地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 前回整理でふれた旅籠「植木屋」だが、八丁目家主一欄には「植木屋文次郎」とある。この植木屋文次郎についての以下の八丁目文化情報がある。

 詩人植木鷗渓(植木屋文次郎)松川町本町植木屋茂平の長男。
 慶應元年生まれ、早くより田島敬久に師事し漢詩をよくした。漫遊日誌、伊勢参宮、西国三十三ケ所巡礼日記などに多くの詩を残した。いわゆる旦那芸ではなく実作者としての詩心があった。

a0087378_13273677.jpg この写真は、2009年の散策時に撮影したものだ。旧国道四号線と重なる大町通りを福島側から眺めている。

 右手に鉄の扉があってその先に蔵が写るが、多分、ここが八丁目家主一欄に名主杉内与三郎とある明治以降も代々松川村外4ケ村戸長でもあったお宅だろうと思う。屋号は穀屋とのこと。
 今回はここが名主杉内宅らしいと曖昧ながら言い切っているが、撮影時の散策ではそう言えるほどの自信もなかった。
 中町までの整理と違って位置情報としての側面だけではなさそうとのことで、より慎重になっていたこともある。

 その先のお宅が、検断問屋植木九郎右衛門家だった所らしい。
 半沢氏の歴史地図では「掲示板、高札事務所」とある。ここに高札があったのだろうと思う。名字は植木だが、屋号は大森屋だったらしい。
 福島に支店を設けて江戸福島間を往復していたという飛脚問屋島屋の中継地点として八丁目に文久元年大森屋が記録されているとのことだが、この情報とも重なるのだろうと想像する。これが明治4年まで続くそうだ。
 検断問屋植木九郎右衛門氏だが、その後の松川村積銭所・鉱業社など、金融関係などの実業関係にその名を記されるようだが、八丁目文化情報にも、その名を見かける。

 歌人植木高栄(九郎右衛門)字本町大森屋文吉の長男。
 最初西東弘栄の高弟であり、更に東都の大家黒田清綱に師事して歌道に精通しその秀歌は廔「庭たつみ」にあらわれた。口語歌人秀文の父。

 その口語歌人秀文氏については、次のように紹介される。

 植木秀文(文右衛門)明治39年6月10日生まれで、26歳の若さで亡くなった。
 没後学友たちによって短歌遺作集「赭土(あかつち)」が出版され、松川泉短歌会の同人によって歌碑が建てられた。
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# by shingen1948 | 2017-12-10 13:31 | ◎ 水 | Comments(0)
 2009年の散策時、本陣跡とされるガソリンスタンドとともに散策の目印としたのが、造り酒屋宅だ。
a0087378_85123.jpg ここは、福島市唯一の蔵元金水晶だが、全国新酒鑑評会で8年連続金賞を受賞しているとのことだが、最近、日本酒コンテスト「純米酒部門」で2年連続金賞を受賞したとの報を見た。
「福島・金水晶酒造店2年連続金賞 日本酒コンテスト『純米酒部門』【福島民友(2017/11/23)】」
 http://www.minyu-net.com/news/news/FM20171123-222394.php 

 この造り酒屋は、明治28年(1895)に金次郎氏が創業したとのことだが、これが八丁目家主一欄に描かれる「蝋燭屋金兵衛」の情報と重なる。

 八丁目文化情報を探ると、明治天皇御巡幸の折に和歌を献上したという斎藤健輔氏は、この蝋燭屋のご主人のようだ。2代目だろうか。歌人号は春連とのことだ。
 この情報を辿っていくと「蝋燭屋」は旅籠だったようだ。

 先に整理した西光寺住職平林宥京氏が、この蝋燭屋の斎藤春連氏や金沢屋の加藤忠兵衛氏と親交があり、毎日蝋燭屋や金沢屋などで入浴に行っていたとの情報とも整合性がとれる。
 最近、ここに旅籠「蝋燭屋」の案内板が設置されたようだが、この隣の薬局の次にも、旅籠「植木屋」の案内板が設置されている。

 更に隣の文具屋さんの南側に用水が走るが、八丁目家主一欄にも、この用水は描かれている。描かれる石橋などは見当たらないが、位置的には変わりはなさそうだ。

 少し周りが見えてくると、この用水も散策の目印になりそうであることに気づく。
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# by shingen1948 | 2017-12-06 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 中町丁字路から抜け出せない。
 前回整理の建物が、八丁目家主一欄にある「中田屋金作(菅野金作氏宅)」跡であるならば、その菅野金作氏も桃林庵雪好と号する文人で、銀風社という俳句結社を起こし門人も多かったとのことだ。玉幽斎輝信と号して書画もよくし、明治15年東京絵画共進会に入選しているという。西光寺に門人が建てた「暫くは噺もせずに月見哉(雪好)」の句碑があるという。

 さて、常念寺跡地だが、今は公園整備化されている。
 この唯称山常念寺は、桜内対馬が開基にかかわった浄土宗の寺とのことだ。
 「こでらんにふくしま通」では「浄土宗の寺院でしたが焼失した」とあった。確かに、八丁目大火で、大部分の伽藍は焼失したようだが、一宇は残ったということだ。そこで今回整理した「維新館」の私塾が開かれたという事のようだ。
 なお、その後明治9年8月には鼓ケ岡村・八丁目村・天明根村が合併した松川村と金沢村・浅川村・関谷村・水原村との連合戸長役場置かれたということのようだ。
a0087378_10441317.jpg 「こでらんにふくしま通」で、「現在は『南無阿弥陀仏』と刻まれた高さ2mを超える3基の石碑が建てられています」と案内されるのが、これだろうと思う。
 奥の石塔にははっきりとした花押も見える。その字体はそれぞれ違うようで、はっきりはしないが花押の痕跡もうかがえる。素人にはよく分からないが、その道に詳しい方には、どなたのものなのか見えているように思う。
 案内では、巨大な石仏との紹介だが、多分、三回の念仏会が権威ある証明されているという意味が込められているのだと思う。

 ついでに、「中田屋金作(菅野金作氏宅)」跡の東隣りの話。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で、結果的には違ったが馬宿を推定したこの建物の東側の空き地だが、江戸末期には、ここに高名な名医がいらっしゃったという情報と重なった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/4/

 この更地前の風景は 「浅川、松川散策の写真メモから⑫」に掲げている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/page/3/
 八丁目家主一欄では、このあたりに「田村寿杏」が見えたのだ。

 この方は、京に上り、園大納言に仕え、玄了と号し、堂上家に出入りし宮中の拝診をして三后の検脈を許された方との情報と重なるように思う。
 宝暦4年4月3日に法橋の宣を頂き、途中園園大納言御用の荷立を押し立て故郷に錦を押し立てて帰って来たという。この時に、かねて知遇のあった池野大雅、玉瀾ご夫婦と共に見送りに出たまま八丁目まで同道したのだという。
 名医診察を乞う者常に門前市をなしたということだ。
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# by shingen1948 | 2017-12-04 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 維新塾にこだわってしまったが、その確認のためにこの丁字路角についての多くの情報も得た。
 その中の郵便局情報から、この残された建物は中田屋跡ではないのかなと想像する。
a0087378_10215464.jpg 明治5年に新しい郵便制度がしかれるが、当時は、国から委嘱された方が郵便局を造り、郵便御用取扱役として勤めたとのことだ。
 松川でも、その年の7月1日に取扱所が開かれるが、その初代局長は菅野金作氏とのことだ。
 その位置は、中町の巡査駐在所の東隣の菅野金作氏宅で、近所では郵便中田屋と呼んでいたとある。

 その駐在所情報を確認すると、明治44年に警察制度がしかれた当初は駐在所は横町に置かれたが、自治制度実施の頃からは、中町の今の常念寺前に新築し、松川駐在所と称したとある。

 八丁目家主一欄で、この辺りの様子を確かめると、常念寺の隣に「中田屋金作」が描かれている。

 これらの情報を重ね合わせると、ここに写る建物が「郵便中田屋」跡であり、八丁目家主一欄にある「中田屋金作」跡であり、菅野金作氏宅ではないのかなと想像する。
 この建物の西手に松川駐在所があったとすれば、「常念寺前に松川駐在所新築」という情報とも「中町の巡査駐在所の東隣の菅野金作氏宅」との情報とも矛盾はしないと思うが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-12-02 10:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(5)