地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 案内板の「大森鉱山坑内外相互図」には坑道が描かれるのだが、その解説はない。
 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の解説と照らし合わせると、昭和13年(1939)に田村鉱業に経営が移り、最盛期を迎えた頃の坑道の様子と想像される。
 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」は、昭和16年4月1日の発行だ。ここで鉱石を解説するのに、その採取場所として坑道が登場するのだが、この坑道が案内板の図の坑道と重なっているものと想像することができる。
 その表現から、坑道を拾う。
 「城山東北山腹、熊ノ山坑内」、「35m坑」、「45m坑」、「玉ノ森坑」、「15m坑」「東110m竪坑」の名称が読み取れる。
 坑口にかかわりそうな表現を拾うと、「35m坑南大(金+盾)入の入り口」・「玉ノ森坑入り口並びに同斜坑付近には礫岩の間に砂岩を挟む厚い層を見出せる」というのが読み取れる。

 結果的には見つけられなかったのだが、案内図をたよりに「黄金八幡」の南側を探ったということ自体は、「35m坑南大(金+盾)入の入り口」とのかかわりで、それ程間違ってはいなかったのかなと思う。

 次に、手持ち資料からこの鉱山の沿革にかかわる表現を拾ってみる。
a0087378_17474349.jpg 「福島の鉱山」では、「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とある。
 はっきりわかってはいないのだが、その鉱床露頭部というのは、黄金八幡社の北側のこの岩辺りをいうのかなと、勝手に想像している。
 案内板では、沿革にかかわって、次の3項目の表現で解説される。
〇 大森鉱山の沿革は、永禄年間(1558-1569)から天正年間(1573-1591)の開坑といわれています。
〇 慶長年間(1596-1614)徳川幕府時代には、盛んに採掘されたと伝えられています。
〇 大森城山と西方睡眠山(黄金八幡)とその西にある玉の森山に坑道の跡が残り往時を物語っています。

 「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の沿革解説では、「鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠あり、付近に石臼等を産して、金鉱精錬の遺物と認められ、鉱区の一部玉の森には珪化石英粗面岩質凝灰岩中数個の竪抗存在し、往時探鉱の跡の如し」とある。

 これらの中から「鉱床露頭部」にかかわる表現を拾うと、「福島の鉱山」の「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とあり、案内板に「西方睡眠山(黄金八幡)に坑道の跡が残る」という表現がある。これ等を「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」では、「鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠あり、付近に石臼等を産して、金鉱精錬の遺物と認められる」と表現しているのだろうと思われる。
 その前に、大森鉱山の金鉱床は熱水性鉱床だという情報がある。鉱物については全く分からないのだが、資料からは黄金八幡の旧祠あるあたりが鉱床露頭部と読み取れる。
 それで、現黄金八幡社近くの岩場を鉱床露頭部と想像したということだ。この付近から石臼等が見つかったということと、近くに坑道跡が存在するということを想像してみたが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-06-29 17:49 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 「福島の鉱山」の解説と「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の地質図を照らし合わせながら確認しているのだが、分かりづらいのが、ここを断層群が走っていることと坑道とのかかわり部分だ。その断層群について、「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」で確かめる。
 著しい断層群は、ここをほぼ東西に貫いているようだ。その南側は北側に比べて地体の沈下が著しいとする。
 その具体例として、東110m竪抗付近には、この断層の北側においては疎水坑道水準以下15m内外で基底の片状花崗閃緑岩に会するが、南側ではその水準以下60mにおいても、その上位の角礫凝灰岩を見るだけだとする。その断層を子細に見ると、いくつかの断層群が重なっているのだが、巨視的に見れば、それらの多くが交互に東西に連なって、その北側の花崗閃緑岩と南側の第三期岩類と界する場合が多いのだとか。

 ただ、これらのことは、坑道開削によって明らかになる事なそうだ。そんな中、注目は単に地表を散策している者でも分かる部分があることも紹介されていることだ。
 その一つが、城山を貫く断層線だ。
 城山北端における崩崖面上、その北西側はその頂上付近まで片状花崗閃緑岩を露出しているという。しかし、東南側は礫岩、角礫凝灰岩、頁岩等の互層を露出しているというのだ。そして、その中間に崩崖部があって、ここが明らかに断層線にあたるというのだ。
 もう一つか、黄金八幡登路の中段とのことだ。

 この中の城山の断層線について思い当たることがある。
a0087378_9504439.jpg それが、ここだ。
 しかし、この写真はその断層線を意識して撮っていない。この時に意識していたのは、空堀跡としての窪みだ。
 その事については、「大森城③」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13824293/
 ここで「南舘」として整理している部分が、今回の鉱山地質図では「熊ノ山」と紹介されている部分で、「本丸」と整理している部分が、今回の鉱山地質図では「城山」と紹介されている部分だ。その間が窪んでいて、「熊ノ山」側が若干低いということだ。
 その窪みを、前回は「伊達市文化講演会」の資料として頂いた「大森城跡複合図」解説に従って「堀跡」としみていたが、今回は同じ窪みを断層線とみているということだ。その延長線上に黄金八幡登路の中段の位置が確認できる。
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by shingen1948 | 2016-06-28 09:52 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

 城山付近を「大森鉱山」と見た場合、その中心は八幡山のようだが、その全体は城山、八幡山、玉の森等の丘陵が福島盆地に半島状に突出した大森、平田、鳥川三村の界に跨がる広い範囲のようだ。

 「福島の鉱山」では、この辺りの地質と鉱脈との関係を解説するのだが、解説だけでは理解できないので、「福島県大森金山の地質鉱床(渡邉萬次郎)」の地質図を見ながら確認させていただく。
 「福島の鉱山」では、次のように解説される。
a0087378_11381886.jpg
 
 これらの丘陵(城山、八幡山、玉の森)は、いずれも主として凝灰岩、砂岩、頁岩からなるが、その基底には片状花崗岩を露出し、その大礫を主とする礫岩を挟む。これらの地層と規定岩との間は断層群で界され、それらは大体東西に走って南側に落ちるが、それを東にN60°wに貫く断層に切られ、西側の部分ほど順に南に転移する。
 鉱床はこの二組の断層を交互に辿って、総延長500m上下100mに達する。そのうち採掘に耐える部分は、東部富鉱帯100m西部富鉱帯80mの2ケ所で、一部は縞状石英脈を主とするが、多くは断層角礫帯を充填並に鉱染した部分で石英、玉髄、氷長石、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱等と共に金銀を伴い、厚さ1~3mに達する部分もあった。品位は大低Au10g/t、Ag40g/t内外で上部は酸化して高品位であったが、下部は硫化物に富んで品位は低下した。
 この地質と金銀鉱脈とのかかわりだが、要はこれらは基岩が変質した姿であり、そうさせた多量の熱水溶液の作用が働いたという事のようだ。この作用で金銀鉱脈ができることがあるというふうに読み取った。これらの岩質が、金銀鉱脈を見つけるための指標となるということなのかなと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2016-06-27 11:39 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。

a0087378_6121943.jpg 大森鉱山を意識すれば、この八幡神社のある睡眠山がその中心のようだ。確かに、鳥居の右奥を見れば、それらしい岩山であることが分かる。
 「福島の鉱山」では、「大森鉱山」の位置は次のように説明される。

 松川金山の北に近く、福島駅の西南5㎞、大森、平田、鳥川三村の界に跨がり、城山、八幡山、玉の森等の丘陵が福島盆地に半島状に突出した部分にあり、嘗て事務所を八幡山の北麓に、精錬所を城山の西側に置いた。
 案内板ではその事務所跡はプロットされていないが、ここでは「事務所が八幡山の北麓に」あったことが記される。
 ここでいう「八幡山」というのが、案内板にある「(大森城の)西方にある睡眠山(黄金八幡)」ということだ。案内図では、山の北側を中心に、周りにたくさんの鉱山関係の施設跡があったことは図示される。
 特に、神社の北側の道路の北側に広大な施設が広がるが、恐らく、鉱石の運搬や集積、砕石にかかわる施設だったのではないかと想像する。
 ここが鉱石の集積場なら、先に整理した丸山鉱山の鉱石はここに運び込まれたことを想像するところだ。
 案内板では「信夫山や大笹生地区の鉱石も精錬したと伝えられています」ともある。
 「福島の鉱山」ではこのことにふれていないが、信夫山(福島)鉱山休止は昭和18年であり、しかも下層では硫化物の混入の情報があった。大笹生地区の鉱石も「硫化物の分離」が必要だったような情報がある。ならば、その「硫化物の分離」とのかかわりで、ここでの精錬の可能性は想像できるのだが、確認はできていない。
( ※ ここを単純に大森の八幡神社と表記できないのは、大森の八幡神社といえば、街中の八幡神社を指すからだ。しいてその表記を使うとすれば、大森の竹ノ内の八幡神社といえばいいのかな)

 散歩という手段で鉱山を確認できることの一つに坑口があるのだが、「福島の鉱山」の情報では「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」とし、慶長年間採掘の跡と結びつけられている。案内板の情報では、「大森城山と西方にある睡眠山(黄金八幡)とその西にある玉ノ森山に坑道の跡が残り往時を物語っています」とあり、近代の最盛期の坑道にかかわる坑口跡の存在をにおわせる。
 何度か図示された坑道と照らし合わせて、その坑口らしきところを探してみたが見つからなかった。ただ、城山公園の西トイレの崖がいつ行ってもがけ崩れの工事中で散策できないのだが、図と照らし合わせて、この辺りもその候補地の一つなのかなと想像はしている。
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by shingen1948 | 2016-06-26 09:11 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 昨日整理の「大森鉱山」の続き。
 
 昭和13年田村鉱業会社が買収してから、大森鉱山の最盛期を迎える。昨日整理の県内第3位の金の産出量の中には、先に整理した平野村の「丸山金山」の鉱石も含まれる。
 「丸山金山」はこの鉱山の支山で、そこからも原鉱が運ばれてきていて、この原鉱と本山から供給した原鉱を粉碎した後、ここで精錬されたようだ。

 最盛期を迎えることができるようになった一因に、最新の精練に変えた事が挙げられるようだ。
 それまでの混汞精錬から、硫化物を加へる全泥青化精錬に変えたとのひとだ。
 駐車場脇に建つ案内板では、その最新の全泥青化精錬場がこの右側の傾斜地にあったことが案内される。それは、「昭和14年(1939)近代的な精錬場が建設され、昭和21年(1946)まで精錬されました」とあることから分かる。
a0087378_917376.jpg その精練所跡がここのようだ。「大森金山精錬所跡地」の案内板が建つ。
 城山を意識すれば、大森城への西口が案内された道筋の突き当りの位置だ。この大森城を大森鉱山と意識すれば、「(大森鉱山)事務所の東方、城山の西斜面に設けた製錬所」という位置関係になるようだ。

 原鉱は、この精錬所に運ばれる前に粉碎作業があるようだ。その作業場は、案内板にあっ睡眠山の北側の鉱山施設なのではないのかなと想像する。
 この精錬所では、まずは、その粉砕された原鉱から「硫化物の分離」されるようだ。その分離された硫化物は、「小坂銅山に売鉱」されたという。その分離された残部が青化製錬されて金となるということのようだ。

 昨日整理の県内第3位の金の産出量の他に、銅精製の原料として売鉱される硫化物も精製されていたということらしい。
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by shingen1948 | 2016-06-25 09:16 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 余談のそのまた余談というふうに、どんどん話がそれてきたので、「福島の鉱山」まで話を戻す。

 「福島の鉱山」で、「福島鉱山(信夫山金山)」の手前に解説されているのは「大森鉱山」だ。この金山の歴史は古く、ここが城山であることもあって、ついそちらに話を持っていきたくなるのだが、そちらの情報は少ない。
 ここは、近世に入っても開発は続けられていたようで、その最盛期は、昭和13年田村鉱業会社が買収してからのようだ。今回は、そちらの話を中心に整理する。
 これ以前は、主として上部の酸化帯を稼行して混汞精錬をしていたとのことだが、田村鉱業になってからは竪抗で福島盆地の表面以下の部分まで採掘するようになったという。また、その精練も硫化物を加へる全泥青化精錬場を建設したということで、重要金山の一つになったということだ。
 昭和15年の算出精錬含金量は61764gで、昭和16年は69846gと報告されている。これは、県内第3位、東北諸金山中第10位の産出量だったということだ。重要金山であったという割には、あまり知られていないような気がする。

 城山の山頂近くの駐車場西手に案内板が設置される。
a0087378_9453047.jpg そこに採掘や金山施設の様子が図示されているが、これが最盛期の時代のもののようだ。
 「福島の鉱山」によれば、その近代の沿革は次のようだ。
 (慶長年間採掘後)、廃山中のところ、大正2年安孫子平三郎氏再開、大団幸之助氏に委譲、混汞精錬を開始し、大正6年山口嘉三氏により㈮205匁、銀714匁を産したが、大正8年休山、同14年山井景美氏再開、一日8~10屯の処理を続けたが昭和2年坑内陥没のため休山、同8年角田文平氏再興、混汞銅板採金を開始し、翌9年には金10418g、銀47626gを産した。

 その前に、「露頭付近には旧坑多く、慶長年間採掘の跡と伝えられる」と解説されるが、別資料では、ことについて次のように解説されている。
 本金山の起原はよく分からないが、鉱床露頭部には黄金八幡の旧祠があって、附近に石臼等を産していて、これが金鉱製錬の遺物と認められているということだ。また、鉱区の一部である玉の森には、珪化石英粗面岩質凝灰岩中數個の竪坑存在していて、探鉱跡だと考えられているとのことだ。
 その別資料によれば、大正時代の採掘については、大正末期まで年間1万円以上金銀を産し、その産出量は継続されていたとされる。それが、大正末期に衰退し昭和8年に再興されるのは、金価高騰による復活だったとの解説だ。
 ただ、この時代までの採掘は上部の酸化帯で、その精練は混汞精錬ということだった。その復活の流れで、田村鉱業会社が買収して最盛期をむかえたということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-06-24 09:42 | 福島の鉱山 | Comments(0)
 中野鉱山跡から移動した大平の俎山の地点は、大笹生大平集落に通じる通称「赤岩道」が菱川と出会う地点とのことだった。前回の整理で、本格的に私立ローマ字学校の事業が展開されるようになるのは、この地点らしいことが分かった。
 その中で、通称「赤岩道」というのは大滝集落から赤岩駅への道筋らしいことも分かる。菱川沿いには、杉の平集落からその菱川に沿った道筋があったようで、大滝集落からの通称「赤岩道」と杉の平集落からの菱川沿いの道筋の交点西側の標高450mの高台付近にこのローマ字学校は建設されたということになるようだ。
 青葉学園の資料によると、その土地は平野村長紺野繁右衛門所有地とのことだが、< 街道Web >の情報によれば、この方は平野村の資産家だった方で、円部集落の製炭改良組合へ設立資金を貸すなどしていた方とのことだ。
 前回の整理で、この土地を紹介された方は、元々は大滝集落で炭焼きの名人であった方らしいことや、この方の炭釜が近くにあることを考え合わせれば、この組合繋がりなのかなと勝手な想像が浮かぶ。
a0087378_13172376.jpg 平野の井野目村散策で、その紺野繁右衛門氏のお名前を目にしている。
 三角山のフルーツライン側からの入口に建つこの「道路竣工記念碑」の12名の村会議員の2番目に刻まれている。この道路竣工が大正3年のようで、この時点では村会議員だったようなので、その後村長になられたということなのだろうと想像する。
 平野の井野目の散策では、もう一人井野目堰にかかわる願外しの中心人物だった紺野伴右衛門氏が気になっているところだが、この方はこの石碑上では、青年会副会長の役職になっていらっしゃる。
 この一字違いは、関連がありそうで偶然ではなさそうだと勝手に思っているところだが、ついでに、この石碑の中に、もう一人一字違いの方がいらっしゃる。それが、寄付者紺野九右衛門氏。

 今回の整理は、「福島に創設された『私立のローマ字学校』」というよりは、平野村の井野目集落の散策とのかかわりで、また余談の余談になってしまった。
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by shingen1948 | 2016-06-23 13:38 | Comments(0)
 「私立のローマ字学校」は、昭和23年10月に中野鉱山の操業再開に伴って、大平の俎山に移動するという。その地点は、大笹生大平集落に通じる通称「赤岩道」が菱川と出会う地点とのことだ。
a0087378_177136.png 青葉学園の資料に掲げられた案内図を確認すると、主として目印となるのは川と山地のピークのようだ。目印はそれしかなさそうだ。そのピークと道筋を正確な地図で確かめ、この地図に書き写してみた。そのピークは確認されるものの、案内される道筋自体はなさそうだ。ただ、地図に描かれる切れ切れの道筋の所々が、案内される道筋と重なってはいるようなので、その等高線を参考に切れている道筋を赤線でつないでみた。こんな感じだろうか。
 実際に散策するつもりはなく、その雰囲気を味わうだけだ。

 青葉学園の資料によると、この土地は平野村の紺野繁右衛門氏の土地だが、山の監視と山火事予防の見張りをするという名目で、無料で借りたということのようだ。そこに建物を建てるのには、創設者の印税と共同募金の補助が資金になったようだが、建設大臣もしたことのある福島の国会議員A氏の尽力という。

 案内地図に乙次郎という方の炭窯とその方が自宅をなげうって住まわれたという二間と三間半の小屋を建てて移り住んだというお住まいが記される。そのままプロットさせていただいた。
 青葉学園が、大平の俎山に移動するのは中野鉱山の操業再開に伴うものという側面もあるようだが、建物を新築して本格的に事業を行いたいということもあったようだ。その為の土地探しをしている時に、この乙次郎という方の口利きでこの土地がみつかったということのようだ。この方は、元々は大滝集落で炭焼きの名人と言われていた方らしい。
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by shingen1948 | 2016-06-22 17:08 | Comments(0)
 「私立のローマ字学校」が創設されたのが鉱山跡で、その創設を探ることによって分かる「福島の鉱山」の情報があるということで「福島の鉱山」のカテゴリーの中で取り扱ってきた。
 しかし、「私立のローマ字学校」がここ福島に創立されていたという事でも整理しておきたいと思えてきた。それで、今回から「福島に創設された『私立のローマ字学校』」というカテゴリーを独立させる。

 ローマ字学校創設者は、戦争孤児を引き取り養育していく中で、その子供の教育と言語研究とを両立させるという念願があった。軍人援護会東京支部から戦争孤児の紹介を得て、その教育を行う場探して福島にやってくる。
 福島の地を選択するきっかけは、ローマ字学者の友人佐伯功介氏に福島県知事石井政一氏を紹介されたことのようだ。
 その石井氏のご厚意で、中野字東横川のw氏の蚕小屋が紹介された。しかし、その段取りが済んで東京に戻ったのだが、東京大空襲によって軍人援護会東京支部が焼失し、孤児名簿も焼失してしまっていたということのようだ。この大空襲が昭和20年3月10日だ。
 その4月には、創設者ご夫婦は、約束通り中野字東横川の蚕小屋に居を構えて、中野村国民学校杉の平分教所助教としてやってきた。蚕小屋は、戦争孤児との生活と教育の場を想定していたようだ。
 
 中野字東横川のw氏は地区の学務委員で、分教所に先生を探して来るというのもその一つの仕事だったようだ。空いていた蚕小屋を貸すことを条件に、創設者を中野村国民学校杉の平分教所助教として確保したということのようだ。
 しかし、この年の8月15日に敗戦となって、w氏は戦時中休止していた養蚕を再び始める計画を立て蚕小屋が貸せなくなる。
 それで、創設者は、更に山奥の鉱山跡に福島県の戦災孤児も引き取り、引っ越すことになったということだ。これが、青葉学園の茂庭村蛇体創設物語につながり、中野鉱山跡への移動の整理につながる。

 「私立のローマ字学校」は、昭和23年10月にはそこから大平の俎山に移動することになる。その地点は、大笹生大平集落に通じる通称「赤岩道」が菱川と出会う地点とのことだ。
 この移動は中野鉱山の操業再開に伴う移転ということなので、ここまでが、「福島の鉱山」の整理とかかわっているということだ。
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by shingen1948 | 2016-06-20 11:40 | Comments(0)
 青葉学園創設者ご夫婦が、約束通り中野字東横川にやってきて、中野村国民学校杉の平分教所助教の奉職につくわけだが、散歩写真を確認したら、この辺りを1012年3月にママチャリを引きながら散歩していたようだ。
 この時の散歩写真を確認すると、飯坂方面から国道13号線バイパスに抜けて、橋本大明神などを確認しながら、円部集落を散策し、この山神社までやってきたようだ。ただ、この散歩の時点では、青葉学園創設者ご夫婦が福島に落ち着かれた最初の地という事は頭にはなかった。
a0087378_1252345.jpg 今回の整理で確認できたのは、この杉の平の山神の後ろの川沿いにある道筋が、創設者の通勤路だったらしいということだ。この道筋の右手の国道を横切って先に進むと、創設者ご夫婦とお子さん等が住んだという中野字東横川の蚕小屋があるようだ。
 その反対に、この神社の後ろの道筋を左手に下っていくと、杉の平集落や分教所があるようだ。青葉学園創設者は、蚕小屋から杉の平分教所まで通勤していたということになるのだろう。

 もし、東京空襲や敗戦というハプニングが無ければ、この蚕小屋に私立のローマ字学校が創設されることになったのかというと、そううまくはいかない事情もあったようだ。
 児童福祉施設の認可は可能なようだが、私立学校の設立条件に合わないようだ。
 周りの学校から4㎞以上離れていることが私立学校の設立条件にあるようで、杉の平分教所との距離が問題になるようだ。少なくとも、杉の平分教所の教員をしながら私立学校の創設を目指すということには無理があるようだ。
 それらの情報を確かめると、蛇体での生活は冬には成立しなくなるという厳しい所ではあったようだが、蛇体への移動はタイミング的に踏ん切り時だったということではあったということのようだ。
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by shingen1948 | 2016-06-18 13:24 | Comments(0)