地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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a0087378_10373829.jpg 赤線が沼尻鉄道廃線跡で、現県道323号線で、緑のラインが、旧県道。
 今回の会津下舘駅周辺の動きだが、沼尻方面から川桁方面に向かう際には、現県道323号線を通っている。それが紫のライン。
 川桁方面から沼尻方面に向かう際には、旧県道の道筋をたどって、県道227号線が左手に分かれる地点から、現県道323号線に出た。少し戻って、会津下舘駅や「長瀬産業組合」の建物を観察して、現県道323号線を下る。それが水色のライン。
 その図に、マホロンの「遺跡データベース検索」で示される「下舘舘跡」「下舘板碑」「円通寺跡」の位置をプロットするとこんな感じ。

 前回、「円通寺跡」にかかわりで気になる「隣松院」情報を整理したところだが、この寺、昨年整理の「大河八重の桜」や、その前に整理した「拝領妻」悲劇とかかわる「秀長寺」ともかかわるらしい。
 昨日整理の「隣松院」情報を頭に置きながら、会津若松市材木町の「秀長寺」創建情報を確認する。

 永正2年(1505)10月下旬、塩川で、葦名盛高・盛滋父子の確執による合戦がある。この時に、富田志摩守秀長という家臣が戦死するのだが、その子の右馬允時長が、天文6年(1537)に亡父の菩提を弔うため水月庵という草庵を建てる。これが、「秀長寺」の始まりだとするようだ。
 慶長10年(1605)に猪苗代の隣松院が焼失して、その水月庵に伝廓禅師が仮寓することに。
 当時、猪苗代城主であった町野左近は、領主蒲生秀行の許しを得て、この水月庵の地に寺地を加えて一宇を建立したとのこと。
 これが現在の秀長寺で、寺名は左近(当時の猪苗代城主)の父である備前守秀長の法号「龍雲院殿花陽秀長大居士」にちなんで付けられたとされるようだ。
 この慶長10年(1605)に猪苗代の隣松院が焼失して伝廓禅師が水月庵に仮寓することと「隣松院」が「円通寺跡」へ移転することとのかかわり具合が分からない。

 なお、大河「八重の桜」とのかかわりでは、慶応4年(1868)9月5日、佐川官兵衛指揮による「材木町の戦い」が秀長寺裏付近で展開。秀長寺境内には「秀長寺古戦場碑」が建つ。また、秀長寺墓域には「拝領妻」の悲劇の人笹原忠一の墓があるようだ。
 
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by shingen1948 | 2014-08-31 10:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 下舘駅の案内板では、ここを「旧町内(猪苗代町の)に最も近い駅」と案内され、近くの史跡紹介はない。
 ただ、二つの停車場で案内された史跡を確認していくと、その延長で気になるのがマホロンの「遺跡データベース検索」でこの辺りに「円通寺跡」が示されていること。
a0087378_542114.jpg この写真は「長瀬産業組合」の写真の後ろに写り込んだ風景を切り取ったものだが、その「円通寺跡」と示された辺りの風景に近いような気がするのだ。というのは、「円通寺跡」とかかわりそうな情報を拾うと、現在の三郷下館の小檜山隣松院とかかわるようなのだ。

 「隣松院」といえば、地元では直ぐに猪苗代氏の菩提寺とかかわる寺とのイメージになるらしい。その寺は、元々三祢にあったのだが、それが何らかの理由で、末寺の円通寺があった現在地に移転してきたということらしいのだ。
 「会津事典」に紹介される「隣松院」を確認する。
 隣松院
 耶麻郡猪苗代町大字三郷字館ノ内にある曹洞宗の寺院。小檜山と号す。本尊は釈迦如来。
 猪苗代城主三浦時盛が永徳3年(1383)猪苗代城の北、磐梯山の麓に精舎を建立、100貫文の地を寄付し「隣松院」と名付けたのに始まる。
 天正17年(1589)摺上原の戦いの際、堂宇が破壊されたが、慶長年間に再興された。その後、末寺の円通寺があった現在地に移転。
 末寺8ヵ寺、塔頭3ヵ院を有した猪苗代家の菩提寺で、寺宝に猪苗代盛国の書簡がある。
 今回得た猪苗代氏にかかわる案内情報を整理する。
〇 猪苗代氏初代経連の菩提寺は、川桁の滋應山観音寺で、墓所不明。「隣松院」は4代時盛が、父某隣松院殿前三浦雲州傑山玄英大居士の菩提のため建立(三祢に)。
〇 猪苗代一族中、唯一残った墓が、「内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦」でふれた14代盛胤のもの。確からしさはしらないが、ここでふれた「旧八手山城の城主が三浦経連」で、有名な松はその重臣の邸内にあったという情報。
 なお、今のところ孫引情報だが、「耶麻郡誌」には、盛胤の子作衛門盛親が、平藩鳥居家に仕官し、中野村を領し中野氏を称し、その曾孫の盛信の子理八郎義都は保科正之に仕えたとの情報があるらしい。
 また、マホロンの「遺跡データベース検索」では、この周辺に「下館板碑」を、東側に「下館館跡」を記す。

 「円通寺跡」から「隣松院」につながった情報だが、それを更にたどると秀長寺にまでつながっていく。ならば、情報的には昨年整理の「大河八重の桜」とかかわり、その前に整理した「拝領妻」悲劇ともつながるということだ。
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by shingen1948 | 2014-08-30 05:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1335233.jpg 駅舎写真右奥に写っていたトイレについて、案内板で「今もとなりには、当時のトイレがそのままの形で残っています。白地に藍の染付が施されているトイレは、昔ながらの色彩を残す珍しいものです」と解説される。
 これがそのトイレだが、沼尻鉄道ファンのサイト等を確認すると、有名なトイレらしい。右手のwc表記については確認しなかったがそれも健在らしい。

 当時の写真と「廃線web」サイト「日本硫黄沼尻鉄道3」のページに掲げられる案内板の写真と自分が撮った案内板の写真を見比べると、駅舎の後ろに写り込む民家が移動されている事が分かる。
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/stop/num03.htm 
 「廃線web」は、2006年9月の確認で、2009年3月再訪確認のようなので、その頃には、倉庫の左手奥にあった民家があったようで、それを考慮して当時の写真と見比べると、倉庫はやや大きめだがほぼ旧駅舎の位置に建っているというらしい。
 その旧駅舎の手前端から向かい側に渡る踏切状の道筋が見えるが、その向かいに「長瀬産業組合」と書かれた古い建物がある。そこへの道筋かな?
a0087378_13362779.jpg この「長瀬産業組合」の建物は、「廃線web」に残念ながら取り壊しが決まっていたそうだとあったが、まだ健在だった。

 ただ、最近の情報で、「沼尻軽便資料展示室は震災前までは会津下館駅があった場所に設けられた「村の停車場」2階にあったのですが、震災で建物がダメージを受けたため、今は緑の村・淡水魚館の中に移動して展示されている」というのも見た。
a0087378_1341966.jpg 
 これが、この建物が「村の停車場」と表記されていたらしいことが分かる風景。
 民家移動の状況とその風景、「沼尻軽便資料展示室」が移動になった状況等から勝手に想像すると、県道227号線拡充工事とのかかわりかな。
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by shingen1948 | 2014-08-29 13:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 下舘駅付近は、専用軌道跡と旧県道との両方を確認した。
 その旧県道への分岐点付近からは、磐梯山までの間の高原の風景が広がっていた。その道筋沿いに多くの家々が集まり、川桁の間の村々よりも大きな集落だなと実感した。
 その集落の間をぬう旧県道が、現県道と交わるところから、専用軌道跡である現県道に出て下舘駅を確かめる。
a0087378_8573353.jpg 沼尻方向から見て右手に案内板が建つ。
 白津も内野も沼尻鉄道停車場で、木造のバス停のような建物だったが、ここは「下舘駅」であり、駅舎のその建物であったようだ。
 あいづしもだて駅跡
a0087378_8573037.jpg 下舘駅は、旧町内に向かうには最も近い駅で、沼尻軽便鉄道を利用し町へ行く人は、この駅を利用しました。今もとなりには、当時のトイレがそのままの形で残っています。白地に藍の染付が施されているトイレは、昔ながらの色彩を残す珍しいものです。
 この駅は、かつては2線を有する列車交換であったらしい。その交換運用廃止後にも使われなくなった駅舎と反対側の旧上り線が側線として残存していたとのことだ。
 そのほかに、旧上り線の川桁方から構内外側に分岐する行き止りの側線があったという。
a0087378_921866.jpg これは、平成11年「うつくしま未来博記念事業」の地域づくりサポート事業補助金補助事業記念誌「懐かしの沼尻軽便鉄道(猪苗代観光協会)」パンフレットに紹介される下舘駅の施設配置図。下館駅の写真に合わせるために、反転させていただいた。
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by shingen1948 | 2014-08-28 09:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦の中で、「磐椅王国」のページに掲げられた地図をもとに八手山城の位置をプロットしたところだが読み違えたらしいので修正する。
a0087378_6334678.jpg 「川桁山の西へ張り出した尾根上」という紹介に引きずられたようだ。マホロンの「遺跡データベース検索」で表示された地図を確認すると、白津の方向に貼りだした尾根上で、もっと手前だった。
 ついでに、「会津合戦記」には、「37、建久二年(1191)耶麻郡猪苗代八手山城(白津柵)」として、「建久二年辛亥義運之孫大炊介経連築き住す。亀ヶ城と稱す又白津に柵を築く。建久二年辛亥東西十六間南北九間城代岡部弥彌太郎居る(会津古塁記)」と記されるようだ。
 ただし、「磐椅王国」のページでは、「年代は不明で『会津古塁記』には建久2年(1191)築城、亀城と称すとありますが、その形態から南北朝以降に築かれたものと考えられます。」と解説される。

 もう一つついでに、マホロンの「遺跡データベース検索」では、猪苗代町 八幡字館ノ内地内に「内野村柵跡」も記されるので、これもプロットしておく。
 「会津合戦記」には、「33内野村柵(耶麻郡)大永自天正(1521~1591)」として、「昔恵日寺之代宦小檜山丹波住す。大永自天正之頃子孫同孫六(六郎)居る(会津古塁記)」と記される。

 なお、白津の平野部一帯(白津・白村東・白村西)は、縄文土器の散布地で、猪苗代地方でも1、2に属する縄文時代中期から後期にかけての大きな遺跡で「白津遺跡」としてプロットされている。ちょっと東寄りの「川桁字林口」の「林口遺跡」、「八幡字都沢道」の「都沢道遺跡」では、調査も行われているということのようだ。

 ※調査された「林口遺跡」は、白津集落東側の畑地に立地するようだが、ここは旧石器時代の終末期・縄文時代前期の遺跡のようで、旧石器時代の石器が発掘されたようだ。「磐椅王国」のページに、「尖頭器・彫刻刀石器・スクレイバーがみられ、これらは倒木痕の堆積土中より一括して発見されていますが、恐らく当時は木の根元にデポ(埋納)として置かれていたものと考えられます」との紹介。

 今回は、沼尻鉄道廃線跡の散策だが、情報としては、会津への道・伊達政宗とかかわるので、そちらに分類しておく。
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by shingen1948 | 2014-08-27 06:39 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
a0087378_17185574.jpg 今回、散歩の中で、現県道が専用軌道跡と旧県道とのかかわりが気になったのは、下舘村付近だけだった。旧県道が気になったというよりは、その分岐点の左側に広がる風景が、「高原列車から見える風景らしいなと感じた事が大きかったように思う。
 実際にこちらの道筋も確かめることで、下舘村が今までの村々よりも少し大きな集落であることを感じることができたということもある。

 内野村のあたりも、現県道が沼尻鉄道専用軌道跡らしいが、ここは、散策中は旧県道の道筋は意識していなかった。素直に、現県道の道筋を進み、「内野停車場」の案内を見つけて満足していたということだ。
a0087378_17245067.jpg 「ウィキペディア」によると、「当駅は、川桁駅~当駅間の未舗装県道との併用軌道が終わり、専用軌道に入った位置に存在した」とある。廃線webによると、現県道が専用軌道跡であり、山側に回りこむ細い道筋が、旧県道の道筋であるらしい。
 現県道が専用軌道跡であることや旧県道の道筋が山側に回りこむ細い道筋である事を知ったのは、家に戻ってからのことだ。

 案内板にあった内野村の「猪苗代盛胤の墓」も確認してみた。
 まずは、内野村を「角川日本地名大辞典」で確認すると、村の構成を「化政期の家数上内野19軒・下内野9軒・大水沢新田5軒(新編会津)」と解説する。当然、内野村のこれ等の中心は、山側に回りこむ旧県道の道筋沿いであろうと想像する。その後、同誌は「鎮守は、若宮八幡宮。寺院は、大永年間小檜山六郎が開いたという曹洞宗巌松山蔵円寺。堂宇に猪苗代三十三観音第9番の札所がある。村の東部の山腹の墓地内に猪苗代亀ケ城主14代猪苗代盛胤の墓があり、墓石には平盛胤と刻印されている」との紹介。ここで猪苗代盛胤の墓にふれている。
 次に、その位置情報を確かめると、猪苗代観光協会「猪苗代・磐梯」で、曹洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中の墓地らしい紹介を見たが、目印はなさそうだった。

 その「洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中」だが、これが白津停車場にあった案内とかかわるらしい。
a0087378_17322636.jpg 白津停車場の案内に、「白津からかさ松」が紹介されるのだが、それが「集落の北東の山頂にある旧八手山城の城主、三浦経連の重臣の邸内」の位置だと紹介される。
 この「集落の北東の山頂にある旧八手山城」というのが、川桁山の西に貼り出した尾根上に立地する梯郭式の山城を指すらしい。「会津古塁記」には建久2年(1191)築城、亀城と称すとあるが、その形態から南北朝以降に築かれたと考えられているらしい。
 「洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中」というのは、その八手山城の山裾にあたる付近ということのようなのだ。その位置関係を図示してみた。
 なお、ここで「旧八手山城の城主、三浦経連」氏というのが、猪苗代氏の初代であり、猪苗代盛胤氏というのが猪苗代14代というかかわりということのようだ。
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by shingen1948 | 2014-08-26 17:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_11415835.jpg 
 県道323号野老沢川桁停車場線を進むと、右手に「しろづ停車場跡」案内板が建つ。案内板に木造のバス停のような待合場の写真があることで、ここが停車場だったのだろうと分かる。ここに停車場あって旅人が降り立ったなら役立ちそうな地域の案内も記される。

a0087378_11455177.jpg 白津集落内には、樹高23m、周囲3.8m、推定樹齢450年の典型的な傘松の樹形をした「白津からかさ松」があります。
 集落の北東の山頂にある旧八手山城の城主、三浦経連の重臣の邸内に合った木と伝えられ、根元には三宝荒神(竃の神)を祀った小祀があります。
 「ウィキペディア」で、白津駅について「当駅(白津駅)のすぐ北側で線路と道路が交差し左右の位置が入れ替わった」と解説されるので、古い写真で確認してみた。
 すると、線路は真っ直ぐ北に延びて進み、道路がS字に曲がって軌道を横切っているという感じの交差のようだったらしい事が分かる。
 現在は直線道路になっていて、その雰囲気はない。
 ということは、ここから先のS字で軌道を横切って軌道の右側になった道筋分も東側に広げられているということなのだろう。この辺り結構広い道巾は、沼尻軽便鉄道軌道との供用部を含んでいるためとは思っていたのだが、それに加えて更に県道分広げて直線道路にしたという事なのではないかなと思うが、どうだろうか。
 当然、この先では軌道の西側に川桁駅から白津駅までの道筋分が加えられのではないかな。
a0087378_1149321.jpg
 次の「うつの(内野)停車場跡」案内板は、道筋の左手に建つ。ここの停車場も、木造のバス停のような待合場であったようだ。この地域の案内は以下のようだ。
 内野には、中世にこの地を治めるために猪苗代氏の居城である「亀ケ城」の最後の城主第14代猪苗代盛胤の墓があります。盛胤は、伊達側に寝返ろうとした父盛国を誡めましたが逆に罪を着せられ追放されました。
 摺上原の戦いででは、葦名方として父と戦い、葦名氏の滅亡後は蒲生氏にも仕えず、寛永10年(1641)内野村で77才の生涯を閉じました。
 先に「猪苗代盛胤の五輪塔」を尋ねて、「猪苗代盛胤の五輪塔」として整理しているが、確かに猪苗代盛胤は内野で歿している。この町指定重要文化財の五輪塔とは別に、この地に墓地があるということだろうか。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7323455/
 沼尻鉄道廃線跡ということでは、「ウィキペディア」に、「当駅は、川桁駅~当駅間の未舗装県道との併用軌道が終わり、専用軌道に入った位置に存在した」という部分が気になる事かな。
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by shingen1948 | 2014-08-25 11:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 沼尻鉄道軌道は、川桁駅から暫くは専用線になっていたようだ。しかし、今回たどった道筋は、野老沢川桁停車場線の方だ。
 イベントでは、この軌道跡の道筋を歩いてたどるようだし、沼尻鉄道軌道を知っている人にとっては、その中心となる道筋は、その専用線の方だろうと思う。そういう意味では的を外したともいえる。
 ただ、沼尻鉄道が走っていた時代は、地域の人々は沼尻鉄道を感じながらこちらの道筋を歩いていたはずでもある。ということで、今回進んだ道筋を整理しておく。
a0087378_17245282.jpg この写真は、川桁駅方面から観音川にかかる橋の辺りまでの風景だ。奥の商店の建物の手前に観音川に架かる橋が写っている。
 案内板の「近くを流れる観音寺川は、今では桜の名所」との情報を得ていたのだから、その橋から写真を撮っていれば、専用軌道の鉄橋が写り込んでいた可能性があったのだと思う。残念。
 残念に思うもう一つは、沼尻方面から川桁駅に向かった道筋は、沼尻鉄道軌道跡をたどったらしい。
 ところが、二つの通りを横切った時点で不安になって、少し引き返して県道323号線野老沢川桁停車場線に出たのだが、この時にもメモ的に写真を一枚撮っておけば、そこに専用線の痕跡が色濃い風景がおさまっていた可能性があるというとだ。

 中心的な事柄より、周辺の様子を先に観察したという観点に立てば、結構面白い見え方もしている。
a0087378_17273660.jpg 複雑になるので、「川桁駅に向かった道筋」と「沼尻鉄道軌跡」、そして、「川桁駅から鉄道軌跡を求めて進んだ道筋」を図示するとこんな感じ。
 「川桁駅に向かった道筋」だが、初め専用線側の道筋を進んでいたのだが、現県道322号線を横切り、細い道筋を横切った辺りから、少し不安になって、その先で道が細くなった付近から、少し戻って、細い道筋を抜けて、県道323号野老沢川桁停車場線に出て、川桁駅に向かった。
 この細い道筋が、現在は町道だが、旧県道322号線との情報がある。ならば、専用線が県道を横切ることとかかわって、沼尻鉄道の時代とこの新旧の道筋の時代とのかかわりが気になるところ。

 また、この道筋と県道323号野老沢川桁停車場線が交差する付近はクランク的なカーブになっている。不確かだが、このクランク部分が、県道323号線と旧県道322号線との供用部分とか、この部分だけが旧県道322号線とかとの情報もあるようで、雑学的に楽しめる。
a0087378_17293037.jpg 沼尻鉄道専用軌跡の道筋と交わる地点を県道323号野老沢川桁停車場線側から見るとこんな風景。右手が川桁駅方向で、左手が白津駅方向だ。
 ここからは、県道323号野老沢川桁停車場線の右側を沼尻鉄道が走っていたということのようだ。
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by shingen1948 | 2014-08-24 17:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回は、散歩の勘に冴えがなく、中心的な事柄は見逃している。しかし、これは順序が違うだけ。中心的な事柄を先に確認してその周辺を観察するのか、その周辺を先に観察してから中心的な事柄に迫るのかの違いだけだ。
 次の機会に中心的な事柄を確認する。ここからは、そのための予備知識。
a0087378_5144783.jpg これは、「沼尻鉄道」にかかわる情報から、川桁駅前の風景の部分を切り取った原本の写真。右手が、沼尻軽便鉄道の駅舎のあった付近で切れている。この更に右手に沼尻軽便鉄道の関連施設が広がっていたということらしい。
 何枚かの古い駅前の写真を見て、そこからイメージを膨らませると、建物は整理されているが、道筋それ自体は残っているのかなと感じた。
 「沼尻軽便鉄道記念碑」が建つ付近にも建物があったようで、それを撤去して広場にし、そこに碑が建てられたというような感じかなと思うがどうだろう。
a0087378_5164235.jpg 平成11年「うつくしま未来博記念事業」の地域づくりサポート事業補助金補助事業記念誌「懐かしの沼尻軽便鉄道(猪苗代観光協会)」パンフレットに、沼尻軽便鉄道の関連施設配置図らしき図がある。
 黒い実線が沼尻軽便鉄道軌道のようで、道筋を赤線で加えさせていただくと、その角が駅舎の建物かなとの想像。このパンフレットに小型ターンテーブルの転車台が写っていたのが気になって、これかなと思ったものに「転車台?」を書き加えさせていただいた。 
 このイメージが正しいかどうかは分からないが、次の機会には、これをてがかりに実際の風景と照らし合わせてみたい。

 軽便ファンが作ったという鉄道モジュールの写真をみると、駅前の現食堂あたりには、パチンコ店が再現されているようだ。知らない地域なのに、そういう時代もあったのだろうなと懐かしく感じてくる。
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by shingen1948 | 2014-08-23 05:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10271475.jpg 沼尻鉄道の川桁駅舎は、この写真のポストが写る付近だったらしい。この写真は、現JRの川桁駅前の風景から沼尻鉄道の川桁駅舎の地点が「沼尻軽便鉄道記念碑」との関係で分かるように切り取ったものだ。
 現JRの川桁駅舎とは向かい合わせの位置になる。


a0087378_10275738.jpg そこに、「懐かしの沼尻軽便鉄道を訪ねて」との案内板が建つが、ここを訪ねるのは初めてであり、懐かしさが動機ではない。
 「高原列車は行く」の具体的な風景を求めているということだ。
 案内板と写真に写る風景が頼りだ。

a0087378_10285675.jpg 川桁は、沼尻軽便鉄道の始発駅として、商店が軒を並べるなどたいへんな賑わいを見せていました。
近くを流れる観音寺川は、今では桜の名所として知られており、満開時には、大勢の花見客が訪れます。
ここから川桁耶麻の山頂までは、観音寺川の奥の林道を通り3時間半程です。
 家に戻って確かめると、沼尻鉄道の川桁駅舎の位置情報に、その前の車庫付近とするのがあるらしい。そのズレとかかわるのではないかなと思われる情報も見つけた。
 昭和54年(1979)頃、不要になった沼尻鉄道川桁駅駅舎が、車庫付近に移動され、多少手が加えられて倉庫として使用されていたらしいということだ。
 その2年後に再訪した時には、この車庫に代わっていたという情報だ。

 多分、川桁駅駅舎はこの案内板が建つ位置に建っていたということでよいのだろう。沼尻鉄道が廃線になった後、この川桁駅駅舎の建物が、現農協の倉庫位置に移動して倉庫として活用されていた時期があったのだろう。それが、現在の倉庫位置で、その川桁駅駅舎の建物を撤去して建て替えられたということなのだろう。
 現在の倉庫付近に、沼尻鉄道川桁駅駅舎があったという情報は、その駅舎を倉庫として活用した時代の駅舎位置ということらしいと推測するが、どうだろうか。

 今回は、思いつきで来ているので下調べはしていない。
 それでも、沼尻方面から川桁駅に向かった道筋は、沼尻鉄道軌道跡をたどったらしい。ところが、二つの通りを横切った時点で不安になって、少し引き返して県道323号線野老沢川桁停車場線に出て、その道筋を川桁駅にたどり着いている。
a0087378_1033126.jpg
 この写真の左手の食堂とその向かいの小屋の間の道筋が「沼尻鉄道軌道跡」らしいとは思ったが、確認できたのは家に戻ってからだった。
 沼尻軽便鉄道を鉱山鉄道とみれば、当然貨物の積み下ろしがあるだろうが、その事を意識していない。沼尻軽便鉄道の貨物が積替えが行われるのは、位置的にその右手であるのは当然だが、その感覚は持ち合わせていなかった。
 案内板に、「近くを流れる観音寺川は、今では桜の名所」との情報を得ていたし、意識もしていたのだから、県道323号線を進んだにしても川越しに鉄橋を捉えた写真があってもよさそうだが、それもない。
 今回、散歩の勘に冴えはなかった。
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by shingen1948 | 2014-08-22 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)