地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
明治23年の大水害後に、水害防止のため、荒川の川筋を変更したとのことだ。記録では、その工事のため、そこに住んでいた庄野日の倉部落の人々が村林(河原屋敷)に移住したという。
この記録と、古い地図と現在の地図を合わせて、現在の堤防の様子と、元の荒川の流れを推定して重ね合わせてみた。 a0087378_22385541.jpg
位置は、「日の倉」の地名を元にして選んだ。
赤で示したのは、現在の堤防である。現在の堤防も、かすみ堤防の考え方が生きていることが分かる。人家が多くなっている所だが、水と共生しようとしている心意気が見て取れる。
水色で表したのが、現在の水が流れていた所である。伏流水でもぐりこんでいる部分も多いが、流れが見えるところと考えてよい。
紫で示したのが、昔の水の流れの推定である。古い地図を重ねて推定した。日の倉橋の南端の位置の細い道路を確認すると、切れている所がある。昔の地図と重ね合わせて堤防の中に入ったところも鉛筆でなぞってみると、昔の村の道が推定できる。また、釣堀は、今は川とは独立しているが、昔の川を描いてみると、その川沿いにあって、荒川と一体化していたことが分かる。
 
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# by shingen1948 | 2006-12-18 22:40 | ◎ 水 | Comments(0)
 水保地区は、荒川と須川に挟まれ、中にまた白津川と鍛冶屋川があるので、いつも洪水に悩まされていた。しかし、その中でも明治43年の大水害は大打撃だった。これは、地形をも変えるほど激しいものだったという。この時の水の流れを記録を元に、地図に示してみた。
 地図の上部に水色で示したのが、須川、下部に水色で示しているのが、荒川である。中央を縦に横切っているのが、鍛冶屋川、そこから分離して、上部で分かれているのが白津川である。下記の記録をもとに、ピンクで洪水の水が流れた所を示してみた。今の地形の目安は西工業団地を通り抜けた感じである。ただ、水保小学校では、校門のところを鉄砲水が押し寄せたはずだが、ピンクの水路からは外れている。やや濁流が収まった時期の記録を元にしていると思われる。実際は、もっと激しい濁流だったと思われる。古老の話として、ずいぶん長い間水が引かなかったと言い伝えられている。

a0087378_2156589.jpg 8月1日から断続的に雨が降り続いていた。荒川の水は増水し限界を超えた。12日朝6時に、佐原四か村堤防が決壊し、押し出した濁流は、佐原村を縦断して水保村に入った。鍵合内、上古屋の間を通り、辻内の南から榎内の西、中原の南を通り、明神前から真っ直ぐに百目木に達して須川に合流した。
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# by shingen1948 | 2006-12-18 21:58 | ◎ 水 | Comments(0)
 荒川は、その名の通り、暴れ川で、川の周辺の地域は、古くから洪水に悩まされている。今でも日々淡々と治水作業が行われていて、これを怠れば、人々は仕返しを受ける。ただ、今の治水は、人々の心を離れ、行政関係によって淡々と地道に努力をされているところであるようだ。それで、この治水作業と人々との意識をつなぐ作業が同時に進行しないと、しっぺ返しが来たときに、最小限度の被害に抑えられないという事情がある。
 
 平成10年あたりまでは、水害予測は地区のお年寄りの経験として生きていた。
 大雨が降ると、吾妻運動公園入り口の橋のたもとで荒川の暴れ具合を予測する。そこから上流は、右側の堤防が切れやすく、水保方面が洪水になる。下流は、向かい側の堤防が切れやすく、切れると名倉に水が行く。水量を見極め、経験を元に予測するのだ。
  水保方面が洪水の経験則の根拠は、明治43年の大水害だ。これは、地形をも変えるほど激しいものだったという。この時は、8月1日から断続的に雨が降り続いていた。荒川の水は増水し限界を超えた。12日朝6時に、佐原四か村堤防が決壊し、押し出した濁流は、佐原村を縦断して水保村に入った。鍵合内、上古屋の間を通り、辻内の南から榎内の西、中原の南を通り、明神前から真っ直ぐに百目木に達して須川に合流した。そのときの跡は今でも景色に残っている。
a0087378_1653461.jpgフルーツラインと鍛冶屋川の交差する地点から、西の方を見ると南西の方向から全体の景色の中に、窪んだ景色が何となく浮かびがる。ここまでは、切れてから二時間でたどり着くという。
  名倉方面が洪水の経験則の根拠は、明治23年の大水害だ。これも、時期的には、8月8日である。浸水家屋16棟耕地24町歩の水害があった。こういった水害が起きないように、荒川の川筋を変更した。それに伴って、そこに住んでいた庄野日の倉部落の人々が村林(河原屋敷)に移住して、がっちりとした堤防ができた。その堤防が、決壊するかどうかを占うのだ。
  ちなみに、平成10年に佐倉小学校が避難したときは、この堤防が切れたのだ。地域のお年よりは、「古老によれば……。」ということを信じていたので、予測した通りの出来事であったことを後で知った。
a0087378_17102622.jpg 明治43年の大洪水の時、学校を守ろうとした村人は、水の勢いを抑えるため校門に板を縛りつけたそうだが、水の勢いのほうが強くて、校門が折れてしまったという。その折れた校門が、水保小学校の入り口に横たわっている。
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# by shingen1948 | 2006-12-17 17:24 | ◎ 水 | Comments(0)
  福岡県の飲酒運転による人道的にまったく許されない事故を受けて、全国民的な支持を得て、道路交通法が改正され、飲酒運転の厳罰化による絶滅を図った。
  あまりのひどい事故に、全体的にやや高揚された意識の中、作られた社会規範は、無反省のまま社会的なルールとして定着しつつある。ある程度、期間が過ぎたところで、次の点について、考察すべきではないかと思える報道が、めについた。
  その一つは、厳罰化は、細かい部分でも、真に適切さを欠いていないかということであり、その二は、再び悲惨な事故が起きないためには、方策はつくしたかということである。

  厳罰化は、このままで適切化と問題提起になるとおもわれる報道は、毎日新聞2006.12.15の社会面に小さな記事である。
「茨城の小学校教頭酒気帯び運転容疑」の見出しで、以下のように報じていた。
茨城県警つくば中央署は、14日、同県つくば市茎崎第一小教頭、板寄芳男容疑者を道路交通法違反(酒気帯び運転)の疑いで現行犯逮捕した。
調べでは、板寄容疑者は出勤中の同日午前七時35分ごろ、同市菅間の市道で酒気を帯びて車を運転した疑い。交差点で同県阿見町の土木作業員の男性(69)の車と衝突事故を起こした際、呼気1㍑中0.25㎎のアルコール分が検出された。この事故で男性は軽症を負った。
市教委などによると、坂寄容疑者は13日午後5時15分ごろに帰宅後、午後10時ごろまでに焼酎2杯を飲んだという。

つまり、夜の晩酌10時までに、焼酎2杯を飲んで、次の日の朝車で出勤したら犯罪だということだ。毎日新聞の報道規約では、職業、住所、氏名、年齢を実名報道する凶悪犯罪としての位置付けである。張り切って処分を強めた県によっては、彼は、免職に値するとの判断を言い訳無用の中で言い渡される。

厳罰化だけで、飲酒運転による悲惨な事故は防げるかということについて、次のような記事が目に付いた。
2006.11.6「朝日新聞」は、関西アルコール関連問題学会の調査発表を報じていた。それによると、アルコール依存症患者は、厳罰後も半数が飲酒運転しているということであった。
  この調査は、2002年の改正道交法後の飲酒運転について、2004年9月から11月にかけて、関西のアルコール依存症患者246人を対象に実施したものとのこと。比較対象のため、385人の医療関係者にも同じ調査をしたという。
 詳細は略すが、一般が、大幅に減らしたものも含めて、飲酒運転を続けたのは14%に対し、アルコール依存症患者の52%は続けていたとのことである。また、飲酒運転をやめた人がその理由に厳罰化を理由に挙げなかったのは、一般では、18%であったのに、依存症患者は39%に上ったとのことである。

 道徳的に問題なのは、飲酒運転を続けた14%、厳罰化も平気だという一般の18%である。同じようにアルコール依存症にもその問題があると想定すれば、その分を差し引いた38%の飲酒運転を続けた人と、厳罰化にも理由にならなかった21%の人は別の理由があるということだ。アルコール依存症と運転免許のあり方を検討する必要は無いのだろうか。

人の使い捨ては当たり前とする人を前の日本の指導者に選ぶ国では、細かい配慮は期待できそうにないが、細かな部分の配慮についてまで心配れるデリカシーのある方がリーダーになったときには、そういったことも考えていただけるだろうか。そんなリーダーはもう出ないかもしれないと思いつつ。
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# by shingen1948 | 2006-12-16 21:03 | ☆ その他の話題 | Comments(0)