人気ブログランキング | 話題のタグを見る

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_5384068.jpg
高倉宿は、江戸から44番目の宿で、日和田宿から1里約4㌔、本宮宿へは1里11町約5㌔の位置にあり、背後に高倉山があり、室町、戦国時代は、畠山氏の居城だった。この宿場も、八丁目宿のように、高倉城の郭内(武家屋敷町)を基に集落が形成されたと考えられるという。

高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_543065.jpg
 そうだとするならば、山清寺の平場と同じように、高倉山の北側にある神社あたりも重要であるように感じる。


高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_5454189.jpg
 現在は村社「鹿島神社」になっている。
 階段を登ると、広場があって、その北側に、神社は建っている。


高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_5492573.jpg
 そして、そこから少し登ったところには、古くからの社であろう稲荷が祀られている。


高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_553414.jpg 
 そこから、急な坂道だが、登りの山道が続いている。これは、少し登って振り返ったところである。


高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_5544013.jpg 
頂上近くは、行き手を防ぐ倒木、藪である。


高倉宿(高倉城④の城下町として)_a0087378_5562540.jpg
 山清寺と鹿島神社の中間地点に、不動尊があるのだが、その意義は、高倉山頂部の真下ということに意義があると思われる。 

 ここには、確かに古い建物はないが、ひなびた雰囲気の中に、そういった背景を重ね合わせてみると、それなりに感じるものはある。
# by shingen1948 | 2008-06-21 06:02 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

高倉城の③

 天正13年(1585)伊達氏の輝宗報復と位置付けた二本松攻略戦で、高倉から本宮周辺で合戦となるのだが、機会あるごとにその事と関わる所を歩いてみた。
 その散策を整理してみる。
 天正13年(1585)の二本松攻略戦は、輝宗報復と位置付けられるのだが、この父輝宗の無念の地は粟の巣だが、阿武隈河原までは思ったよりも遠い位置だった。「粟の巣の辺りを散策する」
 「宮森城跡を訪ねて」ということで、粟の巣の戦いの起こったスタート地点として、輝宗居城を訪ねて整理した。
 ここまでが、この戦いの前哨戦だ。

 輝宗報復と位置付けた二本松攻略戦が開始されると、仙道諸氏は、佐竹義宣を中心にして、芦名・石川・岩城・白河氏他が連合軍を結成し、政宗に対抗する。
 この伊達勢の布陣にかかわって訪ねた所。
 まず政宗の本陣を観音堂に置く。ここは、ここは最近行ってみたばかりだ。「観音堂を確かめる」
 最前線の高倉城に富塚近江・伊藤肥前を配し、左翼遊軍として瀬戸川館に伊達成実を配したという。
 本陣の左右を留守政景、原田宗時で、本陣前後国分盛重で固めて、本陣の前衛を青田原に、荒井方面を浜田景隆に、そして、玉井を白石宗実に配したという。
 この中では、伊達成実を配したという瀬戸川館にはまだ行っていない。

 伊達政宗が、小浜城から本宮に移動する中間地点であり、結集した地点として、小浜と本宮(人取橋)の中間地点である「岩角山」には、このことに関わる案内はなく、漠然とした確かめだ。

 その小浜城では、「小浜城で伊達政宗に思いを広げてみる
 しかし、一時は本陣までも危うくなり、鬼庭佐月らの奮戦でかろうじて持ちこたえていた。この奮戦の地に鬼庭佐月の墓はあり、「人取橋の現地を訪ねて」としてまとめておいた。
 そして、茂庭氏と人取橋として茂庭氏に言及してみたのは、茂庭氏の故郷にかかわったことを思い出したからだ。
 茂庭氏の墓も訪ねてみた。懐かしかった。

 瀬戸川館の成実勢は孤立しながらも持ちこたえたことと、佐竹義宣の急な撤退で政宗は、結果的には、辛くも勝利することになり、翌年の二本松落城と続いていったということであり、ラッキーなことが重なっての勝利だったようだ。

 伊達政宗は、ここからいよいよ会津への道を探りはじめる。その通り道である「高玉城」「安子ケ島城」の不幸だ。はむかう意志はなくとも、たまたまその位置が領地だったがために攻め滅ぼされるというアンラッキーな城の代表のような気がする。
# by shingen1948 | 2008-06-20 05:41 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

小峠古戦場を見つける

 赤湯からの帰り道、小峠古戦場の案内板をみつける。ここは、何度も通っているのだが、気が付いていなかった。
 その古戦場は別にしても、ここが土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋とぶつかった所であることが推定できる。
 土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋は、太子堂の所からだったのを思い出した。太子堂から会津への旧道を確認した時、旧街道についての説明をみつけた。
古道は太子堂から野地温泉に向かって進むのだが、その道筋はほぼ送電線に沿っているとのことだった。「高湯温泉と土湯温泉②:戊辰戦争の悲劇」
 その古道がここに繋がっていて、野地温泉に向かい、鬼面山の稜線を回り込んで、会津に向かったのだろうと推定がついた。
小峠古戦場を見つける_a0087378_424791.jpg
 その古道の雰囲気を確かめるのに、少し下ってみて、そこからこの小峠を眺めてみる。


小峠古戦場を見つける_a0087378_4274222.jpg


小峠古戦場を見つける_a0087378_4304347.jpg
 ここからは、古道の道筋が確かめられないので、少し下って送電線の走る道筋を確かめ、古道の道筋だろうと推定してみる。


小峠古戦場を見つける_a0087378_4361298.jpg
大峠をみあげてみる。


 案内板では、次のように説明している。
小峠古戦場

 会津街道を登りつめ小峠の頂上に立つともう野地温泉は谷一つ挟んで指呼の間に望め、視野を広げると鬼面山の稜線に大峠が望めます。
 この小峠は、慶應4年(1866)仙台藩を先発とする官軍が陣を構え、大峠に布陣する会津軍と対峙した古戦場で、当時の模様を「‥瀬上主膳を隊長として築州反50の兵を加えた850の兵を土湯に進め、会津街道小峠六合坂に陣を築いて、大峠の頂上で待ち構える会津藩と戦いを交えた。両軍の戦いの声は鬼面山にこだまし、撃ち合う大砲の煙はもうもうとたちこめて空を覆い、戦いは数時間に及んだが、夕暮れになっても勝敗は決まらず両軍はお互いに退いて、戦いは終わった」と伝えています。
 この戦いの後、8月2日土湯は兵火にかかり、明治2年4月川俣民生局に対して、「‥普請成兼ネ候故、71軒ニ、1軒分ノ金トシテ、参拾両宛…」として災害救助金物借願いを提出しています。
土湯温泉観光協会


 
# by shingen1948 | 2008-06-19 04:44 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(7)

高倉城へ②

 高倉城についての案内が見つからないので、「阿武隈川データベース」で説明されたものを引用しておく。
高倉城へ②_a0087378_5322336.jpg
 高倉城は、本宮町との境、五百川が見えるところに二本松城主の畠山満泰の孫がつくったといわれています。
 1585年、伊達政宗が二本松城を攻めたとき、すでに高倉城は政宗の支配下にあったためなんとか勝利しました。
 1590年に伊達氏が去ったあと廃城となりました。

 天正13年(1585年)の戦いの時点では、この城主高倉近江は伊達氏の支配下にあったようだ。
 この時の高倉城での戦いについては、重要な位置であるはずなのに、まとまって説明されたものがみつからない。いくつかメモしたものをもとにして、それを繋いで整理してみると、次のような状況だったと推定される。

 この戦いでは、連合軍は、兵力において伊達氏を圧倒していた。この高倉城も簡単に抜かれ、守将の伊藤肥前は討ち死したという。
 戦いの内容も、大連合軍の会津勢は、高倉城を無視し、大軍で直接政宗を攻めようと直進したという。これに対して、高倉城からは、少数の兵力で横から攻めたという。続いてやってきた岩城勢には、足軽を前線に出して弓鉄砲を放たせてから、武士達が攻めかかったというが、撃破されてしまったとのことだ。

 参考にした資料も真偽も確かなものではないが、自分の頭の中では、寺の入り口あたりでの出来事としてなんとなくイメージされる。
# by shingen1948 | 2008-06-17 05:38 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)