この現大原病院跡地付近散策中は、「福島日本基督教会百年史」の現大原病院あたりが小此木医院の位置とする情報を意識していた。
しかし、整理する段階で、小此木医院の位置はここではなさそうだと思えてきた。
それは「大原病院の沿革」の以下の説明だ。
大原病院は明治25年(1892)1月10日に大原氏と原氏が福島町通11丁目に共同開業し、明治29年(1896)には大原氏が独立して大原医院を開業するようになる。それが元小此木医士跡とする。その元小此木医士跡地は、福島町南裡2の4番地南裡師範学校前と説明される。
その後、明治31年(1898)4月1日に大原病院が現大町まちなかパーキング(大原総合病院旧病院跡地)に移転するという経緯のようなのだ。
それで、ここでは大原病院にかかわる情報を整理しておくことにした。
まずは移転先情報の確認。
明治31年(1898)4月1日に移転した地番は大町6の11とのことだ。この移転時期に最も近い手持ち資料が大正12年(1923)頃の地図なので、この地図を眺める。
自分が知っている元の大原病院というのは大原総合病院になってからなので、第一小学校北側全体だったというイメージだ。
しかし、この地図に記される大原病院は大町65番地だけに記される。そして、その西側に2つの地番があって、北側に4つの地番、東側に3つの地番がある。
その東側の3つの地番を詳しく眺めると、「ハトヤ食堂」「大和田会館」等が確認できる。
このちょっと後の昭和2年(1927)頃の地図も眺めてみる。
ここでは、大原医院は大町63番地だけに記される。
そして、その南側の大町60番地には、「伊狩洋服店」と「福島新聞」が確認できる。
自分が知っている元の大原病院は、この小さな病院から始まったということが分かる。
次に、共同開業したという原氏情報を確認する。
この方は、元福島藩の藩医だった方のようで、以下の情報が確認できる。
文政11年7月15日生まれで、江戸で林洞海(どうかい)にオランダ医学を学び、郷里に戻り藩医になったという。明治維新後は福島県立病院勤務をへて開業したという。
明治41年3月6日81歳で死去。
この中の「明治維新後は福島県立病院勤務」は「福島県立病院の前身福島病院」ということだろうか。
ここでの開業情報は、「大原病院の沿革」にある「明治25年(1892)1月10日に大原氏と原氏が福島町通11丁目に共同開業」と重なる情報だろうと思う。
そして、大原病院創業者大原一氏については以下の情報が確認できる。
文久3年(1863) 現いわき市遠野町上遠野の庄屋の分家に、山野福太郎として生まれる。少年期に医師を志し、仙台の第二高等中学校に進学。在学中から大原一を名乗った。
原有隣の長女いとと結婚。大原病院を開いた。
このことから、共同開業者原有隣氏は養父であることが分かる。
この情報で福島町とかかわるのは、「原有隣の長女いとと結婚し、大原医院を開く」ということだけだ。気になるのは原有隣の長女いとさんとつながる糸だ。
ここからは想像するしかないが、「少年期に医師を志し、仙台の第二高等中学校に進学」という情報がからむような気がする。
仙台の第二高等中学校は、明治20年(1887)4月第二高等中学校として仙台区に設立学校のようだが、本科・予科・予科補充科のほか医学部が設置されたようだ。その医学部は明治元年設立の仙台藩校「養賢堂」を源流とするのこと。
この学校が、福島医学校と無縁ではないようなのだ。
福島地域情報によれば、明治20年3月31日をもって廃校となる福島医学校の生徒は、同年8月仙台の第二高等中学校に医学部が附設されたため、ここに吸収されることになったということだ。
大原一氏が原有隣の長女と知り合うのは、この福島医学校、あるいは福島病院とのかかわりを介しているのではないかと勝手に思うのだが、どうだろうか。
この福島医学校や大原一氏の福島町での活躍時期の大原氏の年齢を羅列しておく。
明治14年(1881)福島医学校設立 18歳
明治20年(1887)福島医学校廃止、第二高等中学校に医学部附設設立 24歳
明治25年(1892)大原一氏と原有隣氏共同開院 29歳
明治29年(1896)には、大原氏独立医院開業 33歳
なお、原氏の子は大原氏にとって義理の兄弟になるのだが、その義兄原竜太氏は近代日本の肖像に紹介される9歳上の土木工学者で、5歳上の二男の隈川宗雄氏も、東大医学部生化学教室創設者として著名な方のようだ。