地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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吾妻の里の自噴泉と伝説

a0087378_19255452.jpg  古くからある自噴泉には、その清水に係わる伝説があることが多い。福島市の矢野目地区にある清水にも「片目清水」という伝説が残されている。この清水も、伝説の内容には、八幡太郎義家とのかかわりが出てくる。








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  この地区は、高圧線が通過するぐらい、藪の中にあり、ひなびた所であった。それが、突然道路が拡張されて、それに伴って開発が進んだ地域である。
 私がこの清水を確認した時には、高圧線の鉄柱の足下に位置し、立ち入り禁止のロープが張られていたた。それでも、立て札と、水神を祭る社が確認できた。

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立て札には、以下の説明があった。
後三年の合戦に鎌倉権五郎景政、鳥海弥三郎の射る矢、左の目に立つ
景政矢を抜かずして弥三郎を追い遂に射斃す。傷をこの清水にて洗いし
後世小魚 左目盲目なり、この時景政十六才なり。

どんな風に取り扱うようになるのか心配した。
a0087378_1929465.jpg しばらくして、再び訪れた時には、公園の一部にこの清水が美しく整備されていた。周りは、商店街ができ、住宅地が建ち並んでいた。
清水は、美しく整備されたが、人工を感じ、いかにも公の機関の仕事として、美しく整備したというデザインだった。自然に湧き出る神秘な雰囲気もないし、近くの人手が入って、綺麗に管理されるという雰囲気も無かった。水神も祠もなかった。
  それでも、そこに清水があり、説明板が建ったということで、清水の存在の確認ができることは、それなりにうれしいことではあった。

  この清水、地元の記念誌には、次のような伝説として残されている。
 
昔、有名な八幡太郎義家に味方した鎌倉権現五郎景政という武将が居ました。後三年の役(1083~1087)2ときのことです。景政は、ある戦いで、敵の弓の名人、鳥海弥三郎に矢を射られ、左の目に矢が突き刺さってしまいました。
傷の手当てをしようと、後退する途中、こんこんと湧き出している泉を見つけたので、矢を抜き目を洗っていますと、弥三郎がやってきて、一騎打ちになりました。勇ましい景政は、重傷なのに少しもひるみません。ついに弥三郎を討ち取りました。
それからこの清水には、景政と同じように左の目が潰れた鮒ばかりいるようになったといわれ、「めっこ清水」と呼ばれるようになりました。
また、弥三郎の妻は、夫の死を聞いて悲しみ、尼になって清水のそばに住み、菩提をとむらいました。
今もこの清水は、片目清水13番地にあり、清水が湧いています。
(注)
  この片目清水については、違う言い伝えもあります。景政はその時15歳で、突き刺さった矢を7日7夜も抜かないで、弥三郎を追いかけて討ち取り、その後、この清水で目を洗ったとも言われています。

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# by shingen1948 | 2007-01-09 19:35 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_10583480.jpg スポットライトを浴びる地点を訪ねると、スポットライトに照らされた部分はとてもよく見えるのだが、それ以外のことについては見落とすことが多い。これが、会津を離れて過ごすようになって、周りを見渡しての実感である。
会津に住んでいる時に、史跡を観ると、城を中心にした権力者の変遷と中央の政権との関係にスポットがあたる。更に、戊辰戦争という劇的な物語の中心地とした部分にライトは照らされている。だから、会津を訪れる立場になっても、その観方を抜け出ることができない。

戊辰戦争でいえば、安達の里と関わって、史跡を訪ねて、まず見えてきたのは、会津攻めに至る経緯と対峙する西軍の動きである。そのスポットを訪ね、資料で経路をたどり、点を結んでいくと、地域との関わりの中での史実らしきものが見えてくる。
それでも、二本松での戦いが多少スポットライトを浴びる分、その他の部分は陰になる。母成峠の戦いなどの光は薄い。しかし、その経路をたどっていくと、いろいろな資料に目が向くようになり光が見えてくる。
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それにしても、スタートの時点で、光がまったく無ければ、何もみえなかったはずである。
そんな時、僅かのひかりをあててくれるのが、半沢氏のマップメモである。これをもとに歩いていると、書かれていることに出会ったり、地区の方が建てた案内板に出会ったりする。
現在頼りにしているのは母成部分マップメモだ。
このマップメモでは、この母成を中心にした三つの戦いに光を当てている。
その一つが、勿論、戊辰戦争である。
その二が、伊達政宗の通ったみちである。天正17年(1589年)伊達政宗が、葦名氏を攻略するため、安子島城や高玉城などを攻め落としながら、猪苗代城に入るためのコースだ。半沢氏は、銚子ケ滝を経由して石筵~母成経由の可能性もあると見ているようである。        
その三が、昭和50年(1975年)の石筵の牧場に県が突然食肉流通センター建設を通告したこによる住民反対運動だとしている。機動隊導入にもかかわらず、二年後に白紙撤回させた住民運動である。

 現在、第二の伊達政宗の攻防を確認中だが、本宮付近の様子は、ちょうど良い光で確認できたと思っている。しかし、二本松の畠山氏との対峙では、二本松城にその後スポットライトがあたる時代があったことと、畠山氏が、地位的には、華やかなスポットライトを当てられそびれた存在であることで、なかなか実感が伴いにくい状態が続いている。

 それでも、それ以前の時代に比べれば、どうにか形は見えてくる。光があたることのよさと不幸を見極めながら、風の人としての眺めを確保しようとしているのが現状だ。

さて、畠山氏の心情だが、もう一つしっくりしない。
畠山氏の残念な思いは、中心権威者との関わりのバックボーンを大切にした系図を中心とした権威者の想いが分からないと見えてこないもがあると思えてきた。

畠山氏の権威者とのかかわり  More
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# by shingen1948 | 2007-01-08 11:05 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

水を慈しむ心の文化

a0087378_715940.jpg 織井の清水から、大名倉山を挟んだ向かい側に「岩井の清水」がある。そこも源義家が矢じりで岩を掘ってできたという同じような言い伝えがある。
 ここは、地域の「土の人」にとっては、立て札を建てるぐらい分かりきった所であるが、自分としては、昨年の秋に、近隣を散策していて見付けた所であり、発見の喜びを伴った清水である。



a0087378_725571.jpg この清水、景色として見ると、清水の奥に祠があり、神聖な場所として意識されていることを伺うことができる。赤いプラスチックのコップが置いてあり、村の人が飲料に供する意志を表している。
 飲料水という観点で思い出したのは、子どもの頃に心に刻んだ「村里の景色」である。村里には、必ず小川が流れていて、家の前には、「洗い場」があって、そこで農作物を洗う姿を思い出す。この「洗い場」は、風呂の水を汲む場所でもあり、早朝には、水汲み場になっていて、飲料水を確保する場所でもあった。
水は、ある距離を流れることと時間がたつことによって浄化されるという意識があって、汚れを洗い落とす場所と、飲料に供する場所が共存できたのだ。
そして、この小川は、田に入れれば耕作物の必要とする水であり、池に入れれば、そこに飼う魚のための水となる。ここには、無意識のうちに、汚しきってはいけないという共存のための意識が働いていた。人が生きていくための源としての水である。
この小川に生える水草が、便所の尻拭きになったなどという余計なことまで思い出した。
こんこんと沸く清水には、スイカが浮かんでいる。そこから流れ出た清水には、シジミが住んでいて、おいしく食べた。

そういった忘れていた景色を思い出す。誰教えるということなく水を慈しむ心の文化が存在する。その村の水の文化の源に「織井の清水」「岩井の清水」があるということであり、そこに、祠があり、伝説があり、言い伝えることの大切さがある。
そのことを、思い出した。

清水についての二つの説明板  More
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# by shingen1948 | 2007-01-07 07:17 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_1447862.jpg  風に吹かれて、ママチャリで、村の中を走ってみた。西方面からママチャリでいけるところまで行って、そこから山際沿いに東の方向を目指す。館を北に見える位置まで来て、そこで一服しながら景色を眺める。そこからは、気の向くまま自転車を走らせて、目に付いたものがあれば立ち止まるというコースである。
 目に付いたものが、織井の清水であり、ここで立ち止まってみた。

 地域を散策していると、言い伝えにいろいろあって、一見矛盾しているように見えるものが多い。若い頃には、これを批判的に受け止めていることが多い。しかし、年をとってくると、そこから言い伝えたかったことは何なんだろうと想いをめぐらせることが多くなる。
 若い頃も地域を調べている方に、諭されたことがあったが、実感としてよく分からないでいた。丸ごと受け入れるよさを知らなかったのだ。分析的に捉えたり、科学的に捉えることも、大切ではあるが、この心構えでは、伝えようとする心は伝わらない。伝えようとすることは、事実ということもあるが、物語を通して、比喩的にを伝えようということもある。小説は、物語りはフィクションでも、そこに真実を伝えようとする力があるように。

 織井の清水を前にして、いくつかの由来をどう受け入れるか考えてみた。
 村の誇りや比喩を通しての真実は何かということだ。
 清水とは、そのこと自体に、神聖さがある。これは、水のありがたさを感じないものには捉えることができない神聖さだ。そのありがたい水が自然に湧き出るところが清水である。清水を発見する喜びは、木の脇に水神を祭っていることで伺い知ることができる。

  湧き出たありがたい水を、ただ神に感謝するだけではなく、日々の清めとも思える公共の管理を促す文化となる。共同の水場にすることであり、もっと広く旅人に提供することである。この文化は、掘り当てる文化とは少し違う。
  織井御前の話は、産湯という生命の誕生には、この水は欠かせない神聖な水であるという付加価値を感じさせる。また、いろいろな説を生むという背景には、旅人も使える公共の井戸であったことを物語る。源義家を語るのは、時代背景が、南北朝時代から存在するという村人の誇りが読み取れる。近隣には、この時代の伝説が多い。吾妻山や安達太良山を中心とした山岳宗教も含め、交易のための水場としての地位は本当に存在していると感じている。

  新年に、水に関わる文化に心あそばせることができた。
石積みといい、その周りの落ち葉等の手入れといい、日々に美しい水場を保つ積み重ねに文化を感じてすがすがしかった。

織井の清水の言い伝え     More
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# by shingen1948 | 2007-01-06 14:38 | ◎ 水 | Comments(0)