地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 信氏は、会津中学に入るとボートに熱中するようだ。
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。

 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
a0087378_9154435.jpg 「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。

 ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
 この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
 これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
 野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
 明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。

 この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
 毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。

 ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
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# by shingen1948 | 2017-08-23 09:17 | Comments(0)
 これは、十六橋から猪苗代湖側を眺めた風景だ。
a0087378_13505975.jpg 正面の水路奥に見える橋が金の橋だと思う。
 「会高通史」に「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」にかかわって、次のように紹介される「昭和18年に十六橋反対側にできた新水路」とあるその水路だろうか。

 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」とある。

 その「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」は、この写真では右手西の影になっている日橋川本流の奥にあったようだ。街道筋としては、「街道Web」の「二本松裏街道戸ノ口→強清水」で、「向戸ノ口」と紹介される集落だ。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/08.htm
 ここには湖上水運の船宿が二軒あったそうで、大変賑わっていたのだそうだ。

 この事と、「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」がここに設置された事とがかかわっているのだろうと想像する。
 また、ボート部合宿の世話とこの二軒の船宿の情報もつながっているような気がする。
 「会高通史」によれば、ボート部顧問の小林氏が宿泊したのは、定宿「〇コ」五十嵐宅とのことだ。また、ボート部の宿泊の世話をしてくれたのが、「モンタ婆さん」とのことだが、この方の本名は、古川トラさんのようなので、「モンタ」は屋号なのかもしれないとも思う。

 位置的には、定宿「〇コ」が「会津中学校端艇部戸ノ口艇庫」の西向い、「モンタ」が艇庫の道を挟んだ南西側のお宅だろうか。
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# by shingen1948 | 2017-08-22 13:52 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として、資料をもとに長谷川信氏について確認している。この時に、会津に出かける時には、ぜひ長谷川信碑を訪ねてみたいものだと思っていた。

 今回、家族と一緒に会津若松市に出かけることになったので、向かう途中に立ち寄ろうと思った。家族には、出かける前にその概要を説明し、立ち寄りたい旨を話しておいた。

 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 今回は街道筋の散策ではないので、国道49号線を進んで日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入った。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開けてきて、その先に何かの記念碑が見える。
 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。恐らく、現在は戸口集落へ向かう主要な道筋はこちらなのだろうと思われる。
 その道筋を右折してやや進むと「長谷川信碑」が左手に見える。
a0087378_6455478.jpg

 長谷川信 碑 
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事
 だろうだがたった一つ出来る涙を
 流して祈る事だそれが国泰かれか
 親安かれか知らない祈ることなのだ
  大正十一年      会津若松市に生まれ
       四月十二日
  昭和二十年       沖縄南方上空に散る

 先にも記したように、最後の日付の表記は、4月12日が彼の生まれた日であり、そして亡くなった日でもあることを表現している。
 家人は誕生日と亡くなった日が同じことを示す最後の碑文に驚いていた。

 この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 先の整理では、当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地らしいとしたが、そうではないらしい。当初から湖が見える所には建てることができなかったらしい。ただ、彼の思い出の地近くにこの碑を建てることができたということのようだ。
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# by shingen1948 | 2017-08-21 06:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
「福島の野仏:松川の野仏③」で整理した庚申碑だが、刻まれているのを真言かもしれないとしたが、ひょっとすると文字塔なのかもしれない。

 松川の庚申塔情報を拾えば、旧松川小裏には、元禄10年(1697)造立「奉信庚申供養」の文字の下に三猿の庚申塔があるといい、宿地には正徳5年(1715)造立の「奉供養庚申塔 惣衆敬白」の文字塔があるという。字数的にはあいそうな感じがしないでもない。
 もし、こちらだとしても普段の散歩で見かけていないタイプの庚申碑だ。いつかの機会にこちらも確認してみたいものだとも思う。
a0087378_11304789.jpg こちらは、普段の散歩でも見かける「申」一字の庚申塔だ。
 先の「撮り溜めた写真から⑥~弁財天堂の石塔群から「申塔」 (笹谷熊野神社境内)」で確認した情報では、このタイプの庚申塔は会津地方では見かけず、中通りにしかないタイプとのことだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237090676/

 情報源の「会津キリシタン研究所」というブログでは、この申塔は会津にはないといい、この「申」はケルト十字ではないかとの推測を記していた。
 https://plaza.rakuten.co.jp/aizukirishitan/diary/201311270001/

 野仏を確認するのにいつも参考にさせてもらっている「野仏の見方(外山晴彦)」の「野仏見分け表」の「庚申塔」にかかわる個別の紹介まで確認したが、そこには紹介されていないタイプだった。

 一般的な「庚申塔」ではなさそうだとは思ったが、とりあえず「庚申塔」とのかかわりで眺めていくとしたものだ。それが、松川にもあったということだ。

 松川にかかわる資料の中に、江戸中期以降「庚申」と「猿田彦大神」との習合の痕跡が紹介されているのを見つけたが、このこととかかわるのかもしれないとも思った。
 金谷川古浅川の庚申講では猿田彦の掛け軸を掛けて執り行うのだそうだ。また、松川駅前には昭和3年造立の猿田彦庚申が建っているとのことだ。
 
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# by shingen1948 | 2017-08-18 11:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)