地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 これから、会津の人々は、会津の「わたつみのこえ」をどう聞いたかを整理していく。

 まずは、御両親。
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」によると、長谷川信氏の戦死の公報が届き、年老いた両親は日記に書き残してあった「猪苗代湖畔に石碑を」を何としても実現しなくてはと思」ったとある。

 「明治学院百年史」では、その前に、信氏の戦死の公報が届いて、その思いに至るようになるまでの心情についても紹介する。
 母シゲはそれまでに人に見せたことのない程ひどく取り乱した、という。すでに70歳に近い老人になっていた父敬治は、信が送って来た日記に読みふけった。この両親の、信に対する愛惜の念は日とともにつのる一方だった。

 「猪苗代湖畔に石碑を」の遺言ともとれる記述は、5月16日の日記のようだ。
 「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらはうと思う。」(S)

 「明治学院百年史」では、「死との対決」として、その心情にかかわる前後の日記も紹介する。
 5月23日
 「母より送って来た梁川集とハルナックの「キリスト教の本質」(ともに岩波文庫)は〇〇〇〇により取り上げ。こんな所で何が深刻なる反省であり、何が修養であるか。」(K)
 5月24日
 「あと、死ぬまでに俺の心はどこまで荒らんでいくことか。日本民族は果たして。」(K)
 5月25日
 「猪苗代湖、戸ノ口の静かな夕方。薄く霞のかかった鏡面のような湖、あの静かな喜びを、Fと分かちあひたかった。」(S)

 長谷川信氏の遺言を実現したいと願うご両親の念願は、昭和21年5月に実現する。
 「明治学院百年史」には、「何もかも乏しい戦後の時代であったが、この両親の切ない心を理解する人々の協力もあって、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ立派な石碑ができあがった。」と紹介される。

 碑文に刻まれるのは、館林での最後の日に日記に書いた一節。
 「俺は結局、いい加減に凡々と生きて、凡々と死ぬことだらう。だが、俺にもたった一つできる。涙を流して祈ることだ。それが国泰かれか、親安かれか、知らない。祈ることなのだ。」
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# by shingen1948 | 2017-05-13 09:32 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「会津の『わたつみのこえ』を聞く③」で、地元ならではの情報として妹の件での誤りは先に記した。
 確認しておくと、「妹が満州医大進学希望だった」というのは読み取りの誤りであり、満州医大進学希望は信氏自身だったことだ。このことについては、「会津の『わたつみのこえ』を聞く④」で訂正したところだ。

 もう一つ、地元ならではの情報としたのことがあった。
 幼馴染みの少女の動向だ。
 小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
 これも地元ならではの情報としていたところだ。

 この部分の「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の紹介を確認しておく。
 前段で、なぜ明治学院を選んだかについては諸説あるとした上で、決定的な理由は彼のいう贖罪としての奉仕の場を明治学院高等部社会事業科に見出したことだとする。
 その上で、諸説について次のように解説する。
 諸説は満州医大を諸般の事情により断念、東京の叔父の養女となった妹が東京の学校に入学したこと、彼と小学校の同級だった女性Fへの思い(これは友人たちにも知られるほどになっていた)、この女性が東京の学校に進学していたことも理由の一つとして忘れてはなるまい。
 この中の「女性Fへの思い」というのが、いろいろ確認していくと、週刊誌ネタだったのではないのか思えて来たところだ。
 日記の原本がないので、その週刊誌の掲げる情報と照らし合わせ、それまでの東京での生活を嫌がっていた信氏が明治学院を選んだ理由の一つになっているとした「明治学院百年史」の記述の紹介だったのかもしれないと思えてきたところだ。
 少なくとも、地元ならではの情報というのは違う可能性が高いので、訂正しておく。

 「女性Fへの思い」についての情報の質についてだが、週刊誌ネタの視点ではあっても日記の表現を精査した上での事であり、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」がいうように、これも一つの成果と見るべきだろうと思う。

 それとの関りで、日記喪失の遺憾な事をもう一つ掲げたい。
 近年「Web東京荏原都市物語資料館」では、出陣の直前に松本の朝倉温泉で学童疎開の児童と武揚隊とが交流したことが分かったらしい。日記の原本、特に出陣近くの辺りの記述を確かめ、長谷川信氏の心情を考察したいところなのではないかと想像する。
 前回は日記喪失についての基本的な遺憾なことを二つ掲げたところだが、今後は事実が判明した時に、こういったことについて日記の記述を確かめるという精査ができなくなったということも遺憾な事だと思う。
 これを三つ目の遺憾な事として整理しておきたい。
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# by shingen1948 | 2017-05-12 09:25 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「明治学院百年史」では、第4節「軍隊生活における長谷川信の日記」を中心に、その日記の記述の後ろに(S)と(K)のどちらかの記号が付されている。
 最初は気づかなかったのだが、これが「きけわだつみのこえ」で紹介された記述については(K)の符号を付し、「週刊現代」で紹介された記述については(S)の符号が付されて、それの再録であることが記される。それが分かるのは、この冊子の最後に付された各章別注の第6章注3の記載だ。
 いろいろな資料を元にして日記の全体を確認しているということと読み取ればそれまでだが、驚くべきは、原点となる日記に辿り着けないその理由だ。その注には以下のように記される。

  長谷川の日記が、現在行方不明となっていることは遺憾なことである。日記は、戦後彼の両親の 手許にあり、両親の没後は長兄が保管していたが、週刊現代誌に貸し出したあと所在がわからない とのことである。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」に、昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されている。この時に日記は、週刊現代誌に貸し出したままになっているという風に読み取れるということだ。

 「明治学院百年史」によれば、「松本を発進した「武揚隊」の特攻隊は、空襲を避けながら本土各地の基地づたいに移動し、桜の満開の新田原飛行場(宮崎県)に到着、ここで全員最後の身辺整理をすることになった」とある。
 信氏もこの時にこれまで肌身離さずにいた日記を最後の手紙とともに、故郷の両親宛てに投函したという。
 つまりは、遺憾なことは「明治学院百年史」がいうように借りたものが返されていないにとどまらないということだ。この日記は、信氏の両親に宛てた遺書の意味も含まれているということだ。
 ところが、「週刊現代」誌側にとっては、その重みはなく、単なる取材の材料でしかなかったという感覚だったと想像できるということも遺憾なことだと思うのだ。

 自分とはかかわりない事であり、関係者は大人の対応でそのことにはふれないようにしていることではあるようだが、本当にそれでいいのかなという思いもある。
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# by shingen1948 | 2017-05-11 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、長谷川信氏と浅野恒氏の関係を「予科士官学校の親友浅野恒」というふうに表現するが、長谷川信氏は予科士官学校の経歴はない。
 その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
 明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。

 会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
 「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
 その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
 まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
 その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
 この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。

 この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
 しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。
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# by shingen1948 | 2017-05-10 09:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)