地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 今までの散策を整理する。
 東屋沼神社信仰は、沼による水の信仰、日本武尊の信仰、吾妻山の霊地敷信仰などが融合したものと考えられているようだ。それに、古くからの五穀豊穣・疫病除け・火伏せ・養蚕の鼠虫除けなどの祈りが融合され、権威付けされた事もあって近世に信夫の里にその信仰が広がりをみせたということなのだろうとのこと。

 田沢邨では、そのうちの「沼による水の信仰」にかかわって、「貝沼」も「崇拝される農耕神を仰ぐべき神社」も「信達一統誌」をもとに具体的にイメージできるということだ。更には、その吾妻信仰にかかわる伝承「種まき兎伝説」をも採取されているという事なのだろう。

 その視点で、マホロンの検索で拾った田沢邨付近の遺跡分布地図に、「種まき兎伝説」に関わる地を赤でプロットしてみた。(愛育園は、散策の目印のためのプロット)a0087378_6551061.jpg なお、まだ確認していないが「種まき兎伝説発祥の地」の碑が建つようだ。その碑が建つようになった経緯は、以下のように福島市議会(1997/6/13)の記録に記されているらしいことが確認できる。

 去る五月十日(※1997<平成9年>/5/10)に蓬莱地区の有志の方々が、佐藤保町会連合会長を中心として吾妻山種まき兎伝説を記念碑除幕式並びに伝説発表会が開催されましたが、この伝説が考古学者梅宮茂先生によって立証され、その発祥の地が現在の蓬莱町三丁目、元杉妻村大字田沢字兎田であることがわかり、当日梅宮先生の「種まき兎伝説が世に出るまで」の講演をされ、その中で地元の方々の尽力で得た資料と先生が集めた資料が一致し、今回その言語が発見され、伝説は八百字ほどの短い文ですが、グリムの童話風な物語を思わせ、美しい自然の風景にふさわしい麗しい話になっているとの講演があり、福島の昔話でおなじみの声優森和美先生の民話「種まき兎」を聞き、改めて感動した次第です。
 ここでは、字兎田地を「現在の蓬莱町三丁目、元杉妻村大字田沢字兎田」と説明する。
 この辺り、旧黒岩村・旧伏拝村・旧清水町村、そして旧田沢村の合併がかかわるようだが、「福島の小字」を確認する中では、「種まき兎伝説」にかかわる地は「兎田」も含めて全て「旧田沢村(邨)かかわり」のようだ。
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by shingen1948 | 2014-12-30 06:58 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 図説「福島市史」では、東屋沼神社は吾妻岳山上にある湖沼(=現五色沼)が農耕神として崇拝されたものであるとし、信達盆地では、その山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地があり、そこには必ず吾妻信仰があると解説される。
 しかし、その確認はなかなか難しい。
 「信夫の里から東屋沼を意識する②」では、「信達一統誌」に「 東屋沼の移しなりとも云う」と紹介される正福寺門前の小さき池を確認したが、現況はその貝沼とされる池もない。ましてや、神社のような崇拝される農耕神を仰ぐべきものも確認できなかった。
 平野の東屋沼神社では、神社が大社であることで権威が増す。そのことによって、素朴な農耕神を仰ぐことが見えにくくなっていると共に、貝沼のイメージが見えにくくなっている。

 それが、田沢邨では貝沼も崇拝される農耕神を仰ぐべき神社も「信達一統誌」に紹介されているままに現存するということだ。
 その上に、田沢邨の吾妻信仰にかかわる伝承が採取されたものが、「信夫の里から東屋沼を意識する③」でふれた「種まき兎伝説」だと捉えるならば、これは興味深い話だ。
 以下は「浄土平ビジターセンター」紹介の「種まき兎」原話
 西嵯峨  柚翁識   
 昭和11年頃 
 採 者 渡利小倉寺 加藤白山翁
 採集者 渡利中山  長沢孝四郎
 校訂者 鎌田丸子  香内佐一郎

昔、田沢村の兎田(うさぎでん)に身なし子がいたど、
山の奥さ小さな田畑を作って暮らしていた。
ある日 山で親子の兎をひろってかわいがっていた。
そのころ このあたりは、日でりがつづいて 田植えが
できない ひどい不作の年だった。
村人は 田沢の貝沼(皆沼)は、西山の雷沼(東屋沼)の底と
つながっていて、吾妻権現がまつられていたので、
ここで 雨乞いしたが、さっぱりききめがなかった。
そこで村人は山伏の先達(あんない)で 大ぜい
雨笠、みの 着て 吾妻山さ登って 雷沼に「雨たんもれ 龍王
やーイ」、といったが、一つぶの雨も降らなかった。
身なし子も 裏山さ登って拝んでいると、二羽のトンビが
天高くとんでいた。
「トンビ ぴいひょろろ 目廻してみせろ」というと
トンビは急に谷へおりていって、白いものをわしづかみに
かっさらって 西山の方さ 飛んでいってしまったど。
飛んでいった先をみると、たまげた。吾妻小富士の横はらに、
親子うさぎの雪形が ありありとあらわれていた。
トンビにさらわれた親子うさぎは 実は山神になって
いたんだと。
そこで 小富士の神に「雨たんもれ 龍王 やーい」と
拝んで 山をおりてみると、びっくりした。
家の前の岩室から、水がこんこんわいて 川さ流れてい
たど。「これはありがたい」と 田んぼに水をひき、種をまいた。
村人にも教えたら、秋になって 村中豊年万作になって、
みんなも福しくなり、その子は 大きくなると長者様になったど。
それから、その田を「兎田(うさぎでん)」(兎田うさぎだ)と、吾妻山の
雪形を「種まき兎」とよぶようになり、いらい種まき、蚕の掃立(はきたて)
の目安となって、村は栄えもうしたど

平成9年5月
「種まき兎」伝説実行委員会

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by shingen1948 | 2014-12-29 08:01 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 大宮神社前に建つ案内板では、以下のように説明される。

 大宮神社案内
a0087378_17522233.jpg 所在地 福島県福島市田沢字宮ノ前17番地
 由緒
 当神社は古来より田沢地区の鎮守の神として、氏子の崇敬を受けて護持されて来たが、その由来は此の地が開発された大昔にさかのぼるので、詳細は不明である。
 社伝には大同年間(806年)に坂上田村麻呂将軍の家臣多治比大老が此の地に留まって山野を開き村創りをして7柱の神々を祀ったと伝えられる
 御祭神(文化6年神階奉願の文書に依る)
  天照大神(あまてらすおおかみ)   言代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
  豊受大伸(とようけおおかみ)   建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)
  素盞鳴大神(すさのうのおおかみ) 日本武大神(やまとたけるのおおかみ)
  大国主大神(おおくにぬしおおかみ)
 旧社格 村社
 社殿  文政元年建立
 本殿  59平方米
 幣殿 拝殿 56平方米
 境内地
 3785平方米文化5年寄進を受け拡張して現況となる
 祭事
  元旦際1月1日
  新年祭 3月吉日
  勧学祭・夏越祭7月31日
  例祭10月10日

  平成2年11月 御即位奉祝記念建立
 田沢地区の産土神のような存在である事は伺えるが、「信達一統誌」に「大宮神社」が「是則東尾沼神社なりと云ふ」と解説されることについては全くふれていない。御祭神の7柱の神々も、「信達一統誌」とは微妙に違っている。
 祭礼も夏から秋に代わっているようだ。
 「信達一統誌」では、長秀寺境内の稲荷社について「當邨里社七神の內 にもこの神(=倉稲魂命)おはす されば双方とも東尾沼神社を移せしならむ」とある。
 今回立ち寄らなかったが、この長秀寺は大宮神社前の道筋を南に進んだ所だ。ここで東尾沼神社とのかかわりが案内されるのかどうかは確認していない。
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by shingen1948 | 2014-12-27 17:53 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「貝沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」という視点で田沢邨の皆沼をみれば、その吾妻信仰とかかわる東屋沼神社に相当する神社が、「大宮神社」ということになるらしい。

 「信達一統誌」の「田沢邨」の項「大宮神社」を確認する。
 大宮神社
 本殿大穴牟遲命(おおなむちのみこと) 第二事代主命(ことしろぬしのみこと)第三建御名方命(たけみなかたのみこと) 第四倉稻魂命(うかのみたまのみこと)第五大靈女命(おおほひるめのみこと)第六須佐之男命(すさのうのみこと) 第七大和武命(やまとたけるのみこと) 右七神なり. 是則東尾沼神社なりと云ふ 当邨の産神なり 八月ニ十七日祭礼なり

a0087378_17292045.jpg この大宮神社は、田沢邨東縁の高台を背に建つ。
 その高台の後ろには阿武隈川が流れているのだが、その阿武隈川とこの高台の間には貝沼の伝承地があるという位置関係だ。
 従って、大宮神社に参拝する時には、吾妻山には背を向けていることになる。しかし、この貝沼は吾妻山の雷沼の底とつながっているとイメージするわけで、当然、その手前の高台も吾妻山とつながっているというイメージになるのだろう思う。

 この前日に自転車で「本内邨」の正福寺門前にある小さき池「貝沼」跡を訪ねたのだが、その後、川俣街道を飯野の分岐点まで足を延ばしている。そこからの帰りは、旧川俣街道を通って家に戻ったのだが、この散策が、阿武隈川沿いであり、その川越しに田沢邨東縁の高台を観察して走っていたということにもなる。
 ただ、この散策がちょっと無理になったので、この「大宮神社」確認は、乗用車使用だ。これは、散歩とは言えないな。
 散歩の下見ということで、……。
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by shingen1948 | 2014-12-26 17:36 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 浄土平ビジターセンターのページを確認していると、吾妻小富士の「種まき兎」にかかわる一つの資料として「種まき兎伝説」が紹介される。
 今まで「種まき兎伝説」そのものに興味はないので詳しく確かめていなかった。
 しかし、今回確認していくと「貝沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」ということとかかわる伝説なのだということが分かった。最終的には「雪兎に雨乞い祈願すると水が湧き出て豊作となった」ということだが、興味深いのは「東屋沼にかかわる吾妻信仰」で、伝承の中の以下の部分だ。
 村人は田沢の貝沼(皆沼)は、西山の雷沼(東屋沼)の底とつながっていて、吾妻権現がまつられていたので、ここで雨乞いしたが、さっぱりききめがなかった。そこで村人は山伏の先達(あんない)で大勢雨笠、蓑着て吾妻山さ登って雷沼に「雨たもんたれ龍王やーい」といったが、一粒の雨も降らなかった。
 ここの「村人は山伏の先達(あんない)で大勢雨笠、蓑着て吾妻山さ登って、『雨たもんたれ龍王やーい』と雨乞いした雷沼」が「五色沼」だ。そして、吾妻権現がまつられていて西山の雷沼(東屋沼)の底とつながっている田沢の貝沼(皆沼)だが、この位置だろうと想像される。
a0087378_1214106.jpg 現況では、ここが貝沼である表示は無いが、古くは田沢村の小字に貝沼があり、「福島の小字」で確認するとおおよそこの位置である事が分かる。
 また、マホロンの遺跡検索で「貝沼遺跡」を確認するとこの位置が示される。
 更には、「信達一統誌」の「田沢邨」の項「貝沼」を確認すると、「大隈川の上西の傍にあり 所謂東屋沼の移し也と云」と表現されていて、これとも矛盾しない。
 なお、東屋について「西山の南北家形の沢にある雷沼なり」とあり、雷沼=現五色沼であるというイメージが確認できる。
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by shingen1948 | 2014-12-25 12:14 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 前回は、東屋沼神社が吾妻岳山上にある湖沼(=現五色沼)が農耕神として崇拝されたものであるということから、吾妻山の見え方にかかわることを整理した。
 今回は、図説「福島市史」で「信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」と解説されることについて確認したことを整理していく。

 「信達一統誌」の「本内邨」の項で、この貝沼の一つが以下のように解説される。
 貝沼
 正福寺門前にあり 小さき池なり 東屋沼の移しなりとも云う 又貝沼など云う姓の人もあり 此説詳ならず
a0087378_11463231.jpg 現況では、ここにその池はみつからない。
 この正福寺については、先に「本内舘」跡の視点で以下のように整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8048059/
 この館、『信達二郡誌』には、東西2町余・南北8町余の大きな館とされているという。
 永正年間(1046-53)源頼義が陸奥国の豪族安倍頼時・貞任父子を攻めた際に築かれたとされる。
 また、天正年間(1573-92)には、本内氏が住んでいたとされる。本内氏は伊達氏の家臣で、本内相模守は、天文の乱では、稙宗方についたという。
 伊達政宗とのかかわりでは、天正8年(1589)大森城へ凱旋途中の政宗に日没した阿武隈川河畔で本内駿河が御馳走を差し上げた記録があるらしい。
 「山形・宮城・福島の城郭」では、のち、伊達政宗が攻略し、落城したと紹介している。
a0087378_11485064.jpg 「貝沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」ということにかかわって、散歩中は、この門を入って直ぐ右手の稲荷社が気になった。寺も「稲荷山正福寺」とのことであったが、そのかかわりは分からなかった。
a0087378_1154921.jpg 帰り際、振り返ったらくっきりと吾妻山が見えたことが印象的だった。「此説詳ならず」とのことだが、五色沼と底がつながっているというイメージを持つのには充分説得力のある風景であるようにも感じだ。
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by shingen1948 | 2014-12-24 11:55 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 台山山麓散歩は、台山が「東屋沼神社」の旧地とする説を確認しようとしたのがきっかけだった。この事については、以下の5回に分けて整理した。
〇 台山山麓散歩
  http://kazenoshin.exblog.jp/20349400/
〇 山麓散台山歩②―「東屋沼神社」旧地の話②
  http://kazenoshin.exblog.jp/20355191/
〇 台山山麓散歩③―「東屋沼神社」旧地の話③
  http://kazenoshin.exblog.jp/20360472/
〇 台山山麓散歩④―「東屋沼神社」旧地の話④
  http://kazenoshin.exblog.jp/20363108/
〇 台山山麓散歩⑤―「東屋沼神社」旧地の話⑤
  http://kazenoshin.exblog.jp/20366079/
 その後の台山山麓散歩は、台山を「東屋沼神社」の旧地という見え方を据えながらも、台山周辺に視点をずらして整理してきた。
 
 実際には、台山周辺という地域に限定し散歩と共に、信夫の里から東屋沼の見え方にかかわる散歩もしている。そちらの散歩も整理していく。

 図説「福島市史」の「延喜式信夫五社」の項で、「延喜式神明帳」に登録される信夫郡の古社が「吾妻沼神社」・「東屋国神社」・「黒沼神社」・「鹿島神社」・「白和瀬神社」である事を紹介する。
 ここで、「吾妻沼神社」が明神大社で他は小社である事を説明した後、吾妻山とのかかわりについて次のように解説する。
 東屋沼神社は、東屋国神社と共に、吾妻岳山上にある湖沼が農耕神として崇拝されたもので、東屋国は吾妻の山霊を祀ったのであろう。信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある。近世になって、吾妻沼社は平野、吾妻国神社は中野にあるとされる。(以下略)
a0087378_5244763.jpg 注目の一つは、ここで吾妻岳山上にある湖沼というのは五色沼であり、それが農耕神として崇拝される吾妻沼であり、東屋沼であるということだ。
 もう一つが、その「五色沼」を「吾妻岳山上にある湖沼」と表現している事だ。五色沼は一切経の北側の家形山との間にある沼だ。当然のごとく吾妻岳山は一切経及び家形山であることを意味しているのではないかと思うのだ。吾妻の山霊を祀る東屋国が意識する吾妻岳山も一切経山や家形山なのだろう。
 恥ずかしながら、信夫の里から吾妻山を眺めると吾妻小富士に目がいってしまう所があった。円錐形にこだわる観念的なところがあったのだと思う。
 この地域の感覚になじむには、まずはこの吾妻山の見え方修正が必要なのだろう。

 張り付けた写真は、先に「汚されっちまった信夫山から」として整理した散策の時に、信夫山の烏が崎から吾妻山を撮ったものだ。この時は、栗子山側の深山確認が主目的だったのだが、自分の吾妻山の見え方の偏りも気になっていたのだ。
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by shingen1948 | 2014-12-23 05:27 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 御神木が伐採されたばかりの時期の紫神社跡の写真をみると、2本の御神木の切株は北南の方向に並んでいる事が分かる。
a0087378_5333215.jpg 「笹谷大笹生地区の文化財」には、御神木伐採前の写真が載っている。この写真は、2本の御神木の間から祠が見えている。
 この二つの写真を見比べると、紫神社の祠は、後ろ側の御神木と並んでその東側に建ち、南を向いていたように思う。

 ただ、この境内は東側に広がっていたようであり、「信達一統誌」の表現も東側に広がる田園風景であるように感じる。
 「笹谷大笹生地区の文化財」では、以下の「信達一統誌」の表現を紹介されている。
 「八月朔日(祭礼なり 其日)太陽山の端を出給ふとき神前より東の方数百畝(の間)稲穂の上淡紫となる 春の日水田の干たる所を見ればその色淡紫なり これまたこの地の一奇なり 土人説ニ云ク佐藤庄司の産神にてむかしは大社」
 「信達一統誌」では、ここが「土人説ニ云ク佐藤庄司の産神にてむかしは大社」とし、「笹谷大笹生地区の文化財」でも「この地最古の神社で、蝦夷の守護神の尊崇が厚かったと伝えられている。後世には根津賢物の守護ともいわれる」として、古くからこの地に鎮座した神社であるとする。

 ちょっと気になったのが、この北東側の字が「月崎」であることとの関連。
 というのは、飯坂の月崎の段丘地は比較的早くから集落が形成されたとされていることで有名らしいからだ。ここでは、飯坂南部土地区画整理事業に伴って、高舘遺跡・月崎A.B遺跡として調査されたようだ。
 今回「台山山麓散歩」で新たに意識しているのは台山に「東屋」のイメージを重ねているのだが、中野の「東屋国神社」の由緒が、この飯坂の月崎とオーバーラップしているようなのだ。

 「東屋国神社」は、一時信仰が薄れて存在すら分からなくなっていたのだとか。それが文化年間(1804~1818)に佐藤某氏によって月崎の築崎神社がそれだと比定されたということらしい。
 その築崎神社が何故東屋国神社なのかはよく分からないが、飯坂の月崎の地は当地方では比較的早くから集落が形成されたことに加え、先に整理した湯野西原廃寺、菩提寺に近いこと等々の関連から、この築崎神社が格式の高い神社と推定され、その推定が 「東屋国神社」であるという推定根拠らしいのだ。

 この紫神社は古くからの大社だったと強調されるのだが、このことと大笹生の月崎前に鎮座することを絡めて、「東屋国神社」に匹敵するような神社だったという地域の誇りのようなものを感じるのは、考えすぎかな。
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by shingen1948 | 2014-12-21 05:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これから先の日本のあり方が決まるような分かれ道だったような気がする。それは、誰しもが分かっていたような気もする。
 日本が戦争につき進んだ時、誰しもが望んでいないのに何故流れは変えられなかったのか不思議だった。それが、今回ようやく分かった。
 誰もが気づいていたとしても、なし崩しに進もうとする人を抑える事などできないで、何となく流れていってしまうのだと。

 今回の選挙結果を、リーダーは「原発の再稼働を進める方針が認められた」と読むといういうことなのだとか。
 「経産相、再稼働進める方針強調 『公約で示した』【東京新聞(2014/12/16)】」
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014121601001512.html
 宮沢洋一経済産業相は16日の閣議後の記者会見で、自民党が大勝した衆院選の結果を踏まえ「安全性が確認された原発の再稼働を進める方針を公約として示した上での結果だ」と述べ、再稼働について一定の理解を得られたとの見方を示した。
 九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)は、再稼働に必要な地元同意の手続きが11月に完了。関西電力高浜3、4号機(福井県)も、新規制基準に適合していることを示す「審査書」案を、原子力規制委員会が17日に公表を予定している。
 宮沢氏は高浜3、4号機について「私は規制委ではないので事実関係は存じない」と述べるにとどめた。
(共同)

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by shingen1948 | 2014-12-20 08:37 | ☆ その他の話題 | Comments(0)
 今回の衆院選は、安倍晋三総理が衆議院で圧倒的多数の議席を持ちながら、あえて突然のように解散した事に始まった。その理由を消費税率の10%引き上げを1年半先送りする判断の信を国民に問うためと説明するが、誰しもが取ってつけた理由である事を知っている。
 しかし、理由はどうあれ、この結果を首相は全て信任されたと読むことも知っている。更には、信任と読んだ首相は、原発の再稼働、施行された特定秘密保護法、集団的自衛権の行使容認、一部の専門家から批判のあるアベノミクス等々が信任されたと読み替えていくことも、……。
 たとえば、「安保政策不支持55% 衆院選結果評価割れる【東京新聞(2014/12/16)】」では、「安倍晋三首相は15日の記者会見で、安保政策をめぐる政府方針についても衆院選で信任が得られたとの考えを示したものの、首相の認識とは異なる調査結果となった」とする。
 しかし、本当は「首相は首相の認識とは異なる調査結果となっているにもかかわらず、安保政策をめぐる政府方針についても衆院選で信任が得られたとの考えを示したもの」として推し進めることを誰しもが知っている。
 「安保政策不支持55% 衆院選結果評価割れる【東京新聞(2014/12/16)】」
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014121601002184.html
 共同通信社が衆院選を受け15、16両日に実施した全国緊急電話世論調査によると、集団的自衛権の行使容認など安倍政権の安全保障政策について「支持しない」が55・1%で過半数を占め、「支持する」の33・6%を大きく上回った。与党が3分の2以上の議席を得た衆院選結果が「よかった」との回答は27・4%で「よくなかった」の27・1%と評価が割れた。「どちらともいえない」は45・2%だった。
 安倍晋三首相は15日の記者会見で、安保政策をめぐる政府方針についても衆院選で信任が得られたとの考えを示したものの、首相の認識とは異なる調査結果となった。

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by shingen1948 | 2014-12-18 08:34 | ☆ その他の話題 | Comments(0)