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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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トゥヤーの結婚 | ウーマンエキサイトシネマ
映画視聴記録「トゥヤーの結婚」_a0087378_4524837.jpg
フォーラムで上映された「トゥヤーの結婚」を観た。
  生きるという生活の実感を基盤にした中で、互いに愛する故のギリギリの選択をする物語が展開する。現れる場面も、展開される物語も、初めて体験する状況設定だ。

草木もわずかな荒涼とした大地に、羊の群れを追うラクダに乗った女の姿が現れる。主人公のトゥヤーだ。ラクダを自由に操り、水を運び、羊を追う姿はたくましい。
この草原に生活するということは、日々の生活を支えることに加え、砂漠化に挑戦し、井戸を堀り、水を運ぶ戦いが付け加わるという過酷なものだ。それをトゥヤー一人で夫と子供の生活を支える。夫は、元々、村一番のたくましい男だったのだが、砂漠化に対抗するための井戸掘り事故で、下半身付随になってしまっているのだ。

羊の群れを、離れた遠い場所で放牧し、遠く離れた場所へ水を汲みに行き、家畜の世話をするのが、毎日の日課だ。猛暑だろうと厳しい冬であろうと、トゥヤーは一年中ラクダを引いて水を汲みに行かねばならない。この過酷な労働が彼女を蝕んでいくという状況だ。

 妻の苦難を見て、もはや限界と感じた夫は、離婚し、自分が姉と暮らす事で、負担を軽くしようと決断する。トゥヤーも、仕方なく裁判所へ行く。
そして、家族への愛からひとつの決断をする。それは、新しく見つける夫は障害を負った夫も一緒に生活してくれる人に限るということだ。

結末は、結婚式の中で、総てが整いハッピーエンドのはずなのに、どこか切ない結末であることを象徴するできごとが起きる。
  生きていくためにも、夫や家族への愛のためにも、理解し合い、総ての条件が整ったはずで、これ以上どうしようもないのだが、善良で家族の強い愛情の絆で結ばれているが故に、みなが苦しむ。
「トゥヤーの結婚」の映画詳細、映画館情報はこちら >>

フォーラム・エキサイトシネマ映画解説
# by shingen1948 | 2008-06-02 04:54 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
  西山城の散策について、先に整理したところだが、16世紀にその支城として、西山城を整備してその城主となっていた伊達稙宗(陸奥守護)が、その支城として八丁目城を築いている。
八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7252694.jpg
八丁目宿近くは何度か来ているので、常円寺の裏山あたりに、八丁目城があることは漠然と分かっていたが、散策しにくかった。
駅がここから遠く離れたのは、宿場の車夫の仕事と共存するためという歴史があるからではあるのだが、少し不便だ。車で出かけると、散策以外に目的のない車をとめる場所が見つけにくいということもある。
自分の散策の仕方として、電車などの交通機関である地点まで来て、そこから目的とする周辺を探り全体の雰囲気をつかんで散策するというやり方だからだ。

今回は諏訪神社に立ち寄れた。
ここから全体の雰囲気をつかんで、八丁目城をどう散策するかが見通せた。
八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7282891.jpg
  諏訪神社の鳥居の右脇に道があり、その道を進むと墓地になっていて、その奥に行くのは難しそうだった。


八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_730408.jpg
とりあえず戻って、石段を登って鳥居をくぐる。


八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7323133.jpg
そこに、諏訪山のさくらの案内板があって、ここに植えられている桜の説明をしている。それによると、伊達政宗公に縁のある桜とのことだ。
天正年間(1573~1587)伊達政宗公が江戸より桜の苗木を大量に買い求め、各地の宿駅を経由して仙台まで運搬した。途中、この八丁目宿問屋場に休憩した際、お願いして苗木3本を頂いて、植えた一本であるとのことだ。
ほかの一本は、竹之内の狐水稲荷の桜と伝えられているとのことだ。
樹齢約は400年で、樹高10.0m、胸高周囲4.5mあって、昭和58年福島県緑の文化財として登録されたという。


 いわれは分からないが、岩を奉る姿勢が伺える。ご神体なのだろうか。
八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7355327.jpg八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7362968.jpg


八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_7403299.jpg
  神社の南側に常光院が見える。この山際に神社仏閣が並んでいて、北から、常円寺、ここ諏訪神社、常光院が並ぶ。


八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社_a0087378_742995.jpg
 そして、盛林寺と続き、西に回りこんで常念寺と寺が山の縁にそって並んでいる。

  八丁目宿は、この城の城下町であったのが、江戸時代、奥州街道で屈指の宿場町として発展したものらしい。このことと、街道沿いにある神社仏閣と山の縁のそれとを結びつけて想像すると、それらの歴史的な背景は別にしても、宿場の道筋が感覚的に納得できる。

二本松方面からきた奥州街道は、この城の前で右折し、現在ガソリンスタンドになっている本陣で、左折して北に向かい、更に、常円寺前で右折するという道筋になっている。
 これは、城であるこの山を回りこんで裏道に神社仏閣が並び、その前に八丁目宿が発展するというイメージだ。
# by shingen1948 | 2008-06-01 07:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

「七夜坂」

「七夜坂」_a0087378_9313235.jpg
 七夜桜 はるばるここに 北杉田 やがて都へ 帰る身なれば
藤原実方朝臣

 先に来た時には、奥州街道の北杉田宿を過ぎたところで、現在も奥州街道の古道の一部が残っているという捉え方であった。それで、「奥州街道:杉田宿北の旧街道を確かめる 」ということだけで、七夜桜の歌碑には注目していなかった。

 しかし、芭蕉が安積ではなかつみを探し歩いたことは、陸奥守となった藤原実方の故事がかかわっているということを知ると、藤原実方が、ここで歌を詠んでいるということに意味がありそうだと思えてくる。


「七夜坂」_a0087378_9384623.jpg
 あらためて七夜坂を訪れてみる。そして、散策を楽しむために藤原実方にかかわることを確かめ整理してみる。

 奥の細道でも、藤原実方については、墓のある笠島で、みちのくの旅を先駆けた方への憧憬を持ってふれている。

 元禄2年(1689年)5月3日、芭蕉一行は仙台領に入って白石に一宿し、岩沼の武隈の松に立ち寄った後、名取を目指し奥州街道を北進する。
 断続的に降り続く五月雨の中ようやく名取に差し掛かり、土民に実方や西行の旧跡の処を尋ねると、右の山際で街道から一里ばかり先という。しかし、日没が迫り、悪路の道中で疲労したため、先行きを案じた芭蕉は、『笠嶋はいづこさ月のぬかり道』の句を詠み、涙をのんで名取の里を後にしたということになる。
 西行の話は、実方が死んで188年の後、西行にとっては二度目の陸奥への旅で、実方の墓に立ち寄り、霜枯れのすすきに心を寄せながら詞書と和歌を一首残したという、文治2年(1186年)の話とのことだ。

                                               「七夜坂」_a0087378_9403195.jpg 
 その藤原実方が、ここで歌を詠み、古道沿いとはいえ、その歌碑が殆ど人目につかない建築資材、廃材置場隣の寂しい山の斜面にあるというのはちょっと寂しいかもしれない。


「七夜坂」_a0087378_9425788.jpg
 歌碑は、文政9年(1826)建立とのことだから、芭蕉がこの歌碑を直接目にはしていない。しかし、芭蕉一行はここを通っているはずなのだ。今でこそ、七夜坂は国道によって分断され、桜も一本も残っていないし、工場の裏道でしかないのが惨めである。

 しかし、古来この道は「7色花が咲き誇る名所」であり、二本松城下町に通じる重要道であったということだ。この歌を知っていたかどうかは分からないが、実方を尊敬する芭蕉がここを通っているということが楽しい。

 奥州街道を任地に向かう途中、この地点に着いたときに、ここの七夜桜が満開だったのを見て都の桜を思う。任期を終えて早く帰りたいと思いをはせる。ここの歌は左遷説が似合う。

藤中将実方について
# by shingen1948 | 2008-05-31 09:59 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 芭蕉が探したという「安積の花かつみ」を、地元福島県郡山市では、学名ヒメシャガというあやめに似た小さな花のこととした。
安積山②~安積沼とはなかつみ_a0087378_3193640.jpg
安積山公園の入口付近にも「花かつみ」が植栽されている。
芭蕉は、奥の細道で、「山の井」の井戸の悲しい物語に思いを馳せ、ちょうど「花かつみ」の季節でもあったので、必死にその花を探したが、土地の人も知らなかったという。
このことも、散歩を楽しむためには、確かめておかなければならないことがあるらしい。

 安積沼のはなかつみを人に尋ね歩いていたことは、陸奥守となった藤原実方が、端午の節句に菖蒲を葺くことを知らない土地の人々に、菖蒲がないなら「古今和歌集」に詠まれたあさかの沼の花かつみを葺けといったという古歌・故事にちなんだ行為とのことだ。

 それに関わる古歌は、「古今和歌集」詠み人しらずの次の歌だ。

 みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらん

 それまで、「はなかつみ」は、万葉集にも登場する大変優美な花とのことだが、実際に存在する花ではないようなのだ。
 それが、この歌で花かつみは、安積の沼にあると表記されたことの意義が大きいらしい。この歌は、都から遠いみちのくの安積沼というところに咲く花かつみという優美な花であることと恋の結びつきがいいと、古今集の編者にも大変好評であったそうだ。

 この歌以来、花かつみは安積沼と結びつけて歌われるようになったという。
 そして、安積沼という言葉は、みちのくの歌枕の一つとなり、花かつみは安積沼のみにはえる植物であるとまで考えられるようになっていったようなのだ。

 こういった話があって、上記、陸奥守となった藤原実方の話になり、奥の細道では、安積沼のはなかつみを人に尋ね歩くという話になるということのようだ。

 はなかつみは、いにしえの詩歌の中で開花する幻の花であり、安積沼のみにはえる植物であると考えられるのだから、芭蕉は、地元の人たちが言う花かつみの実態を知りたかったのだろうと想像する。
 なお、この沼は、昔安積山の南西方向にあったとされているらしい。

 はなかつみの候補は、古くは、真菰・田字草と言われ、江戸時代になると真菰・花あやめ・かきつばたなどといわれるそうだが、幻の花だから当然はっきりしない。
地元郡山市は、それはヒメシャガとして市の花 「花かつみ」として指定して、安積山にも植栽したということのようだ。
# by shingen1948 | 2008-05-30 04:22 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)