地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 散策時には必ずデジタルカメラを持って出かけていたが、最近はできるだけ持たないように心掛けている。まずは自分の目で確認する。そして、整理するのに写真が欲しいなと思った時には、もう一度撮りに行く。
 そんな風にしている。特に理由はないのだが、結果的には、確認したい事が明確になってきているようにも思っている。

 しかし、そのもう一度撮りに来た時に、何となく気になった事はメモ代わりに撮り溜めているということには変わりない。それでも、その撮る枚数はかなり減っている。
 そのメモ代わりに撮った写真を整理する。
a0087378_9181948.jpg これは黒沼神社の境内の東側にあった建物群の一つだ。
 気になったのは以下の奉案殿情報とのかかわりだ。
 一つは、終戦直後撤去された金谷川国民学校の奉案殿は、一時JA新ふくしま金谷川支店の東の木立の中の浅間神社に移され、昭和24年には黒沼神社本殿東側に「御霊殿」として再建されているとの情報。
 もう一つは、昭和21年2月21日に金谷川国民学校の奉案殿が撤去され、一時宇佐八幡神社境内内に仮移転され、昭和24年黒沼神社に移されるとの情報。
 いずれにしても、黒沼神社本殿東側に移されているという情報だ。

 確認はしていないし、うかつなことは言えないとも思いつつ、とりあえずメモということで、……。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-10-10 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく」で、長谷川信氏の碑を訪ねた事を次のように整理した。
 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 その場所についての問い合わせがあったので案内を兼ねて記す。
a0087378_1143087.png 地図で越後街道とあるのは、現国道49号だ。その右が郡山方面、左側が会津若松方面だ。
 郡山方面からは、遊覧船の発着所のある長浜を過ぎて、日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入る。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開ける。

 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。


a0087378_11502417.png これは、その部分を拡大した地図だ。
 その近くで目立つのは地蔵堂だが、長谷川信碑はもっと右手に少し進むと、左手に見える。

 旧二本松街裏街道を中心に来ることも出来るが、戸口集落までの道筋が狭くて曲がりくねっている。また、十六橋には、小さな車しか通れないように、脇にガードがついているので、通りにくい。
案内した道筋が広くて安心に通行できる道筋だと思う。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-10-09 11:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今までの散策で宇都宮の信仰とのかかわりを感じたのは、今回の浅川村示現(慈現)太郎神社が初めてだ。しかし、柳田国男ワールドでは、この神の勢力は福島県の大部分を支配していたという見え方なようだ。
 この見え方での資料が「神を助けた話(柳田国男)」で、ここには宇都宮の信仰の福島県の大部分を支配していたことが述べられているということらしい。
 その目次を確認すると、その内容は次のようなことだが、今回はここまでにしておく。
 
 「猿丸太夫・会津の猿丸太夫・日光山の猿丸・宇都宮の小野氏・阿津賀志山・山立由来記・磐次磐三郎・卍字と錫杖・蛇と蜈蚣(むかで)・田原藤太・竜太と竜次・三井寺の釣鐘・蒲生氏の盛衰・猿丸と小野氏・朝日長者」

 散策を柳田国男ワールドとのかかわりで整理したことがあるのは、以下の「鎌倉権五郎影政伝説と片目清水」の話だ。
 〇 撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政と家臣の墓
 http://kazenoshin.exblog.jp/237092610/
 〇 撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政伝説と片目清水
 http://kazenoshin.exblog.jp/237094585/
 〇 撮り溜めた写真から⑧~鎌倉権五郎影政と片目清水②
 http://kazenoshin.exblog.jp/237099109/
 〇 撮り溜めた写真から⑨~鎌倉権五郎影政公のその後
 http://kazenoshin.exblog.jp/237096825/

 この時に主資料としたのは「日本の伝説(柳田國男)」の「片目の魚」だが、この話の中に、昨日整理途中でふれた「土湯の太子堂」も紹介されていたのだ。今思えば、この時にこの話にふれて整理しておけばよかったなと思う。

 その話は、戦に出て目を射られた勇士の話、その目の疵を洗った清水の話、山鳥の羽の箭をきらう話の後に、村の住民が神様のおつき合に片目になるという話の例として以下のように紹介される。
a0087378_462768.jpg
「福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈(わら)で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(「信達一統誌」福島県信夫郡土湯村)」

 なお、「土湯の太子堂」については、「土湯の太子堂へ行ってみる」として整理しているが、この時点では、この視点は持ち合わせていなかった。
 〇 土湯の太子堂へ行ってみる
 http://kazenoshin.exblog.jp/6153775/
 〇 土湯の太子堂へ行ってみて②は
 http://kazenoshin.exblog.jp/6158585/
[PR]
# by shingen1948 | 2017-10-08 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「一つ目小僧その他(柳田国男)」の「目ひとつ五郎考」の中に、この浅川の示現(慈現)太郎神社が天安2年(858)寅3月頃下野国二荒神社に飛んだというということについてふれている箇所がある。

 その「人丸大明神」との項は、神職が目を傷く話で始まる。
 その例として東国に下って病のために一目を損じて都に帰れずに此の地に留まる話があるのだが、ここには次のように土湯の太子堂の話がふれられる。
 「此の話と前に挙げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたとふ伝説とは、完全に脈絡を辿(たど)ることができる」
 この確認はよそ道。

 次に神自身が植物で眼を突いた話が続くのだが、その神の名が野州(下野国)に於て特に柿本人丸であったとする。そして、その原因として想像できることは、宇都宮二荒神社の古い祭式の言い伝え以外に一つもないとする。
 ここで、宇都宮二荒神社の祭神の人丸説にふれる。それで、前回、宇都宮二荒神社が小野猿丸と柿本人麻呂にまつわる話も絡んでいることについて整理しておいたのだ。

 更に、ここから人丸社の中で神霊の出現するといった奇瑞は、社の名を示現神社と称し、所謂示現太郎の神話を伝えたもの多いとし、那須郡小木杉の示現神社の例が紹介される。
 ここに浅川の示現(慈現)太郎神社の話がふれられるのだ。
 次のような紹介だ。

 那須郡小木杉の同名の社などは、文治4年に二荒山神社を奉還すと伝へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱えて居た。さうして此神の勢力の奥州の地にも及んだことは、恰(あたか)も此人の末なる佐藤一族と同じであった。例へは信夫郡浅川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎮座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ言って居る。神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸大夫が、会津人は会津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神伝を固守したのと、軌道を一にした分立現象であって、独り此二種の口伝は相相関するのみならず、自分などは信州諏訪の甲賀三郎さへ、尚一目神の成長したものと考へて居るのである。

 この後も人丸神の考察は続くが、ここまでにする。

 なお、「此神の勢力の奥州の地にも及んだことは、恰(あたか)も此人の末なる佐藤一族と同じであった」という件には、「『神を助けた話(柳田国男)』には、宇都宮の信仰の福島県の大部分を支配して居たことを述べている」との脚注がついている。
 また、「例へは信夫郡浅川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎮座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ言って居る」という件には「民族1巻56頁及び其注参照」との脚注がついている。
[PR]
# by shingen1948 | 2017-10-07 09:16 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)