地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 浅川にはこんな言い伝えがあるのだそうだ。

 「信夫湖の大蛇は日本武尊によって退治されたが、欽明天皇の時代に、この湖には水熊というものが住み籠って人民を悩ましていた。
 渟仲倉太珠敷命がこの事を聞いて、猿跳という処を切り開いて、湖の水を抜いて干潟にし、大熊川の川筋を攻め上った。そして、水の浅い所に寄せて大水熊を退治したので「浅川」と名付けた」
a0087378_520191.jpg 浅川黒沼神社の由来で、渟仲倉太珠敷命が退治したのは「大熊」で、狛熊も奉納されているようだ。
 伝承では「大水熊」とされるので、微妙な違いがあるようだ。
 しかし、渟仲倉太珠敷命が退治したという大熊も信夫湖に住むとのことなので、この伝承とかかわるのだろうと想像する。

 石姫命にかかわる部分については、パンフレットにある浅川黒沼神社由来では「石姫命は、息子の亡くなられたとの報を聞き、嘆きのあまり黒沼に身を投じられた」とされるだけだ。
 そこを、言い伝えの方は次のように続くようだ。

 「供奉の健・夜・依・米等四人はこれを悲しみ、黒沼・赤沼を巡見したところ、古浅川の慈現明神のお告げに、「彼の地の大岩を切り開けば、黒沼・赤沼の水は大熊川へ流れ込み、たちまち干潟になるであろう」とあったのでその通りにした。
 湖は干潟となり、姫の尊体が現れ、この地は広大肥沃な用地と仮し、ここに人を移して村を作った」

 ネットで紹介される浅川黒沼神社の由来は、この言い伝えも加えたということなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-09-30 05:22 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「松川の今昔」以外に示現(慈現)太郎神社が紹介される地元の散歩資料を見かけない。
 ただ、「浅川黒沼神社」の紹介の中に、この示現(慈現)太郎神社にふれた箇所があるのを見た事がある。

 その「浅川黒沼神社」が鎮座するのは、上蓬莱橋から古浅川の前の通りが、4号国道バイパスをくぐって少し西に進んだ右手辺りだ。その道筋の北側を走るこの道の旧道らしい雰囲気の道筋があるのだが、その道筋に面して神社への階段がある。
a0087378_8584672.jpg この神社、「信達二郡村誌」では「中部木戸前羽山の腰に鎮座す」「石比売命・渟中倉太玉敷命を祭る」と紹介されている。

 この「浅川黒沼神社」は、信夫山の黒沼神社や金沢の黒沼神社と共に、「延喜式神名帳」にある「黒沼神社(陸奥国・信夫郡)」に比定される式内社だとする。
 黒沼神社にかかわる伝承の大筋は、欽明天皇の皇后である石姫命が、皇子である渟倉太命の後を追って陸奥国に下向するが、当地で崩御するという設定だが、ネットで紹介されているのは次のようだ。
(【神社と古事記「福島県の神社」】http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1037860714.html)
 「欽明天皇の皇子・渟仲倉太珠敷命が東国の不穏を鎮めるため、当地へ行幸し、信夫湖に住む大熊を退治したが、疲労困憊し崩御したと噂が流れ、それを聞いた母・石姫は嘆きのあまり黒沼に身を投げた。

 供奉の健夜依米主従の四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見。古浅川の自現明神のお告げにより、大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めたという。後、欽明天皇の奉聞および地名にちなんで黒沼大明神として祀ったという。」

 その情報の出どころは知らないが、今回の散策とかかわるのは、後半の話だ。
 「大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、干潟となして石姫を埋めた」のは、古浅川の自現明神のお告げによっているということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-29 09:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 地図では分断される道筋が、実際にはつながり合っている。
 羽山から真っ直ぐ下ってくる道筋は、東に回り込んだ「浅川」沿いの道筋に繋がり、その道筋は「中沢渠」沿いの道筋に繋がる。
a0087378_5244575.jpg そして、その道筋は「浅川」にかかるこの橋を渡って、地図に描かれる川向の道筋に繋がっているようだ。この辺りは「浅川」が旧村境になっているようなので、川向うに見える民家は、旧金沢村になるのだろうと思う。
 この道筋が公道なのかその民家の私道なのかは分からない。

 今回ここを訪ねるのに使った道筋は、この道筋ではない。
 古浅川から私道と思われる道筋の脇から下る道筋だ。その道筋の入り口部分は分かりにくいのだが、結構整備された道筋だった。
 なお、この「古浅川」というのは、「信達二郡村誌」によれば「今東部の古浅川は本村(旧浅川村)を開くとき最初に開拓せし地なりと云伝ふ」地域とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-09-28 09:23 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 昨日は、羽山神社が鎮座する地点から案内される道筋ではなく、真っ直ぐ下ってくる道筋を想像した。
a0087378_9195114.jpg ここは、北進してきた「浅川」が東に回り込んで村上山麓を東進する地点だ。下方に写るのがその「浅川」だ。
 昨日想像した道筋は、この写真の左上から来る道筋と繋がっているのだと思う。そして、その「浅川」沿いの道筋に沿って今回行止まった橋を渡ると、「中沢渠」沿いの道筋に繋がるという事のようだ。

 地図にはどの道筋も分断されているように描かれているのだが、実際にはそれぞれの道筋は互いに自然につながり合っていることが分かる。
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by shingen1948 | 2017-09-26 09:20 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 今回行き止まったのは、その「中沢渠」が「浅川」に流れ込む地点にかかる橋の上ということだ。
 「浅川」は、ここから東進して阿武隈川に注いでいるはずだ。
 その「浅川」が阿武隈川に注ぎ込んだ辺りから下流が「阿武隈峡」として福島県指定名勝及び天然記念物として指定されているようだ。
 その案内板は、前回「村上山」でないのかなととした眼前の高まりの上部にある。
a0087378_9163995.jpg この地点は、古浅川地域にとっての原風景としては羽山に相当するのだろうと思う。というのは、近くに羽山神社が鎮座するのだ。
 その羽山の峰沿いにこちらに下って来る地点にその案内板は建ち、その風景については、次のように解説される。
 「栃木との県境、甲子山中を水源とし、宮城県荒浜を河口とする阿武隈川は、この地域の花崗岩の岩盤を長年にわたって浸食作用を続け、特異な峡谷をつくりあげた。この全国でもまれな風景の峡谷を「阿武隈峡」といい、約4㎞の区域を福島県の名勝及び天然記念物に指定している。
(中略)
 「阿武隈峡」は甌穴(急流の河床の岩石面に生じる鍋状の穴)の数が多いこと、転石の雄大な事において特異な地位をしめ、蛇骨岩・蓬莱岩・体内くぐり・地獄釜・鮎滝などは、その代表的なものである。
 鮎滝は遡上する鮎の群が急湍<きゅうたん>(流れの速い浅瀬)を飛び越える景観によって付けられた名である。
 (この付近はマムシの棲息地との注意書きが付記される)」

 案内される道筋は、最初の分岐点から左側に下りていくように案内されるのだが、そこを真っ直ぐ下って来るとこの地点に着くという位置関係だ。
 つまり、「示現(慈現)太郎神社」が建つ位置からは「阿武隈峡」の風景は直接的に見ることはできないのだが、そんな原風景も包み込んでいるということだ。
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by shingen1948 | 2017-09-25 09:18 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 方向音痴であり、しかもいろいろなところからここに辿り着く道筋を確かめた事もあって、辿り着いたこの位置を確認しないと立ち位置が安定しない。
 「ここはどこ?」ということだ。

 確実な事は、ここは北進してきた「浅川」が東に回り込む地点であるということだ。「浅川」は、ここから東進し阿武隈川に注いでいるはずだ。
 ここには、北から流れてくる渠の水が、その東に回り込む「浅川」に注いでいる。

 いろいろ確認して分かったのが、この渠が「中沢渠」らしいということだ。
 そして、今回行き止まった地点は、その「中沢渠」が「浅川」に流れ込む地点にかかる橋の上ということだ。
a0087378_1022590.jpg これは福島県立医科大学の光が丘の東側の溜池の一つだが、福島県立医科大学の光が丘の北側の窪地からこの辺りにかけて沢山の溜池がある。この溜池群がこの「中沢渠」の水源地になっているようだ。

 「信達二郡村誌」浅川村の川の項には、この「中沢渠」について次のように紹介されている。
 「中沢渠:東部道坂に起こり(沢水を源とす)東南流し壷根淵に至って浅川に入る。長15町7間、巾4尺、田7町2段13歩に漑く」

 「東部道坂に起こり」とのことであり、地図上からも写真のような沢水を源とした溜池群がこの渠の水源地なのだろうと思われる。

 「信達二郡村誌」浅川村の川の項から「浅川」のこの地点の紹介部を確認すると「東流し村上山の南麓に至り逢隈川に注ぐ」とある。
 「地図で確認する限りでは、眼前の高まりは福島県立医科大学の光が丘の高まりと「中沢渠」の流れる窪地を挟んで対峙する蓬莱団地側の高まりが舌状に延びている地形にしか見えないが、「村上山の南麓に至り逢隈川に注ぐ」とのことなので、この高まりを「村上山」とみているのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2017-09-24 10:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 柳田国男の世界にふれようとして示現(慈現)太郎神社を訪ねた。
a0087378_1032396.jpg どうにか見つけた示現(慈現)太郎神社へ続く道筋だったが、御覧の通り、残念ながら最終的に断念せざるを得なかった。
 この道筋の先が、示現(慈現)太郎神社が鎮座する浅川字壷根沢なのだと思う。その雰囲気は、周りの風景からも感じることができる。

 「松川の今昔」によると、浅川最古の神社と伝えられ、祭神は事代命で、天安2年(858)寅三月、下野国(現栃木県)二荒神社に飛び移ったとされるとのことだ。
 ここは、古浅川村の草分け在家の一つ浅川屋敷の近くというのも一つの見え方のようだ。
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by shingen1948 | 2017-09-23 10:33 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
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by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(2)
 「戦争経験を聴く会語る会」に参加された方の講演メモから、信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要部分をお借りする。

 特攻4隊は昭和20年(1945)2月10日満州新京(現・吉林省長春)で以下の特攻隊四隊が編成される。この中の誠第三十一飛行隊(武揚隊)が、長谷川信氏が所属する隊だ。
 〇 武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 15名 機種・一式戦
 〇 扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 15名 機種・九七戦

 武揚隊=と号第三十一飛行隊には、以下の15名が所属する。

 山本  薫  中尉 23歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和20年5月13日 徳島
 五十嵐 栄  少尉 24歳 特操一期  特攻戦死 昭和20年5月13日 山形
 柄澤甲子夫  伍長 21歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月13日 長野
 高畑 保雄  少尉 22歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年5月17日 大阪
 五来 末義  軍曹 19歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月17日 茨城
 長谷部良平  伍長 18歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和20年5月22日 岐阜
 藤井 清美  少尉 24歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年7月19日 京都
 長谷川 信  少尉 22歳 特操二期  戦死   昭和20年4月12日 福島
 西尾 勇助  軍曹 20歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 千葉
 海老根重信  伍長 19歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 茨城
 飯沼 芳雄  伍長 19歳 少飛十四期 戦死   昭和20年7月19日 長野
 中村 欽男  少尉     幹候    生還
 力石 文夫  少尉     特操二期  生還
 吉原  香  軍曹     航養十四期 生還
 春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

「会津の「わたつみのこえ」を聞く32」でふれたように、ここで力石文夫氏とされる生還者は、「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏とされる方と同じ方だろうと思われる。
 また、ここで中村欽男氏とされる生還者は、「明治学院百年史」の中村メモ者である「中村敏男(大分県在住)」氏だと思われる。この方は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23904097/

 「会津の「わたつみのこえ」を聞く36」で最終的に確認したように、長谷川信氏の菩提寺に奥さんと尋ねて来た方は、生還者の吉原香軍曹(茨城県出身)だと思われる。
 この方は、済州島へ飛来した時点で機が不調を起こして不時着したとのことだ。この時に怪我を負ったようだ。
 この方は、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報とつながる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとあるその「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23913509/
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by shingen1948 | 2017-09-19 10:15 | ブロクとわたし | Comments(0)
 「会津へ『わたつみのこえ』を聞きにいく⑯:戸ノ口の風景とその変遷⑥」で記したように、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さったのは木村健氏だ。
 その木村氏が、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報やNHKラジオ深夜便出演を機に得た人脈を通して信氏の所属部隊の様子や信氏の最後の状況に至る経緯にかかわる径なども明らかになってきたようだ。その冊子が近々出版されるとのことだった。

 それが、「Web東京荏原都市物語資料館」のページを確認したら、「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」と題して出版されたようだった。

a0087378_100252.jpg 帯に紹介される「知覧だけでない新たな特攻出撃の史実を掘り起こす」というのに、信氏の所属した「武揚隊」も含まれているように思われる。
 「愛機に「必沈」と書き入れる武揚隊の山本薫隊長。松本-新田原を経て、兄弟隊の武剋隊に約1 か月半遅れて、1945 年5 月13 日台湾八塊より発進。沖縄西方海上の敵艦に突入、散華。彼の長文の遺書も発見された」と紹介されるのが、信氏の所属した隊の隊長さんだ。

 読んでみたかったが、価格が自分の懐具合に比して高かった。
 「ライフログ」は、本当は読んだ本を掲げる趣旨であるらしいが、今回は紹介の意味で掲げさせていただいた。先にも記した通り、自分を長谷川信氏の世界に導いて下さったことに対する感謝の気持ち。
 ただ、現在のところ紹介のページまでリンクできていないので、とりあえずここから「Web東京荏原都市物語資料館」がリンクさせているページにつないでおく。
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by shingen1948 | 2017-09-18 10:00 | ブロクとわたし | Comments(0)