刈田郡曲竹村内30石余を割いて、弟の英信氏に与えて分家を立てるようだが、その分家の所在地も同所であり、現蔵王町であるとのことだ。
この分家を立てたことについても、真田家の自家の生き残り再優先の考え方とのかかわりで説明されるものを見る。
 仙台真田氏は片倉を名乗っていたのだが、正徳2年(1712)に真田姓に復帰できたとのことだ。これに続いて、より確実に真田幸村の血脈を絶やさず後世に伝える手段を講じようとしたとの憶測のようだ。
 分家があれば何らかの事情で宗家の後継が絶えたとしても、分家をもって幸村の血脈を伝えていくことができると考えたのではないかということのようだ。
 現在、NHK大河ドラマ「真田丸」では、幸村の父昌幸が天下取りの野望渦に囲まれた環境の中、その自家の生き残りをかけて奮闘中というタイミング。
 前々回放映の「真田丸第2話『決断』」では、北条につくか上杉につくかの判断を迫られる環境設定。
 いつも大河視聴の参考にさせていただいている「坂の上のサインボード」によれば、実際には、昌幸は早くから武田氏の滅亡を予測していて生き残りの道を模索していたことが史料で明らかなのだとか。
 その一つが北条氏からの書状。勝頼の死の5日前には叔父の矢沢頼綱に沼田城の守りを強化するよう指示した書状を送っているという。その一方で、勝頼の死の翌日付で北条氏邦が昌幸宛に送った書状では、以前から北条氏に帰属を打診していたことが確認されるという。
 更に前回放映の「真田丸第3話『策略』」では、織田信長に下ると決めることになった昌幸が、生き残りをかけて、真田家を売り込むために一芝居うったとのこと。この回、所用があって見逃している。
 「Yahooテレビ」の情報から「真田丸」第2話『決断』と第3話『策略』のあらすじを確認しておく。
 「真田丸」第2話『決断』あらすじ
 信幸(大泉洋)、信繁(堺雅人)ら真田家の一行は、武田家の本拠地・新府から父・昌幸(草刈正雄)の待つ岩櫃城(いわびつじょう)へ落ち延びようとしていた。道中、岩殿城へ逃げた武田家当主・勝頼(平岳大)が裏切りに遭ったとの知らせが一行に届く。武田家の滅亡を受け、事態は一気に流動化する。東海の有力大名・徳川家康(内野聖陽)も旧武田領を虎視眈々(たんたん)と狙う。主家を失った真田家は、北条につくか上杉につくかの判断を迫られる。やがて昌幸は、息子たちの前で思いもよらぬ決断を下す。(Yahooテレビ)
 「真田丸」第3話『策略』あらすじ
 織田信長に下ると決めた昌幸(草刈正雄)は、一家を率いて故郷・信州小県郡の真田の里に帰ってきた。信長は、武田の残党を厳しく処分している。昌幸は何とか従属を受け入れてもらうため、小県郡の武将・室賀正武(西村雅彦)を利用した大胆な策を巡らせる。信繁(堺雅人)は思いを寄せる地侍の娘・梅(黒木華)に土産を届けるが、2人の幼なじみである真田家の重臣の娘・きり(長沢まさみ)はそれが面白くない。3人がぎこちない再会をしていると、真田の農民と室賀領の農民との間で小競り合いが起きたという知らせが入る。真田の農民たちを助けるために駆け付けた信繁の前に、意外な人物が現れる。(Yahooテレビ)

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by shingen1948 | 2016-01-31 08:17 | Comments(0)
 「片倉小十郎」と結びつきの深い白石のホームページを確認したら、便乗情報盛り沢山で、充分楽しめそうだ。その中の白石史跡探訪「片倉小十郎と真田幸村」から情報を拾う。
 http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/sanadamaru.html
 二人がかかわりあうのは、「大阪夏の陣」のようだ。

 まずは、「真田信繁(幸村)」の「大阪の陣」での活動の確認。
 次のような紹介になっている。
 「大阪の陣」では、豊臣方の武将として大阪城に入場し、冬の陣においては真田丸を築き徳川の攻撃を防ぎきり、夏の陣では徳川家康を追いつめましたが、後一歩のところで戦いに敗れてしまいました。その戦いぶりから「日本一の兵」とたたえられています。
 幸村は落城前夜自らの死を覚悟し、敵将である片倉小十郎繁長に子女たちの将来を託したとのことだ。
 次に、片倉小十郎側からの「大阪の陣」での活動を確認する。
 「大阪の陣」では、片倉小十郎率いる伊達軍は徳川方で出陣するが、片倉小十郎の活動については、「鬼小十郎」の項で次のように紹介される。
 「大阪夏の陣」、8日月と愛宕山大権現守護所と書いた前立物をつけて出陣しました。黒釣鐘の大馬験を掲げ、伊達の先陣を切った姿が表紙の屏風に描かれています。道明寺口において大阪城ら出撃してきた薄田隼人正兼相、後藤又兵衛基次の軍と相対し、これを打ち破り、その後、真田幸村と激戦を繰り広げ、鬼小十郎の名を天下に馳せ、片倉隊・伊達勢日本一の評価を受けました。
 この「道明寺口の戦い」は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われたもので、この時、大阪城の外堀は、既に埋められていたため、豊臣軍は城を出ての戦いを余儀なくされたもののはず。

 この時、二人は敵として戦っている。片倉小十郎は、その敵将幸村から子女たちの将来を託されたということだが、これを快く引き受けたのだとか。小十郎は、幸村の子供たちを自分の領地である白石へと呼び寄せたとのこと。
 白石に来たのは、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4人なそうだ。この4人のその後だが、阿梅は小十郎の後添えとなっているという。そして、阿菖蒲は伊達政宗の正妻愛姫の実家である田村家第31代当主定広に嫁いだという。
 肝心の大八は、片倉四郎兵衛守信と名乗り、仙台藩領内に領地を与えられて、仙台藩士に取り立てられたということだ。この末裔が昨日整理の仙台真田家ということで、その後14代続いているということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-01-30 08:27 | Comments(0)
 前向きに捉えた言い方をすれば、最近週刊誌の隅から隅まで読む機会があった。
 その中で興味深かったのが、「週刊新潮」の「テレビ番組紹介欄」。そのNHK大河ドラマ「真田丸」紹介記事だ。

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、幕末から明治にかけての時代の勝者側からみて都合のいい話でしかなく視聴することもなく、話題に乗るつもりもなかった。一度興味を失うと、その次の興味も失せてしまうもので、今年度の「真田丸」も視聴するつもりも全くなかったのだ。

 そのテレビ番組紹介によると、1月7日放映の第二話視聴率が20.1%で、20%越えは「八重の桜」以来3年ぶりとの事だった。本当に興味深かったのはそちらではない。紹介の中に幸村の末裔が仙台在住だという情報が読み取れることの方だ。
 「真田丸」紹介文の見出しは「幸村の末裔デフォルメ高畑淳子にいいね」だが、その幸村の末裔は仙台在住らしいのだ。デフォルメされた高畑淳子の演技をベタ褒めしたのは、仙台真田家14代目真田徹氏とのことだが、この方が幸村の直系という。
 これは、散歩を楽しむ者として見逃せない情報だ。この事にかかわって、記事では次のように紹介する。
 幸村と長男の大助は大阪夏の陣で命を落とすが、次男の大八は、伊達政宗の家臣片倉小十郎に引き取られ、現代まで脈々と続いてきたのだ。
 徹氏(仙台真田家14代)は、大手建設会社を定年退職後は歴史研究家として活動している。
 ならば、仙台に大河に便乗した情報がないかと探してみた。
 ぱっと思いつくのは白石城」「片倉小十郎」との結びつき。それで、白石のホームページを確認したら、それなりの情報がみつかった。散歩を楽しむ者にとっては、便乗の情報を得るのは結構楽しいことなのだ。
 もうちょっと探してみようと思う。
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by shingen1948 | 2016-01-29 08:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦の中で、「磐椅王国」のページに掲げられた地図をもとに八手山城の位置をプロットしたところだが読み違えたらしいので修正する。
a0087378_6334678.jpg 「川桁山の西へ張り出した尾根上」という紹介に引きずられたようだ。マホロンの「遺跡データベース検索」で表示された地図を確認すると、白津の方向に貼りだした尾根上で、もっと手前だった。
 ついでに、「会津合戦記」には、「37、建久二年(1191)耶麻郡猪苗代八手山城(白津柵)」として、「建久二年辛亥義運之孫大炊介経連築き住す。亀ヶ城と稱す又白津に柵を築く。建久二年辛亥東西十六間南北九間城代岡部弥彌太郎居る(会津古塁記)」と記されるようだ。
 ただし、「磐椅王国」のページでは、「年代は不明で『会津古塁記』には建久2年(1191)築城、亀城と称すとありますが、その形態から南北朝以降に築かれたものと考えられます。」と解説される。

 もう一つついでに、マホロンの「遺跡データベース検索」では、猪苗代町 八幡字館ノ内地内に「内野村柵跡」も記されるので、これもプロットしておく。
 「会津合戦記」には、「33内野村柵(耶麻郡)大永自天正(1521~1591)」として、「昔恵日寺之代宦小檜山丹波住す。大永自天正之頃子孫同孫六(六郎)居る(会津古塁記)」と記される。

 なお、白津の平野部一帯(白津・白村東・白村西)は、縄文土器の散布地で、猪苗代地方でも1、2に属する縄文時代中期から後期にかけての大きな遺跡で「白津遺跡」としてプロットされている。ちょっと東寄りの「川桁字林口」の「林口遺跡」、「八幡字都沢道」の「都沢道遺跡」では、調査も行われているということのようだ。

 ※調査された「林口遺跡」は、白津集落東側の畑地に立地するようだが、ここは旧石器時代の終末期・縄文時代前期の遺跡のようで、旧石器時代の石器が発掘されたようだ。「磐椅王国」のページに、「尖頭器・彫刻刀石器・スクレイバーがみられ、これらは倒木痕の堆積土中より一括して発見されていますが、恐らく当時は木の根元にデポ(埋納)として置かれていたものと考えられます」との紹介。

 今回は、沼尻鉄道廃線跡の散策だが、情報としては、会津への道・伊達政宗とかかわるので、そちらに分類しておく。
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by shingen1948 | 2014-08-27 06:39 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 「野田村郷土史」によれば、仏母寺は、慶長3年(1598)上杉家臣の上堺彦六の子堺左馬之助が、天正13年2月17日に亡くなった母(上堺彦六の妻)の菩提を弔うために創建し、米沢東源寺12世照山関良和尚を勧進して開山されたと読み取れる。
 「母(上堺彦六の妻)の菩提を弔う」という事とかかわるのが、参道右手の歴代和尚の墓の中の墓碑なのだと思うが、まだ定かではない。
a0087378_3283674.jpg 円光寺の案内で、円光寺観音堂が「当地方の新西国33カ所中の第30番の札所」であることを確認したが、この時に、その前の第29番札所が一杯森の正眼寺であり、第31番札所が仏母寺であるらしい事を確認した。一杯森の正眼寺の観音堂は確認できていないが、こちらが仏母寺の観音堂かなと思うがどうだろうか。

 地域という固定的な視点に立てば、寺が仏眼寺から仏母寺に変わったということになるが、これは地域をおさめる権力者の交代に起因する。
 仏眼寺が去るきっかけとかかわるのが、天正19年(1591)8月から9月頃の豊臣秀吉の安堵。
 豊臣秀吉は、政宗から伊達郡・信夫郡・長井郡などを没収し、替わりに葛西・大崎地方の12郡を政宗に与え、伊具・名取・亘理など8郡を安堵する。これで、伊達郡・信夫郡だけは残してほしいという政宗の願いが実らず、総石高62万石で面目を保ちながら、米沢城から岩出山城(宮城県大崎市)へ移る。この顛末とかかわっての仙台仏眼寺移動と渡利の仏眼寺移動なのだろう。

 仏母寺創建の慶長3年(1598)は、急死した氏郷に替わって越後から上杉景勝が会津若松城に入った年と重なっている。上杉氏が、蒲生旧領と佐渡国三郡、出羽国の一部を合わせて120万石を領すことになるのだが、伊達郡と信夫郡もその上杉領に含まれる。多分、その時に、上堺氏がこの地の支配を担っていたということなのだろうと想像する。
 ただ、伊達政宗の祖古来の地である伊達郡と信夫郡奪回の野望は続いていて、慶長5年(1600)7月の「関が原の合戦」の年の8月から10月に、徳川家康の命に背いて刈田郡の白石城を攻め取った後、大枝城などに陣を置いて梁川城などを攻める。この時に、上杉氏配下の須田長義(梁川城代)、本荘繁長 (福島城代)らの抵抗で完全に夢破れるという経緯をたどるという感じだろうか。
 この時、伊達氏のほとんどの家臣たちは新領地へ移るだろうが、その一部は残るという状況の中に、上杉家臣団がやって来るという複雑な事情も絡んでいるのだろうなとも勝手に思う。

 この地の支配を担ったと思われる上堺氏がどなたという事だが、今のところ、「越後長男・上杉氏雑考」というページで、上杉家臣の上堺彦六氏が、永禄年中の第五次川中島の頃、飯山城を挟んだ武田信玄VS上杉謙信の話の中に登場するらしいという情報確認まで。
 http://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/a02213ec6a1036226a22b5061039e6f0
 「永禄7年(1564)4月20日、上杉輝虎(謙信)が 35歳の頃、信州飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸に宛てて書信を発し、飯山城の防備を強化するため、安田顕元(譜代衆。越後国安田城主)と岩井昌能(信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を派遣することを伝える……」との情報だ。
 この時に謙信方についた地域の豪族(外様平衆)の一人として、上堺彦六氏の名が見えるらしいという孫引の確認まで。
 上堺氏のその後や天正13年(1585)2月17日の上堺彦六氏の妻の悲劇なるものは確認できていない。
 「野田村郷土史」がいうように、確かに、伊達政宗氏は、天正12年(1584年)に伊達家の家督を継ぐと、積極的な勢力拡大策を採ってあたりかまわず戦いを挑んでいる。先に小手森城・小浜城の攻陥、人取橋の戦いなど整理している。ただ、天正13年の時点で上堺氏とのかかわりは確認できないでいる。
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by shingen1948 | 2014-04-14 05:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 小森舘前の道筋の先というか、耳取川筋先というか、そちらに鎌田舘がある。
 ここは、2009年2月に「鎌田城」として整理している。土塁が残り、舘跡のイメージがしやすいところだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7989181/
a0087378_603348.jpg この鎌田舘には、農面道路を下ってくるか、福島方面から街道筋を通ってくる事が多い。それで、今回のこちら側から近づくのは初めてで、その見え方も違っている。そのせいか、今回、鎌田公民館に鎌田舘跡の石碑が建っているのに気づいた。現地にたどり着くと、大概ぐるりと回ってみるのだが、その時に気づいていない。新たな見え方の成果かな。
 先の散策で知ったのは、耳取川筋は、舘の南から東にかけて流れていたものを、付け替えたとのこと。それなら、耳取川筋は、この公民館前辺りを東に流れていたのかな。

 この鎌田氏は、戦国時代には伊達氏の家臣となっていて、天文の乱では、嫡流の鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄の庶流の鎌田与総衛門が晴宗について加恩され、名取郡の鎌田助六は稙宗について失脚したという事だった。
 ここ鎌田氏の子息は、天正18年(1590)伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を後にしたとか。

 冨塚舘の冨塚氏は、天文の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収され、冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されている。その領地は、晴宗方だった大塚将監に与えられたとか。
 天文の乱で、どちら方についたかで、大きく運命が変わったという話らしい。
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 鎌田舘跡の石碑が建つ公民館前の道筋を進むと、街道筋との交点に、鎌田村の道路元標が建つ。

 なお、この鎌田舘の跡には、鎌秀院が建つのだが、その墓地には、寛延農民一揆の寛延の三義民といわれる猪俣源七氏の墓が建つ。このことについては、先に「寛延農民一揆~寛延三義民猪俣源七」として、整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8055428/
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by shingen1948 | 2013-04-18 06:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 台畑周辺は、松川が形成した下位砂礫の段丘だといわれる。その台畑周辺の散策を通して、その高台の感覚を確認できた。ここに、台畑のこの高台には平安時代の住居跡とされる遺跡と平安時代の水田跡の遺構があること、そして、弥生時代の水田遺構も重なっているということもイメージする。更に、奈良時代初期には、この高台は住居跡ではなく、東斜面に窯跡と思われる遺構があるとも……。
 ここに、その高台の南縁に相当する冨塚前遺跡のイメージが重なる。ここには、時代的な空白を埋めるかのような水害にあったと思われる古墳時代の住居跡があり、鎌倉・室町時代の「屋敷の区画溝の遺構に青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘され」があり、これが富塚舘と無縁とは思えないということらしかった。
 その富塚舘は、字冨塚とも字冨塚前もかかわるとかという曖昧さは残しながらも、台畑の高台南縁を意識させた。
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 この散策で、幾つかの見え方に変化があるのだが、その一つがこの台地から東側に下る耕地に適する地帯としての見え方なのだと思う。この東側の向こうに先に散策した本内舘・鎌田舘等があるのだが、この散策時点では、どちらかというと街道沿いの意識が強く線的なイメージだったように思う。これが、高低を含む面的な広がりの中に見えてきているように思う。
 そんな中で気になってくるのが、小森舘の確認が抜けている事かな。
a0087378_945838.jpg この舘に関しては僅かな情報しかなく、先にふれた「冨塚前遺跡報告書(2006年)」の第2節「歴史環境」に、「小森舘跡は、冨塚舘跡とも呼ばれていたが、現在は小森舘跡の名称で県の遺跡台帳に登録されている」とし、その現況を「現在は果樹園・住宅地と化し、土塁・濠は失われている」と紹介されること。
 その現況とされる「果樹園・住宅地と化し」とされる部分を、南側から確認すると、こんな感じかな。

 もう一つが、「歴史地図」に「小森重右衛門 鎌倉末期?」とあり、その北西に、「ゆうれい重右衛門的?場」がプロットされること。
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by shingen1948 | 2013-04-17 09:47 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 南矢野目の字台と丸子の字冨塚・字冨塚前は、地形的にはほぼ同程度の高度の平坦地で、ここが南矢野目字台と丸子字冨塚の大字界だ。路地道を挟んだ向こう側が、丸子字冨塚になる。
 「歴史地図」の「富塚館」は、道を挟んで台畑八幡側にプロットされるので、この写真では、大きな道筋の右手を「富塚館」としていることが想像できる。そのメモが「伊達の家臣冨塚中網?天文の乱1542~で戦死」。
散策していると、「屋敷の区画溝の遺構に青磁碗と白磁皿、それに茶色い瀬戸の陶器の大型壺と小型の千手観音の仏像の遺物が発掘された」という情報に、ついそちらに寄ってしまう。特に青磁碗という情報に近視眼的になってしまって、「富塚館」のイメージを重ねてしまうのだが、「ふくしまの歴史」がいうように一歩引いて「冨塚氏などに関係するものと注目されます」とか、「冨塚氏はその後復活しました」とかという見え方も大切かな。
 報告書で紹介される冨塚氏は以下の通り。
 冨塚氏は、古くは源姓、鎮守将軍陸奥守満政の孫隆祐が出雲目代として同国冨塚郷に住み、冨塚氏と称した。常陸(伊達)入道念西に仕え、伊達郡に下り代々伊達家宿老に列したとされる。晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。
 伊達氏の始祖とされる常陸(伊達)入道念西の時代から、有力な家臣として仕えてきた方ということのようだ。
 「晴宗采地下賜禄によると、信夫庄北郷冨塚新左衛門知行と記され、市史では冨塚氏が天文の乱前後、冨塚近隣を領したと解される。」という部分が、「ふくしまの歴史」がいう「天門の乱で稙宗方となったため乱後は、一族はほとんど領地を没収されました。冨塚村の大部分を領有したとみられる冨塚新左衛門の冨塚在家・青木在家・上丸子その他が没収されて、晴宗方だった大塚将監に与えられました」という情報と重なるのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2013-04-16 07:25 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)