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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 石那坂の戦いが行なわれた位置については、不明な点が多いらしい。少なくとも先に訪ねた「石那坂の戦将の碑」がある地点は、古墳からの出土を根拠にしているので違うだろうという点では見方が一致しているようだ。
 どんな推定があるのかを確かめてみる。
 「福島県史」には、「奥州藤原氏の支配」という項があり、その4節が、「石那坂の合戦」になっている。ここでは、概要を以下のように捉えているようだ。
 文治5年(1189)8月7日、頼朝は本営を国見駅におき、合戦は翌8月8日からはじまった。8日の戦いは前線の接触で、いわば小手調べであったろう。決戦は10日であったろう。

  「吾妻鏡」によると、この時の戦いは、阿津賀志山と石那坂の両所で行われたように記載されているという。
 石那坂の位置に関わる記載を確かめてみる。
 石那坂は、石の多い坂という意、(中略)福島市平田であろうといわれている。(中略)信達盆地の南端に当たる。古代の駅跡は「湯日」から「岑越」にいたるには松川町から東北本線に沿う山間を通ったものとみられるから、石那坂古戦場はこの付近と考えてよかろう。

 そして、石那坂古戦場の有力候補地としては、以下のように推理する記述がある。
 鉄路の西平石小学校の背後の山頂に山城がある。朝日舘といって、標高173㍍の山で、何者が何時の時代に造ったのか不明であるが、このあたりが古代駅路に面し、石那坂古戦場としての伝承を伴っており、一応この地点と考えるしかない。

石那坂の戦い②を想像する_a0087378_3533793.jpg     
 その位置を地図で確かめると、朝日舘という地名がある。そこに行ってみる。
 確かに、やや道筋からへこんでいて、東北本線沿いに敵が入ってくれば、山陰になっていて見えにくい。奇襲効果が高そうな位置である。
 この西手の山は、先日訪ねた陽林寺側になる


石那坂の戦い②を想像する_a0087378_357408.jpg
 朝日舘からの眺めを確かめるのに、薬師堂から信達盆地の南端方向を眺めると、戦列の横から効果的に攻めることができる位置になることが分かる。


石那坂の戦い②を想像する_a0087378_412059.jpg
 余計な話だが、薬師堂には何故かお地蔵様。


 県史では、「吾妻鏡」の記載のうち、明らかに誤記と思われる部分を取り除いて、石那坂合戦の状況を以下のように解説している。
 ここで戦いが繰り広げられたと想像を膨らませる。
 石那坂の守将は、信夫庄司佐藤元治で、継信・忠信の父である。佐藤庄司は叔父に当たる川辺太郎高経・伊賀良目七郎高重らに信夫の兵をもって石那坂の上に陣を構えていた。 頼朝方は、後に伊達氏の始祖となった常陸入道念西で、子の常陸冠者為宗・二郎為重・三郎資綱・四郎為家の父子が甲冑に身を固めて秋風茂る中を潜行して伊達郡沢原に出て佐藤庄司らが守る背後から矢石を浴びせ、死闘がくり返され、為宗・為重・資綱・為家らは傷を負ったが、長男為宗は抜群の功をたてて信夫の兵を倒し、佐藤庄司以下主なるものの18人の首をとり、阿津賀志山の山頂経岡にさらした。
 伊達郡沢原の地は不明で、あるいは信夫の佐原(今福島市)であろうかともいわれる。

 この地点が、佐藤氏が奇襲を受けたのだとすれば、佐原は行き過ぎのような気もする。水原の地点ぐらいから、裏側にまわり奇襲をかけたなら、先に訪ねた陽林寺の金比羅様や愛宕様の辺りということにもなりそうだと思う。ただ、土地に不案内であったり、大胆な動きをすることを考えれば可能性はありそうだなと、散歩をしながら勝手に想像する。
# by shingen1948 | 2008-06-11 04:11 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(4)

陽林寺②

陽林寺②_a0087378_4353683.jpg
この寺に来ると、まず最初に目に入るのが、この寺の総門である。案内板によると「鳥道関」と命名された門で、元はこれより200m程下方に建立されていたとのことだ。
安永9年(1780)に16世にの完翁和尚の時代庫裡と共に建立されたもので、門額も和尚の書とのことだ。
 この寺の山号と寺名の命名は、稙宗公のようだ。彼の墓の前にある案内板ではそのことにふれている。山号はこの地の地名である位作とし、寺名は枝葉繁茂を祈念して陽林と命名したとのこと。この時、500石を寄進したようだ。


陽林寺②_a0087378_41957.jpg
  稙宗公の墓の隣りには観音堂があり、その前の道を山頂に向かって登ってみる。


陽林寺②_a0087378_4211050.jpg
  しばらく登ると、まず小高い金毘羅様にたどり着く。


陽林寺②_a0087378_422098.jpg
  そこを右折して更に登ると、山頂に元小倉村(現福島市小田)の総鎮守である愛宕大権現がある。案内板の説明によると、この山自体も愛宕山というそうだ。
 ここは、雰囲気的には古舘のような感じがする。気のせいだろうか。

ここから東側を覗き込むと、今は木々で分からないのだが、平石のくぼ地のはずなのだ。季節によっては見渡せるかもしれない。その位置関係が面白いと勝手に感じている。
  伊達家のスタートが、石那坂での戦勝だとするならば、その戦いがあった所が見渡せるということだ。
 この地に、福島の地では最後の代である稙宗公が寺を開基し、そこに眠っているのだ。


陽林寺②_a0087378_4292946.jpg
 大森城に関わっては、もう一つ墓がある。山中太郎右エ門の墓だ。安永5年(1776)より十数年間大森陣屋にいた幕府代官とのことだ。天明3年(1783)の大凶作の時、下役人中沢道右エ門と共に農民救済に奔走したという。
  この碑と燈篭は領民である渡辺和左エ門等によって寛政10年(1789)に建立されたとのことだ。彼は、寛政10年2月6日に亡くなったとのこと。
 右側の自然碑が寛政9年2月9日に亡くなった中沢道右エ門の墓とのことだ。
# by shingen1948 | 2008-06-10 04:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(2)

陽林寺に行ってみた

陽林寺に行ってみた_a0087378_514452.jpg
この寺には何度か来ているが、ここは信徒が供養のために建立した各種の石塔に富んでいて、醸し出す独特の雰囲気を感じていた。


陽林寺に行ってみた_a0087378_5162987.jpg
伊達稙宗の墓があることは知っていた。西山城を訪ね、大森城を確かめ、そして、先日八丁目城を確認したのだが、彼が、その主要な時代を築いている。それで、ここに来てみたいと思ったのだ。
  稙宗は長男の晴宗との内乱に敗れて、丸森城に隠居していたが、その分骨がここにおさめられているという。


陽林寺に行ってみた_a0087378_522052.jpg
  また、伊達実元の墓も、この寺にある。境内の奥まった所に彼の墓はある。
実元は、稙宗の三男で、妻は実兄である伊達晴宗の娘である。上杉定実の「実」の字をもらい実元と名乗ったりして、稙宗が考える上杉氏との養子縁組の準備をするが、これが内乱の元になる。
  内乱では、稙宗に従って信夫で奮戦したが、戦後は、兄晴宗に仕える。 晴宗が本拠地を米沢城に遷した後は、大森城主として信夫統治の中心となる。
 天正12年(1584年)八丁目城に隠居。天正15年(1587年)同城で没する。

案内板では、この寺の開基を、西山城主伊達稙宗としている。寺に伝わる証書等(福島市指定)によると、寺の創建に、稙宗が多くを寄進して関わったという。それは、稙宗がこの寺を開いた盛南禅師を尊敬していたからだとのことだ。
福島市指定史跡及び名勝
陽林寺

位作山陽林寺は、16世紀の初頭に盛南禅師によって開かれた曹洞宗の寺である。
寺の創建には、禅師に心から私淑した時の西山城主伊達稙宗の諸寄進が預かって大きく、従って開基とされており、その証状等の中世文書(福島市指定)は寺宝として今に伝存している。
本堂などの伽藍は、多くが文化2年(1805)前後の建立で、その後の修理は加えられながらも旧型をよく保っており、特に内部荘厳の絵画や彫刻それに奉納額などは、福島の文化史の一面を伝えていて貴重である。
広い境内には、盛南禅師の座禅石が現存し、開基伊達稙宗や大森城主伊達実元、また、大森代官山中太郎右衛門の墓碑などがあって史跡に富んでおり檀信徒が供養のために建立した石仏をはじめ、民間信仰の各種の石塔なども寄せられている。
寺を囲み包んだ位作山の緑を背景に、春のサクラ、秋の紅葉、野鳥の声を賞でながら歴史を思い散策するのに最適の場となっている。
平成元年8月8日
福島市教育委員会

# by shingen1948 | 2008-06-09 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
八丁目宿の二つの追分~「米沢街道」と「相馬道」_a0087378_8215283.jpg
奥州街道は、二本柳宿から進んでくると、T字路に突き当たる。奥州街道はここを左折して進む。昔は自然な曲線であったろうから、道なりに進めたのだろうと思う。
ここを、左折すると、現在県道52号土湯温泉線である米沢街道に入る。ここが米沢街道の基点だ。この道は、八丁目城の入口前を通り、八丁目城の山裾を回り込むように進む。


八丁目宿の二つの追分~「米沢街道」と「相馬道」_a0087378_765180.jpg
雇用促進住宅が過ぎたところに、「米沢街道追分」の案内表示がある。この支柱、今年に入って福島市内のあちこちに建った。行き当たりばったりに散策する者にとってはありがたい。この地点も、土湯温泉線から米沢街道に入るのに分かり難い地点だ。
 ただ、その道標がみつからない。もう一つしっくりしないのは、「追分」としては、先のこの街道の基点であるT字路の所ではないのかなとも思う。この支柱を立てた方も、多分どこに立てるかというときに、そこを迷ったのではないかと推測する。

 この街道は、本拠を米沢に本拠を移した伊達氏によって整備され、福島城下と米沢城下を結んだという。江戸期には、他の諸大名は先に散策した小坂峠を越える羽州街道を利用していたが、米沢に移された上杉氏の参勤交代にはここが利用されていたという。
 このルートが衰退したのは、明治になって万世大路や奥羽線が開通したからだ。


 米沢街道の起点になったところを、奥州街道は左折する。「八丁目宿本陣の桜内家」だったガソリンスタンドをまた左折する。
八丁目宿の二つの追分~「米沢街道」と「相馬道」_a0087378_8251942.jpg
そして、次の「常円寺」前の所を右折して奥州街道は進み、石合町に入る。


八丁目宿の二つの追分~「米沢街道」と「相馬道」_a0087378_7215283.jpg
 更に、奥州街道は、ここを400m程進んだところの交差点を左折して進む。この地点が、奥州街道と相馬道との追分になる。直進するのは相馬道である。
 ここの角には、石灯篭形の道標が建っている。6角面に地蔵の浮き彫り施した六角石である。ここにも、最近白い支柱が立った。

 この宿は、本街道である奥州街道と、米沢街道・相馬街道が交差する要としての宿駅であり、八丁目城の城下町から発展して賑わいをみせていたということだ。
# by shingen1948 | 2008-06-08 07:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(5)