地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 早稲田大額のホームページを確認すると、山中選手が「早稲田大学スポーツ功労者表彰」を受けた時の挨拶で、競技人生について次のように述べた事が記されている。
 オリンピックに3度出場し、4個の銀メダルを獲得しましたが、金メダルは獲得できませんでした。いくら他の大会で優勝しても、オリンピックで優勝できなければ何の意味もありません。4年に1度のオリンピックで最高の状態に持っていくこと、それがアスリートの力です。

 先に記したように、山中選手は大学在学中に世界新記録の更新を積み重ねて、昭和35年(1960)のローマ五輪を迎えている。その結果としては2位の銀メダルではあるが、僅差の2位である。
 ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇はない。しかし、当人としては4個の銀メダルよりも1個の金メダルが欲しかったということだ。

 実は、N先生もスポーツの世界では、過程でのどんなに素晴らしい努力があっても、1番にならなければ意味がないというようなことを話されていたことを思い出したのだ。結果として1番になることの重要性だ。
 自分には、大人になるにつれて競技スポーツに違和感を持つようになるのだが、その原点がここにあるように思う。
 一流選手側の話としては、結果としての1番かどうかの差が、その後の人生にまでかかわるという話は聞く。しかし、我々凡人の世界では、1番を目指し、ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇しなくていいと思う。
 もし、我々が競技スポーツ者だったとしても、個人的には1番を目指して取り組んだ事を重視し、その結果にはこだわらないという態度を、基本的な姿勢として持ち続けたいものだと思っている。
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by shingen1948 | 2017-03-29 09:43 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年に山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理した。

 その昂奮の記憶の接点には、N先生の存在がある。
 先にも記したように、そのN先生にかかわる情報は、殆どが漕艇競技の指導者としての情報なのだが、当方は漕艇競技に興味がないものだから、それらの情報が直接的に思いでに結びつかなかった。

 しかし、ひょんなことから思いでに結びつくかもしれない情報を見つけた。
 「三四郎(夏目漱石)」の研究にかかわる論文の参考資料にN先生と同姓同名の方がかかわる情報を見つけたのだ。「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究(土屋知子)」
 その参考文献として挙げられているのは、「『25秒74』と『紫の猿股』【福島県喜多方商業高等学校『図書館報(第26号1985年2月)』】」だが、論文の本文には、「この『紫の猿股』を穿いて『200メートルの競争』を『25秒74』で走り抜けた人物は実在した人物で、藤井実という帝国大学法科大学学生であることがわかっている」とする方の名が挙げられているのだが、この方がN先生と同姓同名なのだ。
 福島県喜多方商業高等学校にかかわりのあるN先生と想像した漕艇競技指導者の方なのではないかなと想像したということだ。

 これは、「三四郎(夏目漱石)」の作品で描かれる「東京帝国大学運動会」にかかわる考察なのだが、その論文によると、この明治37年(1904)11月12日に行われた東京帝国大学運動会でのこの記録は驚異的な記録なのだそうだ。
 その藤井実氏は、明治35年(1902)11月8日の東京帝国大学運動会では100メートル10秒24で走っていて、当時の世界新記録なのだという。更に、明治38年(1905)11月11日の運動会では棒高跳びで3メートル66の当時の世界新記録も出し、明治39年(1906)11月11日の運動会では、その記録を3メートル90に更新しているのだそうだ。
 これらの記録を、帝国大学浜尾新総長は、計測装置開発者で実測者である田中館愛橘博士証明文と共に、アメリカの主な大学に通知したのだとか。
 それで、明治40年(1907)AAU(アメリカ競技連合)のスポールディング社発行の年間「アスレチック・アルマナック」に藤井実の写真とそのレコードは掲載されたが、残念ながら公認には至らなかったとのことだ。

 曖昧な記憶の中では、思いでとつながるN先生もこの「東京帝国大学運動会」に詳しかったと思うのだ。この運動会は、運動会というイメージとは違って、世界的に通用する計測で実施される記録競技会であったというような話をN先生から聞いているような気がしているのだ。
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by shingen1948 | 2017-03-27 17:05 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 山中選手の活躍に昂奮した記憶は、昭和35年(1960)のローマ五輪なのだと思う。連日現地の速報が新聞やラジオで流されていたはずだ。
 あの時代の実況の記憶に、映像はない。音声の記憶だ。

 録音なのか実況中継なのかは分からないが、音声が遠のいたり、鮮明になったりする中、での中継アナウンサーの声が、その思い出を支えている。
 セリフは、「現在、山中、トップッ」だったり、「トップはローズ、山中が続いています」だったりしたはず。接戦のはずなのだ。

 あの時の昂奮を支えた情報を確認する。
 先に経歴で、昭和31年(1956)に、輪島高3年でメルボルン五輪に出場し、金メダルを取ったオーストラリアのマレー・ローズと激闘を演じ、400m、1500m自由形で銀メダルを獲得したことについてはふれている。
 山中選手は、その後、早稲田大学に進学すると、世界新の記録を樹立する。

 「朝日スポーツ賞」のページで、その活躍を確認する。
 昭和33年度(1958)に200m自由形で2分3秒0の世界新を樹立する。(8/22大阪)
 その翌年の昭和34年度(1959)には、400m自由形で4分16秒6の世界新を樹立する。(7/26大阪)
 また、「梅本利三・藤本達夫・福井誠・田中毅」の800mリレーでも、8分21秒6の世界新を樹立し(7/22神宮プール)、「田中毅・福井誠・見上勝紀・藤本達夫」の800mリレーでは、先のレコードを更新し、8分18秒7の世界新を樹立する(7/26大阪)。
 このように、田中選手がかかわる競技では次々に世界新を樹立して、その期待感が高まった中で迎えたのが、昭和35年(1960)のローマ五輪だ。
 なお、この年、田中聡子も女子200m背泳で2分37秒1の世界新を樹立している。(7/12神宮プール)

 山中毅選手が世界新記録を出した勢いのままローマ五輪を迎えていたのだ。
 再び、オーストラリアのマレー・ローズとの激闘になるのだが、この勢いに乗って、メルボルンの雪辱を果たすのではないかという期待感もあって、日本中がローズとの再度の激闘に注目したはずなのだ。

 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年にその山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理してみた。
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by shingen1948 | 2017-03-24 09:15 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 母校がボート競技の伝統校であることは、自分には全く関わりの無い事だと思っていた。
 しかし、N先生を介することによって少年の日に山中選手の胸の厚さに感動する体験を得たのだ。今回、自分の記憶を探りながら猪苗代湖の艇庫を確認する中で、そのN先生が会津にやってくること
が、母校がボート競技の伝統校であることがかかわっていたらしいことが分かった。

 今度は、現在の拠点らしい「福島県営荻野漕艇場」の沿革を確認してみる。
 ここは、阿賀川のダム湖を利用して作られた全長1,000メートルの6コースで(社)日本ボート協会公認B級コースなそうだ。昭和27年の第7回国体が福島県で開催されるのを契機に、昭和25年に開設されたそうだ。
「高郷村勢要覧」では、その後の主な全国大会として昭和34年(1959)と昭和53年(1978)の高校総体、昭和57年(1982)と平成3年(1991)の社会人・実業団大会、平成7年(1997)福島国体を挙げている。他に、多くの東北大会も開催されているという。

 ここに、昨日整理の戦前の練習拠点に建つ「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡」の年代情報<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>を重ねると、次の練習拠点は、国体に向けて開設された「福島県営荻野漕艇場」ではなかったかと推定される。
 昨日は、「昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館した」と推定したが、その間に「福島県営荻野漕艇場」の練習拠点が挟まるようだ。
 中田浜の「学而会館」建設は「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設され」たとのことだが、その国体というのが「福島県営荻野漕艇場」で行われた福島国体だったということなのだろう。

 昭和36年(1961)の会津若松で国体水泳の記憶と、その後の訳も分からずに陸上競技市場でマスゲームのダンスをさせられた記憶があって、高校総体の記憶だろうと思っていたが、そうでもなさそうだ。
 こちらの記憶は曖昧なままだ。
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by shingen1948 | 2017-03-21 09:13 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 「ウィキペディア」で「会津高等学校」のボート部について次のように解説されている。
 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある。

a0087378_6311873.png 今回の確認で、その戦前の練習拠点は中田浜ではなく、旧道の十六橋手前付近であることが分かる。その位置を記す。
 ここには、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>」の案内柱が建っているとのことだ。

 「学而会館」の案内にある「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」との解説と照らし合わせると、昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館したという事なのだろうと思う。

 「Web東京荏原都市物語資料館」に、学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所がある。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」に、彼の思いとして次のように記されているという。孫引きさせていただく。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 なお、このページでは、長谷川信少尉の次のような遺言を元に建てられた石碑を訪ねているのだが、その「長谷川信 碑」の現在の位置もプロットしておいた。
 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。
 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-03-20 09:28 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 リタイヤされているはずなので、見つかる筈はないと思いつつ、N先生情報をネットで検索してみた。
 すると、「会津楽水会」なる会にその名が見えた。

 この会は、昭和56年(1981)に設立された地域ボートクラブのようだが、その設立者に見える喜多方商業高、早稲田大OBの方と、N先生は同じ方なのだろうと思われる。
 自分の中では、N先生は日本史の先生なのだが、確かに高校の先生になってからは周りの方々はボート部顧問という見方をしていた。
 早稲田大OBの情報と写真の面影からみて、多分違いないと思う。

 中田浜に連れて行ってもらった記憶も、このボートがかかわっていることは確かだ。
 会津高等学校のホームページを確認すると、「学而 (がくじ) 会館」について、次のような解説が見える。
 風光明媚な猪苗代湖中田浜にある合宿施設です。昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました。
 その後、平成2年「百周年記念事業」として改築され、現在は、在校生のレクリエーション合宿や部活動合宿の他、子供会やゼミの合宿など青少年の人材育成のため地域の方々にもご利用頂いております。伝統の中田浜強歩大会の折返し地点でもあります。

 同ぺージの「会津高等学校あゆみ」では、「猪苗代湖畔中田浜に「学而会館」落成は、昭和32年とある。また、「中田浜」の情報では、昭和32年 (1957)6月8日に 「学而会館」会館とあって、建設年代は微妙に揺らぐ情報になっている。

 記憶の中では、中田浜に連れて行ってもらったのは、昭和35年頃だ。また、高校に入って中田浜強歩大会に参加したのも数年後だ。建設されて直ぐの頃だったということではあるようだ。
 端艇部は、高郷の荻野に移ったとのことだが、写真を見ると会館は新しくなったようだが、艇庫はそのまま残っているように見える。
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by shingen1948 | 2017-03-18 09:37 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 記憶がはっきりしないのだが、N先生はS.Y一郎君の家の離れに部屋住んで居たはずだ。部屋を借りていたという事なのか下宿だったのかは、分からない。これは、N先生が学校に赴任する前の話だと思うのだ。
 N先生は、東京の方で、会津に縁もゆかりもない方であり、憧れで会津やって来たという風な思い込みの記憶もある。この事とS.Y一郎君のお父さんは会津高校の先生だったはずとの記憶を合わせて想像すると、N先生の教育実習の時期だったのかもしれないとも思う。あるいは、赴任のための数か月前にやって来たということの記憶なのかもしれない。

 S.Y一郎君は、ご近所の幼馴染なのだ。幼い日の記憶の中に、休みの日には、よく会津高校の体育館で遊んでいたという記憶があるのは、このS.Y一郎君との関りだと思う。
 S.Y一郎君のお父さんは会津高校の野球部とかかわっていたことは確かで、ひょっとすると管理職だったのかもしれないが、その辺のことはよくわからない。

 多分、それらの事とかかわるのだろうと思うのだが、休みの日に、N先生に中田浜にある会津高校の合宿所に連れていてもらった記憶があるのだ。ボート終いとかかわった筈だとの記憶がある。
 その行程は覚えていない。
 バスで湖畔を回り込んだものか、当時、背炙山にケーブルカーがあった筈なので、そちらを利用して山頂に行き、そこから徒歩で下ったものか。
 ただ、印象にあるのは、途中、N先生が「矢じりかな?」とつぶやいて、畑に入って行って、何かを拾い上げたという記憶だ。
 N先生には、中学校と高等学校の6年間、日本史をお習いするはずだが、その事の記憶より、この時の記憶が強烈だ。

 山中選手の講演会の記憶は、自分の学校に当時注目される世界に通用する方がおいでになったということに加え、このN先生を山中選手が訪ねて来たということでの印象が強く結びついているのだと思う。
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by shingen1948 | 2017-03-15 10:34 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 この講演会の記憶は、自分の学校に当時注目される世界に通用する方がおいでになったということだけでも、充分思い出深い出来事だ。
 
 もっと印象深いのが、その講演会設定にかかわることだ。
 この講演会は、この学校に赴任した新採用教員を山中選手が訪ねて来たことから設定されたというのが、自分の記憶だ。
 その新採用教員というのを、仮にN先生としておく。
 自分の記憶の中では、そのN先生が山中選手の友人で、そのN先生が赴任した職場に山中選手が訪ねて来たということになっている。

 山中選手の経歴を確認する。
 山中選手は、昭和31年(1956)のメルボルン五輪に高校3年生で出場している。という事は、昭和35年(1960)のローマ五輪は、大学4年生という事になる。
 そして、会津若松の国体が翌年の昭和36年(1961)だから、大学卒業の翌年だ。
 山中選手の経歴には「輪島高から、早大、大洋漁業と進む」という表現も見える。ということは、この時期、早稲田大学から大洋漁業へ進んだあたりということが推定される。

 この時に、赴任したてのN先生の職場に訪ねて来たという事なので、N先生とは早稲田大学の同級生だったということになるようだ。このN先生は、後に会津高校のボート部を指導するようになることから、スポーツにかかわる知り合いだったのかなと想像する。

 自分の記憶に、矛盾はなさそうだ。
 それにしても、大人になて考えれば、学校としてもかなり柔軟性のある対応だったのだと思う。
 有名人が訪ねて来た事を理由に、急遽、全校生を招集した集会が設定されたというのは考えにくい。その段取りや手続きがあったのだろうと思うが、これがスムーズにクリアーされたのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-03-11 09:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 先に、小渕優子前経済産業相が福島来県をもって経済産業相来福を簡略化して、前のめりに鹿児島県入りを目指すかににも見えたが、省略はしなかった。
 省略したのは、東京の報道だった。福島の地で「鹿児島県の川内原子力発電所は、事故が起こらないよう、万全な備えをした上での再稼働だ」と発言しても、それはもはやニュースにもならなかった。
 今回の福島県知事選で、福島県民の意識は封印できると踏んだのは報道機関のようだ。

 経済産業相の鹿児島入りについては、その東京のネット配信報道でも拾うことができた。
 政府は鹿児島県入りを11月1~3日を軸に日程調整していたようだが、その予定通りに3日に鹿児島県入りしたようだ。
 ここで宮沢氏が伊藤知事に「(再稼働への)理解をお願いしたい」と要請の儀式を行ったようだ。
 知事が「近く県議会が判断するので、それを踏まえて総合的に判断したい」と応じたのだとか。

 「川内原発再稼働、鹿児島県同意へ 知事近く表明【東京新聞(2014/11/3)】
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014110301001485.html
 宮沢洋一経産相は3日、鹿児島県の伊藤祐一郎知事や県議会の代表と県庁などで会談し、九州電力川内原発1、2号機の再稼働への理解を求めた。知事は会談後の記者会見で「再稼働の必要性を明解に説明してもらった」と述べ、同意に前向きな意向を示した。7日に県議会が同意する可能性が高く、その後、知事も同意を表明する見通し。
 すでに立地自治体の薩摩川内市と市議会も同意しており、知事が同意すると、再稼働に必要な地元手続きは完了する。
 宮沢氏は伊藤知事に「(再稼働への)理解をお願いしたい」と要請。知事は「近く県議会が判断するので、それを踏まえて総合的に判断したい」と応じた。
 (共同)
 こちらは、福島県内のネット配信報道では拾えなかった。
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by shingen1948 | 2014-11-05 06:20 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)
  <菊池哲朗の世相診断>「『県民の健康調査』日本、人類への貢献【福島民報(2012/2/1)】」を「今から思えば」の資料(つぶねた)として固定しようという意識はそれ程強くなかった。その意識を強めたのは<菊池哲朗の世相診断>「『福島の経験・情報』世界、人類の歴史に 【福島民報(2012/8/1)】を見たからだ。http://www.minpo.jp/news/detail/201208012811
 大きな違いは、人類貢献の対象が日本から世界に広げたが、その他の主旨は大差ない。構造的には、『県民の健康調査』=『福島の経験・情報』とし、「人類への貢献」が、「人類の歴史に貢献」になっているに過ぎない。

 「日本、人類への貢献」の以下の部分に相当する部分を拾い、見比べる。
 いずれどうせまた世界のどこかで起こるであろう放射能被害に備えて、健康被害の有無を含めた情報を蓄積しておくことは、人類への貢献なのだ。それはとりもなおさず日本のあるいは日本人の、人類に対する医療的な社会倫理的な責任で、つまり医療制度全体のまさに根幹だ。

 「世界のどこかで起こるであろう放射能被害」に、「世界では、これから数百基の原発建設が予定されている。」からという理由を付加し、「その時に備え準備をわれわれがしておく。」とする。ここに微妙に「われわれが」という主語を挿入するのは、「私も新センター基本構想に関係しているが」という福島市出身という肩書で掴んだ役職がかかわるらしい。これで、自分も福島にかかわるという事を強調し、(自分のかかわる)「この歴史的大プロジェクトの成否は完全に県民の協力にかかっている。」と結ぶ。そして、「モルモットにするつもりか-などといったレベルで抵抗することではない。」と説得する。文章全体は、以下の通り。
 しかし、現実にそのためまず手始めに行った第1次全県民アンケート調査の結果は、回答率がこれから追加的に頑張っても3割に届かない。絶対的にこれは県民の協力姿勢に依存している。モルモットにするつもりか-などといったレベルで抵抗することではない。世界では、これから数百基の原発建設が予定されている。いつかどこかでまた原発事故は起こる。その時に備え準備をわれわれがしておく。
 福島以外今、地上で他にそれをできる人がいないからだ。そのために世界中から人材を集めなければいけないし、30年以上にわたり数千億円を使う新産業育成など波及効果が大きい巨大プロジェクトも必要だ。私も新センター基本構想に関係しているが、この歴史的大プロジェクトの成否は完全に県民の協力にかかっている。
(前毎日新聞社主筆、福島市出身)

 更に、この方は、この前の月(7月18日)には、「【原発事故調査】「人災」説の落とし穴」と題して、「人災」説をもてはやして都合よいのは誰か?ということで、今までの日本の深いところで国のシステムを支えてきたエネルギー産業全体が崩壊する事になるという警告をする。その肩書は、「前毎日新聞社主筆、福島市出身」だが、どう見ても東京目線。「前毎日新聞社主筆」はよいが、出身地福島市という肩書と目線の違和感があって後追いをした。ただ、この出身地を持って、「(福島の)新センター基本構想に関係」を勝ち取るたくましさはさすがかな。

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by shingen1948 | 2012-08-30 05:20 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)