地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 少年の頃お話を伺う機会を得た事を思い出した。
 学校の体育館での講演で、みんなの質問に答えるという形式だったことは覚えているが、その内容は覚えていない。
 覚えているのは、自分とはかけ離れた世界の方が自分目の前で対話されているという空気感だ。
 もっと強烈な印象は、胸板の厚さに圧倒されたことだ。お話をお聞きしている時にはそれほど感じなかったのだが、体育館から教室に戻った後、控室である校長室に入られる山中選手を見に行ったのだが、この時に強烈に自分の記憶にインプットされたのだ。

 随分古い話で、記憶が曖昧だったので、少し確認してみた。
 記憶では、会津若松で水泳の国体があったこととかかわるはずなのだ。
 しかし、昭和30~40年代の福島での国体をイメージして検索してみたが、なかなか見つからない。それで、会津若松市に絞った国体を検索してみみたらありました。
 昭和36年(1961)の秋田国体だ。この時、水泳競技だけ会津若松で行われたようなのだ。

 会津若松市の年表で確かめ直すと、9月14日に「第16 回国民体育大会水泳競技、市営プールで開催」が記されていた。また、「ふくしま教育情報データベース」の「県民ニュース95」には、その時の国体の様子が確認できた。
 http://www.db.fks.ed.jp/
 記憶と照らし合わせても矛盾がない。この時の記憶だったということだ。

 山中選手の経歴と照らし合わせてみた。
 すると、前年の昭和35年(1960)は、ローマ五輪だ。この時に、山中選手は、400メートル自由形、800メートルリレーで銀メダルを獲得している。
 その世界に通用する旬の山中選手が、自分のフィールドである学校にやって来たという思い出の記憶がよみがえったということだ。
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by shingen1948 | 2017-03-09 06:21 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 新聞を読んでいた家族が、「山中選手が亡くなったようだよ」と声をかけてきた。確かめると、以下のように報じていた。
 「山中毅さん78歳=五輪3大会の競泳代表、銀四つ【毎日新聞(2017年2月14日)】
 1956年メルボルン、60年ローマ、64年東京の五輪3大会の競泳男子代表で計四つの銀メダルを獲得した、自由形の元世界記録保持者の山中毅(やまなか・つよし)さんが肺炎のため東京都内の病院で亡くなったことが14日、分かった。78歳。葬儀は近親者で営む。
 石川県輪島市出身。輪島高3年でメルボルン五輪に出場し、金メダルを取ったオーストラリアのマレー・ローズ(故人)と激闘を演じ、400メートル、1500メートル自由形で銀メダルを獲得。ローマ五輪でも400メートル自由形のほか、800メートルリレーで銀メダルを獲得した。64年東京五輪では400メートル自由形で6位だった。
 引退後は東京都内でスポーツ企画事務所を経営するなどしていた。糖尿病に苦しんだ経験から、中高年を中心にした水中運動教室も開催していた。2000年シドニー五輪開催中は、毎日新聞でコラムを執筆した。
 
 シドニー五輪も興味はなかったし、元々、スポーツ欄は読まないので毎日新聞のコラム欄執筆には気づいていなかった。
 ネットで検索すると「山中毅のフリースタイル 『シドニー五輪 日本水泳の新時代到来』」の記事があった。そこに以下のような経歴が紹介されていた。
 「山中毅(やまなか・つよし)」
 1939年、石川県輪島市生まれ。60歳。メルボルン、ローマ、東京の五輪大会で、ローマ大会の八百メートルメドレーリレーも含め通算銀メダル4。日本競泳界の自由形の五輪メダルは、山中さんがローマの四百メートルで獲得して以降ない。輪島高から、早大、大洋漁業と進む。漆器の製造販売業を営んだ後、スイミングスクールの運営ほか、スポーツ企画の会社を設立している。

 ご冥福をお祈りします。
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by shingen1948 | 2017-03-05 09:59 | ☆ その他の話題 | Comments(0)

森鴎外と福島36

 史伝「渋江抽斎(森鴎外)」を保氏の動向と関連付けた興味で読むのは、文学作品の読み方としては邪道であろう。しかし、この史伝がノンフィクションである故に、読者にその読み方の自由度が許容されるのではないかと勝手に思っている。これが、この作品を読み進めたいと思う原動力ともなる。

 ただ、鴎外氏自身も抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮していることが伺える。
 特に抽斎没後について、その時代を「斎歿後の第〇〇年の明治〇年」と表現するのも、抽斎伝から離れることのないようにする工夫なのかもしれないと思う。
 また、情報提供者としての保氏はその名の通り記されるが、保氏の動向は「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、史伝の中では、保氏は成善の名で描かれているのも、その配慮の一つなのかもしれないとも思う。

 さて、鴎外氏に提供された抽斎氏情報だが、抽斎氏は保氏が2歳の時に亡くなっている。従って、抽斎氏についての直接的な記憶はなく、母である五百さんから聞いた話のようだ。幸い、この方は保氏が28歳になる明治17年までご生存されていたので、抽斎氏の日々の話が聞けたという事のようだ。

 その五百さんが史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その30」からで、抽斎氏と夫婦になるのが「その34」だ。
 保氏が史伝「渋江抽斎」に登場するのは「その51」だ。以下のように紹介される。

 安政四年には抽斎の七男成善が七月二十六日を以て生れた。小字(おさなな)は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。即ち今の保さんで、父は53歳、母は42歳の時の子である。
 ただ、「その93」で、成善の名を保つに改名するまでは、情報提供者としては保氏とされるが、史伝の中では、成善の名で描かれていることについては先に記した。

 その改名だが、抽斎歿後の第13年の明治4年だ。「その91」で、次のような事が起きる。
 成善氏は、藩学の職を辞して、3月21日に、母五百と水杯を酌み交して別れ、駕籠に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は35歳、五百は56歳になっていた。

 そして、「その93」で、その改名を次のように紹介する。
 この年6月7日に成善は名を保と改めた。これは母を懐(おも)うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善の名を優と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩(おさむ)と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。

 この作品がノンフィクションであるために、鴎外氏にはもう一つ配慮しなければならない事があったようだ。それは、鴎外氏と同時代を生きる保氏のプライバシーへの配慮だ。
 保氏自身も、鴎外のために書き下ろした資料が、抽斎伝から離れて保伝になってしまわないように配慮し、後半生についての記録をごく簡単ものにしているという。従って明治23年(1890)年以降の活動情報は、きわめて少ないという。

 なお、「森鴎外と福島32」でふれた松本清張氏の史伝は鴎外が抽斎の子保に依頼して書いてもらった資料・覚書通りで鴎外自身の創作は微塵も無いとの指摘だが、鴎外氏は、その事については作品の中できちんと断っている。
 保氏と出会う「その9」は、以下のようにしめられている。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を箇条書きにしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで「独立評論」に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直ぐに保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。

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by shingen1948 | 2017-03-04 09:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)