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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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この現大原病院跡地付近散策中は、「福島日本基督教会百年史」の現大原病院あたりが小此木医院の位置とする情報を意識していた。

散策地点確認散歩⑥ 現大原病院跡地_a0087378_08241327.jpg

しかし、整理する段階で、小此木医院の位置はここではなさそうだと思えてきた。

それは「大原病院の沿革」の以下の説明だ。


大原病院は明治25年(1892)1月10日に大原氏と原氏が福島町通11丁目に共同開業し、明治29(1896)には大原氏が独立して大原医院を開業するようになる。それが元小此木医士跡とする。その元小此木医士跡地は、福島町南裡2の4番地南裡師範学校前と説明される。

その後、明治31年(1898)4月1日に大原病院が現大町まちなかパーキング(大原総合病院旧病院跡地)に移転するという経緯のようなのだ。

それで、ここでは大原病院にかかわる情報を整理しておくことにした。

まずは移転先情報の確認。

明治31(1898)4月1日に移転した地番は大町611とのことだ。この移転時期に最も近い手持ち資料が大正12(1923)頃の地図なので、この地図を眺める。


自分が知っている元の大原病院というのは大原総合病院になってからなので、第一小学校北側全体だったというイメージだ。

しかし、この地図に記される大原病院は大町65番地だけに記される。そして、その西側に2つの地番があって、北側に4つの地番、東側に3つの地番がある。

その東側の3つの地番を詳しく眺めると、「ハトヤ食堂」「大和田会館」等が確認できる。

このちょっと後の昭和2(1927)頃の地図も眺めてみる。

ここでは、大原医院は大町63番地だけに記される。

そして、その南側の大町60番地には、「伊狩洋服店」と「福島新聞」が確認できる。

自分が知っている元の大原病院は、この小さな病院から始まったということが分かる。

次に、共同開業したという原氏情報を確認する。

この方は、元福島藩の藩医だった方のようで、以下の情報が確認できる。

文政11715日生まれで、江戸で林洞海(どうかい)オランダ医学を学び、郷里に戻り藩医になったという。明治維新後は福島県立病院勤務をへて開業したという。

明治413681歳で死去。

この中の「明治維新後は福島県立病院勤務」は「福島県立病院の前身福島病院」ということだろうか。

ここでの開業情報は、「大原病院の沿革」にある「明治25(1892)1月10日に大原氏と原氏が福島町通11丁目に共同開業」と重なる情報だろうと思う。


そして、大原病院創業者大原一氏ついては以下の情報が確認できる。

文久3年(1863) 現いわき市遠野町上遠野の庄屋の分家に、山野福太郎として生まれる。少年期に医師を志し、仙台の第二高等中学校に進学。在学中から大原一を名乗った。

原有隣の長女いとと結婚。大原病院を開いた。

このことから、共同開業者原有隣氏は養父であることが分かる。

この情報で福島町とかかわるのは、「原有隣の長女いとと結婚し、大原医院を開く」ということだけだ。気になるのは原有隣の長女いとさんとつながる糸だ。

ここからは想像するしかないが、「少年期に医師を志し、仙台の第二高等中学校に進学」という情報がからむような気がする。

仙台の第二高等中学校は、明治20(1887)4月第二高等中学校として仙台区に設立学校のようだが、本科・予科・予科補充科のほか医学部が設置されたようだ。その医学部は明治元年設立の仙台藩校「養賢堂」を源流とするのこと。

この学校が、福島医学校と無縁ではないようなのだ。

福島地域情報によれば、明治20年3月31日をもって廃校となる福島医学校の生徒は、同年8月仙台の第二高等中学校に医学部が附設されたため、ここに吸収されることになったということだ。

大原一氏が原有隣の長女と知り合うのは、この福島医学校、あるいは福島病院とのかかわりを介しているのではないかと勝手に思うのだが、どうだろうか。

この福島医学校や大原一氏の福島町での活躍時期の大原氏の年齢を羅列しておく。

明治14(1881)福島医学校設立 18

明治20(1887)福島医学校廃止、第二高等中学校に医学部附設設立 24

明治25(1892)大原一氏と原有隣氏共同開院 29

明治29(1896)には、大原氏独立医院開業 33

なお、原氏の子は大原氏にとって義理の兄弟になるのだが、その義兄原竜太氏は近代日本の肖像に紹介される9歳上の土木工学者で、5歳上の二男の隈川宗雄氏も、東大医学部生化学教室創設者として著名な方のようだ。


# by shingen1948 | 2024-03-28 08:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)


前回の整理で少し混乱しているのは、病院の位置を「福島町10丁目(現福島市杉妻町)の旧本陣安斎市郎右衛門宅」とする情報だ。

福島城下の本陣は、本町角の寺島源吉本陣問屋が現街中広場にあったはず。

その隣に黒沢脇本陣があり、もう一軒の安斎市郎右衛門脇本陣は上町庭坂口近くということだったはずだ。

 明治14年甚兵衛火事類焼報告書の地図を確認すると、日銀辺りが福島町9丁目で、庭坂口道の東側が福島町10丁目ということのようだ。

ここまでの情報と「福島町10丁目旧本陣安斎市郎右衛門宅までの情報とは矛盾ない。

少し変なのが、この庭坂口の位置は上町ではなく本町のはずということだ。少なくとも、これが現福島市杉妻町の位置になるということにはならない。

位置的なずれについては、二つの事が考えられる。

その一つは、仮福島病院が安斎市郎右衛門脇本陣の位置に建てられ、現福島市杉妻町の位置に移転したということだ。

もう一つが、福島町10丁目旧本陣安斎市郎右衛門の邸宅は、現福島市杉妻町の位置にあって、そこに仮福島病院が建てられたということだ。

今のところは後者だろうと推測して整理していることを付記しておく。

実は、次に「元二本松藩医小此木邸と大原病院」について整理したいのだが、その情報とも絡む。

大原病院創始者大原一氏が明治25(1892)1月10日に大原氏と原氏が共同開業したという医院は「福島町通11丁目」とのことなのだ。

甚兵衛火事類焼報告書の地図を確認すると、現本町の西側が福島町10丁目で、その東側が福島町11丁目と記されている。

とりあえず、そのあたりをイメージしながら整理を進めることにする。


≪2024/3月26日(火)付記≫

庭坂口近くの安斎市郎右衛門脇本陣は、少なくとも江戸期から明治初期にかけて上町であったと思われる資料を見た。

「奥州福島城下の形成(安田初雄)」だ。

ここに掲げられる「近世末の奥州福島城下(安田原図)」によると、本町の次は現大町も上町、現上町も上町と表記される。

また、「宝永3年福島城下大火事之図写」では現大町付近に「上町三丁四十六間」が表記され、現上町付近に「北南町三丁四拾二間」が表記されている。


# by shingen1948 | 2024-03-23 08:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「福島日本基督教会五十年史(昭和11年発行)」では小此木邸信六郎氏の長兄小此木利義氏は福島公立病院(当時県立)の医員と紹介される。

「二本松藩史」では、利義氏は明治初年に須賀川病院長と医学校長となり、その後福島病院長となったと紹介される。

これらは小此木邸が「福島署裏通り医大病院」あたりにあった訳が想像できる情報だ。

前回、小此木間雅氏をこの邸のあるじと想像したが、「二本松藩史」の情報によれば代替わりしていたようだ。


小此木邸間雅氏は明治2年には老を告げて隠居されているという。そして、明治5年312日に没し、その長子利義氏がその後を嗣いでいるとのこと。

さて、県立医大の直接の前身は昭和19年設立認可の福島女子医専とされるが、近代医学教育にかかわるもう一つの系譜がある。上記情報は、そのこととかかわる。

まずは、明治4(1871)に白河仮病院に医師の養成を目的に白河医術講義所が開設される。詳しくは複雑な経緯をたどるようだが、簡単に整理すると、白河医術講義所が移転して須賀川医学校となったということだ。これが出発点。

次に、明治13年にその学校が福島に移転し、明治14年に福島医学校となるという経緯となる。

その後、病院は三郡の組合立として残るが、学校の方は明治20年に廃止になってしまう。

小此木利義氏氏がこの地に邸を構えたのは、この病院と学校とのかかわりということになるようだ。

散策地点確認散歩⑤ 元二本松藩医小此木邸と福島病院・医学校_a0087378_06520368.jpg

その福島病院と学校があったところが、右手に写る現県庁駐車場辺りだろうか。「福島県立医科大学の歴史」では、その福島病院となる経緯を次のように記す。

福島県は県下の医療充実図るため、明治7(1874)7月福島町に出張病院を設け、福島支病院とした。病院には福島町10丁目(現福島市杉妻町)の旧本陣安斎市郎右衛門宅があてられた。

(中略)

明治10(1877)4月この支病院は福島県第一号支病院と改称され、更に同年5月須賀川出張福島病院と改められた。

そして、明治12(1879)には、須賀川病院、若松病院、平病院と共に独立し、福島県立福島病院になるとともに、それぞれに専任の病院長が置かれたとする。

同誌では、「福島医学校の開校」については、次のように記す。

須賀川医学校の福島移転が決定すると、福島病院の南隣に1834坪の敷地が確保され、校舎の新築工事が行われて、明治14(1881)8月には二階建ての豪奢な校舎が落成した。

(中略)

明治17(1884)5月、ついに甲種医学校に昇格した。

教員10人で校長兼教諭1名一等教諭1名、二等教諭1名の三人は医学士であり、医学生徒も60人に達していた。

この中から位置情報を拾えば、病院は「福島町10丁目(現福島市杉妻町)の旧本陣安斎市郎右衛門宅」で、医学校は「病院の南隣に1834坪の敷地」ということのようだ。


# by shingen1948 | 2024-03-21 06:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

 「福島日本基督教会」の福島の最初の受洗者は、後に耳鼻咽喉科の日本の権威となる小此木信六郎氏とのことだ。

 当時は東京医学校(現東京大学医学部)の学生だったようだ。

 「中原徳太郎・小此木信六郎・塩田広重・近藤達児の医学校の再建―日本医学専門学校から日本医科大学昇格までの困難な道程―唐沢信安【日本医学史学雑誌第43巻第2(平成9620日発行)】」ではこの「小此木信六郎略歴」を以下のように記す。

 万延元年36日福島県二本松藩の藩医小此木間雅の六男として生れた。

 信六郎は福島第一小学校より、須賀川医学校に学び、明治9年に上京して東京医学校(現東大医学部)予科に入学している。この時16歳。

 明治18年大桶みつと結婚。

 明治2178日帝国大学医科大学を中退ドイツ留学。

 チュービンゲン大学入学、明治24年卒ワーゲン・ハウゼン教授の下で学位論文をまとめてドクトル・メヂチーネの称号を得て、明治296月に8年間の留学を終えて帰国する。

ここでもう一つの注目はこの方が「二本松藩の藩医小此木間雅氏」のご子息ということだ。その小此木邸が船場町付近にあったということだ。

散策地点確認散歩⑤ 元二本松藩医小此木宅_a0087378_08383519.jpg


「福島日本基督教会五十年史(昭和11年発行)」の「福島伝道の初め」の項では「女子師範学校前近くに門構えの立派な家」とある。

「福島日本基督教会百年史」では、その位置を「現在の大町、福島署裏通り医大病院看護婦寮向かい」あたりとする。

「医大病院看護婦寮」の位置は確認できていないが、おおよそこの辺りと見当をつけてみた。

小此木信六郎氏が福島の最初の受洗者となる様子は、「福島でのキリスト教布教活動初期⑦(2023/5/17)」 で整理している。

 https://kazenoshin.exblog.jp/241806180/


この小此木邸のあるじ「二本松藩の藩医小此木間雅氏」も天然痘ワクチン接種の先駆者として地域の誇りとされる方のようだ。二本松の地方史家の方の「艮斎先生研究室」というブログに「種痘の先駆者小此木間雅(2021/12/23)」と紹介されている。

https://ameblo.jp/asakakunitsuko/entry-12716845001.html

そこに記される二本松大隣寺の顕彰碑紹介文をお借りする。

間雅は天保年間に江戸に遊学し、蘭方医坪井信道に学んだ。7年間研鑽して医術を極め、嘉永元年(1848)に帰藩した。この頃種痘術は、まだあまり行われなかった。間雅は早くから種痘の書物を入手し、その法を熟知して講義した。人は種痘術を疑った。そこで間雅再び江戸に行き、天然痘のワクチンを入手して帰った。45人に種痘を験(ため)して成功し、さらに種痘術を藩内に及ぼした。その後、天然痘の死者が無くなった。

なお、このブログでは、間雅の種痘が嘉永6年とされることに根拠はなく、嘉永元年(1848)の帰藩後直ぐのはずで、遅くとも2~3年後であろうことを主張されている。


# by shingen1948 | 2024-03-16 08:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)