地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 これから整理するのは、八丁目天満宮に直接かかわる情報という事ではない。散歩の中で、知っていれば結構楽しめるという情報の一つだ。

 その一つが、几号水準点。
 街道筋を散策するのに基本的にお世話になっている「街道Web」によると、天満宮の鳥居の右側の根元にその几号があるということだった。
 震災後、壊れて取り払われてしまったものもあるとのことだが、確認するとここは健在だった。
a0087378_15201863.jpg 几号水準点についての説明は「街道Web」からお借りする。
 「明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京~塩釜間の測量を実施した。測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、この横棒の位置を標高としたのである。
これを「几号水準点」(きごうすいじゅんてん)と言う」

 なお、この「几号水準点」情報は「街道Web」サイトの「寄り道Web」→「脇道Web」→「几号水準点 明治時代の測量の痕跡を辿る」→「2本宮→福島」から拾える。
 http://kaido.the-orj.org/yori.htm
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# by shingen1948 | 2017-07-28 15:21 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 今回の散策では、八丁目天満宮側の街道筋に、民家二軒が並び、その次に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷が並ぶのだが、その斜め向かい側に「ハンドメ」の位置を想定して歩いている。 それは、「八丁目家主一覧」図を参考にして歩いているからだ。
 この「八丁目家主一覧」図に描かれるのは、二本松藩が支配する体制になってからの宿の様子なのだ。

 一方、半沢氏の「歴史地図」では、その「ハンドメ」を、境川から八丁目村へ入る手前の道がクランク状になる辺りに描いている。この事については「奥州街道:境川から八丁目村へ⑤」で記したところだが、これは時代の推移にかかわる事なのだと思っている。
 つまり、この八丁目宿が福島藩に支配される範囲に入っていた時代を想定しているように思うのだ。その時代は、この宿が二本松藩との実質的な接点になるわけで、ここに口留番所があったことをイメージしているのだと思われるということだ。

 ここには、参考資料が示されていないが、恐らく宝暦11年(1761)「米沢より江戸まで駅絵」の「八丁目宿の図」を意識しているのではないかなと想像する。
 その「八丁目宿の図」コピー写真は、「ふくしまの歴史3(近世)」の「福島の街道」の一つ「米沢街道」解説に見ることができる。

 その絵図には「信夫郡 上八丁目 二本柳へ一リ 二本松へ二り八丁」とあり、本陣桜田新兵衛門屋敷も紹介される。
 自分にとっての注目点は、この図の境川の八丁目宿寄り側に「福島領」と記されていることだ。描かれているのは、八丁目宿が福島藩領であった頃ということの確認だ。

 この絵図についての評価だが、本陣の桜内家の位置などに間違いがあるものの、全体として宿場町の雰囲気がよく伝わる絵図とされているようだ。また、二本松方面への出入りをチェックする口留め番所などがしっかり記されているとされるようだ。
 ただ、絵図には口留め番所の表記はなく、その絵図の二本松側のクランク状になる道の両側に柵が描かれていて、次の角の西側に塀が回された家が描かれているだけだ。

 現況と見比べると、塀が回された家が描かれている辺りが八丁目天満宮の辺りと思われる。柵は奥州街道を二本松方面から歩いてくるとクランク状に曲がり始める最初の角辺りだと思える。

 ただ、この八丁目天満宮辺りが口留め番所跡だったと言い切る情報を見た事はない。それどころか、「ふくしまの歴史3(近世)」の「信夫隠れの碑」の写真解説には「ここは二本松藩領との境にあり、上杉時代は口留番所を置いて厳重に取り締まった」とあり、「信夫隠れの碑」旧地が口留番所であったような解説も見る。
 これも、時代による推移とみるのか、不明であることをあえて推定すればということなのかは分からない。
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# by shingen1948 | 2017-07-26 16:06 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
 前回の松川鉱山に係るこの辺りの散策で「社掌渡邉伊佐美碑」を見つけている。
 そのことは「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑧」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23815576/

 この時には、この渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」で、その一切の社務を司っている方なのだろうとの想像だった。そして、この方が兼務で松川鉱山にかかわる山神社の社務を司っているのだろうとの勝手な想像だった。

 しかし、今回の散策で、渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」でその一切の社務を司っているというのは想像ではなく、確かな事であることが確認できたということだ。

 今回の散策で気になりだしたのは、この「社掌渡邉伊佐美碑」は顕彰碑ではなくて、墓碑なのではないのかなということだ。
a0087378_9275950.jpg 実は、人々が搗鉱場と呼んだ自家精錬場が設備された古天神地内に設備されていたということとかかわって、今回も古天神の水路確認の散策をしていた。
 その水路を探っていると、その水路裏手に墓碑のようなものが見えたのだ。
 このすぐ前に民家があるので、小心者には近づく勇気がなかったのだが、この撮っている位置から真北に「社掌渡邉伊佐美碑」があるという位置関係でもあるのだ。
 
 今回は、自家精錬場はさておいて「八丁目天満宮情報」とみて整理する。
 ここは明治以降神社の神官としてかかわった多宝院がかかわる処なのか、あるいは八丁目天満宮の旧地がかかわる場所なのではないかと思えてきたということだ。
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# by shingen1948 | 2017-07-25 09:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 明治政府の神仏分離令以前の本来的な天神信仰である神仏混淆時代の影が残る八丁目天満宮だが、受けた命令通り本地仏を廃し、鰐口を外して鈴が下げられたようだ。
 直接的な解説はみないが、いろいろな情報を組み合わせてみると、「八丁目天満宮」と改称した天神様に神仏分離令以降かかわるのは多宝院のようだ。
 元々この八丁目天神にもかかわっていて、明治政府の神仏分離令を受けて、僧から神主に軸足を切り替えたということなのだろうか。

 松川町の寺小屋は、小学校が解説された後も、明治25年頃まで存続していて自然消滅したとのことだ。その松川町の寺小屋情報から、明治以降八丁目天満宮に多宝院がかかわったと思われる情報が含まれている。
 八丁目村の寺小屋の一つは、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏で、弟子は8名とのことだ。この方は、謡曲が巧みで、年長者には「素謡」も教えたとのことだ。
 そして、もう一つが多宝院渡辺早人氏で、弟子が20人とのことだが、その紹介に「多宝院(神主)」とある。この「多宝院(神主)」の神主は八丁目天神であろうことが推察される。

 更に、維新館情報の八丁目村メンバーを確認すると、名主が野地長十郎(戸長)となっていて、同じ姓の野地源十郎と共に、渡辺伊佐美氏の名が挙がっている。
 その渡辺伊佐美氏は、その後菅原神社神官、松川小教師となったことが記される。
 明治10年に松川小の職員になっている事も確認できた。

 八丁目天神は、多宝院渡辺早人氏から渡辺伊佐美氏に引き継がれるようだが、この渡辺伊佐美氏が、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏かかわりなのか、渡辺早人氏かかわりなのかは不明だ。
 いろいろな事が想像される。八丁目村名主検断と多宝院はかかわっていたという事も考えられなくもない。
 どちらにしても、八丁目天神を視点にすれば、多宝院かかわりの神官からの継続であろうことは確かな事だ。
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# by shingen1948 | 2017-07-24 09:36 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)