地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 街道を進むと、右手からの道と合流し、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 いよいよ八丁目村へ入るのだが、このクランク状に進む道筋は枡形の跡で、ここに口留番所があったと推定するようだ。
 半沢氏の「歴史地図」でも、左側の「奥洲八丁目天満宮」の奥に、「八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門」がプロットされ、クランク状に進む道筋の手前に「ハンドメ」がプロットされている。

 ところが、「松川のあゆみ」が、「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」をもとに起こした図によると、微妙にその位置が違う。
 この「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」は、天政・天保(1820~30)頃名主杉内与三郎氏が書き残したものとのことだ。
 今回は、この「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」をもとに起こした図と現況を見比べながら散策していこうと思う。
a0087378_8541811.jpg 「ハンドメ」の意味が気になるが、今のところ口留番所とかかわるのだろうというという程度の理解だ。その位置だが、半沢氏の「歴史地図」が示す位置とは違う。

 半沢氏の「歴史地図」で「八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門」とするお屋敷だが、左手の「奥洲八丁目天満宮」を越して二軒の家主があり、その次にお屋敷は描かれる。

 「奥洲八丁目天満宮」の敷地から家二軒分おいてそこから名主のお屋敷だと想定すると、そのお屋敷の位置は、この写真右手に写る立て看板の向かい辺りかなと想像する。

 「ハンドメ」の意味は確認できていないのだが、もし片側をとめるという意だとするならば、写真に写るポンプ小屋の向かい側辺りということかなと思う。

 これらが、「口留番所」という概念とどのように結びつくのかの確認もできていない。
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# by shingen1948 | 2017-07-10 09:52 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 ここから先、右手からの道と合流した地点で、直ぐに左手すると、左側に「奥洲八丁目天満宮」が見えてくる。
 そこまで、街道は何の変哲もない田園地帯を通るのだが、自分としてはその左手の風景が懐かしい。
 ここは、先に整理した「松川鉱山」の散策で、搗鉱場の地を推定するために歩き回った風景なのだ。

 大正の始め、橋本組によって再開された松川鉱山では、良質鉱の一部を青金の段階まで自家製錬して売却したとのことだった。
 この精錬所を地元では、搗鉱場と呼ぶのだそうだが、これが古天神地内に設備されていたとのことだった。
 その地を推定するのに、注目したのが「水力を利用して石臼の鉱石をスタンプで搗き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていた」とあったことだった。
 要は水車を利用して鉱石を砕き、それを水銀アマルガム法で精製していたということだ。

 当時の水路が推定できれば、その搗鉱場の地が推定できるのではないかということで、小字名と照らし合わせて当時の水路を推定した。
a0087378_7124596.png 先の整理では推定した水路に視点を当てたところだが、今回の散策とかかわるのは小字名の方だ。
 前回整理した「信夫隠」を過ぎた辺りの地名が「古天神」である。その更に左側に「宿地」がみえる。そこを過ぎた地点が「八丁目」だ。

 地元では中世に「宿地千軒」という栄えた町が、この「宿地」にあったという言い伝えがあるらしいのだ。

 15~16世紀初め頃、奥大道の宿の町として「宿地」を中心に、その東は「古天神」辺りまで、西は「薩摩」の西側の西光寺の旧地とされる「本西」辺りまで、そして北側は「梅崎」の先の「上木戸内」「下木戸内」辺りまで栄えていたではないかとの推定のようだ。
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# by shingen1948 | 2017-07-09 09:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_5405918.jpg 「街道Web」の写真と照らし合わせると、「橋供養塔」が建っているところから道路を挟んだ次の電柱の手前やや右手に「信夫隠の碑」とその案内板が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置だと思う。


a0087378_5415766.jpg 現在は、「信夫隠の碑」とその案内板も「橋供養塔」と共に、「立正院」の入り口に移されている。


 信夫隠の碑
 碑文

 隠母日夜留    お(隠)もひやる
 居巳露之意苦鳴  こころ(之)のおくを
 目浪作偲止    もらさ(作)し(偲)と  
 旨迺父可絇次破  し(旨)のふかくし(次)は
 衣手何當物跡香  そで(手)かたもとか

 和歌の大意
 思ひ遣る 心の奥をもらさじと
 忍ぶ隠し(信夫隠)は袖か袂か
 (思い慕う心をひとり胸の中にしまい隠し置くことの切なさを地名信夫隠にかけて詠いあげたものです)

 建立時代
 碑文の落款に見ることができる
 慶応二年丙寅に建立

 松川・町づくり委員会21
 松川町観光協会

 境川から道沿いにこの辺りの地名が信夫隠(しのぶかくし)であるのだが、その由来ということなのか、その地名を読み込んで詠んだという事なのかは分からない。
 いづれにしても気になるのは「信夫」の部分だ。歌枕の信夫山との関りなのか、信夫郡とのかかわりなのかが分からない。

 その詠み人も分からない。地元の方なら、そういう教養人がいたという誇りとかかわるのだろうし、他所人ならその地名のついた地に対する誇りとなるのだろうと思う。
 その辺りの曖昧さも残る。

 どうでもいいこと二つ。
 その一つは案内板の事だが、「街道Web」の写真と見比べると、案内板設置者に「松川・町づくり委員会21」が加わっている。新たに作り替えたものだろうと思われる。
 もう一つは、「街道Web」の「信夫隠の碑」とその案内板の写真の右手に写りこんでいた石碑。ちょっと気になって確認したら、昭和37年に建立された「桐生幸蔵翁の碑」であることまでは分かった。
 氏は明治31年に信夫郡松川町に生まれた人で、田植えの天才で農業振興に功績があった人物らしい。
 その碑の現況までは分からなかった。
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# by shingen1948 | 2017-07-08 09:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
a0087378_8394325.jpg 街道を散策する時にいつもお世話になっている「街道Web」によると、橋を渡って次の道筋と交わる左側に「橋供養塔」が建っていたようだ。
 実際の風景と照らし合わせると、この位置に道路に面して建っていたのだと思う。


 a0087378_8404418.jpg 現在は、その「橋供養塔」は、この左手前の「立正院」の入り口に移されている。
 その傍に建つ松川観光協会の案内板の解説によると、境川に架かる橋が石橋になるのは、この松川地域が二本松藩領になる天保4年(1833)以前の出来事らしい。



  橋供養塔

 寛保3年(1743)から天保3年(1832)まで、この周辺は境川を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領であった。その為、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していた。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかった。
 幕府、二本松藩のどちらが許可したかなどの経緯は不明だが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ケ岡、天明根、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い石橋が造られた。住民はこれを大層喜び、橋供養塔を建立したと伝えられている。
 橋供養とは明治期まで庶民の習わしで、橋を新たに架け替えた時に、通行人の安全や橋の長久を祈り建てられた。自然石をそのまま使ったものや角柱型などがある。
 この橋供養は高さ約140㎝、幅約40㎝の角柱型で、現存する碑の中でもかなり大きく、歴史的に貴重な文化財である。

  平成19年3月
 松川町観光協会

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# by shingen1948 | 2017-07-07 09:37 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)