地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「会高通史」の長谷川信氏にかかわる「戸ノ口にまつわる悲話一つ」で締めくくるその前に、モンタ婆さんが紹介されている。
 信氏が同志社に入学するが直ぐに帰郷してしまって、「ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」時に、このモンタ婆さんに世話になっていろいろな話をしていたようだ。墓碑の土地の物色にも骨を折られた方でもある。
 情報を拾っておく。

 このモンタ婆さんには昭和26年の創立60周年記念式典に感謝状を渡すはずだったが、病気で欠席なされたのだそうだ。それで、感謝状を届けたそうだが、その際に、着物を着がえて、養子夫婦と一緒に並んで受け取ったとのことだ。
 小林先生は、これをその律義さと捉える。このモンタ婆さんは、元気で語気は荒かったそうだが、生徒思いで親切だったようでもあったという。
 そのエピソードとして、生徒が無断で艇庫に電灯をつけたのを東電社員に見つかって脅された時の婆さんの駆け引きと胆力は頼もしい姿を描写する。

 情報として気になるのは、ここに「養子夫婦」とあることだ。旦那さんはいなかったという情報とも重なる。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」だが、明治の頃の「とら婆さん」と同一人物なら、「婆さんはケチケチしていて、娘夫婦はのんびりしていた」ということで、生徒に厳しかったようだが、事が起これば生徒側に立つ愛情深い方だったことが分かる。
 また、「明治の頃」で娘夫婦とされるのが、「昭和のころ」で養子夫婦とされる方と重なるのだろうか。
 なお、モンタ婆さんは、豆腐作りの名人でもあり、その豆腐は堅豆腐でとてもおいしかったそうだ。強清水にも卸していたのだそうだ。
 
 そのモンタ婆さんは、昭和30年8月に「戸ノ口ボートの滅亡に殉ずるがごとく永眠した」とのことだ。

 「会高通史」では、その「戸ノ口ボートの滅亡」については、次のように表現される。
 「戦後昭和24年、小石ケ浜の水上運動会復活とともに、また部員が通うようになりはしたが、船も思うように使えず、生徒も思うように使えず、生徒もレクリェーション気分が濃厚で、伝統の戸ノ口精神は色あせた。全国的なスポーツ熱にうながされて会高端艇部も、戸ノ口に見切りをつけて、昭和26年には荻野ダムの県営漕艇場に乗り出した」

 「戸ノ口に見切りをつけ」るきっかけとなる水深低下と共に気になるのが、色あせたという「伝統の戸ノ口精神」と、荻野ダムの県営漕艇場に乗り出すことを「全国的なスポーツ熱にうながされて」と表現していることだ。

 信氏とのかかわりで見れば、次に「伝統の戸ノ口精神」を読み取っておくべきだろうかと思う。
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by shingen1948 | 2017-08-30 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「戸ノ口にまつわる悲話一つ」に、「暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た」とある。当時の状況を知る方にとっては、この表現で、特攻隊員が艦に突入前に許された最後の帰省であることが直ぐに分かるようだ。
 この最後の帰省については、先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23831534/

 主として「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」で紹介された情報によった。以下に再掲する。
 
 「信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
 英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
 この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
 両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
 父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという」

 この整理時点では、この情報源は地元ならではのものだろうと想像した。主として「会高通史」だろうと思っていたところだった。
 しかし、今回、その「会高通史」を確認してみると、こちらに紹介される内容より詳しいことが分かる。

 「上官に取り上げられた『歎異抄』の代わりの本を所望された」とした情報は、「会高通史」では「最後まで読書と思索を廃さなかった青年将校に乞われるままに数冊を贈って夜半分かれた」と記される。
 また、両親は何となくただならぬ雰囲気を感じて、父啓治氏がこの夜は枕を並べて寝たという情報は通史にも記されるが、信氏が去った後の母シゲさんの行動については全く記されていない。

 今のところ、この情報の元になっているのは「明治学院百年史」にしかたどりつけない。綿密な地元取材を行ったことは確認できるし、当時、小林先生や情報通の菩提寺のご住職が御健在だったことも確認できる。その取材情報だろうと推測する。
 信氏の最後の状況も「会高通史」より「明治学院百年史」の方が詳しい。同じ隊の生き残りの方の取材によることが記されている。

 最近、「Web東京荏原都市物語資料館」で、最後の帰省が許される頃の信氏の所属部隊の様子やそこから信氏の最後の状況に至る経緯も明らかになってきているようだ。こちらは、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報から深められたようで、近々、その冊子が出版されるとのことだ。

 照らし合わせてみたいのは、信氏の最後の帰省以降、小林先生に届いた便りと足取りのかかわりだ。
 「会高通史」には「国内の基地を飛び継いで1週間後の決行になる」とあり、その間に「2、3回心境をしたためた葉書が送られてきて、太刀洗からの便りが最後だった」とある。
 最初の便りは、恐らく長野県松本の浅間温泉富貴湯旅館に向かう途中、或は旅館について直ぐであろうことが想像できる。そして、二通目の便りは想像が難しいが、三通目の最後の便りが、福岡の「太刀洗」とのことだ。
 確認を進めると、ここには北飛行場があって、ここから終戦前の5月25日に重爆特攻隊が出撃していたという。
 この情報とどうつながるのかなということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-29 09:10 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「戸ノ口にまつわる悲話一つ」として長谷川信碑が紹介されるのだが、信氏については、次のように紹介されている。
 「若松市中本六日町小国屋の息子、長谷川信君、生来無口の瞑想型、4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた。
 暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た。満州で特攻隊に編入され不日沖縄地区の敵艦に突入するため別れに来たと」

 先に信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に整理した事があった。その情報を箇条書きにして重ねるとこんな感じのようだ。

 大正11年4月12日会津若松市に生まれる
 昭和4年小学校入学
 昭和10年4月会津中学入学
 昭和13年4年生の途中で休学する
 昭和14年春復学する
 昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
 ※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
 昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
 ※この頃松江高校受験も。
 昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学

 この「昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷する」あたりと、「4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」というあたりの情報が重なる。
この進路の迷いを重ねてみたことで、本当に「我が青春と対決して想いを深めていた」んだなということがよく分かる。

 この情報は、更に、モンタ婆さんがよくいっていたという次の情報とも重なる。
 「『信ちゃんが一人で来ては泊まっていくのだけれど、俺は戸ノ口だけが好きだ。いつか死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたいなんていうので可哀そうになってしまう。本当にどういうわけなのだろう』と。戦死となってそれを思い出し、遺骨はないが生前の願いなので家族やモンタ婆さん達と土地を物色したが、湖水のよく見えない平地の畑中に碑を建てることになって残念で気の毒である」

 「死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたい」というのは、彼の日記にも記されているとのことだったはずでもある。本当に戸ノ口が好だったんだなと思う。
 信氏の好きな戸ノ口の思いがかなり強いようなので、碑が建ったのは湖水が見えないところだとしても、十分に戸ノ口を感じているのではないかなと思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-25 17:51 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会高通史」の「第三章 昭和になって」の項を担当したのが、信氏の時代のボート部顧問小林貞治氏のようだ。
 特に記名はないが、昭和になっての「はじめに」に自己紹介されている内容と執筆者紹介に「明治42年(1924)生:相馬女子高校長(元会津高校教諭)昭和5年~32年」との紹介との矛盾がない。

 その「六 戸ノ口とモンタ婆さん」の項で、会津中学ボート部顧問になる事情とボート部の様子が記されて、その項の最後に「戸ノ口にまつわる悲話一つ」との書き出しで、長谷川信氏のことにふれてまとめとしている。

 その最後の最後は、「私の妻は小学校時代の信君の受け持ちだった。本当は妻に別れを告げにきたらしい」ということで、「彼女信君の戦没を悼む」として、次のように〆られる。

 垂乳根(たらちね)の生ましし命光なして空にかえりぬ汝が生まれし日に
 戦いは止みぬといふに与那国の海ゆ還り給はず
 若き命傾け尽くし与那国の海に君は眠るか

 小林先生の奥様敏子さんは信氏を偲んで短歌集「湖畔の碑」10首を詠んでいて、それが短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されている。
 まずは、その事にかかわる次の2首の紹介を見つけ整理している。

 特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
          葉書の文字がわれを泣かしむ

 死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
          幼き面輪に香華はのぼる

 次に、別の資料で次の一首の紹介を見つけて付け加えた。

 特攻機にて基地発つ君がよこしたる
          最後の文字「シアワセデシタ」

 更に、しばらくして気になっていた以下の残りの7首も確認できた。

 湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
 生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
 「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
 君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
 ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
 雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
 駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる

 今回確かめている「会高通史」に寄せられているのはそれとは別で、「戸ノ口にまつわる悲話一つ」にかかわる彼女の「信君の戦没を悼む」思いを新たに寄せたようだ。
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by shingen1948 | 2017-08-24 16:58 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏は、会津中学に入るとボートに熱中するようだ。
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。

 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
a0087378_9154435.jpg 「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。

 ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
 この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
 これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
 野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
 明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。

 この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
 毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。

 ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-23 09:17 | Comments(2)
 先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として、資料をもとに長谷川信氏について確認している。この時に、会津に出かける時には、ぜひ長谷川信碑を訪ねてみたいものだと思っていた。

 今回、家族と一緒に会津若松市に出かけることになったので、向かう途中に立ち寄ろうと思った。家族には、出かける前にその概要を説明し、立ち寄りたい旨を話しておいた。

 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 今回は街道筋の散策ではないので、国道49号線を進んで日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入った。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開けてきて、その先に何かの記念碑が見える。
 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。恐らく、現在は戸口集落へ向かう主要な道筋はこちらなのだろうと思われる。
 その道筋を右折してやや進むと「長谷川信碑」が左手に見える。
a0087378_6455478.jpg

 長谷川信 碑 
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事
 だろうだがたった一つ出来る涙を
 流して祈る事だそれが国泰かれか
 親安かれか知らない祈ることなのだ
  大正十一年      会津若松市に生まれ
       四月十二日
  昭和二十年       沖縄南方上空に散る

 先にも記したように、最後の日付の表記は、4月12日が彼の生まれた日であり、そして亡くなった日でもあることを表現している。
 家人は誕生日と亡くなった日が同じことを示す最後の碑文に驚いていた。

 この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 先の整理では、当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地らしいとしたが、そうではないらしい。当初から湖が見える所には建てることができなかったらしい。ただ、彼の思い出の地近くにこの碑を建てることができたということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-08-21 06:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 この「会津の『わたつみのこえ』を聞く」を整理しようと思ったのは、先に「山中選手の 訃報に接して」の整理中に、長谷川信氏を知ったことだ。
 とりあえず「きけわだつみのこえ」を借りて読んでみようと思って、県立図書館の図書検索をしたら、目的とした書籍と共に「歴史春秋【会津史学会編第78号】」が提示された。
a0087378_10112921.jpg とりあえず「歴史春秋【会津史学会編第78号】」と「きけわだつみのこえ」の両方を借りて確認したら、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」という8ページの長谷川信氏を紹介する小文に出会うことができた。
 その参考文献から、「明治学院百年史」・「会高通史(昭和40年)」・「オピニオン学徒出陣学徒動員【朝日新聞2003/7/23】を知り、そのうちの「明治学院百年史」の確認ができた。
 また、本文中に「明日への言葉【NHKラジオ深夜便】」の「疎開児童が見た特攻隊(木村健<童話作家>)」が紹介されていたことを確認する中で、「山中選手の訃報に接して」の整理中に長谷川信氏を知ることになった「Web東京荏原都市物語資料館」が、この方のWebであることを知った。
 それで、これらの資料の関連性を確認する中でとりあえず「会津の『わたつみのこえ』を聞く」を整理しておこうと思ったのだ。

 今回の整理を通して、「わたつみのこえ」を真摯に聞こうとする方々とこれを動機として別目的に利用しようとする方々がいらっしゃることが分かった。
 これを動機として別目的に利用しようとすることの一つは、物語性への着目があるようだ。感動性を高めるには、「特攻戦死」の遂行が成功なされた方が選考される。そこに、悲恋があればよりドラマ性が増す。
 長谷川信氏にはFとい恋人がいて、「静かな猪苗代湖湖畔を二人で歩いてみたい」との思いは確認できるが、特攻完遂でないので取り上げられることはないという木村氏の評価に納得する。
 逆に「わたつみのこえ」を真摯に聞こうとする方々にとって会津のわたつみ長谷川信氏の評価は高いようだ。

 最後に蛇足。
 国のリーダーは当然真摯に耳を傾ける方であるはずという思いはあるが、整理していく途中で聞こえてくる最近のニュースから、本当はどちらの方々なのかなと迷うことがあるのが残念だ。
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by shingen1948 | 2017-06-01 10:12 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受けた後、満州二渡り、新京で編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となるという大筋の経歴は同じだが、微妙な違いはあるようだ。
 長谷川氏は、「明治学院百年史」によれば、次のような経緯だ。
 昭和19年2月熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける。ここで6か月過ごした後、同年7月付で満州の第101教育飛行団第32教育飛行隊に移されて、更に訓練を重ねる。
 その後、20年2月に特別攻撃隊員の命令を受け、2月10日に少尉任官する。
 同日に、新京で編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。この隊が、台湾第8飛行師団配属になる。

 一方、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は、彼は、東航から熊谷飛行学校で訓練を受けた後、山梨県玉幡飛行場で更に訓練を受けて、ここから満州に渡ったようだ。
 この更に訓練を受けるというのが、軽爆訓練とあるが、九九式襲撃機操縦だろうと想像しているようだ。
 そして、昭和19年年8月に、満州に渡った。軽爆が多く残っていたのが平台飛行場だとある。

 次に別れだが、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は武揚隊でただ一人知覧飛行場を飛び立って特攻戦死しているとのことだ。
 その経緯は、次のようだ。
 武揚隊が新田原に向けて飛び立つとき、各務原で彼の機だけが不調で出発できなくて、やむなくとどまったということだ。
 彼の家は高山線、上麻生にあり、彼は一泊の外泊を申し出て故郷に帰った経緯が「白い雲のかなたに 陸軍特別攻撃隊」(島原落穂著 童心社)に掲載されているという。

 機の不調から遅れをとってしまった長谷部氏は、そこから知覧に行き、誠隊から振武隊に転属し、4月22日に「第31振武隊」として単機で出撃したとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-05-31 16:47 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 次の会話は、深い意味はなく、単に名前が似た方がお二人いらっしゃったということの確認だと思う。
 「武揚隊には長谷川信という人と、長谷部良平という人がいましたが、長谷部さんのことではないですよね?」
 前に秋元佳子さんに確かめたところ、長谷川さんに間違いないとのことだった。ところが、この長谷部良平伍長の行方が分かった。一人武揚隊として四月二十二日に知覧飛行場を飛び立って特攻戦死していた。

 とりあえず、「Web東京荏原都市物語資料館」から長谷部良平伍長の出身とか戦死とかにかかわる基本的な情報を拾っておこうと思った。
 まずは出身から武揚隊に所属するあたりの情報を拾う。
 故郷は高山線、上麻生にあるとのこと。そこから東航に進んだ東京陸軍少年飛行学校出身者とのことだ。
 その東航から熊谷飛行学校へ進み、それから山梨県玉幡飛行場に向かったとある。ここは軽爆訓練のためとあるが、木村氏は、ここで九九式襲撃機に乗ったのかなと想定しているようだ。
 そして、昭和19年8月に、ここから満州に渡ったということだ。

 当方には、恥ずかしながら知識不足から確認しなければならないことがいくつかあって、手間取っている。
 その一つが「東航」。
 「ウイキペディア」などから情報を拾うと、これは、東京陸軍航空学校の略なそうだ。
 ここは、航空兵科現役下士官となる少年飛行兵を志願した10代の生徒(14~17歳)に基本教育を行う学校とのことだ。
 昭和12年(1937)12月に設立、本校は東京府北多摩郡(現武蔵村山市)に置いたとある。
 約64ヘクタールの土地に校舎や校庭、グライダー用滑走路などを整備し、毎年入学する約1400人の10代の少年に1年で軍用機の操縦、整備、通信に当たる航空兵としての基礎教育を施した。
 昭和18年(1943)4月、東京陸軍少年飛行兵学校と改称。

 「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」は現武蔵村山市指定旧跡になっているとのことで、次のような説明板が建っているとのこと。その説明から、学校の概要をとらえる。
 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には,かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。
 東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満14歳から17歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練等の術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が終了すると、適性検査の後、操縦・整備・通信の各分野に分れた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。
 当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。
 武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
     平成21年3月
         武蔵村山市教育委員会

 受験資格の年齢だが、「ウイキペディア」では、操縦生徒は満17歳以上19歳未満、技術生徒は満15歳以上18歳未満としている。
 また、在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属されるとある。そこで、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官するという。

 これで、長谷部良平氏が伍長という役職であることも納得。
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by shingen1948 | 2017-05-30 11:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「Web東京荏原都市物語資料館」の「下北沢X物語(3285)」の副題になっている「今度会ふときは九段の花の下」は、 飯沼芳雄伍長の言葉なそうだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52045908.html
 飯沼芳雄伍長は松本出身とのことで、松本では同級生の慰問を受けることになったそうだ。その同級生に書き残したのが、この言葉だとの事だ。
 この方は、7月19日に八塊から出撃に向かった4機の中の1機で、この時に戦死なされたそうだが、特攻特攻突撃と評価されていたなそうだ。この時に評価されたのは藤井清美少尉のみとのことだった。
 墜落か交戦死ということだったのだろうと想像されるという。

 この言葉に接した時に直ぐに思ったのは、会津を故郷とする信氏にはこの戦死観はなかっただろうということだ。
 会津での戦死観は全国共通ではない。もっとも、ことを知ったのは故郷を離れてからだが、……。
先に「忠霊塔」で整理したように、会津の戦死観は戊辰戦争とかかわる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14086402/ 

 若松では、戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊は西軍墓地に祀られている。
 会津で過ごす頃は、当然ながら「若松の東軍」の視点でみている。更には東軍の遺体を埋葬することすらかなわなかったという話を聞く中で、東軍墓地を眺めている。
 この御遺体のある戦死者の弔い方についての思いがベースにある。
a0087378_18515274.jpg その上で、若松では、日清戦争からの対外国との戦争の戦没者が祀られるのは小田山の「忠霊塔」だ。
 こちらは御遺体が存在せず魂の拠り所ということでもあるだろうか。

 会津での戦没者の慰霊の原風景は、この戊辰戦争の「西軍墓地」と「東軍墓地」、そして、この近世戦争の「忠霊塔」ということだ。

 この原風景との比較のなかで、「九段の花の下」につながる福島縣護國神社に祀られる魂の第一号が世良氏で、それに続く西軍墓地に祀られた戊辰戦争西軍従軍戦死者の方々の御霊が祀られるということだ。組織的な遺族会がどういう構成になっているかは知らないが、会津に生活していた時点での感覚的でいえば、「忠霊塔」に祀られる対外国の近代戦戦没者も、第一号の世良氏に続く戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊と共に祀られ、そこで会おうという感覚はありえない。

 「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う」という信氏の思いは、会津で生活した事のある者には素直に受け取れるということだ。
 ただ、「分骨してもらおうと思う」という部分には、せつなさも感じるが、……。
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by shingen1948 | 2017-05-28 18:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)