地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 現「船橋」付近を黒沼とみてよさそうだとの確認を進める。
 
 「信達二郡村誌」に、尾形若狭の碑が船橋観音堂の前に在ると紹介される。その「若狭は和泉の兄にして本村を開きたるものなり故に本村尾形氏多しといふ」とある。
 その弟とされる和泉については、黒沼神社の享保6年(1721)3月の火災後の還座にかかわって「内屋敷は昔者神職尾形和泉と云者の屋敷也」と紹介されている。

 その「船橋観音堂」が、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「船橋十一面正観世音」だと思う。その紹介に「正保4年(1647)尾形若狭創建と伝えられています」とある。
 ただ、「松川の文化財」では、この「船橋観音堂」前にある碑は定信法師の石碑だとする。また、情報によっては「船橋観音堂」の創建が正保4年(1647)というのには根拠がないとするものもみる。
 情報に微妙な揺らぎはあるのだが、この「船橋観音堂」が建つあたりを黒沼とみてよさそうだというのは確かなこと。

 この「船橋観音堂」の位置情報を得た「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」には、黒沼神社に奉納された「浅川村見立八景」が紹介される。そして、その風景画を使って浅川村の4か所の名所旧跡が紹介されている。
 ピンボケで部分しか写っていないが、この左手に掲げられているのが、その「浅川村見立八景」の絵図だと思う。
a0087378_76144.jpg この絵図では、ここ黒沼神社は「 黒沼晴嵐(くろぬませいらん)」ということらしい。
 「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」情報からは、絵図の「以後田落雁(いこうだらくがん)」というのが富士浅間神社で、「平石晩鐘(ひらしいばんしょう)」というのが浅川正観音であり、そして、「比丘尼石名月(びくにいしめいげつ)」というのが薬師堂にある比丘尼石ということらしいことが読み取れる。
 この比丘尼石という巨大な花崗岩が二つに割れているので別名「われめの女石」とのことだが、先に整理した松川の眼鏡橋に使われた石材だということらしい。

 この情報から読み取れなかったのが「古川帰漁(ふるかわきりょう)」「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」「笠松夜雨(かさまつよさめ)」「台橋夕照(だいばしせきしょう)」という4つの風景だ。
 ただ、「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」は、別情報から「大竹森明神」らしいことは分かった。ここには二つの行人壇にまつわる話があり、そこからの石を御神体として水雲神社を祭ったとある。
 そして、この話が「示現(慈現)太郎神社」への道筋に使った「古浅川」集落とつながるようなのだ。というのは、何故か知らないが、この集落の水雲神社にそのご神体が飛んだのだとか。
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# by shingen1948 | 2017-10-02 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 本当はどうでもいいことなのだろうが、干潟になった黒沼・赤沼の実際が気になってしまう。

 地図上に赤沼の地名は見つかる。
 地形的には、この浅川黒沼神社が建つ羽山岳と現在医大の建つ光が丘とされる高まりのの間に、4号国道バイパスに沿って堰が描かれるのだが、その上流付近だ。

 「信達二郡村誌」を確認する。
 「赤沼渠」がこれにあたると思われる。
 「町の西入より起こり(沢水を源とす)東流し赤沼に至り大堰に入る長6町30間巾2尺8寸田4町9段2畝3歩に灌く」とある。
 「大堰に入る」とするその大堰が、神社手前の道沿いに走るこの堰だと思う。
a0087378_830216.jpg 「信達二郡村誌」を確認する。
 「大渠」がこれにあたると思われる。
 中部川端に起こり東流し仏明内に至る長11町23間巾2尺8寸田3町1段9畝11歩に灌く」とある。
境内にはその改修記念碑が建つ。
 ただ、確認はしていないが、現状は国道バイパスを超えた仏明内までつながってはいないような気がする。
 国道バイパスの東側は、改めて「赤沼渠」を源流とした水が旧大堰筋を満たしているのではないのかなと思う。

 地図上に黒沼は見つからない。
 しかし、「信達二郡村誌」には「「黒沼は大なる沼にして舩橋を架し通行せし故 其地を今舩橋屋敷と称す云伝ふ」とある。
 つまり、現「船橋」付近を黒沼とみて、物語をイメージすればよいのかなと思う。
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# by shingen1948 | 2017-10-01 08:31 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 浅川にはこんな言い伝えがあるのだそうだ。

 「信夫湖の大蛇は日本武尊によって退治されたが、欽明天皇の時代に、この湖には水熊というものが住み籠って人民を悩ましていた。
 渟仲倉太珠敷命がこの事を聞いて、猿跳という処を切り開いて、湖の水を抜いて干潟にし、大熊川の川筋を攻め上った。そして、水の浅い所に寄せて大水熊を退治したので「浅川」と名付けた」
a0087378_520191.jpg 浅川黒沼神社の由来で、渟仲倉太珠敷命が退治したのは「大熊」で、狛熊も奉納されているようだ。
 伝承では「大水熊」とされるので、微妙な違いがあるようだ。
 しかし、渟仲倉太珠敷命が退治したという大熊も信夫湖に住むとのことなので、この伝承とかかわるのだろうと想像する。

 石姫命にかかわる部分については、パンフレットにある浅川黒沼神社由来では「石姫命は、息子の亡くなられたとの報を聞き、嘆きのあまり黒沼に身を投じられた」とされるだけだ。
 そこを、言い伝えの方は次のように続くようだ。

 「供奉の健・夜・依・米等四人はこれを悲しみ、黒沼・赤沼を巡見したところ、古浅川の慈現明神のお告げに、「彼の地の大岩を切り開けば、黒沼・赤沼の水は大熊川へ流れ込み、たちまち干潟になるであろう」とあったのでその通りにした。
 湖は干潟となり、姫の尊体が現れ、この地は広大肥沃な用地と仮し、ここに人を移して村を作った」

 ネットで紹介される浅川黒沼神社の由来は、この言い伝えも加えたということなのだろうと思う。
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# by shingen1948 | 2017-09-30 05:22 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「松川の今昔」以外に示現(慈現)太郎神社が紹介される地元の散歩資料を見かけない。
 ただ、「浅川黒沼神社」の紹介の中に、この示現(慈現)太郎神社にふれた箇所があるのを見た事がある。

 その「浅川黒沼神社」が鎮座するのは、上蓬莱橋から古浅川の前の通りが、4号国道バイパスをくぐって少し西に進んだ右手辺りだ。その道筋の北側を走るこの道の旧道らしい雰囲気の道筋があるのだが、その道筋に面して神社への階段がある。
a0087378_8584672.jpg この神社、「信達二郡村誌」では「中部木戸前羽山の腰に鎮座す」「石比売命・渟中倉太玉敷命を祭る」と紹介されている。

 この「浅川黒沼神社」は、信夫山の黒沼神社や金沢の黒沼神社と共に、「延喜式神名帳」にある「黒沼神社(陸奥国・信夫郡)」に比定される式内社だとする。
 黒沼神社にかかわる伝承の大筋は、欽明天皇の皇后である石姫命が、皇子である渟倉太命の後を追って陸奥国に下向するが、当地で崩御するという設定だが、ネットで紹介されているのは次のようだ。
(【神社と古事記「福島県の神社」】http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1037860714.html)
 「欽明天皇の皇子・渟仲倉太珠敷命が東国の不穏を鎮めるため、当地へ行幸し、信夫湖に住む大熊を退治したが、疲労困憊し崩御したと噂が流れ、それを聞いた母・石姫は嘆きのあまり黒沼に身を投げた。

 供奉の健夜依米主従の四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見。古浅川の自現明神のお告げにより、大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めたという。後、欽明天皇の奉聞および地名にちなんで黒沼大明神として祀ったという。」

 その情報の出どころは知らないが、今回の散策とかかわるのは、後半の話だ。
 「大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めた」のは、古浅川の自現明神のお告げによっているということだ。
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# by shingen1948 | 2017-09-29 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)