地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「松川のあゆみ」で、八丁目文化の高さを自慢するのに幕末の江戸の文人粋人間で「陸奥に過ぎたるものが三つある。石に唐木に鵙の団七」と唄われたと紹介する。
 自慢話の類だが、旦那芸の域を超えて高いレベルであると自慢される「石に唐木に鵙の団七」の「鵙の団七」は、先に整理した狂歌の巨匠百舌鳥廼舎こと塩屋の通称渡辺団七氏のようだ。
 この方、画も茶も花などにも造詣が深く、とりわけ書の筆札も巧みで、特に細字に妙を得て江戸の出版業者がわざわざ版下の浄書を依頼してくるほどだったのだということだ。

 自慢話の「石」は、篆刻家の菅野普斎氏を指すようだ。天明根の人で通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称すとある。
 「八丁目家主一欄」の天明根村と照らし合わせると、ぴったりと一致はしないのだが「松川屋治郎右衛門」がそれでないのかなと思われるがどうだろう。
a0087378_7581876.jpg これは八丁目村側から天明根村の西側を眺めているところだが、「松川屋治郎右衛門」宅は、天明根集会所のちょっと先あたりだろうか。
 この天明根村から鼓岡村にかけては、風景の変遷は勿論、水原川本流の改修や用水路の改修もあって、屋敷図から実際の位置をイメージするのが難しい。

 その篆刻家の菅野普斎氏は、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻し、その手腕が江戸で認められ評判になったのだとか。
 明治になって、田嶋鷗僊に漢字を学び、号を鶴僊と改めたとのこと。老後は水車業を営み居を水車庵としたのだとか。
 ここに登場する田嶋鷗僊氏だが、この方は元二本松藩士で地元では有名な方のようだ。
 二本松落城の頃、鼓岡村名主桜内氏が中心となって、この方を招いて「維新館」という塾を開いたようだ。村内だけでなく、近隣の村の青年にも開放して学ばせ、近隣の学問的な水準が高まっただけでなく、やがて学校発足の礎を築くことにもなったという経緯の中心人物のようだ。

 自慢話の「唐木」は、三味線張りの名人三味線屋久米吉氏とのことだ。
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# by shingen1948 | 2017-11-16 09:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 狂歌の巨匠とされる排氏は、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだが、半沢氏の「歴史地図」によると、妓櫻経営とある。
 「八丁目家主一覧」では、その斜め向かいに三軒の金沢屋が描かれる。街道散策では参考にさせていただいている「街道Web」の「奥州街道・八丁目宿」で、「八丁目宿・中町の町並み。古い家や土蔵が散見される」と紹介される「加藤絹織物」さんの蔵辺りではないのかなと想像している。
 この風景は撮り逃しているのだが、この蔵は現在取り払われているようだ。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ous/32.htm

a0087378_8401538.jpg 形状と「蓮葉の枯れ果つる音聞く夜哉」の紹介と読み取れる文字とを見比べ、これが加藤紫明碑だと思う。

 八丁目文化情報と照らし合わせると、この加藤紫明という方が八丁目俳壇の中心をなす方のようだが、この方が天明根村金沢屋加藤忠兵衛という方とのことだ。
 それで、先にふれた風景と結びついているのではないかなと勝手に想像をしているところだ。

 この方は、福島の松窓乙二の門で、華憚斎別号二峯楼といい、本宮の冥々、二本松の与人らと交わりがあったとのことだ。また、五村雑誌の著があるとのことだ。
 いずれの情報も、残念ながら手持ちの知識や情報ではよく分からないのだが、その紹介から八丁目俳壇の中心的存在であったことを熱く語ろうとする熱気を感じているところだ。
 この方、文政12年3月18日、65才で没したという。
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# by shingen1948 | 2017-11-15 09:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ハ丁目宿の昔ながらの屋号を掲げるのは「ますや旅館」。
 店前には、「奥州街道八丁目宿場旅人宿、枡屋銀五郎」と白地に黒く大書された看板が掲げられる。
 「八丁目家主一覧」にも、この「枡屋銀五郎」が見える。
a0087378_9193394.jpg これは、その「ますや旅館」辺りの2009年夏の風景だ。現在は、手前のスナックはなく、更地になっている。

 八丁目文化情報と照らし合わせてみる。
 この枡屋銀五郎さんは通称で、加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方のようだ。殊に鳥羽画に巧みであったとする。
 その紹介によると桝屋さんは、呉服商を営んでいたようで、その取引は北関東に亘ったとある。

 嘉永の頃、狂歌の巨匠とされる排と伊勢参宮漫遊をなし奇行多しとの情報もある。この情報を辿ると、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」と繋がるらしい。

 この一緒に伊勢参宮漫遊をなした「狂歌の巨匠とされる排」氏が、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだ。
 「八丁目家主一覧」で確かめると、金沢屋向かい辺りにその通称の渡辺団七が記される。

 この通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだが、加藤候一氏は、その挿絵も描いているのだそうだ。

 この「奥州一覧道中膝栗毛」をとりあえずネットで確認すると、早稲田大学図書館の情報がヒットする。
 出版事情に、明治14年(1881)東京府江嶋伊兵衛とあり、その内容等に「4編の序:百舌自廼屋」が記される。微妙に表記は違うが、読みは「もづのや」で一致する。
 ここから確かめを進めた訳ではないが、情報と重なる気はしている。ただ、ここまででは加藤候一画の確認はできていない。
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# by shingen1948 | 2017-11-14 09:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_954824.jpg これは、松川本町バス停辺りから丁字路付近を眺めた風景だ。
 「赤浦屋」は「本町108番地」辺りとの情報を元に「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?③」で整理したが、その続きの風景だ。

 この道筋の右手は、今回の散策で「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で、最初に推定した現在更地になっている2009年夏の風景という事でもある。


a0087378_96435.jpg 同じ場所を、中町の丁字路から眺めるとこんな感じだ。
 この道を挟んだ向かい側は現在更地になっている場所だ。今、この風景は消えて、新たな風景に生まれ変わろうとしている場所ということだ。

 この写真の手前側は、この丁字路の東側の角地ということになる。
 現在は、駐車場のようだが、「八丁目家主一覧」と見比べると、この角は「角屋与兵衛」とある。

 この位置情報と八丁目文化情報とを照らし合わせると、この角屋与兵衛氏が聾耳坊嵐字の名で和歌をよくし、盛林寺に「咲いてある朝顔をみてわかれけり(聾耳)」の句碑が建つ方らしいことが分かる。
 この八丁目俳壇で中心をなしたのは加藤紫明氏なそうだが、その方との交友もあり、京の遅月庵空阿氏とも親交があったそうだ。
 残念ながら、当方にはその素養がないので、どなたなのかとか作品の良し悪し等は分からないのだが、この地は天明から幕末にかけて俳句、狂歌、和歌、戯文、画家など八丁目連を中心とした豊かな八丁目文化が花開いていたらしいのだ。

 今回の散策の続きとしては、「八丁目家主一覧」にはその角屋の東側に用水と横町堤が描かれていることと、「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で気になった用水路跡らしきものが続きの風景でないのかなという勝手な拘り。
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# by shingen1948 | 2017-11-12 09:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)