地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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森鴎外と福島24

 前回は、「日本種痘の恩人」から横糸のように紡がれた「渋江抽斎」その16からその20までの池田家宗家の墓探しの話を読み、そこから、「伊沢蘭軒」その87から90までの福島市大町在住池田宗家第5世池田鑑三郎氏の案内でその関係性か確認されるということに辿り着く読み方をした。

 今度は、「渋江抽斎」の作品を読む中で、池田家宗家の話に出会うという読み方をしてみたいと思っている。

 この作品、東北という限定した地域の散策という視点でみれば、津軽地方とのかかわりだろうか。
 ただ、鴎外氏がこの方に直接的に興味を持ったということではないようだ。
 「武鑑」を蒐集しているうちに、「古武鑑に精通している無名の人の著術が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、其の写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と、渋江とが若しや同人ではあるまいか」との思いで尋ね歩く。その結果、抽斎というのは経籍訪古志を書いた渋江道純の号であることを知り、更に遺族の現存している事も知るようだ。

 作品では、「武鑑」を蒐集から「抽斎」と「渋江」が若しや同人ではあるまいかと思い尋ね歩く辺りを、その3からその7あたりまでに記し、抽斎氏の墓や遺族を訪ねて知る辺りをその8からその10辺りに記す。
 その結果整理された渋江抽斎像が、作品の最初からその2まで記される。

 そして、その11から渋江抽斎とかかわる人々が描かれる。その中の一人が、その14に登場する「伊沢蘭軒」氏で、これが次作になるという繋がりのようだ。その「伊沢蘭軒」氏とのかかわりで、その16に「池田京水」氏が登場し、その17で「日本種痘の恩人」からの横糸に繋がるという構成のようだ。

 文学作品を愛好する人々には評判が悪かったというその訳が分かるような気がする。
 無名なのは主人公「渋江抽斎」だけでなく、その方にかかわる人々も無名であるのだが、これが鴎外氏の散策で史実に裏打ちされた人々であることが強調される。そういう人々が次から次と登場してくるのだ。
読者に、この無名の人々を全部知っていてほしいと要求しているようなものだ。
 更には、その65以降はその主人公もいないいない。 これについて鴎外氏は、作品の中で次のように語る。
 大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰するものは、その苗裔(びょうえい)がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記し畢(おわ)ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下に書き附けて置こうと思う。

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by shingen1948 | 2017-01-31 09:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島23

 池田家宗家については、先に「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品とのかかわりで整理したところだった。
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島
 http://kazenoshin.exblog.jp/23505927/
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島②
 http://kazenoshin.exblog.jp/23508109/
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島③
 http://kazenoshin.exblog.jp/23510293/
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島④
 http://kazenoshin.exblog.jp/23512690/
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島⑤
 http://kazenoshin.exblog.jp/23515526/
 〇 「伊藤蘭軒(森鴎外)」と福島⑥
 http://kazenoshin.exblog.jp/23517739/
 これは、「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品の中に、池田宗家第5世池田鑑三郎氏が福島市大町在住であることが記されていることを見つけたことから、福島とのかかわりある作品と位置づけたものだった。

 前回、池田宗家にかかわる話は、鴎外氏最晩年の文業を飾る「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」と連なる今日史伝三部作と称される一連の作品群にかかわるという観点に変えた。それは、福島市大町在住池田鑑三郎氏がかかわる池田宗家の話が、「日本種痘の恩人」から、「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」に横糸のように紡がれていることが分かったからだ。

 一つの楽しみ方として、「日本種痘の恩人」を読んで、そこから横糸のように紡がれた「渋江抽斎」その16からその20までの池田家宗家の墓探しの話を読むという読み方ができそうだと思う。そこから、「伊沢蘭軒」その87から90までの福島市大町在住池田宗家第5世池田鑑三郎氏の案内でその関係性か確認されるということを読むという読み方だ。
 これが、文学作品の読み方として正しいのかどうかは知らない。

 鴎外氏の小説を楽しんで読むほどの読書力がない者にとっては、ここから発展した読み方で「渋江抽斎」も読めるのではないかと考えている。
 先にも記したように、「伊藤蘭軒(森鴎外)」の作品にとりあえず目を通した時に、これを読んでみようという気分にはならなかったのだが、「渋江抽斎」の作品ではその壁が低かったような気がしたのだ。むしろ、この池田家宗家の墓探しの話の部分が読みづらいと感じていたからだ。

 いずれにしても、「日本種痘の恩人」の作品がその要となるのだが、この作品は「鴎外全集26」以外では確認できていない。
 その概要を記しておく。
 まず、以下のような疱瘡の沿革を調べた事の概略が記される。
 明の帰化僧戴曼公(たいまんこう)に負うことが分かる。その門人には、池田瑞仙(ずいせん)及び其の養嗣子(ようしし)池田霧渓(むけい)の両人が之を継承して新学の先駆となったが、その事蹟が残って居ないことが分かったという。

 次に、明の帰化僧戴曼公とその弟子池田瑞仙とのかかわりとその跡継ぎについて次のように紹介されるが、その後が曖昧になって居るとのことだ。
 戴曼公は有名な帰化人で、学才あり詩を好くし、勿論一般医術に通じ、殊に痘科に精通して居たのであるが、明亡ぶと同時に渡来して帰化し、隠元和尚の書記となり、宇治黄檗山(おうばくさん)に居たが、辞して長崎に移り其の後数年を経て、再び隠元を訪ねて宇治に旅立ったが、途中病死したのである。
 池田瑞仙は親しく戴曼公に師事して、痘科を深く研究した後東京に帰り、向島辺に住んで居たが、瑞仙も中々の博学多才で痘科の大家と称するを得(う)べく、其の功績は永く後世に伝へられなければならないのである。
 瑞仙は文化十三年に八十二歳で死し、養嗣子(ようしし)の池田霧渓が後を継いで近年まで痘科には殊(こと)に秀でた医師として門戸を張って来たのである。しかし、其の後池田家は何(ど)うなったか記録にもなく勿論血縁者と云(い)ふような者も見當(あた)らない。

 それで、鴎外氏の墓探しが始まるというようなことのようだ。
 両人の墓は向島須崎町嶺松寺(れいしょうじ)に歴然として残って居た事は明白で、之は私の友人で曾(かつ)て墓に参詣した人があり、又私の家の寺の住職は能(よ)く知って居る。そして其の傍には戴曼公と池田瑞仙との関係を細叙(さいじょ)した石碑が建てられてあった。然(しか)るに其の嶺松寺と云ふ寺は今は跡形も無くなって居る。何処かへ移して行ったのかと思ったが、全く潰(つぶ)れて了(しま)ったやうだ。潰れる際は墓を何(ど)うするかと云ふに、警視庁の云ふ所では縁の有るものは他の寺院に引き継ぐが、無縁の墓は染井墓地に持っていくと云ふ事だか、染井墓地にも無縁の墓は石も無く少しも判らない。東京府に問ひ合(あわ)して見ると明治十八年現在と云ふ台帳があって、それが一番古いのださうだが、其の中には嶺松寺と云ふ寺は乗って居ない。それ以前に潰れたものに相違ない。斯(か)くて国家に功労のあった新学の先駆を埋葬した處(ところ)は判らなくなり、石碑や墓標は何処かへ行って了(しま)ったのである。墓の有った所は恐らく人家となって居たのであらうが、此の有名な人を永久に記念すべき石碑の如きは庭石となって居るか、それとも摩滅(まめつ)して石屋の店頭に並べられてあるか、何れも推測するに由(よし)ないが、之と同様な事柄は所在に転がって居る事で随分沢山あると思ふ。実利主義に走るのも悪くはないが、斯(か)う云ふ事にも少しは注意して保存するやう各人に於いて注意したら随分保存し得(え)られると思ふ。

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by shingen1948 | 2017-01-30 09:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島22

 鴎外氏は、「日本種痘の恩人」を読んでから、「渋江抽斎」のその16からの「池田瑞仙の墓をたずねる」を読んでほしかったと思ったのにはもう一つの訳がある。

 先に「伊沢蘭軒」の作品中に島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏が登場することを整理した。 ここから鴎外氏の墓探しを追試する散歩資料を元に池田家宗家についての概要を整理してみた。
 実は、その後、「渋江抽斎」の作品の中の池田家宗家にかかわるその16からその20までを読んでいたのだ。
 小説として読むのに最低限必要な要件は読んでみたいという気持ちだが、この時に「渋江抽斎」の作品にそれを感じたのだ。ただ、こちらを先に読めば、この池田家宗家の部分が障壁になった可能性が高いとも思ったのだ。
 今回は、先に池田家宗家の部分の予備知識を得ていたが、それなしで「渋江抽斎」の作品を読んでいたと想定すれば、ここで断念したという事になっていたということなのかもしれない。
 そうも思ったのだ。
 それで、「渋江抽斎」を連載していた鴎外氏は、池田家宗家の部分が障壁になる読者も想定して、その連載に池田家宗家の部分が掲載される1週間前に「日本種痘の恩人」を挟んだのではないかと想像したということだ。

 先に福島のかかわりについて「『伊沢蘭軒』の作品中に福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏が登場する」としたところだが、ここを次のように修正する。

 鴎外氏の最晩年の文業を飾る「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」と連なる今日史伝三部作と称される一連の作品群の「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」の作品に、「日本種痘の恩人」から横糸のように紡がれる池田家宗家の末裔は、明治時代の鑑三郎氏以降福島市に在住する。
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by shingen1948 | 2017-01-29 09:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島21

 「歴史其儘と歴史離れ」の中では、歴史小説は、「山椒大夫」のように(まだまだだとはいいながらも)「歴史離れ」が大切だとしているように思える。そして、この対極に「椙原品」や「栗山大善」の作品を挙げ、こちらは「歴史離れ」が全くできていない作品で、殆ど単に筋書をしたのみの物になっているとしているように読み取る。

 しかし、氏の最晩年の文業を飾るものは「渋江抽斎」から「伊沢蘭軒」へ連なり、そこから「北條霞亭」へ連なる今日史伝三部作と称される一連の作品群だともされる。
 これらは、素人目にはどちらかと言えば歴史にどっぷりとつかって、離れようとしない作品群に見える。
 しかも、これらの作品は、文学的に作品を読む人々には受け入れられず、「北條霞亭」にいたっては、その連載の中断を迫られるほど評価されなかったと聞く。それでも氏が書きたいものを書くという姿勢を貫いた時にできた作品群だというのだ。

 ところで、鴎外氏の最晩年の歴史小説群を、一般的に、「渋江抽斎」―「伊沢蘭軒」―「北條霞亭」の作品群ととらえられているらしいことが読み取れる。
 しかし、鴎外氏は、直接的には言及しないものの、ここに池田家宗家物語も含めてほしいという思いがあったのではないかということが、「鴎外全集26」の後記から読み取れる。
 それは「日本種痘の恩人」の解説だ。

 「日本種痘の恩人」は、大正5年(1916)2月8日の「大阪朝日新聞」に森鴎外の署名で掲載され、単行本には収められなかったとのことだ。
 日本種痘の恩人が池田瑞仙から始まる池田家宗家の人々を指すのだが、それを頭において解説の続きを読む。
 池田瑞仙の墓をたずねることは「渋江抽斎」のその16からその20に詳しいとある。そして、その16が大阪朝日新聞に掲載されたのは大正5年2月1日であるということだ。

 つまり、鴎外氏は、「日本種痘の恩人」を読んでから、「渋江抽斎」のその16からの「池田瑞仙の墓をたずねる」を読んでほしかったのではないかとと思うのだが、どうだろうか。少なくとも、解説者はそう感じていると思う。 
 解説は、池田一族については、「伊沢蘭軒」のその87(大正5年9月24日東京日日新聞掲載)以下にものべられていることも紹介される。

 鴎外氏の作品を読むのにその難解さを感じて抵抗感があるのなら、横に織りこまれた物語を読むという読み方もあるよと教えていただいたような気分だ。
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by shingen1948 | 2017-01-27 09:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑲

 鴎外氏は、「歴史其儘と歴史離れ」で、「わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である」として、その制作過程を示している。
 これも青空文庫で読める。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_23257.html

 まずは、「これがわたくしの知っている伝説の筋である」として、その元となる素材までも示される。その中の「福島」に係る部分を昨日の整理でふれた。その全体は以下のようだ。

 昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があった。永保元年の冬罪があって筑紫安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあんじゅと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待って、父を尋ねに旅立った。越後の直江の浦に来て、応化の橋の下に寝てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買が来て、だまして舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕ぎ出して、山岡大夫は母子主従を二人の船頭に分けて売った。一人は佐渡の二郎で母とうば竹とを買って佐渡へ往く。一人は宮崎の三郎で、あんじゅとつし王とを買って丹後の由良へ往く。佐渡へ渡った母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良[#「由良」は底本では「山良」]に着いたあんじゆ、つし王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姉は汐を汲ませられ、弟は柴を苅らせられる。子供等は親を慕って逃げようとして、額に烙印をせられる。姉が弟を逃がして、跡に残って責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに参籠したのである。
 つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡って母を連れ戻し、丹後に入って山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはったので助命せられ、末の三郎は父と共に虐けたので殺される。


 次に、この素材を元に自分の好みを加え、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、時代背景の考証を加えるなどの脚色をしていった様子が詳細に語られる。

 鴎外氏が山椒大夫を書いた楽屋裏をここまでぶちまけてまで伝えたかったのは、この「山椒大夫」を書いて「歴史離れ」がしたかった思いを伝えたかったようなのだ。

 これとは対照的に「歴史離れ」が全くできていない作品が「椙原品」であり、「栗山大善」であるということだ。これ等は、「北遊記」に記される本務後の散策が「歴史小説」創作につながった作品だ。

 福島の散策を楽しむ者としては、ここで、もし鴎外氏が「山椒大夫」も同じ様な作品に仕上げようとしたならばどうだったろうかという思いが起きる。
 その仮説に想像を膨らませたものが「ふくしま散歩」に描かれる散歩資料のような気がするのだ。そう考えると、追試の散歩が結構楽しめたことにも納得がいく。
 「ふくしま散歩」に描かれる散歩資料は、散歩資料小説になっていたということなのだ思うのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-01-25 09:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑲

 「栗山大善」は大正3年8月12日に脱稿され、9月の「太陽」に掲載されたとのことだ。
 この作品も、青空文庫で読める。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/681_22936.html
 ただ、自分の散策や興味との関りがないので、今回は作品の概要を整理しておくことに留める。

 この題材は、江戸時代初期に福岡藩黒田家で起きた騒動で、その主人公が黒田氏の家臣利章氏で、一般には通称の栗山大膳の名で知られている方ということだ。
 その概略は以下のようこととして知られているようだ。
 栗山大膳氏は、福岡藩の第2代藩主黒田忠之と対立し、江戸幕府に「忠之に謀反の疑いがある」と訴える。幕府による裁決の結果、「利章は乱心した」ということで利章を陸奥国盛岡藩預かりとし、黒田氏は改易を免れる。
 鴎外氏は、この黒田騒動を題材にして、利章を忠義の人物であり一連の騒動も忠之の暴政を諌めるために起こした事件であるとして描いたという。

 鴎外氏自身は、「歴史其儘と歴史離れ」の中で、以下のように小説としては不十分であると述べている。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/684_18395.html
 「栗山大膳」は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。そこでそれを太陽の某記者にわたす時、小説欄に入れずに、雑録様のものに交ぜて出して貰ひたいと云つた。


 このように「北遊記」に記される本務後の散策が、鴎外氏の「歴史小説」創作につながっていることが分かる。そんな中、大正四年一月に「山椒大夫」が中央公論に発表される。
 その素材についての森鴎外氏の認識が「 歴史其儘と歴史離れ」に示される。その認識の中で福島に係るのは、次の部分だ。
 昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があつた。永保元年の冬罪があつて筑紫安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあんじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待つて、父を尋ねに旅立つた。

 鴎外氏は、素材と福島のかかわりを「妻と二人の子は岩代の信夫郡にいた」とあり、「母は二人の子が育つのを待って、父を訪ねに旅立つ」というふうに捉えているということだ。
 「昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があった」ということについては、福島県内でも、福島弁天山の椿館説、本宮の菅森館説、いわき小名浜の住吉館説、三春説など多くの説があるようだ。
 元々の素材は、浄瑠璃本や同様な説経節から全国各地に広まった話だろうから当然な話。

 「ふくしま散歩」では、これを「北遊記」に記される本務後の散策が、鴎外氏の「歴史小説」創作につながっていることと絡めて、福島弁天山の椿館説と結び付けて楽しい福島散歩資料としたものと想像する。
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by shingen1948 | 2017-01-24 09:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑱

 鴎外氏は、歩兵第四聯隊営視察後の散策で「新寺小路孝勝寺三澤光子の墓に往」ったことを、「歴史小説」創作につなげている。
 それが、「椙原品」という作品だ。
 青空文庫で読める。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2081_23048.html

 作品の最後が、以下のようにしめられていることから、これが大正4年に創作されたものであることが分かる。
 私は去年五月五日に、仙台新寺小路孝勝寺にある初子の墓に詣でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣の中に、新しい花崗石の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。


 品の墓があるという仏眼寺には、自分も行っていないが、福島の散策をしている者にとっては別の意味でも興味がある。
 この寺の旧地は現野田小学校のはずで、寺が仙台に移った後、福島に残った関係者が売ったのが現渡利仏眼寺で、その寺の跡に仏母寺ができたという関係性だ。

 自分にとっては、鴎外氏の作品はその文体が難しくとっつきにくい。
 しかし、この作品は短編であり、しかも素材となる内容的については、散策時に確認している事なので、ハードルが低く比較的簡単に読める。

 「北遊記」に記される本務後の散策が、鴎外氏の「歴史小説」創作につながっているのはこれだけではない。
 7日、午前7時50分に仙台を発って、昼近くに盛岡に着いた鴎外氏は、三島屋旅館着くと直ぐ阿弥陀堂に行き、寺岡吉右衛門の供養塔と称するものを観る。その次に、栗山大善の墓と称するものを訪ねる。
 「北遊記」には次のように記されるが、これが「栗山大善」という「歴史小説」創作に繋がっている。
 墓石と巨碑とあり。墓石には涼岸良照禅定門云々と刻す。巨碑は字細く苔に覆はれて讀むべからず。

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by shingen1948 | 2017-01-23 09:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑰

 鴎外氏の二度目の来福である大正3年(1914)5月18日から19日にかけての行動を確認すると、「ふくしま散歩」での鴎外氏の紹介は、散歩資料としては勇み足のような気がする。
 しかし、その紹介のままに散歩して地域の散策の楽しさを教えていただいたものにとっては、これを単に勇み足として否定的に捉えることができない。
 これは、小林氏の「ふくしま歴史散歩小説」であって、その小説を通した見え方によって、福島散歩の楽しさを教えていただいたのだと思っている。

 前回までは、鴎外氏の本務とかかわる部分を中心に確認してきたが、今度は、鴎外氏の本務から外れた行動と自分の散策の重なりを確認することを通して、この時に得た感覚から、小林氏の心情的なモチーフを想像してみたいと思う。

 仙台での鴎外氏の行動は、先に「森鴎外と福島⑮」で整理した通りだ。再掲する。

 「北遊記」によると、5月4日午後7時30分に仙台に着き、菊平に宿泊するのだが、次の5日朝、仁田原中将を訪ねた後、砲兵第二聯隊営を視察している。現美術館がその跡地になっているはずだ。そのまま青葉城址まで足を延ばしているようだ。
 宿に戻って昼食後には、歩兵第四聯隊営を視察している。現榴岡にその跡地があって、先に整理したことのある現仙台市歴史民俗資料館は、その兵舎の一部の活用のはずだ。 
 この後、新寺小路の寺を訪ねている。
 そして、仙台衛戌病院の本院を視察するのは、その翌日の6日だ。この時代は、定禅寺跡地のはずという事で、定禅寺の情報を確かめる。
 現青葉区本町3丁目の仙台合同庁舎の敷地を中心に宮城県庁舎にかけて寺域が広がっていたとのことだ。鴎外氏視察時点の病院は、その辺りだったのだろうと想像する。
 この後、図書館に行くようだが、当時の図書館は大正元年(1912)10月独立館を新築した第三代目だろうと推測する。その跡地は勾当台通南端から勾当台公園南部付近らしい。

 この4日午後の本務と地域散策が、自分の「再び仙台散歩」の逆コースになっているのだ。
 鴎外氏は、榴岡の歩兵第四聯隊営を視察した「後、新寺小路孝勝寺三澤光子の墓に往く。次いで同所光寿院の保田光則の墓に往く」。
 「北遊記」では、その後、保田氏関連の墓碑銘から拾ったと思われる16名の没年を記録している。
 保田光則氏は仙台藩の国学者で、藩黌養賢堂和学指南役とのこと。東奥国学の泰斗で、和歌の領袖と称せられ、生田流弾琴の妙手でもあったとのことだが、よく知らない。

 自分の散歩と大きく重なるのは、榴岡の歩兵第四聯隊営を視察から「再び仙台散歩⑭~伊達家墓所(政岡墓所)【http://kazenoshin.exblog.jp/21085716/】」から「再び仙台散歩⑰~伊達家墓所(政岡墓所)④~三沢初子の墓所」までの散策だ。

 「再び仙台散歩21~政岡墓所周辺から榴岡公園へ【http://kazenoshin.exblog.jp/21118500/】と「再び仙台散歩22~政岡墓所周辺から榴岡公園へ②【http://kazenoshin.exblog.jp/21123624/】もかかわると言えばかかわる。

 なお、「榴岡の歩兵第四聯隊営」とかかわるのは、「再び仙台散歩23~政岡墓所周辺から榴岡公園へ③【http://kazenoshin.exblog.jp/21125699/】と「再び仙台散歩32~「もう一つの奥の細道」とかかわって【http://kazenoshin.exblog.jp/21169340/】から「再び仙台散歩34~「もう一つの奥の細道」とかかわって③」あたりの散策だ。
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by shingen1948 | 2017-01-22 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑯

 仙台衛戍病院飯坂分院は、その後、次のような経緯をたどるようだ。
 昭和20年12月には厚生省に移管されて、国立飯坂病院と改称される。
 昭和28年6月には福島県に移譲されて「福島県立飯坂病院」となる。
 その後、福島県立リハビリテーション飯坂温泉病院と改称される。

 他の軍が保有する医療機関も同様な経緯をたどるのだろうと勝手に想像するところだが、確認すると、この病院の特殊性から微妙な違いもあるようだ。

 全国的に敗戦後の病院の変遷は、次のように捉えられているようだ。
 敗戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていたという。
 日本を占領したGHQは、まずは占領軍が使用する優良医療施設を確保し、その次に日本国民の医療提供体制を整えたということだ。
 その手始めに行ったのが、陸海軍が保有する医療機関の厚労省移管だったのだそうだ。
 全国146の軍施設が国立病院、国立療養所となり、建物も職員も従来のままで診療が継続されたのだという。
 仙台衛戍病院飯坂分院が昭和20年12月には厚生省に移管されて、国立飯坂病院と改称されるのは、このことに対応している。

 その後の変遷が、微妙に違う。
 全国的な流れを確認すると、病院自体の組織は「陸海軍」のままで、名称が軍病院から国立病院に変更され、そして、それが現在に至るまでその中心病院として継続されているようなのだ。
 しかし、福島県内では新たに県立病院が創設されるようだが、その創設された病院とこの福島県立リハビリテーション飯坂温泉病院と改称されていく「福島県立飯坂病院」との関係性がよく分からない。

 地元の関心も低い中、最近、この福島県立リハビリテーション飯坂温泉病院に変化があったようだ。
 平成19年4月に財団法人脳神経疾患研究所に譲渡されたようなのだ。その附属病院が「南東北病院」とのことだ。
 そのホームページによると、「リハビリテーション飯坂温泉病院」はその附属病院として継続的に開設されていたようだが、「南東北福島病院」の開設に伴い、9月末には閉院されたようだ。
 このリハビリテーション飯坂温泉病院の機能は、新たに開設された「南東北福島病院」がリハビリテーション医療とて継承していくとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-01-21 18:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

森鴎外と福島⑮

 飯坂の地にある「仙台衛戌病院飯坂分院」の本院は、仙台衛戌病院である。
 その本院の概要を確認しておく。
 脈絡的に整合性がなく混乱的に仙台県の成立と東北鎮台が設置されることと絡み合っているようだ。その概要は以下のようだ。

 明治4年(1871)8月廃藩置県で仙台県が成立し、その12月に仙台城に仙台県庁が開庁する。しかし、その一週間後に、石巻に置かれていた東山道鎮台が、仙台に移転して東北鎮台となる。それに伴い、仙台城は兵部省となり、東北鎮台の本営及び兵舎となる。これによって、仙台県庁は旧仙台藩校跡地に移転する。
 その仙台県が宮城県に改称し、仙台県庁が宮城県庁に改称される。

 「仙台衛戌病院」は、この中の仙台県仙台に東北鎮台(明治6年に仙台鎮台に改称)が設置されたことに伴って開設されるようだ。
 まずは、東北鎮台に隣接する二の丸北西亀岡御殿辺りに、軍人軍属の傷病に対応する病院が設置される。それが「仙台鎮台病院」ということだ。
 この病院が、明治10年(1877)12月には定禅寺跡地に移転になり、明治23年(1890)に「仙台衛戌病院」に改称されたということのようだ。
 更に、大正3年3月に、飯坂の地に「仙台衛戌病院飯坂分院」が創立したのだが、その5月19日午前7時には、森林太郎陸軍軍医総監(中将相当)が視察に訪れたということのようだ。

 森林太郎陸軍軍医総監(中将相当)は、当然、東北の要である仙台鎮台の兵舎と仙台衛戌病院も視察している。「北遊記」で確かめる。
 5月4日午後7時30分に仙台に着き、菊平に宿泊するのだが、次の5日朝、仁田原中将を訪ねた後、砲兵第二聯隊営を視察する。ここは、現美術館がその跡地になっているはずだ。
 氏は、そのまま青葉城址まで足を延ばしているようだ。
 宿に戻って昼食後には、歩兵第四聯隊営を視察している。現榴岡にその跡地があって、先に整理したことのある現仙台市歴史民俗資料館は、その兵舎の一部の活用のはずだ。 
 この後、氏は新寺小路の寺を訪ねている。

 仙台衛戌病院の本院を視察するのは、その翌日の6日のようだ。この時代は、定禅寺跡地移転後のはずという事で、定禅寺の情報を確かめる。
 定禅寺は、現青葉区本町3丁目の仙台合同庁舎の敷地を中心に宮城県庁舎にかけて寺域が広がっていたのだそうだ。鴎外氏視察時点の病院は、その辺りだったのだろうと想像する。
 この後、氏は図書館に行くようだが、当時の図書館を確認すると、大正元年(1912)10月に独立館を新築した第三代目だろうと推測できる。
 その跡地は勾当台通南端から勾当台公園南部付近らしい。ということは、病院の直ぐ近くだったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-01-20 09:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)