地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 「奥州街道:『ハンドメ』にかかわる情報」の題では分かりづらいので、「八丁目宿」の「ハンドメ」について確認していることが分かるように題を修正した。
 前回は、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるらしいことが分かったのだが、二本松側から眺めていると、いわゆる「口留番屋」とのかかわりが気になってしまう。
しかし、「八丁目家主一覧」図に描かれる時代のこの宿は二本松藩領である。「口留番屋」は、他領との接点側にあることを考えれば、石合町の先にある「ハンドメ」が、その役割を担っていると考えるのが普通なのだろうと思う。
 奥州街道のこの先に福島藩があるだけでなく、こちら側には相馬街道がつながっているという状況だ。
 治安維持の観点からは、宿の西側の米沢街道とつながりが気になる所だが、宿に入る手前には八丁目城址があり、その登り口付近が幕領時代から代官屋敷になっていたとのことだ。

 この時代、宿の八丁目村側は二本松領内ということだ。領内の宿の入り口ということでしかないようだが、「八丁目家主一覧」図にはこちら側にも「ハンドメ」があったことが記される。
 福島藩領と二本松領が接していた時代の名残という事なのか、全ての宿の入り口に番所があったということなのかは分からない。

 その位置だが、「ハンドメ」が柵を意味していると勘違いしていたので、先に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷斜め前と記したところだが、これを訂正する。
 こちらの「ハンドメ」は、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前にあったということになるのだと思う。

※ タグだが、今まで、「奥州街道・地域の散策・松川」としていたところだが、八丁目宿にかかわる地域の散策の整理になっているので「奥州街道・八丁目宿・松川」というふうに修正したい。
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by shingen1948 | 2017-07-31 09:18 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 直接的に「ハンドメ」について説明しているわけではないが、松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏が、旧本陣櫻内家について解説する中に、その機能が推測できる説明があった。
a0087378_9454257.jpg この写真は今回の散策ではなくて、2009/7/27に撮ったものだが、この現ガソリンスタンドを経営する櫻内家が本陣をつとめていたとのことで、案内柱も建っている。

 この櫻内家には、誰が休泊していたのかを知らせる木製の関札や、諸藩の大名が宿泊休憩した記録「御休泊帳」が大切に保管されているという。
 それらの記録によると、松前藩や仙台藩、津軽藩などの諸藩の大名が宿泊休憩したという。

 その参勤交代の行列が宿場に到着した際は、宿場端に置かれた「ハンドメ」という治安維持をになう番所まで出向き、本陣の主人をはじめ名主、検断など名衆が名を連ねて大名を迎えたとのことだ。

 ここに出てくる「宿場端に置かれた『ハンドメ』」は石合町の先のことであろうが、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるということも分かる。

 今回の散策で確認したいのは、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前の「ハンドメ」だが、同じ様な番所だということだろうと推測する。
 こちら側は、二本松藩とのかかわりで口留番所にこだわってしまうのだが、幕末は幕領であったり二本松領であったりしているので、藩が接する緊張感のようなものとは微妙に違うのかもしれない。
 この説明から、「ハンドメ」は、二本松藩の藩留番所かなと勝手に思ってみたりしている。

 先の整理では、「ハンドメ」は治安維持をになう柵かなとイメージしていたので、その位置にかかわることとが微妙に違ってくる。
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by shingen1948 | 2017-07-30 09:49 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 八丁目天満宮に直接かかわる情報ではないが、知っていれば結構楽しめるという情報の二つ目が、古い方の石灯篭が赤滝石らしいとの情報。
 「としぼーのブログ」の「八丁目天満宮赤滝石」からの情報だが、この赤滝石については、このブログで知った。
 赤滝石は梁川町で産出される地域限定の石材とのことだ。掘って直ぐは赤色をしているのだそうだが、風化によって様々な色調に変色するのだそうだ。
 https://blogs.yahoo.co.jp/toshikatu0214/25067674.html 

 「几号水準点」については、散策中に思い出して確認したが、赤滝石については散策中には思い出せなかった。思い出したのは整理する段階だ。
a0087378_1065921.jpg 写真に写り込んでいないか確認したらありました。右手奥の石灯籠がそれだ。
 ブログ記事によると、中央部分は近年になってコンクリートで作り直したようだが、他の部分は正真正銘の赤滝石とのことだった。

 赤滝石については、「福島建設工業新聞」の「10月の槌音(2013.10.30)」で詳しく解説さている。

 伊達市梁川町で産出される地域限定の石材赤石の通称が「赤滝石」とのこと。
 神社・寺院参道の石畳・鳥居・石塔・墓石をはじめ、河川・水路の護岸、住家の塀・土蔵・風呂釜など日常生活に不可欠な石材として活用されてきたという。
 この岩石は約2400~1600万年前の頃の火山噴出物が主な構成物質の凝灰岩の岩石で、この岩石層は霊山層と呼ばれているとのことだ。

 この石材の使用範囲は、県北一円から宮城県南部にも及んでいるとのことだ。
 昭和30年代までこの赤石の産出および製品販売は貴重な地場産業だったそうだが、昭和40年代以降の高度経済成長とともに海外産石材に押され、赤石の石工は廃業を余儀なくされたのだとか。
 それに伴う課題が、この石材で構成された文化財の修理保存だという。この原材料の調達だけでなく取り扱える石工の確保が難しくなっているのだとか。

 そんな中、今回の東日本大震災で倒壊した県史跡名勝に指定される梁川町八幡神社境内の厳島神社入り口にある鳥居とそり橋が、これまでと同じ赤石で見事、修復されたという。
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by shingen1948 | 2017-07-29 10:08 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 これから整理するのは、八丁目天満宮に直接かかわる情報という事ではない。散歩の中で、知っていれば結構楽しめるという情報の一つだ。

 その一つが、几号水準点。
 街道筋を散策するのに基本的にお世話になっている「街道Web」によると、天満宮の鳥居の右側の根元にその几号があるということだった。
 震災後、壊れて取り払われてしまったものもあるとのことだが、確認するとここは健在だった。
a0087378_15201863.jpg 几号水準点についての説明は「街道Web」からお借りする。
 「明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京~塩釜間の測量を実施した。測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、この横棒の位置を標高としたのである。
これを「几号水準点」(きごうすいじゅんてん)と言う」

 なお、この「几号水準点」情報は「街道Web」サイトの「寄り道Web」→「脇道Web」→「几号水準点 明治時代の測量の痕跡を辿る」→「2本宮→福島」から拾える。
 http://kaido.the-orj.org/yori.htm
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by shingen1948 | 2017-07-28 15:21 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 今回の散策では、八丁目天満宮側の街道筋に、民家二軒が並び、その次に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷が並ぶのだが、その斜め向かい側に「ハンドメ」の位置を想定して歩いている。 それは、「八丁目家主一覧」図を参考にして歩いているからだ。
 この「八丁目家主一覧」図に描かれるのは、二本松藩が支配する体制になってからの宿の様子なのだ。

 一方、半沢氏の「歴史地図」では、その「ハンドメ」を、境川から八丁目村へ入る手前の道がクランク状になる辺りに描いている。この事については「奥州街道:境川から八丁目村へ⑤」で記したところだが、これは時代の推移にかかわる事なのだと思っている。
 つまり、この八丁目宿が福島藩に支配される範囲に入っていた時代を想定しているように思うのだ。その時代は、この宿が二本松藩との実質的な接点になるわけで、ここに口留番所があったことをイメージしているのだと思われるということだ。

 ここには、参考資料が示されていないが、恐らく宝暦11年(1761)「米沢より江戸まで駅絵」の「八丁目宿の図」を意識しているのではないかなと想像する。
 その「八丁目宿の図」コピー写真は、「ふくしまの歴史3(近世)」の「福島の街道」の一つ「米沢街道」解説に見ることができる。

 その絵図には「信夫郡 上八丁目 二本柳へ一リ 二本松へ二り八丁」とあり、本陣桜田新兵衛門屋敷も紹介される。
 自分にとっての注目点は、この図の境川の八丁目宿寄り側に「福島領」と記されていることだ。描かれているのは、八丁目宿が福島藩領であった頃ということの確認だ。

 この絵図についての評価だが、本陣の桜内家の位置などに間違いがあるものの、全体として宿場町の雰囲気がよく伝わる絵図とされているようだ。また、二本松方面への出入りをチェックする口留め番所などがしっかり記されているとされるようだ。
 ただ、絵図には口留め番所の表記はなく、その絵図の二本松側のクランク状になる道の両側に柵が描かれていて、次の角の西側に塀が回された家が描かれているだけだ。

 現況と見比べると、塀が回された家が描かれている辺りが八丁目天満宮の辺りと思われる。柵は奥州街道を二本松方面から歩いてくるとクランク状に曲がり始める最初の角辺りだと思える。

 ただ、この八丁目天満宮辺りが口留め番所跡だったと言い切る情報を見た事はない。それどころか、「ふくしまの歴史3(近世)」の「信夫隠れの碑」の写真解説には「ここは二本松藩領との境にあり、上杉時代は口留番所を置いて厳重に取り締まった」とあり、「信夫隠れの碑」旧地が口留番所であったような解説も見る。
 これも、時代による推移とみるのか、不明であることをあえて推定すればということなのかは分からない。
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by shingen1948 | 2017-07-26 16:06 | ◎ 奥州街道 | Comments(2)
 前回の松川鉱山に係るこの辺りの散策で「社掌渡邉伊佐美碑」を見つけている。
 そのことは「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑧」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23815576/

 この時には、この渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」で、その一切の社務を司っている方なのだろうとの想像だった。そして、この方が兼務で松川鉱山にかかわる山神社の社務を司っているのだろうとの勝手な想像だった。

 しかし、今回の散策で、渡邉伊佐美氏が八丁目天満宮の「社掌」でその一切の社務を司っているというのは想像ではなく、確かな事であることが確認できたということだ。

 今回の散策で気になりだしたのは、この「社掌渡邉伊佐美碑」は顕彰碑ではなくて、墓碑なのではないのかなということだ。
a0087378_9275950.jpg 実は、人々が搗鉱場と呼んだ自家精錬場が設備された古天神地内に設備されていたということとかかわって、今回も古天神の水路確認の散策をしていた。
 その水路を探っていると、その水路裏手に墓碑のようなものが見えたのだ。
 このすぐ前に民家があるので、小心者には近づく勇気がなかったのだが、この撮っている位置から真北に「社掌渡邉伊佐美碑」があるという位置関係でもあるのだ。
 
 今回は、自家精錬場はさておいて「八丁目天満宮情報」とみて整理する。
 ここは明治以降神社の神官としてかかわった多宝院がかかわる処なのか、あるいは八丁目天満宮の旧地がかかわる場所なのではないかと思えてきたということだ。
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by shingen1948 | 2017-07-25 09:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 明治政府の神仏分離令以前の本来的な天神信仰である神仏混淆時代の影が残る八丁目天満宮だが、受けた命令通り本地仏を廃し、鰐口を外して鈴が下げられたようだ。
 直接的な解説はみないが、いろいろな情報を組み合わせてみると、「八丁目天満宮」と改称した天神様に神仏分離令以降かかわるのは多宝院のようだ。
 元々この八丁目天神にもかかわっていて、明治政府の神仏分離令を受けて、僧から神主に軸足を切り替えたということなのだろうか。

 松川町の寺小屋は、小学校が解説された後も、明治25年頃まで存続していて自然消滅したとのことだ。その松川町の寺小屋情報から、明治以降八丁目天満宮に多宝院がかかわったと思われる情報が含まれている。
 八丁目村の寺小屋の一つは、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏で、弟子は8名とのことだ。この方は、謡曲が巧みで、年長者には「素謡」も教えたとのことだ。
 そして、もう一つが多宝院渡辺早人氏で、弟子が20人とのことだが、その紹介に「多宝院(神主)」とある。この「多宝院(神主)」の神主は八丁目天神であろうことが推察される。

 更に、維新館情報の八丁目村メンバーを確認すると、名主が野地長十郎(戸長)となっていて、同じ姓の野地源十郎と共に、渡辺伊佐美氏の名が挙がっている。
 その渡辺伊佐美氏は、その後菅原神社神官、松川小教師となったことが記される。
 明治10年に松川小の職員になっている事も確認できた。

 八丁目天神は、多宝院渡辺早人氏から渡辺伊佐美氏に引き継がれるようだが、この渡辺伊佐美氏が、八丁目村名主検断渡辺権左衛門氏かかわりなのか、渡辺早人氏かかわりなのかは不明だ。
 いろいろな事が想像される。八丁目村名主検断と多宝院はかかわっていたという事も考えられなくもない。
 どちらにしても、八丁目天神を視点にすれば、多宝院かかわりの神官からの継続であろうことは確かな事だ。
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by shingen1948 | 2017-07-24 09:36 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 前回まで、この神社と「忍幢律師」とのかかわりを確かめてきた。
 このことは、明治政府の神仏分離令によって改変された神社が普通に見える現代では、奇異な感じもする。それで、案内板ではこの事にはふれないのだろうと思う。
 ただ、この神社が神仏混淆時代を色濃く残す神社であるという特色は解説したいという事で、拝殿の花頭窓とか、石灯籠に別当「西光寺」が刻まれるといった形式的なことからの説明を試みているのだと思う。

 しかし、明治政府の神仏分離令以前は、天神信仰の発足には天台宗・真言宗それぞれの僧侶が関わっていたこともあって、当初から仏教との関わりは強かったということのようだ。神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われたり、境内に神宮寺が建てられたりしていたという。

 天神信仰と仏教との習合には、怨霊や疫神をしずめる御霊会とのかかわりがよく解説される。
 元々の天神は火雷天神のようだ。
 道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったりしたことがあって、この火雷天神と道真公とが同一視されるようになったのだとか。その怒りを鎮めるため、道真公は神格化され祀られるようになったとのこと。これが、天神信仰と御霊信仰との結びつきのようだ。

 前回整理の「忍幢律師」とのかかわりを確認すると、「松川のあゆみ」で忍幢律師が大宰府天満宮分木を当地へ送る話が、次のように紹介されている。
 「律師は、幼少の頃より天満宮を信仰していた。ある夜、夢の中に菅公が現れ、『東風ふかば……』の歌を詠じ、話されるのを聞いた。律師は感涙して、大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠った。その後、飛梅の分木をいただき、当地へ送ったという」

 律師の夢枕に菅公が現れ何かを訴えられたというこの場面と、律詩がすかさず大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠って祈ったというあたりに、御霊信仰と結びついた天神信仰のようなものを感じるが、どうだろうか。

 ただ、よそ者の自分にとっては、散策を通して得た情報を元に想像するものであって、これは本物ではない。地元の方が生活を通して感じてこそ本物なのだろうとは思う。
 地元とかかわらない者には、せいぜい形式的なものから感じ取れる範囲でしかないというのは現実的な事なのかもしれない。

 なお、案内板の現在の祭礼をみると、現在は主として学問の神様として祭られるようだ。
 このことを天神信仰の変遷として見れば、時代が進んで祈りによって怨霊の働きが鎮まったという事なのだろう。
 それで、道真公が本来学者の才覚がある文学者であり、政治家であったことが思い出されたということで、学問の神様として祭られるようになったととらえればよいのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-07-23 15:39 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」の「忍幢律師」情報は更に詳しい。
 
 まずは、以下のような「忍幢律師」そのものの情報。
 「(忍幢律師は、)八丁目に生まれ、安政7年奥州福島城西真浄院に病み没する」とのこと。

 次に、「信達二郡村誌」に社前に飛梅と称する古木に関する情報。
 同誌では「古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」とあったが、忍幢律師はこの飛梅の分木を頂くのに、大宰府に行って筑紫の天満宮に籠ったのだとか。そこで得た分木を当地に送ったものなのだという。
 ただ、残念ながらその木は枯れてしまったそうで、同誌が発行された昭和48年11月現在の飛梅は2代目だとのことだ。

 更には、天満宮本地仏十一面観音にかかわる情報がる。こちらも忍幢律師がかかわるようだ。安永7年天満宮に本地仏として十一面観音を安置したいと師慧海に願い与えられたものとのこと。
 この十一面観音は、弘法大師の作で、河内国道明尼律寺の二之室住持春澄妙照大姉の持仏だったが、慧海に寄進されたものだといわれているのだとか。

 「松川のあゆみ」の「忍幢律師」情報では、奏楽寺とのかかわりについては一切ふれられていない。したがって、師慧海は真浄院かかわりのように読み取れる。
 ただ、奏楽寺の情報を確認した時に、1759年奏楽寺の堂字を再建された方が僧 恵海であるとの情報を得ている。忍幢律師が奏楽寺住であることは既知の事としているのだとすれば、この方が忍幢律師の師の可能性もあるなと勝手に思っている。というのは、秦楽寺かかわりならば、天満宮本地仏十一面観音弘法大師の作というのも、結構説得力がありそうに思えるからだが、実際のところは曖昧なままだ。
 
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by shingen1948 | 2017-07-22 16:26 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_983412.jpg 案内板の解説にはないのだが、この八丁目の天神信仰に大きくかかわっていらっしゃると思われる方がいらっしゃる。
 その方は「忍幢律師」とおっしゃる方で、「信達二郡村誌」によれば、「師は本村の産にして大和国奏楽寺に住し 此神を尊信する他に異なり」という方のようだ。
 社前に飛梅と称する古木は、「(この忍幢律師が、)古府菅祠の飛梅を乞い分ちて安永年間(1772~1781)植える所なり」と紹介する。

 「大和国奏楽寺」は、現「奈良県磯城郡田原本町 奏楽寺」だと思われる。
 その「奏楽寺略縁起」によれば、大化3年(647)に秦河勝が建立し、聖徳太子から下賜された観音像を本尊にしたと伝わるという古寺のようだ。
 大同3年(807)には空海が『三教指帰』の一書を当寺で執筆し、阿字池を築造したとの言い伝えが残っているという。この当時は、天台・真言宗の僧坊が棟を並べていたとされ、顕密二教の霊場だったとされる。
 発掘調査でその創建年代は確認できていないものの、8世紀後半頃の柱穴は見つかっていて、少なくともこの時期以降に寺院が存在したことは確実だという古寺なのだという。
 この寺の江戸時代の特記事項を確認すると、次の二項が確認できる。

 1759 僧 恵海 、秦楽寺 の堂字 を再建
 1806 僧 憲実 、方広寺 大仏の再 興を発願

 忍幢律師のこの寺での確認は今のところできていないが、古府菅祠の飛梅を乞い分ちて植えられたのは、この2項の間の安永年間(1772~1781)という時期にあたるようだ。

 地域の人々にとっては、この八丁目天満宮は、地元出身の大和国奏楽寺高僧忍幢律師も信仰なされていた天神様という信仰の支えがベースにあるということかなと想像する。
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by shingen1948 | 2017-07-21 09:12 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)