地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、長谷川信氏と浅野恒氏の関係を「予科士官学校の親友浅野恒」というふうに表現するが、長谷川信氏は予科士官学校の経歴はない。
 その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
 明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。

 会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
 「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
 その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
 まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
 その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
 この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。

 この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
 しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。
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# by shingen1948 | 2017-05-10 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 世田谷区立東大原小学校同窓会報(平成24年度号)の「学童疎開のころ」の再疎開にかかわる情報で、気になったのはその期日だ。
 昭和19年3月には、浅間温泉も食糧難で再疎開することになり天竜川流域の伊那地方、飯田市の手前の村々へ移ったという情報だ。
 浅間温泉では10か所に分散していたようだが、伊那では5つの村に分かれたという。伊那では食料だけでなく、風呂でも苦労したという。当然普通のお風呂なので、1週間に1度くらいしか入れなくなったという。

 代沢国民学校と「武剋隊」とのかかわりも、東大原国民学校と「武揚隊」とのかかわりも、昭和20年3月頃らしいと思われるのに、この頃には再疎開されているという情報になってしまう。
 その証言内容をよく読んでみると、証言者は学校事務関係者になられた経緯のある方のようだ。ならば、年度で期間を捉えていたのではないかと推定すれば、辻褄があいそうだ。
 つまり、再疎開は、昭和19年3月ではなくて、昭和19年度の3月末という認識だったのではないかという推測だ。
 これなら、昭和20年3月に特攻隊員と交流した疎開児童たちは、その月末には再疎開という事になったということだろうと思うのだ。

 さて、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の返却期間が迫っている。
 こちらに紹介される事の確認を先にしたい。
 その一つは、「明治学院百年史」も、世田谷の疎開児童との交流にしても、と号第31飛行隊の長谷川信少尉が気にかけられるようになるのは、彼の日記が「きけわだつみのこえ」に掲載されているというのが一つの理由になっているのだが、そこに浅野恒という方がかかわっている事が紹介される。このことについて先に確認しておきたい。
 この方は長谷川信氏の親友で、職業軍人になって終戦を迎え、無事帰郷できたとのことだ。故郷に戻って、信氏の学徒出陣特攻死を知って大きな衝撃を受けたという。
 その浅野氏が、昭和23年戦没学徒兵の遺稿募集を知り、信氏の日記を写し取って応募して、「きけわだつみのこえ」に収められることになったということのようだ。
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# by shingen1948 | 2017-05-09 13:33 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「世田谷ボランティアセンター」のページの「セボネ8月号特集『世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い~戦争体験を聴く会、語る会より~』」と題した記事があり、その中の「特攻隊の若者の思いを聴く」という項が、昨日まで整理している疎開児童秋元佳子さん証言とかかわることだと思われる。
 http://blog.canpan.info/setabora-vc/monthly/201508/1

 昭和20年3月の数日間、世田谷の疎開児童たちと出会った特攻隊(武揚隊)の若者15人が、出撃の前日の壮行会に「別れの歌」を東大原小学校の100数十名の女子の前で歌を披露したとのことだ。
 この歌詞とメロディーを記憶していた疎開児童が秋元佳子さんだと紹介されている。その歌詞を引かせていただく。

  1.広い飛行場に黄昏れ迫る
    今日の飛行も無事済んで
    塵にまみれた飛行服脱げば
    かわいい皆さんのお人形

  2.明日はお発ちか松本飛行場
    さあッと飛び立つ我が愛機
    かわいいみなさんの人形乗せて
    わたしゃ行きます◯◯へ

  3.世界平和が来ましたならば
    いとしなつかし日の本へ
    帰りゃまっさき浅間をめがけ
    わたしゃ行きます富貴の湯へ

 その歌詞を見れば、その解説にもあるように、都会のかわいい女の子たちが心をこめてつくったお人形を飛行機に乗せて、沖縄に「死ぬために」向かうとある。この特攻隊(武揚隊)の若者15人には、当然長谷川信氏も含まれる。
 信氏の飛行機にも、このお人形が乗っていたということだ。

 そして、宿の人は、訪ねて来た信氏の母親にこの出撃の前日の壮行会の様子は伝えた可能性は高いのだと思う。
 「結局会うことは叶わず」という会津の情報からは、結局無駄足だったというニュアンスが感じられる。その前の秘密の情報を聞き出したことと共に、やってはいけない行動の結果としての表現のように読み取れるのだ。
 しかし、実際には、建前の世界を超えた母親としての本音の行動は、「結局会うことは叶わなかったものの、その代わりに宿の方から疎開児童との交流の話や、壮行会の様子の話など、ここでの生き様にかかわる生活の様子などの情報を得て帰っていった」ということではなかったのかなと思うのだが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-05-08 09:29 | Comments(0)
 信氏の母親シゲさんが基地を訪ねたことについて、「会津の「わたつみのこえ」を聞く③」では次のように整理している。
 母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという。

 実は、参考にした「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」も「明治学院百年史」も、宿の人の話は、次のようだったとの紹介になっている。
 結局会うことは叶わず、泊まった宿の人から「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も、彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という話を聞いたとのことである。
 まだ確認はしていないが、その情報源は「会高通史」であろうと思われる。
 昭和40年に刊行されたこの冊子に、信氏の恩師小林貞治氏が、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」という一文があって、信氏の思い出と湖畔の碑の由来が記されているということだ。

 今までの「Web東京荏原都市物語資料館」の情報確認から見えてくるのは、信氏が疎開児童と優しく接していたらしいということだ。
 この情報と照らし合わせると、「彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という部分から、母親にはそのことが伝わっていたらしいことが分かる。
 遊び相手が近所の子になっているのは、ここに疎開児童がいることを知らない会津の方々の聞き違いと想像する。

 この話の引用に抵抗があるのは、「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も」という前ふりの部分だ。
 次の記事の疎開児童秋元佳子さんの証言部分と照らし合わせてみる。

 「ヤマモトさんという方が隊長でした。下の学年の子が、遊んでくれるものと思って、『勉強なんかしないで遊ぼうよ』と寄って行ったら、『こんな非常時にとんでもないことを言う』といってその子に平手打ちを食わせたことがありましたね。」
 武揚隊の山本薫中尉である。子どもたちに情が移るからあまり親しくするなと長谷川少尉には言っていたようだ。
 「山本さんは、隊長らしく武骨な人で、ごつごつした身体つきをしていました。長谷川さんには、優しい雰囲気がありましたね。なまりがなかったですね。海老根さんは、ズーズー弁でした」

 疎開児童の証言からは他の隊員の前ふりの部分が事実とは思えない。
 想像するに、これは会津の地域を意識する表現者が、信氏が疎開児童と優しく接していたという部分と対比した強調の効果を狙ったものではないのかなと想像する。
 地域の狭い範囲での情報としては、地域にとって中心となる事柄にだけ目が行くだけなので問題はないが、他の地域の情報と照らし合わせる場合は、それでは済まされない場合もあるのではないのかなと思うのだ。
 少なくとも、そうであったのかどうかの確認をとる必要はありそうに思えたということだ。

 ただ、母親は実際に宿で話を聞いているのだから、他の隊員の様子も含めてその生き様をきちんと感じとっていたのだろうことは想像に難くない。

 以下は、疎開児童秋元佳子さんの次の証言部分だ。

 「この写真を見て思い出したことがあるんですよ。ほら、飛行機の操縦士というのは首に白いマフラーを巻いているでしょう。いつでしたか、長谷川さんが部屋に来られたときにそれを巻いているんですよ。その隅っこの方に赤い糸が見えたので見せてもらうと、『長谷川』と刺繍がしてあったんですよ。『母親が縫ってくれたんだ』と恥ずかしそうに言っていましたね……長谷川さんがわたしたちの部屋にこられるときはどてら姿でしたね。それでも一度ですが、飛行服を着たままで来られたときがありましたね。いつもとは違って見違えるようでした。」

 このマフラーの隅に赤い糸で「長谷川」と刺繍してもらったのは、最後の帰省の時だったのだろうかなどと勝手に想像する。

 不思議なもので、写真を見ていると、だんだんに思い出されくるものがあります。よく遊んでもらいましたよ。桜ヶ丘の川が凍っているところへ行って、スケートをしました。わたしたちはゲタを履いて、長谷川さんは軍靴を掃いておられましたね。ああ、そういえば、そうそう、こんなことがありました……

 母親は宿の人の話から、こんな疎開児童の証言に近い雰囲気を正しく感じ取っていたのではないのかなと想像する。
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# by shingen1948 | 2017-05-07 10:09 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)