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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「平泉―みちのくの浄土」展④_a0087378_4211755.jpg
  紺紙金字一切経と金光明最勝王経金字宝塔曼茶羅図が展示されている空間の奥に、騎師文殊菩薩半跏像と四眷属立像が展示されている。
 ここに文殊菩薩像を展示した意図は、五台山とのつながりを強調したかったらしいことが分かる。
 金字一切経や金色堂の外観などは、中国の五台山にルーツがあるという。これがメインだろうが、ここに、五台山にしかない様式の仏像である騎師文殊菩薩像を並べることで、五台山の文化を最初に日本に導入したのが平泉なのだといおうとしているのだろう。

 中尊寺のホームページでは、開祖について次のように述べている。
 中尊寺は、嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって、この地に弘台寿院という寺が開かれたことに始まるといわれています。関東から東北地方にかけて、慈覚大師のいい伝えをもつお寺は数多くみられます。このことは、北関東の出身である慈覚大師を、この地方の人々が敬愛し、その教えを受けつぐ人々が地域の伝道者として活躍していたことをあらわしています。

 円仁自身が、平泉まで来て五台山で学んだ文化を実際に指導しながら作っていったのかどうかは定かではないらしいが、少なくともその系統をひく比叡山の方々が来て開いたというのには違いないというのだ。
 霊山寺もまた、開祖は慈覚大師円仁を想定している。慈覚大師円仁の中国での記憶として、この文殊像は自然だったならば、霊山寺でも、同じことがいえるはずではないかと勝手に思う。

 金銀字一切経は、藤原清衡がしたためている。平泉が、五台山文殊を最初に日本に導入したのなら、その文化を具現化するのに、藤原清衡がかかわる。自らが浄土を築き、そこに眠ろうとしたのだろうと想像は広がる。

 この文殊像の存在だけなら、長床の御本尊も騎師文殊菩薩と聞く。そうなると単なる比叡山の方々の思いかもしれないし、そうでもないのかも知れないという程度になってしまうようにも思う。 複合的に展示説明されていることが、頷けるだけの説得力になっているのだ゛ろう。
# by shingen1948 | 2008-11-28 04:26 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 勝常寺の薬師三尊像がメインで中央に鎮座するが、周りをたくさんの東北各地の平安の仏像で固めている。それぞれの地域で、大切に受け継がれてきた仏像が集う。

 勝常寺の薬師三尊像が、国宝になった今でも現役で人々の願いに応じているのと同じように、ここで公開されている仏像たちも、それぞれ現役でそれぞれの寺で、人々に功徳を施しているのだ。
「平泉―みちのくの浄土」展③_a0087378_1951322.jpg
 その中で、今回注目を浴びているのが、宮城県・十八夜観世音堂の菩薩立像とのことだ。東北に現存する最古の木彫像の初公開とのことだ。8~9世紀に造られた可能性の高いことが調査によって明らかになったという。
 学芸員の方に普段の様子について尋ねると、十八夜観世音堂という所があって、そこに鎮座するという。ただ、3年に一度の御開帳なので、普段お目にかかることはできないとのことだった。
 普段、漠然とは歴史敵価値を感じて入るだろうが、それでもそれにこだわらずに地域の寺の日々の仏として拝まれていたものなのだろう。
 
 それぞれの仏は、鑑賞されて優劣を競うものでも、歴史的価値を競うものでもない。
 名も知れない寺かもしれない。本尊の名が知らないかもしれない。それでも、湯野の不動寺で感じた人々のありがたいと想う雰囲気が、至る所で繰り広げられているということなのだろう。
 そういった仏像がここに集合し、圧倒する。
# by shingen1948 | 2008-11-26 19:53 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 展覧会では、平安時代後期の仏教文化の粋を集め、国宝、重要文化財などの仏教美術の名宝や歴史資料が展示され、平泉を中心とした質の高い仏教文化を紹介するという。

 奥州藤原氏の理想郷である争いのない平和な世界「浄土」は、会津の文化へ対峙して霊山を中心として築き上げようとした文化の精神や、恵日寺を中心として掘り起こそうとしている文化の精神と共通する文化である。
「平泉―みちのくの浄土」展②_a0087378_4401068.jpg
 そのことを感じたいという思いに応えようとでもしているように、展示会では、第一部で、東北各地の仏像を展示している。しかも、勝常寺の薬師如来が、日光・月光菩薩とともに三尊そろって鎮座する。

 パンフレットには、東北地方で国宝に指定される仏像は、中尊寺金色堂の諸仏と福島県・勝常寺の薬師三尊像だけだが、両寺の仏像が同時に展示されるとなっている。
 今回の展示会のよさは、それだけではないと思っている。それは、仏と同じ空間で拝むことができたということだ。
「平泉―みちのくの浄土」展②_a0087378_4433562.jpg
 勝常寺の薬師如来は、福島県立博物館でもガラス越しだった。それが、今回は、準備された椅子に座り、ゆっくりと月光・日光菩薩とともに如来と30分程対面することができたのだ。これだけでも、今回来たかいがあったと思うのだ。

 この仏について「勝常寺と徳一~みちのくに大き仏あり」 (歴書ブックレット)をもとに「仏教の民衆化を探る」「恵日寺を中心とした仏教文化を思う」の二つの記事で整理した。
 それから1年になる。

 少し残念なのは、混雑していて、静かな空気の中とはいかなかったことだ。しかし、考えてみると、この仏が暮らす寺は、現世的な御利益を願う人々で賑わっていたはずだとも思う。美術品として展示されるべきものではなく、その尊さを振る舞う現役のはずで、そういう意味では、それなりに味わったことになるのかもしれないとも思う。
# by shingen1948 | 2008-11-25 04:52 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

霊山寺の仏教文化を思う

霊山寺の仏教文化を思う_a0087378_535567.jpg
 これは、宮脇遺跡近くに、1641年に建てられた3代目霊山寺だ。この寺に至るまでの霊山寺の概要を整理しておく。

 山の霊山寺
 霊山寺の創建は貞観元年(859)に慈覚大師が霊山山頂に千手観音を本尊とした開山したのが始まりとされる。古くは天台宗の東北中心として隆盛を極め、南北朝時代には北畠顕家郷が寺院を取り囲むように砦を築き国府を多賀城から移した。以降霊山寺は度々戦火に会い顕家が討死にすると、北朝方に攻め込まれ堂宇のほとんどが焼失する。

 宮脇遺跡である里の霊山寺
 その後一端荒廃するが、1401年に伊達氏宗が再建し、霊山寺を中心に衆徒12坊があった。しかし、会津藩となって寺領を失い、堂宇破壊され、その後火災によって焼失する。

 1641年に現在地に移された霊山寺
 本堂は明治30年に再建されたもので随所に旧本堂の部材が再利用されているとのこと。本尊の阿弥陀三尊をはじめ秘仏である阿弥陀薬師如来(慈覚大師作伝)、聖観音像、不動三尊、千手観音など寺宝も多くあるとのことだ。

 「霊山町の文化財」に、「霊山町史」、「霊山寺縁起」及び霊山町史資料集第一集「霊山城跡・霊山寺跡」を参考とした年表が整理されている。
538  仏教が日本に伝来
645  大化改新
859  円仁(慈覚大師)霊山寺を建立
984  霊山寺を古霊山より霊山(現在の霊山寺跡)に移転
1331 元徳供養石塔建立
1347 霊山城落城(霊山寺=寺院城郭焼失~八月)
1401 伊達氏が霊山寺を大石村宮脇に再興
1532 伊達稙宗より大石他七ケ村霊山寺へ寄付される
1602 霊山寺(宮脇)野火により消失
    霊山寺を移転(倉波・現在の霊山寺)
1665 「霊山寺縁起」著わされる
1817 霊山碑建立
霊山寺の仏教文化を思う_a0087378_5384195.jpg
 霊山寺(霊山城)復元画(梅宮茂原案・中西立太作)を拡大し、山の霊山寺のイメージを補助してみる。

 霊山寺の仏教文化を掘り起こしたいとの願いに接して、それを整理していたところだが、タイミングよく、仙台市青葉区の市博物館で「平泉―みちのくの浄土」展があるとの情報が入った。
霊山寺の仏教文化を思う_a0087378_5402842.jpg
 展覧会では、平安時代後期の仏教文化の粋を集め、国宝、重要文化財などの仏教美術の名宝や歴史資料が展示され、平泉を中心とした質の高い仏教文化を紹介するようだ。
 奥州藤原氏は、争いのない平和な世界「浄土」の実現を悲願として平泉文化を築いている。
 会津の文化へ対峙して霊山を中心として築き上げようとした文化の精神や、恵日寺を中心として掘り起こそうとしている文化の精神と共通する文化である。
 霊山寺の座主も円仁(慈覚大師)を想定している。この展覧会で、奥州藤原氏の理想郷である争いのない平和な世界「浄土」を感じてきたい。
# by shingen1948 | 2008-11-24 05:44 | ◎ 信仰と文化 | Comments(2)