地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2016年 09月 ( 26 )   > この月の画像一覧

 物語では、義経は、(正月)5日の朝、ここを立つ。
 継信、忠信の兄弟が、飯坂の「十綱の渡し」まで、送ってくる。その風景を次のように描写する。
 おそろしく深い摺上川の断崖をあけび綱の「籠渡し(かごわたし)」で対岸へ渡ってゆく。― 九郎は籠の中から、兄弟の姿を振り向いていた。わけて、忠信という口かずの少ない弟の、しょんぼりと立ち残っている姿が、なぜともなく、いつまでも、眸の底に残った。
 橋のたもとに建つ案内板では、その十綱橋(渡し)の由来について次のように解説される。(写真は2010年1月の十綱橋)
 十綱橋由来
 みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶すも人に いひわたるかな 千載集
a0087378_1185138.jpg 平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。
 文治五年(1185)大鳥城主佐藤元治は、義経追悼の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。
 その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
 明治6年(1873)盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが一年ほどして倒壊、同八年に宮中吹上御苑の吊橋を模して十本の鉄線で支えられた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。
大正4年(1915)橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。
昭和40年(1965)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。
 飯坂の はりかね橋に 雫する あづまの山の 水色のかぜ    与謝野晶子    
 昭和57年 福島飯坂ライオンズクラブ
 物語は、平安の頃であり、大鳥城主佐藤元治が文治五年(1185)義経追悼の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた以前の話だ。
 従って、その橋は「藤づるで編んだ吊橋がかけられていた」ということになる。この橋について「飯坂湯野温泉史」では、次のようにやや詳しく記す。
 往古は西岸に巨木を建て、之に藤綱十条を曳き、綱上に板を架して橋と為す故に名づく、と、国風題詠する所の、陸奥の十綱の橋是なり
 「国風題詠する所の、陸奥の十綱の橋是なり」に係るのが、案内板の最初に掲げられた「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶すも人に いひわたるかな (千載集) 」のことを指すようだ。

 「新平家物語(吉川英治)」が描写する「十綱の渡し」は、「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」ということで、渡しとも綱橋ともつかぬ装置を、吉川氏が創作したもののようだ。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-30 11:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「継信・忠信」の場面で、信夫荘郎党渡利猪太は、渡利の里で一夜を過ごし、馬を換え信夫山のふもとを駆けて大鳥城へ向かう。その大鳥城を「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」と描写する。
 「奇縁と奇なる日」では、義経と陵助重頼主従と案内役吉次とその同勢一行は、信夫山まで迎えに来た佐藤継信・忠信の兄弟に案内され、その「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」である大鳥城で逗留し、正月の接待を受ける。

 この「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」=「大鳥城」というのは「奥の細道」が設定した風景だ。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は、文知摺石を見た後、飯塚の里に向かい、佐藤庄司の旧館(大島城)を訪ねる。それから医王寺を訪れたように表現する。
 その医王寺と大鳥城の位置関係が次のように表現される。
 「佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す」

 巨視的に見れば確かにその位置関係ではあるが、その描写から浮かぶ距離感と実際の距離が極端に違う。
a0087378_8322925.jpg これは、福島市教育委員会・飯坂町史跡保存会・福島市飯坂学習センターが設置した「飯坂地区史跡・文化財案内板」から関係部分を抜かせていただいたものだ。
 ここからも分かるように、医王寺の丘と丸山の間は離れている。しかも、その間に小川という川が流れているのだ。この川名から想像する川幅よりも広い普通の河川で、摺上川にそそぐ。

 芭蕉一行が、ここを訪ねた順序も逆だろうと考えられている。
 一般的には、瀬上宿から星の宮に出て、そこから摺上川の河岸段丘上を、五郎兵兵衛館跡を経由して、まずは医王寺に来たのではないかとされている。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は一家の石碑を残す古寺である医王寺に入り茶を所望したことになるが、「曽良日記」との照らし合わせや当時の寺の状況から、ここにもフィクションが入っていると考えられている。
 一行は、そこから飯坂古道とされる道筋に沿って河岸段丘を降りて、小川を渡って対岸の河岸段丘を登り、大鳥城に来たのだろうとされる。
 或は、その脇を通って飯坂温泉に入ったのかもしれないとも、……。

 つまりは、ここに描かれるのはフィクションの世界のようなのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、その「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」=「佐藤一族の石が残る古寺」=「医王寺」という設定をそのまま採用していることが分かる。
 物語では「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」というこの設定を利用して、城で見も知らぬ尼と対面して、その素性を知り、夕燈の頃には佐藤兄弟が託される会話が展開される。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-29 08:36 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「奥の細道」の本文では、「キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になっている『信夫や捩摺』」を受けて、「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」ということで、文知摺観音を尋ねる。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 「苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ」ぐらいの意だとおもうが、先にこの句については、以下の所で整理している。
 「文知摺観音」での忘れ物②
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 曽良氏書留句の碑
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」は、これをも受けて表現しているように思う。
 「奥の細道」では、「あくれば」ということで、福島宿に宿泊した次の日から「信夫の里」の描写となるのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、伏拝から「信夫の里」の描写に入る。
 伏拝の風景を「ふと、駒の背からのぞくと、その辺りを幾すじも落ちてゆく野川の水は、異様なほど、まっ藍(さお)に見える」と表現し、ここを河原と設定する。
 しかし、実際の伏拝にはそういう風景はない。これは、一気に「信夫捩摺の里」の世界に導く細工だ。
 「奥の細道」では、実際に「もぢ摺の石を尋」ね、早苗をとっている早乙女たちの手元から「昔しのぶ摺」のイメージに入った。そこを「新平家物語(吉川英治)」では、この風景から直に「近くの里の家いえで、染藍(そめあい)を流しているせい」だろうということで、「昔しのぶ摺」のイメージにはいっているのだ。
 そこから逆に、早乙女たちの手元が見えるというイメージの重なりをも利用しているように思うのだ。そして、このイメージは、物語の時代背景である平安朝の上方の貴族・歌人・文人の世界では常識であるということを介して、登場人物までもが納得するという設定なのではないのかなと思う。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-28 08:43 | Comments(0)
 午(ひる)まえに伏拝(福島市)の河原をこえた義経一行は、「信夫の里のもじ摺」にかかわる風景を目にするという描写がある。こういう場合は、読者に一定の教養を保有していることを要求している。
 平安朝の上方の貴族・歌人・文人は、奥州(みちのく)にあこがれにも似た思いを持っていたということは分かっているという前提なので、特に解説されることはない。
 しかし、自分はそれを教養として持ち合わせていないので、いちいち確認するしかないのだ。

 そのあこがれにかかわって、「司馬遼太郎の街道をゆく(33)」では「信夫の里」と「もじ摺」について次のように紹介されている。
 信夫(しのぶ)」といえば、いまでこそ福島県の県庁所在地福島市(かつての信夫郡・信夫荘)にすぎないが、この時代(平安朝)のひとびとがきけば、千々(ちじ)に乱れる恋の心に、イメージを重ねる。単なる地名ではない。
 古代、奥州信夫の地は、乱れ模樣の絹糸を産した。
 その模樣がもじれて(もつれて)乱れたようであるところから「信夫捩摺(もじずり)」(忍摺)と都でよばれた。その染め方は、みだれ模樣のある巨石の上に白絹を置き、草で摺(す)って、模樣をうつし出したといわれる。
 この後、陸奥(みちのく)好きの第1号ととして、河原左大臣源融(みなもとのとおる)(860-920)と、奥州塩竈を模した庭園(枳殻邸=きこくてい)を作って、みちのくの山河こそ風雅の源泉であることを知らしめたことが紹介される。
 その方が詠んだ「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」について、次のように解説する。
 陸奥趣味の源融は当然ながら「信夫捩摺」というものを知っていた。かれはこの商品名を入れて歌をつくることで、信夫や捩摺の名を詩的レベルに高めたといっていい。
 後世、この歌は古典(本歌)となり、信夫や捩摺は、キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になった。
 そして、「みちのくしのぶ」ときけば、ここまでの連想が展開しなければ教養人でないという伝統が千年近く続き、これが少なくとも江戸期までは続いたと言い切られてしまう。

 自分は、とりあえずは読者としては失格なのだろうとは思う。
 しかし、ないものはないと開き直ったその上で、要求されている教養の知識部分を確認して、深読みに役立てることはできるのではないかとも思っている。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-27 11:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 この物語の内容から考えれば「奥州侵略の路」あたりのカテゴリーで整理したいところだが、今回は「芭蕉の足跡」のカテゴリーにしようと思っている。
a0087378_94670.jpg これは「旧道諸説を歩いてみる」として、奥大道とされる道筋を探って整理した時に使用した図だ。
 信夫の里へ続く辺りを示したものだが、水色で示したのが「奥州街道」の道筋で、緑色で示したのが「奥大道」とされる道筋、赤色で示したのが「米沢街道」の道筋だ。
 もしこの物語の時代に「信夫の里」に入るのだとすれば、奥大道だとされる緑の道筋をたどることになるはずだと思う。
 しかし、「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」への道筋は、水色の奥州街道の道筋をたどっているようなのだ。
 更に確認を進めると、意図的に「奥の細道」で描かれた描写と重ね合わせることで、文学的な真実感を醸し出そうとしているようにも感じられた。
 それで、「芭蕉の足跡」のカテゴリーで整理していこうと思ったということだ。

 なお、奥大道とされる道筋の散策は、2012年4月に、信夫の里から奥大道とされる道筋に入り、現金谷川までの行程を「旧道諸説を歩いてみる」として整理している。その金谷川付近を「続・旧道諸説を歩いてみる」で整理している。
 その信夫の里から奥大道とされる道筋に入る辺りを整理したのが「旧道諸説を歩いてみる②」で、そこから「旧道諸説を歩いてみる⑦」までで金谷川に抜ける。
 〇 「旧道諸説を歩いてみる②」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14979394/
 現福島大学構内を中心にその続きの道筋を探り「続・旧道所説を歩いてみる」として、「続・旧道所説を歩いてみる⑩」まで整理するが、石名坂の戦いや大河ドラマ「平清盛」視聴とのイメージも重なっている。
 〇 「続・旧道所説を歩いてみる
 http://kazenoshin.exblog.jp/15097011/
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-26 09:07 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 大河ドラマ視聴とのかかわりで、「新平家物語(吉川英治)」の部分読みをしたことがあった。この時に「信夫の里」が描写されているのを見たのだが、そのままになっていた。信夫の里が文学的に描写されることは少ないので、整理しておきたいと思う。

 信夫の里が描写される場面は、「みちのくの巻」の「継信・忠信」と「奇縁と奇なる日」の項だ。
「継信・忠信」の場面は、信夫荘郎党渡利猪太が大鳥城へ向かう途中に信夫の里が描写される。
 まずは白河の関付近が描写され、次の安達ケ原の描写があって、その途中の会話から信夫荘郎党渡利猪太が大鳥城へ向かう途中の描写であることが分かるという構成だ。
 その信夫の里付近は次のように描写される。
 松川、清水、鳥谷野の部落と駆けぬけ、彼の眷族(けんぞく)が住む渡利の里へ来たときは夜であった。
 ここでも馬を換えた。
 雑炊腹に温まって、しばし休み、また、信夫山のふもとを駆ける。摺上川の上流へ向かって急ぎに急いで行くのであった。そして、佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居へは、夜半すぎに着いた。

 「奇縁と奇なる日」では、義経と陵助重頼主従とその平泉への案内役吉次の弟吉六、吉内とその同勢一行が、松川宿から信夫の里に入る場面だ。
 午(ひる)まえに、伏拝(福島市)の河原をこえた。
 ふと、駒の背からのぞくと、その辺りを幾すじも落ちてゆく野川の水は、異様なほど、まっ藍(さお)に見える。
 「なぜか」
と、九郎は、また吉内を、振り向いた。
 「近くの里の家いえで、染藍(そめあい)を流しているせいでしょう」
 「お。信夫の里のもじ摺とは」
 「大昔から、この辺りの産物です。-都へ貢されていく布が、しのぶ文字摺とかいわれて、洒落者には、たいそう歓ばれるそうで」
 「見たことがある。忍ぶ草らしき模様を、藍で揉み染めにした布を」
すると、先に立ってゆく陵助が、急に、馬を止めた。
 「いずこの兵やら四、五十人、かなたに、備えているようだ。だれか、物見をして来い」
 人びとは、遠くへ眼をこらした。
 信夫山のすそを離れて、なるほど、一群の人馬が道を擁して、立ち並んでいる。
 結局は、佐藤継信・忠信兄弟が、ここまで義経を迎えに来たという設定になるのだが、それを次のような自己紹介で表現する。
 「当所、佐場野の藍坂に住む、荘司が後家の子ども、佐藤継信・忠信の兄弟にて候うが、母に代わって、おん迎えに参りました」
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-25 10:52 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
先の「信夫の里から東屋沼を意識する」のまとめとして、田沢村の遺跡分布に、吾妻山信仰とかかわる遺跡として、「貝沼」・「大宮神社」・「兎田」・「長秀院」、それに「種まき兎伝説発祥の地碑」をプロットした。
a0087378_1645294.jpg 今回は、その地図に長秀寺の旧地でもあり、田澤村開拓の祖といわれるという丹治屋敷あったという「石内」と、近くの「内」のつく地名をプロットした。
 また、先のプロットで、公園の印のようなものを「兎田公園」ととらえて「兎田」をプロットしたが、ひょっとすると山頂のガス施設かもしれないと思い直して、確実に「兎田」である位置にプロットし直した。
 本当は、田沢川と「石内」近くの貯水池もこの地の水源として記してみたかった。しかし、昭和50年と昭和40年代の航空写真を見比べると、肝心の「兎田」付近では、山沿いを走っていた田沢川を改変しているらしい。混乱したイメージになるのでやめた。

 田澤遺跡分布の図にこだわるのは、蓬莱団地と田沢村を連続的に意識したかったからだ。
 現時点では、蓬莱団地の縁に田澤村にあたる集落があるようにみえる。しかし、その見え方は逆で、蓬莱団地は田沢村の山を削って開発されたものだ。
 その田澤村開拓の祖といわれるのは、長秀院開基のかかわりでふれた石内の丹治氏といわれているようだ。
 その田澤村開村にかかわっては、「田澤町内会」のホームページ「田澤の歴史(その3)」に簡潔に整理されている。
 http://www.tazawa.jp.net/rekisi03.htm
 「明治の『村誌』では、天正10年(西暦1582)の頃、丹治但馬・同丹後・同縫殿助<石内の丹治庄衛氏の祖なり>、山間を開拓して耕地と為す、故に田沢と称すと言ふと述べている」とある。 更に、「内」附きの中世地名から、当村の開発はそれ以前にさかのぼるともある。今回の散策にかかわる「内」つきの地名をプロットしてみたのは、このこととのかかわりだ。

 なお、昨日整理では、丹治縫殿介が長秀院を建立開基の情報を確認したのだが、「福島の寺院明細帳」では、「田澤山長秀院」は、元和3年(1617)丹治庄兵衛創建とある。また、開山も慶安4年正月8日常光寺14世機山長全大和尚とあり、情報に多少の違いがある。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-23 16:47 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 本堂左手に不動堂が建つ。
 位置的に離れているが、長秀院鎮守「大聖不動明王縁起」がその案内だろうと思う。
a0087378_9152270.jpg
 
長秀院鎮守
 大聖不動明王縁起
 元和元年(1615)田沢石内の地に丹治縫殿之介という類稀なる篤信家ありて長秀院を建立開基となる。同3年清明町常光寺4世大和尚を御開山にお迎えし、仏法興隆を誓願す。
 惟時(このとき)長秀院守護を念じ、持仏不動明王を奉請し御堂を建立す。
 爾来、二度の大火に相遇(遭遇)するも、不動明王の加持力により尊堂は焼失を免れる。後世、不可思議な加護力を賛仰し、誰言うとなく火伏不動明王とお呼びし、霊験あらたかなお不動様として、人々の信心を集めている。
 火災消除 家内安全 商売繁盛
 交通安全 学業成就 厄除(厄年)開運
 酉年生まれ一代守り本尊
 大祭礼3月28日
 ご縁日毎月28日
 大聖不動明王奉賛会
 長秀院ホームページと照らし合わせると、「田澤山長秀院」は、元和3年(1617)11月12日、常光寺4世機山長全大和尚を「開山」に請して、曹洞宗寺院として開創される。
 それ以前、丹治縫殿介という方が帰依して結んだという「長秀庵(異称・長松庵)」があったという。それを、丹治縫殿介「長秀院を建立開基」と表現しているようだ。
 丹治縫殿介氏とは、天正年間に、現田沢・清水町の旧「田澤」村に入ったと言われる田澤村開拓の祖の丹治三兄弟の末弟にあたる方のようだ。この方が、元和元年(1615)石内の丹治屋敷に庵を建立して開山したとのことだ。
 従って、「持仏不動明王を奉請し御堂を建立」したのは、丹治縫殿介氏なのだろうと思われる。

 「二度の大火に相遇(遭遇)するも、不動明王の加持力により尊堂は焼失を免れる」とのことだが、長秀院ホームページで、そのうちの一度は弘化2年(1845年)の石内屋敷の大火であることが分かる。この時、不動堂を残してほぼ全焼したということだ。「火に包まれた鐘楼から、赤く灼熱した梵鐘がゴロゴロと下の田圃まで転がり落ちた」との古老口伝もあるのだとか。
 それで、先に記した嘉永元年(1848年)の現在地移転となるようだが、不動尊・不動堂は、その後も石内の旧境内地にあったようだ。それが、また火災にあい、明治33年(1900年)に現在地に移転されたという経緯のように読み取った。

 ここからは、「田澤山長秀院」の旧地石内は、田澤村開拓の祖丹治屋敷だったとの読み取りもできる。ここを中心に田澤村のイメージを広げるという見え方のヒントになっている。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-22 09:19 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「長秀院」は、「信夫三十三観音」14番札所だ。
 御近所では、順に12番札所が鳥谷野舘の「永京寺」で、十三番札所が黒岩上ノ町の「満願寺」だ。そして、14番札所の「長秀院」の次は、清水町の「仲興寺」だ。
a0087378_4323272.jpg 札所巡りでこの寺を訪れれば、この観音堂がこの寺の観音堂と思うのではないだろうか。
 しかし、案内を子細に読めば、「信夫三十三観音」14番札所「長秀院」の観音様は、十一面観世音菩薩で、寺の本尊ということのようだ。ならば、その定位置は本堂だ。

 ということは、こちらは案内にある当院別当の「田沢貝沼観世音菩薩」の観音堂と見た方が、辻褄が合いそうに思う。
 田澤山長秀院のホームページによると、この寺は、元々は川を挟んだ石内地内にあったという。それが、弘化2年(1845)に石内屋敷の大火で罹災したというのだ。
 それで嘉永元年(1848)に現在地に移転したということのようなのだが、その旧地からみた現在地を「東向かいの観音山に伽藍を移す」と表現している。
 ここからは勝手な想像なのだが、この観音堂は、その観音山に元々あったお堂なのではないのかなと思うのだ。
 しかも、ここは田沢貝沼の地名ではないはずなので、田沢貝沼にかかわりのある観音堂という見え方でいいのだと思う。
 稲荷社は分からないが、貝沼にかかわる観音堂は見つけたということにならないかということ。

 ここが「旧信夫三十三観音」2番札所で、御近所では、次の3番札所が渡利の「瑞龍寺」になるようだが、一番札所の「観音寺」が、信夫山の「観音寺」なのか鳥渡の「観音寺」なのかが分からない。今のところ、信夫山の「観音寺」なのかなと思っている。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-21 09:30 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 までは、散策は徒歩かママチャリが原則と勝手に決めているところがあった。それに、何かのついでに立ち寄るという、そこを通る必然性があるという条件を自分に課している。
 そんなこともあって、前回の田沢散策では、長秀院に立ち寄らなかった。
 そのことでちょっと落ち着かなかったのだが、最近、これまた勝手に車を使っての移動を許容とした。機動性が増したこともあって、今回は長秀院まで進んでみた。
a0087378_641592.jpg 今回の散策とのかかわりでは、「信達一統誌」に、長秀寺境内の稲荷社について「當邨里社七神の內 にもこの神(=倉稲魂命)おはす されば双方とも東尾沼神社を移せしならむ」とあることについての確認だった。
 しかし、実際には境内に稲荷社は見つからなかった。

 空振りだったかなと思って、案内板を見たら気になる案内があった。
 「山内特衹の菩薩・明王」の項に、「大聖不動明王尊・子安子育観世音菩薩」「貝沼観世音菩薩・出世観世音菩薩(当院別当)」とある。また、「札所」の項に、「信夫新西国三十三観音第14番札所長秀院本尊十一面観世音菩薩」と「信夫西国三十三観音第2番札所当院別当田沢貝沼出世観世音菩薩」の案内があったのだ。
 気になるのは、「田沢貝沼観世音菩薩」の中の「田沢貝沼」とある部分だ。稲荷社は見つからなかったが「田沢貝沼」が自分を導いたかなと、これまた勝手に思う。
[PR]
by shingen1948 | 2016-09-20 08:39 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)