地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 制度的に整備されていくのは、この辺りでは福島第一小学校の前身とされる福島学校と三春のようだが、素人目には私塾維新塾の創立と八丁目小学校の創立にかかわる経緯には似たような状況だったように見える。
 
 前回の整理では、この私塾には師範学校的な性格も帯びていたような気がするとしたところだが、八丁目小学校の最初の職員と私塾維新塾塾生の情報を重ねてみる。

 八丁目小学校は、明治6年5月2日に盛林寺に創立されるそうだが、その明治6年時点の職員は以下の方々とのことだ。
〇 田島久敬
 6月24日付一等助教申附候事月給8円
〇 山田志殻
 6月24日付ニ等助教試補申附候事月給3円
〇 竜 無善
 6月27日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 平林宥京
 7月2日付三等助教試補申附候事月給2円
〇 信夫隆善
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年12円
〇 半沢富弥
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 山田きみ
 10月23日付三等助教試補申附候事月給2円50銭

 このうち、首座の田島久敬氏は私塾維新塾師匠の田島鷗僊氏のことだが、以下の4名も維新塾の塾生情報から拾える。
 平林宥京氏は西光寺住職、竜 無善氏は八丁目小学校が創立された盛林寺の長老、信夫隆善氏はお隣の安達郡吉倉村西福寺住職、半沢富弥氏は金沢村の黒沼神社神官の塾生の方々のようだ。

 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩とのかかわりから採用された方らしい。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだが、本町新中田屋の位置は確認していない。

 ここまでで確認できないのは山田志殻氏だが、9月14日には水原小に転勤になっているようだ。

 なお、金谷川村の情報では、盛林寺長老竜無善氏は関谷小学校教師、西光寺住職平林宥京氏は浅川小教師、安達郡吉倉村西福寺住職信夫隆善氏と金沢村黒沼神社神官の半沢富弥氏は金沢小教師だとされている。

 また、先に整理した菅原神社神官の渡辺伊佐美氏は、浅川・関谷・金沢小教師とされるが、明治10年には松川小の教員になっていることも確認できている。
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# by shingen1948 | 2017-11-30 10:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9335279.jpg この日向山の不動院は、先に松川鉱山にかかわる散策の目安になる地点として確認したものだ。写真は撮ったが、その時の散策には直接的にかかわりがないので、そのまま放置していたものだ。
 今回、ここ日向山不動院住職荒木良仁・良義雄氏もその師匠として活躍されていたとの寺小屋情報を得た。

 他に、季節によって指導したという本町服部半蔵氏、歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄氏、新田の伊藤半十郎氏と多分その子の画家伊藤小兵衛氏という師匠さんという松川町の寺小屋情報がある。

 この松川町の寺小屋情報からは、新たな私塾も見えてきた。
 先に篆刻家として整理した天明根の菅野次郎右衛門氏は、維新塾塾生であると共に町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんでもあったとの情報を得た。また、石合町の明宝院住職小泉宥範氏、そして、最上流珠算の権威者だという埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだ。
 つまり、町裏の西光寺住職平林宥京氏は、情報としては寺小屋師匠とされているが、これらのお弟子さんの師匠でもあるということは、私塾でもあったことが想像できると思うのだ。
 ここには複雑な関係性もあって、平林宥京氏の弟子である埋崎の八巻幸吉氏は、名主で後の村長になられる桜内氏や杉内氏の師匠でもあるとのことだ。寺小屋師匠とされるこの八巻幸吉氏も最上流珠算の私塾師匠だということなのだろうと思う。

 また、松川町の寺小屋情報では、「歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄」氏とされる方だが、「金谷川の教育」の情報ではこの方が「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠として紹介されている。
 そこでは、薩摩様は神官で、和歌を中心に教えていたとある。また、弘栄氏は明治14年の明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上したという。
 関谷村の安田氏はその弟子で、金沢村にも多くのお弟子さんがいらっしゃったとのことだ。

 私塾維新塾は、それらの私塾や寺小屋の師匠さん達の複雑な関係性の中で、研修や交流の場でもあったようにも感じられるが、それだけにとどまらない。
 塾生のその後からは、特徴的に松川小学校にかかわる方々が垣間見られるのだ。
 制度的にはよく分からないが、この私塾は実質的には師範学校的な性格も帯びていたような気がするが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-11-28 09:41 | Comments(0)
a0087378_1052308.jpg 今回の整理を通して、ここ常念寺の見え方が変わった。
 二本松落城の頃、鼓岡村名主桜内氏が中心となって、元二本松藩士田嶋鷗僊氏を招いて自宅に「維新館」という私塾を創設したそうだが、その私塾は、その後ここ常念寺で展開されたということだ。
 前回整理したように、そこで学んでいる方々の中には、今まで整理してきた名主の方々や八丁目文化の担い手の方々の名が見える。
 また、多くの弟子をかかえた私塾の御師匠さんの名も見える。
 例えば、二本松藩の最上流宗統派四伝の算法印可を受けて系譜を引き継ぎ門弟1000人の金沢村丹治明斉氏や、その弟子最上流宗統派五伝の算法印可を受ける尾形貞蔵氏の名も見える。
 古浅川の神道無念流師範長南常蔵氏の名も見える。

 更に、ここに寺小屋情報を重ねてみると、ここで学ぶ名主の方々や八丁目文化の担い手の方々と
松川の寺小屋の師匠さんとも重なっている方もいらっしゃる。

 例えば、塾生の町裏の西光寺住職平林宥京氏。
 この方は、今回は眼鏡橋の書字を担当された方として整理しているが、「明治歌集」に選ばれるほどの歌人であったそうで、明治天皇御巡幸の折には、祝辞の詩歌を献上しているとのことだが、弟子20名の寺小屋の師匠でもあったようだ。
 四書五経を指導したが、書、和歌、俳句に秀でて多面にわたって指導していたという。

 今回は篆刻家として整理している天明根の菅野次郎右衛門氏も塾生のようで、上記平林宥京氏の弟子でもあるとの情報もある。この方も弟子10名の寺小屋の師匠でもあったという。書もよくし俳人でもあったとのこと。晩年は隠居して水車業を営みながら指導していたとのことだ。

 本陣桜内協氏も弟子18名の寺小屋師匠だったとのことだ。礼儀作法について特色ある指導が行われていたとのことだ。

 八丁目村菅原神社神官渡辺伊佐美氏は、松川鉱山散策中にその墓石らしきものを見つけた方だが、寺小屋情報の多宝院(神官)渡辺早人弟子20名と重なるように思う。また、ここで学ぶ八丁目村名主は野地長十郎氏に代わっているようだが、元の名主検断である渡辺権左衛門氏弟子8名は謡曲に巧みで年長者には素謡も教えていたようだ。

 最初に挙げた塾生の町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんで寺小屋の師匠をしていらっしゃる方もいる。
 石合町の明宝院は石合町の大火で一切が焼失してしまったそうだが、その住職小泉宥範氏も寺小屋師匠だったという。
 埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだが、最上流珠算の権威者でもあったとのことだ。維新館塾生で名主の桜内協氏や杉内省三郎氏が門人でもあるというかかわりでもあるようだ。
 この方も、多数の弟子をかかえる寺小屋師匠でもあったということのようだ。
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# by shingen1948 | 2017-11-24 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_97563.jpg これは、2008年春の中町丁字路西側付近の様子だ。
 この辺りの風景は、これ以前の散策では、八丁目城跡とのかかわりで捉えていた。従って、城下街に伴う街並みとの関りを強く意識した見え方だったと思う。
 2008年~2009年あたりの散策では、その城下街とかかわる街並みという見え方から、奥州街道の八丁目宿場との見え方にしていこうという意識が強かったと思う。

 この時の主とする散策資料は半沢氏の「歴史地図」だったが、その資料では、この角に追分の阿弥陀堂と常念寺がプロットされていた。
 その情報を元に探ってはみたが、よく分からないままになっていたところでもあった。

 今回の散歩時には、常念寺跡地として公園整備されていて、案内柱も建っていた。
 「こでらんにふくしま通」では、「浄土宗の寺院でしたが焼失して、現在は『南無阿弥陀仏』と刻まれた高さ2mを超える3基の石碑が建てられています」と案内されている。
 案内柱も「こでらんにふくしま通」も名号塔を中心にした案内になっている。

 半沢氏の「歴史地図」との微妙な違いもあって、「歴史地図」では現存と案内されるのだが、焼失と案内されている。

 2008年時の散策と今回の散策とを見比べて、風景の変化は一つの関心事ではあるが、今回の整理を通して、昨日整理の中でふれた「維新館」とのかかわりも気になっている。
 この私塾は、鼓岡村名主桜内氏が自宅に創設したとのことだが、その後、ここ常念寺で展開されたという情報があるのだ。

 その師は漢詩に秀でた二本松藩士ということなので、今からみれば古い学問だと思うが、その当時、高い学識といえば漢学を極めた人というイメージがあったはずだ。
 そこで学んだ方々の紹介をみると、今まで整理してきた名主の方々や八丁目文化の担い手の方々の名が見える。
 ここで学び直しをしているという見え方もできるが、地域の文化人のサロンのような役割もあったのではないのかなと想像する。

 更には、浅川村の整理でふれた二本松藩の最上流宗統派四伝の算法印可を受けて系譜を引き継ぎ門弟1000人の金沢村丹治明斉氏、その弟子最上流宗統派五伝の算法印可を受ける尾形貞蔵氏の名も見える。
 まだ整理はしていないが、古浅川の神道無念流師範長南常蔵氏の名も見える。
 これら方々は、私塾を開いていて、多くの門下生もいる。

 「維新館」に集まった若者の学び先の選択にもなっていた可能性もあると思うのだがどうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-11-20 09:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)