地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 柳田国男が「示現太郎の神話」と称するのは「甲賀三郎」らしいとして、以下が紹介される。
 昔甲賀権守諏胤が子に、甲賀太郎諏敏甲賀二郎諏任甲賀三郎諏方と云う三人の子があった。三郎は信州蓼科獄の人穴に入り数年の間怪しき国を巡り居る間に兄二人して三郎が所領を犯し奪ったが、二郎なほ悪逆あるに由つて太郎は之を避け、所領下野宇都宮へ下り、後に神となって示現太郎大明神と云ふ

 この話を元に勝手な想像をすれば、浅川の示現(慈現)太郎神社が飛んだとするのは、この「示現太郎大明神」だろうか。ならば、数年の間怪しき国を巡り居る最後の地が浅川だったという事になる。

 しかし、そんな単純な話ではなさそうだ。
 宇都宮二荒神社の話には、ここに小野猿丸と柿本人麻呂にまつわる話が絡んでくるようだ。
 小野猿丸が絡む話の出どころは、日光の二荒神社のようだ。
 「栃木県における柿本人麻呂解釈の展開―宇都宮大明神と人丸神社(佐藤智敬)」では、詳しくは柳田国男が「神を助けた話」で詳しく紹介するとして、「神道集」の記述について紹介する。
 「神道集」では、「オンサラマ」という人物が赤城と日光の戦いに関与し日光側に勝利させたという記述だが、これが後世に「小野猿麿(猿丸)」と記載されるようになったとのことだ。
 
 「日光山縁起」での解説概要についてはウィキペディア「猿丸大夫」の「日光山にまつわる伝説」でその概要を確認する。
 小野猿丸(=猿丸大夫)は、弓の名手で小野に住んでいたそうだ。
 日光権現と赤城神が神域について争った時、鹿島明神の勧めで、この小野猿丸(=猿丸大夫)を呼び寄せ、その加勢によって勝利したという。
 これによって、猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。
 日光二荒山神社の神職小野氏は、この「猿丸」を祖とすると伝わり、宇都宮明神は、かつて猿丸社とも呼ばれ、奥州に二荒信仰を浸透させたといわれているとのこと。

 浅川の示現(慈現)太郎神社が飛んだとすることとかかわりで気になるのは「奥州に二荒信仰を浸透させた」とあることだが、この小野猿丸在住が陸奥国小野郷=田村郡小野町らしいとの情報も気になる。
 「福島の歴史物語」には、「小野猿丸大夫」のこの気になることについて紹介されていた。
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201607110000/
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# by shingen1948 | 2017-10-06 09:47 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 先に宇都宮を散策した時に、宇都宮二荒山神社にも立ち寄って、「宇都宮城⑤」・「宇都宮城⑥」として整理している。ただ、浅川の示現(慈現)太郎神社がここに飛んだなどという言い伝えがあるなど全く知らなかった。
 〇 宇都宮城⑤
 http://kazenoshin.exblog.jp/8181100/
 〇 宇都宮城⑥
 http://kazenoshin.exblog.jp/8184231/
a0087378_6321294.jpg 浅川の示現(慈現)太郎神社がここに飛んだとするならば、最低限ここも示現(慈現)太郎神社でなければいけないと思ったので確認してみると、それらしいとするものに行き当たる。
 「栃木県における柿本人麻呂解釈の展開―宇都宮大明神と人丸神社(佐藤智敬)」に宇都宮大明神麻呂祭神説とかかわって、ここが示現神社であることの解説があるのを見つけた。

 「この宇都宮の二荒神社は宇都宮市街の中心に鎮座している著名な延喜式内社である。そしておそらくは「示現神社」と柿本人麻呂をつなぐ鍵となる神社である。この神社は日光二荒山神社とともに下野の名社として信仰されてきた。現在この神社は豊城入彦命を祭神としているが、かつてこの社は示現太郎を祀るとされていた時期がある」

 その時期とは、南北朝時代とのことだ。
 ここでは、その時期に作られた「神道集」の記述をもとに解説される。
 諏訪大社の縁起である「諏訪縁起事」には「甲賀の太郎殿は自本下野国宇津の宮に御在は示現太郎大明神と顕給御父の甲賀の権守は赤山大明神顕給御母は日光権現顕給、皆御本地弥陀薬師普賢千手地蔵等なり」との記述があるのだそうだ。
 また、「宇都宮大明神神事」で甲賀の三兄弟については微妙な差があるものの、宇都宮が示現太郎大明神を祀るという内容では一致しているとのことだ。

 この論文では、この後、示現神社=祭神人麻呂ではないことを証明するのにいろいろな資料を提示してくどい言い回しになっている。言いたいのは、栃木には他にも示現神社はあるが、その祭神はすべて示現太郎大明神であるということのようだ。
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# by shingen1948 | 2017-10-05 09:30 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 言い伝えが言う大岩を抜き切り黒沼と赤沼の水を大熊川に流れ落とすのは、実際の風景では「浅川」だろう。
 先の整理でふれたように、その「浅川」が阿武隈川に流れ落ちるあたりは「阿武隈峡」として福島県指定の名勝天然記念物に指定されているようだ。
a0087378_7424867.jpg これは、震災前の散策で「渡利地区の阿武隈川沿いの風景⑧」で、村上薬師堂からその「阿武隈峡」を覗き込んで撮った蓬莱岩あたりの風景だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9160407/

 「浅川」が阿武隈川に流れ落ちる地点は、この上流の鮎滝観音と鮎滝の渡跡の間辺りだ。阿武隈峡散歩道を南から入ると、この「浅川」を渡る橋から示現(慈現)太郎神社は見えるとのことだ。

 慈現大明神の伝承では、神が鎮座していたのは滝下の大石にあいた1間四方の岩穴だとのことだ。その滝は高さ1丈余の滝とのことだ。
 そこは、晴天であれば五色の御光がさし、山間の谷間に繁る神杉は昼なお暗くごうごうたる滝の音は耳を聾して、行者参篭の霊場の名に恥じぬ境地になると伝えられているとのことだ。(金谷川のむかしと今)
 これらは、阿武隈峡が醸し出す雰囲気とのかかわりだろうと思うのだ。

 気になったのは、その神が天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだということだが、今のところ、地元の散策資料ではそのあたりの事情を説明するものを確認できないということだ。
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# by shingen1948 | 2017-10-04 09:41 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 浅川黒沼神社と示現(慈現)太郎神社とがかかわる言い伝えをたどってみた。そこから浅川村の起こりのようなものが見えてきた感じになる。
 「福島市史」が紹介する「浅川村」と比べてみる。

 「浅川村の起こりは5軒在家で古浅川村と呼ばれ、沢の深い中沢屋敷・黒沼神社を勧進した宮屋敷・尾形和和泉の中屋敷・黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)と古浅川屋敷からなっていたという」

 言い伝えの読み取りだけでは曖昧だったところで解消したところがある。
 まずは、内屋敷=中屋敷らしいということ。
 「内屋敷は昔者神職尾形和泉と云者の屋敷也」が「尾形和泉の中屋敷」と表現される。これが「黒沼神社を勧進した宮屋敷」と別記されている。
 次に、このこととかかわって浅川小学校の創立は黒沼神社を勧進した宮屋敷だったらしいということも分かる。
 「信達二郡村誌」の学校情報では元標の西字木戸前にありとある。
 これとは別に金谷川小学校の情報では、八丁目支校浅川小学校は、明治6年(1873)5月浅川字宮本、黒沼神社神官宅を借り受けて創立しているとの事だ。
 その地は、黒沼神社を勧進した宮屋敷ということになる。

 今まで確認した事を、示現(慈現)太郎神社を視点に整理し直す。

 所在地:浅川字壷根滝
 祭 神:事代主命
 浅川最古の神社と伝える。天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだ。
 黒沼大明神、石姫命が黒沼に身を捨て神去りしとき、御供奉4人の夢に慈現大明神の『ここ大岩を抜き切れば、沼中の命のご尊体は現れるであろう』とのお告げがあった。
 その通りに切り開いたら、赤沼・黒沼の水は大熊川に流れ落ちご尊体が現れるとともに、浅川の地は広大肥沃な田地となった。

 細かい事だが、この「お告げ」があったということと事代主命が祭神であることがかかわっているらしい。
 ちょっとマニアックな情報によると、「事代主命」はその名が示す通り、神の託宣を代行する憑坐(よりまし=神霊が憑依する霊能者)を意味し、本来の性格が託宣神と考えられているのだそうだ。
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# by shingen1948 | 2017-10-03 09:42 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)