紺紙金字一切経と金光明最勝王経金字宝塔曼茶羅図が展示されている空間の奥に、騎師文殊菩薩半跏像と四眷属立像が展示されている。
ここに文殊菩薩像を展示した意図は、五台山とのつながりを強調したかったらしいことが分かる。
金字一切経や金色堂の外観などは、中国の五台山にルーツがあるという。これがメインだろうが、ここに、五台山にしかない様式の仏像である騎師文殊菩薩像を並べることで、五台山の文化を最初に日本に導入したのが平泉なのだといおうとしているのだろう。
中尊寺のホームページでは、開祖について次のように述べている。
中尊寺は、嘉祥3年(850)、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって、この地に弘台寿院という寺が開かれたことに始まるといわれています。関東から東北地方にかけて、慈覚大師のいい伝えをもつお寺は数多くみられます。このことは、北関東の出身である慈覚大師を、この地方の人々が敬愛し、その教えを受けつぐ人々が地域の伝道者として活躍していたことをあらわしています。
円仁自身が、平泉まで来て五台山で学んだ文化を実際に指導しながら作っていったのかどうかは定かではないらしいが、少なくともその系統をひく比叡山の方々が来て開いたというのには違いないというのだ。
霊山寺もまた、開祖は慈覚大師円仁を想定している。慈覚大師円仁の中国での記憶として、この文殊像は自然だったならば、霊山寺でも、同じことがいえるはずではないかと勝手に思う。
金銀字一切経は、藤原清衡がしたためている。平泉が、五台山文殊を最初に日本に導入したのなら、その文化を具現化するのに、藤原清衡がかかわる。自らが浄土を築き、そこに眠ろうとしたのだろうと想像は広がる。
この文殊像の存在だけなら、長床の御本尊も騎師文殊菩薩と聞く。そうなると単なる比叡山の方々の思いかもしれないし、そうでもないのかも知れないという程度になってしまうようにも思う。 複合的に展示説明されていることが、頷けるだけの説得力になっているのだ゛ろう。