地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 川の中から天明根集会所辺りまでが、「八丁目家主一覧」がいう「天明根名主川岸屋佐平」宅あたりかなと想像する。半沢氏の「歴史地図」では、「天明根村名主検断遠藤佐平(川岸屋)」とされるお宅だ。
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 西光寺と接する南端は、現在水原川本流になっている川中であることの想像は容易だ。「川岸屋」は、西光寺の南側を流れる川筋とのかかわりなのだろうとも思う。

 そこからどこまでの範囲を想像するかが曖昧なところだ。
 今回は、「八丁目家主一覧」が描く用水路が街道を横切る位置から想像してみようかなと思った。

 西光寺の南側を流れる川筋が水原川本流だった時代、西光寺を回り込む地点から天明根村の用水路への取水がなされていたようなのだ。
 この用水路が、天明根から街道を横切り鼓岡―桜内を経由して、久保前で水原川本流に排水される川筋になるのだが、現在は大きく改変されているようで、その水路筋は確認できない。
 ただ、用水路と小字との関係図と現在の地域名とを照らし合わせてみると、天明根から鼓岡にかけて用水路沿いの道筋の痕跡らしき道筋が見える。

 それで、西光寺を回り込む地点とこの道筋をつないだ線が街道を横切る地点を「八丁目家主一覧」が描く用水路が街道を横切る位置と推定してみたということだ。
 この位置から、大工十蔵宅と仕立屋喜十宅の二軒分とった南側を「天明根村名主検断遠藤佐平(川岸屋)」宅として想定してみたのだ。
 それが、不確かだが天明根集会所辺りかなと思えたという事だ。

 ただ、この範囲は「八丁目家主一覧」が示すお屋敷よりも広い範囲になるようではある。しかし、当時は半農半商が普通であったとのことであり、その半農の耕地部分が現在の川筋の中だったと想像すれば自然ではあるかなとも思えたのだ。
 なお、「維新館」情報からは、この遠藤佐平氏は明治になっては、酒造業を営み、郵便局長も勤めたことが読み取れる。
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# by shingen1948 | 2017-07-15 09:49 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 現在の水原川の流れは、本流が西光寺の北側を流れ、西光寺の南側を流れる支流がそこに合流するというように見える。
 しかし、本来の水原川の川筋は、西光寺の西側から南側に回り込んで流れていて、その川が街道を横切る所に橋が架かっていたという事だ。その橋を明治18年(1885)8月に石橋にしたのが「めがね橋」ということだ。
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 西光寺の南側を流れる川筋が、本流が西光寺の北側を流れる川筋に合流する地点に、「新堰改修碑」が建っている。ここに刻まれる解説を読むと、その辺りがかかわる事情を説明しているように思うのだがどうだろうか。

 「新堰改修碑」

 新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
 シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
 水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
 害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
 ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
 戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
 状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
 八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
 ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
 工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ

 昭和20年1月建立

 題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
      信夫郡松川町書記丹治一郎
 石工 菅澤 上〇
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# by shingen1948 | 2017-07-13 09:50 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_10381319.jpg 水原川にかかるこの橋辺りから南側が八丁目村ということなのだと思う。ただ、「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」を見ると、橋右手の手前2軒は天明根村の住民とされているようだ。川普請とのかかわりで、川筋が改変されたという事なのだろうか。

 現況は石橋だが、「八丁目家主一覧」では「はし」と表示されているだけなので、木橋だったのだろうと想像する。

 この石橋について案内板が建ち、次のように解説する。

 「めがね橋」
 明治18年(1885)8月に完成。当時の県令三島通庸は福島県令になる前、酒田県令を勤め、ここでもめがね橋を完成させた。その経験を生かして松川にも造ったといわれる。石工は川俣町の布野なる者で福島の信夫橋の石橋も手掛けている。布野は三春町松本亀吉らと協力して完成。
 石材は浅川町五斗内から切り出したもので、松川橋の銘のほか、信夫郡松川村他四カ村戸長杉内省三郎他6名の工事関係者などが刻まれている。西光寺住職平林宥京の書によるものという。
 この橋の建設費に村では県に対して人夫780人を寄付。また戸長の任にあった杉内省三郎は建築費として県へ300円を寄付している。

 地元意識を感じるのは、「福島の信夫橋の石橋も手掛けている」という部分。
 福島との合併前にこの解説文ができたのかもしれないが、現在も「福島の」という断りを自然な事として受け入れているということなのだろうと思う。現況では、松川も福島のはずだが、ここは「松川」であるという地元意識の強さなのかもしれない。
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# by shingen1948 | 2017-07-12 10:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_911267.jpg 左手のお宅に「旅館若松屋」が表示されている。
 「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」に「若松屋」代吉 作右衛門の表記が確認できることとのかかわりで、いくつかイメージしやすくなったことがある。
 まずは、その「若松屋」の位置がここだというふうに特定できるという事がある。

 「若松屋」が特定できることで、このお宅の南側に水路が走り、道路を横切っている何気ない風景の意味も分かる。
 「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」では、この水路が用水路である事の表示があるのだ。しかも、この用水が道路を横切っている部分には、石橋が架かっていた事まで表記されているのだ。
 このことから、この水路は少なくとも天政・天保(1820~30)頃から用水路として活用されていたということが推定できるという事だ。
 現況では、この用水路の南側もこのお宅の敷地になっているようだが、天政・天保(1820~30)の頃はそのお隣の敷地だったかもしれない。
 現況でもその南側に井戸小屋が見えるが、その排水もこの用水路に流れ込んでいたのだろうと推測できる。

 更には、明治時代に廃寺になったと思われる「多宝院」と「盛光院」のおおよその位置も推測できるようになるという事があるということだ。
 「多宝院」は、前回推定した「八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門」お屋敷と、この若松屋の中間よりやや名主宅寄りの辺りが推定できる。
 「盛光院」は、これから整理する水原川に架かる松川橋とこの若松屋の中間より松川橋に寄った辺りに推測できる。

 なお、「八丁目家主一覧(杉内励一蔵)」には、この松川付近の若松屋側に浅草屋がプロットされ、道向かいには浅草屋をはじめ6軒の店名が表記されている。
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# by shingen1948 | 2017-07-11 09:18 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)