文学の世界にも疎いので、芭蕉の「奥の細道」は、それ自体が醸し出す力で古典として残っているのだと勝手に思っていた。広報担当者がいて、蕉風俳諧を広めようと働いていることや、その広報の方法として、「田植塚」なるものは、全国にあるのだということを初めて知った。
芭蕉翁は、ここ桑折を1969年(元禄2年)5月3日(新暦の6月19日)馬に乗って通ったという。
それから30年後、蕉風俳諧を広めようと芭蕉門の沢露川(さわろせん)が、ここ桑折で佐藤馬耳と出会ったとのことだ。ここで、二人は「俳句の会」を催し、馬耳はその時の俳句と一緒に芭蕉翁直筆の「風流の初やおくの田植うた」短冊を埋め、「芭蕉翁」と記した碑を建てたのが、「田植塚」ということのようだ。
桑折町の田植え塚は東北最古とのこと。
当時の桑折地方は東北の中でも俳諧が盛んだったという。著名な俳人が桑折を訪れては、馬耳を始め多くの俳人と交流していたということだが、芭蕉は、ここでは立ち止まらなかった。
芭蕉の田植塚
俳聖芭蕉が奥の細道行脚の途次、須賀川の「等窮」宅で詠んだ、
「風流のはじめやおくの田植唄」の句を、当地の俳人「馬耳」が享保4年(1719年)5月12日此処に埋め、塚を築き、「芭蕉翁」と刻んだ碑を建立し、芭蕉追慕景仰の供養と当時盛んであった信達地方の俳壇の隆盛を祈願したといわれています。このとき建碑記念句座を設け「田植塚」乾坤二冊を馬耳が撰集し開版しております。「諸国翁墳記」(宝暦11年(1761年)粟津義仲寺開版)によりますと、この塚は東北最古のもののようです。
馬耳は、当地本陣の役人佐藤佐五左衛門宗明の俳号であり、奥州俳壇の実力第一人者である。(「西国曲」巻5「諸邦発句」に入集した奥州俳人のうち、桑折の俳人が最も多いことや当時一流俳人祇空等が馬耳の亭に宿泊したことからも考えられる。)
馬耳の先輩で、天野桃隣と交りのあった東柳軒不碩の墓も当山に現存しています。
昭和63年4月
桑折町教育委員会
※ 誤って写真を削除してしまった。後日、もう一度撮影してきたい。
桑折の宿場は、『延喜式』の陸奥国駅馬にみえる伊達駅に関係した古い集落で、戦国時代には桑折氏や伊達氏が本拠とした。
その桑折氏の菩提寺である桑折寺(時宗)は、伊達郡役所(国重文)の前の通りを西に行った所になる。
桑折氏は伊達氏の分家であるが、その菩提寺である桑折寺は、永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(1848)に庫裏を再建したとのことだ。
ここは先には、伊達氏の西山城にかかわる桑折寺山門の興味から、『桑折西山城③の搦手門~「桑折寺の山門」』として整理していた。
また、その先の産ヶ沢川沿いには、伊達氏の始祖伊達朝宗(満勝寺殿)の墓があるが、これも、『伊達氏の祖「朝宗の墓」を訪ねる』として整理した。
この後の支配者は転々と変わるが、代官所や桑折藩陣屋が置かれ、西根郷の政治経済上の中心ではあったということだ。それで、明治になってここに伊達郡役所がおかれるなどしたということのようだ。
今回は、ここに無能寺(浄土宗)や芭蕉塚を加えて、更に懐かしい路地裏の風景を加え、桑折宿を整理しておきたい。
無能寺は、旧街道沿いの上町にあって、『念仏勧化現益集(ねんぶつかんげげんやくしゅう)』を著した名僧無能上人が再興したとのことだ。
ここには、代官の方々の菩提寺になっているようだ。寺の墓地に入ってみると、その代官関係の墓には案内の石柱が建っていた。
この寺は、明治14年にの明治天皇の東北御巡幸の際、ご休憩所にもなったということだが、地理的な条件に加え、そういった由緒の背景もあってのことであろうか。
ここで明治天皇が御休憩されたことが、この寺の誇りでもある。寺前には明治天皇ご休憩所の記念の石碑が誇らしげに建っている。
その明治天皇の御休憩かかわりで、御蔭廼松(みかげのまつ)の案内板が建つ。
明治14年8月10日明治天皇東北御巡幸の際、無能寺がご休憩所となりました。本堂前の老松、径12間、天皇はこれを御覧になり杉宮内大輔に樹齢を問われたので住職矢吹良慶は「300年」と申しあげ、やがて天皇は杉宮内大輔に松の名を命じられました。
杉宮内大輔は「御蔭廼松」と名ずけ和歌一首を詠じたのです。
「おほみきの みかげの松の深みどり 夏も涼しき 色に見えつつ」
※12月27日付記
先に整理した「羽州街道追分」をここに加え、芭蕉が足を止めることなく通り過ぎた桑折宿としてとらえることができる。
伊達郡の要である伊達郡役所だが、これは代官所が置かれた陣屋跡に置かれたようだ。
明治維新後の桑折町は交通の要所と周辺の経済的中心地だった事から伊達郡役所などの施設が設けられ政治的にも重要な地位に位置づけられたのだが、歴史的には、奥州仕置き後の桑折町は短期間に支配が次々に変わる土地柄だったようだ。
寛延2年(1749)からは代官所支配となり明治維新を迎えたということのようだ。
ただ、半田銀山の開発が盛んになる頃は幕府から重要視され、桑折町一帯は佐渡奉行の支配下に置かれるようになったということがあった。
実際の陣屋跡は、この郡役所の東側とのことで、案内板が建っている。
桑折陣屋
桑折周辺の信達地方は、江戸時代に入ると、米沢藩上杉領となりましたが、寛文4年(1664)に幕領へと移り、幕府代官所が福島に置かれていました。
その後、信達地方は一時福島藩本多氏領となりましたが、再び幕領となり、堀田氏の福島藩入部に伴い、残された幕領を治めるため、貞享2年(1685)に 幕府代官所として桑折陣屋が設置されました。
初代桑折代官は柘植伝兵衛でした。元禄13年(1700)松平忠恒が2万石で桑折藩を開き、陣屋を使用していましたが、松平氏は定府(参勤交代せず、江戸に常任している大名)であったので、桑折陣屋には代官を派遣して当地を治めていました。
松平氏は3代忠暁のときの延享4年(1748)上野篠塚に天封になりますが、その理由は、半田銀山に有望な鉱脈が発見され、これを幕領とするためとされ、陣屋内には銀山関連の施設があったことが窺えます。
翌寛延2年(1748)に神山三郎左衛門が桑折代官として赴任し、一時の仙台藩の預かり支配期を除き、明治元年(1869)に前田勘四郎代官から 新政府に引き渡されるまで、代官が派遣されていました。
その間、陣屋は齋藤彦内 ・蓬田半左衛門が首謀者となって「寛延一揆」に囲まれたり、竹内平右衛門・寺西重次郎・寺西蔵太・島田帯刀等民政や銀山開発に尽くした代官の治政の場となる等、当地方の中心として機能しました。代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあります。
陣屋は、郡役所敷地より東側、陣屋の杜公園より北側の現在は住宅地となっている部分を占めていました。
平成17年3月
桑折町教育委員会
案内板には、陣屋の概要図も掲げられている。確かめてみようと、杜公園回ってみる。
北側を眺めてみるが陣屋跡の面影はない。
東側に回ってみると、石垣はあるが、これが陣屋跡とかかわるものなのかどうかは分からない。その上には普通の民家が建っている。
この地区は、支配者による文化の構築というよりは、奥州街道と羽州街道が交差する宿場であることから、多くの風流文化が流入してくるということだったようだ。
田植え塚などは、そういった俳諧文化の繁栄といったことの象徴とする史跡と見ればよいのだろうか。