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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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西根堰下堰取水口

 西根下堰は、上杉景勝公御代元和4年、(1618)佐藤新右衛門が開削ということがなければ、どこでも見かけるごく普通の堰であり、探索する機会も少ない。
西根堰下堰取水口_a0087378_461753.jpg
 桑折や伊達に進む道から、川沿いに向かう道をみつけて、坂を降りていく。
 この堰の取水口は、十綱橋の下流で、対岸に電車駅があるということを目印に見当をつける。


西根堰下堰取水口_a0087378_474093.jpg
 摺上川が見えてきてほっとするが、取水口方向に向かう道には、ここから先は行き止まりという標識が立って不安にもなる。
 その行き止まりの所に、下堰の取り水口があった。


西根堰下堰取水口_a0087378_485138.jpg 
 川から取り入れられた水は、直ぐに隧道に入る。行き止まりの標識のところまでは、どこを通っているかの想像もつかない。


西根堰下堰取水口_a0087378_4111259.jpg
 下ってきた道とクロスするあたりで、進んでいく水路が想像できる地形になる。
 この歩道になっている部分は、下堰の水が流れている隧道だろうと想像して進む。


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 やがて、地表に水路が顔を出して、流れは、地形に沿って進んでいく。


西根堰下堰取水口_a0087378_415186.jpg
 しばらく行くと、旧取水口の標識がある。古くはここから水を取っていたということで、川の方を見る。そこには、下水処理場があるだけで、面影はない。
 河原にも出てみるが、ここでも取水口の様子は分からない。


西根堰下堰取水口_a0087378_418644.jpg
  戻って、下水処理場の前の道を進んでみる。
  道沿いに、古い土手状の地形らしきものがあるので、勝手にこれかなと思う。


西根堰下堰取水口_a0087378_419164.jpg
 土手に登り、その土手状らしき地形と繋ぐ凹んだ地形を結ぶ地形を探す。
 このあたりかなと勝手に思うが、定かではない。


  下堰は穏やかな流れである。春の景色が似合うはず。田植えのころに、水路沿いに景色を楽しみながら歩いてみたいものだと思う。
 
# by shingen1948 | 2009-01-05 04:41 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 二日の飯坂方面の足慣らしは、西根堰関係だった。それで、西根神社と高畑神社にも詣でた。
信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_5504058.jpg
 神社の前には、祭神治績と御祭神略歴の案内板が立っている。
 この西根神社は、明治20年1月に、祭神、古河善兵衛重吉公と佐藤新右衛門家忠公として、官許創建されたものだ。

 祭神治績は、案内板説明では、治水関係と、寺院関係を挙げている。しかし、一番大きな功績は、西根上・下堰の開削であることは明らかだ。
 治水関係として、西根上・下堰、山形県高畠町4ケ村堰開削、阿武隈川の堤防建設、福島岡部地区の築壇、砂子堰、箱崎、井野目、中野、小川各堰の計画設計を挙げる。
 また、寺院関係としては、福島康善寺・霊山大善寺・康学寺・瀬上台巌寺・鳥渡政善寺等の建立。福島黒岩虚空蔵堂の再建を挙げている。
信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_682445.jpg
 よく分からないが、高畑天満宮がご一緒なのは、祭神治績にある山形県高畠町4ケ村堰開削とかかわっての因縁なのだろうか。


 神社内には、いくつもの石碑がある。確認できるものを整理しておく。
信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_552197.jpg
 左側の碑は、昭和2年建立の「寛永の副碑」とのことだ。寛永の碑の翻刻碑とのことだ。
 次が、寛永の碑らしい。寛永10年(1633)、上堰完成の翌年に、古河善兵衛が自ら撰文し、建立した碑で、かつて取水口に建てられていたものという。
 その隣が、寛延の碑らしい。寛延4年(1751)に建立された古河善兵衛頌徳碑とのことだ。福島康善寺僧の撰文で、かつて穴原部落(旧地)の路傍に建てられていたという。


信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_5533494.jpg
 摺上大権現碑の裏面銘
 下堰(1618)
 上杉景勝公御代
 元和四午年開削
 石粟将監、須田普左衛門、島彦右衛門、鈴木清兵衛、奉行 平林蔵人佐正恒、佐藤新右衛門、青木金右衛門、青目甚之輔

 上堰(1624)
 上杉景勝公御代
 寛永元子年開削
 由緒穴原碑銘在依而姓名
 文政元寅 天十二日
 (1818)

 寛永の碑などの石碑が西根神社に移動する経緯について、福島民報(大正15年8月24日)が「穴原上堰から 珍しい古碑」の見出しで報じているらしい。

 穴原上堰に埋まっていた碑を掘り上げたら、西根神社の祭神古河善兵衛の碑だった。この碑を、西根神社に移し、別に該古碑の縁起を刻むことになったとのこと。
 穴原屋敷人々はこの碑に、供物を捧げ、尊信し供養していたが、大火の時、焼け落ちた巨木が倒れたため碑が二つに折れたと、畠一三郎氏の父の記録で明らかになったとも伝えているとのこと。


信夫の里の天地人⑥~西根神社 _a0087378_5551541.jpg
 なお、鳥居のところには、三河国刈谷藩湯野陣屋跡の碑が建っている。
 これは、後の時代に、三河国刈谷藩の土井氏が治めた時代があって、その時にここに湯野陣屋があったということだ。

西根神社案内板説明内容
# by shingen1948 | 2009-01-04 05:47 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)
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 飯電で、飯坂方面へ足慣らしの散策に出かけた。


信夫の里の天地人⑤~西根堰②_a0087378_5294544.jpg
 電車を降りると直ぐに見えるのが、西根下堰取水口。この堰は、西根堰上堰開削前に、1618年、佐藤新右衛門が、湯野の摺上川から、桑折、伊達崎までの約13kmの開削をしたものだ。

 先の整理で、新田開発による耕地の増大による藩財政立て直しのため、西根堰の開削による水源確保の目論見があったはずとした。
 ただ、上杉藩の事情を反映するのは古河善兵衛重吉で、佐藤新右衛門はもっと純粋に地域の発展を夢見たと思える経歴だ。


信夫の里の天地人⑤~西根堰②_a0087378_5351439.jpg
 これも「T-com」に載っていた佐藤新右衛門。どの資料にも載っている岸波利郎氏蔵の絵図だ。

 佐藤新右衛門は、元々伊達郡桑折の地侍で、郡役として農民を支配してはいるが、西根郷の大肝煎だ。米沢藩は信夫郡と伊達郡の2郡を、信夫郷、西根郷、東根郷、小手郷の4つに分け、それぞれに村々の役人の見張りをする大肝煎を置いて、四郡役と呼んだ。
 大肝煎には、藩士ではなく、地元の実力者を採用したという。佐藤新右衛門は信夫佐藤氏、佐藤基治の18代の子孫ともいう。


信夫の里の天地人⑤~西根堰②_a0087378_5251612.jpg
 今年は出かけたところの神社に立ち寄って初詣をするということで、まずは飯坂八幡宮に立ち寄った。
# by shingen1948 | 2009-01-03 05:42 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

信夫の里の天地人④~西根堰_a0087378_535306.jpg
 ここは、福島の天神様だ。今年は出かけたところの神社に立ち寄って初詣とした。

 年末の部屋の掃除で、西根堰の資料を見つけた。
 信夫の里の天地人を整理している最中なので丁度よかった。というのか、頭の中にはそのことがあったので、プリント類を整理している中から見つけたということなのかもしれない。

 西根堰による新田開発は、この地区では有名な話で、古河善兵衛・佐藤新右衛門らは神格化されて西根神社に奉られている。また、福島近郊では、必ず4年生で学習する。それぞれの地区の資料集にも必ずこの堰は載っている。この学習をもとにして、自分たちの住んでいる地域の堰の学習をするのだ。
 だから、意識しなくてもこの堰の資料は家の中のどこかにはある。
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 これは、「T-com」の東北歴史探訪「摺上川の歴史」に載っていた西根堰の説明図。
 この西根堰には、上杉藩の事情が反映されている。
 用水路掘削を伴う新田開発は、生き残りの命運を賭けた事業だ。信夫の里には多くの上杉の家臣が入りこんだが、彼らが伊達・信夫の新田開発に心血を注いで開発は行わている。
 
 概要は、うつくしま電子辞典→県北地域→「佐藤新右衛門」の項で紹介される。


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 これも「T-com」に載っていた古河善兵衛重吉だが、との資料にも載っている岸波利郎氏蔵の絵図だ。
 佐藤新右衛門は地侍だが、ここに登場する代官古河善兵衛重吉が、上杉氏米沢藩家臣だ。上杉氏が会津に転封されたことで、信夫郡・伊達郡の郡代となった福島奉行だ。
 新田開発による耕地の増大による藩財政立て直しを目論んだはず。そのための水源確保が、西根堰の開削のはずだ。
 「T-com」によると、彼は、信濃国更級郡塩崎城主小笠原九郎左衛門重成の次男であり、重成は武田信玄に仕え、土木事業にも優れていたといわれているとのことだ。

 気づいているかどうかは別にして、4年生の時に、福島近郊での学校で過ごした人は、半年かけて「信夫の里の天地人~西根堰」に接しているということになる。

うつくしま電子辞典「佐藤新右衛門」説明内容
# by shingen1948 | 2009-01-02 05:55 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)