地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
 「きけわたつみのこえ」は、第二次世界大戦末期に戦没した、日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。
 ここで指す「わたつみ」は「学徒戦没者」であることは分かるのだが、本来の意味は「海の神霊」ということのようだ。
 「わたつみ」の「わた」は海の古語で、「み」は神霊の意とのことらしい。
 皇国史観による旧教育を受けた方は、この言葉にはこの二つの意味が重なってイメージされているらしい。

 今回「会津の『わたつみのこえ』を聞く」としたことだが、これは「きけわたつみのこえ」に福島県の「学徒戦没者」として登場する会津の長谷川信氏の声を、耳を澄まして聞いてみたいと思ったのだ。

 この会津の長谷川信氏を知ったのは、先に「山中 訃報に接して」の整理中だ。
 山中選手が母校にやって来るのは、N先生とのかかわりだったのだが、そのN先生が会津にやって来るのは、会津高校ボート部とかかわると想像した。また、自分の思い出の中には猪苗代の中田浜があるのだが、確認していくと、これも会津高校ボート部がかかわるようだった。
 その確認を進める中で、猪苗代湖に元々練習拠点にしていた場所があることが分かった。その確認を進める中で、そこが長谷川信氏の思い出の地であるという情報を得て、その地が特定できたということがあった。
 これを、「山中毅さんの訃報に接して⑥」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23730970/

 その情報源は「Web東京荏原都市物語資料館」だ。
 学徒出陣した特攻兵士長谷川信氏の故郷である会津若松を訪ねたその「下北沢X新聞(1676) 〜武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて5〜」の記事に、この戸ノ口艇庫についてふれた箇所があったのだ。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51703392.html
 ここで、「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」を孫引きさせていただいたのだが、その部分を再掲する。
 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 この時の整理では、その「会津高校ボート部での練習の思い出の地」の位置が分かればそれでよかったのだが、この時にも「長谷川信 碑」についてふれている。
 整理を始めるにあたって、ここも再掲しておきたい。
a0087378_938834.png 死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う。

 この「長谷川信 碑」については、次の「下北沢X新聞(1677) ~武揚隊、一特攻兵士の故郷を訪ねて6~」に詳しく記される。
 
 長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る

 石碑に刻まれた4月10日は、彼が生まれた日であり、亡くなった日でもあるとのこと。この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地とのことだ。
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# by shingen1948 | 2017-04-19 09:39 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 今回はtukaさんから頂いた「仲ノ内の変電所」情報を確かめに来たことを整理してきた。
 その散策の中心は、瑞宝鉱業時代の松川鉱山を意識しての散策であり、「仲ノ内の変電所」を確認した後は、「製錬所の廃墟の跡」や「山神社」を意識しながら付近を散策した。

 ここに来るのに、奥州街道八丁目宿から「奥洲八丁目天満宮」脇の道筋を通って来たのだが、確認を進めるとこの道筋が橋本組時代の松川鉱山とかかわっているらしいということのようだった。
 まずは、この道筋が、松川鉱山から古天神まで通路南側に12ポンドのレールが敷かれた道筋であり、ここを馬に曳かせた1t積みの鉱車が通っていたのだろうと想像した。
 そして、「古天神」には、搗鉱場と呼ばれていた自家精錬場があったのだろうという想像を膨らませたところだった。

 この道筋の「竹ノ内」集落の神社境内に、「西郷の夫婦桜」の案内板が建っていた。
 多分、この北側が「古天神」の搗鉱場にかかわる水路の取水口あたりのはずだ。
a0087378_10232346.jpg 写っている桜は、夫婦桜のうち女「シダレザクラ」の方のようだ。
 高さ約11m、幹回りは約5.3m、根本周6.2mが案内されている。
 近くに男「エドヒガンザクラ」があったようだ。高さ約12.5m、2本に分かれた幹は太いもので約3.5m、根本周4.4mが案内されている。
 推定樹齢は750年から800年と推定が案内されるが、別資料で約600年の解説もみる。平成22年3月に県の緑の文化財に登録されているようだ。
 案内板では、文治5(1189)年の源頼朝の奥州征伐の際、宿地千軒として栄えた大集落を焼き払った成果として神社境内にサクラを植えたとされる伝承を中心に解説される。

 ここでは案内されないが、天正年間(1573~1592年)に伊達政宗が仙台の榴岡公園に植樹するため、江戸から運んだサクラの苗木を途中の宿場町で分け与えたとの説もあるようだ。
 先に八丁目城を散策した時に、その付近が城下町になる前は、門前町だったのではないかとの想像から諏訪神社に立ち寄って「八丁目城① 八丁目宿の諏訪神社」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7167126/

 ここでの桜の案内に、分け与えられた3本のうち1本がここに植えられて、ほかの一本が竹之内の狐水稲荷の桜と伝えられているとのことだった。それが、ここの桜ということになるはずだ。
 ここでの樹齢は伝承に合わせて400年という事だった。

 今頃が見ごろかな。
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# by shingen1948 | 2017-04-18 10:24 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 松川鉱山のシンボルである山神社のお祭りには、花火が打ち上げられ、出店が並んだとのことだが、この時に八丁目の天満宮付近も賑わったのではないかと想像しているが、今のところ確認はできていない。

 その八丁目の天満宮だが、地図には「奥洲八丁目天満宮」と仰々しい名称が記されるのだが、「松川のあゆみ」以外、その沿革を記すものを見ない。
 ここでは、八丁目出身で安永7年(1778)に真浄院で寂した「忍憧律師」がかかわると紹介される。
 この「忍憧律師」が、大宰府の筑紫天満宮に籠り、その飛梅の分木を頂き、当地に送ったのだとか。
 また、天満宮の本地仏として安置されていた「十一面観音」は、安永7年(1778)に師慧海に願い出て与えられたと紹介される。この安永7年(1778)は、先の「忍憧律師」が亡くなられた年であり、師慧海が、師+「慧海」なのか「師慧海」なのかは分からない。

 ここでは、願い出て与えられたという主語にあたる方が紹介されていない。
 「幕末の八丁目家主一欄」を見ると、天満宮の隣に大巌屋を挟んで八丁目村名主渡邉権左衛門明屋敷がみえる。半沢氏の「歴史地図」では、この方が八丁目村検断名主兼帯渡邉権左衛門と紹介されている。
 それで、この方が願い出た代表者なのではないのかなと想像するが、どうだろうか。

 なお、天満宮の本地仏として「十一面観音」が安置されていたことについては、これは当時の一般的な神仏習合の形だと思う。これが、明治維新政府による宗教改革とされる神仏分離の政策を受け容れて西光寺に移されたようだ。はじめは般若堂に移されたとのことだが、後に本堂に安置されたのだという。
 また、「幕末の八丁目家主一欄」には、八丁目村分には、盛光院と多宝院が記されているが、今はない。廃寺になっているようだ。この時の廃仏毀釈政策とかかわるのだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-04-17 10:41 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 自家精錬場跡地を推定したところの道を挟んだ◇印を付した付近に、懐かしさを感じる消火栓がある。その脇に、勢至、金毘羅、足尾山等々の石塔が並んでいる。
a0087378_1394152.jpg 今回気になったのが、右端の社掌渡邉伊佐美碑だ。

 その「社掌」だが、これは旧制の神職の称号らしい。
 府県社や郷社にあっては社司が1人いて、その下に若干名の社掌が置かれることになるようだが、村社以下無格社にあっては、この社掌が一切の社務を司ることになるらしい。

 神社がかかわるということで、思いつく近くの神社は八丁目天満宮だ。
 この神社の管理についての現況は知らないが、少なくとも昭和初期には、ここの一切の社務を司る「社掌」がいらっしゃったのではないかと想像してもよさそうに思えたのだ。

 それなら、その方が、鉱山にかかわる山神社の祭祀の任を委託される状況になるとも思うのだ。
 橋本組の松川鉱山も活況を呈していて、山神社のお祭りには花火が打ち上げられ、出店が並んで多くの人々で賑わったとのことだったが、その山神社も八丁目の天満宮の「社掌」が兼務していたのではないかとの想像だ。

 ならば、山神社の祭には、八丁目の天満宮付近も出店が並んで多くの人々で賑わったとも思えるのだが、今のところ確認はできていない。
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# by shingen1948 | 2017-04-15 13:15 | 福島の鉱山 | Comments(0)