地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島⑱

 鴎外氏は、歩兵第四聯隊営視察後の散策で「新寺小路孝勝寺三澤光子の墓に往」ったことを、「歴史小説」創作につなげている。
 それが、「椙原品」という作品だ。
 青空文庫で読める。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2081_23048.html

 作品の最後が、以下のようにしめられていることから、これが大正4年に創作されたものであることが分かる。
 私は去年五月五日に、仙台新寺小路孝勝寺にある初子の墓に詣でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣の中に、新しい花崗石の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。


 品の墓があるという仏眼寺には、自分も行っていないが、福島の散策をしている者にとっては別の意味でも興味がある。
 この寺の旧地は現野田小学校のはずで、寺が仙台に移った後、福島に残った関係者が売ったのが現渡利仏眼寺で、その寺の跡に仏母寺ができたという関係性だ。

 自分にとっては、鴎外氏の作品はその文体が難しくとっつきにくい。
 しかし、この作品は短編であり、しかも素材となる内容的については、散策時に確認している事なので、ハードルが低く比較的簡単に読める。

 「北遊記」に記される本務後の散策が、鴎外氏の「歴史小説」創作につながっているのはこれだけではない。
 7日、午前7時50分に仙台を発って、昼近くに盛岡に着いた鴎外氏は、三島屋旅館着くと直ぐ阿弥陀堂に行き、寺岡吉右衛門の供養塔と称するものを観る。その次に、栗山大善の墓と称するものを訪ねる。
 「北遊記」には次のように記されるが、これが「栗山大善」という「歴史小説」創作に繋がっている。
 墓石と巨碑とあり。墓石には涼岸良照禅定門云々と刻す。巨碑は字細く苔に覆はれて讀むべからず。

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by shingen1948 | 2017-01-23 09:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑰

 鴎外氏の二度目の来福である大正3年(1914)5月18日から19日にかけての行動を確認すると、「ふくしま散歩」での鴎外氏の紹介は、散歩資料としては勇み足のような気がする。
 しかし、その紹介のままに散歩して地域の散策の楽しさを教えていただいたものにとっては、これを単に勇み足として否定的に捉えることができない。
 これは、小林氏の「ふくしま歴史散歩小説」であって、その小説を通した見え方によって、福島散歩の楽しさを教えていただいたのだと思っている。

 前回までは、鴎外氏の本務とかかわる部分を中心に確認してきたが、今度は、鴎外氏の本務から外れた行動と自分の散策の重なりを確認することを通して、この時に得た感覚から、小林氏の心情的なモチーフを想像してみたいと思う。

 仙台での鴎外氏の行動は、先に「森鴎外と福島⑮」で整理した通りだ。再掲する。

 「北遊記」によると、5月4日午後7時30分に仙台に着き、菊平に宿泊するのだが、次の5日朝、仁田原中将を訪ねた後、砲兵第二聯隊営を視察している。現美術館がその跡地になっているはずだ。そのまま青葉城址まで足を延ばしているようだ。
 宿に戻って昼食後には、歩兵第四聯隊営を視察している。現榴岡にその跡地があって、先に整理したことのある現仙台市歴史民俗資料館は、その兵舎の一部の活用のはずだ。 
 この後、新寺小路の寺を訪ねている。
 そして、仙台衛戌病院の本院を視察するのは、その翌日の6日だ。この時代は、定禅寺跡地のはずという事で、定禅寺の情報を確かめる。
 現青葉区本町3丁目の仙台合同庁舎の敷地を中心に宮城県庁舎にかけて寺域が広がっていたとのことだ。鴎外氏視察時点の病院は、その辺りだったのだろうと想像する。
 この後、図書館に行くようだが、当時の図書館は大正元年(1912)10月独立館を新築した第三代目だろうと推測する。その跡地は勾当台通南端から勾当台公園南部付近らしい。

 この4日午後の本務と地域散策が、自分の「再び仙台散歩」の逆コースになっているのだ。
 鴎外氏は、榴岡の歩兵第四聯隊営を視察した「後、新寺小路孝勝寺三澤光子の墓に往く。次いで同所光寿院の保田光則の墓に往く」。
 「北遊記」では、その後、保田氏関連の墓碑銘から拾ったと思われる16名の没年を記録している。
 保田光則氏は仙台藩の国学者で、藩黌養賢堂和学指南役とのこと。東奥国学の泰斗で、和歌の領袖と称せられ、生田流弾琴の妙手でもあったとのことだが、よく知らない。

 自分の散歩と大きく重なるのは、榴岡の歩兵第四聯隊営を視察から「再び仙台散歩⑭~伊達家墓所(政岡墓所)【http://kazenoshin.exblog.jp/21085716/】」から「再び仙台散歩⑰~伊達家墓所(政岡墓所)④~三沢初子の墓所」までの散策だ。

 「再び仙台散歩21~政岡墓所周辺から榴岡公園へ【http://kazenoshin.exblog.jp/21118500/】と「再び仙台散歩22~政岡墓所周辺から榴岡公園へ②【http://kazenoshin.exblog.jp/21123624/】もかかわると言えばかかわる。

 なお、「榴岡の歩兵第四聯隊営」とかかわるのは、「再び仙台散歩23~政岡墓所周辺から榴岡公園へ③【http://kazenoshin.exblog.jp/21125699/】と「再び仙台散歩32~「もう一つの奥の細道」とかかわって【http://kazenoshin.exblog.jp/21169340/】から「再び仙台散歩34~「もう一つの奥の細道」とかかわって③」あたりの散策だ。
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by shingen1948 | 2017-01-22 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑮

 飯坂の地にある「仙台衛戌病院飯坂分院」の本院は、仙台衛戌病院である。
 その本院の概要を確認しておく。
 脈絡的に整合性がなく混乱的に仙台県の成立と東北鎮台が設置されることと絡み合っているようだ。その概要は以下のようだ。

 明治4年(1871)8月廃藩置県で仙台県が成立し、その12月に仙台城に仙台県庁が開庁する。しかし、その一週間後に、石巻に置かれていた東山道鎮台が、仙台に移転して東北鎮台となる。それに伴い、仙台城は兵部省となり、東北鎮台の本営及び兵舎となる。これによって、仙台県庁は旧仙台藩校跡地に移転する。
 その仙台県が宮城県に改称し、仙台県庁が宮城県庁に改称される。

 「仙台衛戌病院」は、この中の仙台県仙台に東北鎮台(明治6年に仙台鎮台に改称)が設置されたことに伴って開設されるようだ。
 まずは、東北鎮台に隣接する二の丸北西亀岡御殿辺りに、軍人軍属の傷病に対応する病院が設置される。それが「仙台鎮台病院」ということだ。
 この病院が、明治10年(1877)12月には定禅寺跡地に移転になり、明治23年(1890)に「仙台衛戌病院」に改称されたということのようだ。
 更に、大正3年3月に、飯坂の地に「仙台衛戌病院飯坂分院」が創立したのだが、その5月19日午前7時には、森林太郎陸軍軍医総監(中将相当)が視察に訪れたということのようだ。

 森林太郎陸軍軍医総監(中将相当)は、当然、東北の要である仙台鎮台の兵舎と仙台衛戌病院も視察している。「北遊記」で確かめる。
 5月4日午後7時30分に仙台に着き、菊平に宿泊するのだが、次の5日朝、仁田原中将を訪ねた後、砲兵第二聯隊営を視察する。ここは、現美術館がその跡地になっているはずだ。
 氏は、そのまま青葉城址まで足を延ばしているようだ。
 宿に戻って昼食後には、歩兵第四聯隊営を視察している。現榴岡にその跡地があって、先に整理したことのある現仙台市歴史民俗資料館は、その兵舎の一部の活用のはずだ。 
 この後、氏は新寺小路の寺を訪ねている。

 仙台衛戌病院の本院を視察するのは、その翌日の6日のようだ。この時代は、定禅寺跡地移転後のはずという事で、定禅寺の情報を確かめる。
 定禅寺は、現青葉区本町3丁目の仙台合同庁舎の敷地を中心に宮城県庁舎にかけて寺域が広がっていたのだそうだ。鴎外氏視察時点の病院は、その辺りだったのだろうと想像する。
 この後、氏は図書館に行くようだが、当時の図書館を確認すると、大正元年(1912)10月に独立館を新築した第三代目だろうと推測できる。
 その跡地は勾当台通南端から勾当台公園南部付近らしい。ということは、病院の直ぐ近くだったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-01-20 09:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 北山の寂光寺の北側が「輪王寺」であることが気になったのは、この寺も伊達の里から移った寺のはずだと思ったからだ。「金剛山輪王寺」のホームページで、その歴史を確かめると、その開山について、次のように記される。
 輪王寺の開山 (1441年)
 輪王寺は、嘉吉元年(1441年)、伊達家9世政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、11世持宗が、太菴梵守和尚を開山として、福島県梁川に創建されました。
 政宗夫人は、3代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、6代将軍義教は、後花園天皇に奏請し、「金剛寳山輪王禅寺」の額を賜りました。
 「福島県梁川に創建」とあり、現伊達市梁川の輪王寺跡に創建された寺であることに間違いなさそうであることが分かる。
 その現伊達市梁川の輪王寺跡には2011年に訪ねて整理している。
 梁川城の発掘調査現地説明会に出かけた折に散策の足を延ばしたもので、「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡」として整理している。
 〇 「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14181961/
 〇 「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡②」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14188699/
 輪王寺は、その後伊達氏の移動に伴って桑折西山→米沢→ 会津→米沢→岩出山→仙台と移転してきたという。それを「金剛山輪王寺」のホームページでは、「輪王寺の六遷(1532年~1602年)」と紹介する。
 仙台の地に移るのは、「青葉山寂光寺」と同じ慶長7年(1602年)で、17世の政宗公の時だ。

 ここに2人の政宗公が登場している。
 創建所願の蘭庭明玉禅尼は伊達家9世政宗公の夫人である。その伊達家9世政宗公は、伊達家中興の祖といわれる政宗公であり、「独眼竜」として知られるのは伊達家17世政宗公だ。
 9代政宗公は、文武の才に恵まれ、和歌も堪能で、「山家の霧」と題する歌がよく知られているとされる。また、「金剛山輪王寺」のホームページが紹介するように、彼の妻が室町幕府3代将軍足利義満の叔母にあたり、中央との繋がりが強かったようだ。
 応永9年(1402)に領地の割譲を求めてきた関東公方に対して、長倉館(伊達市館ノ内)や桑折赤館で反抗したが及ばず、会津方面へ逃れたという政宗公は、この9代政宗公のようだ。
 なお、9代政宗公の代には、本領である伊達郡の他、伊具郡、刈田郡、柴田郡(宮城県)、長井郡(山形県)も伊達領だったのだとか。

 この9代政宗公の墓と伝わる石塔や寺号である「儀山東光寺殿」と書かれた位牌が保原町柱田の東光寺にあるとのことで、出かけたことがある。そのことについては、「9代伊達政宗の東光寺」として整理した。ただ、石塔の家紋が丸に横三つ引き両で、伊達家の紋は丸に竪三つ引き両と合わないので、疑問が残るとの情報もある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10822810/
 17代政宗公の名は、この9代政宗公にあやかって付けられたといわれているという。
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by shingen1948 | 2016-03-06 09:16 | Comments(0)
 今回は、慶長7年に信夫郡の青葉山(信夫山)から仙台城本丸傍に移った「青葉山寂光寺」について、その行方を追ってみた。
 仙台城本丸傍に移った「青葉山寂光寺」は、「御本丸御移の節」に北山に移転した(実際には、寛永 15 年(1638)に青葉城二の丸普請が開始される時に移動とされる)。その北山の寂光寺及び羽黒神社については、【仙台人が仙台を好きになるブログ】の「北山 寂光寺の参道はここにあった」という記事情報を参考に整理した。
 http://kumagai-ya.co.jp/blog/2093
 「要説宮城の郷土誌【仙台市図書館】」によれば、北山に移った寂光寺は、幕末に至るまで羽黒堂の別当寺として存在していたのだが、明治初年に伊達家の外護を失って廃寺となり、「十二軒丁弥勒院」に合併されたとのことだった。
 それで、「十二軒丁弥勒院」がどこかを確認するために仙台の情報をいろいろと探った。この十二軒丁辺りは道筋の改変が激しくて、よそ者の散歩人にはなかなか分かりづらいところがあった。そのうちに、この道筋の改変は「へくり沢」越えの変遷によることが分かったので、その「へくり沢」越えの情報を確認していた。
 そうしたら、めぐり巡って仙台のお菓子屋さん「熊谷屋」のブログ【仙台人が仙台を好きになるブログ】にまたしても辿り着いたのだ。
 この「へくり沢」散歩情報を確認する中で、八幡町の弥勒院が「十二軒丁弥勒院」であろうということに確信が持てたということだ。
 実は、この「へくり沢」散歩情報は、前々から散歩の仕方の参考にさせていただいていたのだが、これが仙台の寂光寺の情報探しに直接かかわるとは思っていなかったのだ。

 「十二軒丁弥勒院」の位置情報に確信が持てたのは、「へくり沢」越えの道筋の変遷が分かりかけたところだったということで、その「へくり沢」越えの道筋の変遷について読み取ったことを整理しておく。
a0087378_645954.png この地図は、地図に確実に古くから存在していたと思われる道筋を赤線で記し、曖昧さはあるが多分古い道筋に近いかなと思う道筋を紫線で書き加えたものだ。
 まず、寛永20年(1643)へくり沢に土橋ができて、土橋通りと中島丁の道筋がつながったようだ。
 次に、その土橋あたりから十二軒丁へ通じる道がつくられるのが、明暦2年(1682)とのことだ。
 更に、元禄年間初期には、へくり沢沿いに南下する道ができ、元禄8年(1695)には、その道筋の先には川内に渡る澱橋がかけられて、その北側から東に曲がる新坂の道筋が、土橋通りの東側の道筋とつながるようだ。
 ここまでが、自分なりに読み取った古い時代のへくり沢越えの道筋変遷だ。現在は、北三番丁と十二軒丁をまっすぐに繋がった道筋に、澱橋から土橋に繋がる道を丁字に接続しているのだが、このようになるのは明治初期とのことだ。

 参考にさせていただいた【仙台人が仙台を好きになるブログ】の「へくり沢」タグのページをつながせていただく。
 http://kumagai-ya.co.jp/blog/tag/%e3%81%b8%e3%81%8f%e3%82%8a%e6%b2%a2
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by shingen1948 | 2016-03-05 08:39 | Comments(0)
 昨日は、「弥勒院」が明治元年(1868)移転とすることに違和感を持ちながら確認の手段を持ち合わせていないとした。それが、偶然なのだが、天明6年(1786)から寛政元年(1789)にかけての「仙台城下絵図」を見ていたら、現在地に「弥勒院」がプロットされているのをみつけた。
 ここからは勝手な想像でしかないが、この「弥勒院」が、元々は川内に「弥勒院」が存在していたということなら、「青葉山寂光寺」同様に「御本丸御移の節」に北山に移転されたものと想像した方が自然であるように思われるが、どうだろうか(実際には、寛永 15 年(1638)に青葉城二の丸普請が開始される時)。少なくとも江戸時代には、「弥勒院」は現在地に存在していたということで、明治元年(1868)移転ではないということは確実だと思う。
 「弥勒院」にとって、明治元年(1868)の大きな出来事は、「弥勒院」が伊達氏の庇護を受けていた「青葉山寂光寺」を吸収合併したことなのではないのだろうか。

 このあたりには大きな沢があって、それを超えるための道筋の変遷が激しい。地元の方にとってはそうでもないのだろうが、そのために他所者には分かりづらい地形なのだ。
a0087378_7185573.png それで、北山の寂光寺跡を確認する時にもお世話になった【仙台人が仙台を好きになるブログ】という仙台のお菓子屋さん「熊谷屋」のブログを参考にさせていただいて、「十二軒丁」あたりのイメージを確認した。
 そのおおよその読み取りを地図上に整理してみた。
 大きな沢が、「へつり沢」というらしい。そのおおよその位置を水色の線で記してみた。紫の線で記したのが少なくとも江戸時代あたりからの古い道筋。赤い線で記したのが新しい道筋。古くから「へつり沢」内に、そこを流れる川筋に沿った道筋があったようだが、それは現在も残っているらしい。

 「土橋通り」の角に案内柱があり、「土橋通り」と「十二軒丁」が案内される。ここで案内される「十二軒丁」は、新しく開通した道筋のようだ。古い道筋は、現在は一部廃道になっている愛宕神社や弥勒院の元参道が面していた道筋らしいことは、先に記した。
 「土橋通り」というのは、この道筋の先に「へつり沢」を渡って対岸に通じる土橋がかかっていたことによるらしい。ただ、現在は川内に向かう南北に走る新しい道筋がこのへつり沢を渡る辺りのイメージを重ねている感じのようだ。
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by shingen1948 | 2016-03-03 09:14 | Comments(0)
 「十二軒丁弥勒院」についての情報を、「時の散歩/仙台寺社巡り」からお借りする。
 http://www3.plala.or.jp/gameticket/index.html#top
 真言宗智山派。慶長6年(1601)開山。以前は川内扇坂にあったが,明治元年(1868)現在地に移転した。(青葉の散歩手帖)
 本尊は弥勒菩薩であったが火災で焼失し,現在は大日如来像。境内に嵯峨天皇による曼荼羅経文一巻が納められた宝篋印塔がある。(杜の散歩道)
 出典とする「青葉の散歩手帖」も「杜の散歩道」も確認はしていない。
 川内扇坂に慶長6年(1601)開山なら、ほぼ「青葉山寂光寺」及び「羽黒社」と似たような経緯をたどっているように思える。その位置が川内扇坂ということなら、青葉城二の丸の北東側ということか。二の丸の南側にあったと想像される「青葉山寂光寺」とは二の丸を挟んで対峙する位置のようだ。
a0087378_7392989.png 地図上に、青葉城の本丸跡、二の丸跡、三の丸跡と「青葉山寂光寺跡」のおおよその位置を記し、そこに、交差点角にある辻標に案内される「行人坂」と「扇坂」を表記する。この地図を眺めながら、川内にあったという十二軒丁弥勒院」のおおよその位置を想像してみる。
 行人坂
 行人坂は、二の丸北裏にあった御裏池から広瀬川へ注ぐ千貫沢の北にあり川内山屋敷へ続く坂。坂を登り詰めた所の南側に榎の老木があり、昔この地に庵を結んだ行人の塚があったのでこの名が付いたという。
 現在は扇坂と呼ばれているが、二の丸登城口であった本来の扇坂は沢の南側にあり現在は廃道となっている。
 仙台城築城以前は、国分氏の山城「千代城」が現在の本丸跡の地に出城程度の山城があったと想像されているという。それよりは、この辺りは山岳仏教の修業の場所であり、山岳仏教の寺院がいくつか建っていたという雰囲気だったとの想像のようだ。その想像と重なるように思う。
 違和感は、移転時期だ。「青葉山寂光寺」は、「御本丸御移の節」に北山に移転する(実際には、寛永 15 年(1638)に青葉城二の丸普請が開始される時に移動とされる)。
 明治元年(1868)移転なから、「弥勒院」はこの時点では川内扇坂に残り続けることができたとうことになるが、その確認の手段を持ち合わせていない。
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by shingen1948 | 2016-03-01 09:35 | Comments(0)
 信夫山から仙台に移った青葉山寂光寺と羽黒社は、寛永 15 年(1638)頃、仙台城本丸傍から北山に移る。北山に移った羽黒社は、現在も羽黒神社として同寺の境内に存続し続け、北山附近住民の鎮守として祀られているとのことだ。
 北山に移された寂光寺の方だが、幕末に至るまで羽黒堂の別当寺として存在していたのだが、明治初年に伊達家の外護を失って廃寺となり、十二軒丁弥勒院に合併されたとのことだった(要説宮城の郷土誌【仙台市図書館】)。

 その「十二軒丁弥勒院」はどこなのかというところまで確認しておこうと思ったのは、羽黒権現の本地仏観音像の情報を見ないからだ。信夫山時代の羽黒権現の本地仏観音像は、現在真浄院に遷座されている。ならば、信夫山から仙台に移った時点で、新たな羽黒権現の本地仏観音像が存在していたのではないかと思うのだ。
 これがあやふやになる時点は、明治の神仏分離政策による廃仏毀釈時に廃寺となる時点だ。可能性として考えられるのは、次の三つの場合。
 その一、明治の神仏分離政策による廃仏毀釈時点で消滅あるいは行方不明になること。
 その二、羽黒神社に残る、
 その三、合併された十二軒丁弥勒院に移る。
a0087378_6432810.png 確からしさを確認するのに手間取ったが、「十二軒丁弥勒院」は、仙台市青葉区八幡にプロットされるこの彌勒院のことらしいことが分かった。
 宮城第一高と作並街道の間の赤でなぞった道筋は古い道筋で、古くは彌勒院の参道はこちら側から延びていたのだとか。その道筋を進んで、彌勒院の右手の赤丸で囲った辺りに十二軒の屋敷があって、これが十二軒丁の語源となっているということらしいのだ。
 この辺り、その十二軒の屋敷の右手の沢を越えるための道筋が激しく改変されているようで、こちらの確認に手間取った。
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by shingen1948 | 2016-02-29 08:41 | Comments(0)
 北山羽黒神社の散策記事を見ると、本地仏についての情報はみないが、境内は仏教的な雰囲気は残っているらしいことが分かる。境内には「同社因縁記(享保元年<1716>記」という案内板があり、次のように解説されるようだ。
 同社因縁記(享保元年<1716>記

 保春院殿が嗣子なきを憂え、長海上人を湯殿山に参籠させた所、夢枕に立った偉僧の梵天を宿して生まれたのが政宗公と記される。
偉僧は、湯殿山初代の行者萬海上人で、その弟子長海上人と慶印上人とが、師の生まれかわりの政宗公が慶長五年(1600、関ヶ原の年)上杉軍と戦った折、大いに助勢した功をめでて慶印上人を羽黒神社開祖とした。
 病める者も、十中九は立ち所に治るなど霊験あらたかであると因縁記は述べている。
 この解説は、出羽三山とその信仰についての知識を有することを前提にしているようだ。「ウィキペディア」で、羽黒山信仰を中心に、その概要を確認する。
 まず、出羽三山だが、これは山形県の村山、庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称。
 羽黒山信仰だが、その三山(月山・羽黒山・湯殿山)の修験道を中心とした山岳信仰の一つだ。その祭神は山岳宗教と修験道が融合した神仏習合の本地仏であり、明治維新までは多くの宗派によって奉仕されていたという。
 次に、本地仏だが、羽黒山信仰の祭神が観音菩薩を本地仏とすることについては先にふれた。
 月山の本地仏は、阿弥陀如来なそうだ(室町時代までは八幡大菩薩とされていたという)。ただ、湯殿山は山自体に神が鎮まるものとているといいつつ、それらを超えて大日如来という別格だとの言い方もみる。
 更に、それぞれ別当寺だが、羽黒山は寂光寺で、明治の神仏分離政策による廃仏毀釈時に廃寺となることも先に記した。
 月山は日月寺で、こちらも明治の神仏分離政策に廃寺となるようだ。湯殿山はちょっと複雑で、本道寺、大日坊、注連寺、大日寺が別当寺だったようだが、大日坊と注連寺は真言宗寺院として湯殿山から独立して現存するという。また、本道寺と大日寺の二寺は廃寺となるが、神社になって残ったという。本道寺が口之宮湯殿山で、大日寺が大日寺跡湯殿山なのだとか。

 これらの情報と同社因縁記(享保元年<1716>記の情報とを見比べると、湯殿山の初代行者萬海上人という偉僧の弟子に、長海上人と慶印上人がいらっしゃって、その慶印上人が、羽黒社の開祖者となったと読み取れる。
 これが史実なのか伝説なのかは分からないが、その前後の文脈からは、信夫山の羽黒社及び寂光院の開祖もこの慶印上人といっているようにも思えるが、どうだろうか。
 そうなると、「封内風土記(田辺希文)」の「有中興開祖慶印上人之墓。今日之行人塚」も気になるが、こちらもよくわからない。
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by shingen1948 | 2016-02-28 09:09 | Comments(0)
 北山羽黒神社は現存し、その旧拝殿は「北山羽黒神社境内社」として仙台市の指定・登録文化財になっているという。
 仙台市のホームページでは、「北山羽黒神社境内社」について次のように解説している。
 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/database/c02603.html
 「境内社として残された江戸時代後期の旧拝殿「北山羽黒神社境内社」
 北山羽黒神社は、仙台藩初代藩主伊達政宗が慶長7年(1602)に福島県信夫郡より分祀してきたものと伝える。仙台市登録文化財となっている北山羽黒神社境内社は、かつて当社の拝殿であったが、昭和45年(1970)の新築の際に移築され、境内社として残されたものである。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺で、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、三方に縁を廻らし、一間の向拝(こうはい)が付く。江戸時代後期の建立と思われる。
 ここでは、「江戸時代後期の建立と思われる」とあるが、別情報として「火災を受けて寛文10年(1670)4代綱村が再建した」とする推定するものも見る。
 この旧拝殿「北山羽黒神社境内社」には、現在、月山神社・湯殿山神社の額が掲げられているという。

 境内には「同社因縁記(享保元年<1716>記」という案内板があり、その解説では羽黒神社開祖を慶印上人とするようだが、これは当然寂光寺開祖ともかかわるのだろうと推定される。そのうち、「政宗公が慶長五年(1600、関ヶ原の年)上杉軍と戦った折、大いに助勢した功をめでて慶印上人を羽黒神社開祖とした」という部分が、寂光寺と羽黒社が信夫山から仙台に移った理由の解説部分かな。
 この解説を読み取るのには「羽黒権現」についての予備知識が必要だ。ウィキペディアで、「羽黒権現」を確かめると次のように解説される。
 羽黒権現は出羽国羽黒山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、観音菩薩を本地仏とする。出羽三所大権現の一つである。羽黒大権現とも羽黒山大権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、羽黒山寂光寺から勧請された全国の羽黒権現社で祀られた。
 「観音菩薩を本地仏とする」とする部分が、信夫山の「羽黒権現」の本地仏とされることと重なる情報だ。この本地仏は、明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈の難に遭って、後年処々の事情のある中、真浄院に遷座されたという。60年に一度の御開帳とのことで、次回が2031年なのだとか。
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by shingen1948 | 2016-02-25 10:38 | Comments(0)