地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 写真を確認したら、散歩で医王寺へ出かけたのは2017/4/27のようだ。
 いつもなら飯坂古道を中心に散策をしながら医王寺を目指すのだが、この時はわざとその東側の道筋を進んでみた。何か別な見え方をするかもしれないという期待感だ。
 この道筋、果樹試験場の裏側の道筋になるのだが、その角の建物の表札が「福島県生活改善展示実験室」となっている。


家に戻って、その仰々しい「福島県生活改善展示実験室」なるものを検索してみたら、「福島教育情報データベース「ふくしまの動画」の「民友ニュース No.24」に、「脱皮する農村」その5として紹介されていた。
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/mov/20037.024/20037.024.00001.html

a0087378_6163422.jpg この県の生活改善の展示実験室というのは、理想的農家の模型や合理化した台所などのモデル展示場ということのようだ。
 「因習と頑迷を打ち破って、合理的な明るい豊かな農村へ、今県下の農家は大きな転換を始めています」と解説される。

 小さい頃、農村だけでなく、地方の都市化が進んだ地域でも、冠婚葬祭や日常生活の因習と頑迷を打ち破ることで、明るい近代的な生活を目指すと称して、冠婚葬祭にかかわる簡素化、合理化を図ための行政的な取り組みがあったことを思い出す。

 この時代、確かに生活の重荷になっていた因習と頑迷を打ち破る成果はあったように思う。その一方で、合理化とか簡素化、能率化といった価値では測れない心の豊かさにかかわる祭とか、集落の集いといったものも失われていく時代だったという印象もある。
 農村風景としては、藁ぶき屋根にトタンを被せた農家が一般的になったという印象を持つ。
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# by shingen1948 | 2017-06-19 09:15 | ★ 季節便り | Comments(0)
 鎌倉権五郎影政と片目清水にかかわる伝承は、「信達一統志」も「信達郡村史」も、そして、「日本の伝説(柳田國男)」も南矢野目村あるいは南矢野目村邨として紹介される。しかし、今回は笹谷地区の伝承として整理してきた。
 元々、このあたりは、南矢野目・笹谷・北沢又・南沢又地区の複雑な境界地域だが、地図上では、ここは笹谷になっている。

 座学を中心に散策する人にとっては南矢野目の意識が強いと思うが、地図を片手に散策をすることを中心に散策する人にとっては笹谷という意識が強いのだと思う。
 最悪なのは、公で南矢野目の地域を整理する人が実際の散策を中心にする方で、笹谷の地域を整理する人が座学を中心とする方だった場合、ここはすっぽりと抜け落ちる。

 今回、ここが笹谷地区ということを地図で確認していて、あれっ、と思ったのは万世大路の信陵支所の角に石塔の印がある。
 ここに、石塔があるとすれば、才の神の石塔のはずだ。

 実は、何度か道祖神を確認する散策をしていて、久盛院の双体道祖神を整理した頃、ここは見つけられずに、消滅だろうと思って整理していなかったのだ。
 移動なら、この辺りなら公民館の敷地だろうということで何度か確かめたが、それも空振りだったのだ。
a0087378_694686.jpg 今回使用の地図情報は結構新しい。
 それで、もう一度確認に出かけて、ひょっとするとこの石かなと思った石の写真を撮ってきたということで、確実性は全くない。

 ここは才の神地区でもあり、その原点の位置がこの辺りという自分なりの目印としてもいいかなという思いもある。
 才の神は、道祖神の役割の一つである行路を守るという役割と共に、道の分岐点、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神としての役割を強く意識してみている。
 ここを、昔民間信仰のこの地域の守り神として石仏が建てられた道の辻として意識していたことに思いを至らせ、勝手に祈る目印にしてもよさそうだなと思ったという程度の整理にしておく。
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# by shingen1948 | 2017-06-17 09:07 | ★ 季節便り | Comments(0)
 本当は、「鎌倉権五郎影政公のその後」の前に、福島の伝承と「日本の伝説(柳田國男)」が紹介する「片目清水」の微妙な違いを整理してみたかった。
 順序が逆になったが、「鎌倉権五郎影政と片目清水②」として整理する。
 片目清水に戻るのに、2006/3/26の片目清水の写真を張り付ける。
a0087378_6184846.jpg この時は、公園として整備している最中で、ここから清水に近づけないように柵で囲われていた。

 さて、微妙な違いの一つは、福島市史の解説を元にした福島の伝承では、権五郎がいられたのは右目だが、「日本の伝説(柳田國男)」では「一統志」の説をとり、流れた血が元で小魚はどれもこれも左の目が潰れているとしている。

 二つ目は、福島の案内では、権五郎が目を洗ったら傷が治ったという視点で物語を結ぶ。
 多分、こちらは「信達二郡村誌」の「偏盲泉」に「権五郎景政眼を洗い創瘳えたりと言い伝えるは即ち此水なり」とある方を採用したのだろうと思う。
 この「信達二郡村誌」では「水質淡冬微温にして夏凄冽早に遇へば益々溢涌をして細沙噴躍す 田畝の灌漑専ら此水に頼る 尤製絲煎茶に適す」というふうに、この泉の水質の良さに視点を置いている。それで「眼病の人々は、ここで眼を洗い治療するという」結びにしたのだとは思うが、地元資料にこの眼を洗い治療するという言い伝えがあることの確認はできていない。

 ただ、「日本の伝説(柳田國男)」では、片目の魚がいるのは、大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水だとして「東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸」の例を挙げて次のように解説する。
 上高井戸の医王寺の薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。

 この「日本の伝説(柳田國男)」が大抵はこういう話だとした事を元にして、このような結びとしたのかもしれないとも思うのだが、実際はどうなのだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-06-16 06:22 | ★ 季節便り | Comments(0)
 「吾妻の里の自噴泉と伝説」を整理した時点で、この「ふくしま散歩(小林金次郎)」が紹介する鎌倉権五郎影政と家臣の墓の写真を手掛かりにここにたどりついてはいたのだが、そのままにしていたところだった。
 a0087378_5423129.jpg 「ふくしま散歩」では、片目清水の紹介の前に「現在、鳥川の成川に住む矢吹友右衛門氏といわれる」として、権五郎影政の子孫が紹介されていたのだ。

 しかし、時系列に沿って整理してみると、片目清水の頃の鎌倉権五郎影政氏は16歳で、それ以降の生き様の紹介があって、それからその子孫というふうな話にしたいところだ。
 「日本の伝説(柳田國男)」では、そこら辺も心得ていて、安積郡に飛んで以下のように話の紹介になる。
 奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。(相生集:福島県安積郡多田野村)


 安積郡多田野村は、現郡山市逢瀬町多田野地区ということで情報を集めてみる。
 「郡山公式ウェブサイト」の「逢瀬町の伝承・魅力」では、八幡太郎義家公にちなんだ伝説が各地にあるとして、その一つに御霊神社を挙げている。
 この神社については、本来関東における平家5家(大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡)を祀る神社として創建されたそうだが、八幡太郎義家公の家臣である武勇の人鎌倉権五郎景政を祀る神社となったと紹介する。更に、大庭・梶原・長尾氏は景政氏の血縁だとも紹介される。

 その「御霊神社」を確認すると、「福島県郡山市逢瀬町に鎮座し、御祭神は火之夜芸速男神、鎌倉権五郎景政公で、社格は村社」とある。
 由緒ととのかかわりで、祭神である鎌倉権五郎景政公が次のように紹介される。

 「平安時代後期の康治2年(1143年)、鎌倉武士の鎌倉権五郎景政公が東北征伐の際、当地を訪れ浄土ヶ岡に住んでいたという盗賊と大蛇を悉く退治したことによって村民の禍を除いたため、景政公とその御兄弟一族を 「 御霊の宮 」として相殿に祀った。」
 御霊櫃峠伝説もこの伝説とかかわりあっているようだ。

 この紹介だと、景政公が後三年の役(1083~1087)の後半に16歳だったとしても、盗賊と大蛇退治の康治2年(1143年)が、それから56年後ということで72歳ということだ。随分お元気だったようだということになる。
 ただ、郡山の「安積名称考」の紹介だと、景政公は寛治3年(1089)年に死去したとされる説もあるようで、これだと全国的な話の流れでは20代で亡くなったことになるのだが、16歳時の活躍の前提が永承康平(1046~1065)という話になっているようだ。これだと59歳~79歳という事になるようだ。

 ここには、別説も紹介されている。
 奥州での戦いの功により石川郡鎌田の城主となり、68才で没したという伝えもあるとの紹介だ。
 これだと全国的な話の流れとの辻褄を合わせると、亡くなったのは1135~1139ということで、保延元年~4年頃ということになるかな。

 こんな活躍の想像を挟んでから「ふくしま散歩(小林金次郎)」の紹介の最初に戻ると、結構楽しめる伝承になると思うが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-06-15 09:40 | Comments(0)