地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 当時の「古天神」付近の水路を想像で、漠然とこの辺りに自家精錬場があったのかなという見当がついたが、ここからは空想になる。

 現在の様子から、自家精錬場があった位置を具体的に想像する。
 自家精錬場跡地が耕地に戻ることはないだろうとの仮説で「古天神」付近の水路脇を探せば、〇印の辺りとその左手の宿地の☆印付近から〇印まで間しかない。奥州八丁目天満宮の裏の☆印部分も雰囲気的に似ているが、ここは「八丁目」かもしれない。
 図示してみると、こんな感じの想像だ。
a0087378_531261.png 〇印の位置を搗鉱場として、「松川のあゆみ」の紹介と照らし合わせてみる。

 ここから「松川駅までは荷馬車で運んだ」というのが茶色の線で示した「八丁目宿」のメイン通りの道筋とすれば、奥州八丁目天満宮の裏の☆印付近に鉱石の集積場があってもよさそうに思える。
 「松川鉱山からこの古天神までは、通路南側に12ポンドのレールを敷き、1t積みの鉱車を馬に曳かせて運搬していた」という道筋候補としては、奥州八丁目天満宮脇に抜ける道筋が有力になるかな。
 こちらの道筋を中心に想像を膨らませると「宿地」の☆印に鉱石の集積場があってもよさそうに思えてくる。

 搗鉱場跡の位置の仮説から膨らむ想像はこの辺りまでかなと思うが、今回の散策で◇印の位置にあった石塔群の中に「社掌碑」をみつけた。
 次回は、このことから関連する空想を膨らませてみる。
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# by shingen1948 | 2017-04-14 09:29 | 福島の鉱山 | Comments(0)
a0087378_6202286.png 「松川のあゆみ」の「旧松川町字切図」を参考に、、現在の地区名をヒントに字界を推定し、当時の「古天神」付近の水路を想像してみたのがこの図だ。

 人々が搗鉱場と呼んだ自家精錬場が、この古天神地内に設備されていたということだ。
 水力を利用し、石臼に良質鉱を入れてスタンプで鉱石を搗(つ)き砕いたとのことで、水車利用を想像する。また、水銀アマルガムによる方法を用いての精錬ということでもあったとのことだ。
 いずれにしても、水路が重要な役割を担っているのだと思う。

 地図を確かめると、現況の水路は、もっと直線的に整備されているようだが、水路の道筋としてはそれ程の変更ではなさそうだ。ただ、航空写真などで確認すると、水車利用で鉱石を搗(つ)き砕くほどの勢いや水量を感じない。

 よそ道に逸れるが、「旧松川町字切図」では水原川が西光寺の南側を流れているのが分かる。寺の北側を流れる現在の川筋が改良されたもののようだ。
 「旧奥州街道:日本柳宿から八丁目宿まで」でふれた明治18年に架けられたというメガネ橋の位置に納得する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5865241/
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# by shingen1948 | 2017-04-13 09:19 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 今回の散策は、松川鉱山最盛期の繁栄のなごりとして残る製錬所のために設置されたと思われる仲の内変電所の確認が主目的だった。
 ただ、頭の片隅には、その途中で、古天神地内の精錬場跡の痕跡も探れないものかという思いもあった。
 「古天神地内の精錬場」というのは、瑞宝鉱業(株)の手に移る前の「製錬所」のことだ。

 「松川のあゆみ」によると、昭和3年に瑞宝鉱業(株)の手に移ってからの松川鉱山が最盛期の繁栄を遂げるとのことだが、松川鉱山は、この前もそれなりに繁栄はしていたとのことだ。それが瑞宝鉱業(株)の手に移ることになるのは、第一次世界大戦後の不況とのかかわりという。

 瑞宝鉱業(株)前の鉱山は橋本組によって経営されていたとのことだ。
 明治初期に、三角氏が嘗て稼働していた松川鉱山の廃坑から金を採取する事業が細々と行われていたという。
 それを、大正初めに本格的に鉱山を再開発したのが橋本組とのことだ。大正3年には約2300tの精鉱が産出されていたという。
 この当時の松川鉱山も活況を呈していて、山神社のお祭りには花火が打ち上げられ、出店が並んで多くの人々で賑わったとのことだった。

 この鉱山では、主として日立製錬場に売鉱していたとのことだが、良質鉱の一部は、まだ金と銀が分離されない青金という状態まで自家製錬して売却していたとのことだった。
 その自家精錬場が古天神地内に設備されていたということだ。
 水力を利用して石臼に良質鉱を入れてスタンプで鉱石を搗(つ)き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていたとのことだった。
 人々は、この工場を搗鉱場と呼んでいたという。
 そして、先に記したように、松川鉱山からこの古天神までは、通路南側に12ポンドのレールを敷き、1t積みの鉱車を馬に曳かせて運搬していたとのことだ。
 ここから松川駅までは荷馬車で運んだという。

 直ぐに分かるのは、古天神から松川駅まで荷馬車で鉱石を運んだという道筋が八丁目宿から松川駅までの道筋だが、その他はなかなか想像しにくい。
 この辺り、現況では整備が進んでいるので、このままで当時を想像するのは難しい。それで、水路に着目して資料を見直してみていたのだ。
 「松川のあゆみ」から「福島の鉱山22~信夫地方の鉱山『松川鉱山』④」で「旧松川町字切図」をお借りしたところだが、この図に主な道筋と川と水路が記されている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/22979661/
 これが、当時の川や水路の様子を表していると思うのだ。それで、現在の地区名をヒントに字界を推定し、当時の水路の様子を想像してみていたのだ。
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# by shingen1948 | 2017-04-12 10:19 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」では、松川鉱山最盛期の繁栄のなごりとして残る現在も残る遺跡として、製錬所の廃墟の跡・六本松と仲の内変電所・山神社が紹介される。
 そのうちの製錬所の廃墟の跡・仲の内変電所を確認してきた。
 この中の六本松変電所については今のところ全く分からないのだが、山神社については、このあたりらしいという想像はついてきている。

 先に「福島の鉱山25~信夫地方の鉱山「松川鉱山」⑦」で「山神社」の位置を想像している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/22995240/
 ここで「もともと山神社は、小金塚から関根に越える山道のそばに祀ってあった。高さ約80㎝ぐらいの凝灰岩質の石の祠であった」と表現した「小金塚から関根に越える山道」というのが、今回確認している「関根から鉱山のある峠を越える道筋」のことだ。
 前回、昭和50年のカラーの航空写真で、この道筋から左に「製錬所の廃墟の跡」へ向かう道筋が確認できることを記したが、そこから少し進んだところの北斜面上に整備された平地が確認できる。 ここが、地図の神社記号の位置と一致するようなのだ。(前回整理時には見逃している)

 「松川のあゆみ」に紹介される現在残っている山神社の表現を確認すると、「瑞宝鉱業時代、平石氏が山腹に立派な山神社を新築し、道端にあった石の祠を遷宮してお祭りした」とある。その山腹に遷宮したとの表現とも矛盾しない。
 なお、「松川のあゆみ」では、道筋にあった時代の石の祠について、破風に下り藤の紋が刻まれることから、蒲生氏経営時代の建立と想像しているらしいことを再掲しておく。

※ 今回整理の「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡②」で、「『信夫鉱山』は、硫黄鉱山の事のようだ」としたが、これは誤りなので、訂正する。
 この鉱山は、小池鉱山の西に金山の地名がある辺りの鉱山で、大正2年に探鉱されたらしい。ただ、詳細は不明とのことらしい。
 先に整理した「信夫地方の鉱山『松川鉱山』」でも、同じ誤りをしている。自分に思い込みがあるのかもしれない。
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# by shingen1948 | 2017-04-09 17:47 | 福島の鉱山 | Comments(0)