地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 昭和33~4年に世界新記録を更新し続けた頃、山中選手が会津若松にやって来て、自分の母校に立ち寄ってくださった。
 その当時、いわゆる団塊の世代が中学生であり、母校はマンモス校となっていた。確認はしていないが、生徒数は千人近かかったのではないかと思っている。
 しかし、その思い出を語る人を今のところ確認できない。自分が受けた衝撃は他の人に比べると過剰だったということなのかもしれない。

 今回の整理をしていく中で、山中選手のふるさとでは、「山中毅さんの訃報に接して」氏の活躍の思い出が語られていることが確認できた。その情報も整理しておく。

 石川県の競泳界で五輪出場選手は5人なそうで、そのうちの3人は輪島市出身なそうだ。
 山中選手が会津若松の母校にやって来る前年のローマ大会では、その3人がそろって出場しているとのことだ。
 自分の記憶には、自由形とリレーで銀メダルをとった山中選手しかないのだが、そのうちの大崎剛彦選手は平泳ぎとリレーで銀と銅、井筒賢造選手がバタフライで8位に入賞しているのだそうだ。
 いずれも輪島出身だったということで、この3人の選手が好成績をあげて凱旋した時の輪島駅前の様子が、「能登のうみやまブシ(西山郷史)」というページに写真紹介されているのを見た。
 http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20170215

 その下段には、山中選手が高校3年の時に、メルボルン五輪で2個の銀メダルを獲得した活躍を記念して造られたという「塩水プール」も紹介されている。
 「郷里の名スイマー【憂楽帳(毎日新聞2017/3/13)】」によると、このメルボルン五輪時には、市民500人が山中選手の実家までちょうちん行列をし、花火も打ち上げられたという新聞記事もあるとのことだ。
 https://mainichi.jp/articles/20170313/ddf/041/070/034000c

 
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by shingen1948 | 2017-04-04 16:53 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 昭和33~4年に世界新記録を更新し続けた後の頃、山中選手が会津若松にやって来て、自分の母校に立ち寄ってくださった思い出を家族に語ったのは2年ほど前だ。
 多分、「家族に乾杯」というテレビ番組を家族で一緒に視聴していたのがきっかけだったと思う。
 その番組の中で出演者が出会った地元の方が、山中選手の家が近くだと紹介した場面があったと思うのだ。番組では、この事にはふれずに進行したのだが、自分としては、彼は今何をなさっているのかなという思いが起きて家族に話したのだと思う。
 それで、今回の山中毅さんの訃報の報道をみた家族が、声をかけてくれたということだ。

 家族に話している中で、その頃の楽しい思い出もいろいろ語ったのだが、真っ先に思い出して語ったのが、N先生演出で中学校の文化祭で菊池寛の「父帰る」の父の役を演じた事があるという話。
 自慢話の積もりだったのだが、家族の反応は、中学校の演題として内容的に似つかわしくないということと、当時マンモス校だったはずなのに、出演人数の配慮が足りないという批判になった。
 それでも、話としては盛り上がって楽しい会話にはなったという事だった。

 今回、山中選手の話のきっかけになったと思っている番組を紹介するページを確認しているが、今のところ山中選手にかかわる紹介部分は確認できていない。
 なお、山中選手のその後の経歴を確認したら、引退後もふるさとには戻らず、東京都内で活動なさっていらっしゃったことは分かった。
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by shingen1948 | 2017-04-03 09:04 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 会津高等学校の春の選抜甲子園出場に貢献したのは、黒沢投手と渋谷捕手のバッテリーだという大人達の会話だが、このバッテリーにかかわる思い出がある。
 ただ、この記憶は曖昧だ。
 少なくとも渋谷捕手が投球練習の球を受けている姿を見かけていると思っている。ただ、これが中学校の校庭だったという記憶なのだ。

 走り幅跳びの砂場前の助走路だったと思うのだ。
 その助走路の脇の低鉄棒近くで見ていたのだが、これが衝撃的な体験だった。
 投手が投げた球が、渋谷捕手のミットにおさまる瞬間の音だ。球と空気が擦れ合う音が鮮明に聞こえると直ぐに、その球がミットにおさまる衝撃音のすごさだ。かなり離れているはずなのに、思わずのけ反ってしまったのだ。

 しかし、この記憶どこか納得いかないところがあるのだ。
 まずは、何故見かけたのが中学校の校庭だったのかということだ。次に、それが事実だとして、自分が見かけているのが何故渋谷選手と分かっているのかということだ。

 今回整理していく中で思ったのが、N先生とのかかわりだ。
 N先生が中学校の先生だった時には、野球部の顧問だったのだ。その野球部は、県大会だと思うのだが、そこで優勝している。この記憶に間違いないとおもうのは、その壮行会と報告会に自分もかかわりがあるからだ。

 この会、野球部の保護者達が企画したようなのだが、ちょっと配慮しなければならない事が起きたのだ。
 昔、放送陸上大会というのがあったのだが、それに全会津代表として出場する選手がいたのだ。こちらは個人的な話なのでそんな計画はない。それで、その会にその選手もまぜてあげたのだ。
 その選手というのが自分なのだが、こちらとしてはいい迷惑だというのが本音だったのでよく覚えているのだ。

 先に整理したように、その野球部顧問N先生は、幼馴染のS.Y一郎君のお宅の部屋を借りて住んでいらっしゃたのだ。そして、そのS.Y一郎君のお父さんが会津高等学校野球部にかかわりのある方だったのだ。その上に、N先生は、3年後には会津高等学校に転勤になるという経緯もあった。
 それらのかかわりで、実践指導の援助を受けたのではないのかなと想像だ。その時に見た事なのだろうとの想像だ。
 だとすれば、この時の渋谷選手は大学生のはずで、黒沢選手は肩を痛めてしまっている頃になる。
球の勢いに度肝を抜かれてしまった投手は、中学生ではなかったのは確かなので、まだ高校生だったという可能性が高いかな。
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by shingen1948 | 2017-04-01 09:51 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 年を取るにつれて、競技スポーツに疑問を持つようになるのだが、会津で過ごした時代の後半は、記憶の中での競技スポーツ全盛期だ。

 山中選手の活躍に夢中になった記憶は、山中選手が昭和33~4年の世界新記録を更新し続けた頃から、その期待感で応援した昭和35年(1960)ローマ大会の頃から始まる。
 そして、その山中選手が翌年の昭和36年(1961) に、国体とのかかわりで会津若松にやって来て、自分の日常のフィールドである学校に立ち寄ってくださった。
 そのお会いした興奮で、昭和39年(1964)の東京五輪を迎えるのだが、この時、山中選手はピークを過ぎてていて、400m6位だった。
 ただ、この時には日本選手の活躍は水泳だけでなかったし、会津の片田舎の中でも、その応援対象者は日本選手にとどまらなかった。

 競技スポーツ全盛期にかかわるもう一つの記憶が重なる。
 会津高等学校が、春の選抜甲子園に出場したことだ。
 確認すると、これが昭和34年(1959)で、東北地区野球選手権で優勝し、春の全国高校野球選手権に出場している事が分かる。
 この甲子園出場の出来事は、後にも先にもなくこの時一回きりだ。しかも、この事は、一高等学校の沿革にとどまらない。会津地区全体としても、これ一回きりの出来事だったのだ。
 この時の会津全体の盛り上がりが記憶の中で重なるのだ。
 出場できたのは、黒沢投手と渋谷保守のバッテリーが素晴らしかったからだという記憶があるが、これは大人たちの話を聞いた記憶なのだろうと思う。
 それで、その後の黒沢投手の活躍を期待していたのだが、その後の活躍を耳にすることはなかった。大学に行って直ぐに肩を壊してしまったらしいとの記憶があるが、これも大人達の話の受け売りだろうと思う。
 ただ、これらの事情を知ることのできる立場の大人も少ないはずだ。多分、ご近所の幼馴染みから聞いた話なのだろうと思う。
 というのは、先にこの幼馴染の一部屋にN先生が住んでいたことは記したが、そのお父さんがその当時、会津高等学校の野球部にかかわった方なのだ。この幼馴染のお父さんのかかわりで知った事なのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-03-31 08:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 早稲田大額のホームページを確認すると、山中選手が「早稲田大学スポーツ功労者表彰」を受けた時の挨拶で、競技人生について次のように述べた事が記されている。
 オリンピックに3度出場し、4個の銀メダルを獲得しましたが、金メダルは獲得できませんでした。いくら他の大会で優勝しても、オリンピックで優勝できなければ何の意味もありません。4年に1度のオリンピックで最高の状態に持っていくこと、それがアスリートの力です。

 先に記したように、山中選手は大学在学中に世界新記録の更新を積み重ねて、昭和35年(1960)のローマ五輪を迎えている。その結果としては2位の銀メダルではあるが、僅差の2位である。
 ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇はない。しかし、当人としては4個の銀メダルよりも1個の金メダルが欲しかったということだ。

 実は、N先生もスポーツの世界では、過程でのどんなに素晴らしい努力があっても、1番にならなければ意味がないというようなことを話されていたことを思い出したのだ。結果として1番になることの重要性だ。
 自分には、大人になるにつれて競技スポーツに違和感を持つようになるのだが、その原点がここにあるように思う。
 一流選手側の話としては、結果としての1番かどうかの差が、その後の人生にまでかかわるという話は聞く。しかし、我々凡人の世界では、1番を目指し、ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇しなくていいと思う。
 もし、我々が競技スポーツ者だったとしても、個人的には1番を目指して取り組んだ事を重視し、その結果にはこだわらないという態度を、基本的な姿勢として持ち続けたいものだと思っている。
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by shingen1948 | 2017-03-29 09:43 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年に山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理した。

 その昂奮の記憶の接点には、N先生の存在がある。
 先にも記したように、そのN先生にかかわる情報は、殆どが漕艇競技の指導者としての情報なのだが、当方は漕艇競技に興味がないものだから、それらの情報が直接的に思いでに結びつかなかった。

 しかし、ひょんなことから思いでに結びつくかもしれない情報を見つけた。
 「三四郎(夏目漱石)」の研究にかかわる論文の参考資料にN先生と同姓同名の方がかかわる情報を見つけたのだ。「夏目漱石『三四郎』の比較文化的研究(土屋知子)」
 その参考文献として挙げられているのは、「『25秒74』と『紫の猿股』【福島県喜多方商業高等学校『図書館報(第26号1985年2月)』】」だが、論文の本文には、「この『紫の猿股』を穿いて『200メートルの競争』を『25秒74』で走り抜けた人物は実在した人物で、藤井実という帝国大学法科大学学生であることがわかっている」とする方の名が挙げられているのだが、この方がN先生と同姓同名なのだ。
 福島県喜多方商業高等学校にかかわりのあるN先生と想像した漕艇競技指導者の方なのではないかなと想像したということだ。

 これは、「三四郎(夏目漱石)」の作品で描かれる「東京帝国大学運動会」にかかわる考察なのだが、その論文によると、この明治37年(1904)11月12日に行われた東京帝国大学運動会でのこの記録は驚異的な記録なのだそうだ。
 その藤井実氏は、明治35年(1902)11月8日の東京帝国大学運動会では100メートル10秒24で走っていて、当時の世界新記録なのだという。更に、明治38年(1905)11月11日の運動会では棒高跳びで3メートル66の当時の世界新記録も出し、明治39年(1906)11月11日の運動会では、その記録を3メートル90に更新しているのだそうだ。
 これらの記録を、帝国大学浜尾新総長は、計測装置開発者で実測者である田中館愛橘博士証明文と共に、アメリカの主な大学に通知したのだとか。
 それで、明治40年(1907)AAU(アメリカ競技連合)のスポールディング社発行の年間「アスレチック・アルマナック」に藤井実の写真とそのレコードは掲載されたが、残念ながら公認には至らなかったとのことだ。

 曖昧な記憶の中では、思いでとつながるN先生もこの「東京帝国大学運動会」に詳しかったと思うのだ。この運動会は、運動会というイメージとは違って、世界的に通用する計測で実施される記録競技会であったというような話をN先生から聞いているような気がしているのだ。
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by shingen1948 | 2017-03-27 17:05 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 山中選手の活躍に昂奮した記憶は、昭和35年(1960)のローマ五輪なのだと思う。連日現地の速報が新聞やラジオで流されていたはずだ。
 あの時代の実況の記憶に、映像はない。音声の記憶だ。

 録音なのか実況中継なのかは分からないが、音声が遠のいたり、鮮明になったりする中、での中継アナウンサーの声が、その思い出を支えている。
 セリフは、「現在、山中、トップッ」だったり、「トップはローズ、山中が続いています」だったりしたはず。接戦のはずなのだ。

 あの時の昂奮を支えた情報を確認する。
 先に経歴で、昭和31年(1956)に、輪島高3年でメルボルン五輪に出場し、金メダルを取ったオーストラリアのマレー・ローズと激闘を演じ、400m、1500m自由形で銀メダルを獲得したことについてはふれている。
 山中選手は、その後、早稲田大学に進学すると、世界新の記録を樹立する。

 「朝日スポーツ賞」のページで、その活躍を確認する。
 昭和33年度(1958)に200m自由形で2分3秒0の世界新を樹立する。(8/22大阪)
 その翌年の昭和34年度(1959)には、400m自由形で4分16秒6の世界新を樹立する。(7/26大阪)
 また、「梅本利三・藤本達夫・福井誠・田中毅」の800mリレーでも、8分21秒6の世界新を樹立し(7/22神宮プール)、「田中毅・福井誠・見上勝紀・藤本達夫」の800mリレーでは、先のレコードを更新し、8分18秒7の世界新を樹立する(7/26大阪)。
 このように、田中選手がかかわる競技では次々に世界新を樹立して、その期待感が高まった中で迎えたのが、昭和35年(1960)のローマ五輪だ。
 なお、この年、田中聡子も女子200m背泳で2分37秒1の世界新を樹立している。(7/12神宮プール)

 山中毅選手が世界新記録を出した勢いのままローマ五輪を迎えていたのだ。
 再び、オーストラリアのマレー・ローズとの激闘になるのだが、この勢いに乗って、メルボルンの雪辱を果たすのではないかという期待感もあって、日本中がローズとの再度の激闘に注目したはずなのだ。

 訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年にその山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理してみた。
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by shingen1948 | 2017-03-24 09:15 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 母校がボート競技の伝統校であることは、自分には全く関わりの無い事だと思っていた。
 しかし、N先生を介することによって少年の日に山中選手の胸の厚さに感動する体験を得たのだ。今回、自分の記憶を探りながら猪苗代湖の艇庫を確認する中で、そのN先生が会津にやってくること
が、母校がボート競技の伝統校であることがかかわっていたらしいことが分かった。

 今度は、現在の拠点らしい「福島県営荻野漕艇場」の沿革を確認してみる。
 ここは、阿賀川のダム湖を利用して作られた全長1,000メートルの6コースで(社)日本ボート協会公認B級コースなそうだ。昭和27年の第7回国体が福島県で開催されるのを契機に、昭和25年に開設されたそうだ。
「高郷村勢要覧」では、その後の主な全国大会として昭和34年(1959)と昭和53年(1978)の高校総体、昭和57年(1982)と平成3年(1991)の社会人・実業団大会、平成7年(1997)福島国体を挙げている。他に、多くの東北大会も開催されているという。

 ここに、昨日整理の戦前の練習拠点に建つ「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡」の年代情報<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>を重ねると、次の練習拠点は、国体に向けて開設された「福島県営荻野漕艇場」ではなかったかと推定される。
 昨日は、「昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館した」と推定したが、その間に「福島県営荻野漕艇場」の練習拠点が挟まるようだ。
 中田浜の「学而会館」建設は「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設され」たとのことだが、その国体というのが「福島県営荻野漕艇場」で行われた福島国体だったということなのだろう。

 昭和36年(1961)の会津若松で国体水泳の記憶と、その後の訳も分からずに陸上競技市場でマスゲームのダンスをさせられた記憶があって、高校総体の記憶だろうと思っていたが、そうでもなさそうだ。
 こちらの記憶は曖昧なままだ。
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by shingen1948 | 2017-03-21 09:13 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 「ウィキペディア」で「会津高等学校」のボート部について次のように解説されている。
 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある。

a0087378_6311873.png 今回の確認で、その戦前の練習拠点は中田浜ではなく、旧道の十六橋手前付近であることが分かる。その位置を記す。
 ここには、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫跡<明治32年(1899)~昭和26年(1951)>」の案内柱が建っているとのことだ。

 「学而会館」の案内にある「昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました」との解説と照らし合わせると、昭和27年に艇庫を中田浜に新築し、そこに昭和31年に「学而会館」が建築され、昭和32年6月8日に開館したという事なのだろうと思う。

 「Web東京荏原都市物語資料館」に、学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所がある。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」に、彼の思いとして次のように記されているという。孫引きさせていただく。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 なお、このページでは、長谷川信少尉の次のような遺言を元に建てられた石碑を訪ねているのだが、その「長谷川信 碑」の現在の位置もプロットしておいた。
 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。
 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-03-20 09:28 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 リタイヤされているはずなので、見つかる筈はないと思いつつ、N先生情報をネットで検索してみた。
 すると、「会津楽水会」なる会にその名が見えた。

 この会は、昭和56年(1981)に設立された地域ボートクラブのようだが、その設立者に見える喜多方商業高、早稲田大OBの方と、N先生は同じ方なのだろうと思われる。
 自分の中では、N先生は日本史の先生なのだが、確かに高校の先生になってからは周りの方々はボート部顧問という見方をしていた。
 早稲田大OBの情報と写真の面影からみて、多分違いないと思う。

 中田浜に連れて行ってもらった記憶も、このボートがかかわっていることは確かだ。
 会津高等学校のホームページを確認すると、「学而 (がくじ) 会館」について、次のような解説が見える。
 風光明媚な猪苗代湖中田浜にある合宿施設です。昭和27年の端艇部の国体優勝を期に昭和31年に建設されました。
 その後、平成2年「百周年記念事業」として改築され、現在は、在校生のレクリエーション合宿や部活動合宿の他、子供会やゼミの合宿など青少年の人材育成のため地域の方々にもご利用頂いております。伝統の中田浜強歩大会の折返し地点でもあります。

 同ぺージの「会津高等学校あゆみ」では、「猪苗代湖畔中田浜に「学而会館」落成は、昭和32年とある。また、「中田浜」の情報では、昭和32年 (1957)6月8日に 「学而会館」会館とあって、建設年代は微妙に揺らぐ情報になっている。

 記憶の中では、中田浜に連れて行ってもらったのは、昭和35年頃だ。また、高校に入って中田浜強歩大会に参加したのも数年後だ。建設されて直ぐの頃だったということではあるようだ。
 端艇部は、高郷の荻野に移ったとのことだが、写真を見ると会館は新しくなったようだが、艇庫はそのまま残っているように見える。
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by shingen1948 | 2017-03-18 09:37 | ☆ その他の話題 | Comments(0)