地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 先に、それまで見つけた六角石については、「奥の細道を探る⑤~六角石(宮代一丁田)」で概観している。これは、この「宮代一丁田の六角石」には六角石についての案内板が建っていたからだ。六角石についてはいろいろな解説をみるが、本当のところは分からない。
 宮代一丁田の六角石
 この碑は「笠塔婆」といわれる供養塔の一種で鎌倉時代に造られたものとされています。
かつて奥州平泉の藤原氏全盛の頃清衡公が中尊寺を中心に白河の関から外浜(青森)まで路すじに一町毎に「笠塔婆」を建立したと伝えられていますが、吾妻鏡によればその一つではないかといわれています。それと同じものと言われているものに宮代日枝神社境内や渡辺墓地の北さらに平野字六角の六角石などがあります。
 造られた当時の形は六角形の石柱の上部に細長い穴を六面に彫り六地蔵を安置し頂上に笠を置いた「笠塔婆型六地蔵」であったらしく通称六角石と言って伝えられてきました。しかし、造られた年代も不明であり同種のものも少ないため、確証が得られないままですが、近隣近郷の人や道行く人々は香華をたむけて無病息災旅の安全などを祈願したものと考えられ、俳聖芭蕉もこの塔の傍らを通ったものと思われます。

 この付近の六角石は、平野にある六角石、六角にある六角石、宮代日枝神社の六角石、渡辺墓地の六角石とある。
 その中の渡辺墓地の六角石は、自分にとっては幻の六角石でもあった。渡辺墓地付近に六角石があったことは確実らしいのだが、それがなかなかみつからなかったのだ。
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 その六角石をみつけた。
 実際にみつけたところは、瀬上から河岸段丘を下って飯坂に向かう道筋だ。

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 なかなか見つからなかったのは、木の陰になって道筋からは見えにくかったためのようだ。

 この六角石、「渡辺墓地の六角石」とすると、河岸段丘上のイメージが強くなる。それよりは飯坂に下る道筋という感じだ。それに、地区名も下飯坂だ。
 「渡辺墓地の六角石」としていたのを、「下飯坂の六角石」と修正したい。

 この時点で、「平野にある六角石」の「東の六角石」は確認している記憶はあるが、「西の六角石」の確認はその後かもしれない。残念なのは、平野の東の六角石の上部がかけて、その脇に置かれた状態になっていることだ。興味深いのは、ここに掲げたこの付近の六角石は石質形状共に同質のものということだ。他でも六角石は見かけているが、同質のものではない。
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by shingen1948 | 2011-12-28 06:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(4)

舘③

 この舘を石栗勘解由の居城としての興味で見てきたが、「福島市の中世城舘」では飯坂重房の二男豊房の居館という説も紹介する。
 応永23年(1416)に「上杉禅秀の乱」が勃発した。将軍足利義持は持氏(関東公方)を助けて、関東・奥州の豪族たちに参戦を指示した。この時、飯坂重房の二男豊房は、伊達持宗を助けて参戦、その功によって「信夫郡余目荘下飯坂・佐葉野・宮代等数邑」を宛がわれ、下飯坂村に移った。 下飯坂村の祖となり、居館を下飯坂舘屋敷に定めた。(福島の町と村)

 その館が、慶長年間に、石栗勘解由の居城となったとしても矛盾ないと思う。

 館の痕跡だが、「福島市の中世城舘」では、「現在は、字舘屋敷の西端部に水路に沿って土塁の残存と推定される土盛りが北西隅及び南に約50mほど確認されるのみである。」とする。
 たったそれだけという感じだが、散歩人にとっては、ここに土塁をイメージ出来ることで、舘の範囲がイメージできたような満足感を得ることができる。
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 その土塁の痕跡は、先の散歩の道筋から北に向かう道筋の奥に見える林付近だ。この道筋自体が、舘の西のラインだろうと思われる。


 この道筋を進んでくると、右手に林が見えてくる。
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 これが、土塁の残存と推定される土盛りとされるものだと思われる。


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 そのまま少し進むと、この林が切れている所がある。恐らく、ここが館の北西隅とされる地点なのだろうと思われる。

 その奥を覗きこむ。それが舘の北側のラインなのだろうが、そのラインは明確には分からない。


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 北西方向から、西のラインを見るとこんな感じだ。

 この舘、石栗勘解由の居城ということで、「天地人の時」のカテゴリーで整理してきたが、飯坂氏の居館と見直すと、伊達氏とかかわるカテゴリーになってしまう。今回は、とりあえず「天地人の時」のカテゴリーのままで整理しておく。
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by shingen1948 | 2011-09-21 07:40 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)

舘②

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 字舘屋敷地内も歩いるのに整理していないのは、館という実感が得られなかったからのようだ。
 「福島市の中世城舘」では、「地籍図においても字屋敷内及びその周辺においても館の痕跡は読み取ることができない。」とある。
 しかし、地籍図をなぞり舘位置図と重ね合わせた図と、先に自分があるいた道筋を見比べながら確認すると、気分的に実感を得るヒントがもらえそうな気分になる。


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 字屋敷内には、一番太い道筋を入ったのだが、これは舘の南端に近い新しい道筋だったようだ。


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 館に入って、最初に舘の西端近くと思われる地点を写真におさめている。そこに何かを感じたようだが、そのラインを確かめずに、そのまま西に進んでしまっている。
 ここから、右に折れれば土塁の一部と思われる土盛りが確認できたはずなのだ。
 そんな風にいえるのは、確認した経験も入っているからということであり、地籍図をなぞり舘位置図と重ね合わせた図に経験を付け加える。


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 西側に回り込んで、寺を目印に館の位置図を実感しようとしているらしいことが分かる。この時には、寺が舘よりも西側に突き出ていることを意識していない。
 先に整理したように宝聚山金源寺が区柳屋敷地内に建立したとのことだ。図で確認すると、寺ができる前は、現在字寺屋敷と字柳屋敷を合わせた地域が、字柳屋敷地内だったと想像できる。

 いずれにしても、館という実感が得られなかったのは、現在唯一土塁の現存と推定される北西隅及び南に約50m確認されるという土盛りを見逃したからだということが分かる。
 その土塁をもとにすると想像は深まる。
 その寺屋敷と舘屋敷境界線付近を流れる水路が、舘の南端に近いというイメージできるのではないかと勝手に思う。舘の東端は、北南に延びる道筋なのではないかと勝手に思う。

 なお、「福島市の中世城舘」では、学問的に「『信達一統志』によれば、慶長年間に上杉家臣石栗勘解由の居城であったと伝える」とする。素人としては、石栗勘解由の居城ならば、仙道から信夫代官として下飯坂舘にやってくる慶長6年(1601)と想像する。
 気になるのは、「……、又平林内蔵人と云ふ人住給へるよし(信達一統志)」の部分だろうか。
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by shingen1948 | 2011-09-20 06:30 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

 「福島市の中世城舘」では、下飯坂のこの「舘」について以下のように整理し、飯坂氏とかかわる説についても紹介する。
 立 地:自然堤防
 築城者:石栗勘解由の居城(信達一統志)
 時 期: 慶長年間(信達一統志)

 この舘に立ち寄ったのは、大笹生の安江五郎左衛門氏についての興味だった。
 上杉氏の会津移封で、安江五郎左衛門氏と石栗勘解由氏は、共に500石で、情報として曖昧だが、同心馬上30騎、足軽100人で仙道へ。それが、寛永8年分限帳200石の信夫の役人ということで、似ている立場だ。
 安江五郎左衛門氏と似た立場の下飯坂の石栗勘解由氏ということだった。
 ただ、訪ねてはみたが整理はしていなかった。
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 どちらかというとこの舘の南に建つ石栗氏が創建したという「金源寺」に関心があった。その「金源寺」については、「安江繁家⑬」に、「福島市寺院名鑑」で確かめたことを以下のように整理している。
 「金源寺の由緒沿革の中に、次のような説明がみつかる。
 延享3年(1746)寺社奉行に提出した『開基由緒書上書』によると、『当山開基上杉景勝之家臣石栗勘解由、慶長2年(1597)越後国岩船郡小川村金源寺を当村に移造立候。右勘解由来孫只今羽州米沢上杉殿ニ候』とある。」

 この金源寺は、石栗将監氏の菩提を弔うために、その跡を嗣いだ勘解由長次が同地区柳屋敷地内に宝聚山金源寺を建立したということらしい。なお、石栗家の現況にもふれ、「今も米沢に在住、曹洞宗東源寺の檀家総代を勤める」ともある。

 安江繁家氏の菩提寺である大笹生の「安楽寺」創建が、根津監物氏とすることと比べているのは、大笹生の根津氏が安江氏の嗣子に入るという状況で見えなくなった意図を確認したかったからだ。その事については、「安江繁家29」で整理している。

 金源寺を訪ねてみたことも整理していないのは、史跡として整理するには石栗氏への弔いの意識がまだ生々しいと感じたからだ。
 なお、石栗将監氏については、次のように整理している。
 慶長3年(1598)上杉家臣の石栗将監長広は、二本松の芦立城の城主となり500石を領した。
 慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、下飯坂舘に居住し寛永2年(1625)に没した。

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by shingen1948 | 2011-09-19 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

安江繁家⑬

 これから、大笹生と安江氏のかかわりについて確認したいので、あらかじめ断わっておく。
 それは、これからの話は、大笹生の根津氏が安江氏の嗣子に入ったのではないかという仮説に基づいている。これは、安江氏の家伝とも合致し、大笹生根津氏の課題についても合理性のある説明ができそうに思うが、一般的には地元や地域の地誌研究家に認められていないらしいということだ。
 もっと言えば、発信力のある人々に認められた説ではないということだ。そのことを断わってから、話を進める。

 さて、直ぐに思いつく確認方法は、地域の方々の情報を整理したものと、寺の情報だ。
 まず、安江繁家と同じような立場で、同じように信夫伊達の地にやってきた石栗氏が、散歩人に、どんなふうに情報として確認できるかと考えると、手っ取り早く寺にかかわる情報か得られる。
 石栗氏が創建したという寺は金源寺なので、そのことを「福島市寺院名鑑」で、確かめてみる。すると、金源寺の由緒沿革の中に、次のような説明がみつかる。
 延享3年(1746)寺社奉行に提出した「開基由緒書上書」によると、「当山開基上杉景勝之家臣石栗勘解由、慶長2年(1597)越後国岩船郡小川村金源寺を当村に移造立候。右勘解由来孫只今羽州米沢上杉殿ニ候」とある。

 そして、安江繁家氏と対比する石栗将監氏については、次のように説明する。
 慶長3年(1598)上杉家臣の石栗将監長広は、二本松の芦立城の城主となり500石を領した。
 慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、下飯坂舘に居住し寛永2年(1625)に没した。

 この金源寺は、石栗将監氏の菩提を弔うために、その跡を嗣いだ勘解由長次が同地区柳屋敷地内に宝聚山金源寺を建立したということらしい。なお、石栗家の現況にもふれ、「今も米沢に在住、曹洞宗東源寺の檀家総代を勤める」とある。

 確認できたことは、
①寺を創建したのは、石栗将監氏の跡を継いだ方のようだということ。
②その目的は、石栗将監の菩提寺のためであること。
③創建した時期は、慶長2年(1597)ということなので、石栗氏が、仙道に移ってきた時期としていること。

 これを安江氏と比べてみると、比較的似ているのが経歴だ。
 石栗氏の「二本松の○○城の城主となり500石を領した。慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、○○舘に居住した。そして、その子孫たちは、その後の上杉氏15万石減封によって、米沢に移られた。」という○○の部分に安江氏の具体的なことを入れると、そのまま安江氏の経歴になる。
 先の○○は、「塩松の城(今のところ具体的な城が確定できない)の城主となり」ということになる。次の「信夫代官となって、○○舘に居住した」という部分が、「大笹生の舘に居住したのは明らかだが、その前に別の地の舘に居住した可能性もある」ということにならないかということだ。
 その場合、石栗氏と安江氏との違いは、石栗氏が故郷の寺の末寺として創建しているのに対して、安江氏は、地元の寺の末寺として創建していることだ。そして、現寺とかかわるのは、米沢に移られた方と伺えるということだ。

 かなり地元の課題に踏み込んでしまいそうで、ちょっと心配。
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by shingen1948 | 2010-08-04 05:41 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(1)