地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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Excite エキサイト : 社会ニュース
  政府の教育再生会議は、いじめ対策の緊急提言をしたとのことだった。まるで、劇画の原作風だと思って聞き流していたら、本気だったようだ。「劇画上映決まる」といったところか。

 これから実行されるという教育再生会議の提言は、明言を避けたかどうかは別として、毅然とした対応を学校に求めるそうだ。その内容は、問題のある児童生徒の出席停止・社会奉仕活動への参加・別教室での教育

 いじめにかかわったり放置、助長した教員には懲戒処分を適用するそうだ。

 学級で、喧嘩で叩かれたり、叩いたりした時、子どもが虐められたと訴えたら、担任を懲戒できるのだろうか。無視といういじめは、どこまで懲戒にすれば、教員は懲戒されないのだろう。

 これからの学校で、教育を職業とする人は、一切のトラブルを避け、常に理想的な社会としての学校でない限り、いつ訴えられ、懲戒処分を受けるか分からない。今、不足しているのは、トラブルに対応する力だったのではなかったかなどと理想論をしゃべっていてはいけない。トラブルを起こさないように学習することが大切で、体験を通して、対処法を学んでいく姿勢が教育現場から消えてしまったことが、憂うべきではなかったのかなどと言っている場合ではない。

 教育再生会議の正義の使者が居て、虐める子どもという悪人が居て、こいつをたたききる。こんな悪人を放置した教員という名の悪代官も同罪、縛り首。めでたしめでたしの劇画。文科省推薦をとって上映決定だ。

 責任追及より原因追求を、原因追及より、「救えなかったか」あるいは「救える方法」はなんだったのかということが大切だったと思ったのに、逆戻りが進行するのかと思うと残念だ。
どうやつたらこの問題が起きない状況をつくれるか。単純でないだろうか。
 子ども話しを聞いてやれる。時間やゆとりを確保してやる。効率だけでなく、ゆっくり話しを聞いてやる。こういった状況設定をつくる努力をする。

 素人には、こんなことが思いつくのだが、専門家集団は、さすが教育流行作家であった。センセーショナルな話題を提供してくださった。
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# by shingen1948 | 2006-12-02 04:59 | ☆ 教育話題 | Comments(0)

玉井の神々

 先日は、福島の信夫山の「心の神々」のようすについて資料をもとに確認した。その観点から、安達太良の里山「山入」の神々を確認してみる。そのため、現在の神社仏閣等の歴史を確認し、この地域の心の神々を想像する資料を探した。大玉村観光協会「大玉まるごと百選」がいいと思った。この資料をもとに、神社仏閣の歴史の記述から、移動の経緯等を中心に確認する。そうすると、もともとの神々の位置が分かる。そこに、安置されたものや言い伝えを合わせて確認して想像をすれば、地域の神々の認識に迫ることができるかも知れないと思った。
 
 この資料で、この地域の全体にさっと目を通す。すると、次のような概要を感じる。
 
 玉泉寺が、この地の領主の菩提樹であるようだ。この領主は、会津葦名のとのかかわりがある人物で、舘に住み、1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没したとのことのようである。
 その他の神社仏閣は、いろいろな神々の変遷があり、今の神社仏閣としてかくりつしたようだということである。

 玉井を中心にしてみれば、大きな仏閣は、相応寺であろうか。この神々について経緯の記述を探してみると以下のようである。

 807年(大同2年)眉岳(前ケ岳)に堂宇を建てて如来を安置し、安達太良山相応寺と号した(木村完三「安達太良山」より)とある。この地に650年あったが、度重なる火災にあったとのこと。
 1452(宝歴4年)玉井亀山に再建され、修験堂当山派の拠点になった。この地に100年あった。
1560年(永禄3年)現在地南町に移された。

 この記述から、本堂の脇にある薬師堂から、「地域の神々」のにおいを感じ取ることができるようだと分かる。上記からは、更に山岳信仰に関わる神々が感じられる。 

 前ケ岳は、里山ではあるが、奥深い山々とのつながりある意識的にはやや深めの里山であり、修験者の存在を感じさせる。現在の遠藤ケ瀧の行事に残るイメージである。
 変遷は、薬師堂の「前ケ岳」→「亀山」→「南町」へ移動とのことである。
 この前ケ岳とあるのは、本山の前ケ岳だろうか、それとも、玉井の前ケ岳だろうか。いずれにしても、本山の前ケ岳に「神々の精霊」を感じた薬師というイメージの精霊をここで感じればいいのだろうか。

 記述によれば、次のような神々だとある。
 薬師堂内の薬師如来は、亀山の元相応寺から移った岳山湯前薬師とのこと。薬師如来の護衛として配された12神將は、一体は1481年(文明13年)江戸時代に制作されたものが、12体とのことである。
 
 信夫山の護国神社に相当する新しい神々は、午房内の玉井神社のようである。
 明治初期に、国家神道政策が荒れ狂い神仏分離が厳しく実施されたことに伴う変化であることは明らかである。ここからも、心の神々から権威の神々への変化を読み取る記述を探すと、以下の記述がされている。 

 大名倉山中腹の愛宕神社と相応寺境内に社殿のあった安達太良明神を合祀して、明治12年に建立された神社。現在玉井を鎮守する神社。

 ここから、心の神々は、国家神道政策の前には、大名倉山にもいたし、相応寺境内にも別の神がいたことが分かる。やはり、大名倉山は、里山としてのこの地のシンボル的存在だと感じる。また、相応寺の場所も現在の神々とは別の安達太良の山か川か里かは分からないが、重要な精霊の住む地であったと感じる。 

 その他の玉井の仏閣に、小菅の正福寺がある。ここの経緯は、以下のように記述されている。
 
 新義真言宗、城守山 正福寺と称する。
 1558年(永禄元年)山城の地に開創
 1708年(宝永に年)現在地に再興
 1803年(享和3年)火災で焼失、同年再建。
 本尊は、地蔵菩薩 脇仏は不動尊 文覚上人(遠藤盛遠)が背負って歩いたお不動様も安置。
 
 八坂神社とここの神々は、玉井とは別の山入地域の精霊であり、山入村の鎮守だろうか。
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# by shingen1948 | 2006-11-30 20:33 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

玉井の玉

a0087378_19311461.jpg 先日「立県130年記念展」福島県の誕生~明治巡幸と三県合併~と題した展示会を観てきた。そこで、天覧品目録に「玉井の玉」の出品を見つけた。それは、この玉であろうと思う。鈴木某氏によって出品されていたことだが、この写真には、所在地:郡山とある。恐らく、天覧の関係で郡山にあったのだろうと推測する。今この玉は、大玉のふれあいセンターに展示してある。



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 この玉はこの井戸から発見されたと言われている。だからこの地を玉井というとのことだ。こんな丸い玉がここにあったのかとも思う。しかし、穴原の波の化石のあるところの川底には、岩に真ん丸い穴をあけた丸い石がある。流水が形作ったという。だからありえないことではないかもしれない。しかし、この丸い玉が、人工であるとするなら、次のような解釈はどうだろうか。
 玉を丸いという意味ではなく、玉造りの玉と考えれば、原石としての水晶のことをいっているのかもしれないということになる。大山地区が、古墳群であることを考えれば、この玉を使って装飾品を造っていたことも考えられなくも無いとも思う。その場合、玉の産地としての玉井なのか、玉造のいる井戸なのかと空想は広がっていく。
 なお、この井戸の標識は、昭和11年ごろ、巡幸60周年記念で造られたものではないかと今のところ想像する。
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# by shingen1948 | 2006-11-27 19:52 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
 2006.11.27「朝日新聞」に[私と環境]というコラムがある。そこに紹介された「川作り 流域住民の手で実践」に武庫川流域委員会委員長の松本誠氏の意見が目に付いた。

 武庫川ダムが建設され、武田尾渓谷の自然が崩壊するのを防ごうと反対運動が起きたことをきっかけに、計画をゼロベースから検討することになったという。そして、武庫川流域委員会を中心に住民参加の川作りをはじめたとのことである。ダム反対の住民を含めて、この川とどのように付き合っていくかを話し合い提言したとのことである。

 その提言内容を読んで驚いた。
 提言では、治水を河道の中だけで考えるのではなく、流域全体で考える「総合治水」の方針を貫いたという。森の保水力を高め、大雨のときには水田やため池、学校のグランドや公園に水を貯留し、川への流入を抑制するという考え方だ。既設の水道用ダムも活用するし、川からあふれた場合に備えて、水害に強い都市や住宅の構造に変えていくとのこと。
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 この提言は、具体的には、森の保水力に着目したり、あふれた雨水をグランドや公園に貯留する考え方である。この例は、現代の最先端の考え方だ。ところが、荒川の「かすみ堤防」とあまりにも似た考えだとは思わないだろうか。荒れ狂う荒川を体験した江戸時代の住民は、自分たちの知恵で、総合治水を考え出しているのだ。体験を通した人々の知恵の奥深さを感じたのだ。
 しかも、提言の真骨頂は、行政まかせだった川づくりを流域住民の手に取り戻したこととしている。「川とともに生きるまちづくり」が最も大切との認識も、今でこそ消えつつあるが、洪水の歴史で掴み取っていた感覚だったと思うのだ。その復活を目指す動きこそ、大切なのだと改めて思った。

 さて、安達太良川であるが、本宮では、阿武隈川への合流地点で洪水になる可能性を秘めていると聞く。自然を守るという一つの観点だけでは、人間と共存できない川だとのことだ。大雨のとき、この川の治水の考え方は、何を基盤にしてるのだろうか。まず、三ツ森ダムでの調整だろうか。其の後、河道だけの治水を考えるのではなく、流域全体で考えるようになっているのだろうか。もし、そうなっているとすれば、例えダムの操作のタイミングが多少ずれても、緩衝力が働いて、大きな被害にならないですむだろう。
 桜公園等そういつた考え方で作られているのかもしれないとも思う。そういう視点で今度見てみることも大切かなと思っているる
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# by shingen1948 | 2006-11-27 19:35 | ◎ 水 | Comments(0)