地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 「松川のあゆみ」によれば、松川鉱山の最盛期は昭和9年から昭和14年頃で、従業員数500余人を数え、社宅も設立されたという。その職種は主として坑内夫、製錬夫、雑役夫、選鉱婦なそうだ。
 当時の採鉱設備は、手掘りからコンプレッサーによる削岩機に移り、掘削作業が一段と発展していたのだという。坑内採掘は、排水ポンプ等の設備導入で水準以下の採掘が可能となり、山神竪坑では地下200mに達したのだそうだ。

 その繁栄のなごりの遺跡として現在も残るのは、製錬所の廃墟の跡、六本松と仲の内変電所、それに山神社なそうだ。そのうちの今回の確認のメインは、仲の内変電所の確認だが、その変電所は製錬所とのかかわりでつくられたものだ。
 この製錬場は、1500屯の処理能力のある青化製錬場だったそうで、ここには分析所も併設されていて、化学的に純金と純銀とに分析することが可能になっていたのだそうだ。
毎月金が20㎏、銀が400㎏産出されていたといい、国内でも重要な鉱山になっていたということだった。
 その製錬所の廃墟の跡も残るという。

 航空写真などで確かめると、その「製錬所の廃墟の跡」へ向かう道筋は、「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」から左手に入っていくことが分かる。
 実際にその道筋の山際まで進んでみた。
 航空写真でみた感じでは、この辺りから左手にその「製錬所の廃墟の跡」が見えるかもしれないと思ったが、木々に覆われて何も見えなかった。
a0087378_17583385.jpg 航空写真で見ると「小金塚から峠を越えて関根に向かう道筋」は整備されているように映るのだが、実際にはこのような山道だ。
 今までならもうちょっと先まで進んでみただろうが、ここで引き返す。
 無理して藪漕ぎをするつもりがないのは、熊や猪の出没のニュースが多かったせいではなく、その元気がなくなっているのだ。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-04-08 17:59 | Comments(0)
a0087378_9191357.jpg この道筋が、tukaさんがいう「関根から鉱山のある峠を越える道筋」だ。峠を抜けて松川側に抜けた丁字路から眺めていることになる。
 「福島の鉱山⑳~信夫地方の鉱山「松川鉱山」②」でふれた「大正の初めに再開され、昭和3年瑞宝鉱業(株)の経営に移り昭和9年青化製錬場を設けたが昭和18年に旧山となった」というその鉱山の製錬所跡が、この道筋の左手の高まりにあるのだと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/22969692/
 
 この奥のtukaさんがいう水原側の「関根」に高速道路が走っている。
 以下は、そちらからの視点から「松川鉱山」の解説をしたものだ。
 「東北自動車道の近くにあり、坑道の上部の松林であちこちが陥没しており坑道の多くは落盤している。近くには金谷川鉱山・松川北鉱山・松川南鉱山・小池鉱山・信夫鉱山など金や銀の鉱山跡が多数ある」

 ここでいう「金谷川鉱山」は、その前に「小池鉱山」とした鉱山を指す。
 「松川北鉱山」は、その「小池鉱山」と「松川鉱山」との間と想像される。ということで、それが、この道筋の右手の高まりにあたる。
 また、「松川南鉱山」は板山あたりと想像できるので、製錬所跡の更に南側付近と想像される。
 つまりは、ここに写る高まり全体が「松川鉱山跡」付近ということになるようだ。
 なお、ここでいう「信夫鉱山」は、硫黄鉱山の事のようだ。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-04-07 09:22 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 先に、信夫地方の鉱山の一つとして「松山鉱山」について調べていたことがある。その精練所とのかかわりで変電所が存在していたことは分かったのだが、その具体的な位置までは分からなかった。
その事については、「福島の鉱山25~信夫地方の鉱山「松川鉱山」⑦」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/22995240/

 これに、tukaさんが「仲ノ内の変電所」の具体的な位置情報を教えてくださるコメントを頂いた。
 「関根から鉱山のある峠を越えたところに丁字路。そこから北に300m進むと左カーブがありますが、その道路西側に「松川変電所」とあります」。
 この「松川変電所」が、「仲ノ内の変電所」とのことだった。

 先日、この情報をもとに確認してきた。写真記録を確認すると、昨年の2016年10月26日だったようだ。
 a0087378_11413126.jpg
 tukaさんが、現在「松川変電所」とあるとしたのが、ここだと思う。ただ、「松川変電所」の表記もないし、配線されていた様子もない。ただ、内部に侵入できないようなにされる厳重な警戒跡が残っているだけだった。


 a0087378_11424648.jpg 変電所跡の南側の鉄塔というのが、こちらだと思う。
 右手の柵が「松川変電所」のものだ。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-04-06 11:43 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昭和33~4年に世界新記録を更新し続けた頃、山中選手が会津若松にやって来て、自分の母校に立ち寄ってくださった。
 その当時、いわゆる団塊の世代が中学生であり、母校はマンモス校となっていた。確認はしていないが、生徒数は千人近かかったのではないかと思っている。
 しかし、その思い出を語る人を今のところ確認できない。自分が受けた衝撃は他の人に比べると過剰だったということなのかもしれない。

 今回の整理をしていく中で、山中選手のふるさとでは、「山中毅さんの訃報に接して」氏の活躍の思い出が語られていることが確認できた。その情報も整理しておく。

 石川県の競泳界で五輪出場選手は5人なそうで、そのうちの3人は輪島市出身なそうだ。
 山中選手が会津若松の母校にやって来る前年のローマ大会では、その3人がそろって出場しているとのことだ。
 自分の記憶には、自由形とリレーで銀メダルをとった山中選手しかないのだが、そのうちの大崎剛彦選手は平泳ぎとリレーで銀と銅、井筒賢造選手がバタフライで8位に入賞しているのだそうだ。
 いずれも輪島出身だったということで、この3人の選手が好成績をあげて凱旋した時の輪島駅前の様子が、「能登のうみやまブシ(西山郷史)」というページに写真紹介されているのを見た。
 http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20170215

 その下段には、山中選手が高校3年の時に、メルボルン五輪で2個の銀メダルを獲得した活躍を記念して造られたという「塩水プール」も紹介されている。
 「郷里の名スイマー【憂楽帳(毎日新聞2017/3/13)】」によると、このメルボルン五輪時には、市民500人が山中選手の実家までちょうちん行列をし、花火も打ち上げられたという新聞記事もあるとのことだ。
 https://mainichi.jp/articles/20170313/ddf/041/070/034000c

 
[PR]
# by shingen1948 | 2017-04-04 16:53 | ☆ その他の話題 | Comments(0)