地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 前回の「浅川、松川散策の写真メモから24」からは、今回の整理を通して新たに見えるようになった事について、整理のし直しをしている。
a0087378_1134559.jpg この写真は、今回の散策で稲荷神社を撮ったものだ。
 この神社の由緒らしきことと手前の石橋と左手の松川村道路元標については、先の「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で整理している。

 新たに見えるようになった事というのは、拝殿の左側に写る赤い扉の建物だ。
 この建物は、松川国民学校の奉安庫を移築したものなのではないのかなと思ったのだ。「松川のあゆみ」に、「(松川国民学校の奉安庫は、)戦後昭和21年1月24日、新教育の発足と共に撤去され、現在中町の稲荷神社の宝物殿となっている」との記載を見つけたのだ。それで、先に「浅川、松川散策の写真メモから」で整理した黒沼神社に移築された金谷川国民学校の奉安殿と、稲荷神社で撮った写真を見比べて、移築されたという松川国民学校の奉安庫はこの建物だろうと推測したということだ。
 その建物なら、設計は福島の伊藤邦治氏、大工は中町の丹野久松氏で、大正7年10月23日に完成したものとのことだ。杉内励三郎氏の300円をはじめ人々の寄付金500円でその経費は賄われたとのことだ。

 奉安庫は、御真影、教育勅語謄本が安置され、管理は校長の第一の任務であり、児童は勿論、他の職員も入ることはできなかったものだ。最近は、わざわざ教育勅語について教育現場でふれて構わない趣旨を閣議決定されるという流れのようだが、自分の感覚では、これらは戦前の教育の象徴のようなものと感じている。
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# by shingen1948 | 2017-12-13 11:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここまで整理してくると、旧国道四号線と重なる大町通りでは、本陣とされるガソリンスタンド付近の写真が欲しかったことに気づく。
 次の機会に、旅籠「植木屋」の案内が設置された辺りから、ガソリンスタンド向けて撮ってメモしたい。

 旅籠「植木屋」の向かい側で目立つのは現金沢屋酒店だが、そこに旅籠「角田屋」金沢屋の案内が設置されている。更にその隣のお宅前には、旅籠「藤屋」の案内が設置されている。
 八丁目家主一欄を眺めると、「角田屋忠吉」とその隣の「藤屋与惣左衛門」が確認できる。
 この二つの情報は、重なりがあるのだろうと思われる。

 この事によって、気になっている「問屋場」と現在位置とのかかわりがイメージできるようになってくるのだ。
 旅籠「藤屋」の隣に「松野屋仙太」があって、その隣が「問屋場」という位置関係だからだ。

 今まで整理してきたことと重なる情報は、現金沢屋酒店の北側一軒挟んだお宅前の街路灯に「新中田屋」の看板が掲げられている事だ。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑲」で、八丁目小学校創立当初の職員を整理したが、その中の「山田きみ」さんの情報と重なる。

 情報を再掲する。
 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩でのかかわりから採用されたらしいとした。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだった。
 この情報を整理する時点で、本町新中田屋の位置は確認していないとしていたが、この辺りだということが分かったということだ。

 本町「新中田屋」の情報を続ければ、その主人伊藤銀治氏は、元丹羽家の下郡奉行をしていた方とのことで、その恩義を感じてきみさんをとても大切にされていたとのことだ。

 本町「新中田屋」の更に北側のお宅の門柱には「内科・産婦人科 菅野医院」が掲げられる。明治43年に開業され、後に村会議員や助役にもなられたという菅野重誠氏の情報との重なりを想像する。

 これ等の向かい側の並びに、先に「浅川、松川散策の写真メモから⑱」で整理した寺小屋情報と重なるお宅もイメージできそうだ。
 季節によって指導していたという本町「服部半兵衛」宅は、本陣のガソリンスタンドから三軒北側のお宅辺りでなかろうかと想像している。
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# by shingen1948 | 2017-12-12 10:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回整理でふれた旅籠「植木屋」だが、八丁目家主一欄には「植木屋文次郎」とある。この植木屋文次郎についての以下の八丁目文化情報がある。

 詩人植木鷗渓(植木屋文次郎)松川町本町植木屋茂平の長男。
 慶應元年生まれ、早くより田島敬久に師事し漢詩をよくした。漫遊日誌、伊勢参宮、西国三十三ケ所巡礼日記などに多くの詩を残した。いわゆる旦那芸ではなく実作者としての詩心があった。

a0087378_13273677.jpg この写真は、2009年の散策時に撮影したものだ。旧国道四号線と重なる大町通りを福島側から眺めている。

 右手に鉄の扉があってその先に蔵が写るが、多分、ここが八丁目家主一欄に名主杉内与三郎とある明治以降も代々松川村外4ケ村戸長でもあったお宅だろうと思う。屋号は穀屋とのこと。
 今回はここが名主杉内宅らしいと曖昧ながら言い切っているが、撮影時の散策ではそう言えるほどの自信もなかった。
 中町までの整理と違って位置情報としての側面だけではなさそうとのことで、より慎重になっていたこともある。

 その先のお宅が、検断問屋植木九郎右衛門家だった所らしい。
 半沢氏の歴史地図では「掲示板、高札事務所」とある。ここに高札があったのだろうと思う。名字は植木だが、屋号は大森屋だったらしい。
 福島に支店を設けて江戸福島間を往復していたという飛脚問屋島屋の中継地点として八丁目に文久元年大森屋が記録されているとのことだが、この情報とも重なるのだろうと想像する。これが明治4年まで続くそうだ。
 検断問屋植木九郎右衛門氏だが、その後の松川村積銭所・鉱業社など、金融関係などの実業関係にその名を記されるようだが、八丁目文化情報にも、その名を見かける。

 歌人植木高栄(九郎右衛門)字本町大森屋文吉の長男。
 最初西東弘栄の高弟であり、更に東都の大家黒田清綱に師事して歌道に精通しその秀歌は廔「庭たつみ」にあらわれた。口語歌人秀文の父。

 その口語歌人秀文氏については、次のように紹介される。

 植木秀文(文右衛門)明治39年6月10日生まれで、26歳の若さで亡くなった。
 没後学友たちによって短歌遺作集「赭土(あかつち)」が出版され、松川泉短歌会の同人によって歌碑が建てられた。
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# by shingen1948 | 2017-12-10 13:31 | ◎ 水 | Comments(0)
 2009年の散策時、本陣跡とされるガソリンスタンドとともに散策の目印としたのが、造り酒屋宅だ。
a0087378_85123.jpg ここは、福島市唯一の蔵元金水晶だが、全国新酒鑑評会で8年連続金賞を受賞しているとのことだが、最近、日本酒コンテスト「純米酒部門」で2年連続金賞を受賞したとの報を見た。
「福島・金水晶酒造店2年連続金賞 日本酒コンテスト『純米酒部門』【福島民友(2017/11/23)】」
 http://www.minyu-net.com/news/news/FM20171123-222394.php 

 この造り酒屋は、明治28年(1895)に金次郎氏が創業したとのことだが、これが八丁目家主一欄に描かれる「蝋燭屋金兵衛」の情報と重なる。

 八丁目文化情報を探ると、明治天皇御巡幸の折に和歌を献上したという斎藤健輔氏は、この蝋燭屋のご主人のようだ。2代目だろうか。歌人号は春連とのことだ。
 この情報を辿っていくと「蝋燭屋」は旅籠だったようだ。

 先に整理した西光寺住職平林宥京氏が、この蝋燭屋の斎藤春連氏や金沢屋の加藤忠兵衛氏と親交があり、毎日蝋燭屋や金沢屋などで入浴に行っていたとの情報とも整合性がとれる。
 最近、ここに旅籠「蝋燭屋」の案内板が設置されたようだが、この隣の薬局の次にも、旅籠「植木屋」の案内板が設置されている。

 更に隣の文具屋さんの南側に用水が走るが、八丁目家主一欄にも、この用水は描かれている。描かれる石橋などは見当たらないが、位置的には変わりはなさそうだ。

 少し周りが見えてくると、この用水も散策の目印になりそうであることに気づく。
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# by shingen1948 | 2017-12-06 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)