地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 今回、「なかむらや旅館」を確認していて気付いたのが、先の整理では、視点の大部分が本館に向けられているということ。
 この旅館は、本館も新館も国指定の重要文化財なのだが、本館が江戸時代創業時の旅館で、新館は明治期の建物。そうなると、素人は、つい本館の方に目が向いてしまう。
 それが、今回、亀岡邸との比較を意識したことで、明治の新館に視点を移して眺めることになった結果、こちら側の整理がおろそかになっていることに気が付いた。
 あらためて、新館を中心に整理し直す。
 「文化遺産オンライン」サイトの「なかむらや旅館新館」に基本的なデータが示される。
 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/165822

 「信夫の里の旧家を訪ねて(島貫 倫)【歴史春秋出版】」の「なかむらや旅館」の解説から、明治館にかかわる部分を拾う。
 「明治館は、総ケヤキ造りで、部屋ごとにそれぞれ特色があり、床の間、書院、そして建具や床に至るまで、職人の技が見受けられます」とある。
 「棟梁の目~ココがみどころ」として、専門家から見た具体的な職人の技が解説される。

 その一つに、明治館の廻り階段を支える丸柱が上から吊っていることを挙げている。
 一階のスペースを確保するための工夫なそうだ。
 2階と3階の間にある丸柱の造作についての解説のようだ。
 材質と手すりの構造に旧亀岡邸との共通点をみたが、差異点はなかむらや明治館では、ここを踊り場として折り返す構造になっているようだ。
 旧亀岡邸ではアール状の構造だ。素人考えでは、これも一階のスペース確保とかかわっているような気がする。踊り場分の空間と共に、階段の底辺もアールになっていることで、一階客間の天井の工夫分を確保しているのではないのかなと勝手に想像する。
 
 もう一つ、床の間の紫檀・黒檀・鉄刀木の三銘木配置と欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木が紹介される。欅の年輪を波紋に見立てているという。
a0087378_552726.jpg 旧亀岡家住宅にも、様々な彫り物が随所にあるようだが、撮った写真に写りこんでいたのは、3階へと続く階段の傷の部分。
 ここに柿が彫られていて、その傷が背景として生かされる見事さに通じるのかな。
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by shingen1948 | 2016-11-30 09:46 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「亀岡邸」と「なかむらや旅館」建築にかかわるつながりの象徴を、階段部の欅材を削った部材手すり子細工と勝手な見方をしている。
 これもまた素人の勝手な見方だが、その手すり子細工に木地師の技術を感じている。
 直ぐに「なかむらや旅館」と「飯坂こけし」のかかわりを感じてしまったのは、先に土湯から飯坂に進出した「なかむらや旅館」と土湯系飯坂こけしのかかわりについてふれたことがあったからだ。こけしの地域散策資料を元に土湯散策をしたその延長に飯坂を散策する中で整理したものだ。
 まずは、その「飯坂こけし」について再整理する。

 地域散策資料としては、つい最近まで「木人子室」というこけしにかかわるホームページが開かれていたのだが、そこに紹介されていたことを元にした散策だった。今回そのページを確認したら、運営会社の都合で消えていた。
 覚えている範囲での整理とする。

 「飯坂こけし」については、二つの系統が紹介されていた。
 その一つは、「木地屋八幡屋」で、八幡神社付近にあった弥治郎系のこけしなそうだ。
 明治23年(1890)に、弥治郎出身の毛利栄治氏が、八幡神社門前の佐藤応助氏の三女クラさんに婿養子に入って「木地屋八幡屋」を開業したということだった。
 佐藤応助氏という人は、義太夫に長じ、踊りの師匠までやった人だとの情報も……。
 この事にかかわる散策については、「飯坂温泉:飯坂こけし②」でふれているが、結局は散策の中では何の手掛かりも得ていない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6227840/

 もう一つが、「木地業山根屋」で、鯖湖付近にあった土湯系のこけしなそうだ。
 明治32年(1899)に、土湯の工人である渡辺作蔵氏の二男角治氏(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきて、キンさん(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年(1904)頃から「木地業山根屋」を開業したということだ。
 この土湯温泉から飯坂温泉に移るのに、「なかむらや旅館」の主人阿部与右衛門氏の口利きがあったということだった。これには、この「なかむらや旅館」も土湯温泉から移ってきたということが絡んでいる。
a0087378_6191227.jpg この事にかかわる散策については、「飯坂温泉と土湯温泉:飯坂こけし」でふれているが、この時には、この飯坂こけしは探し当てられなかった。というか、この時は、まだこちらのこけしは休止状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6222693/
 ここでの後半に、なかむらや旅館が、飯坂に進出することになった事情も、当時の旅館のホームページに掲げられていた沿革を引いて整理していた。
 初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。

 更に、「飯坂こけし③」で、この「木地業山根屋」の弟子と思われる原の町こけし工人の高橋忠蔵氏について整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6235113/
 今回の震災と原発事故でどうなったのか、現在の消息は分からない。

 「なかむらや旅館」は、これらの散策も含めた視点で、「福島の建築 30」として整理したが、その内部について見学する機会はなかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10112983/

 それから4年後だった。
 堀切邸の見学で、偶然「飯坂鯖湖こけし」に出会ったのだ。そのことを整理したのが、
飯坂散歩③ ~ 「飯坂鯖湖こけし」」だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11860596/
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by shingen1948 | 2016-11-29 09:15 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 エピソードからは、正元氏が亀岡邸の大工棟梁として小笠原國太郎氏を選んだのは、彼が施工したなかむら屋旅館の螺旋状階段の造作技術に感心したことであることが読み取れる。
 そのなかむらや旅館の内部を確認したことはないので、宿泊者のレポートで確認すると、欅の階段部分の手すりに亀岡邸と同じような欅材を削って部材手すり子細工が見られる。
 「飯坂温泉オフィシャルウェブサイト」でも、明治館の階段として写真が掲げられ、「欅の階段。明治期独特の和洋モダンの細工が随所に見られます」と解説される。
 http://iizaka-tomarou.net/hotels/view.php?hid=40
 この明治館の十畳三間続きの客室も紹介される。天井が写るが、こちらは、亀岡邸とは違って、普通の日本間の天井のようだ。
a0087378_753325.jpg 宿泊者のレポートなどで確認すると、部材手すり子細工は、階段だけでなくすべての手すりに施されているらしいことが分かる。
 それで、見学時に撮った亀岡邸の西側の廊下手すりを確認したら普通の手すりだった。
 亀岡氏は階段部分のこだわりだったのだろうということが分かる。

 ここから勝手な想像をする。
 この「なかむらや旅館」の部材手すり子細工だが、施工主であるなかむらや旅館初代阿部與右衛門氏と大工棟梁小笠原國太郎氏とともに、飯坂こけしの木地業山根屋創業の土湯の工人である渡辺作蔵氏の二男角治氏がかかわっているのではないのかなと思うのだが、どうだろうか。そう思うのは、少なくとも、手回し轆轤引きの技術が使われていることに加え、先に確認したように、なかむらや旅館の主人は、飯坂こけしの木地業山根屋開業にかなり力を貸しているという情報があるからだ。
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by shingen1948 | 2016-11-28 09:01 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 見学時点では、二階に上がろうとしたとき、格好がいいなと思って撮った階段。
a0087378_5182882.jpg 伊達市広報に掲載される「地域の魅力~ふる里発見」の「旧亀岡家住宅(大邸宅の特徴①)」では、「廻り階段の造りは、手すりに特徴があります。こけし作りに使用されるろくろ削りで造られ、欅材を削って部材手すり子を仕上げています」と紹介される。
 パンフレットには、「階段は、宮城県産の欅。手すりの支柱は手動のロクロ挽き。」とある。

 確認したいのは、3っつの事だ。
 その一つは、素直に素材にこだわった恰好のいい造りの階段。建て主や棟梁の思いが伝わること。
 ここに、資料で紹介さる大工棟梁小笠原國太郎氏と建主亀岡正元氏の出会いにかかわるエピソードを加えると、もう一つ確認しておきたことが加わる。
 それが「なかむらや旅館」の施工者としての大工棟梁小笠原國太郎氏だ。

 頂いた資料での紹介というのは、「洋風農家かめおか」から引いた次のようなことだ。
 某日福島市飯坂温泉なかむらや旅館に宿泊した正元は、旅館内の螺旋状階段の造作を見て、その技術に感心しました。施工した大工の名前を聞くと小笠原國太郎。帰宅後、手始めに倉座敷の造作を依頼し、完成をみて、すっかり技量に惚れてしまい、この建物の建築を依頼したという。
 なお、資料では、正元の姉や娘が堀切家に嫁いでいることから、この堀切家を介して知り合った可能性も示唆している。

 更にもう一つが、手すりは、こけし作りに使用される手動のロクロ挽きで造られているとある事なので、飯坂こけしとの関りだ。
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by shingen1948 | 2016-11-27 08:22 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
a0087378_5511599.jpg 江川氏設計とかかわるとされる建築物の天井構造についての整理は済んでいないが、見学者の立場では、和室の雰囲気と一体的なものだ。ましや、当時の建築物は、設計と大工は、阿吽の呼吸で造作が進められているという。更に、施工者である小笠原國太郎氏と設計者である江川三郎八氏は、基本的な修行を宮大工として行っているという。

 両者の仕事を一体的にしか感じられないのは、必ずしも素人のせいばかりではなさそうに思う。
 大工棟梁小笠原國太郎氏を確認しながら、整理を続けたい。

 先にも整理したように、亀岡邸の大工棟梁が小笠原國太郎氏であることは、作料請取の署名資料もあり確かなことのようだ。今回頂いた資料からは、正元氏や國太郎氏の御子孫にまで綿密に取材されて調査されたことが分かる。
 その大工棟梁小笠原國太郎氏の略歴は、以下のように整理されている。
 万延元年(1860)4月8日新潟県長岡市寺泊町生まれ。大工修業の後、福島県飯坂町に赴き、飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」「医王寺本堂」の建築を行いました。
 後に、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構えました。墓地は、新潟県長岡市寺泊町にあります。子孫の方は大工を継承しなかったため、記録・道具類などは残っていません。
 昭和3年(1928)1月19日逝去。享年69歳。
 ここでの注目は、「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」「医王寺本堂」の建築は、氏の仕事ということだ。
 その何れの建物も、今回の震災後も残っているということもある。もっとすごいと思うのは、「なかむらや旅館」と「旧花水館奥御殿」は、両方とも国指定重要文化財になっているという事だ。

 この「なかむらや旅館」については、「福島の建築30」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10112983/
 また、「福島の建築42」に、花水館を整理したこととかかわって、この旅館は旧花水館である花菱屋から買い取り、新たに増築して創業したことについて、「ふくしまの建築42~花水館②「不易と流行」」としても整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11420930/
 「旧花水館奥御殿」については、何度か整理を試みていたが、建物が花水館の奥にあることで、全体の姿がとらえ切れていなかった。それが、花水館の廃業によって姿を現したことを機に「節目よりは、継続を意識すべき正月②:福島の建築42~花水館⑤<奥の間御殿>」として整理し直している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14415214/
 ただし、どちらも小笠原國太郎氏の仕事として意識していないことが分かる。
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by shingen1948 | 2016-11-26 08:50 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 江川氏の設計推定にかかわる三つ目の自分勝手な観点は、建築物の隅処理や天井の構造。ただ、氏が宮大工修行をしていることとかかわる丁寧な処理と関るのだとすれば、実際の普請大工である小笠原國太郎氏の仕事との境界線は難しいのではないのかなと思ってしまう。
 見学の際に頂いた資料にも、設計者江川氏と施工者小笠原氏の関係について「当時の建築物は、設計と大工は、阿吽の呼吸で造作が進められています。小笠原國太郎と江川三郎八は、基本的な修行を宮大工として行っており、江川の修業が会津と考えれば、二人の技術的な繋がりを推定することができます」とある。
 江川氏の修業が会津であることが仮説表現されるが、先に整理したようにその確からしさの確率は高い。むしろ、手持ち情報では小笠原國太郎氏の修業場所が分からない。ただ、その出身が長岡であり、家族を長岡に残した状態での修行後、飯坂に落ち着く経歴をも考慮すれば、氏も会津での大工修業が想像される。

 それはそれとして、見学時点で何かを感じて撮った写真と、江川氏設計とかかわるとされる建築物の隅処理や天井の構造とを見比べる。
a0087378_9234110.jpg その一つが、この二階南西角の「床板の張り方」だ。
a0087378_9253371.jpg その部分の天井部も同じような設計に感じたが、パンフレットではこちらは紹介されず、「便所の天井」の天井部が紹介されている。
a0087378_930995.jpg  道草やわき道を大切にしたいと思っている散歩の勘が衰えたのか、うかつにも、便所までは確認してみてこなかった。
 パンフレットの紹介をお借りする。
a0087378_9311823.jpg 居間では、ちょっと座らせていただいた。ここは落ち着くなと思って眺めて視野に入ったのが、居間の天井隅。
 恰好がいいと思って撮っただけだが、パンフレットに「天井は折上額縁格天井」とゴシック文字での案内。

 実際の見学で感じるのは、日本間全体が醸し出す雰囲気であり、素人に設計者と施工者の境界線の仕事の差は見えていない。
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by shingen1948 | 2016-11-25 09:32 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「旧亀岡家住宅」のパンフレットの「旧亀岡家住宅のみどころ」に、「江川の設計考えられる部分を太ゴシックで表示した」とある。ここに羅列的に紹介されるものを、自分勝手な観点で整理している。
 まずは、西洋風外観に伴う内部空間処理だ。こちらを前回整理してみた。
 具体的には、玄関から三階の「八角形の尖塔内部」までの特徴的な西洋風建築に伴う空間処理確認。
 ただ、見学していた時の自分の関心事を思い出すと、特徴的な西洋風建築部分も感じるものはあったのだが、全体的には伝統的な日本家屋の雰囲気を醸し出していたこととのかかわりだ。
 玄関を入ると、そこに6畳の広間があることや、玄関の脇にもう一つの脇玄関がることだ。この脇玄関には4.5畳の控室が続く。
 実際には、こちららの感じが強かった。

 次の自分勝手な観点は、洋間だろうか。
 ただ、洋風な外観なのに、洋間は主人の書斎一室しかなく、他はすべて日本間だ。
a0087378_695121.jpg 自分が撮った写真を確認すると、ブリタニカ百科事典の書棚と、入り口しか写していない。多分、日本間に比べ、構造体にそれ程感心するようなことがなかったのだろうと思う。

a0087378_6105788.jpg パンフレットで確認すると、この部屋も江川三郎八氏の設計を推定しているようだ。
 特に、天井部が中央折り上げ傘板張り天井という構造になっていることが特徴的ならしい。
 パンフレットの写真は、それがよくわかるようにうまく撮られていることに感心する。

 他の江川三郎八氏の設計推定か所をパンフレットで確認すると、建築物の隅処理や天井の構造のようだ。
 こちらは、氏が宮大工修行をしていることとの関りだろうか。
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by shingen1948 | 2016-11-24 09:06 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 亀岡邸の設計に福島県技手が関与し、地元大工の小笠原國太郎が施工したことが推測できるということだった。その推定について、「伊達市ホームページ」の「旧亀岡家住宅」紹介文からは、次のような推定経緯が読み取れた。
 その一つが、設計者名が明記された記録はないが、他の様々な記録や他例との比較から江川三郎八が関与したと考えられるということだった。
 具体的には、「洋風農家かめおか」に亀岡邸の普請にあたった大工は福島市飯坂町の小笠原國太郎氏で、設計は本県最初の県会議事堂設計技師(氏名不詳調査中)とあるとしたが、その県会議事堂設計技師は江川三郎八氏であることが分かったということだった。
 その「洋風農家かめおか」は、桑折町公民館長岡二の編集で、当時の亀岡産業支配人亀岡憲吾氏談をまとめた冊子なそうだ。
 その江川三郎八氏にかかわる情報を福島県内ではあまりお見掛けしないので、自分勝手に岡山の情報と照らし合わせながら福島県技手としての江川三郎八氏を確認してきたところだ。

 ここからは亀岡邸に戻て、福島県技術者江川三郎八氏の関与を確認する。
 こちらも資料的には曖昧さがあるようだ。それで、岡山県に残る三郎八の手掛けた建物と旧亀岡家住宅との類似性を比較考察したようだ。これが、その二つ目の観点のようだ。
 その成果を示されているのが、「旧亀岡家住宅」のパンフレットの「旧亀岡家住宅のみどころ」に、「江川の設計考えられる部分を太ゴシックで表示した」という部分なのだと思う。
 パンフレットでは羅列的に紹介されるが、自分勝手な観点で整理していく。
 その一つの観点が、西洋風建築にかかわる部分で、玄関から三階の「八角形の尖塔内部」までの空間処理だ。
a0087378_5425096.jpg パンフレットでは「八角形の尖塔内部」が紹介される。ここが特徴的なのだろうが、立ち入り禁止なので見ることはできない。
a0087378_5462412.jpg  しかし、この「八角形の尖塔内部」に上る部分だって、その設計にかかわる部分だろうと勝手に想像する。



 この下が玄関の空間になっている。

a0087378_5485384.jpg

a0087378_5523816.jpg パンフレットでは、その細部の玄関のアーチと格天井と礎石の加工配置が紹介されている。
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by shingen1948 | 2016-11-23 09:31 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 今回の概観で、江川三郎八氏が福島県雇になって以降の概要がイメージできた。
 戊辰戦争以降福島県雇になるまでの概要を確認したいところだが、これが結構難しい。
 というのは、戊辰戦争後の氏の家族構成だが、母を頭に姉と8歳の三郎八氏ということではなかったかと想像されるからだ。
 一般的には、会津藩士の状況は、明治2年11月に、會津藩は本州最北端の下北の地に3万石の斗南藩として再生することにかかわって、斗南藩が支配する地域に移住開墾することになる。
 しかし、母子家庭の元藩士家族が、「(藩主)御子息容大公には御情け扶持として、僅かに三万石を給せらるゝに到れり」となった斗南藩に移住したものかどうか分からない。
 移住先から戻ったにしても、居住し続けたにしても、会津の藩士確認は、一般的には「士族名簿」で確認するようだが、こちらも確認は難しかった。
 ただ、その生活状況は「江川三郎八bоt」での次のつぶやきで想像できる。
 「我等も母子三人なれば、毎日白米六合を賜はる為め、漸くにして露命丈けは繋得られ共、如何とも致し難く、戊辰の役以前に四書の素読を習ひたるのみにて、其の上学ばんとするも師なく、書なし。只生あるのみなり」
 少なくとも、福島県雇を目指し、福島に向かう時点では会津若松に居住していたことが分かるのは、次のつぶやき。
 「いよいよ数年来の希望を達する緒ならんと、曽て信仰せる柳津虚空蔵尊に参拝し、母と妻とを此の家に残し置き、単身、福島県庁に向ひたるは、即ち明治20年3月上旬なり」
a0087378_1040397.png これは、参拝したという柳津虚空蔵尊を安置する本堂を、「只見川と云う奇岩怪石両岸に聳え風景秀絶なるを以って知らる堂あり」と紹介する「福島県写真帖」の「柳津」からの写真。

 その結果、どうだったかについては、今は消えているが「会津藩出仕者名簿」というページで「福島県江川三郎八М20.4.19福島県雇土木課、福島県М24.9.29福島県技手」が確認できる。
 福島県技手となった喜びは「茲に老母の齢も八十歳に到れり。幸ひ身も県技手となり、且つ大蔵省の嘱託の身なれば老母の知人、友人及親族等を招きて祝賀の宴を開きたり」とのつぶやきで分かる。
 
 当然、福島県技手となるきっかけとなる大工修業も会津若松だったことが、次のつぶやきで分かる。
 「先づ其の師を選ぶに当り、若松下二之町に山岸喜右衛門と呼ぶ代々の町大工棟梁あり。此の家は其の昔、江川家の養子となり、嗣いで小奉行を勤めたる音衛門は、此の山岸喜右衛門が弟なりしを以て、最も深き親族の関係あり、故に同氏を師と仰ぎたり」
 次のつぶやきは、山岸喜右衛門の身元にかかわる事だが、母子家庭の身元引受にかかわったとの想像もできないだろうか。
 「時の喜右衛重秀は、蒲生氏郷入国の砌、侶伴せる人より十七代の孫に当り、今尚当時拝領の屋敷を動かざる旧家なり余は此の師に就き専心業に従事せり。師も亦余暇を見出しては余を膝下に招き、種々教訓を授けらる」

 福島県雇江川三郎八氏の大工修業は、宮大工だったとされるが、それが次のつぶやきとかかわるのだろうと思う。
 「こゝに於て余も跳る心を容易に落付け、尚其の職に従事すること数年にして、明治15年の暮に至り、先づ一通りの斯道を得体するに到れり。尚堂宮建築に就きて進みて之を学ぶ」
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by shingen1948 | 2016-11-22 10:42 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 明治32年(1900年)の伊佐須美神社社殿再建に江川三郎八氏がかかわったとするならば、平成20年(2008年)10月3日に焼失した拝殿、授与所、10月29日に焼失した本殿・神楽殿・神饌所がそれだったという事になる。という事は、自分がそれまでに何気なく見ていた建物だったということだ。
 この旧本殿は、建築的には三間社流造といい、幣殿で接続された旧拝殿は七間社流造というようだ。屋根は銅板葺だったようだ。
a0087378_5514579.png この建物は、福島県立図書館が「デジタルライブラリー」として、ネットで公開している「福島県写真帖」で確認ができる。
 この写真帖は、福島県が明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が明治41年(1908)秋に東北地方を行啓されたことを記念して編集したものなそうだ。その中に「国幣中社伊佐須美神社」として紹介される。
 この神社が国幣中社とされるのは明治6年のようだが、それまでも、会津では由緒正しい神社とされ、歴代会津藩主が加護する神社だったようだ。しかも、翌年から元会津藩主松のご子息が宮司に就く前段階でもある。氏がかかわったとすれば、元会津藩士であったことを思えば、いかに名誉な仕事だと感じた事かと想像する。

 ここまで整理してみると、氏が福島県でかかわった仕事は、会津にかかわる仕事が多かったように思う。「会津藩出仕者」であることが考慮されたのだろうか。
 「江川三郎八bоt」というツイッターには、このことにかかわる次のようなつぶやきが見える。
 「噫!天は我が行身を憐み給ひて、老母の看護をなさしむる為め、斯くは若松の工場に出張を命じたるならんと天を仰いで再拝せり」
 姉と母を若松に残して、単身福島に出向いていたことも分かる。
 次のつぶやきは、この時点なのか別の時点なのかは分からないが、郷里である会津若松に帰省した際の行動が分かる。
 「翌十一日より郷里若松市へ帰省、直ちに祖先の墓前に拝参、今日の首尾を報告せり。夫れより恩師山岸翁を訪問し、種々なる教訓的注意を受け、(高木風に嫌はれ出づる釘は打たるの格言)尚四方八方の話に時を費す」
 前後のつぶやきから、ここでいう「恩師山岸翁」が大工の指導を受けた方であることが分かる。
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by shingen1948 | 2016-11-21 08:50 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)