地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 先の地方紙の報道では、「遺族らの高齢化が進み、民間での慰霊祭は継続できず断念することになった」との報道だった。
 毎日新聞の地方版では、今後の在り方についても報じられていた。
 https://mainichi.jp/articles/20171013/ddl/k07/040/056000c
a0087378_6261524.jpg 市は関係者の要望を受け、市主催戦没者追悼式典の関連行事などとして存続させられないか検討中だとのことだ。ただ、追悼の在り方として、神式の式典の継続には課題があるとのことで、関係者と協議しているとのことだ。

 また、こちらの報道では、今まで慰霊祭を主催してきた顕彰会についても次のように紹介されている。
 顕彰会は元特攻隊員で戦後、この地で暮らした故八牧通泰さんが設立に尽力。2013年に通泰さんが死去してからは、妻の美喜子さんが事務局を取り仕切っていた。美喜子さんも昨年10月の慰霊祭直前に87歳で急逝した。

 この美喜子さんが急逝されたことについて「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力」と報道されたことは、原町飛行場を確認している時に目にしていた。
 これを目にしていたから、今回の報道にも目にとまったということでもある。
 http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/124000c
 「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力【毎日新聞(2016/10/13/福島版】」
 太平洋戦争末期、陸軍の原町飛行場(福島県南相馬市原町区)から飛び立つ特攻隊員を見送り、「原町特攻の花」と呼ばれた八牧(やまき)美喜子さん=同区上町3=が5日、87歳で亡くなった。10代のころ、実家の牛乳店を訪れた特攻隊員たちと交流を重ね、戦後は元隊員の夫と戦没者の慰霊に尽くす人生だった。
山形県生まれ。幼くして父を亡くし、南相馬で牛乳店を営む母の実家に移り住んだ。アイスクリームが人気で、飛行場で訓練を重ねる若い隊員が息抜きのため連日集まった。病弱だった美喜子さんは療養の傍ら、母と一緒に当時貴重だった砂糖で大福を作って振る舞ったり、得意の琴を演奏したりして、「みきちゃん」と家族同然に親しまれていた。1996年には、当時書き連ねた自身の日記を基に「いのち 戦時下の一少女の日記」(白帝社刊)を出版。死を覚悟して戦地へ飛び立った特攻隊員から届いた手紙も収録され、美喜子さんに淡い恋心を寄せながら南の海に散った若者への追慕の思いをつづった。
 71年夏には、夫通泰さん(2013年に死去)の奔走で市内に特攻隊員らの慰霊碑を建立。美喜子さんは、毎年10月に開く慰霊祭で世話役を務めながら、平和の尊さを語り続けてきた。
 親族によると、美喜子さんは5日午前、自宅でテレビの国会中継を見ている時に気分が悪くなり、病院で死亡が確認された。急性大動脈解離だった。
 死去の5日後には46回目となる慰霊祭が市内であり、鹿児島県知覧町(現南九州市)で「特攻の母」と呼ばれた故鳥浜トメさんの孫の赤羽(あかばね)潤さん(49)も6年ぶりに参加。「祖母が開いていた食堂で、多くの特攻隊員と交流があった母と全く同じ経験をされた方。お会いできるのを楽しみにしていたのに」と悼んだ。
 戦前から美喜子さんと交流があった南相馬市の森敏子さん(88)は「若い特攻隊員のマドンナ。白いマフラーを巻いた隊員を送り出した、あのつらい光景が私たちの青春時代でした」と語った。
 葬儀は13日午前、同市内で営まれる。【大塚卓也】


 ここで報じられている46回目の慰霊祭というのが、昨年の慰霊祭だ。今年の報道は、その関連性の中で報じられているという事のようだ。
 地元への密着度が高いと感じる。
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by shingen1948 | 2017-10-15 09:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 散策したり、散策した人の軌跡をたどったりするのには、見取り図から地図に落として、遺跡として残っているものを確かめる必要がある。
 その資料となるものを探したら、「街道web」の「福島県浜通りの飛行場跡1」として、「原町飛行場」のページに、それを見つけた。
 http://kaido.the-orj.org/air/hara.htm
a0087378_1417955.png  遺蹟として残るのは、その飛行場全体の東側である事が分かる。
 具体的には、正門の門柱・軍堺標・雲雀ケ原神社(航空神社)入口標柱・第1~3格納庫の地面・第4格納庫のコンクリート基礎と地面・第5格納庫の南北両側のコンクリート基礎等が残っている事が紹介される。
 更に、正門の門柱の様子が紹介されている。

「南相馬市博物館」のページには、この中の当時の正門の門柱の様子と第4格納庫のコンクリート基礎・雲雀ケ原神社(航空神社)入口標柱が写真で紹介されていた。
 更に、原町飛行場関係戦没者慰霊碑銅像の写真等も紹介される。
 https://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/24,26513,137,html

 これで原町飛行場と陣ケ崎公園墓地慰霊碑訪れたきたむら氏の散策は大体追えたのだが、陣ケ崎公園墓地慰霊碑の位置確認はできなかった。
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by shingen1948 | 2017-10-13 14:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 相馬野馬追のメイン会場なので、雲雀ヶ原には行ったことがある。しかし、その西に広がる平地が原町飛行場跡地であるということを知らなかった。
 きむら氏が訪れる記事を具体的にイメージすることができていなかったのだ。
 それで、原町飛行場についての確認だけはしていたのだ。ただ、散策予定がないので整理はしていなかったということだ。
a0087378_14145577.png 散策資料に紹介される原町飛行場の見取り図は、どれも青田信一氏が提供されるとした昭和15年当時の様子だ。
 これは「はらまち九条の会」会報紙からお借りした。

 武揚隊隊長の山本薫氏も、訓練兵として、この「学生舎」で生活していたのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-10-12 14:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 地方祇を眺めていたら、原町飛行場の最後慰霊祭の記事があった。

 先に「会津のわだつみ」長谷川信氏について「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として整理し、その情報を元に、会津での長谷川信氏の情報を整理したところだった。
 原町飛行場は特攻隊がかかわる飛行場だが、長谷川信氏が直接かかわるわけではない。かかわるのは信氏が所属した武揚隊隊長の山本薫氏だ。

 「会津のわだつみ」長谷川信氏について整理している中で、会津でも「長谷川信少尉」の手記をもとに非戦平和を訴えてこられた信氏の菩提寺ご住職が亡くなられているという情報を耳にしていたところだった。会津でも信氏の話を元に非戦平和が意識される機会が減るだろうなと思っていた。
 こちらも、慰霊祭が無くなれば報道される機会はなくなるだろうから、忘却が進むのだろうと思う。

 きむらけん氏も「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」脱稿後に原町飛行場と陣ケ崎公園墓地慰霊碑訪れているようだ。
 次のように整理されている。
 〇 下北沢X物語(3354)―旅での瞑想:原発と特攻―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52052801.html#more
 〇 下北沢X物語(3356)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52052973.html
 〇 下北沢X物語(3357)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ2―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52053056.html
 〇 下北沢X物語(3358)―機械と神・航空神社と鉄道神社―
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52053155.html

 「最後の慰霊祭 原町飛行場関係戦没者【福島民報(2017/10/11)】

 http://www.minpo.jp/news/detail/2017101145819
「 太平洋戦争中、南相馬市にあった原町飛行場で訓練し特攻隊などで亡くなった戦没者らを慰霊する「第47回原町飛行場関係戦没者334柱慰霊祭」は9日、同市原町区の陣ケ崎公園墓地慰霊碑前で行われた。遺族や関係者の高齢化で今回が最後の慰霊祭となる。全国から訪れた遺族や関係者が最後の慰霊祭を惜しみながら平和を願い、静かに玉串をささげた。
 同慰霊顕彰会の主催で、大東亜戦争原町関係戦没者465柱慰霊祭を兼ねている。約80人が参列した。同市鹿島区の伊勢大御神の森幸彦宮司が斎主を務め、八牧将彦顕彰会事務局長が「慰霊祭は今年度で最後になる。長期にわたるご支援ありがとうございました」とあいさつ。細田広南相馬市議会議長、衣笠陽雄特攻隊戦没者慰霊顕彰会専務理事、高野光二県議、佐藤則彦県隊友会南相馬支部長、大場盛子県遺族会副会長らが追悼の言葉を述べた。原町メンネル・コールのメンバーが鎮魂歌を献歌した。
 原町飛行場は1940(昭和15)年に開場し、戦時中多くのパイロットを育て、戦場に送り出した。飛行場を支援する住民との交流の思い出を胸にたくさんの特攻隊パイロットが飛び立っていったとされる。顕彰碑は原町飛行場で訓練を受け、戦後、南相馬市原町区に住んだ故・八牧通康氏らが中心となり1971年に建立した。毎年、顕彰会が主催して慰霊祭を実施してきたが、戦後72年を経て、遺族らの高齢化が進んだことなどで、民間としての慰霊祭の継続を断念することになった。
 特攻隊戦没者慰霊顕彰会の衣笠専務理事は「慰霊祭が継続できないのは残念。原町飛行場は特攻隊の歴史を語る上でも重要な場所であり、何らかの形で慰霊祭を復活されることを願っている」と話していた。」
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by shingen1948 | 2017-10-11 17:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく」で、長谷川信氏の碑を訪ねた事を次のように整理した。
 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 その場所についての問い合わせがあったので案内を兼ねて記す。
a0087378_1143087.png 地図で越後街道とあるのは、現国道49号だ。その右が郡山方面、左側が会津若松方面だ。
 郡山方面からは、遊覧船の発着所のある長浜を過ぎて、日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入る。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開ける。

 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。


a0087378_11502417.png これは、その部分を拡大した地図だ。
 その近くで目立つのは地蔵堂だが、長谷川信碑はもっと右手に少し進むと、左手に見える。

 旧二本松街裏街道を中心に来ることも出来るが、戸口集落までの道筋が狭くて曲がりくねっている。また、十六橋には、小さな車しか通れないように、脇にガードがついているので、通りにくい。
案内した道筋が広くて安心に通行できる道筋だと思う。
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by shingen1948 | 2017-10-09 11:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 信氏が通った戸ノ口の風景にかかわる変遷を確認していくと、水の利権にかかわる情報と結びついてしまう。猪苗代湖の自然を楽むという感覚とは真逆の見え方だ。
 しかも、その利権にかかわるのは、今回のいまわしい原発事故を起こし、多大な被害をもたらした東京の電力会社だ。
 その東京の電力会社が、猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた。今回は、その経緯を確認したということだ。

 「会津における水力発電の歴史と活用(清水実咲季)」によると、そのスタートは、猪苗代水力電気株式会社が猪苗代第一・第二発電所の電力を需要地東京に売電したことなのだそうだ。そして、その電力会社が、この時に供給していた東京電灯と合併したという経緯とのことだ。
 ついでに、その事も整理しておく。
a0087378_8154215.jpg これは、昨年家族を案内した時に撮った猪苗代第二発電所の写真だ。
 この発電所は、猪苗代第一発電所建設のわずか2年半後の大正7年に建設されたとのことだ。どちらの発電所も、東京駅を設計した建築家辰野金吾氏の設計により建てられたとのことだが、第一発電所は建て替えがあったが、こちらの第二発電所は立て替えられていないという。
 開発したのは、どちらの発電所も猪苗代水力電気株式会社とのこと。出力は第一発電所 62,400kWで、第二発電所37,500kW。

 この猪苗代第一発電所から需要地である東京・田端変電所に送電することになるのだが、この200km以上の長距離110kV送電は、日本で初めてだったとのことだ。
 ちなみに、世界初の100kVの特別高圧送電に成功したのは米国で明治40 年だったという。

 当初、猪苗代水力電気株式会社は、東京へ供給する権利は得て送電していたものの、東京の全需要は40,000kWに満たなかったという。その上、東京では東京電灯・東京市電気局・日本電灯の三社が需要家獲得競争を繰り広げるという状況だったとのことだ。
 今では考えられないが、過剰供給気味だったとのことだ。
 それで、当初は「王子電気軌道」などの需要家にわずかな量を供給することで営業を開始していたとのことだ。

 採算に合う電力供給ができるようになるのは、東京電灯に猪苗代第一・第二発電所の発電電力の大部分を東京電灯への供給できるようになってからだとのことだ。
 その東京電灯への卸売が事業の柱となるという経緯があって、猪苗代水力電気と東京電灯とが合併するようになったということのようなのだ。
 大正12年9月に発生した関東大震災の復興のための電力供給として、23,200kWの猪苗代第三発電所、37,100kWの第四発電所が建設されるという経緯もあるようだ。

 今回の整理で、水利権について見え方が変わったことがもう一つある。
 先に、「東京の電力会社が猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた」とした。
 今回、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる発電用の水を小石浜取水門からの取水に切り替えたことについて整理した。
 そこで分かったのは、会津側に流れる水を分岐する地点は小石浜取水門から取水した後の地点で、そこまでの実質的な水利権は東京の電力会社のようだということだ。

 現在、会津若松市の浄水・下水・消雪水はもちろん、鶴ヶ城の堀や御薬園の水のほとんどの水環境を戸ノ口堰に委ねているらしいのだ。
 その戸ノ口堰は、その取水の段階で東京の電力会社の水門を経由しているということのようなのだ。
 つまりは、東京の電力会社の水利権がかかわるのは猪苗代湖や裏磐梯三湖にとどまらないということだ。会津若松市の水環境すべてとも深くかかわっているという事らしいということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-17 08:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏がかかわる戸ノ口の風景について確認してきた。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉には、猪苗代湖の湖面低下がかかわるらしい。その湖面低下には、発電用の水を小石浜取水門からの取水することなったことがかかわるとのことだが、それは、より深い処からの水を利用するという利水方法変更によるものだということだ。
 その風景の変更の情報を地図から拾って図示すると、こんな感じだろうか。
a0087378_931785.png 元々の戸ノ口堰、発電用の水、布藤堰の取水口は、十六橋水門だ。
 しかし、現在のそれぞれの取水口は、そこから下流の位置になる。
 小石ケ浜水門から取水された水は、隧道を使ってその位置まで一気に落とし込まれるようだ。
 そこから取水された戸ノ口堰の水は、更に隧道を使って最短距離で八田野原まで流すということのようだ。

 これ等の情報源だが、十六橋水門についての地元情報は、安積疎水にかかわって得られることが多い。日橋川は猪苗代湖から会津に流れる川筋であり、十六橋の西側から取水される戸ノ口堰も、その東側から取水される布藤堰も会津に流れる水路である。しかし、その情報は安積疎水側から発信されるのだ。
 
 それぞれの堰についての地元情報は、布藤堰は現磐梯町から、昔の戸ノ口堰については旧河東村から得やすいが、八田村から先の情報が絡むと、会津若松市の情報確認が必要になるようだ。

 布藤堰についての磐梯町の情報では、その開削は宝永3年(1706)で、大谷川の替え水を目的として、十六橋の下流右岸銚子ノ口を取水口と し、布藤を経て大谷川に落水させたものとしている。

 戸ノ口堰の前身である八田野堰についての河東町の情報では、その開削は元和9年(1623)八田野村肝煎内蔵之助が、会津藩主蒲生氏郷に願い出たのが始まりとする。
 藩公は、奉行志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったが、財政難のため2年で中止になったという。
 それで、内蔵之助は、寛永5年(1628)に私費で2万人の人夫を使い蟻塚まで工事を進めたが、資金が続かずに中断したという。

 会津藩主が加藤明成に変わったのを機に再び願い出ると、工事再開が認められ、寛永13年(1636)には八田野分水まで開削できたという。
 寛永15年(1638) には鍋沼まで到達し、それから3年程で八田野まで支川が造られ、7つの新しい村ができたとのことだ。

 ここまでで八田野堰完成と見る見方がある一方で、八田野分水まで開削できた寛永13年(1636)を完成と見る見方もあるようだ。この時に「八田野堰」と名付けられ内蔵之助が八田堰の堰守に任じられからのようだ。

 ここから会津若松の城下まで開削するようになるのが元禄6年(1693) のようだ。
 北滝沢村の肝煎惣治右衛門が、滝沢付近までいつも水を持ってきたいと願い出たとのことだ。この時に八田野堰から戸ノ口堰に改名されたのだという。

 なお、八田野まで支川が造られた後、会津若松までの開削の前に、河沼郡槻橋村の花積弥市が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田開拓をするという広がりもあるようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-15 09:35 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
a0087378_9152170.jpg 十六橋水門を日橋側から眺めている。
 現在は、洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだが、この時にはわずかに流失させているように見える。この前の長寿台風の停滞による長雨とのかかわりがあるのかな。
 堤防で囲われた流域が日橋川本流で、その手前一門が旧布藤堰取水門で、日橋川本流の奥の2門が旧戸ノ口堰取水門だったということなのだろうと思う。

 今まで、この十六橋水門については、安積疎水にかかわる情報と共に流れる見え方をもとに整理している。しかし、猪苗代湖という自然湖をダム化したという見え方もあるようだ。そのことによって、猪苗代湖の水は資源化されたということになるようだ。

 その見え方でこの水門を眺めれば、この水門は資源化された猪苗代湖の水を増やす装置で、今まで自然に会津側に流れていた日橋川本流と、布藤堰の利水・戸ノ口堰の利水を郡山側の安積疎水が手中に収めたという見え方になるのだろうか。

 基本的に、資源化された猪苗代湖水を最大限に利用するのには、一つは水をせき止め増水させるという方法によるとのことだ。この十六橋の水門が現役で利水に供していた時点では、こちらの方法だったということだろうか。

 もう一つの方法があって、それはより深い処から取水するという方法なのだとか。
 小石浜取水門からの取水というのは、こちらの方法のようなのだ。
 「会高通史」が、新しい水路が出来る頃から「湖面低下が起こり、湖面旧に復す見通しが暗くなった」とあることとかかわるようなのだ。「街道Web」のTUKAさんから、「新水路」というのは、小石浜取水門のこととのアドバイスを受けて、確認を進めてきたところだ。

 「会高通史」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる情報を拾う。
 その一つには、生徒の変質や端艇部の競技スポーツ化があるようだ。
 生徒の変質については、猪苗代の行事に生徒はレクリェーション気分で参加するようになったことを挙げている。そして、端艇部の競技スポーツ化については、主力が荻野ダムの県営漕艇場に移ったことを挙げている。
 しかし、「明治32年以来50有余年幾多の俊秀を育み、会中健児の魂の憩いの場所であった戸ノ口から中田浜に移らざるを得なかったのは、「いかんせん湖面旧に復せず、先の見通しも暗」かったという事のようだ。
 「いかんせん湖面旧に復せず」というのが、先に記した湖面低下らしい。再掲する。
 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」
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by shingen1948 | 2017-09-13 09:19 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 会津中学校端艇部が明治32年(1988)年に戸ノ口に艇庫を構えて活動を開始し、昭和26年(1951)に、艇庫をこの地から中田浜に移動するあたりの十六橋の変遷にかかわる情報を、「猪苗代土木事務所」の「管理施設の紹介」から読み取る。

 まずは、明治期に会津盆地へ流出する水量を調節し、郡山盆地に引水して安積野を開拓しようとする国営開拓事業で十六橋に水門が建設された。
 当初は十六眼鏡石橋水門で、1門ごとに8枚の板をはめ込む木製扉(角落し式)を、人力で開閉していたが、明治28年(1895)に手動捲上げ式になったということだ。
 この辺りが、会津中学校端艇部創設期の頃だろうか。

 次に、十六橋と水門が分離される。この風景が、長谷川信氏がここに通っていた頃の原風景だろうか。
 明治時代末から大正時代にかけて、日橋川で発電所群の建設が始まり、その発電用水確保が課題になり、明治45年(1912)~大正3年(1914)にかけて、十六眼鏡石橋水門はその電力会社の費用寄付によって、鋼製で電動捲上げ式の「十六橋制水門」に改築されたとのことだ。
 水門が電動捲上げ式制水門になったことに伴い、十六橋は水門上流側に分離され橋脚が鉄パイプ製の道路専用橋となって、現在のような景観になったとのとこだ。

 更には、景観として変わらないが、実質的な機能は小石ヶ浜水門に移ることになるようだ。
a0087378_1411712.jpg これは、十六橋手前の案内板に掲げられたものだが、この写真が「十六橋制水門」と「小石ヶ浜水門」などの位置関係が分かりやすいと思う。

 昭和17年(1942)にできたこの小石ヶ浜水門は、発電所と直結する取水専用水門なそうだ。この時点で、十六橋水門は洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだ。

 会津高校のホームページでは全国大会出場を機に艇庫をこの地から中田浜に移動することにしたとする。
 しかし、実際には、この水門機能の移動によって水深が変化してしまい、この地から撤退せざるを得ない状況になって中田浜に移動したということになったようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-12 14:03 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 昨日の整理で「戸ノ口原」について確認した部分は、他所者にとっては分かりにくい。それでも、地元では当たり前の事としてあまり説明されないようだ。
 例えば「戸ノ口原古戦場」だが、地図上の表記は「笹山原」だ。そして、木村氏が辿り着いた集落も、地元の方は戸ノ口原と呼称しているのだ。
 この辺りに広がる平地を、あるときには大野原といい、またある時には笹山原といい、更にまた戸ノ口原ともいうという状態だ。
 自分なりに読み取った事を整理しておく。

 この平地には旧村の村界があるようだ。
 おおよそ旧二本松裏街道の北側が河東村で、南側が湊町ということのようなのだ。
 その河東村側ではこの原を大野原といい、湊町ではこの原を笹山原というようなのだ。そして、どちらも、戸ノ口に近いという感じで、戸ノ口原とも呼称するということのようなのだ。

 その「戸ノ口」という呼称についても、この地独特の意があるようだ。
 若松の入り口である戸ノ口港のある村である向戸ノ口村あたりを戸ノ口というようなのだが、戸ノ口村というのは、現猪苗代町側にある。ここには、かつて郡役所も置かれたとのことだ。

 向戸ノ口村というのは、その戸ノ口村が江戸に米を運送する為に赤井村の岸辺に二軒の船宿を営む向戸口船問屋を設置したところのようなのだ。
 ただ、若松からみれば、この向戸ノ口村こそが、若松にとっての湖上、陸上の交通上の要所であり、軍事上の要所でもあったということだ。それで、向戸ノ口村付近を「戸ノ口」と呼称しているのではないのかなと思うのだ。
 「戸ノ口原」というのは、その「戸ノ口」である「向戸ノ口村」手前の原という意を含んでいるのだろうと想像するが、どうだろうか。

 実は、木村健氏はもう一つ勘違いをなさっているような気がするのだ。
 見え隠れした水路を「安積疎水」と思っているのではないかなと思えるふしがある。

 氏が歩いた付近の発電所用の水路以外に見え隠れした水路は、戸ノ口堰の中でも最も古い時代に開発されているはずなのだ。
 ゴルフ場付近の分岐点あたりまでは、最初に開発されて「八田野堰」とも呼称されいていたとされる付近だと思うのだ。
 氏が、「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎると畑地が見えた農地を「開拓農地だろうと思った」のは、「安積疎水」との勘違いによるものだと思うのだが、どうだろうか。

 これは、この水門にかかわる情報が「安積疎水」とのかかわりで見かけることが多いためだろうと思われる。
 日橋川も戸ノ口堰も布藤堰も会津方面に流れているのだが、十六橋の水門の管理という名目で、「安積疎水」が日橋川と共に戸ノ口堰や布藤堰の取水まで手中に収めていたこととかかわることなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-09-11 11:53 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)