地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 「原宿」地区から「鷺」地域まで川石川(荒川用水)を意識して歩いてみると、インパクトの強い風景が、うめご保育園付近の風景だ。
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 先の「如意輪観音堂」の解説に、「昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ」とあったこととかかわる風景でもあるようだ。
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 半沢氏の「歴史地図」には、「梅子館 梅子の清水 うめご保育園」がプロットされるが、その事ともとかかわるのだろうと思われる。
 このうめご保育園の北側を流れる川石川(荒川用水)に濠のイメージを重ねてしまうのだが、「信達二郡村誌」では「濠は埋りたれも水少しく滞溜す」とするので、明らかに違う。

a0087378_17215067.jpg 「歴史地図」では、梅子館はうめご保育園の東側にプロットされている。
 それで、散歩中は、この橋辺りがその館の北西隅のイメージで眺めているが、定かではない。
 その「梅子館」は、「信達二郡村誌」に「古内舘」とある古跡とも重なるのだと思う。この館は「荒井村古跡」では、次のように紹介される。
 「古内舘」
 西部梅後に在り 古内主膳正居る所なり 西北に門の故跡有り 東西に壊塁少しく存す 濠は埋りたれも水少しく滞溜す 此の近傍牛沢と称する地も又古館址有り 何人の居しや考ふ可からす 
 主膳正は 伊達輝宗親子に降参し 伊達郡藤田駅の傍なる山崎の館に移り 後岩沼 今の陸前国名取郡の館に移住す 伝言ふ 主膳正一女有り 梅子といふ 此の館を去る時梅子を留め 近傍に農民7戸有りたるに託して山崎に移る 後梅子夭死す 葬りて石の祠を建て之を12御前と称す 7戸の者の子孫皆転居して今は1戸も本村に居る者無し 姫の名を以て土地の字とし 文字を易へて梅後とす 今存する石祠の地主は7戸の者の子孫に非すと村人いふ

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by shingen1948 | 2015-11-30 08:17 | Comments(0)
 「信達二郡村誌」によれば、「信夫の山」は信夫山だが、「信夫の浦」はこの原宿辺りで、「信夫か原」が自衛隊敷地内「愛宕原」だとのことだ。
 この原宿辺りが「信夫の浦」とのイメージでこの辺りを散策し直せば、いつか気になりだすのが、この地域を潤す主役の川である石田川(荒川用水)だ。この川が「原宿」地区の特色を整理するのに欠かせないと思えてくるのだ。
 半沢氏の「歴史地図」の荒井中央区区域のメモに、次の解説がある。
地名に、○○内とつくのは、中世以降に開拓、集落が形成されてきたところかと思われる(在家)。川石田灌漑地域にあり、開田が可能なところである。
 その反対に用水路が引けない山麓には○○原という地名が多い。

 「荒井中央地区」と「荒井下地区」のおおよそは、その川石田灌漑地域であることが分かる。用水路が引けない山麓というのが、「荒井上地区」のおおよそ南東部分ということのようだ。

 この辺りの川石田川は、地形のかかわりで高地の縁を流れている。散策では、それを追うのだが、この先の「鷺」地域で大きく南に蛇行する。そこから川石田灌漑地域が大きく広がるようになるのだ。
 この辺りが、その「鷺」地域あたりだろうと思う。「歴史地図」では、この「鷺」地域について次のようなメモを記す。a0087378_332695.jpg
 「鷺」は崎。
 崎ははんらんする土地の先端につき出た河川段丘上の土地で、人が住むのにはつごうがよい。
 散策の中で、この辺りだろうと確信を持つことができるのは、旧街道の「鷺」バス停だ。
 ここから東側のおおよその地域は川石田灌漑地域となる。半沢氏がいう「内」の地域だ。この蛇行した流れの右側(南側)は高地で、この川での灌漑はできない地域になる。半沢氏がいう「原」の地域だ。
a0087378_385939.jpg 「原宿」地区付近を、その川石田灌漑地域の「内」と「原」の境界を意識しながら眺めると、こんな風景が見えてくる。「原宿」地区は、川石田川の河岸段丘上でもあるという風景だ。「信達二郡村誌」がいう「信夫の浦」の風景を意識した眺めということでもある。

 再掲すれば、「古人題詠する所の信夫の原は原宿なりといふ 高敞にして最眺望に宜し」とある「高敞にして最眺望に宜し」風景という実感が伴う。
 ここを会津街道とのかかわりで眺めれば、先に整理したように馬のつなぎ場の宿となっていたということでもある。
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by shingen1948 | 2015-11-29 08:58 | Comments(0)
a0087378_10425730.jpg 「東北農業研究センター」の次の大きな施設は陸上自衛隊で、ここがその施設の正面。大きな施設であるとともに、後でふれるように、この自衛隊敷地内が「愛宕原」であることも気になるところだ。そのことについてふれるのは、この施設の手前に建つ「如意輪観音堂」を整理してからにしたいと思う。

 ここが、その「如意輪観音堂」。「信達二郡村誌」では、次のように紹介される。
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 如意輪観音堂
 中部原宿に在り 境内東41間5分 南北27間9分 段別28歩 外に属地石塚9歩 共に民有地 本尊木像は行基菩薩の刻む所と云伝ふ 昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ 宝暦五乙亥年三月七日火災に罹り古文書を亡ふ
 「昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ」の部分は、後で「西部梅後の本村古内の城」散策とのかかわりで整理したい。 
 今回は、ここを半沢氏の「歴史地図」には「原宿観音」と紹介されるのだが、その「原宿」にこだわっての整理だ。
 昨日もふれたように、「歴史地図」には以下のメモが記される。 
江戸時代、ここが土湯街道のとき、このあたりは馬のつなぎ場の宿として使われた(原宿)
 この「原宿」地区の別の側面を知ることになったのは、「信達二郡村誌」で「地蔵原」を確認した時なのだが、それも整理しておく。
 「信達二郡村誌」の「荒井村」の「原野」の項に、「地蔵原」と「愛宕原」が紹介されるのだが、その「地蔵原」の紹介後半に、この「原宿」地区が次のように紹介されているのだ。
 古人題詠する所の信夫の原は原宿なりといふ 高敞にして最眺望に宜し 新古今ニ条院讃岐の歌にうちはへて苦しきものは人目のみ信夫の浦の海士のたくなは 新勅撰家隆の歌に人しれす信夫の浦にやくしほの我名はまたきたつ煙かな 新古今入道前関白の歌に日を経つつ都しのふの浦さひて浪よりほかのおとつれもなし
 都人の言葉遊びの世界の話で、どうでもいいことではある。ただ、福島の散歩資料では、信夫山についてはこの都人の言葉遊びの世界の話まで紹介されるのに、こちらが紹介されるものをみない。その不均衡への抵抗として記しておきたいのだ。
 言葉遊びでの「信夫の山」は信夫山だが、「信夫の浦」はこの原宿辺りとのことなのだとか。ついでに、「愛宕原」の項からは、「信夫か原」の言葉遊びの地は、自衛隊敷地内「愛宕原」だとの紹介部分も記しておく。
 山上に愛宕神社鎮座す 故に原の名とす 新古今家隆の歌 一目のみしのぶか原にゆふしめの心のうちに朽やはてなし 新拾遺後一条入道関白の歌 あらはれて露やこほるるみちのくの信夫か原に秋風そ吹

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by shingen1948 | 2015-11-28 08:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_6245511.jpg 山神社を過ぎて次に気になるのが、街道筋の左手に見える大きな施設。ここから大きな施設が立ち並ぶのだが、その最初の建物は「東北農業研究センター」の看板を掲げる。
a0087378_6261480.jpg 目印のバス停は、「目増」だ。
 確認する中で分かってくるのは、目増地区を通り抜けてこの土湯会津道に交わる道筋が、明治以降の土湯会津道とかかわるらしいこと。明治39年に、現荒井横断道路ができて、自分のイメージでは旧土湯街道にあたる道筋が明治44年にできて、この明治39年にできた現荒井横断道路と交わり街道自体はそこから西進する。
 それをそのまま土湯会津道まで延ばし赤仁伊田―日増線とされるのが、ここで交わる道筋のようなのだ。「歴史地図」のメモによれば、これも明治44年の時点でできた道筋のようだ。

 「東北農業研究センター」の次の大きな施設は陸上自衛隊で、勿論こちらの風景も散歩中に気になったが、もう一つ気になったのは、その施設の手前に建つ「如意輪観音堂」だ。たくさんの墓や供養塔群がある。
 この確認とかかわるのが、街道筋で人家のある辺りにとびとびにある小字名「原宿」。この辺りの反対運動の看板にも「原宿」という地区名が使われている。この「原宿」についても、確認する中で分かってきたことの一つだ。
 半沢氏の「歴史地図」には、江戸時代、ここが土湯街道のとき、このあたりは馬のつなぎ場の宿として使われた(原宿)と解説される。
 散歩をしている時には、昔はこの辺りが栄えていたということの痕跡だとの認識だけだったが、「信達二郡村誌」での確認を通して、別の見え方もあるらしいことを知った。
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by shingen1948 | 2015-11-27 08:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「土湯会津道を歩いてみる」ということで、朝日舘辺りから、現県道南福島―地蔵原線の道筋に沿って歩いている。
 昨日は、「石仏」地区の会津道沿いに石仏が並んでいる風景は、どこにでもあるごく普通の風景なのだが、バス停名とのかかわりで気になる風景になっていることについて整理した。
a0087378_18445215.jpg そのバス停「十三仏」からバス停「若仏」の間で、散歩中に風景そのもので気になったは、「山の神」神社だ。
 ここは、バス停「小堀内」付近の火の見櫓や蔵のある風景から少し先に進んで、集落の中心地からは少し外れかけたあたりだ。

a0087378_18513030.jpg 正面の建物は新田集会所で、その右隣が神社になっている。
 前面に鳥居があって、石塔群がある。その奥に神社がある。拝殿はごく普通だが、奥の本殿の建物が、結構素敵な建物だなと思ってのぞかせていただいて、山神様だと分かった。それが、散歩中の事。
 家に戻ってこの神社について「信達二郡村誌」がどう説明するかを確かめようとしたが、その解説は見なかった。「歴史地図では、この「山の神」を含めた付近が「小堀内遺跡(縄文~土師器)」と紹介されていた。

a0087378_18521149.jpg この辺りの「歴史地図」が描く道筋と現況の道筋の関係もはっきりしないが、スポットとなる目印として、付近には白山寺があり、その寺の前の道筋は先に少しだけ整理したことのある八幡神社へ続く道筋になっている。
 それで、「歴史地図」が記す遺跡群の位置を確認しようと、周りを何度か歩いてみたのだが、この付近の風景の変化が大きくてはっきりしなかった。どうも、農地整備に伴う変化だけではなさそうだ。
 東京の電力会社がまき散らした放射性物質を除染する作業に伴う風景の変化も加わっているようだ。

 ※ タグを荒井としたところだったが、この新田集会所と山神のある小堀内地区は上鳥渡村のようなので、荒井のタグに上鳥渡も加えて表記する。
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by shingen1948 | 2015-11-26 08:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「土湯会津道を歩いてみる」ということで、朝日舘辺りから、現県道南福島―地蔵原線の道筋に沿って歩いている。
 何度か散策したことで分かったことについても一緒に整理しているのが、歩き始めた頃には、「小堀内」バス停近くの蔵のある風景と立派な神社に出会うまでの風景に、それほど強い印象を持たなかった。
a0087378_2221051.jpg 先に記したようにバス停を目印に、淡々と風景を刻んでいくという感じで歩いている。そうすると、結構気になるのが停留所名だ。
 この辺りでは、バス停名「十三仏」がいわくありげだなと思いながら歩いている。風景が気になった蔵のある風景と立派な神社の近くのバス停は「小堀内」だが、その一つ先のバス停名も「若仏」だ。その前の貯水池には、地区名「石仏」が表示される。
a0087378_2231659.jpg この「石仏」地区の会津道沿いに石仏が並んでいる風景は、どこにでもあるごく普通の風景だ。ただ、「十三仏」・「若仏」・「石仏」といわくありげな停留所や地区名が並んでいることが頭にあって出会っているので、強い印象を持ったということも記しておく。

 ここに、昨日整理した原と内のイメージを重ねる。確認を重ねた後での気づきの部分だ。
 蔵のある風景と立派な神社に出会う「小堀内」バス停までは、土湯会津道と区画整理計画による道路との間に、内と原の境界的な緩衝地域になっている。半沢氏の「歴史地図」では、この地域に多くの遺跡がプロットされている。
 現在、確認するのに頼りのマホロンの遺跡分布地図は現在停止中。それで、そこに記されたことをそのまま鵜呑みにして記す。
 中沢遺跡(縄文~土師器)・小沢南遺跡(弥生~土師器)・小堀内東遺跡(縄文~須恵器)・八幡内遺跡(縄文~土師器)・南谷地田遺跡(縄文~弥生~石器)小沢遺跡(縄文~土師器→凹石出土)等、縄文・弥生・平安あたりの遺跡跡がプロットされる。

 その遺跡群の間に「小田谷館跡」という館跡の遺跡もプロットされる。現在は畑、周りを田が囲んでいるとの解説メモがある。「北朝側についた荒井域の方とか、または、上杉家臣島津玄藩の館か?」のメモも、……。
 おおよそこの辺りかなと思う処はあるのだが、まだ確信が持てていない状況だ。

 更に、島津玄藩開基とされる「真光寺」跡がプロットされる。天保の飢饉の後、廃寺になったとのメモも記される。

 確認が難しいのは、区画整理によって風景が一変していることに加え、頼りのマホロンの遺跡分布地図も現在停止中で確認できないこともある。歩き始めの頃にこの辺りで思ったのは、「歴史地図」が描く道筋と現況の道筋の関係をはっきりさせていきたいなということだった。
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by shingen1948 | 2015-11-25 08:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昨日整理の愛宕山と西の山々との間の窪地からつながる道筋は、土湯会津道を横切り北に延びる。
a0087378_5273139.jpg この道筋が、新しく東西に走るようになった道筋と交わって、その後の道筋が消滅しかかっていることについては昨日ふれた。
 この写真は、その分断されたあたりからその道筋を眺めている。この道筋が横切っているのは、土湯会津道を想定している現県道南福島―地蔵原線の道筋だ。


 今回は、半沢氏の「歴史地図」にプロットされる元荒井村の道路元標の位置が確認できたことを整理する。
a0087378_5313070.jpg 目安になるのが、この石塔群だ。
「歴史地図」では、弘化4年(1847)死霊大権現・庚申供養塔・馬頭観音がプロットされ、「このあたりに明治初年荒井村道路元標が建てられた」とメモされる。
 元荒井村の道路元標が建っていたのは、この辺りということだ。
 本当は、この元荒井村の路元標がプロットされる位置が推定することができるようになったのは、何度かこの辺りを散策した後の話だったが、先に整理しておく。
a0087378_5323722.png 元荒井村の道路元標が建っていた位置が確かめられると、逆に消滅しかかったもともとの道筋が推定できるということでもある。こんな感じかなと思う。
 この道筋を分断消滅させているのが、区画整理計画による道路だ。散歩中は、そういう見え方だったのだが、よく見るとこの辺りでは〇〇内と〇〇原との境界線にもなっていることに気が付いた。
 「歴史地図」では、この内と原について次のような解説メモがある。
 地名に〇〇内とつくのは、中世以降に開拓集落が形成されてきたところかと思われる (在家)。川石田堰灌漑地域にあり、開田が可能なところである。
 その反対に用水路が引けない山麓には〇〇原という地名が多い。
 本当は、原と内を意識することが荒井村の散歩には大切だと分かったのは、もう少し後になってからだったが、こちらも先に整理しておく。
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by shingen1948 | 2015-11-24 08:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 現県道南福島―地蔵原線の道筋を土湯会津道として歩いている。
a0087378_4154857.jpg 右手に大笹生方面を案内される道路標識を過ぎると直ぐに、左手にしのぶ台への道筋を案内する標識が建っている。これは、浪江町の応急仮設住宅を案内するために建てられたもののようだ。
 現しのぶ台ニューウタウンが造成される高台が、村絵図では愛宕山とされる。その付け根付近が「中谷地遺跡(縄文)」であることを知ったのは、家に戻ってからだ。
a0087378_4171198.jpg その愛宕山と西の山々との間の窪地を道筋が走っている。この道筋は山田村の平野部につながる道筋と交わるのだが、ここはその交差部分だ。
 いろいろな水系の水路の水が、ここで制御されていることが分かる風景だ。
 この道筋の左側の愛宕山麓には貯水池があって、この水もこのあたりで制御された後に、愛宕山の縁を回り込んで流れる「山王川」の源流の一つとして、たつみ用水に注ぎ込むという風景になっている。
 この水路には、最初の散歩の頃から関心があったのだが、この道筋の方にはそれほどの関心はなかった。この道沿いに広がる耕地の風景も、この水路とのかかわりの中で眺めていた。

 この道筋は土湯会津道と交差して北側にのびていくのだが、散歩はじめの頃は、ただぼんやりと眺めていただけだった。
 この道筋が気になりだしたのは、半沢氏の「歴史地図」でプロットされた元荒井村の路元標がプロットされるのが、この道筋の先だったからだ。
 この道筋とのかかわりで、その道標がプロットされる位置を確かめることを何度か繰り返すことになった。というのは、この道筋が、その元荒井村の道路元標がプロットされる付近で、新しく東西に走るようになった道筋と交わり、その後の道筋が消滅しかかっているのだ。その分断され、消滅しかかった道筋を確かめる中で気になりだしたということだ。
 何度も地図と見比べることになるのだが、それで気が付いたのがこの道筋が荒井村と鳥川村の境界になっている事だった。はじめは何とも感じなかったのに、散歩を重ねるたびにだんだん気になる道筋になっていったという感じだ。
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by shingen1948 | 2015-11-23 08:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昨日は、前方に右手に大笹生方面を案内する道路標識が写る写真を「土湯会津道を歩いてみる」スタートの写真とした。
a0087378_3414487.jpg 大畑のバス停とその右手に大笹生方面へ向かう道筋の交差点との間の道路右手に、「明治25年開校 鳥川小学校発祥地」の標識が建っている。
 村の学校を案内する手持ち資料は、「信達二郡村誌」の上鳥渡村の項の共立小学校紹介部分。
「中部藤南に在り男生徒54人、女生徒47人」とあり、これが、明治9年1月1日調べであるとする。
 その小字中部「藤南」については、「中部地蔵前 山之下西の東猪田の西に在り 東は小逕(こみち)を以て界とし 西は田埒を以て界とし 南は尾形川を界とし 北は会津道を界とす 東西1町18間2尺 南北1町33間4尺 小学校を置く」とある。
 「福島の小字」と見比べると、現小字「山ノ下西」の西側道路際に小字「地蔵前」があったようだ。これを頭に入れて現在の小字名を確認すると、小字「東猪田」は確認できないが、おおよそ現在の小字名と一致しているようだ。
 「北は会津道を界とす」とあるように、小字中部「藤南」は会津道の南側らしい。尾形川は、愛宕山の下を流れる川だと思う。ここで案内される小学校は会津道の南側だ。
 内容的にも気になるのは、その開校についての情報だ。
 「信達二郡村誌」では、明治9年1月1日調べで上鳥渡村の共立小学校は存在しているのだが、案内標識では明治25年開校となっている。

 それで、鳥川村を確認する(ウィキペディア)と、明治22年(1889)に、大森村・永井村・上鳥渡村・下鳥渡村・成川村が合併して信夫郡大森村が発足するが、この時点ではまだ鳥川村ではない。
 明治25年(1892)7月に、この大森村からその一部である上鳥渡・下鳥渡・成川が分立して鳥川村が発足するようなのだ。ただ、昭和30年(1955)3月には、この 鳥川村は大森村・平田村と合併して信夫村が発足して、消滅する。なお、昭和40年(1965)6月には、その信夫村は松川町とともに福島市に編入されるという変遷をたどる。

 これらの情報を合わせると、次のような変遷かと想像するが、どうだろうか。
 「信達二郡村誌」の上鳥渡村の項で紹介される明治9年開校の上鳥渡村共立小学校は、会津道の南の小字「藤南」にあった。
 明治25年開校と案内される小学校は、大森村から上鳥渡・下鳥渡・成川が分立して鳥川村が発足した時点で成立した小学校で、これが会津道の北の小字でいえば藤之内にできたということなのだろうと想像するが、どうだろうか。
 なお、これは先に整理したことだが、下鳥渡村との合併で鳥川村になったはずなので、その下鳥渡村の小学校を確認すると、その小字「北島」について、以下のような紹介がなされていた。再掲する。
 「北島 西部南島の北沙子田の東に連る 東は溝渠村道を以て中部地蔵堂 北島東に界し 南は畛(あぜ)畷(なわて)圳(しん)邃(これにさんずいがつく)を以て南島に界し 西北は畛畷溝洫(みぞ)を以て沙子田人家6戸 沙子田北に界す 東西125間
 南北55間 人家8戸村社鎮座小学校を設く」
 先の整理では、この「社鎮座 小学校を設く」から、神明社の隣の建物がそれかなと勝手な想像をしたところだった。
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by shingen1948 | 2015-11-22 08:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

土湯会津道を歩いてみる

 鳥川付近の散歩から、何となく土湯会津道を歩いてみていた。地区としては、荒井地区に入るのだが、この辺りの散歩が難しい。
 なじみが薄いだけではなく、次のような事情があるからだ。
 その一つが、縄文時代から中世にかけての史跡が複雑に重なりあっていて、しかもその位置が曖昧であること。
 その二が、頼りの半沢氏の「歴史地図」が、単なる散歩目的の資料にしては詳しすぎること。
 その三が、道筋の改変が繰り返されていて、頼りの「半沢氏の歴史地図」に示される道筋と現状も大きく違っていること。
 そんな事情で、全体を把握してから散歩を始めるというわけにはいかない。
 まずは、道筋に沿った風景を確認するという軽い気持ちでスタートする。歩っているうちに興味のある風景に出会ったら、そこを切り口にして、少しずつ見える風景を広げていくという姿勢の散歩イメージで土湯会津道を歩いてみることにする。

 土湯会津道の道筋は、現県道南福島―地蔵原線の道筋に近いということのようだ。ただ、この道筋は大森の三差路から続いている道筋なのだが、こちらの道筋も含めて江戸時代の土湯会津道なのかどうかは分からない。 
 半沢氏の「歴史地図」では、米沢街道に山王道や会津道が重ねて表示され、観音寺から米沢街道に分かれた山王道や会津道が西進するように表記される。そして、朝日舘辺りからが江戸時代の土湯会津道だと解説されているのだ。
 大森から朝日舘辺りまでの現県道南福島―地蔵原線の道筋道筋が会津道なのかどうかは曖昧だし、観音寺から朝日舘辺りまでの間の道筋もちょっと曖昧なところがある。
 それで、とりあえず朝日舘辺りから現県道南福島―地蔵原線の道筋に沿って、現土湯街道である115号線と交わる辺りまでの散歩を、土湯会津道として整理をしていこうと思う。
a0087378_7155053.jpg メモをとる代わりに、デジカメで風景を写す。バス停があれば必ずこれを写しておくことにした。
 こうすれば、このバス停とのかかわりで写った風景を眺めれば、その前後関係で、その風景の場所が思い出しやすいと思ったのだ。
 まずは、朝日舘を少し過ぎたあたりで、大畑のバス停付近を撮るが、その前方に右手に大笹生方面を案内する道路標識が写っている写真があったので、これを「土湯会津道を歩いてみる」スタートの写真として貼り付ける。
 このスタートのタグを、まだ「上鳥渡」・「下鳥渡」のままにするのは、この辺りはまだ鳥川地区の範囲らしいからだ。
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by shingen1948 | 2015-11-21 08:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)