地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 鴎外氏が訪ねた池田氏墓地を追体験し、それを作品に仕上げている「日曜スケッチ散歩」というページを見つけた。
 http://aki.art.coocan.jp/frame-top.html
 その「池田京水の墓」の解説によると、森鴎外氏が池田氏の身上に関心を持つのは、前作「渋江抽斎」の執筆とかかわるようだ。
 この渋江抽斎氏の痘科の師が、池田京水氏なのだが、その身上に関して疑問を持った鴎外氏は、解決に強い執念を以って探索を開始する。新聞掲載のこの史伝を通じて、読者をも捜索に駆り立てたとある。
 その執念は、次の作品である「伊澤蘭軒」にも引き継がれ、遂に京水後裔の出現をもたらし解明をみたということだ。自分は、こちらに立ち会っているということのようだ。

 この方は、「渋江抽斎」の読後に「ルーツを訪ねて 江戸の疱瘡医 池田京水とその一族(中尾英雄)【平成7年自費出版】」という冊子に出会ったという。それで、池田家宗家の前に、池田京水氏の墓参りをしたのだということだ。
 この著者中尾英雄氏は、池田京水氏の末裔にあたる逗子市で耳鼻咽喉科を開業されている方とのことだ。

 池田家分家の墓地は、「雑司ヶ谷霊園」らしい。永井荷風・夏目漱石もここに眠るらしい。池田家分家の墓地は、その1-10号1側の区画番号らしいが、それが2ケ所あるらしい。
 京水氏の墓については、次のように描写解説する。
 中尾さんが述べていた変った円筒状の石碑が直ぐに眼に入った。中央で真二つに折れたのをセメントで繋いである。かなり風化しているが大きく深く刻した碑文は容易に読むことができた。「四世痘科京水池田瑞英先生門人誓書埋蔵之表」。鴎外が執拗に捜し求めた石碑を前にして暫し感慨に耽る。(2003年6月8日参詣 雑司ヶ谷霊園)

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by shingen1948 | 2016-12-31 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊沢蘭軒(森鴎外)」の作品88では、「池田氏」にかかわる資料について、次のように整理して述べている。
 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を示した。わたくしは上に云つた如く、直卿の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田寛さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。

 福島市大町在住池田鑑三郎氏は、ここでは「池田氏宗家の末裔鑑三郎さん」と紹介される。彼は、鴎外氏に宗家の墓の現在地を教へ、鴎外氏の池田氏にかかわる第四の資料である「窪田寛さん所蔵の池田氏系図並に先祖書」を貸したことが分かる。
 ここで、窪田寛さんというのは、恐らく第4世がちょっと複雑で、第3世直温の妻である啓さんが継ぐこととの関りなのだと思う。この啓さんが窪田清三郎の娘さんであり、窪田寛さんはその本家筋の末裔の方なのだろうと思う。

 鴎外文庫を検索すると「池田氏事績」がみつかる。「伊沢蘭軒」執筆の際の資料を、鴎外氏が1冊に綴じた本なそうだ。
 その内容についての解説で、「江戸黄檗禅刹記」「「嶺松寺の部」より抄録の錦橋墓碑文(渋江保による)」とともに、池田錦橋・京水に関する鴎外の調査手録というのも含まれているとある。これが鑑三郎氏の案内によるものだろうと想像する。
 解説に「黄檗山に錦橋の墓を訪ねた森潤三郎の報告書簡」とあることから、近世学芸史の研究者である弟にカンファレンスしていることも分かる。
 ここに、「窪田寛さん所蔵の池田氏系図並に先祖書」の写しが含まれているかどうかは分からない。

 散策を楽しむ者なら、誰しもがこれを資料に鴎外氏が訪ねた池田氏墓地を追体験したいと思うところだ。しかし、そこに出かける元気はない。今のところは、散策者をネットで探しあてて、その探索者の体験を読むことで間接的な疑似体験で満足している。
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by shingen1948 | 2016-12-30 09:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊沢蘭軒(森鴎外)」によれば、福島市大町在住池田鑑三郎氏は、始て公認せられた痘科の医である池田錦橋の代からの池田宗家第5世とのことだ。
 「伊沢蘭軒(森鴎外)」では、87項から90項まで、この福島市大町在住池田宗家第5世池田鑑三郎氏の案内でその関係性を確認する様子が描かれる。
 鴎外氏が作業を通して分かった事も含めて池田錦橋の代からの池田宗家第5世までを整理すると、第2世は直卿、第3世は直温、第4世がちょっと複雑で、直温の妻である(=窪田清三郎の娘)啓が襲ぐ、そして、池田宗家第5世が福島市大町在住池田鑑三郎氏ということのようだ。

 「錦橋は始て公認せられた痘科の医である」の部分を、「吉見一族~その系譜と事歴」のページを補助資料にして確認する。
 http://www.yoshimi-rekishi.or.tv/index.htm
 ここでは、池田善郷氏で解説される。
 元文元年~文化9年。初代瑞仙とあり、他に、幾之助、雄次、善卿、錦橋、瑞仙、獨美、蟾翁の字名が紹介される。
 7歳の時に、父杏仙正明氏が没したので、叔父槙本坊詮応について疱瘡治療を学ぶ。19歳の時には、岩国藩医桑原玄忠に雑病の治療術を学ぶ。
 宝暦12年、母と共に安芸宮島に移り、疱瘡治療に功をなしたという。その後、大阪・京都に移って治痘術で名声を得たという。
 その功績で、寛政9年に幕府より召出され(200俵扶持)、翌年には奥詰医師となり、幕府医学館の教授も務めたという。

 「錦橋の曾祖父崇山が笠を師として痘科を受けた」の部分も、同じ補助資料で確認する。
 その補助資料では、池田正直氏で解説される。
 生年不詳~延宝5年。号は嵩山。岩国藩医官で、姓を生田から池田に改めたとのこと。
 寛文年間に、明から来日した僧戴曼公から疱瘡の治療術を伝授された。これが我国最初の疱瘡治療であると伝えられるという。

 その系譜をみると、この池田正直氏から、正俊氏、正明氏を経て、善郷氏に継がれている。
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by shingen1948 | 2016-12-29 09:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」に高子から全国に発信する熊阪氏について紹介されていることについて確認してきた。
 その中で気になったのが、その87で「池田錦橋」氏とかかわる子孫の方が福島市大町に在住されることが読み取れることだ。熊阪氏探索としては余談になるが、こちらも確認しておくことにした。

 作品では、まずは「池田錦橋」氏と伊沢蘭軒氏とのかかわりが説明され、その後、次のような経歴が説明される。
 錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本(もと)生田氏、周防国玖珂郡 通津浦の人である。明の遺民載笠字は曼公が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父崇山が笠を師として痘科を受けた。
 錦橋は宝暦12年に広島に徙(うつ)り、安永6年に大坂に徙り、寛政4年に京都に上り、8年に徳川家斉の聘を受け、9年に江戸に入つた。
 錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲(つ)がしめた。京水は分家して町医者となつた。

 錦橋と其末裔との事には許多の疑問があったとし、その調査の経緯が述べられることを要約する。

 まずは、いろいろな資料を集め調べたようだが、満足いく解が得られなかったようだ。それで、墓石を探し当てて墓誌の全文を読もうと思いつく。ところが、嶺松寺が廃寺するときに、墓石は処分されていたとのことだ。
 この墓石処分が、明治以後盛に東京府下で行われ「金石文字は日々湮滅して行くのである」と愁いた後、この墓石捜索で、錦橋と其末裔の重大なる事実を知る機会を得た事が記される。
 そのきっかけが、「(前作)抽斎伝を草し畢つた後、池田宗家の末裔と相識ることを得た」ことだ。
 この池田宗家の末裔というのが、瑞仙(錦橋のこと)の家の第五世池田鑑三郎氏で、この方が、この時代に福島市大町に在住されていたようなのだ。
 作品では、次のような経緯が記される。
 或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄窪田寛さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町に住してゐる。
 わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。

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by shingen1948 | 2016-12-28 08:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 自分の知識のなさを感じながら、とりあえず森鴎外が真間の手児奈は「蝴蝶」のことだろうとしたその元になる熊坂子彦の説とはどのようなものであったのかという問いに必要な予備知識を確認し終えたと思っている。

 その回答だが、地元の福島県立図書館がかかわっているようだ。
 福島県立図書館にレファレンスを依頼して、台州の著書『西遊紀行別録』巻之一 蝴蝶祠に以下の記述があるとの回答を得たとのことだ。
 ‘蝴蝶祠 即氐胡奈祠。按氐胡奈蝴蝶也。今南部津輕之間。呼蝴蝶爲氐胡奈。則知 當時此女子。以蝴蝶自命也。而先輩類不知其然遂至刪奈字爲氐胡。豈不誤乎。余 生乎千載之下。而始得諸方言。古所謂禮失而求諸野者。幾是乎。

 ここにある「今南部津輕之間。呼蝴蝶爲氐胡奈」の部分だが、「古語辞典」で、接尾語「な」の項に、「人を表す語に付いて親愛の意を表す」とあり、その用例として「真間の手児(てこ)な」=(伝説上の女性)」とあり、「上代の東国方言と考えられている」ともある。
 しかし、方言辞典で見る限り、青森県の「蝶」を「テガラ」・「テンガラ」と呼ぶとしか確認できなかった。
 ただ、言語学的には、この「テガラ」・「テンガラ」と呼ぶのは、蝶になる前の毛虫である「ヒヒル」が語源であり、蝶は「高く飛ぶヒヒル」の意から「タカヒル」や「タカエロ」に変化したといわれているようだ。更に、「テゴナ」あるいは「テビラコ」、「テンガラコ」と変化し、それが、青森でいう「テガラ」・「テンガラ」に変化しているという風に解説される。

 この古語から方言への変化については、おおむね言語学者の堀井令以知氏の説明によるらしいことも分かる。
 その堀井令以知氏は、大正14年生まれのようなので、今回確認した熊阪台州氏の説を元に、森鴎外氏が真間の手児奈は「蝴蝶」のことだろうとしたのが先にあって、それらを体系化した説ということになるのだろうと思う。

 なお、釣り道具の毛バリが「テガラ」と呼ぶことや、女性の蝶の髪型の根元につける装飾の布も蝶の形らしいが、これも「テガラ」と呼ぶという。これ等も同じ語源によるとのことだ。
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by shingen1948 | 2016-12-27 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 森鴎外が真間の手児奈の祠に詣でた際に、熊阪子彦の説によって「てこな」とは「蝴蝶」のことであると述べているという。
 昨日は、その熊坂子彦の説とはどのようなものであったのかという問いに必要な予備知識を確認した。

 そこには、「万葉集に記される『真間の手児奈』のテゴナも蝶にちなむ名であろう」という記述があるようなので、「万葉集に記される真間の手児奈」も確認しなければならない。
 自分に理解できる程度の資料として見つけたのが「万葉集を読む」というホームページ。ここから読み取ったものの抜き書きだ。
http://manyo.hix05.com/akahito/akahito.tekona.html
 まずは、「勝鹿の真間の娘子が墓を過れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌」
  古に ありけむ人の 
  倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 
  勝鹿の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 
  真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 
  言のみも 名のみも我は 忘らえなくに(431)
 反歌
  我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ(432)
  勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(433)

 その注釈に「この時代は、男が女のもとに通うのが結婚のあり方だったから、夫の不在の折には、他の男が愛を求めて通うことがあっても、不思議ではなかった。だが、手古奈は、そんな自分に罪の深さを感じた。彼女は、罪を償おうとして自らの命を絶った。そこに、赤人は感動したのだろう。反歌には、手古奈の墓を見ての感動がいっそう強く歌われている」とある。

 次に、高橋虫麻呂の「勝鹿の真間娘子を詠める歌一首、また短歌」
  鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと
  今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名が
  麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て
  髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど
  錦綾の 中に包める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや
  望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば
  夏虫の 火に入るがごと 水門入りに 舟榜ぐごとく
  行きかがひ 人の言ふ時 幾許も 生けらじものを
  何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く湊の
  奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを
  昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも(1807)
 反歌
  勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ(1808)

 「鶏が鳴く」は関東の枕詞で、都に先立って夜が明けることによるとのこと。
 この歌には、手古奈の面影が、赤人の歌以上に詳細に語られているとして、次のような注釈。

 「麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 履をだに はかず歩けど 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや」は、貧しい農民の女ながら、その美しさは着飾った富める女も及ばないという手兒名のういういしさの強調。
 手児奈は「望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば」どんな男も心を動かされたに違いない。「夏虫の 火に入るがごと」、彼女の魅力に引き寄せられたのだと。
 「行きかがひ人の言ふ時」は、複数の男が入れ替わり手古奈に言い寄るさま。
 しかし、手古奈は「何すとか身をたな知りて」命を絶つ。自分の身の浅ましさをはかなんだのでもあろうか。
 「奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも」は、虫麻呂が手古奈の墓を見て、その薄幸への同情。

 更に、万葉集巻十四の手古奈の伝説に触れた東歌も紹介される。
  葛飾の真間の手兒名をまことかも我に寄すとふ真間の手兒名を(3384)
  葛飾の真間の手兒名がありしかば真間の磯辺(おすひ)に波もとどろに(3385)
  足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(3387)

 ちょっと背伸びして自分の理解を超えたページだったかもしれない。
 それはともかく、鴎外氏は、ここに詠まれる真間の手児奈のテゴナも蝶にちなむ名であろうと熊坂子彦の説に従って解釈したということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-12-26 10:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「高子から全国に発信される文学活動②~熊阪台州氏⑧」で、明治時代の文豪森鴎外氏が「西遊紀行」を参考文献として挙げているらしい情報にふれた。
 「レファレンス協同データベース」の市川市の次のような事例だ。
 森鴎外の「北游日乗」(鴎外全集第35巻 1971)に、真間の手児奈の祠に詣でた際の詩を挙げ、「てこな」とは「蝴蝶」のことであることを熊阪子彦の説によったと述べている。この熊坂子彦の説とはどのようなものであったのか知りたいという問いだ。
 そこには、「最是傷情蝴蝶祠、熊阪子彦の説に氐胡奈とは蝴蝶の義なりといへるに據りたりとあり、万葉集に記される『真間の手児奈』のテゴナも蝶にちなむ名であろう」という記述があるようだ。

 ここから、明治時代の文豪森鴎外氏が「西遊紀行(熊阪台州氏)」を参考文献と引いているということに注目して話を展開してきた。
 「北游日乗」は森鴎外の日記であり、地域史家の人達は、地域の史跡等に森鴎外氏がどうかかわるかを確認するのにあたることが多い。この場合も、「真間の手児奈」に関する史跡に森鴎外が訪ねる痕跡を確認している中での問いなのだろうと想像できたが、その内容についての確認はしていなかった。

 今度はその確認をしておきたいのだが、その為には、素養として知っていなければならない事がある。その持ち合わがないのだ。
 暫くは、巷で批判されているコピペでの確認をしていくしかない。

 この問いで、当然素養として知っていなければならない事は、「真間の手児奈」に関する史跡の事と、この「真間の手児奈」に関する言い伝えに関することだ。
 これ等は既知の事だとの前提で発せられている問いなのだ。まずは、この事について「ウィキペディア」で確認する。

 「手児奈」は、勝鹿(葛飾)の真間(千葉県市川市)に、奈良時代以前に住んでいたとされる伝説の女性とのこととある。
 この手児奈は、舒明天皇の時代の国造の娘なそうだが、一度近隣の国へ嫁いだが、嫁ぎ先の国との間に争いのために、再び真間へ戻ったのだそうだ。
 嫁ぎ先より帰った運命を恥じて、実家に戻らずに、我が子を育てながら静かに暮らしていたのだそうだ。しかし、男達は、手児奈を巡って再び争いを起こしてしまうという。その位持てたということだ。
 このことが嫌になった手児奈は、真間の入り江に入水してしまったのだという言い伝えがあるらしい。
 史跡としては、その手児奈を祀ったとされるのが「手児奈霊神堂」ということで、入水地とかかわるというのが「真間の継橋」ということのようだ。

 この伝説は、この真間の地に国府がおかれた後、都にも伝播し、詩人たちの想像力をかきたてたという。その代表作が、万葉集の高橋虫麻呂や山部赤人によって詠われたものだとの紹介が多い。
 この程度の最低限の知識で、事柄としては理解できそうだ。ただ、文人が興味を持っているというその心情まで察するのには、その作品にふれることまで予備知識として必要になるのだと思う。
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by shingen1948 | 2016-12-25 10:35 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)
 熊阪氏の出について「うつくしま電子辞典」では、中村(現保原まち)の大商人の家の長男として生まれ、享保年間結婚と同時に高子村へ移り住んだと紹介する。
 http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/index.cgi?sheet=detail&name=%A4%AF%A4%DE%A4%B5%A4%AB%A4%CF%A4%EA%A4%E7%A4%A6&area=%B0%CB%C3%A3%BB%D4&hen=jn
 「みちのく伊達の香り」のページでは、「永慕編(先考覇陵山人行状)」をもとに詳しく解説される。その解説から血縁関係を中心に読み取ってみる。
 http://datenokaori.web.fc2.com/index.html

 覇陵氏は、血縁的には宝永6年に父熊坂太治右衛門氏と母エンさんの間に保原中村で誕生するようだ。
 しかし、実父が死去したために、母エンさんは、二人の子と共に父の実家太左衛門助利(長兄)家に引き取られたのだという。(その二人子というのが長男の覇陵氏と、次男四郎右衛門氏ということのようだ)
 この熊阪家は、伊達郡きっての豪商で、当時領主梁川藩主松平氏の御用達商人だったという。その家督を継いでいた長男の太左衛門助利氏は、町年寄を勤めるなど人望もあり、学問才識も兼ね備えた人物でもあったとのことだ。
 その太左衛門氏が、江戸で知りあった児島定悠氏をエンさんに婿入りさせ、熊坂の姓を名乗らせたが、エンさんの連れ子二人は太左衛門氏の養子としたという。これに伴い、定悠・エン夫妻は、新宅に出されたとのことだ。

 覇陵氏の義理の父である児島定悠氏は、覇陵氏を仏門に入らせたのだが、太左衛門氏は、怒ってその寺から強引に奪い返して「千載」という名を与えたのだという。 
 この「千載」というのは、中村の熊坂家当主が代々世襲してきた幼名だったのだとか。

 「うつくしま電子辞典」では、「覇陵氏を中村(現保原まち)の大商人の家の長男として生まれた」としているが、正確にいえば、複雑な事情があって「長男らしい扱いを受けることになった」という事のようだ。
 その覇陵氏は、太左衛門氏の教育指導で英才教育を受けて、子供のころから漢文に長け、諳んじている文章がたくさんあったという。剣術や弓術も身につけ、書も得意であり、将棋や尺八も上手であったとのことだ。

 享保19年(1734)、覇陵氏は、26歳で秦豊重氏の養女ヤツさん(16歳)と結婚し婿入りする。このヤツさんは、血縁的には熊坂太左衛門氏の次女であり、覇陵氏にとっては従兄弟にあたるようだ。
 この結婚を機に、覇陵氏の婿入りした秦氏は高子村に移住することになるようだが、その経緯についても複雑な事情があるようだ。

 熊坂太左衛門氏には、覇陵氏の父太治右衛門氏の他にもう一人の弟熊坂太七氏がいたのだが、この方も亡くなっているようだ。覇陵氏は、この熊坂太七氏の菩提を弔わせる役割を担わされたということとかかわるようだ。
 まずは、太七氏の墓を中村の長谷寺から高子村へ移して改葬させて、太七氏の墓守(後継者)として豊重・覇陵父子を高子村へ移住させたのだそうだ。
 次に、その苗字を秦氏から熊坂氏に替えさせたという。これが享保20年の高子熊阪氏の誕生なのだとか。

 覇陵氏の父太治右衛門氏の方の菩提だが、こちらは覇陵氏の弟四郎右衛門氏に弔わせ、家を下保原村十日町に再興させたという。
 そして、本家の方だが、兄の多作助友氏が、太左衛門自身の長女の婿養嗣子とし、後に太左衛門を襲名させているとあるのだが、この兄というのが、誰の兄なのか自分には読み取れなかった。

 なお、太左衛門氏には唯一の男子義州氏がいたそうだが、この方は僧門に入ったのだそうだ。この義州氏は、高子に隠泉庵を築いて、熊阪台州氏には学問上の多大な影響を与えたのだそうだ。
氏は、後年栃木県佐野の本光寺を経て、広島県国泰寺へ移り、ここに没したのだそうだ。
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by shingen1948 | 2016-12-24 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、森鴎外史伝三部作第二「伊沢蘭軒」で、語り手が、盤坂と誤記される熊阪盤谷氏が、熊阪台州、熊阪覇陵氏とかかわる熊阪盤谷氏と同一人物であると推定したことを確認した。
 作品の中では、もう一つの推定が読み取れる。
 五山の言は、磐谷から3世以上に及ばないが、伊沢蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」から、熊阪氏の祖先は武士であったろうとの想像だ。

 一般的に漢詩文の素養は、近世の支配階級や知識階級の者だけの文化活動として行われていたものであったことからの想像ではあろうとは思う。
 しかし、この作品のガイダンス的な解説を眺めれば、作品に武士の品性のようなものを感じていることが付加されているように思う。

 この作品は、小説にするには記録に乏しい井沢蘭軒を取り上げ、未公開の詩文を引用駆使して作品に仕上げているという。
 作品の中で、素人歴史家を自認する鴎外氏が、その困難性を乗り越えてまで表現したかったことがあるという。
 それは、「時代は沈静であったが、その中で生きる人々は、その沈静な雰囲気の中で、それなりに円熟した生を生きていた」ことであり、それを抉り出したかったということだ。
 作者である鴎外氏は、文化文政時代という円熟した小宇宙の静かな雰囲気に郷愁のようなものを感じて、そこに生きる人々の間の人間的で親密な情愛の交わりに、心の安らぎを感じていたとされる。
 鴎外氏は、この作品の評判が悪いことについて、歴史なるが故であり、その往時を語るが故であって、文が長くして人を倦ましめた故ではないと弁明しているとのことだ。
 その思いの中で「熊阪氏の祖先は武士であったろう」との想像には、この素人歴史家を自認する鴎外氏の上記のような世界観から見だ肯定的な品性が付加されていると想像するのだ。

 実際には、熊阪氏は保原商人の出で、しかも、複雑な事情が絡んでいるらしい。覇陵氏が高子に居を構えることになるのも、御家再興にかかわる複雑な状況があるようだ。
 台州氏以降、その子盤谷氏も儒学者として大成し、全国に知れ渡るようになるのだが、それでも高子から動かなかったのには、その複雑な事情が絡んでいるように思われる。

 地域資料の多くは、これらの事には触れていないが、隠すべき事ではいのだと思う。むしろ、「非武士階級」の者が儒学者として大成し、それ以降も、高子という地域で高度な文化活動を行い、全国に発信し続けていたという特異性を誇るべきことの原動力になっているととらえるべきなのだと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-12-23 09:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」という作品で、語り手の熊阪3代について推定したことと、そこから想像できることを確認する。

 作品の中では、二つの推定が読み取れる。
 その一つは、盤坂と誤記される熊阪盤谷氏が、熊阪台州、熊阪覇陵氏とかかわる熊阪盤谷氏と同一人物であるとの以下の推定部分だ。
 熊板は或は熊坂の誤ではなからうか。これはわたくしの手抄に係る五山堂詩話の文に依つて言ふのである。わたくしは偶その何巻なるを註せなかつたので、今遽に刊木の詩話を検することを得ない。其文はかうである。「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」蘭軒の贈言を得た人は其字を同じうし、其郷を同じうしてゐて、氏に熊字がある。且詩の云ふ所が、菊池五山の叙する所と概ね符合してゐる。二者の同一人物たること、殆ど疑を容れない。

 地元では熊阪覇陵氏を中心に熊阪氏が素晴らしい学者だったことが発信されるが、その事も含めて全国に発信したのは熊阪台州氏だ。熊阪覇陵氏は、熊阪台州氏の著作を通して発信されているはずだ。「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」によれば、磐谷氏が活躍できる基盤も、熊阪台州氏によって築かれていたとのことだ。
 そこに、森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」の語りでは、熊坂が熊阪の誤記であり、それが、熊阪台州、熊阪覇陵氏とつながる磐谷氏だと確信をもって推定できているという事を重ねれば、語り手は、熊阪台州氏の著作を読み込んでいることは明らかなことだと思われる。
 その作者である森鴎外氏も然りだ。

 先に「鴎外文庫データベース」から熊阪台州氏の著作所蔵が確認できないことから、鴎外氏が「西遊紀行(熊阪台州氏)」を所蔵してい観海氏への関心を通して「西遊紀行(熊阪台州氏)」を目にしていたのだろうかとの推定に留めていた。しかし、この事はもっと確からしいことであって、鴎外氏は熊阪台州氏の著作を読み込んでいたということになる。
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by shingen1948 | 2016-12-22 09:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)