地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 昭和33~4年に世界新記録を更新し続けた後の頃、山中選手が会津若松にやって来て、自分の母校に立ち寄ってくださった思い出を家族に語ったのは2年ほど前だ。
 多分、「家族に乾杯」というテレビ番組を家族で一緒に視聴していたのがきっかけだったと思う。
 その番組の中で出演者が出会った地元の方が、山中選手の家が近くだと紹介した場面があったと思うのだ。番組では、この事にはふれずに進行したのだが、自分としては、彼は今何をなさっているのかなという思いが起きて家族に話したのだと思う。
 それで、今回の山中毅さんの訃報の報道をみた家族が、声をかけてくれたということだ。

 家族に話している中で、その頃の楽しい思い出もいろいろ語ったのだが、真っ先に思い出して語ったのが、N先生演出で中学校の文化祭で菊池寛の「父帰る」の父の役を演じた事があるという話。
 自慢話の積もりだったのだが、家族の反応は、中学校の演題として内容的に似つかわしくないということと、当時マンモス校だったはずなのに、出演人数の配慮が足りないという批判になった。
 それでも、話としては盛り上がって楽しい会話にはなったという事だった。

 今回、山中選手の話のきっかけになったと思っている番組を紹介するページを確認しているが、今のところ山中選手にかかわる紹介部分は確認できていない。
 なお、山中選手のその後の経歴を確認したら、引退後もふるさとには戻らず、東京都内で活動なさっていらっしゃったことは分かった。
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# by shingen1948 | 2017-04-03 09:04 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 会津高等学校の春の選抜甲子園出場に貢献したのは、黒沢投手と渋谷捕手のバッテリーだという大人達の会話だが、このバッテリーにかかわる思い出がある。
 ただ、この記憶は曖昧だ。
 少なくとも渋谷捕手が投球練習の球を受けている姿を見かけていると思っている。ただ、これが中学校の校庭だったという記憶なのだ。

 走り幅跳びの砂場前の助走路だったと思うのだ。
 その助走路の脇の低鉄棒近くで見ていたのだが、これが衝撃的な体験だった。
 投手が投げた球が、渋谷捕手のミットにおさまる瞬間の音だ。球と空気が擦れ合う音が鮮明に聞こえると直ぐに、その球がミットにおさまる衝撃音のすごさだ。かなり離れているはずなのに、思わずのけ反ってしまったのだ。

 しかし、この記憶どこか納得いかないところがあるのだ。
 まずは、何故見かけたのが中学校の校庭だったのかということだ。次に、それが事実だとして、自分が見かけているのが何故渋谷選手と分かっているのかということだ。

 今回整理していく中で思ったのが、N先生とのかかわりだ。
 N先生が中学校の先生だった時には、野球部の顧問だったのだ。その野球部は、県大会だと思うのだが、そこで優勝している。この記憶に間違いないとおもうのは、その壮行会と報告会に自分もかかわりがあるからだ。

 この会、野球部の保護者達が企画したようなのだが、ちょっと配慮しなければならない事が起きたのだ。
 昔、放送陸上大会というのがあったのだが、それに全会津代表として出場する選手がいたのだ。こちらは個人的な話なのでそんな計画はない。それで、その会にその選手もまぜてあげたのだ。
 その選手というのが自分なのだが、こちらとしてはいい迷惑だというのが本音だったのでよく覚えているのだ。

 先に整理したように、その野球部顧問N先生は、幼馴染のS.Y一郎君のお宅の部屋を借りて住んでいらっしゃたのだ。そして、そのS.Y一郎君のお父さんが会津高等学校野球部にかかわりのある方だったのだ。その上に、N先生は、3年後には会津高等学校に転勤になるという経緯もあった。
 それらのかかわりで、実践指導の援助を受けたのではないのかなと想像だ。その時に見た事なのだろうとの想像だ。
 だとすれば、この時の渋谷選手は大学生のはずで、黒沢選手は肩を痛めてしまっている頃になる。
球の勢いに度肝を抜かれてしまった投手は、中学生ではなかったのは確かなので、まだ高校生だったという可能性が高いかな。
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# by shingen1948 | 2017-04-01 09:51 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 年を取るにつれて、競技スポーツに疑問を持つようになるのだが、会津で過ごした時代の後半は、記憶の中での競技スポーツ全盛期だ。

 山中選手の活躍に夢中になった記憶は、山中選手が昭和33~4年の世界新記録を更新し続けた頃から、その期待感で応援した昭和35年(1960)ローマ大会の頃から始まる。
 そして、その山中選手が翌年の昭和36年(1961) に、国体とのかかわりで会津若松にやって来て、自分の日常のフィールドである学校に立ち寄ってくださった。
 そのお会いした興奮で、昭和39年(1964)の東京五輪を迎えるのだが、この時、山中選手はピークを過ぎてていて、400m6位だった。
 ただ、この時には日本選手の活躍は水泳だけでなかったし、会津の片田舎の中でも、その応援対象者は日本選手にとどまらなかった。

 競技スポーツ全盛期にかかわるもう一つの記憶が重なる。
 会津高等学校が、春の選抜甲子園に出場したことだ。
 確認すると、これが昭和34年(1959)で、東北地区野球選手権で優勝し、春の全国高校野球選手権に出場している事が分かる。
 この甲子園出場の出来事は、後にも先にもなくこの時一回きりだ。しかも、この事は、一高等学校の沿革にとどまらない。会津地区全体としても、これ一回きりの出来事だったのだ。
 この時の会津全体の盛り上がりが記憶の中で重なるのだ。
 出場できたのは、黒沢投手と渋谷保守のバッテリーが素晴らしかったからだという記憶があるが、これは大人たちの話を聞いた記憶なのだろうと思う。
 それで、その後の黒沢投手の活躍を期待していたのだが、その後の活躍を耳にすることはなかった。大学に行って直ぐに肩を壊してしまったらしいとの記憶があるが、これも大人達の話の受け売りだろうと思う。
 ただ、これらの事情を知ることのできる立場の大人も少ないはずだ。多分、ご近所の幼馴染みから聞いた話なのだろうと思う。
 というのは、先にこの幼馴染の一部屋にN先生が住んでいたことは記したが、そのお父さんがその当時、会津高等学校の野球部にかかわった方なのだ。この幼馴染のお父さんのかかわりで知った事なのだろうと思う。
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# by shingen1948 | 2017-03-31 08:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 早稲田大額のホームページを確認すると、山中選手が「早稲田大学スポーツ功労者表彰」を受けた時の挨拶で、競技人生について次のように述べた事が記されている。
 オリンピックに3度出場し、4個の銀メダルを獲得しましたが、金メダルは獲得できませんでした。いくら他の大会で優勝しても、オリンピックで優勝できなければ何の意味もありません。4年に1度のオリンピックで最高の状態に持っていくこと、それがアスリートの力です。

 先に記したように、山中選手は大学在学中に世界新記録の更新を積み重ねて、昭和35年(1960)のローマ五輪を迎えている。その結果としては2位の銀メダルではあるが、僅差の2位である。
 ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇はない。しかし、当人としては4個の銀メダルよりも1個の金メダルが欲しかったということだ。

 実は、N先生もスポーツの世界では、過程でのどんなに素晴らしい努力があっても、1番にならなければ意味がないというようなことを話されていたことを思い出したのだ。結果として1番になることの重要性だ。
 自分には、大人になるにつれて競技スポーツに違和感を持つようになるのだが、その原点がここにあるように思う。
 一流選手側の話としては、結果としての1番かどうかの差が、その後の人生にまでかかわるという話は聞く。しかし、我々凡人の世界では、1番を目指し、ぎりぎりのところで敗れた結果に感動し、賞賛を送ることに躊躇しなくていいと思う。
 もし、我々が競技スポーツ者だったとしても、個人的には1番を目指して取り組んだ事を重視し、その結果にはこだわらないという態度を、基本的な姿勢として持ち続けたいものだと思っている。
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# by shingen1948 | 2017-03-29 09:43 | ☆ その他の話題 | Comments(0)