地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 現福島市南体育館は、旧金谷川小学校跡地とされるようだ。
a0087378_1182750.jpg その入り口の南側の草地に金谷川村道路元標が建つ。ここの現地名は字笠松のようだが、大正時代の字幸道30の位置なのかもしれない。というのは、現福島市南体育館は字笠松だが、金谷川小学校の沿革を確認すると、旧金谷川小学校も字幸道になっているからだ。
 多少の移動があったのかどうかは分からないが、ほぼ現在の位置だったのではないかと想像する。

 金谷川小学校だが、細かい変遷を省略すれば、明治22年(1889)4月に浅川・金沢・関谷の三村合併で金谷川村となった事に伴ってできた小学校だが、ここに新築されるのは明治44年(1911)5月だ。
 この時点で、浅川村・浅川新町と関谷村は学区統合されていたが、金沢学区は、まだ第二学区として独立していたようだ。
 その金沢学区も統合されるのは昭和18年(1943)になってからのようだ。
 なお、昭和22年(1947)には、金谷川中学校が併設されるということのようだ。

 金谷川小学校を旧浅川村の視点から眺めれば次のような経緯になるようだ。「金谷川のむかし今」の学校の沿革より、要点を抜き書きさせていただく。

 浅川小学校は、明治6年(1873)5月字宮本の黒沼神社神官宅を借り受け八丁目支校として創立。(浅川新町が、清水村と学区合併で神興寺本堂を仮校舎としたことについては、先の清水村散策時に確認している)
 明治7年(1874)11月浅川小学校(八丁目小学校支校)が、字舘斎藤某宅に移るとある。ただ、浅川小学校と金沢小学校の創立は、文部省年俸では明治8年(1875)創立になっているという。
 明治9年(1876)6月に浅川村と浅川新町が合併して浅川村となり、10月には学区改正で校舎を字羽山岳2番地に新築して八丁目小学校から分離独立して浅川小学校になる。
 これが、「信達二郡村誌」に記される浅川小学校ということのようだ。

 明治22年(1889)4月浅川・金沢・関谷の三村合併で金谷川村となり、金谷川村浅川尋常小学校となる。
 明治25年(1892)4月には関谷分教室廃止統合し、明治32年(1899)金沢村を第二学区とする。
 明治44年(1911)5月に本校舎を新築する。
 昭和18年(1943)浅川金沢学区統合
 昭和22年(1947)金谷川中学校併設
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by shingen1948 | 2017-10-31 11:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回、阿武隈川沿いの示現(慈現)太郎神社から浅川沿いに、浅川黒沼神社を経由して、船橋観音堂から宇佐八幡社まで整理してきた。
 途中、小さなかかわりから脱線しながら整理してきたが、大きく脱線したのは宇都宮の信仰とのかかわりで、柳田国男ワールドの「神を助けた話(柳田国男)」の入り口まで飛んでしまった。

 この散策とかかわらせたいことが、もう一つある。
 それは、小林氏が紀行された地元誌に寄稿された説をもとに散策した奥大道と奥州合戦石那坂防御ラインとのかかわりだ。
 この小林氏の奥州合戦石那坂防御ラインは郷土史の主流ではなさそうだが、興味を持ったのは、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>を読んだのが、そのきっかけだ。 ここでは、この小林氏の説に合理性があるとみているようだったのだ。
a0087378_922436.jpg これは、小林氏が地元の歴史愛好会の雑誌に自説を寄稿した時の資料として示された石那坂合戦防御ライン部分に、今回の浅川沿いの散策を重ねてみた図だ。
 浅川は、鏡渕から舟橋観音堂と舟橋集落の高まりの間を通って、散策してきた道を超えて北東に流れて行く。
 今回、黒沼神社からその浅川沿いの道筋から、浅川を用水路として開発された耕地を意識しながら散策してきた。
 石那坂合戦防御ラインは、その後方の集落のある高まりに沿っているという事だ。
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by shingen1948 | 2017-10-29 09:23 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 半沢氏の「歴史地図」に案内された「和算額」を確認することで、金谷川村の最上流宗統派の和算に辿り着いたところだが、「信夫新西国三十三観音第十六番札所」については確認できていない。
 手持ち資料では、信夫新西国三十三観音第十六番札所は、松川町諏訪山の常光寺で、今回は立ち寄らなかった浅川平石の観音堂が第十七番札所だとされている。
 変更なのか、常光寺とかかわるという事なのかは今のところ分からない。

 「線刻三十三観音群」も見つからない。
 ただ、こちらは浅川平石の浅川観世音ではないのかなとも思っている。というのは、「松川町之文化財」に、この「御堂の後方小高き丘には、西国三十三観音の石仏多数ある」と紹介されているという情報があるからだ。

 今回の散策は、宇佐八幡神社までの確認にする。
 散策時に自然に撮っていた写真は、鳥居と平成5年に改築されたという白木の社だ。
 散策時の手持ち情報は「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」の以下の紹介だった。

 「御本社は大分県の宇佐八幡宮祭神は誉田別名息長足彦命・息長足姫命=神功皇后=応神天皇の母、勧進は慶長14年(1609)に分霊された記録が宇佐八幡宮に残されています。東北で宇佐を名乗る八幡神社はあまりみられません」
a0087378_11254646.jpg しかし、今回の整理には中を覗かせていただいたこちらの写真を使う。
 整理する中で、半沢氏の「歴史地図」にある「文化2年(1805)本殿の彫刻に外社」という情報を得たからだ。
 「松川町之文化財」には、「文化2年(1805)8月14日再建する。本殿の彫刻は稀にみる傑作品といわれる。永年に亘り、風雨にさらされていたが、その後毀損を恐れ、有志相寄り本殿に外社を設け、永くその彫刻、その他の傑作の保存管理運営に勤めている」とあるようだ。
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by shingen1948 | 2017-10-27 11:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 船橋観音堂は、黒沼神社同様開放的な管理なので、案内にあった「船橋十一面正観世音」も見ることができた。しかし、半沢氏の「歴史地図」に案内された「和算額」は見逃した。
 軽くそう思っただけだったが、確認してみると、この見逃しは黒沼神社の和算額の見逃しと共に結構大きいかもしれないとも思えてきた。

 「金谷川のむかしと今」の地元年表を確認すると、この明治2年の和算額については、「最上流四伝丹治明斉門人が眩斎尾形貞蔵額を奉納」とある。半沢氏の「歴史地図」の案内と重なる。
 また、「金谷川の私塾」の項には、最上流和算の金谷川関係者として、以下の三氏が紹介される。

 〇 丹治明斉は天保7年(1836)金沢村生74歳で没門弟1000人。御山黒沼神社(安政7年1860)、立子山篠葉沢稲荷神社(明治24年)他神社名不明2面
 〇 尾形曠斎は天保6年(1835)浅川村生大正7年(1918)84歳没門弟44人。浅川観音堂(明治2年1869)、浅川黒沼神社(明治25年1892)、黒岩虚空蔵堂(明治26年1893)、木幡弁財天、立子山稲荷神社。
 〇 長沢保斎は嘉永元年(1848)浅川村生大正11年(1922)没門弟55人。立子山篠葉沢稲荷神社、浅川黒沼神社

 「最上流宗統派の系譜」の解説とも照らし合わせてみると、その後半に渡辺一より三伝の算法印可を受けた二本松藩の完戸政彝(まさつね)の門弟、下川崎の野地弥源太豊成、金沢村の丹治重治が紹介される。
 この丹治重治氏が、上記「丹治明斉」氏という事のようだ。
 氏が安政4年(1857)に四伝の算法印可を受け、明治17年(1884)に丹治明斉氏の門弟だった上記浅川村舩橋の「尾形曠斎」が五伝の算法印可を受け、明治38年(1905)に上記浅川村下中沢の「長沢保斎」が六伝の算法印可を受けたとのことだ。系譜が金谷川地域でつながっている。
 その後、杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が七伝となったが、後継者なく最上流が途絶えたとのことだ。

 つまり、この地の和算は、二本松藩の最上流宗統派の系譜を引き継いで栄えたということのようなのだ。
 その二本松藩の最上流宗統派の系譜は、次のように解説される。

 最上流元祖合田安明は延享4年(1747)山形生文化14年(1817)没とのこと。
 その合田安明氏が、出身地最上国山形に帰郷の際、土湯に立ち寄り、速算という評判の渡辺一に難問を提示したのだとか。一氏は即座に十一乗式の解を示したが、安明氏は直ちにもっと明快な三乗式の解を示したという。
 それで、一氏は安明氏の門人となり、江戸で十余年の指導を受けて寛政6年(1794)12月に、算法印可を受けて二本松に帰り藩士になり、敬学館で数学を教授していたとのことだ。
 その門人が、先の三伝の算法印可を受けた二本松藩の完戸政彝(まさつね)とのことだ。
 ここまでが二本松城下の話で、最上流宗統派はここから先、この金谷川地域に伝授されていったということのようだ。

 県内の和算二大拠点地が、ここと最上流佐久間派の三春藩ということなそうだ。
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by shingen1948 | 2017-10-26 15:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「福島市史」では、「浅川村」について次のように紹介する。
 「浅川村の起こりは5軒在家で古浅川村と呼ばれ、沢の深い中沢屋敷・黒沼神社を勧進した宮屋敷・尾形和泉の中屋敷・黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)と古浅川屋敷からなっていたという」
a0087378_923892.jpg その黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)に建つこの「船橋観音堂」は、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「船橋十一面正観世音」だと思う。
 ここでは「正保4年(1647)尾形若狭創建と伝えられる」とある。

 「金谷川のむかしと今」によれば、最初創建されたのは集会所前の小高い丘の字観音社で、この地に移転するのは享保12末年(1727)9月との言い伝えもあるのだとか。
 この言い伝えに従えば、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「正保4年(1647)尾形若狭創建」は、字観音社の地ということだろうか。

 確認はできていないが、境内に定心法師の石碑があり、天文2年(1533)巳年と記されるという。 以下の即身仏にかかわりそうな話も紹介されるが、この法師との年代は合わない。
 桜町天皇の時代(1735~1746)の頃、大日如来を背負った老法師が行き倒れたと。
集落では、食物や衣類等を与えていたが、回復の兆しも見えず、死にもせずの状態なので、法師の穴を掘り、頭に鍋をかぶせて生き埋めにした。

 半沢氏の「歴史地図」には、「信夫新西国三十三観音第十六番札所」「線刻三十三観音群」「明治2年の和算額(最上流宋流派5代尾形貞蔵・英悦・眩斎)天保6年(1835)~大正7年(1918)84歳没」が紹介される。
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by shingen1948 | 2017-10-25 09:24 | Comments(0)
 浅川沿いの道筋に沿って散策をしてきたが、黒沼神社辺りから浅川村の原風景のようなものを感じてきている。
 それは、「浅川」という水系にかかわって開けた耕地があって、その高地に集落があるという山村集落特有の特徴で、その集落と集落を結ぶ道に沿って散策しているという事だ。

 舟橋地区も同じような感じなのだが、「船橋観音堂」が案内される地点は、その浅川と集落を結ぶ道筋がクロスする。
a0087378_9141359.jpg この写真は、「船橋観音堂」が建つ丘を意識して撮っているが、ここは浅川が舟橋集落の高地と船橋観音堂が建つ丘の間を流れ出す地点だということだ。
 この先の浅川がその舟橋集落を回り込み始める付近が「鏡淵」ということで、そこは浅川村と関谷村との村界にもなっている。
 その「鏡淵」にかかわって次のような伝説が伝承されているという。

 その昔、安達から信夫にきた嫁が不縁になって、昔の米沢街道を泣く泣く実家に帰る途中、浅川の上流の関谷の八幡橋まで来て立ち止まり、がっかりして川の面を眺めた。それで、この橋をがっかり橋と呼ぶ。
 そして、嫁は「もうこんな鏡などいるもんか」と川に鏡を投げ捨てた。この鏡が流れ着いたのが、鏡淵であると言う。
 更に、帰る途中不縁になった怒りで、大きな石を重ね上げた。これが「重ね石」で、この三か所は、今でも花嫁の通らぬタブーの場所になっている。

 浅川村の浅川のスタート地点は鏡淵だが、ここから先に関川村の水路が続いている。がっかり橋は、その水路に架かる「関谷の八幡橋」という橋のようだ。
 その橋はよく分からないのだが、文意から旧米沢街道がこの浅川の先の水路とクロスする地点だろうと思われる。半沢氏の「歴史地図」と照らし合わせれば、先に整理したことのある「高鳥谷薬師堂」前の道筋辺りに架かる橋だろうと想像する。
 ここで流した鏡が、水路が回り込む鏡淵まで流れ着いてひっかかったというイメージかな。
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by shingen1948 | 2017-10-24 09:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 明治19年に、計画されていたルートは、平石トンネルから陸羽街道に沿う形で、関谷字清水―浅川村字市ノ沢を経由して松川町街の西方に出て、菅良神社西方に松川駅が設置されるということだったようだ。
 それが、松川町の鉄道回避の問題が起きて、地元の了解を得ることができずに現金谷川駅付近でかなり迂回する路線を通して、松川町街東方2.2㎞に松川駅を付設するということになったとのことである。
 魔の踏切と恐れられたとされる舟橋踏切、割石踏切の誕生は、その迂回に伴って必然的に派生したものと想像できる。

 地域の年表から東北本線にかかわる他の項目を抜き書きしてみると以下のようだ。

 明治42年に、金谷川駅が新設される
 昭和35年東北本線白川福島間が電化される。
 昭和36年東北本線金谷川永井川間が複線化される。
 昭和38年東北本線金谷川松川間が複線化される。
 昭和39年東北本線上野福島間の複線化が完成する。

 「貫通記念碑」にある「複線化の実現を見るに当たり」というのは、「昭和38年東北本線金谷川松川間が複線化される」という項を指しているのだろうと思われる。
 また、以下の村の変遷経緯から、ここでいう「町当局」及び「町議会」は、昭和30年に新しく4町村が合併して誕生した「松川町」を指していると思われる。

 浅川村は、明治21年に公布された市政町村制に基づいて、明治22年に金沢村と関谷村と合併し、金谷川村となる。
 その金谷川村は、昭和30年に松川町、水原村、下川崎村の一部と合併し、新「松川町」となる。

 新旧の違いはあるが、大きく迂回する路線にせざるをえなかったのは「松川町」の対応のためだが、その派生した問題を「松川町」が解決するために対応したことが称賛されている。
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by shingen1948 | 2017-10-23 17:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「船橋観音堂」をめざす途中に「船橋集会所」がみつかり、ほっとする。
a0087378_6515339.jpg 「船橋観音堂」をめざす主目的は、黒沼とされる「船橋」の風景を確かめたいということだからだ。「船橋観音堂」をめざすのは、「船橋」に辿り着く手段という側面でもあったのだ。

 「『浅川黒沼神社』と示現(慈現)太郎神社④」で記したように、現「船橋」付近を黒沼とみて、物語をイメージするらしいということだ。
 「信達二郡村誌」に「「黒沼は大なる沼にして舩橋を架し通行せし故 其地を今舩橋屋敷と称す云伝ふ」とある。そして、その「船橋」には、尾形若狭創建の「船橋観音堂」が建っているとのことだ。
 つまり、「船橋」というのは、黒沼は大なる沼だったので舩橋を架し通行したからついた地区名だというイメージだ。

 集会所前に「貫通記念碑」なる石碑が建っている。
 読んでみる。
 「貫通記念碑」

 「舟橋踏切は視界距離極短のうえ 道路は急勾配のため 魔の踏切と恐れられていた 最近列車の増発に伴い人命の危険を憂慮し 地域住民は一丸となって この対策を考慮中 複線化の実現を見るに当たり 立体交差期成同盟委員会を組織し 渡辺億之介 尾形清三郎の正副委員長を代表として 町当局に請願した 町当局においても この重大性を理解され 町議会の協賛を得て 国鉄に立体交差を強く陳情したが 走行中の線路下を堀抜く難工事のうえ 複線化の付帯工事でないとの理由から困難を極めた
このときに当たり 町議会議長菅野松元氏は 交通の安全と将来の自立発展を念願する 地域住民積年の創意を尊重され 町一体の援助と国鉄との折衝に専心尽力の結果 立体交差は実現した
ここに 氏の功績と地域住民の努力を 後世に伝えるものである
                                    石川太市書


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by shingen1948 | 2017-10-22 09:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 比丘尼石と薬師堂を、地域の人々の心のよりどころとしての風景として眺める。
a0087378_11533996.jpg 「心の文化財」に、薬師堂の後ろの岩が二つに割れているので「われめの女石」とも言われているとの解説がある。それを意識して撮ったのがこれだ。
 ここに立ち寄った事がある者には、この撮影時には昨日整理の岩を背にしているということが分かる。その背にした岩の上部には「山神」の石塔が建っている。
 写りこんでいる薬師堂は、その二つの巨岩に挟まれているということだ。

 「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」に「胎内に摸しての信仰もあります」とあるように薬師堂前では、包み込まれている感覚になる。「巨岩には神が宿るというイワクラ信仰のなごりもあります」との解説にも納得。

 「比丘尼がそこに住み着いたことから比丘尼石の名がついたといわれています」とあるので、その「比丘尼」を確認する。

 仏教の男性出家修行者を比丘というのに対して、女性の出家修行者を「比丘尼」と呼称するということだ。
 日本における記録上最初の比丘尼は、善信尼(ぜんしんに)と称した司馬達等の娘なそうだ。
 奈良・平安時代にも尼の存在は認められるが、一定の地位が築かれるのは鎌倉時代になって尼門跡寺ができるようになってからなのだとか。
 これとは別に、熊野比丘尼に代表される諸国を遊行する比丘尼がいたという。尼形の巫女で祈祷や託宣を業とするものもあり、近世の歌比丘尼や、遊女にまで転落した売比丘尼はそうした流れをくむといわれているのだとか。(日本大百科全書解説より)

 イメージ的には、住み着かれたという比丘尼は、諸国を遊行する比丘尼で、巫女で祈祷や託宣を業としていたという感じかな。
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by shingen1948 | 2017-10-20 11:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10543440.jpg これは、比丘尼石の薬師堂の手前の岩だ。「心の文化財」によると薬師堂の後ろの岩は二つに割れているので「われめの女石」とも言われているのだとか。

 「金谷川のむかしと今」では、この比丘尼石の薬師堂の地区を浅川字舘とし、この少し南にいったところに案内される浅川正観世音の地区が浅川字平石とされるが、半沢氏の「歴史地図」では、ここも平石地区の薬師堂としている。

 八丁目宿「眼鏡橋」について整理した時に、その石材を切り出した場所が、比丘尼石だと言われていることについては「奥州街道:八丁目宿『眼鏡橋』のある風景⑤」でふれている。 
 その時には、案内板の解説に従って浅川町五斗内の薬師堂付近とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237484884/

 眼鏡橋(松川橋)建設に伴うここからの石材運搬作業は、県に「松川村の780人の人夫寄付」するという形で進められたようだった。
 その為に、松川村ではこの石材の運搬作業に各戸2~3人の役夫を科したとのことだ。その住人たちが、大八車に積んで工事現場まで運んだとのことだ。
 そのルートの想像だが、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で案内されるコースが似合っているように思う。
 ここから「浅川正観世音」前を経由し、「石森公園」前、あるいは「成田不動尊」前の道筋から旧奥州街道に出たのではないのかなと想像する。

 なお、最近の「松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏」の話に、「石は、福島市御山の北を流れる松川に架けるために切り出したが、橋を架ける必要がなくなったので譲受けた」とのことだったとあることも付け加えておく。
 
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by shingen1948 | 2017-10-19 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)