地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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左側の枝はしっかり葉をつけ、元気であった。中央右から出た枝は、枯れたままのような気がする。
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# by shingen1948 | 2006-10-27 21:17 | ◎ 天然記念物「馬場桜」 | Comments(0)
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 安達太良川の上流三ツ森上流の水生生物調査を実施した。ヒロバカゲロウ、トビイロカゲロウ、コガゲロウ、カワゲラ、サワガニ、オナシカゲロウ、ノギカワゲラ、カワトビゲラ、ヘビトンボ、キタガミトビゲラ、ヒラタカゲロウ、モンカゲロウ、フタスジモンカゲロウ、ヒゲハナノミ、シマトビゲラ(アミメシマ)プラナリア、モンキケンゴロウ、ミズスマシ、オオカワトンボヒゲナガカワトビゲラ、カワニナなどが見つかり、きれいな水質の中豊かな水生生物の種類が確認できた。a0087378_19283353.jpg
化学的な数値は、以下の通りである。
        COD   5
        NO2   0.005
        PH    7
 この数値から、安達太良山本山から流れる南端の杉田川上流と比べてみる。PH値に特徴が出てくる。安達太良川は、中性で安定しており、豊かな生物の保証をしているといえる。ある人に聞くと、杉田川上流は、PH 5.いくつかで、酸性になっている。それでも水生生物の数はある程度あるが、種類が3種類程度とのことである。途中の支流を集めることによって、水質が安定してきているとのことである。 
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# by shingen1948 | 2006-10-26 19:42 | ◎ 水 | Comments(0)
 山入から母成峠を経由して会津へ入る道として利用されたのは、新政府軍の会津攻めに使われたのが有名である。この道は、それ以前にも伊達政宗の会津攻めに使われていた。当時会津を治めていたのは蘆名氏である。会津方部高等学校地理歴史・公民(社会科)研究会「資料が語る会津乃歴史」で確認すると、以下のようである。

 1466(文正1)頃には、蘆名の仙道(中通り)への進出が本格化していた。蘆名盛高は、この時期、安子ヶ島や岩瀬郡へ出兵している。蘆名は、領内でも内乱を克服し、戦国大名として成長していった。
 そして、盛氏の代には、伊達氏や結城氏と政略結婚などの外交手段も行使し、会津から越後の一部、仙道の安積郡岩瀬郡を手中に収め、全盛時代になっていた。
 しかし、1584年(天正12)に盛氏から引き継いだ盛隆は、籠臣に切り殺され、その子亀若丸も1586(天正14)に3歳で亡くなるなどの試練の時を迎えた。
 後継ぎをめぐって、伊達政宗の弟を押す派と常陸大名の佐竹氏の次男を押す派に分かれたが、結局、白川結城義親の養子義広が1587(天正15)に黒川に入城した。

 伊達政宗は、会津への進出を狙ってたが、佐竹氏から後継ぎを迎えたことで対立は決定的になった。政宗は猪苗代盛国を内応させ、1589年(天正17)6月4日猪苗代に入城した。6月5日の早朝から磐梯山南麓で繰り広げられた摺上原の戦いに敗れた蘆名義広は黒川城に逃れたが、四天の宿老たちに追われて白河を経て実家の佐竹のもとに走り蘆名は事実上滅亡した。

 この蘆名氏を攻めるために、伊達政宗が通った道が、山入経由母成峠の道とのことである。

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# by shingen1948 | 2006-10-26 06:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 戊辰戦争の怨念についての本を読んでいて、戊辰戦争当時、会津に住む農民等の人々は、本当はどんな風に戊辰戦争をみているのかを知りたいと思っていた。
  県の図書館を覗いていたら、会津方部高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会発行の「資料が語る会津の歴史」の中に参考になる記述をみつけた。

 資料集の「戊辰戦争」の項を、次のように締めくくっている。

 鳥羽伏見の戦い以来、会津藩の戦死者は2977人に増え、若松の城下の三分の二が焼け野原になった。新政府軍の略奪や暴行も多く、戦争に巻き込まれた農民や町人などにも犠牲者が出た。会津藩は塩川村に進撃していた米沢藩を通して土佐藩に降伏を伝え、9月22日には若松城が開城した。

 そして、英国人医師ウイリアム・ウイリスの「会津戦争従軍記」を資料として添付している。
 その資料では、まず、若松市内の惨状を描写する。それから、会津候父子と家老が江戸に向かうときの様子が描写されている。それは、以下のような概略のようなのだ。

 会津候と息子は立派な駕籠が準備されたが、家老以下の家来は、粗末な駕籠であったり、徒歩であったり、丸腰でまったくうらぶれて悄然たるありさまだったという。また、見送りは、護衛隊を除けば、十数名もいなかったという。
 いたるところで見送る人々は、武士階級の者以外は、冷淡、無関心で、憐憫の情は少しも見いだせなかったともいう。

 残忍な戦争を惹き起こした上、敗北の際には切腹もしなかったため、尊敬を受ける資格は、すべて喪失したという一般的な世評とを記述した後、藩が人民に強制した借款、家並み、身なり、小柄で貧弱な体格などの事実をあげ、会津藩政の過酷さと腐敗ぶりについて記載する。そして、守護職はそれらの犠牲の上にあったと締めくくる。

 もう一つの資料として、山川出版社「板倉退助君伝」から、「板垣退助の見た会津藩の滅亡」と題して、以下の概略について記載している。

   会津藩は天下屈指の雄藩で、政善に民富む、もし上下心を一つにし、勠力(りくりょく)をもって国に尽くさば、わが三千未満の官軍如何ぞ容易にこれを降さんや
(以下略)

   あにはからん一般の人民は妻子を伴い家財を携えてことごとくに遁逃するだけでなく、手 足の用をなして、賃金をむさぼって恬として恥じざるにいたる。

  退助は、それを自戒の事実として心に留めているのだ。楽を共にしないものは、憂いも共にできない。国が亡ぶときに、わずか三千の氏族しか殉じられなかったことを。

 今、会津での薩長との怨念劇は、権力者である士族の感覚でしかないのではといったら、言い過ぎなのだろうか。新政府軍の残虐に対する怨念はその通りだろうが、同じように会津候に対しても尊敬の念は無いのが正常なのだと。
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# by shingen1948 | 2006-10-24 20:33 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)