地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 橋の欄干に刻まれる工事関係者の代表は、田村郡三春町の「松本亀吉」氏だが、案内板では、主として川俣町の石工「布野」氏の視点から解説される。
 この方は、明治18年7月に完成した「十三眼鏡橋」とも称された第2代目の信夫橋工事にもかかわっていたことが記される。

 橋に刻まれた田村郡三春町の「松本亀吉」氏は、今のところ確認はできていない。
 「八丁目家主一欄」の中町に「石工 亀吉」が記されるが、この方と名前が同じだなと思ったが、かかわりあるのかどうかも分からない。

 情報が得られるはずはないと思いつつ、「川俣町」・「石工」・「布野」をキーワードに検索すると、「街道Web」の「福島市の石橋(4) 柴切田川橋 (福島市飯野町)」に辿り着いた。
 http://kaido.the-orj.org/hasi/siba1.htm

 このページの後半に、川俣町の布野氏が信夫橋建設工事にも、松川橋の建設工事にも三春町の松本亀吉と共に参加していたことが、「福島市史」別冊「福島の文化」に紹介されているとの情報が記される。
 更には、明治22年(1889)に架けられた川俣町の「旧壁沢眼鏡橋」は、故郷に帰った布野氏の「信夫橋架橋記念」であることが紹介されている。

 「奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景」で記したように、「うつくしま土木建築歴史発見」では福島近郊の石橋として、旧秡川橋・松川橋・信夫橋、旧壁沢眼鏡橋が紹介されるが、この川俣町の布野氏が松川橋・信夫橋・旧壁沢眼鏡橋にかかわっているということのようだ。

 検索の中で、川俣町の布野という石材工業所がかかるのだが、これらと関係するのかどうかは、今のところ分からない。

 ※ 2017/8/15以下を付け加わえる。

 「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」

 参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
 「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
 これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。

 つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。

 なお、この「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、現在機織神社の大清水の池の間に架設されているとのこと。
 ここは機織御前堂旧跡地で、明治12年機織神社と改称し明治43年に現在の御庵館の地に移されたのだとか。
 
 旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、明治22年の川俣、月舘間の県道工事の際に、壁沢川に架設された橋だが、大正2年8月の大洪水で下流側半分が流され,さらに翌3年軽便鉄道が敷設された時に幅員を広くし修理補強されたという。
 昭和50年県道拡張工事により取払われる運命にあったのだが、地元有志の方々や関係機関の尽力により大清水に神橋として復元されたということだ。
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# by shingen1948 | 2017-08-07 09:27 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
 今回は橋そのものをじっくりと見てはいなかった。今回得た情報を次の機会にいかすための整理だ。
 「奥州街道:境川から八丁目村へ⑦」で整理した案内板の説明と「松川のあゆみ」の情報を重ねて眺め、今回の散策で撮った写真を使って整理しておく。

 案内板の説明では、西光寺住職平林宥京の書による松川橋の銘と工事関係者名が橋に刻まれているとのことだ。
a0087378_5331861.jpg これは、今回南側から撮った橋の写真から右側(南東側)の欄干部分を切り取ったものだが、確かに「松川橋」の銘が刻まれている。今回、向かい側から撮った写真は確認できていないが、西光寺側の欄干には「まつかわばし」の銘が刻まれているという。


a0087378_5343143.jpg こちらは同じように左側(南西側)の欄干部分を切り取ったものだか、「明治」と「十八」と「月」が読める。
 「街道Web」の「福島市の石橋(3) 松川(福島市)」によると、竣工日である「明治18年8月」が刻まれているとのことだ。 
 http://kaido.the-orj.org/hasi/matsu1.htm

 案内板にある工事関係者名が刻まれるのは、向かい側の「まつかわばし」と刻まれた西光寺側(北西側)の反対側(北東側)の欄干らしい。ただ、こちらは判読が難しいらしく、「街道Web」でも資料に頼るようだ。
 案内板では「信夫郡松川村他四カ村戸長杉内省三郎他6名の工事関係者」となっているが、「松川のあゆみ」の情報によれば、以下のように刻まれているとのことだ。


 右工事担当 福島県八等出仕 原口 秋之
 同        九等雇  中桐 有三
 信夫郡松川村外四ケ村戸長  杉内省三郎
     用掛        尾形 有蔵
               鈴木忠兵衛
               浅井吉五郎
               丹野  徳
 職工 田村郡三春町     松本 亀吉
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# by shingen1948 | 2017-08-06 09:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 八丁目天神様に安置されていた十一面観音が、明治4年の明治政府の神仏分離令対応で西光寺に遷されたことのかかわりで、「大般若堂」については「奥州街道:八丁目天満宮情報から②」で整理している。
 その記事に張り付けたのは今回の散策時に撮った写真だが、震災対応で平成24年に屋根や外壁を改修しているとのことだった。
a0087378_9143441.jpg こちらは2009/7/27に散策した時に撮った写真。
 見ただけで違いが分かるのは、屋根の色だ。奥の本堂の屋根の色は現在と変わらない。恐らく、平成4年の改修時に塗り替えられたものと思われる。それ以前の写真を見ると、この「大般若堂」の屋根と同じ色だったようだ。

 手持ち資料の西光寺を描いた図を見ると(いつの時代かは分からないが、少なくとも本流が南側を流れていた時代ではある)、門前の水路には滾々と水が流れていたようで、そこに現在も残る石橋が架かっていたようだ。
 現況では西光寺の北側が水原川本流になっているが、この写真の駐車場部分も含めて、低地になっていたようだ。先の耕作地だったのだろうという想像はそれほど違っていないような気がする。

 どこかで気になっているのが、「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り」で整理した、天明根村名主検断遠藤佐平氏の「川岸屋」がかかわる風景だ。
 ここでも用水路とのかかわりでの水路を探っているのだが、こちらもはっきりしなかった。

 天明根村の水路にこだわって風景を眺めているのは、寺小屋情報にあった西光寺の平林宥京氏の弟子で、明治10年69歳で没したという菅野伝七氏の水車庵が探れないかという思いからだが、今のところは不明のままだ。

 この方、鶴斎と号し篆刻の名人だったとのことだが、晩年隠居して水車業を営みながら寺小屋を開き指導をしていたとのことなのだ。
 「八丁目あれこれ」では、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻して、その手腕は江戸にまでその名が馳せられたとある。
 こちらの紹介では号は普斎、通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称したとある。明治の初めに松川では有名な田嶋氏漢字を学んで号を鶴僊と改めたの紹介だ。
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# by shingen1948 | 2017-08-04 09:19 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 先に「奥州街道:境川から八丁目村へ⑧」で「新堰改修碑」にふれたが、この改修が決まるのが昭和18年で、この改修碑が建てられるのが昭和20年ということで、この川筋は、まだ水原川の本流であった時代だという事のようだ。
a0087378_15291819.jpg 碑文を再掲する。
 「新堰改修碑」
 新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
 シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
 水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
 害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
 ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
 戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
 状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
 八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
 ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
 工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ
 昭和20年1月建立

 題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
      信夫郡松川町書記丹治一郎
 石工 菅澤 上〇

 この新堰は、現在の風景の中では、水原川の本流から分水した堰が眼鏡橋を通り、本流に戻るその先に水門があって、そこからまた分水されていく風景という風に見える。
 しかし、この時代の水原川の本流は西光寺の南側の流れだ。その時代の風景では、現在の本流に戻るその先に見える水門が新堰の取水口という事なのだろうと思う。
 ただ、その時代の水原川の本流も改修されたという事のようなので、この風景はその時に整備された風景が残っているという事なのだと思う。

 地元の方の眼鏡橋について思いには、勿論、橋そのものへの愛着があるのだろうと思う。しかし、この新堰とのかかわりで、重要な水路に架かる橋という実質的に役割を担った橋という意識も強いのだろうとも思う。  
 足を一歩踏み入れてみて感じたのは、もう一つの思い、生活に潤いを与える親水公園という新しい見方も加わっているような気がするのだが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-08-02 15:42 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)